一
彼が生まれたのは胎はらから出た瞬間ではない。それは遺棄だ。両の上肢を欠損した赤児は、この世へ落とされるや否や二親から縁を切られたのだ。
生ける腕を山の天狗から授けられたことで、そのまま冥土へ落ちることは避けられた。天狗の手に取り上げられたことが生の始まりだったという認識が、彼の心中を差し貫いて留まっている。今ではただの感情として顕れるのだ――思慕として。
霊樹から切りだされた義手である生ける腕は、彼の成長に合わせて過不足ない大きさに育っていった。すんなりと義手に繋がった肩口には継ぎ目もない。しかし、この生ける腕は増えるのである。見た目には滑すべらかな肌の上肢としか認識できないそれが時に枝分かれし、三本目へと育っていった。そして、余剰の腕は天狗に手折られるのだ。
さほど力を入れているようには思われない。ただ、緩慢で急激だった。
「流れたか」
夜空の星について訊ねられる。枯山水のある廊下の柱に縄で括くくりつけられながら彼は答えた。
「落ちません」
すでに片肌を脱いでいる。星灯ほしあかりにはなんの変哲もない青年の腕が、一本だけ縄から逃れているように見える。
日中は大勢の僕が立ち働く屋敷には他に誰もいなかった。部屋の向こうは夜空よりも暗く、静寂しじまが二人の言葉を密接に関わらせていた。だが、妖しの術で人を攫う為に天狗と呼称される老いた男が返答を必要としているかは疑わしい。
「流れたか」
固い結び目を作り終えると天狗は霊樹の果実に刃を走らせ、軽く握りつぶすと片手でその汁を受けた。手折る腕に濡れた掌を撫でつける。星を見上げて待つ彼は幼少の時分に立ちかえり、緊張するより他になかった。果実の爽やかな香りも慰めとは程遠い。
寝巻の手が彼の肩口に押し当てられ、緩慢に力を込められる。胸が開いた時点で脂汗が浮かんでいた。瞼は閉じられぬ。星を見ていた。
「人が私を責めます、お師匠様」
顔かんばせの汗に涙が混じる。普段は鉄面皮の彼も表情を殺し切れなかった。
「蔵の果実をもっと出せと詰め寄られます。あまり、穫れないのですか」
軋みながら腕が徐々に柱の裏へ回っていく。
「果実の守護者が出し惜しみしていると名指しされます」
生木を割るような音が響くと共に、涙で歪んだ視界の中で星が幾重にも駆けった。
「……落ち…………た……」
血潮を伴わぬ痛みの激しさに息の詰まった喉が言葉を切れ切れにする。無造作に切断された縄を身体に緩く纏わりつかせたまま、柱にへたり込んだ。涙を落とし切ろうと強く目を瞑つむってから天狗を盗み見る。師匠は手折った腕から視線を離さない。彼は諸肌もろはだを脱いだ。
他の眷属から白眼視されない為に与えられた空衣うつほは袖丈の長い無地の黒衣で、厚く腰のある生地が肩口の輪郭をも誤魔化していた。その下から更に余剰の腕が現れる。
「まだまだ」
大きさを確かめると天狗は腕を片手に背を向けた。
「人が責めます、お師匠様」
返答を期待した訳ではなかった。それでも天狗の姿が屋敷の奥に消えるのを見守ってから、枯山水の白い砂の上へ足を下ろした。途端に旋風つむじかぜに巻き上げられる。気がつけば、彼の寝床である霊樹の果実を保管する蔵の屋根で曙光に照らされていた。
天狗が手ずから彼を育てたのも過去の話だ。彼は霊樹の果実の保管方法や盗人を排除する為の剣術を習って育った。側仕えをしていた幼少の頃と違い、今では一人で務めを果たしている。
衣服を正すと身軽に屋根を降り、留守の間に異変がなかったか周囲を確かめた。入口前の二、三段を上がり、鍵を外すと踏み石で脱いだ草履を持って中に入った。上部にある観音扉からの陽光は十分ではないが、一眠りするには都合が良い。果実が敷き詰められた幅広の台の間に粗末な布団を敷き、蔵の水瓶に隠しておいた刀を枕元に置くと横になった。
手折られた腕の跡が残らぬ肩を撫で摩さする。次に目を覚ました時には痺れるような余韻も消えることは知っていた。しばらくはわずかに切り取られた空の向こうを眺めるばかりで、瞼を閉じる機を逸していた。
「休みます」
天狗は霊樹の果実を望むものに分け与える。それはあらゆる不治を癒す生命の実だ。財のないものものでも家族から見捨てられたでも天狗は受け入れた。果実が実るまでの間、動けぬもの以外は働くのが常だった。屋敷の塀の内側には畑もあれば工場こうばもあり、贅沢品すらこしらえられていた。屋敷というよりはもはや集落に近い。
働き手の大半は病人の同伴者だったが、病の癒えたものにも仕事は与えられた。来る日も来る日も働きながら、それがいつまで続くのかを誰も知らない。生きながらえたことの対価としての労働が、衣食住を維持する為の営みに変化していっても、異を唱えるものはいなかった。心のどこかを麻痺させる力がこの土地にあるのなら、それは天狗の術に相違ない。こうして人は天狗の眷属となるのだ。
霊樹の果実は富と働き手をもたらし、不帰かえらずの屋敷の主には天狗という二つ名を与えた。人が好んで攫われたのだとしても――
引き戸に何かがぶつかり、慌てて鳥が飛び去った。この二つの物音で彼は目を覚ます。
(眷属がきていたようだが……)
生来から天狗の眷属をしているものは烏の形をしており、烏天狗と呼称されていた。再び、引き戸に物が当たる。石だろう。刀を片手に戸を引くと、折り悪く胸に投石される。
尻からげに股引の手代が本道から外れずに立っていた。こちらの目につくように指を二本立て、すぐさま一本に直す。二人ないし一人をぶちのめせというのだ。
「ちょっと」
あっちだからと背を向け、己の先を指差した。彼は水瓶から柄杓で汲みだすと相手に見えるように喉を潤し、更に刀を置いて洗顔する。また、石が飛んできた。彼は応えるように戸外へ水を打つ。
「わかってる」
手代の後について工場こうばの連なる区画へでた。人通りの少ない裏道を歩きながら、彼は目的地の見当をつける。屋敷の正面入り口である長屋門だろう。
通常、治癒を求めてきたものは初めに名と手職の有無を告げ、案内人によって各々の持ち場へ振り分けられることになっている。病人はそのままお堂へ運ばれた。しかし、これが非常に待たされるので、旅の疲れに苛立つものもあった。
唯一、塀の中で佩刀を許されている彼が、果実の授与以外で人と関わるのは喧嘩沙汰の時だけである。幼少の頃、まだ空衣うつほを与えられる前に余剰の腕を見られたころがあり、それが今でも真偽不明の噂として残っていた。また、天狗の富の要であり且つここの誰もが求めてやまぬ果実の管理を一身に任されていることも、周囲からのやっかみを増長させているようだった。この手代だけが彼に対して特異な対応をする訳ではない。
「ちょっと」
向こうは距離を保ちつつ、頻繁に彼の方を気にしながら同じ呼びかけを繰りかえしている。その度に前方を指差した。彼の意識が自分に集中するのが嫌なのだ。
これも屋敷内の安寧を保つ為に必要な仕事であり、ひいては師の為なのだと思えば彼には文句もない。それでも時々、無性に意欲が削がれていくのを感じざるを得なかった。
彼は立ちどまって意味もなく帯を直し、刀を差し直す。掛けられる言葉に変わりはなかった。
ちょうど長屋門から雪崩を打って人々がでてきたところだった。遠巻きにしている群衆には頓着せず、手代が顎で示して彼に道を譲る。すでに怒声が外まで届いていたが、特に急がずにゆるゆると彼だけが中に入っていった。
普段は順番待ちに並んだり座ったりしている土間と、眷属となった働き手が帳面をつける板の間の両方に足をかけた汚れた旅装束の男が、文机を挟んで一人の眷属と言い争いをしていた。男の連れらしき女がその陰に隠れているようだ。
「何を待たせる。病人だけでも連れていかねえか。それともこいつは嫌か」
感情のままに突きだされた彼女は板の間に手を突くと動けないでいる。彼からは高く結った髪しか確かめられない。
意に返さぬ眷属は言葉だけの謝罪を口にし、ちらりと視線を入口へ送る。それを辿って男が振りかえった。真っ先に目に飛び込んだ彼の腰の物に反応し、持っていた笠を投げ捨てると握り拳で飛びかかってくる。道中差しは門番に渡した後のようだ。
有無をいわさずに殴りかかる拳を、彼は落ちつき払って柄つかで逸らし、そのまま抑える。抜刀はしない。
「気が早い」
彼は少し笑う。次の拳を避ける為に後ろへ飛ぶと、そのまま刀を投げ渡してやる。思わず両手で鞘を掴んだ男は勢いのままに柄に手をかけるも、喧嘩相手の行動を判じかね、彼と刀とに視線を何往復もさせる。その隙に彼は口を開いた。
「案内人を連れてきた」
ただの出まかせだったが、先程の手代がこれに合わせて長屋門に入ってきた。ようやく事態を飲み込んだ男は言葉を探して唸ると、気まずそうに女へ顔を向けた。
板の間に手をついていた女が笠と杖を手に振りむく。その両のこめかみには小さく反りかえった角つのがあった。彼は自分以外で人の姿を保った異形の者を初めて見た。
「お願い」
耳で言葉が解ほどけて脳に達する前に消えてしまいそうなのを必死に束ねる。
「まずはお水を。痛みます」
彼女は角に触れた。それは病なのだ。
彼は少し荒っぽく刀を取りかえすと、自分の草履を見たまま外にでようとし、ややしてからまた室内へ顔を向けた。
「病人の案内はこの私が」
文机の眷属が眉をひそめたが、すぐに平生へいぜいに戻ると羽織の袖を抑えながら筆で硯すずりを撫でた。
「何かあればそちらで」
分を犯した自覚が彼にはあった。女が笠をかぶって応えると、蝋燭の灯を吹き消したように印象が弱まった。それでも旅に疲れた姿の着物の青さが彼の目には鮮やかだった。
連れの男が誰にも噛みつかないのを見届けてから、再び入口へ足を向ける。野次馬が二人を避けながら道を空けた。騒ぎが治まったと知って散り散りになる群集の忙せわしなさとも、長屋門での順番待ちに並びなおそうとする人々の流れとも関わらない方向へ、彼は無頓着に歩を進めていく。自分の草履だけを見ながら蔵に保管されている果実の数を計算していた。
(授与までに時間がかかろう)
それでもいつかは治るのだ。ここから去ることはないにしても……。見上げれば陽は南中の高さになく、彼の眠っていた時間は長くないと知れた。
(ただの白昼夢にしてしまおうか)
「待って」
立ちどまって振り向きざまに、女が彼の袖に手を伸ばすのが見えた。黙って摘まませてやる。
「息が切れます」
生まれて初めて手折られた腕を惜しく思った。もうこの袖には腕が一本しかないのだ。彼女は衣から離した手を自身の胸に当てる。
(今が)
夢なのだ。孤独を癒す淡い希望を夢見ている。俯いた顔を深く覆う笠を見つめ、柳の木が枝を風に歌わせるのを聞きながら息が整うのを待っていた。
雑踏の騒ざわめきは遠くで渦巻き、隔たれたように近付いてこない。工場の裏の水路に人気はなかった。彼女が痛みを鎮める為に水を求めていたことを思い出す。
「冷やしては」
手ぬぐいを受け取ろうと袖に余剰の腕を忍ばせつつ差しだした手を、笠で隠れぬ口許が薄っすらと笑んで拒んだ。
「やはり、お気になるの?」
返事を待たずに顎の紐に手をかけ、ゆっくりと引いていく。
「長屋門でのあなたの目、焼かれるようだった」
杖を脇に挟むと笠を顔の前に下すようにして外し、首より上を彼の視線から守る。笠の左右に指先が並んだ。
「夢幻ゆめまぼろしのままの方が怖くなくてよ」
ああ、この女は、と彼は洞察する。その姿の為に恐れられて生きてきたのだ。それが終わるのには時が要る。果実の授与がいつになるのか、彼自身ですら知りようがなかった。外の世界でも彼女はずっと待っていたのだろうか?
彼が笠の縁を二本の手で掴んだ。親指から小指までの並びが鏡写しにならぬ二本の手が……。杖が地面に落ち、続けざまに笠が下ろされた。
「確かに」
彼は水面みなもに顔を向ける。
「その目は熱いな」
両のこめかみの角よりも尚、見開かれた双眼の輝きが嬉しくて、彼はこそばゆくなったのだ。
「別に治らない訳じゃない」
照れくささを誤魔化そうと意味もなく片膝をつき、水に手を泳がせる。拾った杖を下から差し出してみるが、受け取らないので再び寝かせた。
「霊樹の果実は肉体を均一化することはないが病は直す。欠けた生命を補う作用があるのだから」
思い出したように自分の腰から手ぬぐいを取り、軽く濯すすぐ。
「師匠が痛みの根源を消してくれる」
絞ると間を開けてから立ちあがった。
「私の何が痛むか、おわかりになって?」
彼女が伏し目がちに待ち受けていた。躊躇わずに角を手ぬぐいで冷やす。
「長屋門で幽鬼なら殺した方が良いと陰で話し合っているのを聞いたわ。ささがねに切らせようと」
優しく彼の手を払いのける。
「だから、嘘をついたの。角が痛むと。病人なら受け入れられるだろうと思って。ささがねとはあなたのことでしょう?」
蜘蛛の意である。
「本当の名前を知りたいわ。私はちとせ」
「あたう。何故、名を?」
ぐっと踏み出し、あたうに近付く。
「だって、私を切るのだもの」
ちとせが笠で刀の柄を押し、地面へ向けた。このまま、あたうが片足を引きながら逆手で抜刀するだけで、刃の軌跡はちとせの胸を走るだろう。
「私の最初で最後の人の名前ぐらい知りたいわ」
微笑んではいるが瞳の中は空虚だった。眼前の男を見もせずに自身の暗いところを見つめている。
「幽鬼が何かご存知か?」
あたうは一歩も引く気がなかった。今の彼の他人から奪った仕事は、仕分けられた訪問者をしかるべきところへ案内することだ。
「塀の外で暗がりにうずくまっているものたちを見ただろう。陽が没するや否や殺戮を始めるのを性さがとしている。あれをこちらは幽鬼と呼んでいるだけだ」
「でも、ひどく恐れておられる。それだけで頭かしらに角をそなえる私を殺す理由には十分でしょう。私が幽鬼のように生きなかったとしても」
笠を手放し、両腕を下ろした。
「生命の実を口にしても尚、角が残るなら周囲が穏やかに死なせてはくれないのは想像に余りある。だから、今」
ちとせの瞳が彼を捉える。
「今、あたうに切られるのよ……」
柳の枝を撫でる風音が時の経過を告げる間もなく逆手で抜刀した。衣だけを切りながら、刃を角の生え際で止める。
「果実は怪我も治す。それが病でなかったなら俺が切り落とそう」
ちとせは瞬きもせずに一連の動きを見据えていた。落ち着きはらって言葉を紡ぐ。
「天狗が都合良く二度も果実を与えるとは思われない」
静かに刀を鞘に納めると背を向けた。
「角が残ったなら……俺が……」
柳の木の上で烏がけたたましく鳴いた。すかさず二羽、三羽と飛来し、四羽目は地面へ降り立った。あたうは前方の烏から目を離せない。一斉に鳴き始める。
「あなたが?」
烏天狗の前で今、彼が口にできる言葉は限られていた。慌ただしく振り返るとちとせの手を取る。
「俺とここで働けば良い。どうせ、屋敷に迷い込んだ幽鬼を切るのも俺の仕事だ。一緒に暮らしても口出しする奴はいない」
そのまま駆けって前進すると地面の烏は飛び去った。
「とんだ夫婦めおとと言われるでしょうねえ」
呆れたようでもあり嬉しそうでもある声が、余計にあたうを赤面させる。ちとせに笑われながら攫うように手を引くのは、それを見られない為でもあった。
二
何故と女に問われても、生まれた時から他に知らないからだとしか答えられない自分が男は可笑しかった。
高い位置にある格子を嵌め込まれた虫籠窓からの日差しにより、空気中に漂う埃が光の粒となって漂っている。幾つかの曖昧な光の筋が蔵の中に明暗の差を生じさせている中、あたうは大部分が薄暗がりに沈む板の間であぐらを組んでいた。膝の上に乗せられた左腕だけが光を受けている。片肌を脱いで肩に繋がるそれを眺めながら、もう一本の左手で柑橘類の皮の香りを楽しんでいた。
やにわに右手の白刃を光らせると左脇へ差し入れた。刃はを上にはしているものの、紙一重で皮膚を切り裂いてはいない。床の椀へ皮を落とすと柄を握る手に力を込め、前屈みになった。光に晒された黒髪が眉根を寄せる面おもてに濃い影を落とす。
やがて上体を起こし、刃やいばを引き抜いた。それを確かめる間もなく、別の影が陽光を遮った。
「不安だな」
格子の隙間から烏天狗が甲高い濁声で言葉を投げかけてくる。傍目には単なる烏にしか見えない。
「何か起こりそうで怖くないか」
あたうは無視して立ち上がると遠くの虫籠窓の下へ移った。新たに生えた腕にも赤い血潮が流れていることを、刃の助けで知る。やはり、単に切り落としては腕を間引いた後に問題が生じると思われた。
「最近、恐ろしいのだ」
床に投げ出していた鞘を拾うと刀を収め、壁に立てかける。慌てずに箪笥から清潔な布を取り出し、止血の為に左脇を圧迫し始めた。
「鬼の連れが周囲に要らぬ入れ知恵を」
薄暗がりを移動してあたうは烏天狗の真下に座り込んだ。
「果実を授与されたら帰るのだと息巻いている。もう十分、働いたとな」
「何が入れ知恵か」
「感化されるものがでてきた。まだ行動に移すものはおらぬが、時間の問題だろう。実はお前もそうではないのか。見ていたぞ」
天井の木目きめに混じって見下ろす一つの目玉を思い出す。
「我々も。御屋形様も」
それは今朝のお堂でのことだった。
夜明けとともに天から清められた空気が地に馴染んだ頃、果実の授与の為に天狗が敷地内の母屋を出た。眷属が列をなして続いていく。後ろから長柄の傘を差し掛けられ、左右から手を引かれながら天狗が大儀そうに歩いてくる。豪奢な着物を幾重にも重ねている為に動きにくそうである。彼に続く眷属たちも着飾っていた。それらは屋敷の工場で作られ、贅沢品に分類されているものばかりだ。
衣で隠れぬ天狗の首から上には皺の深く刻まれた赤ら顔と、頭の上でまとめるには量の足りない蓬髪があるだけだ。しかし、その一般的な老人と変わらぬ相貌が、並の大人が見上げるような身体についている為に酷く奇異に見えた。
天狗の行列が病人の収容されているお堂へ静々と向かうことが、これから生命の実の授与があることを周囲に知らせていた。つまり、いつもなんの先触れもなく始められるのだった。
行列の目撃者たちによって屋敷内に情報が行きわたり、大勢が大急ぎでお堂へ参集した。以前に果実を授与され、眷属になりきったものまで慌ててやってくるのには目的がある。それが果たされるか否かはあたうに懸かっていた。彼だけは前日の準備の為に母屋から連絡を受けている。だが、その姿は行列にない。
天狗たちを追い抜かした人々がお堂で黒山となったのを見計らい、あたうは群衆の流れにその身を任せた。今日という日は帯刀せず、大きめの椀だけを持ち物としている。それを頭上に掲げる格好でお堂へ辿り着いた。
病人の付き添い以外は堂内へ立ち入らせないようにしている眷属たちとは目も合わせない。階きざはしを上がり、中へは入らずに縁板の角まで進むと腰を下ろした。椀を膝の上に乗せ、両手で持つ。
「幾つか」
押し合いへし合いしながら蠢動するように動かされていく人波から問われた。
「十分か」
皆、あたうが生命の実を椀で運んできたことを知っていた。いつも、彼は答えない。俯いて果実を見ていた。どうせ、声の主は少しでもお堂へ近付こうとする人波に流されてしまうのだ。同じ問いを別の人間が代わるがわるに繰り返すのを聞き流していた。
「どうせ数え方も知らねえんだろ」
思わず両の拳に力が入り、素早く横を向いて階下を見下ろした。それは挑発するような物言いの為ではない。すぐ脇の高欄を掴んでよじ登ろうとする人の手と顔を視界に収めた為である。問われるだけならいつものことだが、こんなことは前代未聞だ。彼は立ち上った。
「ふざけやがって」
悪態をつきながらずり落ちていくものの顔を覚えるべく凝視する。それが人込みに紛れるのを見届けようと身を乗り出したが、粘土でもこねくり回すように周囲の人間と一体化して消えてしまった。
あたうは落ち着いて考える。虚ろな苛立ちに満ちた眼差しには見覚えがあった。
「幽鬼が紛れ込んでいるぞ」
堂内への立ち入りを制限している眷属へ近付いて報告する。一人が振り返った。
「どこに。数は」
「見たのは一人だ。下から高欄を掴んできたが落ちた。そのまま、人間と一体化して失せた」
「そんなことがあるものか」
吐き捨てるとまともに取り合わずに職務に戻ってしまった。無理もない。直に目撃したあたう自身が半信半疑なのだ。しかし、と縁板の角へ戻った彼は階下を観察しながら考える。何かがおかしかった。
そもそも人が多すぎる。一度に病人全員へ果実が授与される訳でもないのだ。お堂へ近付けないほど集まっても、おこぼれに与れるものの数は限られている。群集は焦って競い合い苛立っている。この様子にも見覚えがあった。夜陰の幽鬼のようだ。血を伴わないことだけが相違だ。
(入れ替わっている? 幽鬼と人間とが?)
突飛な想像を笑い飛ばせるほど、あたうは自らの判断力を疑ってはいなかった。不意に一際派手に人込みを掻き分けて進む男が目につく。それはちとせの連れだった。彼がお堂へ辿り着くまでを目で追う。いつも通りの落ち着きのない溌剌とした様子に少しだけ安心する。
「おい」
「もう来るぞ」
呼びかけに顔を向けるも、一言だけを残して慌ただしく堂内へ入っていった。果たして、天狗の行列がやってくる。
人々が譲った道を伏し目がちに進んでいく。進行方向へ左右から投げられた花を踏みつけ、時には縋るように天狗の足元へ身を投げだすものを避けもせず、明るい陽射しの中に彼らしか存在しないかのように粛々と足を動かし続ける。
常とは異なり、今日に限ってはその態度が癪に障ったものもいたらしく、花に混じって小石を投げつけられた。どこの上にとまっていたのか、数羽の烏天狗が飛来すると無作法者を懲罰でもって嗜たしなめた。その甲斐あって、あとはお堂へ向かう行列は見守られるばかりとなった。
あたうは天狗が階きざはしに足を掛けた段で頭こうべを垂れた座礼のまま、行列の全てが堂内へ入るのを待つつもりだった。しかし、天狗が敷居を跨ぐ直前で激しく咳きこんで立ち止まってしまったので、素早く近付いて背中をさすった。他に誰も動くものがいなかった為でもある。やがて息が整うと師匠は弟子を一顧だにせず、再び歩を進める。あたうは再び姿勢を正すと頭を垂れ、列の最後尾が堂内へ入りきると急いで椀を取りに戻った。また入口へ取って返すと正座し、外から中を注視した。
すし詰めの布団を囲うように四方の壁に眷属が立ち並び、その中で天狗は入口の真向かいに立っている。堂内の四隅には何本もの腕が大皿に積み上げられている――と、あたうはいつも見間違えてしまう。その度に肝を冷やすのだが、実際は霊樹の枝にすぎない。香木として使用され、病や怪我の進行をとめる効能があるといわれている。
誰も動くものがないのに床が鳴る。人々は布団の上でてんでばらばらの方へ身体を向けて座ったまま、己の目の前を見ていた。掛け布団を肩に羽織った病人は握り拳をその中に隠し、付添人は膝の上で衣を掴む。
徐々に軋む音が大きくなるにつれ、眷属たちは目を伏せていった。身体が逃げ出そうとするのを誤魔化すように口元をもぞもぞとさせた者も、すぐに唇を噛みしめた。
誰もが自分の頭より上を見たくなかった。太陽と月が瞬きの間に入れ替わるような素早さで、肉体を成長させていく天狗がおぞましかったからだ。皆みなの背丈を追いこし、それに相応しいように肉付きが良くなっていく。大振りの衣を幾重にも羽織っていたものが身体に合うようになり、その姿は不格好ではなくなった。
耳朶を撫で続けた軋みが遂には刺すような鋭い音となり、あたうは顔を起こす。ようやく振動が身の内を侵食し始め、心が高鳴った。堂内に足を踏みいれ、再び腰を下ろす。目に見えぬ細かい亀裂が床を走り、彼の中を幾度も震わせた。声を噛み殺す。ずっと天狗の目を見ていた。
若々しい力強さが堂内の皆を睥睨していた。もはや天狗に老いはなく、皺もなければ赤ら顔でもない。ほつれた髪は豊かで黒々とし、精悍な顔つきの男となった。だがまだ、音が静まらない。均整の取れた体つきのまま大きくなり続ける。天狗がその身に纏う衣に軽く息を吹きかけると、肉体に合わせてするすると伸びていった。腰を曲げ、天井に背中を押しつけるようにして成長を続ける。亀裂が上へも下へも走り、音に包まれているようだった。
無数の振動があたうの身体を痺れさせる。唇が微かに震え、呼吸が浅くなる。天狗から目線を逸らせぬまま、捧げるように相貌を晒しているのは彼だけだ。知らぬ間に人々は俯き、眷属は壁を向いている。心を閉ざし、五感を殺し、ただ時が過ぎるのを待っている者たちには見向きもせずに、天狗は浴びせるように弟子と視線を交わしながら微笑んでいた。