民主カレン慈善軍

Democratic Karen Benevolent Army

・活動時期:2010

・活動場所:カレン州

・宗教:仏教

・主義主張:カレン民族主義

・兵力:1500人

一時はカレン最大の武装勢力

ウ・トゥーザナ

1994年12月11日カレン族仏教徒400名がカレン民族同盟(KNU脱退して結成した組織。

カレン民族にはスゴーカレン、ポーカレンという二言語があり、両者は意思疎通が困難なほど違う。またカレン族が信仰する宗教の内訳は、仏教徒が60%、キリスト教と精霊信仰がそれぞれ20%である。しかしKNU/ KNLAの幹部はほとんどスゴーカレンのキリスト教徒に占められており、ほとんどが仏教徒を占めるーカレンの兵士たちは昇進、待遇において不公平感を抱いていた。

「分裂の随分前から、KNLA指導部に対して違和感を持つ仏教徒たちは少なくなかった……私自身もそうだ。彼らのやり方は、まるで傲慢な欧米人みたいだったよ」「彼らは得意気に言ったはずだ。『仏教徒のカレン族に対して、我々がキリスト教の信仰を強要したことはない』と。でもそれこそがキリスト教徒や欧米人の連中のやり方なんだよ。つまり、こういうことだ。どうして、KNLAの支配地にある国内避難民のキャンプには、たいてい教会が建っているのか? 彼らは言うだろう。『この教会を建てるための金を出したのは、我々じゃない。米国人の寄付だ』。医療援助に来る白人たちもそうだ。彼らは、彼らの金でキリスト教徒のための祭りを開く。でも、その祭りにはキリスト教徒しか参加できなかったとしたら……そのキリスト教徒しか参加できない祭りでは普段よりマシな食事にありつけるとしたら。兵士たちの多くを占める仏教徒の子供たちはどう思う? ボランティアでやってきて、子供たちに英語を教える親切な連中が、折に触れてキリストについて説法したらどうだ? 私の考えじゃあ、それは『洗脳』だよ」「その一方だ。兵卒の仏教徒たちが、彼らの敬愛するお坊さんを呼びたいと願ったとき、あるいは仏教徒の支援団体から協力を得るために動いたとき、KNLAの上層部は明らかに冷淡だった。だが、口では言うんだ、これぞ欧米流のやり方だな。『宗教的な問題じゃない。ミャンマー軍に通じているスパイが紛れ込んでいるかもしれないから、精査するための時間をくれ』と……」出典

そんな折、元KNLA兵士で、仏教徒の指導的立場にあったウ・トゥーザナ(U Thuzana)が、タイミャンマーの国境沿いに次々と仏塔を建て、これまでキリスト教系の国際NGOに取り込まれがちだった仏教徒のカレン族のためのキャンプを設置した。さらにウ・トゥーザナはマナプロウに仏塔の建立を計画。これに対してKNLAの幹部は「白く塗るのは、セキュリティ上の懸念がある。仏塔は目立つので、ミャンマー軍に、我々の居場所を教えることになってしまう。だから、色を白く塗るのをやめるか、仏塔自体を解体してくれ」と要請。結局、計画は中止され、ウ・トゥーザナはKNLAから追放されて、彼の暗殺計画の噂も飛び交った(ただこれは国軍がもたらした偽情報だったらしい)。

「これは明らかに、カレン族の多数を占める仏教徒への侮辱だ。第一にマナプロウの駐屯地は、すでにミャンマー軍に把握されていたから、そこに仏塔を建立したからといって、何かがバレる性質のものではない。つまり、セキュリティ上の問題など、実際にはなかったんだ。彼らは、立派な仏塔が『自分たちの教会』を脅かすことを嫌い、また、自分たちを支援する欧米人のキリスト教徒たちの機嫌を窺っただけだ」「もし、本当にKNLA指導部が仏教徒のカレン族に対して敬意をもっていたなら、ボーミヤにはいくらでも他のやり方があった。たとえば、問題視された場所の仏塔建立を取りやめる代わりに、別の大事な場所、KNLAにとっての大事な場所での建立を約束するとか。あるいは、キリスト教の従軍牧師に与えていた階級と並び立つように、還俗したお坊さんを従軍僧侶として扱うとか……彼らはミャインジーグー僧正が兵士にお守りを与えることにも好意的ではなかった。そんな状況のなかで、私たちはKNLA指導部の一部が『僧正を暗殺しようとしている』との情報を得た」出典

そして彼を追っポーカレン仏教徒の兵士たちがKNLAを脱退し前身の民主カレン仏教徒軍(DKAB)を結成。DKBAの設立は厭戦気分が広がっていたKNLA兵士の士気低下をもたらし、DKBAに合流する者やタイの難民キャンプに逃れる者が相次いだ。そしてDKBAが提供した情報により、国軍はKNUの本拠地・マナプロウを攻撃、1995年1月26日これを陥落させたのである。ちなみにこの際、日本人傭兵が1人戦死している。

KNUをタイに追いやったDKABはカレン州で勢力を拡大。国軍の黙認の下、鉱山経営、チーク材の伐採、カジノ経営、国境貿易の通関税など様々なビジネスに手を出していった。結成当初400人ほどだったDKABの兵力は2006年頃には5~7000人ほどになり、KNLAの1500人を大きく上回った。ただDKABは強制徴用、強制徴兵、少年兵使用などを行うだけではなく、拷問、恐喝、麻薬密売などにも手を染めており、悪名高い。戦闘の際は麻薬を使用しているとされる。またKNLAの兵士に比べて死亡率が高く、降伏する兵士も多い。KNLAの兵士が死ぬまで戦うのとは対照的だ。

しかし2008年憲法20条第1項で「国軍は強固で時代に即した唯一の愛国軍である」と定め、政府がこの条項にもとづいて従前の停戦合意を一方的に破棄し、あらためて少数民族武装勢力に対して国軍傘下のBGFに編入するように要求すると、この対応を巡ってDKBAは分裂。大部分はBGF編入を受け入れたが、DKBA国境開発団のみこれを拒否してDKBAを維持し、組織名を民主カレン慈善軍(DKBA)とした。

「国内統合の過程で、民間の武装勢力もまた、最終的に国軍に統合されることは理解している。それでも統合には、かつての敵に対する敬意が必要だ。BGFへの統合案には、若い兵士への敬意はあったが、もっとも長く戦ってきた者たち、具体的にいえば50歳を越えるベテランの兵士や将校への配慮がなかった。あったのは、言葉だけだ。言葉で飯は食えない。だから、我々は立場を変えた。交渉のため、KNLAと協力関係を持っているが、我々が〈最高度の自治権〉を要求することはない。我々が欲しているのは、我々と、我々を支持する仏教徒のカレン族たち、それ以外のカレン族たちが今後の人生を食うに困らず、平穏に暮らすことができることだけだ。それが受け入れられるまで、我々はミャンマー政府から金を受け取らないことにした」「金が回っている間は、戦う必要はない。もちろん状況は突然変わるから、その準備は怠らないがね」出典

そして20年ぶりに総選挙が行われた日の翌日2010年11月8日、新生DKABはミャワディの政府施設を攻撃。その後も国軍との相手で散発的に小規模な戦闘を繰り返し、本拠地をタイ国境沿いのソンズィーミャインに移した。またKNUとの協調路線も打ち出したが、結局、2011年11月3日、政府と停戦合意を結んだ。

その後DKBAは弱体化が激しく、2015年7月、独断で国軍と衝突を繰り返していた幹部2人を追放すると、その部下たちもDKBAを脱退。さらに10月15日DKBAが全国停戦合意(NCA)に署名すると、これに反発した兵士の一部も脱退して旧称の民主カレン仏教徒軍(DKAB)の名前を戴く組織を結成した。現在、カレン州最大の武装勢力は国境警備隊(BGF)、その次にカレン民族解放軍(KNLA)か民主カレン慈善軍(DKBA)。その下に民主カレン仏教徒軍(DKBA)、カレン民族同盟/カレン民族解放軍平和評議会(KNU/KNLPC)、タンダウン特別公共軍(TDSPA)があるといった状況である。DKBAの資金源は国境貿易、すず等の鉱物の採掘、採掘権の販売、通行料の徴収と言われている。

2021年クーデター後、2022年10月に民間人殺害のかどでKNUを追放されたボーミャの息子・ネダミャ (Nerdan Bo Mya)が結成したコートレイ軍(Kawthoolei Army:KTLA)に合流したと伝えられている。