クーデター後のミャンマー(1)

クーデター

2021年ミャンマーでクーデターが起きた。ただミャンマーは国軍が国家の上に立ついう独特のヒエラルヒーの国家なので、正確にはプロヌンシアミエントと言うらしい。スーチー約9年ぶりにまたしても拘束され、今度は自宅軟禁ではなく刑務所に送られた。事前にクーデターの危機を察知して、スーチーはスマホを破壊したり、国民へのメッセージを部下に託したりしていたのにも関わらず、わりとあっさり拘束されしまったのには拍子抜けした。緊急避難用のチャーター機もキャンセルしたと聞く。クーデター直後の朝日新聞に「私たちは国軍を甘く見ていた」というNLD関係者の言葉が紹介されていたが、そういうことなのだろう。この時、スーチーが脱出していれば、この後の展開も大きく変わっていたとは思うが、今となっては後の祭り。

ーデターの背景・詳細については中西嘉宏著「ミャンマー現代史」、深沢純一著「『不完全国家』ミャンマーの真実」あたりを当たってほしい。またクーデターが起きた2月1日から3月下旬までの詳細な情報については、現地にいた日本人の方がミャンマー情勢の最新情報という形で記録してくれている。とにかく2021年2月1日、11年前の国軍記念日に、タンシュエが「われわれ(軍)は必要とあればいつでも国政に関わる」と述べたその日が来たのだ。

ミンアウンフライン

クーデターの翌日組織された国家行政評議会(SAC)の議長に就任したミンアウンフラインは、1956年7月3日生まれ、父親は公務員の土木技師というヤンゴンの中流家庭で育ち、子供の頃から成績優秀で、国内有数の進学校に通い、ヤンゴン大学で法律を学んだ。国軍の元郵便局員でキンマ好きのタンシュエ、貧農出身のテイン・セイン元大統領、公務員家庭出身のミンアウンフラインとNLDの特権階級出身で、ともにイギリスの有名大学で教育を受けたスーチーとティンチョー元大統領という並びを考えると、今回の政変がまた違ったものに見える。


その後、彼は軍人になることを志し、3回目の受験で国軍士官学校(DSA)に合格。任官後は出世の階段を駆け上がり、2009年、少将に出世した時にミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)との紛争を指揮してコーカン地区を国軍支配下に収めることに貢献し、2011年、タンシュエによって国軍総司令官に任命された。物腰柔らかい非常に気さくな人物という評で、メディアのインタビューに答えなかったNLD議員とは対照的に、反国軍的な地元独立紙や外国メディアのインタビューにも気軽に応じ、2019年には朝日新聞のインタビューにも応えている。これを読んだだけでも彼が非常に頭脳明晰な人物だということがわかる。FacebookやTwitterなどSNSのヘビーユーザーでもあり、貴重な国軍の訓練の様子を映した動画をアップしたこともある。ロヒンギャ危機後、自身のFacebookアカウントが削除された時は、激怒したと伝えられている。現在は自身のHPを持っていて、メールを出すこともできる。私も1度送ってみたが、残念ながら返事はなかった。彼に意見がある人は1度試してみてはいかがだろうか?

春の革命

2月7日頃からヤンゴンのみならず全国で、過去最大規模とも言われる大規模なデモが発生した。担い手となったのはZ世代と呼ばれる20代の若者たち、リーダー層はミャンマーではエリートにあたる大学生だった。彼らはSNSを使いこなし、SNS映えするファッショナブルな衣装、プラカードを用意して、単に怒りをぶつけるではなく、ユーモラスなスローガンを叫んだりしていた。一般人だけではなく有名人もたくさんデモに参加。CDM(Civil Disobedience Movement)という公務員や医師の職場ストライキも拡大していった。日本人の中には疑問の声多かったが、行政機関や医療機関を麻痺させて政権運営を滞らせる(市民も困るが)このやり方は、わりとミャンマーの反政府運動の伝統芸で、1998年民主化運動の際もゼネストの名で広範に行われたものだった。

ただデモは”自然発生的”に生まれても”自然発生的”に続くものではない。組織化が必要であり、そのためにはそのノウハウを持つ人間が必要ある。1970年代後半のウ・タントの葬儀をきっかけに起きたデモの際は、1962年の大学の管理強化に反対するデモの生き残りが、1988年民主化運動の際はその1970年代後半のデモの生き残りが、それぞれ指導に当たり、そして今回の春の革命(いつしかそう呼ばれるようになった)では、88年世代がその指導に当たった。民政移管後、頻発した労働ストライキの裏に彼らの支援があったのと同じ構図である。私も若者がスクラムを組む練習をしている際に中高年の男性が指導している動画をFacebookで見たことがある。

また2月9日には早くもネピドーで若い女性が治安部隊によって銃撃される事件が発生し(その後死亡)、身柄を拘束され拷問によって殺害された人々の無惨な遺体の写真が、Facebookに多数流れてくるに及び(ちなみに遺体は臓器が抜かれていることが多かかった)、私の友人・知人たちはピタリとデモに行くのを止めた。正確な日時は思い出せないが、こちらによると「2月13日(土)には数十万人規模に膨れ上がったが、翌14日(日)には大幅にスケールダウン、更に15日(月)には市内でのデモ活動は疎らになった」とのことで、私の記憶とほぼ一致する。また傍目には気づかなかったが、デモへの参加を巡る同僚圧力もかなりあったようだ(画像)。この後デモに参加した人々はかなり先鋭化した人々と見るのが妥当だろう。

しかし、それにしてもだ。

デモが始まった時に掲げられたこのプラカードに私は非常に違和感を覚えた。最初「Save Myanmar」という言葉を見た時、私は「みんなでミャンマーを救おう」の意味だと思った。しかし「Help us」ないし「Help Myanmar」の言葉を見て、「ミャンマーを救ってください。ミャンマーを助けてください」という意味だとわかって、ズッコケそうになった。他人の頼みの革命なんて聞いたことがない。いや、それは革命の名に値するのだろうか?それにロヒンギャ危機の際は「外国人は口を出すな」と言っておいて、いざ自分たちが困れば外国に救済を求める姿勢も虫が良すぎると感じた人も多かったようだ。

この点、それを一言で言い当てた御仁がいた。

自己主張と依存ーこの相矛盾する概念が、不思議とミャンマー人の中では両立するのだ。今後、私たちはこのミャンマー人の特質を嫌というほど見せつけられることになる。

平和的デモ?

この後、国軍はデモ隊に発砲を繰り返し、毎日、毎日おびただしい死者が出ることになる。この際、メディア、SNS等で繰り返されたのは「国軍は平和的デモを行う人々に発砲し……」という言葉だ。が、彼らは知っているはずだ。デモ隊が武装していたことを。なぜなら彼らは喜々としてその模様をFacebookでライブ中継していたからで、だからこそ日本にいた私でも知っているのである。2年後の東京新聞の記事も「国軍への抗議デモでは、スリングショット(ゴム銃)ですら没収されている」としれっと武装していた事実が告白されており、2024年3月29日にはイラワジ紙のXアカウントが「2021年3月28日、ヤンゴンの抗議者たちは民主化を求める闘いの中で、火炎瓶、パチンコ、即席のショットガンで武装した政権軍の弾圧に抵抗した 」と写真付きでポストしている。

1988年民主化運動の記録として、藤田昌宏著「誰も知らなかったビルマ」、伊野憲治著「ミャンマー民主化運動」、バーティル・リントナー著「Outrage」があるが、いずれもデモ隊が武装していた事実が記されている。ジェトロのレポート「『ビルマ式社会主義』体制の崩壊 : 1988年のビルマ」には「学生たちの一部過激派は本格的な武装闘争を各地で開始」と記されている。同じことが春の革命でも起きたのだ。いまだにデモ隊を側面支援している88年世代など過激派に決まっている。

話は少し飛ぶが、4月9日、ヤンゴン近郊の町・バゴーで国軍とバリケードに立てこもったデモ隊が衝突し、80人の死者が出る”悲劇”があり、NHKの「混迷ミャンマー 軍弾圧の闇に迫る」という番組でも取り上げられた。しかしこの番組は国軍が平和的デモを行う人々を一方的に虐殺したという視点で描いており、肝心の事実をカットしていた。

Myanmar Nowというミャンマーの独立紙のこの記事によると、バゴーの”悲劇”の前の3月14日、 バリケードを守っていたデモ隊のメンバーがエアガンや火炎瓶、手製の武器で警察官2名を殺害し、その後、4月上旬、国軍の部隊がやってきたのだが、突然銃撃したわけではなく、「彼らはいつも夜に警告してきて」「彼らは武器を捨てるように警告し、我々が受けるであろう罪状を列挙していました」ということだった。そしてデモ隊は「即席の爆弾、花火、火炎瓶、そして非殺傷性のガス銃で武装」していたのだ

SNSを駆使するZ世代ーしかし彼らは知らなかった。インターネットは双方向性のメディアであり、ネットの発達で権力批判が容易になると同時に自分たちも批判の対象になることを。

ソーシャルパニッシュメント

クーデターが起きた当初、大半の日本人はデモをやっている若者たちに同情的だった(と同時にいたずらに犠牲者を増やす武装闘争には否定的だった)。しかしその雰囲気を一変させることが起きた。ソーシャルパニッシュメントである。国軍関係者の写真をFacebook上に晒して、誹謗中傷し始めたのだ。毎日、毎日、そういった投稿が大量に流れてきて、中には国軍関係者だけではなくCDMに参加しない医療関係者や武装闘争に批判的な人々を誹謗中傷したり、「リンチにかけろ!」「自殺に追いこめ!」のような過激な投稿も目についた。専門のFacebookグループまであったが、Facebookにはミャンマー語を解する担当者が極小しないないからか、いまだに放置されたままだ。ちなみにミャンマーでは以前より、ネット上にあらぬ噂を流して商売敵を潰すなどそのネットリテラシーは極めて低かった。

また件のソーシャルパニッシュメントはミャンマーだけではなく、日本に住んでいる国軍関係者に対しても行われ、ある大学に通う国軍将校の娘の大学に押しかけ、件の娘を誹謗中傷するビラを撒いたり、町内掲示板に勝手に誹謗中傷のポスターを貼ったり、その写真を喜々としてFacebookにアップしたりしていた。これは立派な名誉毀損罪・侮辱罪である。私の知人の日本に住む国軍関係者の子弟は、日本ではミャンマー人との付き合いを一切絶っている。理由は「恐いから」。

このへんで多くの良識的な日本人が去っていった。みんなここで気づいたのだ。ミャンマーにはまだ民主主義は早すぎたと。彼らには民主主義に対する憧れはあっても理解はしていなかったのだ。

「昨年のこの時期だったと記憶するが、将校の子が日本の大学に留学していることが判明し、追放しようという動きが一部で見られた。このことがあってから、全てに同情できなくなった。仮に親が殺人者であったとして、その子の教育を受ける権利を剥奪するのは果たして民主主義の社会であると言えるのか?」出典

また一部民主派支持者の「ミャンマーに寄りそえ」という言葉にも違和感を抱く人が多かったが、この点、池内恵氏が解説してくれている。

「寄り添え」という言説は非常に悪用されやすく、何かを「弱者・犠牲者」と措定してそれに「私は寄り添っている、お前は寄り添っていない」と自己正当化と他者攻撃の武器に用いられてきたので、これが出てくると警戒する出典

民主主義不能

民主主義は一直線に実現するものではない。日本の場合、明治政府の発足から大日本帝国憲法制定まで約20年、初の政党内閣である大隈内閣発足までさらに約10年、そして日本国憲法制定までそこから実に50年かかった。翻ってミャンマーの場合、テインセイン政権が始まってクーデターまでまだ10年。何もかも性急すぎたのだ。「民主主義がアフリカを殺す」には、1人当たりのGDPが3000ドル以上にならなければ、民主主義は正常に機能しない旨の記述があるが、クーデターの時点でミャンマーの1人当たりのGDPは約1400ドルだった。

しかも日本と違って、ミャンマーはいまだに「国民」が形成されていない。国内に多数の民族が存在し、その第1のアイデンティティはビルマシャン族ン族のような「民族」であるのが現状だ。「想像の共同体」の言うところの人種や民族が違っても、主観的な単一価値と権威を信じることができる「国民」の形成がまだ途上なのである。「国民」は、①共通の言葉②共通の歴史認識を持って「国家」を形成する人々の集団のことだが、現在のミャンマーではミャンマー語が共通語となっていて①はある程度あるのだが、民族同士が反目しあっていて②は決定的に欠けている。少数民族は多数派のビルマ族の歴史認識を決して受け入れようとしない。なんとなれば、その歴史認識の中では自分たちは永遠の被支配者・被搾取者であるからだ。そんなものは民族のプライドが許さない。

それではどうすればいいのか?ー殺すしかない。大虐殺を行って、異民族を屈服させて自分たちに従わせ、大人しく勉強机に座らせて、②を育む歴史教育を受けさせるしかないのだ。実際、国軍はミャンマーの独立以来、ずっと大虐殺をやっている。彼らだけではない。日本だって過去に散々やってきたことだ。まず戦国大名が各地で大虐殺を繰り広げた挙げ句、その争いを勝ち抜いた織田信長がほぼ天下統一、それを受け継いた豊臣秀吉が刀狩を行って他の武装勢力を武装解除した後、徳川家康が安定政権を築いたというのが、日本の②共通の歴史認識形成の契機である。徳川時代に発行された歴史書では徳川家に都合の悪い事実はすべて省かれた。

ところがミャンマーの場合、まだ織田信長の段階にあるのに、人権と民主主義を尊ぶ現代の”国際社会”は、決してその大虐殺を許さないときている(ただし親玉のアメリカの大虐殺には目を瞑る)。中国でさえ、自身の評判が傷つくので、表立っては軍政を支援できない。大国の中で大虐殺を許容するのはロシアくらいだが、彼らはミャンマーに兵器や原子力発電所を売る以外にあまり関心がない。つまり、ミャンマーには②共通の歴史認識形成の契機が欠けていおり、決して「国民」を形成することができないという現状にあるのだ。

「国民」を形成できなければ、ナショナリズムの形成も不可能だ。ナショナリズムとは、丸山眞男の定義を意訳すれば、「自分たちの国家の統一、独立、発展を志向し、推進していくイデオロギー及び運動」となるが、「国民」を形成できなければ、その主観的単一価値と権威を体現する「国家」像が、ビルマ国、カレン国、シャン国のように、いつまで経ってもバラバラで、とてもではないが「ミャンマー」という国家の独立、発展とその推進にまで至らず、弱小国家に成り下がってしまう。実際、ミャンマーは今やASEANでもっとも貧しい国だ。

そして「国民」とナショナリズムがないところに、民主主義を導入しても、ミャンマーで選挙をする度に小党乱立になることからもわかるとおり、みんなバラバラなことを考えて、機能不全となってしまう。しかもミャンマーは少数民族武装勢力が無数にあるような国家であり、国家の機能不全、即内戦の危険性を常に孕んでいる。国軍の暴力とスーチーの人気でなんとか抑えていたが、この2つの重しがなくなれば、待っているのは「北斗の拳」も真っ青の修羅の世界である。2024年2月現在、実際そうなりつつある。

同族嫌悪

それにしても私は、クーデター前からミャンマー人が国軍を毛嫌いしているのが不思議でならなかった。ミャンマーを豊かな国から最貧国に貶め、時に反政府運動をする国民に銃を向けるからと説明されたことがあるが、ピンと来なかった。彼らの国軍に対する嫌悪感はそんな論理的なものではなく、より感情的なものに見えたからだ。そしてこのソーシャルパニッシュメントの過程で、私ははたと気づいた。同族嫌悪だ。強面で、強権的で、暴力的で、世界中から非難の対象になっている人々が、もしも自分そっくりだったら?ー3月9日の時点で私は書いている「国軍を仔細に見るたび、そこにいるのは私が知っているミャンマー人でしかない」と。

最近、その疑問に答えてくれる論稿に出会った。「From the Land of Green Ghosts: A Burmese Odyssey(邦題:「緑の幽霊の国から」(未訳)というキリスト教徒のミャンマー人が書いた小説を紹介した論稿なのだが、著者は1988年民主化運動に参加し、デモが鎮圧された後はカレン民族同盟(KNU)が支配するタイとの国境のジャングル地帯に逃れる。そこで70数名のビルマ族、カレン族、シャン族の若者たちと反政府闘争の戦略について話し合うのだが、喧々諤々の議論を交わしても、何も結論が出ない。そこで著者ははたと気づく。「自分たちは、軍事政権の連中と同じじゃないか」と。「ミャンマーでの生活も教育も―そしてカトリックという宗教でさえも―権威への服従と従順の美徳を教え、人々から自分で考える自由を奪ってゆく。そのような生活を送って来た自分たちは、反乱に身を投じて、自由を手に入れても、自分で考えることができず、まさに軍事政権と同じように、スローガンを叫び、そうすることによってスローガンがすぐにでも実現できると信じるのだ。自分で作ったプロパガンダが、 自分の中で現実になる。これこそは、「幻影の政治(Politics of Illusion)」とでも呼 べるもので、自分たち反乱学生も同じ自己欺瞞に満ちた幻影の政治をしている。ただ、 軍事政権側か、反政府かというのが違うだけだ」。

国軍はミャンマーという土壌から生まれたものであり、決してエイリアンではなく、各々のミャンマー人の在り方と無縁なわけがない。「国軍」「民主派」「兵士」「市民」というカテゴリを全部取り払って、社会を1人1人の人間の有機的な繋がりだとみれば、これはミャンマーという社会の因果律の中で起きたことであり、国軍、民主派、国民…全部お互いに因果関係を与えているのだーそう私も気づいたのだった。

「現在の国軍の将官たちは空白の中で考えを発展させてきたわけではない。彼らは(ミャンマーの)社会的、文化的な環境の中で育ってきたのであり、それが現在の彼ら自身や軍隊、そして外界に対する見方に間違いなく影響を与えている。結局のところ、彼らは国軍将校になるずっと前からミャンマー人であり、おそらく異なる職業に就いている同胞たちとある種の観念を共有している。入隊後に受けた訓練や教化によって、彼らの態度や世界観が変化したことは間違いないだろうが、たとえサブリミナルなレベルであったとしても、入隊前に経験した社会化のプロセスは依然として彼らに影響を及ぼしているに違いない」アンドリュー・セルス

終焉

3月27日、国軍記念日に合わせた一斉蜂起が鎮圧されるに及び、デモはほぼ沈静化した。デモが始まって2ヶ月弱。SNSで映像、画像、文章に触れる機会が格段に増えたので、俄然その存在感は増したが、1988年民主化運動の時よりも沈静化するは早かった。夥しい犠牲者が出たが、信頼できるデータはないとはいえ、その数も1988年民主化運動の時よりも少なかったのではないだろうか?インターネットの管理も強化され、アカウントから身元が割り出せるようになり、国軍に批判的な投稿をSNSにした人々の逮捕が相次、Facebookに流れてくる反国軍的な投稿も激減した。デモをやったZ世代の若者たちやギャラリーも気づいていなかったが、Z世代は当然国軍にもいて、「時代も違う、技術も違う、世代も違う」のはMIティンウーやキンニュンの系譜に繋がる国軍のZ世代も同じだった。その後、ミャンマーは中国のような監視社会に変貌していき、人々はプライバシーを完全に失った。

ヤンゴンを拠点に活動していたパンクバンド・The Rebel Riot。ミャンマー人、よく言えばピュアー、悪く言えば言葉の裏を読み取れない。自由、平等、博愛といったキレイな言葉に殊の外弱く、そしてそれを文字どおりに受け取る。こういった人間は政治活動は得意だが、政治は大の苦手ときている。ストリートに出て騒いでいるだけで良かったデモは、治安部隊が出動した瞬間、”政治”に早変わりしたが、それに気づかない者はみんな死んでしまい、その後も死体の山を築いていくことになった。

デモの様子を傍観していた私の胸には、昔読んだ寺山修司の短歌が虚しく去来した。

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや

しかしこれはミャンマーの地盤沈下のほんの序章にすぎなかった。


2021年前半