ミャンマー国軍(5)

2000年代~2010年代

ミャンマー国軍(4)

NLD衰退

2000年代に入ってもSPCDとスーチーの対立は続き、タンシュエを選挙結果無視の罪で最高裁に提訴したり、再び無許可で地方遊説を行って車内籠城したり、国家議員代表者委員会(CRPP)を再び開催して、あらためて独自の憲法案を起草する決意を表明したりした。が、2000年9月21日、ヤンゴン駅で列車でマンダレーに向かおうとしているところでスーチーは拘束され、再び自宅軟禁下に置かれた。19ヶ月後の2002年5月6日に一旦解放されたが、翌2003年5月30日サガイン管区モンユワ近郊のディーペン村で、遊説中のスーチーが乗った車がUSDAのメンバーと思われる数千人の暴徒に襲撃される事件が発生し、政府発表によれば4人、目撃者の証言によれば70人の死者が出た。タンシュエ直々の指令だったと言われているが、事件後、スーチー以下100人以上のNLD党員の身柄が拘束され、結局またも自宅軟禁下に置かれた。これによりNLDの活動は大きく停滞し、SPCDはNLDの無力化に成功した。

ネウィン死去とキンニュン失脚

2002年3月7日、ネウィンの義理の息子と孫3人がクーデターを計画した疑いで逮捕された。その後も関係者の逮捕者が相次いで最終的には100人以上となり、ネウィンの愛娘・サンダーウィンやネウィン自身も自宅軟禁下に置かれた。事件の3週間後、国軍記念日の式典でタンシュエは「ネウィンの経済失政によって国民の不満が高まり、1988年民主化運動の際には国軍がクーデターを起こすしかなかった」という趣旨の演説を行った。同年12月5日、ネウィンは自宅で死去。享年91歳。葬儀は近親者だけで営まれ、SPCD幹部は誰も出席しなかった。

さらにそのネウィンの寵愛を受けて出世の階段を駆け上がり、前年首相に就任したばかりのキンニュンが、2004年10月19日、国内視察から帰国したところを拘束され、自宅軟禁下に置かれた。キンニュンとその権力基盤である軍情報総局(OCMSF)の権力があまりにも強力になったため、かねてより確執があったタンシュエが仕かけたと言われている。ネウィン一族の粛清もその下地作りだったのだろう。リー・クアンユーから「もっとも知的な人物」と称されたキンニュンだったが、結局、MIティンウーと同じ運命を辿った。

OCMSFは解体され、約300人の上級将校を含む全国の3500人の諜報員が逮捕・更迭・左遷の憂き目に遭い、新たに国軍直轄の軍保安局長事務所(Office of the Chief of Military Security Affairs:通称サ・ヤ・パ)という組織が設立された。しかしゼロからの組織作りだったので当初は機能せず、2005年5月7日にはヤンゴンの繁華街3ヶ所で同時多発爆弾テロが起こり、19人死亡192人負傷という惨事を招いた。素人には簡単に作れない精巧な爆弾を正確に爆破させたことから、少数民族武装勢力との関わりが疑われたが、結局、犯人は捕まらず。これもMIティンウー失脚直後にラングーン事件が発生したことを彷彿させる事件だった。

とにかくスーチーとキンニュンといった政敵を葬り去ったことにより、タンシュエはその権力基盤を固めた。次は外敵の番だった。

ネピドー遷都

2005年11月6日早朝、前日に転勤を告げられた公務員を満載したトラックがヤンゴンを発った。行き先はヤンゴンから車で7時間のところにある新首都ネピドー。省庁移転の噂はかねがねあったが、まさかの首都機能全移転で、その時まで国内外にまったく情報が漏れなかったことにも驚きの声が上がった。遷都の理由については様々な憶測が流れたが、①ヤンゴンで民主化運動が再燃した場合でも公務員が参加できず、首都機能が停止することを防止できる②アメリカが海から侵攻してきた際、ヤンゴンであればすぐに占領されてしまうが、ネピドーであればゲリラ戦に持ちこめるという軍事戦略的意味があったのはたしかなようだ。2003年のイラク戦争でフセイン政権が崩壊する様を見て、タンシュエが危機感を抱いたのは想像に難くない。バーティル・リントナーは言っている。「恐怖はミャンマー国軍を繋ぎ止める接着剤」と。一度、国軍支配体制が崩壊すれば、過去に遡って自分たちの”罪”が国内外で裁かれるのは明らかだった。ちなみにネピドーには地下要塞が設けられており、その詳細は一部の国軍幹部しか知らないのだという。超管理的で人工的な都市空間たるネピドーは、国家の上に立つ超然とした国軍を象徴していた。

ネピドー遷都のための巨額な費用は天然ガスの輸出からの利益で賄われていた。21世紀に入ってから経済が低迷していたミャンマーだが、2000年頃から始まった天然ガスの生産は、2004年には輸出収入の25%を占めるまでに成長し、ミャンマー最大の外貨獲得手段となった。そこから上がる利益は当然軍事費にも当てられ、2001年にはロシアから MIG-29/UBを12機購入するなど兵器も大規模化していき、これまで軽視してきた海軍・空軍の装備も充実していった。

また北朝鮮の強力を得て核開発を行っているという噂が絶えず、2009年、ミャンマーからオーストラリアに亡命した軍人2人が北朝鮮の協力の下、SPCDが原子炉とプルトニウム抽出施設を建設中で、5年以内の核保有を目指しているとオーストラリアの新聞が報道したが、真相は不明である。検討はしたが、技術的に不可能といったところだったのだろうか。

サフラン革命

2007年9月6日、ミャンマー中部の都市・パコックで僧侶200人によるデモが発生した。実はこの前の2月22日、ヤンゴンで物価の安定、教育費の値下げ、社会保障の改善のプラカードを掲げた20人規模の当時としては異例のデモがあったばかりで、背景には米と食料油の価格高騰があった。ちなみに1988年民主化運動以来、キャンパスが郊外に移されるなど(ヤンゴン大学は1996年から2013年まで大学院のみだった)、大学管理が強化されていたので、学生の姿はあまり見られなかった。

この僧侶のデモに対して治安部隊は威嚇発砲して暴力を振るい、これに怒った僧侶たちが18日から全国でデモと覆鉢(軍人やその家族からの寄進を拒否して功徳を積む機会を奪う)を行い始めた。そしてデモ隊がヤンゴンのスーチー宅の前で読経をして、スーチーが立礼をしてそれに応える映像がネットや海外メディアで流れると、デモは一気に拡大。24日にはヤンゴンで10万人規模のデモが発生し、26日には治安部隊が出動してデモ隊と衝突する事態となった。治安部隊は僧侶や市民に警棒で殴りかかり、催涙ガスを発射、さらに僧院の建物を破壊して500人以上の僧侶を拘束した。翌27日には日本人ジャーナリスト・長井健司氏が射殺される事件も発生。が、結局、29日までにデモは鎮圧され、推定死者数は約200人と1988年民主化運動の際よりもかなり少なく、1988年以来の民主派弾圧策が功を奏した形だった。

なおアジアドキュメンタリーズの「ビルマVJ 消された革命」という作品で、このサフラン革命の一端を垣間見ることができる。

前述したように、国軍は仏教の守護者という役割を強調することで、軍政支配を正当化するために仏教を利用してきた。しかしそうなると、たとえ僧侶の反政府活動その正当性を揺るがすものとはいえ、僧侶に銃口を向けることには重大な矛盾が生じる。実際、サフラン革命の際は、国軍が僧侶を殺害、負傷、投獄したことに対して一般国民のみならず国軍兵士たちの間にも動揺をもたらした。当然、仏教においては殺生は禁止されている。

このような場合、国軍はやはり仏教を利用する。即ち、デモをしている僧侶は実は偽僧侶であり、国家破壊を企むならず者だと兵士たちに向かって、高僧たちに説法させるのである。無論、件の高僧には高額の寄付を弾む。2017年のロヒンギャ危機の際には、敵たるアラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)はムスリムであり、本当の人間ではないので、いくら殺しても罪にならないと高僧が兵士たちに諭したのだという。

2008年憲法と国境警備隊(BGF)

この間も制憲国民会議は断続的に開かれ、新憲法制定の準備は着々と進んでいた。通常の国家では、憲法>国家>国民というヒエラルヒーにあり、憲法は国家の主権を制限するものだが、ミャンマーの場合は国軍>憲法>国家>国民というヒエラルヒーという国軍が国家の上に立つのが特徴だった。

2008年4月27日にミャンマーを襲い、最終的に10万人以上の死者を出したサイクロン・ナルギスの被害も収まらない中、5月10日、新憲法案の是非を問う国民投票が行われ、投票率93.4%、賛成率92.4%で採択された。新憲法には①連邦議会の上下院議員の4分の1は軍人議員②大統領の要件として軍事に精通していること③国防相、治安・内務相、国境相の任命権は国軍司令官に④連邦分裂、国民の結束崩壊、主権喪失発生の危険性を有する非常事態の際には国軍最高司令官に全権が委譲される⑤憲法改正の際には連邦議員の75%を超える賛成が必要といった条項があり、前述のヒエラルヒーに沿った国軍の大幅な政治的関与が認められたものだった。彼らは軍人であり、今なお少数民族武装勢力との戦果が絶えない国土はその目に戦場と映っていたに違いない。畢竟、新憲法は危機管理的性格を有するものだった。なお②には外国人の配偶者がいる者は大統領になれないという文言もあり、これによりスーチーが大統領になる道は絶たれた(ただこの条項はアウンサンが1947年憲法の準備中に設けた選挙法にも規定があるそうだ)。

また新憲法20条第1項には「国軍は強固で時代に即した唯一の愛国軍である」と定められており、SPCDはこの条項にもとづいて従前の停戦合意を一方的に破棄し、あらためて各少数民族武装勢力に対して国軍傘下の国境警備隊(BGF)に編入するように要求した(後に放棄)。ほとんどの武装勢力がこれに反発したが、コーカン地区では2009年8月8日、警察が銃器修理工場を麻薬製造拠点の疑いで捜査したことをきっかけに、警察とミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)との間で武力衝突が発生。戦闘は2週間続き、3万人の避難民が中国へ退避、MNDAAのリーダー・彭家声は娘婿がリーダーを務めるNDAA第4特区(マインラー)に逃亡した。政府はこれに乗じてMNDAAの残党400名をBGFに編入した。

そして2010年11月7日、新憲法にもとづいて30年ぶりに総選挙が行われ、USDAを改組した国軍系の連邦団結発展党(USDP)が、連邦議会の議席の約80%を占める388議席を獲得して圧勝した(NLDは選挙に参加せず、解党処分)。その翌日11月8日、BGF編入を拒否した民主カレン仏教徒軍(DKBA)の分派・民主カレン慈善軍(DKBA)が、ミャワディの政府施設を攻撃し、2万数千人の住民がタイ側に逃れるという事件があったが、国軍はこれに反撃して数日以内に町の支配を回復した。

そして総選挙から6日後の11月13日、スーチーは7年半ぶりに解放され、翌日、NLD本部でタンシュエとの面会を求めるなど、従来の強硬路線を捨てた柔軟な姿勢を見せた。この時、スーチーは既に65歳。再び自宅軟禁下に置かれれば、もはや復活は不可能と考えたのだろう。しかし、計10年以上に渡る軟禁生活はスーチーを”無力化”するには十分だった。その間、スーチーは読書に勤しむ生活を送っていたらしいが、社会経験を十分積めず、そもそも15歳の時にミャンマーを出てからほとんどミャンマーに暮らしたことがないためにミャンマーの実態を肌感覚で知る機会も奪われた(彼女はカレン族はキリスト教徒が多数派だと勘違いしていた。実際は仏教徒が60%で、キリスト教徒が20%)。スーチーは2012年に補欠選挙に当選して連邦議会議員になるが、その時には国会制度についても国軍関係者の人間関係についても、まったく把握していなかったのだという。ちなみにNLD政権時代の2018年にスーチーはヤンゴン大学で学生・教師たちとディスカッションを行ったのだが、その時彼女が選んだテーマは文学で、「小説においてプロットとキャラクターどちらが重要か?」という話をしたのだという。この点、異常な読書家であり、その短い人生において反政府運動と軍隊の経験しかなかった父親のアウンサンと姿が重なる。仮にアウンサンが暗殺されずにミャンマーのトップに立っていたら、どうなっていただろうか?

全国停戦合意

2011年3月30日、テインセイン政権が発足。国名も「ミャンマー連邦」から「ミャンマー連邦共和国」に変更された。テインセインはイラワジデルタの貧農の家の出身で、僧院学校での成績が良かったので村人のカンパで遠くの学校に通い、高校卒業後は授業料が安い国軍士官学校(DSA)に入学。陸軍に任官後は全国各地で戦いに明け暮れ、タンシュエに見初められて出世の階段を上り、制憲国民議会の議長、首相を歴任し、ついに大統領にまで上りつめた人物である。心臓にペースメーカーを入れていたので、引退を考えていたのだが、タンシュエに大統領就任を命じられ、「私は兵士だから、与えられた仕事をこなし、最善を尽くすしかない」と言って引き受けた経緯があった。なお引退したタンシュエはほとんど政治に口出しすることはなく、院政を敷くことはなかった。

とはいえ、23年に及ぶ軍政に終止符を打ったものの、連邦レベルの閣僚47人中37人が国軍出身(うち現役が5人)、管区・州の首相14人のうち13人が退役軍人、国・州・地方議会の議席の4分の1が現役軍人、USDPの議員の大半は退役軍人とその支持者、上級公務員の80%が退役軍人であり、実質軍政と変わらないとして、当初、テインセイン政権に対する期待はあまり高くなかった。しかし同年7月19日、ネピドーのアウンサンの肖像画の掛かる部屋で、テインセインとスーチーの会談が実現すると、一気に改革が加速。政治犯の釈放、表現・報道の自由拡大、NLDの政党再登録、住民の反対の声が強かった中国との共同事業・ミッソダム建設計画の凍結、各種経済改革などそのスピードは国内外の関係者を驚かせるほどだった。スーチーも非常に協力的で、国際政治の場でテインセインの改革への協力を各国に呼びかけた。背景には欧米諸国の経済協力なくして経済発展はないという共通認識があったと思われる。またテインセインは首相時代にサイクロン・ナルギスの被害への支援を求めるために各国を奔走したが、その際、国際社会のミャンマーを見る目の厳しを痛感し、改革志向を新たにしたとも言われている。改革志向を秘して、しばらくタンシュエのイエスマンに徹していたとすれば、ソビエト共産党のトップに立つまで改革志向を秘していたゴルバチョフに通じるものがある。

そしてテインセインは最重要課題である少数民族武装勢力との和平交渉にも乗り出した。当時、長年戦闘が続いていたカレン民族解放軍(KNLA)シャン州軍南部(SSA-S)カレンニー軍(KA)だけでなく、国境警備隊(BGF)編入の件で民主カレン慈善軍(DKAB)シャン州軍北部(SSA-N)カチン独立軍(KIA)との戦闘も再開していた。交渉の窓口となったのは、アウンミン大統領府大臣が政府外部から識者を集めて設立したミャンマー平和センター(MPC)だった。メンバーは大学教授、ジャーナリスト、元軍人、元民主化活動家、少数民族武装勢力の元メンバーなど多彩で、国連事務総長ウー・タントの孫で、後に「ビルマ危機の本質」を著したタンミンウーも特別顧問の1人に名を連ねた。

アウンミンは国境警備隊編入問題を棚上げし、国外で交渉したり、外国人オブザーバーを参加させたり(笹川陽平氏もこの一人)、これまでになかった柔軟姿勢を見せ、その甲斐あって2011年から2012年の間に多くの少数民族武装勢力と停戦合意を結んだ。画期的だったのはミャンマー最古の少数民族武装勢力・カレン民族解放軍(KNLA)と初めて停戦合意を結んだことである。しかしもう1つの老舗少数民族武装勢力・カチン独立軍(KIA)との関係はむしろ悪化し、2011年6月、ついに17年にわたる停戦合意が破られ、国軍とKIAとの間で戦闘が再開、双方に多大な犠牲者を出し、10万人以上の避難民が出る事態となった。

こうした事態に対して、テインセインは各武装勢力と個別に停戦合意を結ぶのではなく、すべての武装勢力と包括的な全国停戦合意(NCA)を結ぶ方針に転換。当初は拒否していたKNU、KIOなど11の少数民族武装勢力が結集した統一民族連邦評議会(UNFC)との交渉に入った。90年代の停戦合意と違ったのは、件の停戦合意があくまでも軍事的なものだったのに対し、この全国停戦合意(NCA)は連邦制のあり方にまで踏みこんだより政治的なものだったということである。またUNFCの議長はKIO副議長(当時)・ンバンラ(N'Ban La)であり、UNFCを巻き込むことにより、KIO/KIAと停戦合意を結びたいという思惑があった。

2013年10月にはKIOのライザで一同が会する会議が開かれ、その後も交渉が続いて一旦まとまりかけたが、国軍最高司令官・ミンアウンフラインが国軍と各少数民族武装勢力が合流した連邦軍構想に難色を示して暗礁に乗り上げた。2014年11月には国軍がライザ近郊の戦闘幹部訓練施設に砲弾を撃ちこみ、23人が死亡・20人が負傷する事件が発生し、アラカン軍(AA)8人、タアン民族解放軍(TNLA)11人、チン民族軍(CNA)2人、全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)2人と他の武装勢力の若者たちばかりが犠牲となった。2015年2月にはミャンマー民族民主同盟(MNDAA)が、国軍を急襲して2009年に奪われたラオカイを一時奪還。戦闘は4ヶ月後に国軍優位で終息したが、この奪還作戦にはAAやTNLAも参加しており、全国停戦合意の行方はますます不透明になっていった。UNFC内でも推進派と慎重派との間で内紛が生じていた。結局、全国停戦合意(NCA)は2015年10月15日、KNLAなど8組織だけが署名して成立したが、8組織の兵力は合わせて1万人ほどであり、非署名のワ州連合軍(UWSA)の兵力2万人にも及ばなかった。タンミンウーは「和平プロセスは、ある意味で、固定された民族グループがあり、それを中心にすべてを構成しなければならないという考え方を定着させるものだった 」と述べている。

ムスリム排斥

一方、テインセイン政権下で様々な分野で自由化が進んだことにより、ミャンマーではストライキや土地争議が頻発するようになった。裏では88年世代の元民主化活動家が暗躍していたと言われている。ハイライトはサガイン管区のレッパダウン銅鉱山で、環境悪化を理由に住民だけではなく全国から活動家・僧侶が駆けつけて抗議運動に加わっていたが、2012年11月29日、治安部隊が催涙ガス、放水砲を使って強制排除に乗り出し、70人以上の負傷者が出た。事態打開のためにスーチーを委員長とする検討委員会が設けられたが、事業計画の透明性欠如や土地収用の補償の不十分性を指摘したものの、計画の続行自体は支持したので、多くの住民が彼女に失望した。

もう1つ、言論の自由が広がり、ネットが自由化されたことにより、Facebook(ミャンマーではネット=Facebook)にはムスリムヘイトが溢れるようになった。この反イスラム運動は969運動と呼ばれ、その中心人物の僧侶・ウィラトゥはアメリカのタイム誌の表紙に「仏教徒テロリストの顔」として紹介されたことがあった。2012年5月にはラカイン族の少女が、ロヒンギャの男性に強姦され殺害された事件をきっかけに両者の間に衝突が発生。10月までに150人以上が死亡、10万人以上の避難民が出る惨事となった。この事件をサウジアラビアで知ったパキスタン出身のロヒンギャ青年・アタウッラー・アブ・ジュヌニ(Ataullah abu Ammar Jununi)後にアラカン・ロヒンギャ解放軍(ARSA)を結成することになる。またこの事件を機に、政府はロヒンギャの人権を侵害していると国際的批判の的になっていた国境地帯入国管理機構(ナサカ)を解散したが、これも2016年のARSAの最初の襲撃を防止できなかった原因と言われている。この事件以降もラカイン州ではムスリムと仏教徒の衝突が頻発、ラカイン州以外でもメイティーラ、ヤンゴン近郊のオッカン、ラーショーで反ムスリムの暴動が発生し、多数の死傷者が出た。またこの宗教問題は海外にも飛び火し、2013年4月、インドネシア・スマトラ島で多数派のロヒンギャ難民が少数派の仏教徒難民を8人殺害する事件が発生、マレーシアでは仏教徒ミャンマー人を狙った襲撃事件が頻発した。2015年にはムスリムに対して差別的な民族保護法4法(改宗法、女性仏教徒の特別婚姻法、人口抑制保健法、一夫一婦法)が成立した。


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