ミャンマー国軍(4)

1990年代

ミャンマーの国軍(3)


1988年民主化運動は、少数民族武装勢力ばかり相手にしてきた国軍にとって、「民主派」という新しい脅威の出現だった。しかも率いているのは独立の英雄アウンサンの娘・アウンサンスーチー。


この脅威に対して国軍はネウィン辞任後図らずも世代交代を遂げた新しい陣容で臨み、①連邦分裂阻止②諸民族分裂阻止③国家主権堅持という3つの国家的大義が掲げられた。これは単なるスローガンではなく、2008年憲法の基本原則にも掲げられた現実的目標だった。国名も1988年9月に「ビルマ連邦社会主義共和国」から独立時の「ビルマ連邦」に、1989年7月には「ミャンマー連邦」に変更し、地名もラングーン→ヤンゴン、モールメン→モーラミャイン、アキャブ→シットウェ、イラワジ川→エーヤワディー川のように現地の発音に近いものに変更され、ナショナリズムを新たにした。またこの頃から、国軍幹部が高僧や僧院に高額の寄付をする様子が国営紙や国営テレビで度々取り上げられるようになり、国軍の仏教の守護者とのしての役割もなおいっそう強調されるようになった。

経済の自由化

1988年民主化運動の根源的原因は経済失政ということは国家秩序回復評議会(SLORC)認識していたので、まずは経済の自由化に乗り出した。ちなみにこの世代の国軍関係者はネウィン時代の経済失政を黒歴史として認識しているのだという1988年民主化運動を機に海外からのODAはすべて停止されたため、同年、海外民間企業の投資を促す民間投資法を制定。また国境貿易を民間企業にも開放し、中国との国境に4地点、タイとの国境に2地点、政府公認の国境を設置した。民主派から資源の切り売りという批判を受けつつも、政府自らチーク材や宝石の売りこみにも乗り出した。1989年には国有企業法を制定国有企業が独占する 12分野以外には民間企業にも開放し、私企業創設ラッシュが起きた。1992年からは経済4ヶ年計画を実施。1996年を「観光の年」と定めたため、特に中国やシンガポールなど中華資本による観光業への投資が増加した。1990年代はミャンマーと中国との関係が緊密になった時期でもあった。そして1993年頃から経済は好転し始め、この4ヶ年計画の成功を受けて、1996年からは5ヶ年計画をスタートさせた。不十分ではあったがSLORCによる90年代の経済改革は、1997年のアジア通貨危機までは一応の成果を上げていた。

停戦合意

1989年、ワ族やコーカン族などの末端兵士の反乱によって長年国軍と対峙してきたビルマ共産党(CPB)が崩壊し、ワ州連合軍(UWSA)ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)民族民主同盟軍(NDAA)新民主軍カチン派(NDA-K)の4つの武装勢力に分裂した。

1978年に鄧小平がCPBへの支援を大幅削減すると決定して以来、国軍は少数民族武装勢力のリーダーたちと個別に会って、CPBと彼らを分断するために秘密裏に会談を重ねていた。そして楊振声がCPBから独立したがっていると知るや、彼を焚きつけ、反乱を起こさせたのである。CPBが崩壊すると、キンニュンはすぐに各武装勢力を訪れ停戦合意を結んだ。仲介したのは、コーカンの麻薬商人だったオリーブ・ヤンこと楊敬熙、同じくコーカン出身の麻薬王・ロー・シンハン、そして1988年民主化運動の際ネウィン宛に書簡を書いたアウンジーだった。

合意の内容は国軍と戦わず、他の少数民族武装勢力や民主派と協力しない代わりに、各勢力はそれぞれの地域の支配権を維持し、軍隊を保持し、あらゆるビジネスに従事することを許可されるというもので、1963年から1973年までにシャン州で実施されたKKY制度に酷似していた。停戦合意を結ぶと、各武装勢力はCPB時代と同じく麻薬生産を始め、ミャンマーのアヘン生産量は1987年の838トンから1995年には2340トン、ヘロイン生産量は1987年の54トンから1995年には166トンに増加し、ケシ栽培の面積は1987年の9万2300ヘクタールから、1989年には14万2700ヘクタール、1995年には15万4,000ヘクタールに拡大した。やがて彼らはメタンフェタミンやその他の合成麻薬の生産も始め、ゴールデン・トライアングルは繁栄を続けた。

そして①CPBの崩壊により、CPBから兵器の供給を受けていた各少数民族武装勢力は重要な兵器入手ルートを失ったこと②タイ共産党を殲滅したタイが、これまで国境警備に利用していたミャンマーの少数民族武装勢力を、むしろタイ・ミャンマーに跨る広域経済圏形成の障害と見なすようになり、タイと国境を接しているモン族、カレン族、カレンニー族の武装勢力に対して政府と停戦合意を結ぶように圧力をかけ始めたこと③各武装勢力の支配地域の住民の間で長引く内戦に対する厭戦気分が極限まで高まっていたことから、1989年から1994年の間にカレン民族同盟(KNU)を除く、ほとんどの武装勢力との間に停戦合意が結ばれた1996年には麻薬王クンサーが政府に投降。その後彼はヤンゴンに住むことを許可され、仲間たちとともに運送会社、酒造業、不動産業、金や宝石の採掘、人脈の多いタイとの貿易など合法的なビジネスを営み、大富豪となった。反対勢力を国軍の支配地下で金持ちにして、失うものを持たせ、反抗させなくするというのが国軍のやり口だった。

吉田鈴香著「ASEANの縮図としての多民族国家ミャンマーの統合と開発」にあるキンニュン情報局長の下にあった和平チーム長の大佐の証言によれば、停戦合意の内容は、

というものだったようだ。

軍事ドクトリン第3段階

1988年民主化運動を経験した国軍は、民主派や少数民族武装勢力が外国勢力と結びつくのを恐れ、軍事ドクトリンを再び見直し、強大な外敵にも正規戦で対抗しうるよう、人民戦争ドクトリンを保持しつつ軍備の増強を進めた。この新しい軍事ドクトリンは、「現代的条件下での人民戦争」と定義づけられている。

兵力増強

まず国軍は兵力の増強に乗り出した。陸軍の特別作戦部を2から6、軍管区を9から13、歩兵師団を8から10に拡大し、1988年から1999年の間に国軍の兵力は20万人から40万人に増加した。ただこの時期の拡大は、1962年頃と違ってビルマ族仏教徒中心の採用に偏っており、かつてあった国軍の多様性は失われた。また国防省情報局(DDSI)についても1991年までに新しい部隊を9つ新設し、これまで限定的だった海外での活動を拡大。特に民主派が多数亡命しているタイでは外交官、情報提供者、メディアとの間の広範なネットワークを築いた。また正規兵だけではなく、退役軍人、軍人の妻や家族、志願した若者たちには随時軍事訓練が施され、国軍系大衆運動組織・連邦団結開発協会(USDA)、消防団、警察、赤十字、非政府組織(医師会、母子福祉協会)なども補助部隊として組織された。

②人材育成

また80年代後半には、1962年のクーデター以降、激減していた欧米の名門士官学校への留学を復活させようという動きがあったが、それも1988年民主化運動の弾圧で頓挫。しかしそれでも国軍は、中国、ロシア、インド、パキスタン、シンガポール、マレーシア、ユーゴスラビアなどの国々に多数の将校を派遣して人材育成に力を注いでいた。この点からしても、「国際感覚を欠く」という国軍に対する一般的評価はかなり疑問である。

また教育・訓練期間も多数設立・改編した。以下、漏れはあるとは思うが、国軍の教育・訓練期間の一覧である。

入隊前教育・訓練

入隊後教育・訓練

③兵器増強

1989年当陸軍参謀次長だったタンシュエが中国を訪問して14億ドルの兵器取引契約を結び、1987年から1997年の間にミャンマーが輸入した13億8000万ドルの兵器のうち、実に80%が中国製となった。1989年の天安門事件で国際的に孤立していた中国が、同じく国際的に孤立していたミャンマーに、経済協力と合わせて接近を図った形で、兵器は他にもイスラエル、北朝鮮、パキスタン、ポーランド、ロシア、シンガポール、ユーゴスラビアから輸入され、その内容も弾薬、軽火器、重携行火器だけではなく装甲車、大砲、対空兵器、ヘリコプター、戦闘機、地対空ミサイルなど多岐に渡った。

これ以外にも国軍は情報戦とデジタル戦に深く関心を寄せて研究を重ね、国軍士官学校(DSA)にコンピューターの学位を設け、両者を学ばせるために将校を海外に派遣している。

ただ外敵に侵略された場合を想定して、ゲリラ戦とトンネル戦といったアナクロな戦術にも力を入れている。2009年にはミャンマー各地に800ものトンネルを掘っている事実が独立紙によって暴露された。

1995年、1997年、1998年には陸海空軍+USDAなどの補助部隊を動員した大規模な合同軍事演習が実施されている。

④ビジネス強化

さらに国軍は軍人の福利厚生を図り、忠誠心を高めるために本格的にビジネスに参入。1990年にはミャンマー・エコノミック・ホールディングス(MEHL)の前身・ミャンマー連邦経済持株会社(UMEHL)を、1997年にはミャンマー経済会社(MEC)という国軍系企業を設立し、傘下に鉄鋼、セメント、大理石、砂糖、メタノール、石炭、ビール、貿易、金融など多数の企業を置いて莫大な利益を上げ始めた。これに加えてクローニーと呼ばれる企業コングロマリットが10以上存在し、国軍幹部と姻戚関係を結んだりして緊密な関係を築き、軍から許認可や受発注の便宜を受け、急成長し始めた。

これらの企業群は国防予算とは別の国軍の貴重な収入源となると同時に退役軍人の出向先となり、国軍の重要な”利権”となった。すべての将校はMEHLやMECの株式から直接的・間接的に利益を得、家族を通じて非合法ビジネスからの利益も得ている。タンシュエの娘の結婚式はあまりにも豪華で国民の強い批判を浴び、現国軍総司令官・ミンアウンフラインはミャンマーでも有数の富豪と言われている。

それより地位の低い軍人たちは主に汚職や麻薬などの闇市場から利益を得ている。ネウィン時代は許されなかったが、1988年民主化運動以降は、忠誠心維持の観点から役得として大目に見られるようになったそうだ。

ただ歴代国軍情報部は、将校以上の軍人の汚職の有罪証拠をすべて保持しており、権力闘争に敗れた際は大抵汚職の罪に問われることになり、それを嫌ってほとんどの人間が大人しくしている。この利権と監視システムのハイブリッドが、国民の支持がないにも関わらず、国軍の結束が乱れず、その支配を持続させている主たる原因である。

NLDとの対決

1990年選挙

そしてマウンマウンの「国民投票を行わずに複数政党制の総選挙を3ヶ月以内に行う」という言葉を、「3ヶ月以内」を除いて、SLORCは守った。そこには民主的な選挙を行って全面停止した海外からのODAを早急に再開させたいという思惑があった。

クーデター直後の1988年9月26日から政党登録の受付を開始し、実に233の政党が登録した(最終的に候補者を立てたのは93党)。ビルマ社会主義計画党(BSPP)も国民統一党(NUP)と名称を変更して登録。最有力政党は1988年民主化運動の際にリーダー候補に祭りあげられたアウンジーが議長、ティンウーが副議長、スーチーが書記長を務める国民民主連盟(NLD)だった。支持層は①学生・知識人を中心とする左翼系グループ②旧民政時代の政治家のうちウー・ヌに合流しなかった人々③ティンウーの下に結集したネウィンに放逐された退役軍人だったが、彼らがいたこにより国軍の目にはNLDは裏切り者集団に映り、以降の執拗な弾圧に繋がったのだという。また全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)もNLD全面支持を打ち出したが、SLORCから非合法組織とされていたので、地下支援のみに留まった。

ただ①には元ビルマ共産党(CPB)党員やそのシンパが多く、アウンジーはその点を批判してすぐにNLDを脱退した。当時元ビルマ共産党(CPB)中央委員会のメンバーだったタキン・ティンミャ(Thakin Tin Mya)がスーチーの自宅に秘密事務所を持ち、彼女の顧問を務めていたのだが、アウンジーが批判したのは特にこの点。これに対してスーチーは「私を貶めようとしている人々は私が共産主義者に囲まれている、と非難しています。私がさまざまな経歴の多くのベテラン政治家から助言を得ているのは事実です。けれどもそれは、これらの人々が将来の政治的利益への期待や個人的利得とはまったく無関係に、民主主義の大義のために働いているとの前提にもとづいてのことです。私自身は、国民の福祉よりも個々人の政治的信条やイデオロギーを優先することには強く反対しています」と反論している。

スーチーが共産主義者だったかどうかは知らないが、彼女の経済軽視の姿勢は尋常ではなく、この時期、欧米の要人と面会する度に、国軍を弱体化させるためにミャンマーの経済制裁を科すように要請しており、「そんなことをしても国軍には痛手はなく、国民が困窮するだけだ」というアドバイスにもまったく聞く耳を持たなかったのだという。1995年に日本の無償援助で行ったヤンゴン看護大学の設立にも反対、日本人観光客が彼女の自宅前の演説を見物していた時には、彼らに向かって「みなさんにはっきり申し上げたいことがあります。どうかミャンマーにはもう来ないでください。日本のお友達にもそう伝えてください」と言い放ったのだとか。ただ2011年の解放後、初の外遊で訪れたバンコクをヤンゴンからのフライトの機上から見て、「子供の頃はヤンゴンとそう変わらなかったのに…」とその発展ぶりに目を見張り、経済重視に考えを改めたのだという。

1989年に入るとスーチーは地方遊説を開始。各地で熱狂的に迎え入れられ、圧倒的人気を博した。しかし徐々に軍政批判を強めると、まずは支持層の③から慎重論が噴出。さらにスーチーの軍政批判に呼応するようにKNLAがシュリアム精油所とヤンゴン市庁舎で爆弾テロを行うと、スーチーとティンウーは自宅軟禁下に置かれた。同じ頃、ウー・ヌも被選挙権を剥奪された。

SLORCによる様々な妨害行為はあったが、1990年5月27日に総選挙実施され概ね公正で自由な選挙だったという国内外の評価を得た。しかしそれが仇となって、NLDが485議席中392議席を占めて圧勝する結果となり、NUPはわずか10議席しか獲れなかった。この結果を受け、さらに選挙に勝利したNLD幹部が「国軍指導者をニュルンベルク式裁判にかける」と不用意に発言したことも呼び水となって、SLORCは政権移譲の延長を図り、SLORC主導の憲法会議が新憲法の草案を策定した後、件の草案をSLORCに提出し、さらに国民投票によって採択された段階で新憲法にもとづく新政府がを樹立るという方針を発表した。そして反対するNLD議員活動家、僧侶を次々と逮捕。逮捕を逃れたNLD議員はKNUの本拠地マナプロウに赴き、スーチーの従兄弟セインウィンを暫定首相とするビルマ連邦国民政府(NCGUB)樹立したが、国内外からの支持はほとんどなく、以後も実効性のある活動できなかった(その後、閣僚2名がそれぞれ昆明とバンコクで暗殺された)。

選挙結果を反故にしたSLORCを姿勢は当然のことながら国内外から激しい非難を浴びたが、現実的にあの当時、NLDに政権担当能力があったかと問われると、否だろう。NLD支持層のうち①はほとんど社会経験がなく、しかも思想的に偏向しており、②は高齢、③の退役軍人のみ辛うじてその能力があったかもしれないが、元軍人なだけに国民の支持が得られるかはなはだ疑わしく、①②との間に内紛が生じて政権が機能不全に陥った可能性もおおいにあった。「1962年当時と現在とで状況が変化していることは否定できない。時代の変化に応じて必要ならば、われわれも変化しなければならない。必要であれば憲法を改正する」と述べてBSPP議長を辞職したネウィンには当時のミャンマーであれば、独立直後のような腐敗堕落の極みの政党政治ではなく、真っ当な民主主義を実現できるかもしれないという一抹の期待があったのかもしれないが、いざ選挙実施となると233もの政党が乱立したことからして、まだ時期尚早だったと言え。要するに当時の国軍には自分たちの姿も国民の姿も見えていなかったのだ。

タンシュエ

自宅軟禁中のスーチーに対して、SLORCは政治活動をしないことを条件に国外退去を勧告し続けていたが、スーチーはこれを拒否して、国内に留まって民主派を支援し、国際世論を味方につける道を選ん。この戦略は功を奏し、1991年10月、スーチーはノーベル平和賞を授賞。同年には清潔で美しい国作戦(Operation Pyi Thaya)によって、約25万人のロヒンギャ難民がバングラデシュに流出しており、両方あいまってSLORCに対する国内外の批判は否応なしに高まっていった。特に後者に関しては、欧米諸国だけではなく、マレーシアやインドネシアなどのASEANのムスリム諸国からも批判されたことに、SLORCは危機感を深めた。

1992年4月、ソーマウンSLORC議長の”辞任”発表された。ソーマウンは以前により精神に異常を来していると噂されており、”辞任”を通告された際、その事実を理解できず暴れ、周囲に取り押さえられたのだという。トップをすげ替えてイメージを変えようという思惑があったものと思われる。

新議長に就任したのは、当時国民の間ではほとんど無名だったタンシュエ(Than Swe)だった。1933年2月2日年マンダレー管区のチャウセー近くの村で生まれ、高校卒業後、郵便局に1年間勤務した後、1953年に士官訓練学校(OTS)に入学。当時の同級生の回想によると、クラスで最年少で、いつもキンマを噛んでいて、どちらかと言うと愚鈍で無口、あまり優秀な士官候補生ではなかったのだという。仇名はブルドッグ。

その後第1歩兵部隊に少尉として任官してカレン州やシャン州でCPBやKNLAと戦ったが、さしたる武勲は上げられなかった。その後、陸軍心理部に配属され、1962年からはBSPPの幹部養成学校の中央政治学学校で教鞭を取り、生徒たちにビルマ社会主義への道を教えた。政治への関心を示すことはなく、現実的で信仰心と愛国心が強い人物で、仕事が終わった後も仲間たちと酒を飲みに行くこともなく、妻子が待つ家に帰りたがっていたのだという。妻は大の占い好きだった。

その後、第 1 歩兵大隊大隊長、第88歩兵師団師団長、西南郡管区司令部司令官と順調にキャリアを積み、1985年には国軍No.2の陸軍参謀次長に就任した。出世の理由は「脅威ではなかったから」というのがもっぱらの評。SLORC議長に就任してからも、実質政権を取りしきっているのはキンニュンと言われ、両者の間には確執があると噂されていた。キンニュンはDDSIのトップだったが、No.2にはタンシュエの腹心のチョー ウィンが就き、常にキンニュンを監視していた。1994年にアメリカ上院議員・ビル・リチャードソンがスーチーと面会した後、「ミャンマーの将来はキンニュン氏とアウンサンスーチー氏の2人によって決まると思う」と述べた時は、タンシュエは周囲に不快感を露わにしたという。またスーチーを毛嫌いしていることでも有名で、外交官や外国の政治家がその名を口にしただけで、席を立つこともあったのだとか。

なお1993年から1995年までミャンマー大使を務めた田島高志氏の「ミャンマーが見えてくる には、タンシュエの珍しい肉声が収録されている。

「ミャンマーは1948年に独立して以来、非常に多くの問題を抱えてきた。国内には多くの民族が存在しており、その統一と団結を実現することが基本的な課題である。特に1988年には国が完全に無政府状態になってしまったので、国が統一状態を回復させた。我々はいつまでも軍政が続いて良いとは考えていない。それは軍の本来の任務ではない。そのために国民議会を開いて、民主化への努力を続けている。一国の発展のためには政治の安定が第一で、政治の安定なくして経済の発展はない」「われわれ多くの困難を克服して事態はかなり改善されてきた。しかし国際社会はこのような状況を理解しようとせず、一方的な非難をしている。ミャンマー人は誇り高い国民であり、我々を愛する者は、我々も愛するが、我々を愛さない者に対して頭を下げたり、擦り寄っていくことはしない。ミャンマーは農業資源も豊富であり、生きていく食糧に困ることはない。われわれは自国のために最善を尽くすのみである」

新体制が発足すると、早速①制憲国民議会の8ヶ月以内の開催②政治犯の釈放③スーチーの家族との面会許可④ロヒンギャ難民の早期帰還という柔軟路線に出た。①により1993年1月、制憲国民議会が開かれ、②によりウー・ヌ以下2700人の政治犯・刑事犯が釈放され、③により1992年5月スーチーと夫のマイケル・アリスとの面会が実現、1994年にはタンシュエ、キンニュン、スーチーによる3者会談も実現した。途中、両者の対話が途切れ、キンニュンが「1人の人間の人権よりもミャンマー国民4300万人の人権のほうが重要である」と発言して、解放は絶望的と思われたが、その発言のわずか4日後1995年7月10日、スーチーは6年ぶりに解放され自由の身となった。

NLDとの対立激化

解放されたスーチーはNLD書記長に再就任し、毎週末自宅前で市民集会を開いたり、外国メディアと会見したりしていたが、再び自宅軟禁にならないように慎重な行動を取っていた。しかし1995年11月、会議の運営が非民主的であることを理由にNLDが制憲国民議会をボイコットすると、両者の関係は悪化。翌1996年5月27日、SLORCの中止勧告を無視してNLD議員総会を開催すると、対立は決定的となり、SLORCは新治安維持法(国家の安寧を脅かすデモ・集会・演説・ビラの禁止)、テレビ・ビデオ法(スーチーの週末演説会のビデオが出回っていることに業を煮やし、テレビ・ビデオの所有を許可制に、ビデオの作成・複製・編集・配布を規制)、コンピューター科学開発法(海外民主派のネット上の宣伝活動を警戒し、パソコンの輸入制限、ネットサービスへの加入規制)などの法律を制定して、情報統制を強化した。9月にはNLDが結党8周年を記念して全ビルマ集会を企画したが、当局はNLD党員・関係者800人を拘束してこれに対抗。11月にはスーチーが乗った車がUSDAのメンバー200人に襲撃されるという事件が発生した。

さらに12月にはヤンゴンで8年ぶりに1500~2000人規模の学生デモが起こり、当局は大学を閉鎖してこれに対応。結局、ヤンゴンの大学は2000年まで閉鎖されままになった。同月にはヤンゴン郊外の仏教寺院で爆弾テロが発生して4人死亡・18人負傷、翌1997年3月にはマンダレーで300人以上の僧侶がムスリムの商店を襲撃、4月には軍幹部に送られてきた小包が爆破して幹部の娘が死亡するといった不穏な事件が立て続けに発生した。小包爆破事件では当局は小包は日本から送られてきたと断定、犯人と目された在日ミャンマー人の活動家たちの写真と名前が国営テレビや新聞で報道されたが、日本の捜査当局はこの情報をまったく信用せず、捜査は行われなかった。どうやら当局の目的は、DDSIが在外ミャンマー人活動家の情報を把握していることを知らしめ、彼らの行動を牽制することにあったようだ。

1997年、ミャンマーはASEANへの加盟を果たし、SLORCは国家平和開発評議会(SPCD)に改編した。軍政が国際的に認知されつつあることに焦りを隠せないスーチー以下NLDは、1998年5月総選挙記念集会を開き、①期限付き国会開催の要求②制憲国民議会の憲法草案を認めない③1990年総選挙の結果を無視した次の選挙を認めないなど13項目について採択、タンシュエに書簡を送った。これはSPCDが予定している民政移管プロセスを真っ向から否定するもので、これにより両者の対立は修復不可能となった。

やがてスーチーは、当局の許可なく地方遊説を開始し 通行を阻止されると車内籠城して対抗。さらに9月には1990年総選挙にもとづく国会の代替機関として国家議員代表者委員会(CRPP)を結成し、1988年以降軍政によって制定された法律は国会で承認されるまですべて無効と宣言、国内外軍政批判を呼び起こした。これに対してSPCDはUSDA、公務員、国有企業職員、教師、学生、メディアを総動員して反NLD、反スーチーキャンペーンを展開。毎日どこかで集会が行われ、日常風景になるほどだったという。さらにNLD関係者が次々と逮捕され、地方支部・事務所も多数閉鎖、党員・職員の離党も相次いでその数は1999年までに4万人にも上った。SPCDの攻勢にスーチー以下NLDはなす術がなく、窮地に追いこまれていった。

神の軍隊

こうした中、1999年9月9日を”フォーナイン”と称して民主派に一斉蜂起を呼びかける運動がネット上で行われた。結局その日には何も起きなかったが、10月1日、ABSDFの分派で壮健なビルマ学生戦士(Vigorous Burmese Student Warriors)を名乗る武装グループがバンコクのミャンマー大使館を占拠。大使館職員を人質にして立てこもり政治犯の釈放や国会の開催などを要求したが、翌日、タイ政府が用意したヘリコプターに乗ってミャンマー・タイ国境地帯へ帰っていった。彼らの目的は世間の耳目を集めることだったらしく、NLDとは無関係で、スーチーは「暴力的手段は許されない」とする非難声明を出した。

翌2000年1月、このVBSWが合流した神の軍隊(God's Army)と名乗る武装勢力が、タイ中部のラチャブリ病院を占拠し、タイ政府に対してミャンマー国軍にカレン州への攻撃中止を要請するよう要求する事件を起こした。神の軍隊は1997年に当時10歳だったジョニー&ルーサー・トゥーという霊力を持つとされる双子の兄弟によって結成された武装勢力で、カレン民族同盟(KNU)に失望していた一部住民の支持を得、事件を起こした段階では2、300人の兵力を擁していた。が、彼らの主張は当然受け入れられず、タイ治安部隊が病院に突入してメンバー10人全員が射殺された。その後、兄弟は2001年にタイ政府に投降、2006年にはミャンマー政府にも投降した。2001年2月には国軍とシャン州軍南部(SSA-S)との戦闘にタイ住民が巻き込まれる事件もあり、折からの麻薬問題(ミャンマー政府はタイ政府がSSA-Sを支援していると非難、タイ政府はミャンマー政府が麻薬生産・取引を継続しているワ州連合軍《UWSA》を保護していると非難)と相まって、両国の関係は国境貿易を閉鎖するほど悪化した。


ミャンマー国軍(5)