シャン州軍北部

Shan State Army – North

・活動時期:1964

・活動場所:シャン州北部

・本部:ワンホイ

・宗教:仏教

・主義主張:シャン民族主義、分離主義

・兵力:8,000人

シャン州進歩党(Shan State Progress Party)軍事部門

存在感の薄い名門

前史

1253年、大理国がモンゴルに滅ぼされると、上ビルマに多くのシャン人が移ってきた。そして1364年、ビルマ族のパガン朝が滅亡したのを機に、シャン族は上ビルマの実権を握り、アヴァ王朝を興したが、そのアヴァ王朝も1555年頃にビルマ族のタウングー朝に滅ぼされ、周辺の土侯国(この土侯のことをツァオパと言う)も中国とビルマに宗主権を認められる形で間接支配されるようになり、40以上の土侯国が乱立する状態だった。

しかし19世紀後半、イギリスとの争いでタウングー朝の力が衰えると、シャン族は元の独立状態を回復。1886年ビルマがイギリスの植民地になると、イギリス軍はシャン州にも進駐してきたが、ビルマ本土の支配に重点を置く政策により、シャン州はビルマ本土とは別に間接統治下に置かれ、土侯たちの地位もそのままに保たれた。

第二次世界大戦中シャン族は連合軍側に付いて日本軍と戦ったが、それなのに戦争終結後は当初日本軍側についていたビルマ族のアウンサンらの主導でミャンマーの独立の話が進んでいるのに大いに不満があった。1947年1月アウンサンがイギリスに赴いてアトリー政権とアウンサン・アトリー協定を結んだ際には、土侯たちはイギリス政府に「アウンサウンは辺境の民を代表していない」という電報をわざわざ打ったほどである。それでもシャン族代表団はカチン族、チン族とともに1946年1947年のパンロン会議に参加し、10年後の連邦離脱権付与を条件に協定を結んだ。

ツァオ・シュエ・タイッ

独立期

1948年1月ミャンマー連邦独立とともに成立したウー・ヌ政権下では、シャン族の土侯・ツァオ・シュエ・タイッが初代大統領、カレン族のスミス・ドゥン(Smith Dun)が国軍最高司令官に登用されるなど、少数民族にも一定の配慮が見られたものの、たぶんに中央集権的で、シャン族の人々の不満は高まっていった。しかし政府側にある程度の譲歩が見られたのも事実で、独立するや否やビルマ共産党(CPB)カレン族などが反乱を起こして内戦状態に入った際も、シャン族、カチン族、チン族のパンロン会議に参加した”辺境の民”はこの列に加わらず、むしろ国軍に加勢して反乱鎮圧の一助となった。

しかし1949年後半、中国共産党に破れた中国国民党がシャン州に雪崩こんできて、住民から食糧や軍資金を徴収するなどして大混乱をもたらす。彼らは反共の防波堤として台湾やアメリカの支援を得て雲南省奪還を画策しており、1951年頃にはシャン州の3分の1を支配下に置き、兵力は1万2000人ほどに膨れあがった。政府はこの事態にを憂慮し、1952年10月、戒厳令を敷いてシャン州の統治を強化。国軍がシャン州に進駐してきて、土侯たちは自分たちの地位が脅かされていると感じた一方で、住民は国軍からポーターに駆り立てられたり、略奪、暴行、時には殺人の被害を受け、国軍に対して大きな反感を持った。英植民地時代以来初のビルマ族との邂逅で、シャン族のビルマ族に対する感情は大幅に悪化した。

ちなみに1953年国連決議により中国国民党の撤退が決まったが、雲南省出身の兵士の多くは台湾に行かず、特に大陸奪還の夢が潰えた60年代に入ってからは軍の規律も乱れ軍閥化したことにより、アヘンの生産に大々的に乗り出すようになった。1974年頃にはシャン州は世界のアヘン生産の3分の1を占めるに至り、ゴールデン・トライアングルと呼ばれるアフガニスタンに次いで世界第2位のアヘンの一大生産地となった。

ツァオ・シュエ・ナーン・フーンカム

こうした中、シャン族の知識人・青年層を中心にシャン文化復興運動が興り、シャン学生協会やシャン文学会などが結成され、仏典や書物の現代シャン語への翻訳、シャン族の伝統の演劇・歌舞の復興、シャン語の本や雑誌の出版といった活動が行われるようになり、シャン族の民族意識が高まっていった。この復興運動の中心になった1が、ツァオ・シュエ・タイッのツァオ・シュエ・ナーン・フーンカムで、彼女はまたシャン立法評議会の議員と連邦議会の議員も務めていた。

一方、シャン州の政治の舞台では、反政府派の土侯たちがシャン州統一党(Shan State United Party :SSUP)を結成し、1956年の選挙で圧勝して連邦からの分離と伝統的な土侯の支配体制維持を主張した。しかし1958年に成立したネウィン選挙管理政府は、翌年、シャン州・カレンニー州の土侯の伝統的世襲特権の廃止。ただ政府に従順な土侯はそのまま地方評議会の権力を握り、各種の利権も保持できたので、これは一種の分断工作であり、多くの土侯が政府に帰順し、シャン州の権力者層の足並みは乱れた。

ソーヤンダー

こうした中、シャン族の中で武装勢力を開始する者が現れた。1958年5月21日、雲南省出身のシャン族・ソーヤンダー(Saw Yanda。別名に率いられたヌーム・スク・ハーン(Noom Suk Ham)(勇敢な若い戦士)いう9人のグループが、刀、槍、マスケット銃といった粗末な兵器で武装蜂起し、国軍の守備隊が駐屯していたタンヤンという町やいくつかの国軍の前哨基地を10日間ほど占拠した。他にも同様の事件がいくつか発生し、政府のみならずシャン族の指導者層にも衝撃を与えた。

1960年、再びウー・ヌ政権になると、ツァオ・シュエ・タイッらシャン州の元土侯たちが中心となって「真の連邦制」を求める運動を起こした。土侯たちは保守的な価値観の持ち主だったので、武力に頼るのではなく、あくまでも法的・憲法的枠内での解決を図ったのだ。1961年6月、様々な民族のリーダーたちを集めてタウンジーで全州会議を開催。①ビルマ族のためのビルマ州の設置②国会上院議席の各州へ の同数割り当て③中央政府の権限を外交や国防などに限定することなどを要求、そのための憲法改正を訴えた。これはシャン州のみならず、国家全体の統治制度の改革を求めた点で非常に画期的なものであり、パンロン協定で認められたシャン州、カチン州、カレンニー州の他、チン州、モン州、ラカイン州の設置を求める決議もなされ(ただしモン州は1958年にモン族の武装勢力と政府が停戦合意した際に、既に州設置の約束がされていた)、ウー・ヌは1960年の選挙で公約していたモン州とラカイン州の設置を1962年9月までに実施せざるをえなくなった。

ツァオ・キャ・セイ

しかし国軍はこれを連邦分裂をもたらしかねない危険思想と敵視。1962年3月2日、まさにウー・ヌ首相がヤンゴンで閣僚や少数民族の代表団と会談しているその時にネウィンはクーデターを決行し、ウー・ヌ以下内閣の閣僚と会談の出席者全員拘束た。またその際、ツァオ・シュエ・タイッは逮捕され獄死(獄中で処刑されたと言われている)、彼の17歳の息子サイミー(Sai Myee)もツァオ・シュエ・タイッが自宅で逮捕された際、銃殺された。クーデター唯一の犠牲者であり、軍政最初の犠牲者だった。もう1人、アメリカに留学経験があり、進歩的な考えで地元人気を博していた土侯・ツァオ・キャ・セイ(Sao Kya Seng)もタウンジーで国軍に連行されまま行方不明となった(後年、彼の妻だったオーストリア人女性・インゲ・サージェントが「ビルマの黄昏」を著している)。シャン州では他にも政治家、企業家、上級公務員、警察の幹部が多数逮捕された。シャン族の英雄が非業の死を遂げたことで、シャン族の軍政に対する怒りは頂点に達した。

シャン州軍(SSA)

多くのシャン族の指導者層が逮捕されたことにより、シャン州では権力の空白期間が生まれ、様々な勢力が乱立した。1963年シャン州の反乱鎮圧に手こずっていたネウィン、反乱軍と戦うことの見返りにシャン州内の政府管理のすべての道路と町をアヘン密輸のために使用する権利が与えるKKYカ・キュイエ《Ka Kwe Ye》:「防衛」という意味)という制度を導入。これを巡ってシャン州の武装組織は対立と分裂を繰り返し、ヌーム・スク・ハーンを脱退したメンバーが結成したシャン州独立軍(Shan State Independence Army:SSIA)シャン民族独立軍(Shan National Independence Army:SNIA)モーヘン(Moh Heng)という人物が率い、武装勢力ではなくシャン族の各武装勢力を統合することを目的として結成されたシャン民族統一戦線(Shan National United Force:SNUF)クンサーが初めて結成した反社会主義統一軍(Anti-Socialist United Army:ASUA)、Sao Ngar Hkam別名U Gondaraという僧侶に率いられケントン(チャイントン)本拠地としていたシャン民族軍(Shan National Army:SNA)など様々な勢力が乱立した。これらの組織は国軍と戦うと同時に内ゲバも激しく、資金作りのために麻薬生産・密売に手を出すグループも現れ、これもまた内ゲバを激しくするという悪循環が生まれた。1963年6月、政府が各民族の反乱軍のリーダーたちを集めてヤンゴンで開いた和平会談にシャン州からはSNUFとSSIAが出席したが、あえなく決裂1964年、ようやくツァオ・シュエ・ナーン・フーンカムが主導してコーカン当主家の振声 (ジミー・ヤン)が率いるコーカン革命軍(Kokang Revolutionary Force:KRF)とSNUFSSIAを統合してシャン州軍(SSA)を結成した。

ツァオ・ツァン・ヨーウェ

他のグループが麻薬に手を出す中、SSAは自らは麻薬生産・密売には手を出さず(後年ツァオ・シュエ・ナーン・フーンカムはアヘン中毒に陥る住民の増加を問題視してその対策に乗り出している、ケシ栽培者、購入者、麻薬をタイ国境にまで運ぶキャラバンに課税することを資金源としたが、慢性的な資金難に悩まされシャン族の武装勢力を統一するという悲願は果たせないままだった。しかし国軍がビルマ共産党(CPB)と麻薬組織の掃討に躍起だったため、ほとんど国軍と戦闘を交えることはなく、シュエ・ナーン・フーンカムの息子・ツァオ・ツァン・ヨーウェ(Chao Tzang Yawnghwe)を理論的支柱として、教育、インフラ整備、地域社会作りといった組織改革に勤しみ、シャン州でもっとも統制の取れた組織という評価を得るまでになった。1971年には政治部門のシャン州進歩党(SSPP)結成。しかし内情はKKYやCPBへの対応を巡って内紛が絶えず、1969年にはモーヘンの派閥がSSAから脱退してシャン統一革命軍(Shan United Revolutionary Army:SURA)を結成。彼らはウィエンヘーンを本拠地とし、中国国民党と同盟を組んで麻薬生産・密売を始めた1973年にKKYが廃止されるると、KKYの特権を享受していた麻薬王・ロー・シンハンとの間に悲願の統一組織結成の話が持ち上がったが、彼が政府に逮捕されたことによりこの話は流れ、SSPP/SSAは大打撃を受けた。また欧米諸国からの道徳的支援を得ることに期待を寄せていたが、それにも失敗した。結局、1974年、組織内CPBシンパが実権を握って、CPBから兵器提供を受け入れることが決まり、1976年、シャン州民族人民解放機構(Shan State Nationalities People’s Liberation Organization:SSNPLO)結成され、翌年、ツァオ・ツァン・ヨーウェ以下SSAの旧幹部たちはタイへ亡命した。ツァオ・ツァン・ヨーウェはその後カナダに移住して、当地で学者となり、2004年に死去した。

シャン州軍北部(SSA-N)

CPBと同盟を組んだSSNPLOは、一時期、シャン州の支配地域を拡大していったが、1985年に結成されたクンサーのモン・タイ軍(MTA)にシャン州南部を奪われた。1989年のCPB崩壊後はCPBから分裂したワ州連合軍(UWSA)に接近、同年、政府と停戦合意を結んだ。さらにSSNPLO改めSSPPは、1995年、MTAから離脱したシャン州民族軍(Shan State National Army:SSNAと同盟を組んで、シャン州和平委員会を結成し、MTAに打撃を与えた。

1996年にクンサーが政府に投降したことによりMTAは崩壊、シャン統一革命軍(SURA)を結成した。RCSSはSSPPとSSNAと結集して統一組織を作ろうとしたが上手くいかず、そしてこのシャン州の混乱に乗じ、1997年、国軍はシャン州の各武装勢力にフォー・カット作戦を仕かけ、SSNAは壊滅、SSPPは支配地位の大半を失い、2000以上の村が破壊され、30万人以の人々が国内避難民またはタイへ逃れた。1999年、SURAはシャン州復興評議会 (Restoration Council of Shan State改称して、SURAはその軍事部門となり、この頃からRCSSの軍事部門をシャン州軍南部(SSA-N)、シャン州進歩党(SSPP)の軍事部門をシャン州軍北部(SSA-N)と呼ぶようになった。

2008年、新憲法が制定されると、政府は、憲法20条第1項「国軍は強固で時代に即した唯一の愛国軍である」にもとづいて、従前の停戦合意を一方的に破棄し、あらためて各少数民族武装勢力に対して国軍傘下の国境警備隊(BGF)に編入するように要求してき(後に放棄)、SSPPは2012年1月28日に停戦合意を結んだが、2015年の全国停戦合意(NCA)には署名しなかった。

停戦合意を結んだことにより、SSPPは政府から絶えず武力放棄かBGFへの編入を迫られ、組織は分裂。結局、2つの旅団が政府に帰順して民兵に移行し、SSPPには1つの旅団しか残らず、主要拠点は本部のあるワンハイのキェティ県だけになった。2015年には国軍の激しい攻撃を受けたが、なんとか本部は守りきった。しかし弱体化したSSPPを見限って、RCSSに鞍替えした兵士も多かった。そしてSSPPの弱体化を見て取ったRCSSはSSPPの支配地域を脅かすようになり、両者の間で衝突が生じ、SSPPとの関係が深いタアン民族解放軍(TNLA)も加わって、紛争は激化していった。かつての盟友であるRCSSとSSPPとの対立は、政府の分断工作があったという見解もある。

クーデター後の2022年4月、SSPPと盟友関係にあるUWSAが約20年ぶりにRCSSを攻撃、RCSSはタイ国境地帯への退却を余儀なくされ、2015年以降に獲得したシャン州北部の支配地域のほとんどを失い、SSPPは領土を回復した。