ミャンマー民族民主同盟軍

Myanmar National Democratic Alliance Army

中国人

ヤン・ウエン・ピン

楊家の支配

コーカンは、清に追われてきた明の諸王の一人・永暦帝に随行してきた人々の子孫と言われている人々で、れっきとした漢民族。ただしその後移住してきた漢民族もコーカン人を名乗っている。人口は約15万人。コーカンは世界で唯一、華僑としてではなく、少数民族として中国人が住む場所である。1897年、コーカンは清からイギリスに割譲されたが、ワと同じく僻地にあったためイギリスの実効支配は及ばず、代々ミョーサ(Myosa)と呼ばれた酋長の楊家によって治められてきた。楊家内の後継者争いも熾烈なものだったが、その度に楊家は英植民地政府に仲裁を願い出て問題解決を図った。

1942年、日本軍がミャンマーを占領すると、楊家当主・ヤン・ウエン・ピン(Yang Wen Pin)は、当時中国国民党が支配していた中国に支援を求め、その軍事支援を受けることの引き換えに、中国への領土回復を希望する意思を表明。そして中国国民党の支援を受けて1942年、コーカン(抗日)防衛軍(Kokang (Anti-Japanese) Defence Force:KDF)を設立し日本軍と戦い、戦後、大英帝国勲章を授与された。

1948年、ミャンマー連邦が独立するとすぐに、ビルマ共産党(CPB)カレン族などの反乱が発生し、ミャンマーは内戦状態になった。1950年代に入ると中国共産党に破れた中国国民党がシャン州に雪崩れこんできたが、既に中国国民党と提携していたコーカンはこれと共闘。麻薬生産を拡大するのみならず、コーカンに軍事訓練学校を作り、そこから後にミャンマー最初の麻薬王と言われるロー・シンハンやミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)を結成する彭家声(ペン・ジアシェン)らが育った。

コーカンでケシ栽培が本格的に始まったのは、イギリスがミャンマーを植民地化した1892年頃、雲南省から移住してきた中国人によってだったが、次第にシャン族の農民たちも貧困を理由にケシ栽培に手を染めるようになり、そして①大陸奪還の夢が潰た中国国民党の規律が乱れ軍閥化したこと(1960年にタイに撤退)後述するように政府がKKY政策を導入したことネウィンの統制経済下で闇経済が拡がったことなどにより、シャン州アヘンの生産量は爆発的に増加。1974年頃にはシャン州含むタイ、ラオス一帯は世界のアヘン生産の3分の1を占めるに至り、ゴールデン・トライアングルと呼ばれるアフガニスタンに次世界第2位のアヘンの一大生産地となった。

楊敬熙

こので一番の有名人が、”オリーブ・ヤン”こと楊敬熙である。幼少の頃から楊家の女性として跡継ぎを産むことを期待され、ラショーの修道院学校に入れられ大事に育てられたが、生粋の同性愛者であり、反骨心が強い彼女は、自分の運命に抗ってやがて麻薬商人として名を馳せるようになった。1000人以上の部下を従え、ラバによるキャラバンでシャン州・タイの国境まで麻薬を運んだり、CIAの依頼を受けて中国国民党軍のためにタイまで兵器を受け取りにいったこともあったのだという。ちなみにロー・シンハン彼女の部下だった。また彼女は有名女優など数々の”女性”と浮名を流し、タブロイド紙の格好のネタになった。当時の彼女のあだ名は”毛深い足”……ただバーティル・リントナーによれば、これらの話ははなはだ誇張が過ぎ、実際の彼女の名声は、ラバではなくトラックで麻薬をタイ国境まで運んだ最初の人物ということに尽きるのだいう。また当時から実際のリーダーはロー・シンハンだったという説もある。

エドワード・ヤン

1959ネウィン選挙管理政府が、シャン州・カレンニー州の土侯の伝統的世襲特権の廃止。ただ政府に従順な土侯はそのまま地方評議会の権力を握り、各種の利権も保持できたので、これは一種の分断工作であり、多くの土侯が政府に帰順し、シャン州の権力者層の足並みは乱れた。そんな中、楊家当主・エドワード・ヤン帰順の道を選んだが、妹のオリーブ・ヤンはこれに反発して兄妹中は険悪になったが、1962年にクーデターが起きると2人とも逮捕された。

1964年、オリーブ・ヤンのもう1人の兄・ジミー・ヤンがコーカン革命軍(Kokang Revolutionary Force:KRF)を結成。同年、シャン州独立軍(SSIA)、シャン民族統一戦線(Shan National United Force:SNUF)と合併してシャン州軍(SSAとなったが、ジミー・ヤンはすぐに脱退。その後、中国やタイ国境に逃れていた中国国民党との連携を模索したが上手くいかなかった。

ロー・シンハン

麻薬王・ロー・シンハン

その前年の1963年、シャン州反乱鎮圧に手こずっていたネウィンは、KKYカ・キュイエ《Ka Kwe Ye》:「防衛」という意味)という制度を導入した。これは反乱軍と戦うことの見返りにシャン州内の政府管理のすべての道路と町をアヘン密輸のために使用する権利が与えるもので、麻薬取引でKKYが経済的に自立しつつ、反政府武装勢力と戦うことを政府は期待していた。ロー・シンハンはKKY司令官となって政府と協力する道を選んでジミー・ヤンを追放CPBがシャン州で勢力を拡大すると、ロー・シンハンこれと戦う国軍を支援し、やがてネウィンの全面的信頼を得て、このあたり一帯の麻薬生産・密売の独占的認可権を得た。ロー・シンハンの支配地域で採れたアヘンは各地の精製工場に運ばれた後、さらにタイ国境地帯にある精製工場に運ばれて純度の高いものに加工され、その後、タイから世界中の麻薬市場へ密輸されていった。アヘンを運ぶキャラバンには、当時ミャンマー最強と呼ばれたロー・シンハンの約3000人の私兵隊が警護につき、国軍や警察でも手出しできなかったのだという。

しかし、KKY司令官の力が強くなりすぎて制御不能になったことや彼らが麻薬を安全に運ぶためにむしろ反乱軍と協力することが多く、意図していたような成果を上げられなかったことから1973年にKKY制度廃止。するとロー・シンハンは政府を裏切ってシャン州軍(SSA)と同盟を組み、SSAは麻薬をすべてアメリカ政府に売ると約束すれば、彼を保護することに同意。当時当地に滞在していたイギリスのドキュメンタリー映画監督・エイドリアン・コーウェルが提案書の作成し、バンコクのアメリカ大使館に届けようとししたが、その矢先にロー・シンハンはタイ警察に逮捕され、ミャンマーに身柄を引き渡され、国家反逆罪の罪で死刑の判決を受けた。麻薬密売・取引については政府が黙認していたので、その罪では処罰できず、SSAと同盟を組んだことが罪に問われたというわけだ。

しかしロー・シンハンは1980年の恩赦で釈放され、再びKKYと似た密約を政府と結び、200万ksという当時の大金を与えられ、ラーショーの南東にサルウィン村(Salween Village)と呼ばれる軍事キャンプを建設し、また麻薬密売・取引を始めた。1990年代に少数民族武装勢力との和平調停が活発化すると、その豊富な人脈を生かして責任者のキンニュンの下で密使として活躍。1992年には巨大企業コングロマリット・アジアワールドを設立し、息子のスティーブン・ローを会長に据えた。アジアワールドは政府と蜜月関係を築き、港湾・ハイウェイ・空港などの国家プロジェクトを請け負って巨大化していった。ちなみにネピドーの建設もアジアワールドによるものである。かくしてロー親子はミャンマー屈指の大富豪に成り上がったが、同時にアジアワールドは麻薬生産・密売で得た利益のマネーロンダリングの役割を果たしているとも指摘されている。ロー・シンハンは2013年ヤンゴンで亡くなった。

彭家声

ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)

話をジミー・ヤンがロー・シンハンによって追放された頃に戻す。主の追放を受け、楊振声の部下2名が、1967年支援を求めて中国に渡り、当時中国に亡命していたCPB関係者に紹介された。翌年1月1日、CPBの部隊がシャン州北部のメンコーに入り、5日後、コーカンを制圧。以後、コーカンを支配下に置いた。

1970年代後半に入、中国共産党CPBへの支援を打ち切る方針を打ち出す、突如資金難に陥ったCPBのワ族、コーカン族の下級士官が麻薬生産・密売に手を染め始めた。その中の一人が前述した彭家声で、彼はCPB支配地域にヘロイン精製所を建設して、手広く麻薬生産・密売を始めた。

そしてCPBは徐々に国軍に追い込まれていき、1989年ワ族、コーカン族の下級兵士たちの反乱により崩壊、ワ州連合軍(UWSA)ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)民族民主同盟軍(NDAA)新民主軍カチン派(NDA-K)に分裂した。

コーカンは高度な自治権と引き換えに政府と停戦合意を結んでシャン州第1特別区となり、彭家声がその特別区の代表者(肩書は首席)となって、配下の兵士をMNDAAに再編した。迅迅速に停戦合意が結ばれた背景には、前年ミャンマーの都市部で大規模な民主化運動が発生し、中国・タイ・インドの国境地帯に逃れた学生・労働者と少数民族武装勢力との間で同盟を組む動きが見られたため、これを事前に寸断する意図があった。ちなみにこの際、後に首相となるキンニュンに抜擢されCPBの残党との交渉に当たったのが、楊敬熙、ロー・シンハン、アウン・ジー(Aung Gyiミャンマー国軍元将校で、1988年の際にはネウィン宛に書簡を書き、NLD創設者の1人となった)である

以後、コーカンは政府から優先的な開発援助を受け、中国国境の町として繁栄していくが、それまでにも紆余曲折があり、1992年11月、彭家声の副官・楊茂良が自軍兵士2000人とUWSAから提供された1000人以上の兵士を率いて、彭家声に対して反乱を起こし、翌年、彭家声は中国亡命した。その後、楊茂がコーカン特別区の首席に就任、白所成と魏朝廉を軍の要職に任命したが、1995年8月、コーカン特別区の元モンコー県知事だったモンサラがコーカン特別区とMNDAAからの脱退を宣言して、モンコー民族保安軍政委員会を設立。今度は楊茂良のこれ以上の勢力拡大を恐れたUWSA、彭家声代わってMNDAAを率いていた弟の彭家富に協力してこれを掃討し、慌てた楊茂良は権力を政府に返上し、再び彭家声がコーカンの権力を掌中に収めた

またミャンマー政府との密月関係も長くは続かなかった。

彭家声が再びコーカンの権力の座についた1995年頃から、政府は麻薬撲滅を掲げて、本格的にコーカン自治区のケシの栽培を禁止し始め、2004年頃にはほぼ完全にこれを撲滅した。しかし、突然、生計手段を失った住民は経済的に困窮。餓死者を出すまでに至り、麻薬撲滅運動が行われていなかったワ地区に逃れ、ケシ栽培を続ける住民も大量に発生した。当然、彭家声は激しく憤った。

白所成

ミャンマー政府の実質支配下へ

2008年憲法20条第1項で「国軍は強固で時代に即した唯一の愛国軍である」と定められたが、政府はこの条項にもとづいて従前の停戦合意を一方的に破棄し、あらためて少数民族武装勢力に対して国軍傘下のBGFに編入するように要求した。MNDAAはこれを巡って内部分裂が生じ混乱していたが、そんな折、2009年8月8日、ミャンマー警察がコーカン自治区内の銃器修理工場を麻薬製造拠点の疑いで捜査したことをきっかけに、MNDAAとの間で武力衝突が発生し、戦火はコーカン特別区全域に拡大した。戦闘は2週間続き、3万人の避難民が中国側へ避難彭家声は娘婿がリーダーを務めるNDAA第4特区(マインラー)に逃亡した。この混乱の最中、MNDAAも親政府派と反政府派に分裂。政府はこれに乗じて副主席の白所成や地区幹部の明学昌を抱きんで降伏させ、MNDAAの残党400名をBGFに編入した。コーカン特別区は特別行政区名を変え国軍直接支配下となり、白所成を中心とした傀儡体制が築かれた。

しばらくMNDAAの裏切り者となった白所成を狙うテロ事件が頻発したが、やがてそれも収まり、中国からの投資も増大して、コーカンは国境沿いの一大商業地・交易地として”次のマカオ”と言われるほどの発展を遂げていった。同時に白所成とその親族も関わっているとされる麻薬、売春、違法賭博、オンライン詐欺、マネーロンダリングなどの犯罪の温床となり、本土中国人の被害者が多数出るに及んで、中国警察が取り締まりに本腰を入れたが、コーカンは政府にとって重要な戦略的拠点だったためその難を逃れ、変わらず犯罪都市として栄えた。

が、2015年、彭家声の息子・彭徳仁が新たなリーダーとなり、カチン独立軍(KIAやNDAK の支援を受け捲土重来を図っていたMNDAAが決起、ラオカイ、パーセンチョー、シンタンを一時占拠した。アラカン軍(AA)タアン民族解放軍(TNLA)も戦闘に参加していた。またUWSAはMNDAAに武器と弾薬を供給していたとされ、これはUWSAに兵器を供給している中国の暗黙の了解があったことを示唆するものである。戦闘は激しさを増し、45万人の避難民が中国側へ避難。さらに国軍の砲撃が中国雲南省に着弾して死傷者が出る事態となった。結局、戦闘は4ヶ月後国軍側優位で終息。MNDAAはコーカン北部のハナイ(Honai)、モンコーに拠点を移して国軍相手にゲリラ活動を続けた。

1027作戦

2023年10月27日、アラカン軍(AA)ミャンマー民族民主同盟(MNDAA)タアン民族解放軍(TNLA)からなる3兄弟同盟が、シャン州北東部の中国・雲南省との国境に近い国軍の軍事拠点を一斉攻撃した(1027作戦)。この作戦の背景については福島香織氏の「ミャンマー北部で展開された『1027オペレーション』の裏側を読む」あたりを読んでいただきたいが、簡単に言えば、国軍の傀儡政権が支配していたコーカン自治区で、主に中国人を標的にしていたオンライン詐欺が盛んに行われており、大陸の中国人がカモにされていると同時に、多くの中国人が拉致されて件の業務に強制的に従事させられており、以前から中国は国軍に取り締まりを求めていたが、国軍が真剣に取り組まないことに業を煮やしていた。そこに中国との関係が深いワ州連合軍(UWSA)が主導する連邦政治交渉協議委員会( FPNCC)のメンバーでもあり、同じく中国の影響下にある3兄弟同盟が、「自分たちがコーカン自治区のオンライン詐欺を撲滅するので、国軍への攻撃を黙認してほしい」と持ちかけ、これに中国が応じ、作戦発動と相なったということである。戦闘は年明けまで続き、1月5日、3兄弟同盟がコーカン自治区の首都・ラオカイを陥落させ、1月12日、中国の仲介で国軍と3兄弟同盟が停戦合意を結ぶに及び、同盟側の勝利で一応の決着を見た。