全ビルマ学生民主戦線

All Burma Students' Democratic Front

・活動時期:1988

・活動場所:カチン独立軍(KIO)やカレン民族解放軍(KNLA)と連携

・主義主張:民主主義、連邦主義

・兵力:400

ミャンマーの連合赤軍

1988年民主化運動の後、タイ国境のカレン民族同盟(KNU)の拠点・ワンカーでタイ、中国、バングラデシュに逃れた学生たちが集結して1988年9月1日に結成。当時は4800人のメンバーと5、600人の戦闘員を擁した。同年、少数民族武装勢力とビルマ族民主派の連帯組織・ビルマ民主同盟(DAB)が結成されると、それにも参加した。

しかし1989年から1990年代初頭にかけてKNLAに傭兵として参加し、ABSDFの学生たちに軍事教練を施したカレン民族解放軍のなかでの著者・西山孝純氏によれば彼らのほとんどが運動経験がないためランニングや腕立て伏せもできず、空手他格闘技も習得できず、地雷取り扱いの訓練には欠席者続出、一日中茶屋に入り浸っている者多数という体たらく。それだけでなく、当時のミャンマーでは大学生は超少数のエリートだったため、彼らは自分たちのほうが少数民族武装勢力の人々より優秀と信じこみ、それなのに少数民族問題に興味を持とうとせず、派閥を作り、被害者意識が強すぎ、自己アピールが強すぎたとかなり苦言を呈している。

ABSDFは主にKNLAと共闘。1991年にはスーチーのノーベル平和賞授賞直前に、約300人のKNLAとの連合軍がヤンゴン管区のトゥワンテ郡区に出没して国軍を撹乱させたこともあったが、この共闘はさほど成果を上げられず、1994年1月、KNLAがABSDF幹部を拘束したことにより共闘は解消された。そして武装闘争路線を捨てなかったために欧米のNGO等からの支援を受け取れなかったABSDFは次第に窮乏。内紛も激化してい、衰退していった。その後、多くのメンバーが政府に帰順したり、タイ、ヨーロッパ、アメリカなどに移住した。

ABSDFは2013年8月5日、政府と停戦合意を結び、2015年10月15日、全国停戦合意(NCA)にも署名した。

「私はタイとの国境のミャンマー側にあるレジスタンス・キャンプを何度か訪れ、中国雲南省のマンシーとルイリにも行き、カチン州を拠点とする活動家たちに会った。率直に言って、勇気づけられる光景ではなかった。自分たちの信じるもののためにすべてを投げ出して闘うABSDFの若い活動家たちの誠実さを疑う理由はなかった。しかし、閃光と徽章で飾られた軍服を身にまとい、番号のついた軍隊単位で組織を構成する彼らの姿は、ジャングルに覆われた辺境地帯で戦う他の武装集団と何ら変わりがなかった。そして、それは長くは続かなかった。ABSDFはすぐに対立する派閥に分裂し、一時はABSDFが2つ存在したほどであった。カチン州の活動家たちは互いに敵対し、あるグループは別のグループを政府の工作員だと非難し、悲惨な虐殺で彼らを殺害した。DABは、いくつかの民族武装グループが軍と停戦協定を結んだことで崩壊した。NCGUBは頭字語以上のものにはならなかった」(バーティル・リントナー)(出典

またABSDFでは1991年から1992年にかけて、軍資金を巡るABDSF北軍委員長・トゥンアウンチョー(Htun Aung Kyaw:元全ビルマ学生連盟ABSFUの副議長)と副委員長・アウンナイン(Aung Naing)のグループの派閥争いを発端に、スパイの嫌疑をかけられたトゥンアウンチョー以下15人のメンバーが拷問、強姦の末、銃殺または斬首により処刑されるという事件があった。まさにミャンマー版連合赤軍リンチ事件である。

トゥンアウンチョー

「最終的に首を切り落とされるまでの残酷な拷問には、内腿に赤熱した平たい鉄の棒で何度も焼き印を押されたり、裸の腹に溶けたタールを垂らされたり、赤熱した火かき棒を肛門に入れられたり、切り落とされた仲間の首から滴り落ちる血を飲まされたり、切り落とされた仲間の手を無理やり咥えさせられたりした。長時間の拷問はあまりに厳しく、やがて彼は歩けなくなった。彼はブロックの上に頭を置くことを強要され、ミオ・ウィンは頭を切り落とそうとしたが、首は完全には落ちず、彼の体は思わず立ち上がった。結局、ミオ・ウィンはシャベルの背で彼の頭を叩き、とどめを刺した」(トゥンアウンチョーが殺害された時の状況)

「彼女はで告発されたスパイの一人である恋人の死体でフェラチオをさせられた。 全裸にされた彼女は、頭を除いて地面に生き埋めにされ、大きなナイフが彼女の口に差し込まれ、唇と舌の大部分を切るように振り回された。彼女の体は地面から引き抜かれ、収容所の固い地面の上を裸で引きずられた。 そして、KIAとABSDFのトップリーダーを暗殺するために使われる毒薬の入った瓶が隠されていると難癖をつけられ、竹製の手刀で膣の奥深くを突かれた。学生30数人に集団レイプされた後、キャンプ場の外にある首切りブロックまで引きずり込まれた彼女が泣きながら首をはねないように懇願すると、タン・ギャヌンはピストルで彼女を何発も撃ち殺した。 亡くなった時、彼女は全裸で女性器から竹の棒が突き出たままだった」唯一の女性犠牲者が殺害された時の状況)

アウンナイン

虐殺の首謀者であるアウンナインは、2002年にハーバード大学のケネディ行政大学院で学ぶための奨学金を授与されたが、ABSDFのメンバーが送った抗議文により大学当局が事件を知るに及び、奨学金は取り消された。また2008年、BBCビルマ語番組が、アウンナインにロンドン・スタジオでの常任職をオファーしたが、この際もABSDFのメンバーが猛抗議して取りやめとなった。彼は現在タイ国境にある開発と民主主義のためのネットワーク(NDD)というグループの事務局長を務め、反政府活動に従事している。

連合赤軍事件は民主主義の足りなさ故に起きたのではない。民主主義を愚直に信じ、民主主義の実現をひたむきに目指したが故に起きたのである呉智英