チン民族軍

Chin National Army

・活動時期:1988~

・活動場所:チン州

・本部:キャンプ・ビクトリア

・宗教:キリスト教

・主義主張:チン民族主義、連邦主義

・兵力:1500

チン民族戦線Chin National Front)の軍事部門

弱小勢力の悲哀

プコンビック

前史

カチン州やシャン州と同じく、チン州も隔絶された辺境の地であり、外部からの干渉をほとんど受けず、世襲酋長制度の下で統治されていた。チン族の人口は約60万人、少なくとも6つの部族があり、その下に63の下位部族があって、お互いに意思疎通不可能な20の方言がある。ちなみに彼らの言う「チンランド」とはチン州だけではなく、インド北東部のミゾラム州、マニプール州、バングラデシュの一部を含む概念である。ただし「チン」というのは英植民地時代に植民地政府が広めた名前で、元々の自称は「ゾ」だった。「ゾミ」というのは「ゾ族」という意味である。

1872年~79年にかけてイギリスの侵攻を受け、プコンビック(Pu Con Bik)という酋長の下、各部族一致団結して戦ったが、結局、破れ去った。イギリスに占領されると、チンランドはベンガル総督が統治する南西部、アッサム総督が統治する北西部、ビルマ総督が統治する東部に3分割された。ただこれもカチン州やシャン州と同じく、イギリスはチン州を間接統治するに留め、チン族の伝統的な首長の地位は維持された。また1899年以来の欧米人宣教師の布教活動により、キリスト教に改宗する者も増加し、今ではチン族の90%がキリスト教徒である。比較的親英的なチン族だったが、英植民地時代には、1928年にチンヒルズ組合機構(Chin Hills Union Organization:CHUO)、1930年にチンヒルズ統一党(Chin Hills Unity Party:CHUP)、1933年にチン民族同盟(The Chin National Union:CNU )などが結成され、独立運動が展開された。

1947年チンで開催された日本軍からの解放を祝うビルマ族・チン族の友好会議にて

第二次世界大戦が始まると、チン族は連合国軍側にき、チン指導者自由同盟(Chin Leaders’ Freedom League:CLFL)スクテ独立軍(The Sukte Independence Army:SIA)などの武装組織を結成して日本軍やビルマ独立義勇軍(BIA)と戦ったが、BIAを再編したビルマ国民軍(BNA)が日本軍を裏切ると、ともに連合軍に付いて日本軍と戦った。戦後、独立熱が高まると、チン族もカチン族、シャン族とともに1946、1947年のパンロン会議に参加して協定を結んだ。しかし同年制定された憲法では州の設置を認められたカチン族、シャン族、カレンニー族と違い、チン特別管区の設置を認められただけだった(1974年憲法で州に格上げ)。またチン族の居住地がミャンマーのチン州とインドのミゾラム州に分断されたことも不満の種になった。

プヴムトゥマウン

マントゥンヌン

チン特別管区の初代大臣となったのは、英植民地時代にCHUPを率いて独立運動をしていたプヴムトゥマウン(Pu Vum Tu Maung)。不満はあったもののパンロン会議で多少の譲歩があったことを恩義に感じてか、独立直後のCPB他各武装勢力の反乱の際には、チン族は国軍の一員として反政府武装勢力を抑える側に回った。1948年、マントゥンヌン大尉はチン人民自由連盟(Chin People’s Freedom League:CPFL)結成し、ネウィン選挙管理政府が1959年に実施したのに先駆けること10年余、チンの伝統的世襲酋長制度を廃止した。廃止が決定された1948年2月20日チン民族記念日となり、全土から5000人以上のチン族の人々がファラム県に集まり、盛大に祝われたのだという。

1962年ネウィンがクーデターを起こし軍事独裁政権が成立すると、多くのチン族の政治家や知識人も逮捕され、これを機に比較的政府に協力的だったチンでも反政府武装闘争が発生した1964年にチン民族機構(Chin National Organisation:CNO)反共自由機構(Anti-communist Freedom Organization:AFO)1969年に国会民主党(The Parliament Democracy Party:PDP)(後にチン民主党《Chin t Democracy Party:CDP》)、チン解放戦線(Chin Liberation Front:CLFなど様々な組織が結成されたが、他の地域と違って大きな勢力とはならなかった。1977年にはカレン民族解放軍(KNLA)での軍事訓練と戦闘を終えたアラカン解放軍(ALA)と合流したウィリアム大佐率いるチン解放軍Chin Liberation Army:CLA)が、国軍の攻撃にあって全滅するという悲劇もあった。

チン民族軍(CNA)

1988年、ヤンゴンで大規模なデモが発生すると、政府は高校と大学を閉鎖し、少数民族の学生を故郷に戻したが、彼らは故郷で率先してデモ隊を組織した。チン州も同様で、帰郷したチン族の学生たちはデモ隊を組織。住民が警察署を取り囲んで逮捕された学生リーダーを釈放させたり、デモ隊が官公庁を占拠したりと盛り上がりを見せたが、結局、政府が軍隊を差し向けたことによりデモは鎮圧された。

しかし一部のチン族の民族指導者と学生たちは、当局の弾圧を避けてインドのミゾラム州に逃れ、その地でチン民族戦線(CNF)/チン民族軍(CNA)を結成。さらに少数民族武装勢力の連帯組織民族民主戦線(National Democratic Front)少数民族武装勢力と1988年民主化運動の学生組織の連帯組織ビルマ民主同盟(Democratic Alliance of Burma)にも参加した。しかし結成当初からファラム県出身のチン族とハカ県出身のチン族との間に確執があり、ファラム・チン族のメンバーの脱退が相次いだ。脱退したファラム・チン族のメンバーはチン統合軍(CIA)、チン解放評議会(CLC)、チン民族連合(CNC)チン民族同盟(CNC)などの政治組織を結成したが、現在はほとんど活動していない。

以上のような経緯より、CNFは勢力を拡大できず、国軍への抵抗も散発的で小規模な銃撃戦に留まっており、特にファラム県の住民からの支持を得られずにいる。2012年1月6日には政府と停戦合意を結んだ。

クーデター後

2021年クーデター以降、CNFはNUGと正式に協力関係を結び、率先して多数のPDFを養成。チン州の反政府勢力を結集した暫定チン民族諮問評議会(The Interim Chin National Consultative Council:ICNCC)を設立した。その後、チン民族防衛軍(Chin National Defence Force:CNDF)チン防衛軍(Chin Defence Force:CDF)などの有力PDF組織を生んだが、弱小勢力ゆえ、その統率に四苦八苦しておりチン州・サガイン管区が激戦地帯になる一因となっている。また殺人、強盗、強姦などPDFによる凶悪犯罪も多数報告されている。

2022年3月にはCNFの本拠地のカンペレッが陥落。同年4月CNFはICNCCを脱退し、チン諮問会議作業委員会(The Working Committee for Chinland Council Conference:WCCCC )を設立した。

2023年12月には、CNFは、軍政が支配する州政府に代わる行政機構としてチン評議会(The Chinland Council)を設立したが、これを不服とするCNDF、CDFなどはチン兄弟同盟(Chin Brotherhood Alliance)を設立。両者は領土をめぐって対立を深めている。