ミャンマー国軍(6)

2010年代~

スーチー独裁

ミャンマー国軍(5)

そして2015年11月18日に実施された総選挙でスーチー率いるNLDは、国政選挙で約80%の議席、地方選挙で4分の3の議席を獲得して圧勝した。USDPはともに惨敗。ただ完全小選挙区制なので議席数にこそ差はついたものの、国政選挙の得票率はNLDが約60%、USDPが約30%と、ここでもNLDが高い数字を誇ってはいたとはいえ、USDPも国民の3分の1の支持を受けており、決して無視できる数字はなかった。

NLD関係者・支持者が恐れたのは選挙結果を反故にした1990年選挙の再来だったが、12月15日のスーチーとの会談後、タンシュエが「彼女が将来の国のリーダーになることは間違いない」 と述べ、スムーズな政権委譲が確約された。ちなみにタンシュエは2010年3月27日、SPCD支配下最後の国軍の日の記念式典で「われわれ(軍)は必要とあればいつでも国政に関わる」「選挙に参加する政党は、民主主義が成熟するまで自制、節度を示すべきだ」「外国からの影響力に頼ることは絶対に避けねばならない」と述べており、おそらくスーチーに「チャンスをやる」という心境だったに違いない。

NLD政権は21人全員男性で、平均年齢は当時のスーチーの年齢の71歳を超えていた。論功行賞的な人事は避けられ、学者、医師、エンジニアなど多数の民間人が登用されたが、その多くが修士号・博士号持ちの学歴重視。ただ管区・州知事にはNLDの古参幹部が多数選ばれた。大統領に選ばれたのはティンチョー(Htin Kyaw)というスーチーの高校の1年後輩で、高名な詩人を父に持ち、ロンドン大学でコンピューター・サイエンスをの学位を取り、財務官僚として働いたことがあり、当時はスーチーの母・ドーキンチーの名前を冠した財団の幹部だった。人望は厚かったが、NLDの幹部でもなく、2015年の選挙にも出馬しておらず、国民の間ではほとんど無名だった。また突然巨大与党となったNLD議員のほとんどが政治の素人で、なんの準備もしておらず、政策も戦略も欠けていた。スーチーを取材したことのある共同通信社の記者は、NLD政権の閣僚についてこう述べている。「彼らは専門分野のテクニカルな問題はよく知っていて話が弾むが、どう解決していくかといった全体を見渡すテーマになると黙ってしまう……政治家としての資質に欠ける。 自信がないので大きな方向性の問題はいきおいスーチーさんの顔色をうかがうことになる。否応なくスーチー独裁体制が形成されていく」。ちなみに政権発足直後、スーチーはNLD議員たちに箝口令を敷き、メディアの前で政策を語ることを禁止し、政治イベント等への出席も事前申請制とした。情報漏洩を防ぐためと言われていたが、もしかしたら彼らの無知がばれることも恐れていたのかもしれない。

いずれにしろ、数々の国軍の国政参加権により、ミャンマーの国体は国軍が国家の上に立つというものであり、NLD政権は国軍の掌の上に乗っているようなもので、慎重なハンドリングが求められたしかしスーチーは初っ端から国軍に喧嘩を売った。

新政権において、スーチーは外大臣、大統領府大臣、教育大臣、電力・エネルギー大臣などいくつもの大臣を兼任していたが、外国人の配偶者がいるせいで憲法の規定により大統領にはなれなかったーが、スーチーはここで国家顧問というポストを創設してその地位に就き、「大統領の上に立つ」と宣言するというウルトラCに出た。これは憲法の規定を完全に骨抜きにする行為であり、民主主義の女神のはずが民主主義を無視していると国内外から大きな批判を浴び、USDPの議員や軍人議員はもちろんこの案に反対したが、NLDが圧倒的多数を占める議会で賛成多数で可決した。ちなみにこの国家顧問創設の入れ知恵したのはNLDの法律顧問で、ムスリムのコーニーだったが、彼は2017年1月29日、ヤンゴン国際空港の玄関を出たところを射殺された。元陸軍少佐の犯行が疑われているが、現在も逃亡中で真相は不明。いずれにしろ国政を運営していくためには国軍の協力が不可欠なところ、スーチーはいきなり国軍に喧嘩を売ったのである。ちなみに国軍最高司令官・ミンアウンフラインは国防と治安問題を扱う国防治安評議会の開催を再三要求したが、国軍派が過半を占める会議の構成を嫌ってか、スーチーは1度もこれに応じず、ミンアウンフラインとは関係は冷えきっていった。

マウンマウンジィー(Maung Maung Gyi)というミャンマー人学者が「ネウィン将軍の権威主義的な政治スタイルは、ビルマ社会に組みこまれた、彼の統治パターンを支持する態度や価値観の膨大な蓄積を利用したに過ぎない」と述べているが、「ネウィン」を「スーチー」に置き換えてもまったく当てはまる、もしかしたらスーチーは、権威主義の1つであ哲人政治を目指していたのかもしれない。しかしそれは...

理想の政治というのは哲人政治なんです。これは共和制ということもあり得る。哲人の共和ということもあり得るわけで、哲人が哲人王なのか、複数の哲人なのか、という問題はあるけれど、とにかく哲人政治こそが必要である。そして、そこから先がさらに重要なんだけれど、哲人政治は決してあり得ない。呉智英

21世紀のパンロン会議の失敗

そんなスーチーだったが、ミャンマーの喫緊の課題は少数民族武装勢力との和解ということは理解していた。なによりミンアウンフラインかねてより「国軍はいずれ改憲に同意するが、それは国内の無数の武力紛争がなくなってからだ」と公言していたので、憲法を改正して自ら正式な大統領になるためには問題解決は不可欠だった。

しかしスーチーは少数民族武装勢力との和平交渉に入るにあたって、テインセイン政権下で獅子奮迅の活躍をしたミャンマー平和センター(MPC)を解散させ、代わりに国家顧問府直轄の自らを長とする国民和解平和センター(NRPC)を設立。そしてその実質的な交渉役に彼女の主治医のティンミョーウィンを任命した。彼は1988年民主化運動に関わった活動家で、自宅軟禁中のスーチーの連絡役であり、軍医の経験はあったが、政治経験は皆無だった。

医師で活動家だからそれなりに見識はあるのだろうが、しかし自分の主張だけすれば良い活動家と違って、政治の世界では価値観が違う相手との妥協が必要である。しかもMPCを解散したことにより、これまで培ってきた人脈は霧散、国軍との関係が悪化したことによりその協力も得られなかった。読書で人格や価値観を養ったスーチーは「見識があればできる」と考えてしまう性質だったのかもしれない。

結局、21世紀のパンロン会議は2020年までに計4回開催されたが、新モン州党(NMSP)ラフ民主連合(LDUという小さな組織が停戦合意を結んだだけで、さしたる成果を上げられなかった。

ロヒンギャ危機

ミャンマー最大の少数民族問題はロヒンギャである。スーチーは、2012年5月の反ムスリム暴動の際に「少数派への共感を持つべきだ」とで発言しただけで、Facebookで大炎上し、ロヒンギャ擁護と批判されて以降、ロヒンギャ問題について積極的な発言せず、国内外から批判を浴びていたが(彼女は自称の「ロヒンギャ」という言葉も蔑称の「ベンガリー」という言葉も使わず、「ラカイン州ムスリム」という言葉を使っていた)、この問題に本格的に取り組むべく、2016年8月、元国連事務総長・コフィ・アナンを長とするラカイン州諮問委員会を設置した。しかし同年10月19日、ラカイン州の複数箇所の警察署を何者かが襲撃し、警察官9名が殺害される事件が発生した。この時武装勢力は「ハルカ・アル・ヤキン」(信仰の運動)と名乗っており、サウジアラビア出身のムスリムがリーダーで、豊富な資金を持ち、外国で訓練を受けていたということしかわかっていなかった。民政移管後、ミャンマーにおけるムスリム排斥運動の高まりにより、海外のムスリム・コミュニティでは「ミャンマーに対してジハードを」という声が高まっていたが、それが姿を現した形だった。

そしてラカイン州諮問委員会が最終報告書を提出した翌日の2017年8月25日、ラカイン州で約5000人の兵士鉈や竹槍で武装化した住民を引き連れ、再び複数の警察署を襲撃し、数日間の戦闘で治安部隊に14人、公務員に1人、件の武装勢力に371人の死者が出る事件が発生した。武装勢力の正体は前年にも警察を襲撃したハルカ・アル・ヤキンで、今回はアラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)と名乗っていた。襲撃直後、政府はARSAをテロ組織に認定し、ティンチョー大統領は事件が起きたラカイン州北部を軍事作戦地域に指定して、軍事作戦の遂行を許可した。これを受けて国軍はロヒンギャ住民の殺害や村々の放火を伴う激烈な掃討作戦を展開、100万人ものロヒンギャ難民がバングラデシュに流出する事態を引き起こした。1978年と1991年のロヒンギャ危機の際の避難民が20~25万人程度だったことを考えれば、今回の流出劇の規模の大きさがわかろうというものだ。

この国軍の掃討作戦に対して、国際社会ではジェノサイドとの批判が高まったが、これを認めないスーチーに対する批判も高まり、ノーベル平和賞剥奪運動が巻き起こって、かつて彼女の勇気を称えたエズモンド・ツツ、マララ、U2のボノなどが絶交宣言し、アムネスティ・インターナショナルの良心の大使賞など数々の名誉が剥奪された。そして2019年11月11日、ミャンマーに対して起こされたジェノサイド規定違反のハーグ国際司法裁判所(ICJ)の場で、スーチーがあらためてジェノサイドを否定したことにより、彼女の国際的名声は完全に失墜した。

スーチーの国内人気はアイドル的なもので、熱狂的ファンがいる一方、アンチも多い(なお国軍派とは限らない)。しかし彼女の国際的人気はカリスマを超えた崇拝に近いものだった。著名な政治活動家、学者、外交官の中にはスーチーの写真を額縁に飾って置いていた者も数多くいたとう。エチオピアの野党・民主と正義のための統一党の党首・ビルトゥカン・ミデクサは、「アウンサンスーチーの精神」の書評の中で、「ドー・スーの崇拝者たちは、彼女を反体制派ではなく菩薩と呼んでいる」と書いている。2011年に公開されたリュック・ベッソン監督のスーチーの(良いところだけを繋いだ)伝記映画「The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛」でもそのような描き方だった。(ちなみにリュック・ベッソンは「ニキータ」「レオン」「ジャンヌ・ダルク」を観ればわかるとおり、戦う細身の美人が好き)。しかし、これはいくらなんでも1人の人間に重荷を負わせすぎというもので、アジア人に対する一種の差別意識と思わざるをえない。この点については「私は魔術師ではない」というスーチーの言葉に深く共感せざるをえない。

タンミンウーによれば、欧米リベラルは90年代は解決してしまったアパルトヘイトの代わりにスーチーに目を付け、00年代は自由民主主義の理想を世界に積極的に広め たいと考えるアメリカ・ネオコンに利用され、10年代は暴力の連鎖という惨憺たる結果に終わったアラブの春のリベンジに利用されたのだという。Burma: It Can't Waitというミャンマーの自由、民主主義、人権のためのキャンペーンの動画を見ると、いかにミャンマーが欧米リベラルの玩具になっていたかがわかる。この中の何人が今のミャンマーの状況に興味を持っているだろうか?

これらの要因は、彼女の非暴力不服従の抵抗精神もさることながら、その端正な容姿と品格のある態度にあったことは想像に難くない。彼女が父親似の容姿だったらミャンマーの歴史は変わっていたかもしれない

一方、ロヒンギャに対する差別意識の強い国民の間ではスーチーに対する支持はいっそう高まり、反ロヒンギャで国軍、スーチー、国民が一致団結するという奇妙な現象発生した。ミャンマー国民のロヒンギャに対する差別意識は国軍の洗脳によるものと主張する人もいるが、①独立前にもラカイン族とロヒンギャの対立は発生していたこと②国軍は長らく”国軍への帰依”で国民を洗脳してきたが、1990年、2015年、2020年の選挙で国軍系政党が大敗し、2021年クーデターの際には激烈な反国軍世論が巻き起こったことからして、国軍は明らかに洗脳に失敗しており、とすれば反ロヒンギャの洗脳だけ上手くっていると考えるのは無理筋だろう反ロヒンギャ感情はミャンマーの土壌から生まれ、国民の中に深く根を下ろしたものと考えるのが自然である

なおテインセイン政権成立からロヒンギャ危機までの過程はアジアドキュメンタリーズの「軍事国家ミャンマーの内幕」で垣間見ることができる。

ちなみにロヒンギャ危機に付随して、ロイター通信のミャンマー人記者が2人、国家機密法違反で懲役7年の刑に処せられた。事件の経緯からみれば警察にはめられたのは明らかで、国内外で批判が高まり、結局、2人は2019年5月に恩赦で釈放されたが、これに対するスーチーの態度は「判決は表現の自由とはまったく関係がなく、国家機密法に関係したものだ」「法の支配にもとづくならば、記者らには控訴し、判決の誤りを指摘する権利がある」と木で鼻をくくった態度に終始した。伝えるところによれば、スーチーは最後まで2人の釈放に反対していたのだという。来日中のスーチーにNHKの記者がロヒンギャ危機について質問した際、激怒して後で日本政府に苦情を入れてきたり、同じくロヒンギャ危機についてBBCのムスリム系女性キャスターに質問攻めにされた後、「イスラム教徒からインタビューを受けるなんて誰からも聞いていなかった」と側近に怒りをぶつけたり、スーチーが報道・表現の自由について本当に理解していたかはなはだ疑わしい。NLD政権下で表現の自由はますます拡大するものと思われたが、実はその逆で、2016年から2020年の間に表現の自由に関わる罪で起訴されたのは約1000人、そのうち8割が一般市民で、国軍が告訴したケースが52件であるのに対し、NLD政権が告訴したケースは251件に上った。かつてNLD弾圧に使われた電気通信法という法律を今度はNLDが反対者を取り締まるために使っていた。2018年、ヒューマン・ライツ・ウォッチは「へし折られた希望:ミャンマーにおける平和的な表現の自由の刑罰化」というレポートを発表して、NLD政権下でも変わらない報道の自由への弾圧の実態を明らかにした。

またスーチーはNLD政権への参加を楽しみにしていたNGO、市民運動家、政治亡命者をほとんど無視し、88年世代の同志・コーコージーには「88世代は森を切り開いた木こりで、その役割は終わった。私は皆さんの切り開いた道を歩む」と言い放った。側近は官僚、外交官、退役軍人など軍政時代に活躍した人々で固めていた。元来、彼女は保守的な価値観の持ち主で、ゆえに国軍とは相性が良いはずだったのだ。 愛と恐怖が団結して新しいミャンマーを築けるはずだったのである。

「活動家や若者の多くは『次は何か』『何が起きるか』『私たちに何ができるか』と考えている。現段階では、スー・チー女史は好き放題で、誰も干渉できない。市民団体の声に耳を傾けることもない」出典

少数民族の神経逆撫で

21世紀のパンロン会議の失敗、ロヒンギャ危機だけではなく、それ以外でもスーチーは少数民族への対処を誤り続けた。

この頃、ラカイン州ではでアラカン軍(AA)というラカイン族の武装勢力が、若いリーダーを擁し、ネットを活用して、ラカイン族の人々の間で大きな支持を得ていた。ちなみに先輩格のアラカン解放軍(ALA)は、ラカイン州内でほとんど武装闘争を行ったことがなかったので、ラカイン族の武装勢力が国軍と対等に張り合うのはこれが初めてで、その点もラカイン族の人々のナショナリズムを刺激したと思われる。

このAAに対してNLD政権は非常な強硬姿勢で臨んだ。2015年のラカイン州議会選挙でアラカン民族党(ANP)が過半数の議席を獲得したのにも関わらず、NLDは同州首相にNLD国会議員・ウ・ニープー(U Nyi Pu)を選んだ。またKIOの指揮下にあるとして21世紀のパンロン会議にAAを招待しなかった。2018年にはアラカン王国がビルマ軍の前に陥落した日を追悼するムラウク・ユーでの式典を直前になって当局が中止したため、ラカイン族の人々が激怒して暴動となり、警察隊が発砲して7人死亡、多数の負傷者を出す事件が発生した。さらにその前日には現職下院議員・エーマウンが、武装闘争によるラカイン族の主権回復を訴えたとして国家反逆罪の罪で逮捕され、他の民族主義者とともに懲役20年の刑を受けた(その後、事件当時行政長だった人物が殺害されたがAAの仕業と言われている)。2019年1月にはAAが国境ポイント4ヶ所を襲撃したことにより、国軍との間に激しい戦闘が発生。2020年11月に一時停戦するまに3万人以上の避難民が発生し、1000人近くの一般市民が死亡・負傷者したが、この間もNLDはAAをテロ組織に認定したり、国軍のラカイン州のインターネット遮断に協力したり、AAと戦っている国軍兵士たちにスーチーが感謝の意を表したりした。2020年の総選挙では治安悪化を理由にラカイン州での選挙を中止した。このようにスーチー以下NLDは、ラカイン族の人々の神経を逆撫ですることを繰り返し、その結果ラカイン族の人々のAA支持と反スーチー・NLD感情を高めてしまったのである。実際、2021年のクーデター後も、ラカイン州では例外的にPDF(国民防衛隊)が1つも生まれなかった。

他にも2017年に完成したモン州の州都モーラミャインと島を結ぶ橋に、NLDはアウンサン将軍橋と名づけて住民の大きな反発を呼、数万人規模のデモに発展したり(2021年2月のクーデター後、ミンアウンフラインが住民の意向を汲んでタルンウィン橋と改名した)、2019年にはチン州でアウンサン将軍像建設計画に住民が猛反発して計画を撤回に追い込まれたり、同年カレンニー州では、公園に設置されたアウンサン将軍像を取り囲んで撤去を求める住民に対して、警察がゴム弾と催涙弾を撃ちこんで多数の負傷者を出す事件が発生したりした。2020年にはアウンサンの肖像画を印刷した新紙幣が発行された。

これらはスーチーなりの国民統合政策だったのだろうが、少数民族の目にはアウンサンはあくまでもビルマ族の英雄であり、悪く言えば自民族に対する侵略者だった。ビルマ国民軍(BNA)がミャウンミャでカレン族を虐殺した時のBNAのリーダーはアウンサンであり、少数民族との和解の象徴と言われるパンロン会議も正式に招待されたのはカチン族、シャン族、チン族の代表団だけで、州の設置が認められたのはカチン州、シャン州、カレンニー州、チン特別管区だけ、他の民族の意向は無視された。パンロン会議の際、少数民族のあまりの反ビルマ族感情の強さに辟易したアウンサンは、途中で諦めてヤンゴンへの帰りの航空券を予約したという逸話も残っている。

いずれにしろスーチーのこうした態度は、結局、スーチーもNLDもビルマ族の利益を代表しているだけではないかという印象を少数民族の人々に与え、現在のNLDを母体とするNUGに対する不信感に繋がっていると言える。父親をあまりも崇拝するあまり、盲目になってしまったのだろうか?

内と外から国軍の利権構造破壊

21世紀のパンロン会議、ロヒンギャ危機といった派手なニュースに隠れていたが、実はスーチーは着々と国軍の利権構造の破壊を進めていた。

↑はクーデター後の2021年4月、読売新聞記者・深沢淳一氏が書いた記事である。ほとんど同じ内容のことが氏の著書「『不完全国家』ミャンマーの真実」にも書かれてある。これによると、スーチーはGADという地域住民の監視、土地の管理や徴税、住民登録、地域の苦情処理という業務を担当する行政組織を内務省管轄下から大統領直轄下に移動させた。これは国の隅々に張り巡らした、言わば国軍の血脈を奪う行為に等しく、国軍には絶対に受け入れられないことだったことは想像に難くない。またスーチーは宝石法という法律を改正して取引の透明化を図り、国軍の利権に直接メスを入れ始め、2020年には否決覚悟とはいえ、国軍の政治関与を大幅に削減する憲法改正案を議会に提出した。

90年代の軍政の改革はインドネシアをモデルにしたものだった。インドネシアはスカルノ、スハルトの強権政治の時代を経て、いまだ様々な問題を抱えているとは、民主主義体制自体は比較的安定している。しかしそれは、政治家、国軍、企業家といった既得権益層が皆、民主主義から利益を得ており、そして国民もまた自由と権利の拡張を謳歌してからである。それなのにスーチーは国軍の既得権益のみ破壊しようとした。これは「選挙に参加する政党は、民主主義が成熟するまで自制、節度を示すべきだ」と述べたタンシュエの目にはどう映っただろうか?

またスーチーは中国と蜜月関係を築き始めていた。

ミャンマーと中国との関係を紐解くと、①元緬戦争127787年)でパガン朝が元に滅ぼされる②明緬戦争15501606年)でタウングー朝が明朝と計9回軍事衝突③1659~1662年南明最後の皇帝・永暦帝がミャンマーに逃げこんできて、三藩の乱に巻きこまれる④清緬戦争1765~69年)でコンバウン朝と清朝が計4回軍事衝突。⑤1949~1960年中国共産党に破れた中国国民党がシャン州に雪崩れこんできて、軍事拠点を築く⑥1968年~1978年まで中国共産党がビルマ共産党(CPB)を支援、と中国の軍事的脅威に晒され続けてきた歴史であり、国軍の中国に対する警戒心は相当なもので、1990年代から民政移管するまで中国が最大のパートナーだったものの、その警戒心は変わらず、実際テインセイン政権になって欧米からの経済支援が復活しすると、徐々に中国と距離を置くようになり、雲南省とチャウピューを結ぶ鉄道・ 道路建設計画に反対したり、中国資本が入ったミッソンダム建設計画を住民の反対を汲み入れ白紙撤回したりした。また英植民地時代はインド人と中国人に経済を牛耳られ、ミャンマー人が辛酸を嘗め続けていたことも当然彼らの記憶の中にあっただろう。

しかしNLD政権になってから、中国との蜜月関係が復活。2020年1月にはネピドーでスーチーと習近平は運命共同体宣言をし、スーチーは「世界が終わるまで中国に足並みをそろえる以外にない」とまで述べたのである。ちなみにかつての国軍の宿敵・ビルマ共産党(CPBも長年中国からの支援を受けており、国軍はスーチーはCPB幹部から思想的影響を受けていると信じていた。歴史は繰り返すー「外国からの影響力に頼ることは絶対に避けねばならない」と述べたタンシュエの目にはどう映っただろうか?

ミャンマーの歴史を紐解けば、モン族、シャン族、ビルマ族の各王朝との争いと中国の王朝からの侵略があり、イギリス植民地統治と短い日本統治時代を経て独立した後は、CPBその他少数民族武装勢力といった内なる敵と中国国民党とそれを支援したアメリカ、CPBを支援した中国、カレンニー州、モン州、カレン州の武装勢力の存在を黙認したタイという外なる敵と対峙し、CPB崩壊と経済自由化によって件の両敵が衰退した後は、スーチーの登場によって一躍強大化した”民主派”という都市部のエリート層に支えられた勢力と対峙した。しかしそれは、これまでのような武装闘争ではなく、政治的駆け引きというソフトパワーによる対決で、我慢比べの結果、中国依存を止め、欧米からの経済支援を取りつけたい国軍側が譲歩し、民主派が権力を握った。しかしそれは、国軍の掌に乗った脆弱な権力であり、しかも国軍が警戒してやまない中国や欧米リベラルの支援を受けていた。

国軍を構成する人々は当然軍人で、その頭の中にある地図は軍用地図であるはずだ。自分たちの陣地を獲られそうになれば、彼らが考えることは1つしかない。

ちなみに民政移管後の経済成長は、当然、国軍にも恩恵をもたらし、兵器輸入額は増加、調達先も中国、ロシア以外に韓国、インド、ウクライナと多岐に渡っていた。「標準的な軍隊」を標榜しつつ、国軍は確実に強力になっていたのである。

2020年11月8日、民政移管後3回目の総選挙が実施され、NLDはまたしても総議席の80%以上を超える議席を獲得して圧勝し、USDPはまたも惨敗を喫した。ただ前回と違ったのはUSDPと国軍が執拗に選挙の不正を主張したことだった。国軍は有権者名簿に約1000万票分の大規模な不正・不備があると主張した。途上国の選挙だから当然不正はあっただろうが、それがどの程度のものだったかは、結局調査がなされなかったのでわからない。ちなみにカレンニー民族進歩党(KNPP)議長・ウー・レーは「国軍による『選挙に不正があった』という主張……これは完全に否定できるものではありません。実際私も、カレンニー州においてNLDサイドによる不正な票集めを確認しています。これは一部かもしれませんが、完全にクリーンな選挙だったとは言えないのです」と述べている。またヒューマン・ライツ・ウォッチのレポートによると、少なくとも4つの政党が、選挙管理委員会による検閲を理由に、国営メディアでの選挙演説の放送を取りやめたそうだ。

結局、NLDは選挙結果の不正調査には応じなかった。

そして2021年2月1日、第3次連邦議会が招集される日を迎えた。

参考