カレン民族解放軍

Karen National Liberation Army

・活動時期:1947

・活動場所:カレン州、カヤー州、タニンダーリ管区

・宗教:仏教、キリスト教

・主義主張:カレン民族主義

・兵力:1

カレン民族同盟Karen National Unionの軍事部門

ミャンマー最古の少数民族武装勢力

前史

カレン族がビルマ本土に住むようになったのは、ビルマ族よりはるか前の紀元後300~700年の間と言われている。やがて南下してきたビルマ族に追われ、現在のエーヤワディ管区にあたる平野部と現在のカレン州にあたる東部山岳に住み着くようになった(なおタイ北部、西部にもかなりの数が住んでいる)。ビルマ族、シャン族に次いでミャンマーで3番に多い民族であり、700万人住んでいるそうだが、定かではない(政府発表では200万人)。内戦が長引いている影響で、海外に住むカレン族も数多くおり、タイの難民キャンプには数十万人のカレン族難民が住んでいる。ビルマ族の南下以前はコートレイ(コートレイ=カレン族の住む土地 花咲く大地 平和に満ちた土地の意味)という国があったと主張しているが、歴史的証拠はない。歴代ビルマ族の王朝の支配下では、カレン族は見下され、築城、塹壕堀など数々の苦役に駆り出され、ビルマ族に対する憎悪が深く刻印された。

コータービュー

1812年、アメリカ人宣教師・アドニラム・ジャドソンがミャンマーにやって来て、最初のカレン族改宗者・コータービュー(Tha Byu)を得、イラワジデルタ地帯に住むカレン族相手にキリスト教布教始めた。カチン族と同じくカレン族にも”失われた本”の伝説があり、それが功を奏してカレン族の間に爆発的にキリスト教が広まっていった。同時に宣教師たちはカレン文字の発明、翻訳、出版の他、教育活動にも力を入れ、神学校を頂点とする教育制度を整えてカレン族の若者を教化していき、中には欧米やインドの大学・神学校に留学するエリートまで現れた(ただしビルマ族など他の民族の生徒もいた)。

ただカレン族といえばキリスト教徒のイメージが強いが(スーチーも間違えていた)、実際はキリスト教徒は20%ほどであり、仏教徒が60%、精霊信仰が20%である。教育水準の高いバプティスト派スゴー・カレン族が独立後の反政府武装闘争をリードし、またミャンマーのキリスト教人口の60%がカレン族であることもその印象を強めている。大多数を占める仏教徒カレン族は、仏教にアイデンティを求め、当初はことさらカレン族であるこを強調する意識は希薄だった。なにはともあれ、キリスト教がカレン族に民族意識を芽生えさせ、親欧米的な心情を育んだのはカチン族と同様。英緬戦争ではイギリス側に付いてビルマ族と戦った。1881年にはヤンゴン在住のバプティスト派カレン族のエリート層が、カレン民族協会(Karen National Association:KNA)を設立。ミャンマーにおいて初めて民族名を冠した組織と言われており、その目的は英植民地政府に対してカレン族の存在を知らしめ、働きかけをしていこうとするものった。

イギリス植民地時代

1886年イギリスがミャンマーを完全に植民地化すると、ビルマ支配に際してカレン族を軍人や警察官として重用した。この現地民部隊は1916年から1927年にかけてビル マ ・ライフル4個中隊に編成され、第一次世界大戦時は中東で活躍した。彼らは1930年のサヤー・サンの乱の鎮圧にも大きな貢献をした。ビルマ族中心のタキン史観では何かと批判されがちな英植民地時代だが、カレン族にとってはさほど悪くない時代だったようである。

ちなみに1930年代当時の植民地軍の構成は、ビルマ族1893人、カレン族2797人、カチン族852人、チン族1258人、インド人2578人。たしかにビルマ族の比率が低く、分割統治の結果と言えなくもないが、①多数派で民族的統一感のあるビルマ族に兵器を持たせなくなったカレン族、カチン族、チン族は狩猟経験豊富で、銃の扱いに慣れ、勇猛果敢②キリスト教の学校で英語を学習して堪能だった③ビルマ族を嫌悪していた④比較的経済水準の高いビルマ族は兵士の待遇に不満を言う恐れがあったことなどが大きな要因とも思われ、はたして「分割統治の結果」なのか「結果としての分割統治」なのかは疑問の残るところではある。ただこの時点でビルマ族の中に「親英的でビルマ族を憎悪するカレン族」、カレン族の中に「自民族に暴虐の限りを尽くしたビルマ族」というイメージは広く人口に膾炙していたようだ。

ミャウンミャ事件

第二次世界大戦が始まり、1942年に日本軍がミャンマーを占領した時、アウンサウン率いるビルマ族中心のビルマ独立義勇軍(BIA)(その後ビルマ国民軍《BNA》に再編)日本軍協力してイギリスをミャンマーから追い出したことで、その自負と存在感が俄然増していた。そのイギリス軍が退却した同年3月から3ヶ月後の日本軍による軍政発布という空白期間の間に、エーヤワディ管区・ミャウンミャで、ビルマ族とカレン族との間に武力衝突が発生した。当時、エーヤワディ管区はBIAを自称する20代の若者たちが一時的に行政権を握っていたが、彼らには兵器が不足しており、そこにきて植民地軍に所属していたカレン族兵士がエーヤワディに続々と帰郷してきたことから、件の自称BIAは元カレン族兵士に兵器を差し出すように要求。これが両者の衝突に発展し、お互いに戦闘、焼き討ち、処刑と残虐の限りを尽くし、推計5000人の死者と1万8000人の避難民が出る大惨事となった。この際、この地に残っていた南機関の木俣豊治も殺害されている。この事件により、これ以前は多様であったビルマ族とカレン族の関係は(特に多数派のカレン族仏教徒はビルマ族に親和的だった)ビルマ族VSカレン族という対立の構造に集約されていく。

戦中、元来親英的なカレン族は連合国軍側に付き、イギリス軍撤退後もかの地に留まったヒュー・シーグリムが、山岳部でカレン族ゲリラを率いて日本軍と戦った。その一方で極少数ではあったが、BNAに参加していたカレン族もいた。アウンサウンらBNA幹部としては、ミャウンミャ事件の再発を防ぐべくカレン族兵士の協力を必要としており、カレン族側からしてもイギリス撤退後は大多数派のビルマ族と協力するしか道はないということで両者の利害が一致した結果だった。

ソーバウジー

独立期の武装闘争

1945年第二次世界大戦が終結するとミャンマーの独立が高まった。しかしカレン族の間では、前述した複雑な経緯から、英領カレン植民地を主張する者、ミャンマーからの完全分離を主張する者、連邦への参加を主張する者様々な意見があった。いずれにせよビルマ族の支配に服したくないという点では一致していた。

1946年、ケンブリッジ大学への留学経験があり、イギリスの司法試験もパスした、カレン民族運動のリーダー・ソーバウジー(Saw Ba U Gyi)率いる使節団がイギリスを訪問。イギリス政府に①カレン州の設置②カレン州を英連邦内の自治領として認めることを要望したが、当時のイギリス労働党・アトリー政権は内政不干渉原則を理由にこれを拒否した。大戦中連合軍側に付いたのにも関わらず、イギリスに袖にされたことはカレン族の人々の目には裏切りに映ったのだという。実際、大戦中イギリスの首相だったチャーチルはアトリー政権の決定を「イギリスの友人たちに対する裏切りであり……未開の住民達に英国の正義が保障してきた平和な生活を踏み にじるもの」と批判し、野党・保守党内では「カレ ン族は新体制に反対しており……ビルマはアーナキーと低劣な生活水準に陥って10.年以内に独立を失うであろう」という議論もあった。

マンバザン

1947年2月5日、カレン民族協会(KNA)、バプティストKNA、仏教KNA、カレン中央機構(Karen Central Organization : KCO)、カレン青年機構(Karen Youth Organisation:KYO)など英領カレン州の設置を主張するカレン族のグループが結集してカレン民族同盟(KNU)結成ソーバウジーが初代議長となった。KNUは同年2月のパンロン会議4月の制憲選挙もボイコット(選挙にはKNUを脱退したKYOだけが参加した)。同年7月にはマンバザン(Mahn Ba Zan)が英植民地軍に所属していたカレン兵を結集して、KNUの軍事部門のカレン民族防衛機構(Karen National Defence Organisation:KNDO)結成。これがミャンマー最古の少数民族武装勢力と言われる所以であり、世界でもっとも長く武装闘争を続けている組織の一つとも言われている。

同年9月に採択された憲法ではカレン州の設置が認められず、KNUは態度を硬化させた。そして1948年1月4日、ミャンマー連邦が独立すると、全国でKNUが組織する40万人規模の抗議デモが発生。9月初めにはモーラミャイン、タウングー、パセインなどがカレン族の武装勢力によって占拠され、約2万4千人の軍勢がヤンゴンまで15kmのところにまで迫った。もっともこの時の反乱はKNU/KNDO首脳部が主導したものではなく、末端のメンバーの暴走だったようで、同時期ソーバウジーは中央政治の舞台で対話による解決を図っていた。

しかし、12月24日タニンダーリ管区のメルギー県で、カレン軍警察が武装解除を拒否したことをきっかけに、国軍が8ヶ所の村の教会を襲撃し、20名以上のカレン族キリスト教徒が殺害されるという事件が発生するに及び、両者の対立は決定的となり、各地でビルマ族VSカレン族の衝突が勃発した。

1949年1月カレン族の武装勢力がインセインの武器庫、マウービンの国庫を襲撃。次いでヤンゴン各地区で衝突が発生し、31日にはインセイン地区を占拠同日、ビルマ族の暴徒によってヤンゴンの自宅を燃き打ちにされ、多くの同郷のカレン族が射殺されるのを見たソーバンジーも、ついに観念したのか、この軍勢に加わって指揮を取った。またこのニュースを聞きつけて国軍を離脱したカレン族3個部隊もこれに合流した。2月1日、ウー・ヌは、陸軍参謀総長スミス・ドゥン(Smith Dun) などカレン族の将校を全員解任、KNDO非合法化た。この期に及んでスミス・ドゥンは国軍に忠実だったが、もはやカレン族の彼に国軍の指揮権を任せるわけにはいなくなったのだ。後任はネウィンだった。

国軍は陸海空軍の三方からインセイン地区に立てこもったカレン軍を攻撃。カレン軍を包囲した国軍にはビルマ族のみならず、チン族、シャン族、カチン族、カレンニー族、グルカ兵までいた。インセインの戦いはカレン族にとって反政府闘争の口火であるとともに、国軍にとってもゲリラ戦以外の初めての正規戦だった。なおインセインで戦闘中もヤンゴンの生活は普段どおりで、学校も映画館も開いており、短い停戦期間中にはカレン族兵士も映画館に足を運び、映画を楽しんでいたのだという。

この、政府はカレン州設置を決定したり(1951年正式設置)、イギリス、インド、パキスタン大使・欧米人宣教師に仲介を依頼したり懐柔策を弄したが、いずれも反乱を収めるに至らなかった。一方、インセイン地区に立てこもっていたカレン族の軍勢も、計画不足、連携不足からヤンゴンを占領するには至らず、5月22日ヤンゴンから撤退した。カレン族兵士と民間人を合わせた死者数は約500人。ちなみにこの時援軍が駆けつけていれば、カレン軍のヤンゴン占領は可能だったと言われている

軍勢を率いてイラワジデルタ地帯に逃げのびたソーバウジーは、6月14日コートレイ共和国の樹立を宣言、首都をタウングーに置き、①降伏は問題外②カレン族の国の承認を達成する③われわれは武器を保持する④われわれは自らの政治的運命を決するという4原則を打ち出したしかしこの頃からインドから軍事支援を得た国軍の攻勢が強まり、1950年3月19日にタウングーが陥落、同年8月12日には部下の裏切りによりソーバウジーが戦死した。

ソーバウジーの死に組織は動揺し、加えて従来からの兵力不足、兵器不足、資金難、士気低下が相まり、KNUは国軍に連戦連敗を喫し、多数の幹部の投降を繰り返した。1954年にはKNDOのメンバーが、兵器密輸を企て国内線をハイジャックするというミャンマー初のハイジャック事件を起こしたが、これも失敗に終わった。結局、KNUはイラワジデルタ地帯に一部勢力を残しつつ、大半はタイ国境の山岳部までの撤退を余儀なくされたちなみにこれはイラワジデルタ、ヤンゴンなどで育ったキリスト教徒のエリートカレン族が、山岳部の仏教徒カレン族が多い地域のリーダーになったことを意味する。平野部出身のカレン族兵士の多くは地元の山岳部の女性と結婚し、カレン族の文化的・宗教的・言語的多様性を育くむことになった。

内紛の時代

1950年代初頭からKNUにも共産主義が浸透し始めていた。1953年9月、マンバザンと一部の幹部がカレン民族統一党(Karen National Unity Party:KNUP)という共産主義に影響を受けた左派組織を結成、KNUの組織を中央集権化して、毛沢東主義に則ってKNDOを正規軍のカレン人民解放軍(KPLA)、ゲリラ部隊のカレン人民ゲリラ部隊(KPGF)、そして村落防衛隊からなるカレン軍(Karen Armed Force : KAF)に再編し、支配地域内の村落の一部に農業協同組合を設立した。しかし国軍のみならずKNUを含む少数民族武装勢力を敵視するビルマ共産党(CPB)の活動を中国が黙認していたため、KNUはシャン州北部に拠点を築いていた中国国民党と同盟を組まざるをえない中途半端さであった。1960年代初頭までにKNUPはイラワジデルタ地帯に拠点を置いて、KNU内で支配的地位を得たが、これに不満なKNU幹部・ソーハンタータムエーは、1963年4月、当時約1万人いたKNUのメンバーのうち400人の部下を引き連れKNUを脱退し、コートゥーレイ革命評議会(Kawthoolei Revolutionary Council:KRC)を結成。同年6月に革命評議会がCPBや各少数民族武装勢力の代表を招いて開催した和平会議に出席し、出席したグループの中で唯一、停戦合意を結んだ。しかし翌年、KRCとKNUPとの間で散発的な戦闘が発生しソーハンタータムエー国軍拘束され、KRCは解体した。

しかし1966年、KAF東部師団長・ボーミャ(Bo Mya)が、タイ国境の山岳地帯の支配権を掌握し、KNUPの将校と幹部に支配地域からの退去を命じた。一種のクーデターだった。ボーミャは大戦中イギリス軍に所属して日本軍相手にゲリラ戦を戦い、戦後はサルウィン部隊というカレン族武装勢力に所属して非協力的なカレン族の村を焼き払ったり、ソーバウジーが暗殺された際には密告した人物の村を焼き払って、住民を皆殺しにしたりして勇名を馳せていた人物で、反共思想の持ち主だった。翌1967年、マンバザンらKNUP幹部4名がKNUに復帰してカレン民族解放評議会(KNLC)を結成、翌1968年にはカレン民族統一戦線(KNUF)を結成して軍事部門をカレン民族解放軍(KNLA)に改編した。そして1969年に国軍の掃討作戦を受けてイラワジデルタ地帯に残っていたKNUP/KAFは壊滅的打撃を受けて、山岳部への撤退を余儀なくされたことにより、ボーミャの権力は揺るぎないものになり、1974年から75年の間にKNUを再統合しマナプロウ(『勝利の野原』の意味)に本拠地を置き、1976年にボーミャが議長に就任してボーミャ体制が確立した。

ボーミャ

ボーミャ時代

KNLAは7つの旅団からなり、各旅団は縁故採用の色濃く、独立性が高いものの、国軍の攻撃を受けた際は相互に協力しあうという性格を持っていた。ちなみにKNLAの兵士は無給。そしてKNUは軍事部門のKNLAのみならず、教育文化省、運輸省、外務省、林業省、農業省などの省庁を擁し、独自の司法機関や警察もあって、ミャンマーの少数民族武装勢力中でもっとも整備された組織の1つといわれている。またボーミャは各武装勢力の結集にも尽力し、1975年に民族民主戦線(National Democratic Front)を結成し、長年にわたり定期会合を開くこの時点で唯一成功した同盟となった。

さらにKNUの周辺には、教育、保健、社会福祉問題に取り組むカレン女性機構(Karen Women’s Organisation:KWO)、カレン族の知識と権利を尊重する活動をするカレン環境社会行動ネットワーク(Karen Environmental and Social Action Network:KESAN)、ミャンマー初の人権団体であるカレン人権グループ(Karen Human Rights Group:KHRG)バックパック医療従事者チーム(Back Pack Health Worker Team:BPHWT)、カレン救済開発事務所(Karen Office of Relief and Development:KORD)といった社会活動に従事する様々なグループがあり、KNUを側面支援している。ただ現在KNU支配地域ではカレン語と英語の教育のみ行われ、人々はミャンマー語を話せない。これは将来、”真の連邦国家”が実現した際に、カレン族が連邦国家へ統合するのに支障を来すと思われる。

「かつては、われわれはビルマ語も使いこなすことができた。ところが、今のわれわれの子供たち、あるいは長きにわたって国境沿いの難民キャンプで育った若者たちは〈カレン語〉と〈英語〉しか話せない。これは異常なことだ。分かるだろ? 言葉は文化や信仰と繋がっている。私たちの子孫が〈ビルマ語〉から切り離されたら、ビルマ族との共存の可能性はますます遠ざかる。分離独立の可能性も、高度な自治権を確立する可能も、もうほとんどないのに、このままビルマ族よりも欧米人とべったりしていたら、ミャンマーでわれわれの地位を得るという選択の余地さえ失ってしまうんだ」(後年、KNLAから脱退したDKBA幹部の

ネウィン軍事独裁政権下のミャンマーはほぼ鎖国状態で生活必需品にも事欠く状態だった。そこでKNUは60年代後半からタイ国境付近に貿易拠点を設け、チーク材、宝石、家畜等を輸出し、電化製品、生活必需品等を輸入する密貿易を始め、これに通関税をかけて資金源とした。最盛期の貿易額は日本円にして100億円ほどに上り、ミャンマー政府の公式貿易額の3分の1から2分の1ほどにも達していたのだという。またこの貿易により兵器・弾薬も確保し、貿易拠点はKNLAの軍事拠点としても機能していた。タイとしても当時はタイ共産党と対峙しており、国境警備と反共の砦として機能するKNU/KNLAの活動を黙認していた。ちなみにKNUの幹部の多くはタイに住、わりと裕福な暮らしをしているのだという。

ということで資金を蓄え組織を整えたKNLAは、1970年代後半から従来のゲリラ戦ではなく、より大規模な攻撃を国軍に仕かけるようになった。しかし1984年1月から4月にかけてタイ国境で激戦が繰り広げた挙げ句、KNUは解放区として占拠していた多くの地域と貿易拠点を失い、2万人の避難民がタイに流出するという大きな痛手を負い、その後活動は停滞した。KNUは資金がもっとも潤沢な時期に後退を余儀なくされたということになるが、その理由は、①貿易拠点に軍事拠点を設けているKNUは、国軍側からすれば攻撃の標的としやすかった②中堅幹部が軍事的戦略よりも密貿易からの利益を最優先させて、戦術を練っていたかこと③1980年代前半、ビルマ共産党の活動が停滞して、国軍KNUの掃討に集中できる環境が整っていたこと④そもそもKNLAは軍事戦術に乏しく、火力にも劣っていたことなどが挙げられる。

1988年民主化運動の後は弾圧から逃れてきた学生たちに軍事訓練を施したり、マナプロウに少数民族武装勢力の連帯組織・民族民主戦線(NDF)、少数民族武装勢力と1988年民主化運動の学生組織との連帯組織・ビルマ民主同盟(Democratic Alliance of Burma)、ビルマ連邦国民連合政府(NCGUB)、全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)の本拠地が置かれたこともあって、民主派と少数民族武装勢力との連携を警戒した国軍の攻勢はさらに強まった。そして①1989年にビルマ共産党(CPB)が崩壊して兵器の供給源を失ったこと②政府が国境貿易を民間企業にも開放し、中国との国境に4地点、タイとの国境に2地点、政府公認の国境を設置したことにより、密貿易の利益が大幅に減少したこと③タイ政府が少数民族武装勢力をタイ・ミャンマーに跨る広域経済圏形成の障害と見なすようになり、政府と停戦合意を結ぶように圧力をかけ始めたことなどから、他の少数民族武装勢力が次々と政府と停戦合意を結んでいき、あらためて国軍がKNU掃討に集中できる環境が整った。

マナプロウ

1991年以降国軍はドラゴン・キング(ナガーミン)作戦を発動KNUは徐々に追いつめられ、1992年までに10ヶ所の国境拠点のうち8ヶ所を失った。KNUはエーヤワディー管区への再進出を試みたが、これにも失敗。1994年12月11日にはKNU内の仏教徒とキリスト教徒との対立から、多数のカレン族仏教徒がKNUを脱退し、民主カレン仏教徒軍(DKBA)を結成した。当時、KNLAの新兵の80%、前線にいる兵士の3分の2が仏教徒で、彼らはキリスト教徒の兵士に比べて不相応な負担を強いられていると感じていた。

「分裂の随分前から、KNLA指導部に対して違和感を持つ仏教徒たちは少なくなかった……私自身もそうだ。彼らのやり方は、まるで傲慢な欧米人みたいだったよ」「彼らは得意気に言ったはずだ。『仏教徒のカレン族に対して、我々がキリスト教の信仰を強要したことはない』と。でもそれこそがキリスト教徒や欧米人の連中のやり方なんだよ。つまり、こういうことだ。どうして、KNLAの支配地にある国内避難民のキャンプには、たいてい教会が建っているのか? 彼らは言うだろう。『この教会を建てるための金を出したのは、我々じゃない。米国人の寄付だ』。医療援助に来る白人たちもそうだ。彼らは、彼らの金でキリスト教徒のための祭りを開く。でも、その祭りにはキリスト教徒しか参加できなかったとしたら……そのキリスト教徒しか参加できない祭りでは普段よりマシな食事にありつけるとしたら。兵士たちの多くを占める仏教徒の子供たちはどう思う? ボランティアでやってきて、子供たちに英語を教える親切な連中が、折に触れてキリストについて説法したらどうだ? 私の考えじゃあ、それは『洗脳』だよ」出典

そして彼らが提供した情報により国軍はマナプロウを攻撃。1995年1月26日、マナプロウは陥落し、2月22日には最大の貿易拠点であるワンカーも陥落してKNUは資金源の大半を失った。この後、KNUの資金源は国際機関・NGO等の支援団体によるタイの難民キャンプへの支援に依ることになる。

結局、ボーミャもカレン族の武装勢力をまとめることはできたものの、劣勢を跳ね返すことはできなかった。

閑話休題。KNUの支配地域はタイから密入国しやすい環境にあるためか、昔から日本人傭兵・ジャーナリストが現地を訪れ、日本人にもわりと馴染みが深い。日本人傭兵体験記としては西山孝純著カレン民族解放軍のなかで沖本樹典著「カレン民族解放軍」がある。西山氏がKNLAで傭兵として戦っていた1989年~90年代半ば頃にはマナプロにはゲストハウスがあり、タイから外国人観光客が訪れていたのだという。またタイのメーソートにはKNLAに参加して亡くなった西山氏含む名の日本人傭兵の慰霊碑がある(画像をクイック)2023年にここを訪れた日本人男性に直に聞いた話によると、慰霊碑があるお寺の僧侶はその存在を知らず、訪れる人も皆無だったそう

ただKNU/ KNLAと関わりのある日本人の著作には、彼らがKNU/ KNLAにシンパシーを感じているゆえ、強制徴兵、強制徴税、不法殺人、住民の間に蔓延る厭戦気分などKNU/ KNLAに不都合な真実については語られていない。アジアドキュメンタリーの「浮家の子どもたち」には、1988年民主化運動の際に一時期KNU支配地域に逃れたものの、そこで重労働を課さられ、こらえきれなくなって1度は国軍に出頭して故郷に戻った男性の話やカレン族の武装勢力に襲撃されたり、金銭を強制徴収された人々の話も収録されている(ただしこの武装勢力がKNLAなのかどうかは不明)。また山本宗輔著「ビルマの大いなる幻影」では住民の厭戦気分を赤裸々に記されている。

「紛争地帯を越えて、そのほとんどが何十年も政府の支配下にある地域に住んでいるにもかかわらず、政治活動家は『カレン族』全体を政府に反逆していると見なすことが多い。これは、反政府勢力と連携しておらず、軍事政権を深く批判しているにもかかわらず、武装勢力の過激派の目的に賛同していない大多数のカレン族の生活と立場を無視することである。軍事化された環境で生活している人々であっても、かなりの数が長年にわたるカレン民族同盟(KNU)の反政府勢力ではなく、政府と連携した武装ネットワークを指向している」出典

マナプロウを失ったKNUはさすがに方針転換して、1995年から1997年にかけて政府との停戦交渉に応じた。しかし仲介者がカレン族の民族問題解決に焦点を絞るべきだと促したのに対し、KNU側はミャンマーの政治的・人道的問題の包括的解決という過大な要求をしたために不調に終わった。1997年2月24日には KNLA 第 6 旅団のメンバーが一部脱退しカレン和平軍(Karen Peace Force:KPF)を結成して政府に帰順。また同年、マハバザンの息子・マン・ロバート・ハザン(Mahn Robert Ba Zan)がKNUを脱退して、武装闘争を放棄した平和的組織・カレン連帯機構(Karen  Solidarity Organization:KSO)を設立。翌1998年にはマタ博士(Doctor Marta)がKNUを脱退してカレン統一のためのワーキンググループ(Working Group for Karen Unification : WGKU)を設立するなど、在外カレン族の間でも脱KNU、脱武装闘争路線が進んだ。この後、KNUはさらに国軍の攻勢を受けて領土の大半を喪失し、タイ国境地帯でゲリラ戦を挑むのみに転じた。現在KNUの事実上の根拠地はタイのメーソットにある。

1998年2月8日にはKNLAとアラカン解放軍(ALA)40人の合同軍がインド政府の黙認を得て、軍事基地を設置すべく、2艘のボートに兵器を満載してタイ国境からアンダマン諸島のインド領の島・ランドフォール島に上陸。しかしインドは彼らを裏切り、合同軍が上陸するや否や全員当局に拘束され、KNLAのメンバー2名含む6人が処刑されるという事件があった。他のメンバーも2011年までインド当局に拘束され、その後難民認定を受けてオランダに移住した。KNLAとしては巻き返しを狙ったのだろうが、なぜインド当局が裏切ったのか、いまだに真相は謎のままである。

求心力の低下が止まらないボーミャはさすがに危機感を感じたのか、2003年頃から自ら主導で停戦交渉を再開。そして2004年1月12日、突然ヤンゴンを訪れ、停戦交渉の責任者だったキンニュン首相と面会し、仮の停戦合意を結んだ。しかし10月19日、停戦合意を正式なものにしようとKNU代表団がヤンゴンに向かっている最中、キンニュン首相が更迭され、停戦合意は白紙撤回された。12月、ボーミャはKNU上層部から退き、2006年12月24日に死去した。

停戦合意、そしてクーデター

2007年、KNLA第7旅団長・ティマウン准将が、政府と独自に停戦交渉を進めたためにKNUから追放され80程度の部下を引き連れ政府に帰順し、カレン民族同盟/カレン民族解放軍平和評議会(KNU/KNLPC)を結成した。第7旅団は比較的強力な部隊だったため、KNU/ KNLAのさらなる弱体化を印象づけ、この頃になるとKNLAの兵力は約3000人でDKBAの後塵を拝するようになった。

2008年憲法では20条第1項「国軍は強固で時代に即した唯一の愛国軍である」と定められ、政府はこの条項にもとづいて従前の停戦合意を一方的に破棄し、あらためて少数民族武装勢力に対して国軍傘下のBGFに編入するように要求した。既にタイに本拠地を置いていたKNUはこの対象とならなかったが、この要求を受け入れた民主カレン仏教徒軍(DKBA)の一部がこれに反発DKBAを脱退して民主カレン慈善軍(DKAB)を結成し、KNUと協調する姿勢を見せた。なおこの年の2月14日、タイのメーソットでKNU議長・マンシャラパン(Padoh Mahn Sha Lah Phan)が暗殺されるという事件が起きたが、これはKNUの力の衰えとタイがもはや安全な場所ではないことを示すものだった。

そして2012年1月12日、KNUはついに政府と歴史的な停戦合意を結ぶ。さらに2015年10月15日には他の7つの少数民族武装勢力とともに全国停戦協定(NCA)にも調印した2010年からの民主化の進展により、重要な資金源だった国際機関・NGO等支援団体によるタイの難民キャンプへの支援の減少が見込まれたKNUと国内最古の少数民族武装勢力と停戦合意を結んで、国内外に和平の進展を誇示したい政府の思惑が一致した形だった。ただしその際、約80人のメンバーがKNUを脱退してタンダウン特別公共軍(Than Daung Special Public Army:TDSPA)を結成し、その後政府に帰順した。

停戦合意以降、KNUはミャンマー国内で合法的にビジネスを営めるようになり、支配地域での通行税の徴収の他、建設会社、旅行会社、携帯販売会社、ガソリンスタンド、LPGガスの供給などのビジネスを営み、徐々に勢力を回復していった。ただ和平慎重派の第5旅団だけはNCA締結以降も度々、国軍と衝突を繰り返していた。2020年には40歳のカレン族の女性が国軍兵士2名に銃殺されるという事件が起き、1万人規模の抗議デモが発生した。

現在、カレン州最大の武装勢力は国境警備隊(BGF)、その次にカレン民族解放軍(KNLA)か民主カレン慈善軍(DKBA)。その下に民主カレン仏教徒軍(DKBA)、カレン民族同盟/カレン民族解放軍平和評議会(KNU/KNLPC)、タンダウン特別公共軍(TDSPA)があるといった状況である。

2021年2月1日にクーデターが起きると、KNUはNCAの消滅を宣言。1988年の時と同じように国軍の弾圧から逃れてきた政治家、学生、労働者たちを保護し、彼らに軍事訓練を施した。ただKNLAで軍事訓練を受けた人々の証言として①訓練後はPDFではなくKNUに忠誠を誓うように強制され、拒否するとダラン(密告者)呼ばわりされ殺すと脅迫された。②逃亡を図って捕まり、殴られて顎の骨を折った。③訓練後は40%がPDFではなくKNLA指揮下の軍事組織に入隊させられたという事実が挙がっている。これについてはKNUの責任者は「彼らは自発的にKNLAに参加した」と主張しているようだが、今にして思えば少数民族武装勢力の指揮下にないPDFは指揮系統不全・経験不足・資金不足により効果的な活動ができていないばかりか、支配地域で殺人、強姦、強盗、賭博場開帳等乱暴狼藉の限りを尽くしていることを考えれば、結果的には良かったのかもしれない。ただKNU以下少数民族武装勢力の目的があくまでも自民族の自治権獲得であるのに対し、PDFのそれは連邦制・議会制民主主義の実現なので、いずれ亀裂が生じる可能性があるのは否めない。

「カレン解放軍部隊には、たとえ都市部を攻めきれたとしても、占領管理し、それを維持するほどのパワーはない。彼らはそんな無責任な攻撃を決して潔いものとは思わないし、貴重なカレンの兵士の命をいたずらに消費しようとはしない。カレン民族解放軍の主たる最重要課題は、なによりカレン民族の生活と文化の保護、その安全の確保にある」(西山孝純「カレン民族解放軍のなかで」)

なおKNU支配地域では仏教徒のPDF兵士の一部がキリスト教に改宗しているらしく、さらにその一部が現在過激化してFacebookで「ミャンマーの内戦が国際社会に注目されないのは、犠牲者が少ないからだ」と主張し、無差別大量殺人を呼びかけている疑いが持たれている。今後の動向に要注意である。

前述したようにKNUは幅広い地域ネットワークに支えられており、地元民の声に耳を傾ける伝統があるので、彼らの意見を尊重して、再び国軍に反旗を翻したものの、当初は戦闘を特定の地域に限定して全面的な紛争への復帰を避けていた。NUGが宣戦布告宣言をした時は、「戦争になっても人々には食糧も避難所もない」と言って、撤回を求めたKNU幹部もいた。KNU議長・ムートゥーセーポー(Saw Mutu Say Poe)もあくまでも全国停戦合意(NCA)の枠組内での解決にこだわっていた。しかし2021年12月、レイケイコーで国軍とKNLAが衝突するに及び、結局、主戦論に傾いていった。ただ旅団によって対応に温度差はあり、中には国軍の軍事拠点をいくつか占拠するなど戦果はあったようだが、国軍の空爆によって支配地域の住民は壊滅的な打撃を受け、約70万人の国内避難民を出すという代償を払っている。

なおアジアドキュメンタリーには、ヒップホップ・グループを結成したバンコクで暮らすカレン族難民の青年たちの日常を追った「いつか故郷へ ーカレン族の闘争ー」という作品があり、彼らの生活の一端を垣間見ることができる。

またボーミャの息子・ネダミャ (Nerdan Bo Mya)が民間人を殺害したかどで追放され、あらたにコートレイ軍(Kawthoolei Army:KTLAを結成したり、BGF支配下のKK園区で行われている大規模なオンライン詐欺にKNU幹部が関わっている疑惑が浮上したり、ムートゥーセーポー議長が退任したりとKNU内部が揺れている報も流れている。これについては前述した沖本樹典氏が「我がカレン軍第5旅団」という動画の中で内情を語っている。