カレンニー軍
Karenni Army
・活動時期:1957~
・活動場所:カヤー州、タニンダーリ管区
・宗教:キリスト教
・主義主張:カレンニー民族主義
・兵力:600人
PDFに食われた?
ヒューマン・ライツ・ウォッチにより、子ども兵士の強制採用と使用、住民の強制移動、拷問、国軍兵士への虐待や超法規的処刑、成年と未成年の女性への性暴力、民間人居住地域での対人地雷の敷設などのかどで 人権侵害の告発を受けている。
国連の「少年を募集し使用する紛争当事者リスト」に入っている
ミャンマーでもっとも小さな州であるが、民族的に多様な地域で、カヤー族、カヤン族、カヨー族、パク族、ブウェ族などが住む。「カレンニー」とはこれらこの地域一帯の民族の総称である。またチーク材、タングステン、すずなどの天然資源が豊富な地域でもある。19世紀以前の歴史は不明な点が多いが、ビルマ族王朝の支配に服したことは一度もないという。
1875年にはイギリスがコンバウン朝のミンドン王に圧力をかけ、西カレーニー4州の独立を認めさせた。その意図はカレンニー州の豊富な資源をイギリスが独占する意図があったようだ。この”独立”の法的意義については様々な見解があるようだが、1947年に設置された辺境地域調査委員会でも「正式に英領ビルマに併合されたことはない」という見解が述べられており、カレンニー族が民族自決を求める根拠になっている。当時の英領ビルマの地図ではカレンニー国だけ別に描かれている。
ただこの”独立”後、その領土と権益を巡ってイギリスとの間で戦闘が置き、1892年には実質的にイギリス支配下に置かれた。この間、欧米人宣教師の布教によってキリスト教が広まり、教育も充実したのはカチン州、カレン州と同様である。第二次世界大戦中は連合軍側に付いて日本軍と戦った。
ビー・トゥレ
第二次世界大戦が終結すると、カレンニー族の間でも独立の気運が高まり、1946年9月11日、統一カレンニー独立国家評議会(United Karenni Independent States Council:UKISC)が結成され、ビー・トゥレ(Bee Tu Re)が議長に就任した。これはカレンニー族、カレン族、パオ族の居住区を統一カレン州として、独立またはミャンマー連邦における高度な自治権獲得を求めることを目的とした組織だった(ただしカレンニー族の間でも民族・宗教によって意見はまちまちだった)。1946年と47年に開催されたパンロン会議にはカレン族とともにオブザーバーとしての参加に留まったが、協定ではカチン州、シャン州とともにカレンニー州の設置が認められ、さらにシャン州同様独立10年後の連邦離脱権を認められた。これはイギリス植民地時代以前より実質独立していたという現状を認められたというより、カレン族の反政府武装闘争からカレンニー族を切り離す政治的意味合いがあったのだという。
しかしミャンマー連邦が独立直後の1948年8月9日、カレンニー州の独立を宣言したUKISC議長・ビートゥレがミャンマー警察に暗殺されるという事件が発生し、カレンニー族の人々は激怒。イギリス軍に参加していた元酋長ソーシュエ(Saw Shwe)の下に数百人の住民が集まり、独立を求めて武装闘争を開始した。カレンニー州ではビートゥレが暗殺された8月9日を「カレンニー族抵抗の日」、ソーシュエが決起した8月17日を「カレンニー軍の日」としている。
1951年、政府はカレンニー州の名称をカヤー州に変更した。これにはカヤー族とカレンニー州の他の民族を分断する意図があったが、かえってカレンニー族の怒りに火に油を注ぐ形となった。
しかし1956年、ソーシュエがマラリアで死去。彼の妻が後を継いだが、3児の母にはゲリラ戦を続けるのは荷が重く、トォプロという人物がリーダーとなり、翌年、カレンニー民族進歩党(KNPP)/カレンニー軍(KA)が結成された。KAはカレン民族解放軍(KNLA)と協力しながら国軍と戦ったが、終始劣勢で、州都ロイコーなど主要地域は常に国軍支配下にあり、1954年にはその支配地域内で日本の対ミャンマー戦後賠償第1号・バルーチャウン水力発電所の建設が始まっている(1960年完成)。1962年に成立したネウィン軍事独裁政権が、1947年憲法を破棄したことにより、カレンニー州の連邦離脱権は消滅。1974年憲法でも連邦離脱権の文言は復活しなかった。
KNPP/KAの資金源は主にタイ国境貿易に課す通関税や通行税だったが、バルーチャウン水力発電所で作られた電力はカレンニー州にはほとんど供給されず、チーク材、タングステン、すずなどの天然資源から得られる利益もほとんど地元に還元しなかったので、カレンニー州はミャンマーでもっとも貧しい地域の一つになった。
1964年にはカヤン族の農民反乱をきっかけにカヤン新領土党(Kayan New Land Party:KNLP)が結成された。
1970年代にはCPBがカレンニー州にも勢力を拡大し始め、これへの対応を巡ってKNPP/KAは分裂。1978年、イデオロギーの違いを理由にカヤン族中心の一部のメンバーがKNPP/KAを脱退してカレンニー民族人民解放戦線 (Karenni National People's Liberation Front:KNPLF)を結成。KNPLFはCPBやKNLPと緊密な関係を築き、CPBからは軍事訓練、兵器、物資の支援を受けた。この頃からKNPP/KAはその目標を独立から連邦制内の高度の自治権へ転換した。
1988年民主化運動により、ネウィンは退陣。翌年にはビルマ共産党(CPB)が崩壊。兵器の供給源だったCPBが崩壊したことにより、各少数民族武装勢力は続々と政府と停戦合意を結んだ。この際、KNPP/KAは民主化運動を支援し、ビルマ族の民主化活動家中心に結成された全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)の本部はKNPP/KA支配地域内に設けられた。これに対して国軍は1990年代前半からカレンニー州でもフォー・カット作戦を取り始め、KNPP/KAのみならず住民も甚大な被害を受けた。さらにこの頃、政府主導のロイコー・アウンバン鉄道工事に30万人の労働者が駆り出され、カレンニー族住民も病気・事故で多数亡くなった。1997年にはカレンニー州は大かんばつに見舞われ、多くの住民が流出。その中にはシャン州のケシ畑に出稼ぎに行った者も多数おり、故郷に戻った後ケシ栽培を始める者も現れ、カレンニー州がケシの一大生産地になるきっかけとなった(武装勢力の資金源になっているようだが、KNPP/KAは麻薬反対の立場)。90年代、タイには約2万人のカレンニー族難民がおり、国内避難民はその2倍に上ったという。
このような状況下で住民の厭戦気分は否応なしに高まり、カレンニー州の武装勢力も政府に帰順したり、分裂を繰り返した。
1994年、カレンニー民族人民解放戦線(KNPLF)とカヤン新領土党(KNLP)が政府と停戦合意を結んだ。
KNPPも1995年に政府と停戦合意を結んだが、政府が約束を破り、国軍が住民に強制労働や通行税を課したので3ヶ月で破綻した。これにより国軍はフォー・カット作戦や戦略村作戦をさらに推し進めた。
さらにKNPP/KAは、1991年カヤン州兵隊(Kayan National Guard:KNG)が脱退して1992年に政府と停戦合意、1995年カレンニー民族民主党 (Karenni National Democratic Party:KNDP)が脱退、1999年カレンニー民族平和発展党(Karenni National Peace and Development Party:KNPDP)が脱退、2002年カレンニー民族連帯機構(Karenni National Solidarity Organisation:KNSO)が脱退と離合集散を繰り返し、弱体化していった。2004年から2005年にかけてKNPLFがKNPPの本拠地を攻撃。戦闘は数ヶ月続き、両軍、住民に多大な犠牲者を出した。
さらに第二の波がやってきた。2008年、政府は新たに憲法を制定。その中で国軍のみを唯一の武装組織と定め、この条項にもとづき従前の停戦合意を一方的に破棄にして、あらためて少数民族武装勢力に対して国軍傘下の国境警備隊(BGF)に編入するように要求してきた。この要求は後にテインセイン政権が取り下げたが、これに応じてKNPLF、KNG、KNDP、KNPDP、KNSOがBGFに再編された(KNLPだけ拒否)。ただし公式のBGFになれたのはKNPLFだけで、その他はピューソーディーという無給の民兵扱いだった。これでカレンニー州の反政府武装闘争はほぼ命運が尽き、BGFまたはピューソーディーに再編された彼らはこの後国軍ビジネスの一端を担うようになって完全に政治力・軍事力を失うだけではなく、彼らのお粗末なビジネスのせいで環境破壊をしたり、麻薬生産に手を染めたり、いまだに武装して通行税を徴収したりして地域の信頼を著しく損ねていった。
テインセイン政権は各少数民族武装勢力との停戦合意を推し進め、KNPP/KAの長年の盟友・KNU/KNLAが2012年に停戦合意したのを受け、同年、KNPP/KAも停戦合意を結んだ。ビートゥレが決起して実に64年後のことだった。しかし2015年の全国停戦合意(NCA)には署名しなかった。
2021年のクーデターの後、KNPPはNUGとの協調姿勢を見せたが、2022年4月にNUGがカレンニー州東部で自治組織を結成しようとしたところ、KNPPはこれに猛反発し、撤回に追いこんだ。
クン・ベドゥ
2021年クーデターが起きると、NLDが強い支持を集めていたカレンニー州では、デモの嵐が吹き荒れ、ほぼ休眠状態にあったKAもこれに対応せざるを得なくなり、志願者たちに軍事訓練を施し始めた。4月9日、州内の少数民族武装勢力、2020年選挙で選出された議員、政党、市民組織、青年・女性組織などから構成されるカレンニー州諮問評議会(Karenni Srate Consultative Council:KSCC)が結成され、NUGと協力してカレンニー州政府を設置する方針を打ち出した。5月31日、傘下の武装勢力を統合してカレンニー民族防衛隊(Karenni National Defence Force:KNDF)が結成された。KAはこれを傘下に収めるというより、パートナーのような立ち位置で、KNDFの最高司令官はKA最高司令官・アウンミャッだが、実際に率いているのはクン・ベドゥ(Khun Bedu)という人物で、元は政治活動家で2008年憲法国民投票に抗議して2008年から2012年まで投獄された経験を持つ。
KNDFはKAやKNLAから軍事訓練を受け、その他ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)、タアン民族解放軍(TNLA)、アラカン軍(AA)の3兄弟同盟からも物資支援を受けて、住民からの寄付も募っている。現在KAの兵力が3000人であるのに対し、KNDFの兵力は7000人となっており、カレンニー州最大の武装勢力であるとともに2021年に結成されたPDFの中でももっとも有力なグループの1つになっている。2023年10月27日に開始された3兄弟同盟の1027作戦に呼応して、1111作戦を実行し、2023年12月現在、州都ロイコーで国軍と激しい攻防戦を繰り広げている。
続き→カレンニー軍(KA)