シャン州軍南部

Shan State Army – South

クンサーの部隊

前史はシャン州軍北部(SSA-N)を参照のこと。

クンサー

麻薬王クンサー

1950年代に中国共産党に破れた中国国民党がシャン州に雪崩れこみ、中国奪還の拠点作りを進めていたが、コーカン族の父とシャン族の母を持つクンサーもその中国国民党の一兵士だった。しかし1953年、ミャンマー政府は国連に中華民国(国民党)がミャンマーを侵略していると訴え、国民党にミャンマーからの撤退を勧告する国連決議が可決。これを受けて国民党は台湾へ撤退し始めたが、雲南省出身の兵士は相当数シャン州に残り、大陸奪還の夢が潰えた60年代に入ってからは、軍の規律乱れ軍閥化したことにより、アヘンの生産量は爆発的に増加。1974年頃にはシャン州含むタイ、ラオス一帯は世界のアヘン生産の3分の1を占めるに至り、ゴールデン・トライアングルと呼ばれるアフガニスタンに次いで世界第2位のアヘンの一大生産地となった。

そんな中クンサーは1963年のKKY制度(カ・キュイエ《Ka Kwe Ye》:「防衛」という意味)を利用して国軍に帰順し、麻薬生産・密売で得た巨万の富を背景に強力な部隊を作り上げていった。が、結局、その勢力の強大化を政府に危険視され、1969年麻薬取引ではなく国家反逆罪の罪で逮捕。しかし1971年、クンサーの残党がソ連人医師を誘拐し、クンサーの釈放を要求した結果、1973年、タイ政府の仲介でクンサーは釈放された。同年KKYが廃止されたため、クンサーはタイ北部のバンヒンテック(Ban Hin Taek)に拠点を置いてシャン統一軍(Shan United Army:SUA)を結成した。そして表向きはシャン族の大義のために戦う反乱軍を装いつつ、麻薬生産・密売で財をなしながら、それをタイ政府に黙認してもらう見返りにタイ共産党とも戦った。

ちなみに1980年代半ば、クンサーはアメリカの記者の単独インタビューに答え、自身の究極の目的はシャン州の独立で、麻薬はそのための手段にすぎないと答えている。そしてアメリカ政府に麻薬を買わないか持ちかけたことがあるとも答えた。麻薬撲滅の費用に比べたら微々たるものだろうと(当然、拒否された)。

そして麻薬はヒューマニズムと相容れないのではないのか?という質問に対しては、このような大説をぶっている。

「それはあなたたち西洋人の当然の報いというものでしょう。少しでも歴史を知っているのなら、当然わかっているはずです。100年、200年前に我々にアヘンの種を押し付けて、アジアの土地に植え付けさせたのは一体誰なのか。そして数百年もの間ほしいままにアヘン貿易を行って、麻薬をいたるところに売りつけて、アヘン戦争を引き起こすことも厭わなかったのは一体どこの誰なんです?すべてあなたがた西洋人です。西洋人が数百年もの間我々アジア人の土地からどれだけの利益を上げ、どれだけの汚れた金を巻き上げ、我々の兄弟たちをどれだけ毒してきたことか。あなたたちは今発展した社会に住んでいる。お金もある。文明社会の恩恵を受けた生活をしている。だから今度は逆に麻薬を禁じようとしているんです。なんだって数百年前にアヘン貿易を禁止しなかったんですか?アヘン貿易で汚れた金をどうして我々に返そうとしないんですか?金を返して我々を貧困から抜け出させようとしないんですか?我々の貧しさや立ち遅れた社会は西洋人が作り出したものではないとでも言うんですか?これが公平で平等な社会でしょうか?我々新しいアヘン戦争を行うのです。ケシの実をあなたがたに返すんです。今こそ西洋人が苦い果実を味わう番が来た……神様は公平です。中東には石油、西洋には武器、アメリカには豊かな海をお与えなさった。我々金三角にはへロインがあります」 出典 

しかしタイ共産党が弱体化するとクンサーも用済みとなり、1982年、彼はタイ軍に追われ、タイとの国境沿いにあるミャンマーの町・ホモン(Homöng )に新たな拠点を設けた。そしてシャン族と密接な関係にあるタイ人との信頼関係を強化するために、クンサーは自分の活動のルーツがシャン族であることを強調し始め、当時、タイの治安組織と繋がりがあったSSAの幹部を次々と暗殺した。そして1985年、モーヘンのシャン統一革命軍(Shan United Revolutionary Army:SURA)シャン州進歩党(SSPPの一部を統合してモン・タイ軍(Mon Thai Army:MTA)を結成。MTAは最盛期には2万人の兵力を誇り、麻薬生産・密売で利益で巨額の利益を上げた。1989年にビルマ共産党(CPB)が崩壊すると、CBPの分派の中でも最強の兵力を誇るワ州連合軍(UWSA)と激しい戦闘を繰り広げた。ちなみにUWSAは中国の支援を受けていた一方、MTAには中国国民党の残党もいたので、中共内戦のリターンマッチの様相も呈していた。

1993年、クンサーはシャン共和国の独立を宣言し、自ら大統領の座に就。しかし1995年6月、サンヨド大佐が大規模な部隊を率いてMTAから離脱し、シャン民族軍(Shan State National Army:SSNA結成、政府と停戦合意を結んだ。この離脱劇MTAの兵士たちの著しい士気低下をもたらし、結局、1996年、クンサーは政府に投降した。その後、クンサーはヤンゴンで暮らし、宝石会社やバス会社を経営して一大財閥を築き上げアメリカから再三にわたる身柄の引き渡し要求政府拒否し、2007年、大富豪のままヤンゴンの自宅で死去した。

ヨードサック

シャン州軍南部(SSA-S)

クンサーが政府に投降した際、それに不満なMTA兵士の一部がヨードサック(Yawd Serk)をリーダーとしてシャン統一革命軍(SURA)を復活させた。ヨードサックはSSPPとSSNAを結集して統一組織を作ろうとしたが上手くいかず、1996年から1997年にかけて国軍のフォー・カット作戦による攻撃を受けて2000以上の村が破壊され、30万人以上が国内避難民またはタイへ逃れた。1999年末、SURAはロイタイレンに本拠を構え、翌年、シャン州復興評議会 RCSSと改称してSURAはその軍事部門となった。この頃からRCSSの軍事部門をシャン州軍南部(SSA-N)、シャン州進歩党(SSPP)の軍事部門をシャン州軍北部(SSA-N)と呼ぶようになった。ちなみにRCSS結成と当時にカナダに亡命政権が樹立され、2005年にはシャン州の独立を宣言したが、RCSSはこれを相手とせず、両者は決裂した。同年5月には国軍のフォー・カット作戦により壊滅的打撃を受けたSSNAの残党がRCSSに合流した。

2008年、新憲法が制定されると、政府は、憲法20条第1項「国軍は強固で時代に即した唯一の愛国軍である」にもとづいて、従前の停戦合意を一方的に破棄し、あらためて各少数民族武装勢力に対して国軍傘下の国境警備隊(BGF)に編入するように要求した(後に放棄)。ほとんどの武装勢力がこれに抵抗したが、RCSSは2011年12月2日政府と停戦合意を結び、2015年10月15日には全国停戦合意(NCA)にも署名し、シャン州における政治活動を活発化させた。さらにNCAを受け入れなかったSSPPが、国軍の攻撃を受け弱体化していったため、RCSSはSSPPの支配地域を脅かすようになり、両者の間で衝突が生じ、SSPPとの関係が深いタアン民族解放軍(TNLA)も加わり、紛争は激化していった。かつての盟友であるRCSSとSSPPとの対立は、政府の分断工作によるものという見解もある。

クーデター後の2022年4月、SSPPと盟友関係にあるUWSAが約20年ぶりにRCSSを攻撃、RCSSはタイ国境地帯への退却を余儀なくされ、2015年以降に獲得したシャン州北部の支配地域のほとんどを失った。このため現在、RCSSは国軍との関係を深めているという話がある。

麻薬生産

クンサーの軍隊を源流にしているとはいえ、タイに食料・水の供給、国境地帯の便宜、携帯電話の電波などを依存し、そのタイが近年麻薬取り締まりを強化していることに配慮して、RCSSは麻薬反対の立場を取っており、ロイタイレンには反麻薬博物館まである。ただこれはRCSSが麻薬生産・密売に”直接”関与してないことを示しているにすぎず、ミャンマー・タイの国境で押収される麻薬の流通経路を考えると、RCSSがいまだに麻薬生産・密売に関与している疑いが強い。実際、北川茂史著「ミャンマー政変」では、ロイタイレンで筆者が住民からケシ畑の写真をスマホで見せられ、現在でもSSA-Sの支配地域内でケシ栽培が行われていることを示唆されている。

ちなみに原則としてミャンマーの少数民族武装勢力は麻薬生産・密売には関与していない。関与しているのはワ州連合軍(UWSA)ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)民族民主同盟軍(NDAA)ような中国系か新民主軍カチン派(NDA-K)のような国軍に帰順した武装勢力だけで(ただアラカン軍(AA)は麻薬取引に関与している疑いが持たれている)、他の少数民族武装勢力は麻薬を輸送する車両が自支配地域を通行するのも黙認する代わりに通行税を徴収しているだけである。