クーデター後、国家の全権はネウィン以下国軍幹部17名からなる革命評議会に委譲され、4月には「ビルマ社会主義への道」を発表して国家の全面的社会主義化を宣言、すべての政党を禁止してビルマ社会主義計画党(BSPP)の一党独裁体制となった。ただしこれは「ビルマに必要なのは強力な国家行政であり、これを実現する最善の形態は一党支配である」としたアウンサンの意向に沿うものでもあった。
翌1963年2月には、あらゆる企業、銀行、店舗、工業、工場なの国有化が宣言された。国防サービス研究所(DSI)の傘下にあった国軍企業も国有化され、そのほとんどが新たに設立されたビルマ経済開発公社(BEDC)の傘下に置かれ、事実上国軍管理下に置かれた。また長らくミャンマー人を搾取していたとされるインド人、中国人の資本は容赦なくすべて国有化され、多くのインド人、中国人がミャンマーを去った。経済の中枢を握っていたインド人、中国人を追放したことは、後にミャンマーの経済低迷の要因となったと批判されることが多いが、経済自由化に舵を切った途端、中国に経済の実権を握られている現状を見るに、致し方ない面もあったように思う。要するにミャンマー人が自立しない限り、ミャンマー人には外国人の下で貧乏になるか、ビルマ人同士で仲良く貧乏になるかの二択しかないというわけである。
またこの体制はBSPP、行政、地方行政、治安組織、工場、貿易、流通の要所に現役または退役軍人を配する軍事独裁体制であり、たとえ軍に対する不満があっても我慢していればそれなりのポストが用意されるということで、内部分裂を抑制することができた。それ以外にも兵士たちは軍人専用住宅に無料で住むことができ、民間人が利用できない電気、ガス、水道といったインフラにアクセスできて、食糧、衣類、医薬品、燃料を入手できるという特権を享受し、将校クラスの軍人は退役後年金生活を送ることができた。このようにして、国軍は独自のマスメディア、銀行、教育機関、病院、保険会社、娯楽施設、支援機構を持ち、その特権を享受できるのは家族、退役軍人を含めて人口の約2.5%を占めると言われている。特に将校クラス以上は一種の上流階級で、一般国民とは隔絶した生活を送り、前述した「弱き国民を守る」という独特のエリート意識を養っている。
クーデターから1週間後の少数民族の代表者との会合で、ネウィンは「情勢が平常に戻り、国家崩壊の危機が去れば民政に復す」と述べており、当初は軍政の恒久化を考えてはいなかった。実際、1972年にはネウィン以下ほとんど閣僚が退役して民間人となり、1974年には新憲法を制定して、選挙で選ばれた議員からなる国権の最高機関・人民議会を設立している(ただ新憲法で認められた政党はBSPPだけで、選挙は実質信任投票、BSPP議長のネウィンが大統領を兼ねた。ちなみに憲法制定時、国名を「ビルマ連邦社会主義共和国」に変更している)。ミャンマー大使を務めた宮本雄二氏によると、国軍関係者は東南アジアでいち早く民主主義を実現した過去を非常に誇りを持っており、できれば(自分たちの利権は保持したまま)議会制民主主義を導入したいと考えている人が多いのだという。そして彼らの憧れは、民主主義を採用しているのに関わらず、実質は自由民主党だけが支持を集め、安定政権を維持している日本なのだそうだ。
クーデターから4ヶ月後の1962年7月7日、早くも流血沙汰が生じた。大学の管理強化に反対するヤンゴン大学の学生がキャンパス内でデモを行ったところ、治安部隊がこれに発砲、数百人の死者が出た。さらに翌日、アウンサンが集会に使ったこともある由緒ある学生会館をダイナマイトで爆破。これはネウィン体制下最初の民主化運動の弾圧であり、英語のWikiに詳細が記されているので、興味がある人は読まれたし。なおヤンゴン大学はその後、大学教育法の改正により医学部、経済学、工学部等が切り離され理学部、法学部、人文学部の3学部のみとなった。
そして弾圧された学生たちは1988年や2021年の時と同じように、カレン州、カチン州、シャン州の武装勢力やCPBの元に赴き、軍事訓練を受けて武装闘争の一員に加わった。なおCPBではこの直後1964年頃に、路線対立から中国帰りの党員が主導した粛清の嵐が吹き荒れ、古くからの幹部だけではなく、クーデター後に合流した学生たちの多くも人民裁判にかけられて処刑された。この話はすぐに学生の間に広まり、以降CPBはインテリの間での支持を完全に失った。
クーデターは民主化運動のみならず少数民族武装勢力の武装闘争も刺激し、こうした事態に対してネウィンはまず柔軟路線で臨んだ。1963年4月3日、一般恩赦を宣言、6月11日には武装勢力のリーダーたちをヤンゴンに集めて和平会議を開催した。この会議にはCPB、赤旗CPB、カレン民族同盟(KNU)、新モン州党(NMSP)、カレンニー民族進歩党(KNPP)、チン議長評議会(Chin Predium Council)、カチン民族機構(KIA)、シャン州独立軍(Shan State Independence Army)、シャン民族統一戦線(Shan National United)が参加した。ちなみに当時、CPB、KNU、NMSP、KNPP、CPCは国民族民主統一戦線(National Democratic United Front)という同盟を組んでいた。しかし政府が示した条件は①すべての部隊を政府指定地域に集中させること②許可なくその地域を離れないこと③すべての組織活動・資金活動を停止すること④軍事基地の場所を公開することなどで、到底各武装勢力が承服しがたいものだったので、11月14日、交渉は決裂。結局、停戦合意を結んだのはコートゥーレイ革命評議会(Kawthoolei Revolutionary Council)というカレン民族同盟の行政部門の一部だけだった。
和平交渉は失敗に終わったが、国軍は国内の反乱を鎮圧しない限り、外国の侵略を受けるという危機感を抱いていた。国軍はKNDOが中国国民党に兵器の提供を要請したり、CPBが中国共産党の指示を受けているという情報を入手していた。そのため国内の反乱対策が新しい軍事ドクトリンの中核となった。
ということで新しい軍事ドクトリンは①国内反乱対策と②外国勢力対策に分けられた。便宜上②から説明する。
②外国勢力対策
強大な外敵に対しては、国軍は、国民の総力を結集したゲリラ戦略を執る人民戦争ドクトリンを導入した。
1964年7月、後に首相を務めたトゥンティン(Tun Tin)率いる調査団が、スイス、ユーゴスラビア、チェコスロバキア、東ドイツに派遣され、人民戦争に関する調査を行い、同様に近隣諸国に調査団が派遣された。この頃、毛沢東の一連の著作や林彪の「人民戦争」、チェ・ゲバラの「ゲリラ戦争」が将校たちの間で広く読まれたのだという。結果、人民戦争を遂行するためには、平時に約100万人の正規軍、非常時にさらに約500万人の民兵を動員する能力が必要とされ、そのための人材育成機関の設立や2年間の兵役義務化が提言された。しかし国内の反乱を鎮圧する前に大量の民兵動員を行うことは、むしろ有害という認識が国軍内で広まり、結局、この大量動員は実現しなかった。
それでも1965年までに人民戦争は国軍の正式ドクトリンとして受け入れられ、各種国軍系出版物を通して人口に膾炙し、1971年のBSPP第1回党大会で正式に承認された。また人民戦争ドクトリンは国内反乱対策においても有効とされ、各地で民兵グループが結成され、まだノウハウは確立していなかったものの、CPBなど国内の反政府武装勢力との戦闘で件のドクトリンにもとづく作戦が実行され、”成功”を収めたとされた。
①国内反乱対策
一方、国内の反政府武装勢力に対しては、山岳部に追いやられた各武装勢力がゲリラ戦に転じたことにより、逆に偵察、待ち伏せ、夜間戦などの対ゲリラ戦術が導入され、武装勢力の幹部の逮捕・拘束、正確な情報、敵軍の殲滅(占領ではなく)、小隊レベルの戦術的独立性が重要視された。そしてこれを遂行するためには、人民戦争ドクトリンと同様に、政治、社会、経済、軍事、公共管理という”5つの柱”を総動員することが不可欠とされ、そのためには国民との支持と協力が重要ということで、兵士の規律の改善が強調された。
そして1968年には、またしてもトゥンテインがイギリスから持ち帰った戦略を元にフォー・カット作戦が策定された。これは①住民から武装勢力への資金提供②住民から武装勢力への食糧提供③住民から武装勢力への情報提供を断って④住民を反武装勢力の戦闘に参加させるという戦略で、以降、この作戦は国軍の代名詞となった。
国内反乱対策の優先順位は、まずイラワジ・デルタ地帯を確保して強化した後、国境地帯に拠点を持つ武装勢力に攻撃を仕かけるというというものだった。またミャンマー中部・南部の戦闘ではフォー・カット作戦が取られたが、シャン州北部での戦闘では正規戦とゲリラ戦が併用された。
③兵站と兵力の増強
①と②を実現するためには、無論、豊富な兵站と兵力が必要であり、国軍は両者の拡充を図った。
まず陸軍参謀本部直轄の軽歩兵師団(LID)という機動性に優れる精鋭部隊を編成し、1966年に第77師団(バゴー)、1967年に第88師団(マグウェー)、1968年に第99次師団(メイッティーラ)、1970年代半ばから後半にかけて第66師団(プロム)と第55師団(アウンバン)と第44師団(タトン)を設置。対KNUの第44師団以外はすべて対CPB対策だった。また軍機構も、1961年に2軍管区(南部、北部)14旅団制から、旅団制を廃止して5軍管区(東南、西南、中央、西北、東部)に再編していたものを、1972年には9軍管区(北部、北西、北東、東部、西部、中央、南西、ヤンゴン、南東)に再々編して、軍管区を南北で統括する2つの特別作戦部を置いた。兵力も増強して、クーデター当時10万人前後だった兵力は1974年までに15万人、1980年には18万人にまで増加。国防費は1950 年代から1970 年代にかけて平均して政府総支出の 3 分の1を占めていた。人材はあらゆる民族、宗教、階層から幅広く集められ、出世はある程度実力主義であったため、少数民族や非仏教徒出身の将校も誕生した。
また1963年には主にシャン州軍(SSA)を弱体化させることを目的として、KKY(カ・キュイエ《Ka Kwe Ye》:「防衛」という意味)という制度を導入した。これは反乱軍と戦うことの見返りにシャン州内の政府管理のすべての道路と町をアヘン密輸のために使用する権利が与えるもので、麻薬取引でKKYが経済的に自立しつつ、反政府武装勢力と戦うことを政府は期待しており、兵力不足と財政難を解決する一石二鳥の策のはずだった。
KKYの司令官として地元の軍閥、非政治的な山賊や私兵の司令官、亡命した反政府勢力などがリクルートされ、その中には後に麻薬王として名を馳せるロー・シンハンやクンサーがいた。彼らは麻薬生産・密売で巨万の富を築き、タイやラオスのブラックマーケットでM-16、M-70グレネードランチャー、M18 57ミリ無反動砲などの高性能兵器を入手した。また当地に駐屯した国軍もアヘン商隊に対する通行税や護衛費や賄賂などで巨額の利益を得た。ただ実際には”麻薬王”というのは存在せず、「水平構造で、流動的で、日和見主義的な」ネットワークが存在するだけであり、麻薬王と言われる人々の収入源も主に建設、恐喝、賭博、売春、詐欺などだそうだ。麻薬王と言われる人物が逮捕されても、一帯の麻薬取引に目に見える変化がないのはその証左と言われている。
ということでKKY司令官、国軍ともに麻薬取引を拡大させるインセンティブが働き、しかも彼らは反乱軍と戦闘を交えず交渉で問題解決を図ったので、反乱軍の弱体化という当初の目的は果たせず、むしろシャン州の麻薬生産・密売を大幅に拡大させる皮肉な結果となった。やがてケシ栽培はシャン州のみならず、カチン州、チン州、カレンニー州にも拡がっていった。
このKKY制度と相まって、①1950年代は大陸奪還の夢が潰えた中国国民党の規律が乱れ軍閥化したことで麻薬生産を拡大したこと(1960年にタイに撤退)②後述する闇経済の拡大により、アヘンと引き換えにタイ国境で入手できる消費財、繊維製品、機械類、医薬品などがミャンマー国内で高額で売れ、麻薬取引のインセンティブがますます高まったことにより、1974年頃にはシャン州含む周辺のタイ・ラオス一帯は世界のアヘン生産の3分の1を占めるに至り、ゴールデン・トライアングルと呼ばれるアフガニスタンに次ぐ世界第2位のアヘンの一大生産地となった。
ビルマ社会主義への道の下、ほぼすべての商工業資本が国有化されたことにより、経済に著しい不効率が生じて深刻なモノ不足が生じ、その穴をインド人、中国人を主とする闇商人・密輸業者が埋めた。彼らはタイ、中国、インド、東パキスタン(バングラデシュ)の国境地帯に馳せ参じ、特にタイ国境での密貿易は盛んで、タイからミャンマーへは消費財、繊維製品、機械類、医薬品、ミャンマーからタイへはチーク材、鉱物、ヒスイ、宝石、アヘンが流れていった。当時、ミャンマーで入手できる消費財の80%がタイからの密輸品だったと言われている。また麻薬生産・密売は爆発的に拡大し、ミャンマーの通貨・チャットの信用がなかったので、アヘンが通貨代わりに利用されていたのだという。少数民族武装勢力はこのような国境に料金所を設置して通関税を徴収し、兵器を入手した。タイ政府もタイ共産党との戦闘に注力するためにミャンマーの少数民族武装勢力を国境警備隊として利用することを考え、密貿易を黙認した。タイの急速な経済発展はこの密貿易に負うところが大きいとも言われている。ミャンマー政府としても即座にモノ不足を解消する手立てがないために、件の密貿易を黙認するしかなかった。
1965年、チャウズワミン(Kyaw Zwa Myint)というイギリス人との混血で、キリスト教徒の陸軍大尉が、ネウィン暗殺を計画したとして指名手配された。暗殺の理由は「ビルマ社会主義への道」は国家経済を破滅に導くことに気づいたからとも、国内のキリスト教徒弾圧に憤りを覚えたらたとも、ネウィンの妻・キンメイザンに近づきすぎたからとも言われる。ちなみにネウィンは、彼を(才能ではなく、忠誠心から)高く評価していたのだという。彼はタイへ逃亡し、バンコクのレストランで食事中にネウィンが送った刺客に刺され、危うく死にかけたが、なんとかオーストラリアまで逃げのび、その後も暗殺を恐れて同郷のミャンマー人たちとの交際を一切絶ったまま、1981年、その地で49歳で亡くなった。残された彼の家族は全員逮捕され、国軍にいたイギリス人との混血の兵士たちは、ほとんど解雇された。インド人とユダヤ人の血を引き、カソリックで、後年、国家秩序回復評議会(SLORC)で経済閣僚を歴任したデヴィッド・アベル(David Abel)は数少ない例外だった。
中国共産党はウー・ヌ政権時代は中立政策を取っていたが、1967年にヤンゴンで反中暴動が発生すると、ネウィンがこれを黙認したと考え、一転してCPB支援に方針転換。1950年に中国雲南省に亡命したカチン族独立運動の英雄ノー・セン(詳しくはカチン独立軍《KIA》)をリーダーに抜擢して軍事訓練を施し、虎視眈々とミャンマー侵攻の機会を狙っていた。そして1968年1月1日、ノー・セン率いる雲南省のカチン族義勇兵を中心とするCPB部隊は、シャン州北端モンコーに侵入して国軍駐屯地を占領。以後、件の地域の国軍の軍事拠点を次々と攻略し、ミャンマー中央部侵攻には失敗したものの、1972年末にワ丘陵地帯のパンサンに司令部を置いて、シャン州北部に解放区を築いた。以後、CPBは中国から譲り受けた兵器を他の少数民族武装勢力に供給することによって、一定の影響力を保っていくとともに、CPBへの対応を巡って少数民族武装勢力に混乱をもたらすことになった(なおKKY制度は、CPB対策にまったく役立たないことが判明したので、1973年に廃止された)。例えばシャン州ではシャン州進歩党(SSPP)/シャン州軍(SSA)が一定の勢力を保っていたが、1974年、一部幹部がCPBと同盟を結ぶことを決定し、1976年シャン州民族人民解放機構(Shan State Nationalities People’s Liberation Organization)が結成され、SSPP/SSAの理論的支柱だったツァオ・ツァン・ヨーウェは翌年タイへ亡命した。カレンニー州では1978年、カレンニー民族進歩党(KNPP)/カレンニー軍(AA)の一部のメンバーが脱退してカレンニー民族人民解放戦線 (KNPLF)を結成した。またカレン族の反乱軍の間でもCPBに対する対応を巡って内紛が生じ、カチン州では1979年、国軍とCPBとの2面対決に疲弊したKIAがCPBと停戦合意を結んだ。1975年にはCPB他、ほとんどの少数民族武装勢力が参加した民族民主戦線(National Democratic Front)が結成された。ただ70年代を通して闇市場の資金源とCPBが供給する兵器があったのにも関わらず、CPBと同盟を結んだ各勢力が大きく勢力を拡大することはなかった。むしろイラワジデルタ地帯からCPBとカレンの武装勢力を追い出したことにより、政府が平野部の安定と平和を達成した期間だったと言える。
ボレヤ
一方、クーデターの際、逮捕投獄されたウー・ヌは1966年に釈放され、その後タイ、インドで亡命生活を送っていたが、1969年、独立の英雄・30人の志士の4人や民政時代の旧政治家を引き入れ、1969年議会制民主党(Parliamentary Democracy Party)/愛国解放軍(Patriotic Liberation Army)を結成。翌年、ロンドンで記者会見を開き、ネウィン政権に対して武装闘争を開始することを宣言した。ウー・ヌにはビルマ式社会主義に不満な都市保守層、役人、知識人、中堅軍人からの支持があり、元祖民主派とも言うべき存在だった。そしてウー・ヌはアメリカ、日本、香港で民主主義の回復を訴えてタイに戻り、同年、カレン民族同盟(KNLA)とモン民族解放軍(MNLA)と連帯して国民統一戦線(National United Front)を結成した。資金源は旧友たちからの寄付や石油探査の独占権と引き換えにカナダや中東の石油会社から引き出した1000万ドルで、1972年までに兵力は1200人ほどに達し、ヤンゴン、バゴー、モーラミャインで発電所や送電線の破壊工作を行ったり、ヤンゴン上空から飛行機で市民に反乱を呼びかけるビラを撒いたりした(ただし市民からの反応は皆無)。しかしKNLAとMNLAがそれぞれカレン州・モン州の連邦離脱権を主張したため同盟は瓦解。1973年、ウー・ヌがアメリカに亡命した後は、30人の志士の1人・ボレヤ(Bo Let Ya)が人民愛国党(People’s Patriotic Party)を引き継いで絶望的な活動を続けていたが、1974年に新憲法が制定された際の恩赦で多数のメンバーが政府に投降。同年ウ・タントの葬儀を機に発生した学生デモが弾圧された際には、多くの学生がPPPに合流してやや勢力を持ち直したが、1978年11月29日、ボレヤはKNU/KNLAの権力争いに巻き込まれて殺害され、残った兵士は故郷に戻るか、タイに移住した。
ウ・タントの葬儀
ビルマ社会主義への道が経済活動の著しい不効率化を招いたたため経済は停滞した。1964年から1974年までの平均経済成長率はわずか2.1%。さらに1970年代に入って頼みの米生産が振るわなくなり、1973年には石油ショックの影響で米価格が高騰。庶民は配給価格の3倍以上の価格の闇米に頼らざるをえなくなり、失業問題も深刻化、最高学府ヤンゴン大学の卒業生でも就職率は10%ほどという事態が生じた。
そんな折、1974年に新憲法が制定され、唯一認められた政党はBSPPのみで、その議長はネウィンで大統領を兼任するという実態はほとんど変わらなかったものの、人民議会という国権の最高機関が設置され、曲がりなりにも民政移管が達成された(国軍と政府ないし党の分離)。しかしこれにより行政処理に時間がかかるようになり臨機応変な対応が取れなくなったこと、軍人と党人との間の内紛が激しくなったこと、世間の緊張が若干緩んだことも一因となって反政府運動が活発化した。
1974年3月から6月にかけて全国で国営企業労働者と学生が提携して、米の増配と賃金引き上げを求めるストライキを実施。1962年のクーデター以来初の国営企業労働者のストライキは各界に衝撃を与えたが、ヤンゴンでは治安部隊がこれを弾圧し、100人近くの死者が出た。
同年12月にはヤンゴンに到着したウ・タント前国連事務総長の遺体を政府が丁重に扱わなかったことに一部学生、僧侶が激怒(事前に計画されていたとも言われている)。彼らはウ・タントの遺体を奪うと、1962年の学生運動弾圧の際、国軍がダイナマイトで爆破したヤンゴン大学の学生会館の跡地に埋葬した。その後、彼らは町中に繰り出してネウィン打倒のスローガンを叫びながらデモを行ったが、これにも治安部隊が発砲して多数の死傷者が出た(政府発表では死者9人、負傷者74人。学生の発表では死者3、400人)。翌1975年もヤンゴンではネウィン打倒を掲げるテロやデモが頻発し、大学は閉鎖。6月にはタキン・コドーマイン生誕100年祭に合わせて大規模なデモが計画されていたが、事前に計画が漏れ、130人の学生が逮捕された。この後、デモ隊への発砲を躊躇ったとしてティンウー国軍最高司令官が更迭された。
そしてこの更迭劇に不満なオーチョーミン(Ohn Kyaw Myint)陸軍大尉以下若い陸軍将校のグループが、1976年3月、ネウィン大統領、サンユBSPP書記長、ティンウー国家情報局長の暗殺を計画した。暗殺は3月27日ヤンゴンの大統領官邸で開催された国軍記念日の晩餐会で決行する予定だったが、グループの連携が上手くいかず失敗。後日、再決行する予定だったが、その前に情報が漏れた。4月2日、オーチョーミンはアメリカ大使館に赴き政治亡命を求めたが、当時のアメリカ政府はミャンマー政府と良好な関係を保ちたいと考えていたので、これを拒否。結局、裏切り者が出てオーチョーミン以下計画の首謀者13名が逮捕され、裁判にかけられた後、オーチョーミンには死刑判決が下され、1979年執行された。裁判ではビルマ式社会主義に否定的な国軍の首脳部ののかなりの数が事前に計画を知っていたという事実が明らかにされ、ティンウー元国軍最高司令官も暗殺計画に関わったとして7年の懲役刑を受けた。もう一人チャウゾー(Kyaw Zaw)准将が計画への関与を疑われたが、逮捕直前にヤンゴンを脱出して、CPBに合流し、CPBの司令官に就任した。彼はクーデター後からCPBに内通しており、ヤンゴンでのテロ工作に関与していた。1977年8月にはBSPP党員による別の要人暗殺計画とラカイン州独立計画が発覚した。
こうして事態に対してネウィンはビルマ式社会主義に固執するBSPP党員5万人の除籍という荒治療に出、同時に経済改革に乗り出して、対外経済協力の推進、高収量水稲の作付面積拡大、海底油田開発への外国企業招聘、民間企業の活動許可、国営企業の合理化といった改革を行った。その甲斐あってミャンマーの経済成長率は1974年2.6%、1975年4.2%、1976年6.1%、1977年6%、1978年6.5%、1979年5.2%、1980年7.8%、1981年6.2%と上昇に転じ、米生産・輸出量も拡大していった。
1978年2月、ラカイン州北部で国籍審査を名目にしたドラゴン・キング(ナガーミン)作戦が実施され、治安当局とロヒンギャ住民が衝突。国軍が出動し、詳細は不明だが、約20万人のロヒンギャがバングラデシュに流出する事態となった。背景には1971年に勃発した第3次印パ戦争勃発によりバングラデシュからラカイン州に約50万人の難民が流入したことがあった。1979年末までに国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の協力の下、大半の難民がミャンマーに帰還したが、1982年に制定された国籍法により、ロヒンギャは無国籍状態に陥り、不法移民と見なされるようになった。