ミャンマー国軍(3)

1980年代

サンユ

和平交渉

中国の支援を受けるビルマ共産党(CPB)の反乱は長らく政府の悩みの種だった。1968年1月1日にカチン族の独立運動英雄・ノー・セン率いるCPB部隊がシャン州に雪崩れこんできて、シャン州北部に解放区を設置した直後から、政府は中国との国交を回復して、ネウィン以下政府要人が足繁く北京を訪問再三CPBへの支援を止めるよう要請したが、中国政府は首を縦に振らなかった。しかし1977年に鄧小平が中国の実権を握ると、かねてより鄧小平批判を繰り返していたCPBの旗色は悪くなり、1977年にネウィンが中国を、1978年に鄧小平がミャンマーをお互い訪問するに及び、ついに鄧小平がCPBの「自給自足原則」を打ち出してCPBへの支援大幅削減決定した。さらに1980年に中国が国境を広く開放してCPBが国境貿易を独占できなくなったこと、1970年代後半からミャンマー経済が回復基調に転じて、国内生産の回復による国産品に押され密輸品の売れ行きが不振に陥ったことにより、CPBは資金不足に陥り、その活動は停滞していった。

最大の難敵だったCPBの弱体化を見て取ったネウィンは、1980年5月大恩赦令を発布、90日以内に出頭すればいかなる処罰も下さないと宣言した。これに応じてその家族を含めば2000人の武装勢力兵士が投降。その中にはインドに亡命して瞑想生活を送っていたウー・ヌや麻薬王のロー・シンハンも含まれており、ウー・ヌの帰順は都市保守層、役人、知識人、中堅軍人といった元祖民主派の抵抗運動の崩壊を意味するもので、その意義は小さくなかった。

また同年、ネウィンは僧侶の全国統一組織であるビルマ僧侶会議を結成。念願の僧侶登録制を導入し、僧侶に扮した反政府活動家や反政府活動をする新興仏教勢力の取り締まりを強化した。国軍は高僧や僧院に多額の寄付をすることで敬虔な仏教徒を装い、仏教の守護者という役割を強調することで、軍政支配を正当化するために仏教を利用してきた。ゆえに僧侶の反政府活動はその正当性を揺るがすものとして、時には少数民族武装勢力や民主化活動家に対するよりも苛烈に弾圧する傾向があった。

さらにネウィンは、中国を交渉の保証人としてビルマ共産党(CPB)とカチン独立軍(KIA)と和平交渉に臨んだ。CPBとの交渉はすぐに決裂したが、KIAとの交渉は1980年8月から1981年5月まで長期に及び、しかしKIAが自治権と軍隊の維持を求めたのに対し、政府はあくまでもKIAの部隊を国境警備隊(BGF)に編入することを求めたため、結局、こちら交渉決裂した。

和平交渉には失敗したが、健康状態が優れないこと、経済成長を軌道に乗せたこと、念願の国籍法制定(翌1982年制定)と反乱鎮圧の目途が立ったことなどから、1981年、ネウィンは大統領職を辞任(BSPP議長には留まった)、後任には忠実な腹心のサンユを当てた。実質的にネウィンの院政だったが、サンユは集団指導体制を敷いて派閥争いを牽制し、安定した政治体制を築いた。

ラングーン事件

しかし1983年5月、ネウィンの秘蔵っ子で、BSPP・No.3の実力者だったMIティンウーが、公金不正利用の罪で逮捕されて無期懲役刑に処せられ、MISの他の幹部も追放された。MISの力があまりにも協力になりすぎたため、政敵に嵌められたという説が有力である。欧米の個人主義に対する反発からか、国軍では集団主義が尊ばれ、ネウィンですら個人崇拝を嫌った。そして集団主義から逸脱した”才能”は、寄って集って潰される運命にあり、MIティンウーもその憂き目に遭ったというわけである。

彼の失脚の悪影響はすぐに現れ、同年10月9日ヤンゴンのアウンサン廟でチョ・ドゥファン韓国大統領を狙った北朝鮮の工作員による爆弾テロがあり、大統領は命拾いをしたもの、韓国の閣僚4人を含む21人が死亡した(ラングーン事件)。MIティンウーが健在であればこの事件は起こらなかったと言われている。政府は情報局の再編に迫られ、キンニュン(Khin Nyunt)が新しい情報局長に任命されたーその彼も20年後にMIティンウーと同じ憂き目に遭うことになるのだが。

最貧国転落

この時期、前述したようにCPBから他の少数民族武装勢力に対する兵器の供給が細ったこと、国境貿易が不振に陥り資金源が枯渇したこよにより、CPB以下各武装勢力の弱体化が進んだ。1984年、国軍はカレン民族解放軍(KNLA)を猛攻撃を仕かけ、KNLAは広範な支配地域と貿易拠点を失った。1986年には過去最大規模の攻撃をCPBに仕かけ、その解放区の一部を初めて攻略、CPBのカチン族、パオ族などの少数民族出身の末端兵士の離反も相次いだ。1987年にはKIAとCPBの根拠地を多数陥落させた。またこれらの地域では、かつてシャン州で実施したKKY制度を導入し、武装勢力の弱体化を図った。1985年と1987年に2度行われた廃貨令も、一時的にせよ各武装勢力に大打撃を与えた(と同時に国民生活にも大打撃を与えた)。

しかし70年代後半から回復傾向だった経済は1982年頃から再び低迷し始めた。主要輸出品の米や鉱産物などの価格が下落して輸入超過となり、国際収支が急速に悪化、外貨不足に陥った。さらに日本の最大の援助国としていたのが裏目に出て、急速な円高により対外債務が膨張。石油の生産量も減産に転じ、燃料不足に陥った。この事態に対して政府は、対外債務の返済が一部免除されることからLLDC(Least Among Less Developed Country:後発開発途上国)の認定を申請し、これが認められた。この事実は誇り高きミャンマー人にとっては大きな屈辱で、特にミャンマーの豊かな時代を覚えている中高年のミャンマー人にとっては衝撃だった。1987年には各地で米騒動が相次ぎ、社会は混乱した。

これに対してネウィンは1987年8月10日「1962年のクーデター以来、25年を経過したが、この間成功もあれば失敗もあった。重要なことは失敗や誤りが何であり、その理由は何であったかを知ることである」「1962年当時と現在とで状況が変化していることは否定できない。時代の変化に応じて必要ならば、われわれも変化しなければならない。必要であれば憲法を改正する」と演説して暗に経済失政を認め、9月1日には農産物取引の自由化という画期的な政策を打ち出した。

しかしこれだけでは国民の不満は収まらなかった。

1988年民主化運動

マウンフォンマウ

3月事件

3月12日ヤンゴン工科大学近くの喫茶店で、工科大生3人が持参したSai Hti Hsengというシャン族のフォーク歌手のカセットテープをかけるのかけないので、先客の青年と喧嘩になり、学生の1人が件の先客に椅子で頭を殴られた。件の青年は警察に逮捕されたが、地区人民評議会の議長の息子だったためすぐに釈放された。

これに怒った約30人の学生が評議会に抗議に行ったが門前払いを喰らい、腹を立てた彼らは建物に石を投げたり、テーブルや椅子を破壊するなどの乱暴狼藉を働いた。さらに2、300人の学生が喫茶店近くの交差点まで抗議のデモを行ったが、その際、待ち構えていた消防隊と治安部隊と衝突。突然、治安部隊が発砲して、少なくとも3人が死亡、数十人の負傷者が出た。犠牲者の1人はマウンフォンマウ(Maung Phone Maw)というBSPP青年組織と工科大赤十字チームのリーダーの一人で、学業優秀な青年だったことから、学生たちに与えた衝撃は大きく、この事件に抗議して工科大学の有志たちが抗議のポスターとビラを制作して、ヤンゴンの他の大学でも配ったが、15日、600人以上の治安部隊が工科大学を襲撃して、少なくとも3、400人の学生を逮捕、大学を閉鎖した。

3月16日、ヤンゴン大学で学生たちによる数千人規模の抗議集会が開かれ、「ネウィンを火葬せよ」「軍政に終止符を」「全国で革命を開始する」などと書かれたビラが配られた。その後、デモ隊はヤンゴン工科大学へ向けて行進を始めたが、ピュー・ロードのインヤー湖のほとりホワイト・ブリッジのあたりで治安部隊と衝突。20~100人ほどの死者が出た。インヤー湖には遺体が浮かんでいたが、待機していた消防隊によって事件現場は何事もなかったかのようにきれいにされた。

「兵隊によって殴られた者の多くが女性学生であった。何人かは髪を引きずられ、インヤ湖に蹴り落とされた。岸まで泳ごうとした者は再び殴られ、女子学生の中には祈るように跪いて哀願する者もいた。逃げる途中でロンジーを落とした者は、髪を掴まれ、引き戻され、殴られた。彼女らは白昼湖に蹴り落とされた。後で2人の女子学生の死体が浮いているのが目撃された……女性学生たちはブレスレットやネックレスや腕時計を奪われ、車の中で虐待された。その夜の多く者がインセイン刑務所で死んだ。彼らが火葬された際には、身元の確認もされず、記録も残されず、家族にも知らされなかった」(アウンジー書簡)

翌3月17日ヤンゴン大学で開かれ集会にも治安部隊が出動し、1000人以上の学生が逮捕され。彼らはトラックの荷台にすし詰めにされ、催涙ガスを吸入した後の換気不良が原因で41人の学生が窒息死した(この事実は後日政府が明らかにするまで伏せられた)。このあたりからヤンゴン大学の学生たちの組織化が進んだが、それは皮肉にも当時ミャンマーでもっとも組織的立っていたBSPPや国軍を真似たもので、情報部、社会福祉部、保護部といった組織が作られた。保護部は組織内のスパイを炙り出す部署で、学生寮の一角に”刑務所”を作り、スパイ容疑をかけた者を尋問し、必要とあれば処刑した。この頃既に3人の学生が処刑されたのだという。

3月18日、デモ隊はキャンパスを飛び出し、スーレーパゴダ前で1万人規模の集会が開いた。群衆が暴徒化して、信号を破壊したり、政府のジープを焼いたり、政府の建物に石を投げたり、放火したりし始めたので、またしても治安部隊が出動。約1000人が逮捕され、銃殺された者もいた。またスーレーパゴダ近くのモスクに集まって事件を目撃したムスリムの人々は、後日トラックに押しこまれインセイン刑務所に送られた。暴動はヤンゴン各地に広がり、あちこちから黒煙が上がって、軍隊までもが出動して徹底的に弾圧した。

アウンジー

アウンジー書簡

4月、5月、街中は平穏だったが、釈放されて戻ってきた学生たちが刑務所内で拷問を受けたという話が広まり、学生活動家の間で政府に対する怒りが高まっていった。

6月8日、ネウィンの元部下で1963年にネウィンの経済政策を批判して失脚した後、喫茶店の店主をやっていたアウンジー元准将が、ネウィン批判を慎重に避けつつ、3月事件の事実を明らかにし、現状を変えるためには労働者、農民、軍人、学生団結して革命を起こすべきと訴える書簡を書いた。アウンジーは昨年7月にもネウィンに経済政策の変更を求める書簡を出しており、因果関係は不明だが、実際、ネウィンが経済失政を認める演説をしたという経緯があった。この書簡はコピーされ、ヤンゴンのみならず全国に出回り、3月事件における国軍の”蛮行”が人々に広く知られるようになった。

6月事件

6月15日頃からヤンゴンの各大学で頻繁に学生集会が開かれるようになった。当初は平穏なものだったが、20日、政府がヤンゴン大学の閉鎖を発表したため、怒った学生たちは、翌日、ヤンゴン大学からダウンタウンまでデモ行進し始めた。しかしピュー・ロードのホワイトブリッジ事件があった場所で装甲車と機関銃ライフルを携えた軍隊治安部隊と衝突。兵士たちは発砲し始め、デモ隊は散り散りになって逃げた。住民たちは石やレンガ、そしてジングリーという自転車タイヤのスパイクや傘の骨を弓矢にして、その先に除草剤や牛糞を浸し、パチンコで発射する武器で応戦した。デモ隊にも軍隊・治安部隊にも死傷者が出警官の遺体を載せたトラックが暴徒に襲われ、遺体ごと焼かれるという事件もあった。4人のダラン(密告者)住民により拘束されたが、釈放したところ、彼らの密告によってその夜数百人の学生活動家が逮捕された。この日の犠牲者はデモ隊側80人、警官20人の計100人。またヤンゴンから50km離れたバゴーでもデモ隊と軍隊・治安部隊が衝突し、デモ隊70人が殺害された。この日を境にヤンゴンの大学はすべて閉鎖され夜間外出禁止令が出され、6月22日には集会・デモが全面的に禁止された。

また6月事件の最中、デモや集会が行われていた大学キャンパスで、ムスリムの男性が仏教徒の女性を誘惑する組織的な計画をし立てているとして、ムスリム系商店のボイコットを呼びかけるビラがばらまかれることがあった。7月10日から12日にかけてタウンジーで、7月16日にはピィで反ムスリム暴動が発生し、いずれも治安部隊が出動して死傷者が出る事態となった。当局が学生・市民の不満を逸らすために反ムスリム感情を煽ったと言われている。

ネウィン辞任

7月23日から25日にかけてBSPPの臨時党大会が開かれ、その初日、ネウィンが突然BSPP議長の辞任と単一政党制か複数政党制かを問う国民投票の実施を発表した。その際「今後騒乱があれば威嚇射撃することなく、狙いを定め当たるように撃つ」という名言(?)も飛び出す。結局、国民投票の実施は党大会で否決されたが、宣言どおりネウィンは辞任し、セインルインが後任の議長となった。この辞任劇には自作自演説、乱心説など様々な憶測を呼んだが、いずれにせよネウィンの口から複数政党制の言葉が出たことにより、反政府運動の焦点が民主主義に絞られるきっかけとなった。

ちなみにこれより前、7月19日に母の看病のために一時帰国していたアウンサンスーチーが殉教者の日の式典に出席した旨を国営新聞が伝え、国民その存在を知ることになった

セインルイン

ミンコーナイン

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セインルインはカレン族の独立運動の英雄・ソーバウジー(Saw Ba U Gyi)殺害や1962年クーデター直後の学生デモの弾圧の指揮を取った、治安・公安畑で長らく権力を振るっていた人物で、3月事件、6月事件弾圧の責任者でもあり、国民の間ではすこぶる評判が悪い人物だった。あだ名は”肉屋”。彼が議長に就任した直後、アウンジーやAP通信記者・セインウィンなど反政府的言動を繰り返してきた人物9人が逮捕された。

ヤンゴンではデモや集会は相変わらず散発的に行われていたが、いずれも平和的なものであり、特段騒動もなかった。8月1日には全ビルマ学生連合(All-Burma Student's Union/通称バ・カ・タ)が1988年8月8日、8が4つ並ぶ吉祥の日にゼネストを呼びかけるビラを街中で配り始めた。ビラの署名には後に高名な民主化運動家となるミンコーナインの名前があった。1938年という年は、ミャンマー中部・マグウェーの油田労働者によるストライキをきっかけに、ヤンゴンで学生・活動家による大規模な反英植民地運動が巻き起こった、後の独立運動の発端となった年ということで1300年革命と言われているが、1988年はその1300年革命50周年に当たる年という認識が人々の間に広まっていった。

8月3日、突然、政府はヤンゴンに戒厳令を敷いたが、その後もデモ・集会は行われ、1988年8月8日、ヤンゴンで5万人規模の歴史的な大規模なデモが行われた。シュプレヒコールもプラカードもなく、ただ旗2、3本掲げぞろぞろ歩くだけの奇妙なデモだったが、デモ隊を囲んだ市民は拍手でこれを歓迎した。大規模なデモはヤンゴンだけではなく、サガイン、ピンマナ、モーラミャイン、タウンジー、ミッチーナなど全国各地で行われた。

しかしヤンゴン市庁舎前に居座ったデモ隊が解散の気配を見せなかっために、治安部隊が発砲を開始。逃げ惑う群集に容赦なく弾丸が降り注ぎ、夥しい死傷者が出て、道端には血溜まりができた。ヤンゴン以外の場所でも同様の弾圧があり多くの犠牲者が出た。弾圧は8日から12日まで5日間続き、その犠牲者の数は正確にはわかっていない。

12日、セインルインは辞任に追いこまれ、人々は鍋やフライパンを叩いてこれを喜んだ。

マウンマウン

スーチー登場

8月19日、法律家で穏健な人物として定評があり、がしかしネウィンには忠実なマウンマウンがBSPP議長となる。マウンマウンは治安部隊に発砲を控えるよう厳命していたため、彼の議長就任後、デモは全国各地で広がり、学生だけではなく、労働者、公務員、僧侶、経営者、医者、弁護士、芸術家、ムスリムあらゆる人々が参加した。また学生運動のシンボル・赤い孔雀の旗、シュプレヒコール、プラカードとデモの体裁整っていった。プラカードには「軍政打倒」「複数政党制実現」などと書かれていた。24日にはヤンゴンの戒厳令が解除され、マウンマウンは9月12日臨時党大会を開あらためて国民投票の是否について協議するという声明を発表した。しかし国民はこの意義がよくわからなかったようで、反応は今ひとつ。当時の一般のミャンマー人の民主主義理解は「民主主義になれば車が買える」程度のものだった。

デモを主導したのは学生たちだったが、彼らは自分たちには政権担当能力がないことを重々承知しており、自分たちのリーダー探しに苦労していた。当初はアウンサンの長男で、アメリカ在住のアウンサンウーに期待がかけられたが、彼は政治には興味がなかった。

25日には釈放されたアウンジーがヤンゴン市内のサッカー場で演説をして、多くの人が集まったが、彼はネウィンに忠実な元軍人で、やはりリーダーには物足りなかった。

元国防大臣で投獄された経験があり、当時は弁護士をしていたティンウーも公衆を前にして演説し、好評を博したが、彼もまた元軍人だった。

インドで瞑想生活を送っていたウー・ヌ元首相もインドから帰国してひさびさに表舞台に出、民主平和協会の結成を発表して元同僚などから支持を得たが、いかんせん高齢だった。

ということでアウンサンの娘で、教養があり、容姿端麗なスーチーに白羽の矢が立ち、26日、シュエダゴンパゴダで彼女の演説会が開かれた。聴衆は約30万人。内容は多党制への移行または総選挙実施のための暫定政権樹立を求め、国軍に国民の側に付くことを訴え、国民には平和的手段で戦うことを求めるものだった。後年歴史的演説と評価されているが、演説は原稿を淡々と読み上げるだけで迫力を欠き、スピーカーの出力が弱く、ほとんどの人々が聞き取れなかったのだという。また「国民の団結と規律が必要」「大通りでデモをするだけが戦いではない」「政治問題は政治的に解決すべき。武力に訴えるべきではない」「まず国民が民主主義の真髄を理解すべき」「民主主義の下ではなんでも自由に発言できるわけではない。誤ったことを言うのは民主主義の権利の濫用」といったスーチーの諸々の発言を聞いた学生の間からは、「ネウィンと変わらないじゃないか」という声も上がった。

停滞と過激化

しかし長引くデモとストで国民生活は麻痺して経済は悪化。政府系商店の略奪放火も横行。また2021年と時と同じく国軍が大量に囚人を釈放したことにより治安も悪化し、各地区はバリケードを築いてナタや刀で武装した自警団を結成した。警察官やスパイ疑惑をかけられた人々の斬首も相次ぎ、ガリ版刷りのアングラ新聞にその写真が度々掲載された。この自警団に感化されてデモ隊も徐々に武装化していき、手槍、日本刀、ジングリーを使って治安部隊を威嚇したが、 警官は相変わらず静観していた。

「政府は完全に閉鎖され、冷酷な暴徒があらゆる都市、町、村を暴力的に支配した。ヤンゴンのすべての警察署は学生主導の暴徒によって襲撃され、警察官は残忍な拷問を受けて殺害された。 北オッカラパでは、私たちの家からそれほど遠くない警察署が占拠され、そこの警察署長が大きな焚き火で生きたまま焼かれた。 その後、生徒数人が彼のローストした肉を切り分け、自家製の酒を飲んだ。 南オッカラパでは、「ヤウン・ギー・ブウェイ(Yaung-gyee-bway)」と呼ばれる長髪の凶悪犯が最も悪名高かった。 彼と彼の凶悪犯グループは、気に入らない人々をダラン(密告者)であると非難し、公衆の面前で首を切り落とし、大勢の群衆がこういう公開斬首を見に行った。 無政府状態と無法状態は本当に恐ろしい……」「私は彼が家の近くの交差点で悲惨な死に方をしているのを見た。 ある生徒はペニスと睾丸を一緒に切って遺体の口に詰め込んだ。 地元住民からの多くの苦情を受けたので、数日後、彼らは彼の口から性器を取り出した。 しかし、彼らは依然として、彼が最後に息を引き取った同じ場所に腐乱死体を放置し続けた」出典

9月9日、ウー・ヌが暫定政権の樹立を宣言。しかしその内容は①自分は1962年に非合法なクーデターで政権を奪われたが、1947年憲法にもとづき今でも自分は合法的な首相である②10月9日に選挙を行うが、投票用紙や投票箱を用意できないので大集会における拍手で議決したい③地方で選挙ができないのは大変遺憾という残念なもので、失笑を買っただけだった。

翌10日、マウンマウンは国民投票を行わずに複数政党制の総選挙を3ヶ月以内に行うと発表した。セインルイン辞任(8月12日)、国民投票の実施(8月14日)に次ぐ大幅な譲歩で、暫定政権樹立はBSPP支配の死を意味するので、これ以上はない政権の譲歩だったと言えよう。

9月13日、デモを主導する学生たちが、スーチー、ウー・ヌ、アウンジー、ティン・ウーの4人をヤンゴン市内の医科大学の教室に集めて、暫定政権樹立を求める会合を開いた。翌日、ウー・ヌが同じ教室に現れ自分の所信を述べたが、昔話と自慢話に終始し、学生たちは大いに失望し。他の3人も返答期限の15日に「平行的に暫定政権を樹立するのは好ましくない」と返答を送った。

ソーマウン

クーデター

9月17日、貿易省前で武装化したデモ隊が国軍兵士24人を拘束して、その武器を奪うという事件が発生した。これが決定打となり、翌18日、国営ラジオが「国軍が全権力を掌握した」と発表、国家秩序回復評議会(SLORC)が設置され、ソーマウン国防大臣が委員長の座に就いた。クーデターの目的は①治安と法秩序の維持②運輸通信の安定③国民生活の便宜④複数政党制の下での総選挙実施だった。クーデター後3日間、各地で暴動が発生したが、国軍はこれを徹底的に弾圧。正確な数は不明だが全国で多数の死傷者が出た。国軍の用意周到ぶりからして、クーデターは予め計画されたもので、しばらくデモや集会を静観していたのも、反政府活動家を炙り出す目的があったと言われている

10月に入るとストライキをしていた続々と職場復帰し始め、事態は終息に向かった。当時ヤンゴンに滞在していた外交官の藤田昌宏氏によれば①リーダー不在②シナリオ不足が民主化運動失敗の要因であったという。民主化運動はたしかに盛り上がったが、最後までバラバラだった。

国軍マインド

これまで国軍が国民に向かって銃口を向けたことは何度かあったが、これほどまで犠牲者が出たのは初めてのことであり、この一連の出来事で、当時、国民の間にまだわずかに残っていた国軍に対する尊敬の念と支持は霧散し現在に至っている

そして2021年クーデターの時にも散々言われた「なぜ国軍はこんな残酷なことができるのか?」という問いだが、そのような問いを発する人たちは「普通の人びと」でも読んで、わりと普遍的なことだということを知ってほしい。「フルメタル・ジャケット」で人口に膾炙しているが、人間を殺人マシンにするのはわりとマニュアル化されているのだ(そして殺人マシンを人間に戻す技術は未開発)。

ミャンマー人は小学生の頃から、誇り高く、統一され独立したミャンマーが、イギリス植民地支配され、経済的搾取人種差別を受けていたことを教えられる。「植民地主義」とは国軍が現在でも軍政に批判的な諸外国に対して頻繁に使う言葉だ。さらに軍人は独立初期の政治的分裂、CPBや少数民族武装勢力の反乱、中国国民党の侵略、それらの勢力と結託した中国、アメリカ、台湾、タイなどの外国勢力についても学ぶ。そして今のミャンマーがあるのは、国軍がそれらの勢力を駆逐しからだと。国軍に批判的な人々は「愛国心を喚起するために、内部分裂や外部からの脅威利用ている」と主張するが、教育内容自体は歴史的事実に即している。


「国軍と国は協力して連邦に害をなすすべての者を粉砕する」


また国軍に批判的な人々は国軍兵士を「無知」と揶揄し、だからこそ”軍事奴隷教育”に洗脳されやすいのだと主張するが、それは末端の兵士の話であって、将校クラスは違う。国軍士官学校DSA)では軍事訓練だけではなく学士号の学位が得られ、軽歩兵司令官と軍事作戦司令官以上の階級昇進するためには、国防大学(NDC)で修士号を取得することを義務づけられている。大橋洋一郎・藤川大樹共著「ミャンマー権力闘争」にも「西側諸国には、ミャンマー国軍を『ならず者集団』と見なす向きもあるが、それは間違いだ。軍事政権の支配が長引く中、優秀な若者たちは国軍を目指し、政治・経済を牛耳ってきた。今も国軍は国会で一定の議席を占め、天下りなどを通じて主要企業の多くをコントロールしている。企業経営や金融など経済発展に必要なノウハウは国軍が握っている」とあり、キンニュンやテインセインのような人物が国軍から生まれたことからもそれは明らかである。

また国軍では学科や思想教育だけではなく、規律と規範を徹底的に叩きこまれる。国軍では命令が下されたら、何も考えずに、疑問の余地なく、即座に従わなければならない。そして軍法と民法の双方を遵守し、名誉ある行動を取り、国民の模範でなければならないと繰り返し諭され、厳しい訓練や戦闘の経験を共有することにより、同僚、上官、部隊、国軍、そして国家への連帯意識を深める(が、これらは他の国の軍隊も同様だ)。


「軍の規律は国軍の背骨であり、魂でもある」


このような教育を受けた上で、さらに軍人は軍人専用住宅に住み、一般国民とは隔絶した生活を送る。そしてそこは軍情報局、上官、同僚から私生活の細部まで監視される監視社会だ。読書や視聴するテレビ番組は検閲を受けたものしか許されず、SNSの投稿、家の調度、妻のロンジーの色(NLDカラーの赤は好まれない)まで監視の対象となり、交友関係は軍人のみに限られる。


国軍は母親であり、国軍は父親である」


そうして出来上がるのは、特定の民族的、宗教的、地理的、社会経済的背景を超越した、国軍と①連邦分裂阻止②諸民族分裂阻止③国家主権堅持という3つの国家的大義に対する特別な責任を負うと自認する一種のエリート集団で、数々の経済的特権がそれを担保する。まさに国家の上に立つ存在なのだ。これは一種の解脱であり、仏教徒の兵士には理解しやすいものだったろう。

そうなると、兵士たちが民主化デモに銃口を向けるのは容易だ。なんとなれば、彼らからすれば、民主化活動家など①国家の防衛を担うのは軍隊②長年、血汗を流し、命を懸け、手足をもぎ取られながら反政府武装勢力から「ミャンマー」という国体を守ってきたのは国軍という基本事項も理解できず、外国人から吹き込まれた民主主義と国軍憎悪で理性を失った国家秩序紊乱者に過ぎず、長年対峙してきた少数民族武装勢力等となんら変わらない存在だからだ。しかも武装しているとなれば、国民は「弱者」であり、保護すべき対象ではあるが、事ここに至れば仕方がない、ネウィンの言葉どおり「狙いを定め、当たるように撃つ」となる。解脱した状態では、俗世の善悪、美醜、真偽の観念など何も意味をなさない。蛇足だが、2007年のサフラン革命の際も2021年のクーデターの際も、国軍は1998年民主化運動の際よりも迅速にデモを鎮圧している。国軍のデモ鎮圧ノウハウは確実に進歩しているのだ。進歩していないのは…


「国軍が強くなってこそ、国家は強くなる」


そして国軍はこのような弾圧をして国内外の批判を浴びても、経済支援確保という実際的な理由から妥協することはあっても、感情的にあまり気にしているふうではない。「ビルマ社会主義への道」でも顕著なように、国家建設であれ、経済開発であれ、紛争管理であれなんであれ、ミャンマー人は自分たち独自のやり方(特殊)に固執すると言われるが、これは内敵と外敵を数多抱えるミャンマーの特殊事情によるもので、特殊が特殊を生んだものと言えよう。そしてこのミャンマー人の特質は、外部の理解を拒否して、孤高を貫くという国軍の姿勢にも表れており、これには仏教の中道哲学の影響指摘する声もある。1995年、当時のSLORC副議長・マウン・エイ(Maung Aye)は「安全保障は、自らの政治、経済、社会システムを自由に選択し、自らのペースで、大切にしてきた価値観や理想に従って自らの将来を決定する基本的権利と同義である」と述べ、スーチーにしても2017年に「私たちは私たち自身の運命の支配者でなければなりません。私たち以上に、私たちの国の状況と私たちのニーズを理解している者はいないのです」と述べており、ミャンマー人の自分の国を特殊視して外部の理解を拒否する自負心は、並々ならぬものがあると言える。そしてそれは、ロヒンギャ危機でスーチーと国軍が国際社会に強く避難された際にも、まったく動じず、反ロヒンギャで両者と一致団結した一般のミャンマーの人々の心の中にもしっかりと根づいている。


ミャンマー国軍(4)

参考