ビルマ共産党
Communist Party of Burma
復活した名門
タキン・ソー
英植民地化の1930年代のミャンマーでは、植民地支配に対する不満から学生や労働者のストライキや農民反乱(サヤー・サンの乱《1930年》)が頻発しており、イギリスやインドに留学した学生経由で社会主義思想・共産主義思想が流入しており、当時は超少数のエリートだった大学生の間で広まっていた。
サヤー・サンの遺産管理人だったウ・トン・ペはその遺産で「資本論」「国家・革命・反革命」などの左翼図書を購入し、図書クラブを設立。他にもイギリス帰りの学者が左翼文献を持ち帰った他、英植民地政府行政官で後にミャンマーの政治・経済・社会の第一人者となるJ・ファーニヴァルも左翼文献をミャンマーに紹介した。1937年、後に独立後の最初の首相となるウー・ヌがインドから左翼文献を持ち帰り、ナガニ(Red Dragon)という図書クラブを設立。当時の大学生たちはそれらの文献を貪るように読んだ。
そして1939年8月15日ヤンゴンの小さなアパートの一室で、タキン党のメンバー5人とインド人労働運動のリーダー2人によってビルマ共産党(Communist Party of Burma:CPB)が結成され、アウンサンが書記長に就任した。ただ当時共産党は非合法であり、メンバーは他のグループもかけ持ちしていたので、この共産党は特段活動することなく自然消滅した。
CPBが存在感を示すようになったのは、第二次世界大戦勃発後、日本占領を経て、ミャンマーの民族主義者が抗日に転じてからだった。1942年8月、タキン・ソーが中心となって有名無実化していたCPBを再建し、その主導で1945年8月、抗日統一組織・反ファシスト人民自由連盟(Anti-Fascist People's Freedom League:AFPFL)が結成される。そして抗日闘争でもCPBは重要な役割を果たし、同年5月1日ヤンゴンが解放された時には、CPBの人気と勢力は最高潮に達した。当時CPBは3万人のゲリラを有し、日本軍の死傷者の60%が彼らによるものだったのだという。
ヤンゴン解放の日から1948年1月4日独立を果たすまでにCPBは労働組合や農民組合を組織して、数々のストライキを敢行して人気を博し、党員数は100万人にも達した。当時のCPBは社会主義への平和的移行を目指していた。しかし1945年9月政府がイギリスとキャンティ協定を結び、英植民地軍とビルマ国民軍(Burma National Army:BNA)が統合されると、タキン・ソーら強硬派はこれをイギリスへの屈服と見なす。あくまでも武装闘争でイギリスをミャンマーから追い出すべきと言うのだ。CPB内の路線対立が激化すると、タキン・ソーらは1946年2月赤旗共産党を結成して地下活動に入り、従来の赤い旗を引き継ぐ。残った大多数の党員は白旗共産党(以下CPB)と称され、新しい白い旗を使用することになったが、この白旗共産党も、イギリス主導で設立された独立前の暫定内閣にアウンサンが参加したことを批判し、同年10月、AFPFLを除名された。
CPBはミャンマーの独立を約束する1947年10月17日のアウンサン・アトリー協定にも反対していたが、同年行われた制憲議会選挙には党員が無所属で立候補したものの、たった7議席しか得られず惨敗した。1948年3月18日にはAFPFLを国家の裏切り者と見なし人民政権を樹立すべしという、いわゆるゴーシャル・テーゼが採択され、いよいよ過激化するCPBを放っておけなくなったウー・ヌは、3月28日、CPB幹部の一斉検挙に踏み切った。しかし逮捕の直前に幹部は逃亡して武装闘争に入り、4月2日、バゴー管区のPaukkongyiという町で最初の銃声が鳴った。現在に続くミャンマーの内戦の始まりを告げる号砲だった。この際、CPBは毛沢東に倣って「農村から都市を包囲する」方針を取ることに決めたが、結果的にこれは鉄道労働者、港湾労働者、鉱山労働者などの平野部の労働者の広範な支持を失うことになった。一般国民はCPBの過激化路線にはそっぽを向き、以降、CPBが失った左派国民の支持は、1962年の軍事クーデターまでビルマ社会党(Burma Socialist Party:BSP)、ビルマ労働者農民党(Burma Workers and Peasants Party)などが引き継いでいく。
当時1万5000人の兵力を擁していたCPBの反乱はまたたくまに全土に飛び火。カレン族、パオ族、モン族、ムスリムの反乱もこれに続き、一時期上ミャンマーの3分の2を支配下に置いた。が、インドやイギリスから莫大な軍事支援を得た国軍がこれに反撃、1950年頃にはCPBの大半は都市部から撤退し、バゴー山脈、イラワジデルタ地帯(ここではカレン族の左派と共闘した)、サガイン北部に小規模な根拠地を構え、小規模な戦闘を繰り返すだけになった。それらの地域でCPBは地主から土地を取り上げて農民に分配するなどして農民の支持を得ていたが、同じ頃、中国共産党に破れた中国国民党がシャン州に雪崩れこんでくると、政府と協力してこれを撃退し自らのプレゼンスを上げることを目論見、農民に分配した土地を地主に返してしまった。結局、ウー・ヌはこの申し出を拒否、CPBは農民の支持を失っただけに終わった。
1953年、政府はCPBを正式に非合法化。1955年には武装闘争路線を放棄して合法的政党に生まれ変わる採択をしたものの、政府はこれも拒否。CPB党員の中には中国に渡り、中国共産党の支援を取りつけようとした者もいたが、当時ウー・ヌ政権の中立政策を支持していた中国共産党は、彼らに政治教育は施したものの、軍事支援は拒否した。
1962年3月2日、ネウィンがクーデターを起こして軍事独裁政権が成立すると、バゴー山脈のCPB根拠地には弾圧から逃れた少なくない学生がやって来た。ネウィンの反共姿勢に警戒心を強めた中国共産党もCPBを支援し始め、四川省のCPB亡命者たちはビラの印刷を認められ、北京に赴いて国家や党のリーダーたちと会談を持つようになった。1963年、ヤンゴンでネウィン主催の和平会議が開かれ、CPBも出席。交渉は決裂したが、この席で共に会議に出席した中国に亡命した党員とバゴー山脈の党員との間に交流が生まれた。中国亡命者たちは会議を抜け出して、バゴー山脈の党本部に赴いて無線通信機を置いていき、これにより両者は無線で常時通信できる状態になった。しかし1964年頃、路線対立から中国帰りの党員が主導した粛清の嵐がバゴー山脈の党本部にも吹き荒れ、古くからの幹部やクーデター後に合流した学生など多数の党員が人民裁判にかけられた末、処刑された。手を下したのは孤児育ちの純粋培養の紅衛兵たちだった。
1967年、ヤンゴンで反中暴動が発生すると、中国はネウィンがこれを黙認したと考え、CPB支援に転じた。そして1968年1月1日、カチン族の独立運動の英雄で中国に亡命していたノー・セン率いる雲南省のカチン族義勇兵を中心とするCPB部隊が、シャン州北端モンコーに侵入して国軍駐屯地を占領。1月5日には後にコーカン特別区首席となる彭家声に率いられたCPB部隊がコーカンを占領した。CPBはさらに支配地域を拡大し、この辺り一帯に解放区を設置、地元の少数民族の軍閥を武装化させて指揮下に置いた。当時、彼らの正体は不明で、政府としては寝耳に水の話だった。
さらにこの新生CPBは、バゴー山脈の党本部と繋がってミャンマー中央部を占領することを計画。1971年、サルウィン川にかかるクンロン橋周辺を一時占領したが、41日間の激闘の末、コーカンに撤退した。続いて1972年末にCPBはワ丘陵地帯に入り、パンサンに新しい司令部を設置。以後、中国はCPBに軍事支援だけではなく、食糧支援、物資支援、はては水力発電所を建設したり、ラジオ局を開設したり支援を惜しまなかった。CPBは中国から譲り受けた兵器を他の少数民族武装勢力に供給することによって、一定の影響力を保った。
この新生CPBが中国の支援を受けていることを知った政府は、1970年、中国と国交を回復。CPBへの支援を止めるように中国に再三要求したが、拒否された。短期的にはシャン州北部のCPB殲滅は不可能と判断した国軍は、装備が貧弱なバゴー山脈、イラワジデルタ地帯、サガイン北部、ラカイン・ヨマ山脈(赤旗CPB)のCPBの拠点を殲滅してシャン州北部のCPBとの関係を切断しようと計画。これらの拠点に猛攻撃をしかけて次々と攻略していき、タキン・タン・トゥン、タキン・ジン、タキン・チットなどのCPB党幹部も相次いで戦死し、1970年から72年の間に件の地域のCPBは一掃された。
こうしてCPBはミャンマーの中心部から遠く離れたシャン州北部に孤立することになった。1974年には石油労働者のストライキとウ・タント元国連事務総長の葬儀をきっかけに大規模な反政府デモが発生し、国軍はこれを弾圧したが、1962年の時と違い、シャン州北部のCPBに流れてくる者はほとんどいなかった。1960年代半ばの粛清の件が既に都市部のインテリにも伝わっており、誰もCPBと関わりたいと思わなかったのだ。
この際、CPBはシャン州やカチン州の少数民族武装勢力と組んでミャンマー中央平野部に侵攻することを計画したが、件の少数民族武装勢力がCPBと組むことにより住民の支持を失うことを恐れ、実現しなかった。
1977年、鄧小平が中国の実権を握ると、さらに情勢は悪化。CPBはこれまで鄧小平を修正主義者と散々批判してきたので、中国に袖にされるようになった。対するネウィンは同年、中国を訪問して鄧小平と会談するとともに、中国の支援を受けながらも国際的に孤立していたクメール・ルージュ支配下のカンボジアを電撃訪問して中国の歓心を買い、さらに1979年には親ソ派のキューバの議長国就任とクメール・ルージュのカンボジアに代表権を与えなかったことに抗議して、非同盟運動から脱退した。中国もこれに応えて1978年鄧小平がミャンマーを訪問(復権後、初の外遊だった)。CPBへの支援中止を確約したわけではなかったが、”CPBの自給自足原則”を打ち出し、CPBへの支援を大幅に削減することを決定、CPBに参加していた中国人志願兵に帰国を促した。
1970年代後半、CPBの年間予算は約5600万ksだったが、その内訳は中国との国境貿易の関税67%、中国からの支援25%、地区住民に対する課税4%、軍人による寄付1%だった。漸次的であったとはいえ、予算の4分の1が消えたのは大きな打撃だった。しかも1980年には中国が他の国境も開放したので、CPBは国境貿易を独占できなくなり、貿易からの利益も減少した。
1979年、国軍はCPBに大規模な攻撃を仕かけ、CPBを殲滅することができなかったものの、CPBは多大な被害を受けた。1980年、CPBはKIAとともに政府と和平交渉に入ったが、CPBの要求は①CPBを合法的政党として認めること②CPBの支配地域を自治区として認めること③CPBの軍隊を認めることという過大なものだったので、交渉はすぐに決裂(これは現在ワ州連合軍《UWSA》が享受している特権だ)。その後平野部に再進出する試みもすべて失敗に終わった。この頃から中国はCPB幹部に年金支給と政治活動に関わらないことを条件に中国へ亡命するよう促し始めたが、これはCPBにとっては裏切り行為と映り、亡命した幹部は皆無だった(中国の亡命要請はこの後1985年と1988年にも行われた)。
1985年12月9日、第3回党大会が開かれたが、そこでは旧世代と新世代の対立が露わになり、またCPBの人海力を多用する戦術により、多大な犠牲が出ていた少数民族出身の兵士たちの不満も頂点に達していた。当時のワの人口は男性12万2399人、女性14万630人で、男性兵士に多大な死傷者が出ていたことを窺わせる。少数民族の兵士たちは、ネウィン政権を”白いビルマ族”、CPB幹部たちを”赤いビルマ族”と呼び、同レベルで嫌悪していたのだという。
=当時のCPBのヒエラルヒー=
①四川省の”退役軍人”
1950年代に中国へ渡り、政治教育を受けて、シャン州北部の本拠地構築に多大な貢献をした極小数の老党員たち。
②古参兵士
中国へは行ってないが、バゴー山脈に本拠地を構築した時からの老党員たち。
③貴州省の”退役軍人”
1950年から1968年まで貴州省で政治教育を受けたノー・センに率いられていたカチン族の老党員たち。
④インテリと新参者
1974年から1978年にかけてCPBに合流した都市部のインテリ。CPBは農民と同盟したプロレタリア革命を志向していたので、彼らの存在は軽んじられていた。ただし兵士の8割を占めるワ兵士のほとんどが文盲だったので、彼らは事務員、衛生兵、重火器部隊の兵士として重宝されていた。
⑤中国人志願兵
1968年から1973年にかけて、フロンティア・スピリット精神からCPBに志願した中国人の若者たち、または元紅衛兵の若者たちで、戦闘部隊の大多数を占めていた。1979年の帰国命令の際にもほとんどがCPBに残る。ただ中には諜報目的でCPBに残った者もいた。
⑥少数民族
徴兵された少数民族出身の若い兵士たち。ワ族が8割を占め、その他コーカン族、カチン族、シャン族、ラフ族、アカ族など。彼らはミャンマー語で書かれた政治パンフレットを読めなかったので、共産主義思想に染まることもなかった。ただ民族の正義のためだけに政府と戦っていた。
ワ民族軍(WNA)
前述したようにCPBは財政は逼迫。勢力拡大は望むべくもなく、かといってカチン州と違って天然資源もない……ということで極まった彼らが手を出したのはケシ栽培とアヘン貿易だった。当時ミャンマーのケシ畑の80%はCPB支配地域内にあり、CPBは支配地域内にアヘンの精製所を多数建設すると、ミャンマー・タイの国境沿いに拠点を持つクンサーなどの麻薬王たちと提携して、精製したアヘンをタイ国境まで運んで資金源とし始めた。また住民の中にも秘密裏に私的にケシ栽培を始める者が多数現れた。アヘンを資金源とすることに対してビルマ族の古参幹部は批判的だったが、末端の兵士たちは比較的積極的で、これも両者の確執の原因となった。
1986年3月、少数民族武装勢力の連合体・民族民主戦線(National Democratic Front)と協力して対国軍共同作戦を取ることが決定された(KNU/KNLAはこれに反対してNDF脱退)。この際、カチン族、シャン族、カレンニー族、ラカイン族などからなる代表団がパンサンを訪れ、この中にはワ民族軍(Wa National Army)の英雄・クン・アイ(Khun Ai)もおり、彼の存在はCPBのワ兵士たちナショナリズムをいたく刺激し、WNAの帽子やバッチを身につける者まで現れた。
しかし共同作戦の結果は惨憺たるもので、1986年から1987年にかけてCPB・NDF合同軍は国軍と戦ったが、同年5月30日にはカチン独立軍(KIA)の本拠地・パジャウが陥落、CPBも重要な貿易拠点を失い、CPBに対する末端兵士たちの失望はますます深まった。
そして1988年民主化運動が起きると対立は決定的となる。末端の兵士たちはこれに参加すべしという意見が多数だったのにも関わらず、CPBの幹部たちは「農村から都市を包囲する」戦術に固執し、これに反対した。そして1989年3月12日、後にミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)のリーダーとなるコーカン兵・彭家声(ペン・ジアシェン)が反乱を起こすと、またたくまにCPB支配地域全土に拡大、CPB幹部たちは中国雲南省に逃れ、CPBは崩壊した。1939年にヤンゴンのアパートで結成されてからちょうど50年目のことだった。崩壊後のCPBはMNDAA、ワ州連合軍(UWSA)、民族民主同盟軍(NDAA)、新民主軍カチン派(NDA-K)に分裂した。なおタニンダーリ管区で活動していた小規模なCPB部隊は1994年に政府に帰順した。
2021年クーデターが起きると、3月5日、CPB退役軍人と繋がりのある大学生を主体とする32人の若者によってCPBは再結成された。彼らはKIAで軍事訓練を受け、カレン民族解放軍(KNLA)第4旅団やコートレイ軍(Kawthoolei Armed Force:KAF)から支援を受け、NUGとも協力関係があり、タニンダーリ管区、コーカン特別区、サガイン管区、パラウン自治区、ナガ自治区で活動しており、現在約1000人の兵力を抱えているのだという。
ミャンマーでは共産党は評判が悪いので、共産主義の喧伝は控えめで、他のグループとの同盟関係構築や戦場での戦果に力を入れている。また中国からの支援は一切ないという。2023年10月の1027作戦にも参加している。
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