ミャンマー国軍(1)

前史

英植民地時代

英植民地時代、治安維持と国境警備の必要からミャンマーでも軍隊の編成に迫られた。1824年から1885年まで断続的に続いた英緬戦争の時には、将校はインド人だったが、兵士には少数民族の若者が採用され、特にカレン族の兵士がその才能に優れているということで重宝された。後に連合軍に兵士として重宝されるカチン族やチン族は、この段階ではまだこの新しい支配者に慣れていなかった。この現地民部隊は1916年から1927年にかけてビル マ ・ライフル銃4個中隊に編成され、第一次世界大戦時は中東に派遣されて活躍した。

1887年になってやっとビルマ族の入隊許された。しかし1925年にはビルマ・ライフル部隊の募集はカレン族、カチン族、チン族限定となり、1927年にはビルマ工兵隊が解散となって、1927年から1937年の10年間、ビルマ族は正規軍から完全に排斥され、武装警察隊に所属するのみとなった。

1930年代当時の植民地軍の構成は、ビルマ族1893人、カレン族2797人、カチン族852人、チン族1258人、インド人2578人。たしかにビルマ族の比率が低く、分割統治の結果と言えなくもないが、①多数派で民族的統一感のあるビルマ族に兵器を持たせなくなったカレン族、カチン族、チン族は狩猟経験豊富で、銃の扱いに慣れ、勇猛果敢②キリスト教の学校で英語を学習して堪能だった③ビルマ族を嫌悪してい比較的経済水準の高いビルマ族は兵士の待遇に不満を言う恐れがあったことなどが大きな要因とも思われ、はたして「分割統治の結果」なのか「結果としての分割統治」なのかは疑問の残るところではある。

ミンガラドン士官学校

日本占領期

1942年3月8日、日本軍がヤンゴンを占領。この際、日本軍に協力したのがアウンサン率いるビルマ族中心のビルマ独立義勇軍(Burma Independence Army:BIA)で、占領時の兵力は約2万7000人にまで膨れあがっていた。しかしBIAはろくに軍事訓練を受けていない寄せ集めの集団であり、規律も緩く、日本政府が敷いた軍政にも批判的だったので、新たに完全日本軍指揮下の約2800人の兵力を擁するビルマ防衛軍(Burma Defence Army:BDA)再編された。この頃からアウンジー(Aung Gyi)サンユ(San Yu)など初期ネウィン体制を支えた人々が下士官クラスに任命され始めるまた1943年8月20日にはヤンゴンのミンガラドン地区に中堅幹部養成を目的とした士官学校が設立された(同時に下士官学校と幼年学校も)。司令官、教官、監督官は全員日本人で、生徒は全員ビルマ族。平手打ちなど日本式の厳しい訓練が施されたが、こここからも後年ネウィン体制を支えた人材だけではなく、元国軍総司令官でNLD副議長だったティンウー(Tin Oo)チーマウン(Kyi Maung)などの人材が巣立った。成績優秀者は神奈川県の座間にあった陸軍士官学校に派遣された。

軍事パレードで旧日本軍似の軍服を着るミャンマー国軍兵

1943年8月1日、日本の傀儡だったとも言われるバー・モウ首相率いるビルマ国が独立すると、ビルマ防衛軍(BDA)はビルマ国民軍(Burma National Army:BNA)に再々編成され、兵力は1万5000人に膨れあがった。しかし所詮名ばかりの独立にビルマ族の人々の不満は高まり、1944年インパール作戦に失敗し日本軍の戦況が悪化してからは、アウンサンらビルマ国民軍内部の不満分子、ビルマ共産党(CPB)、人民革命党などが抗日闘争の準備を進め始め、1944年8月、抗日統一組織・反ファシスト人民自由連盟(AFPFL結成。後にアラカン民族党、カレン中央同盟、東南アジア青年連盟、マハー・バマー(Maha Bama)党なども参加した。そして1945年3月27日、アウンサンはビルマ国民軍(BNA)を人民独立軍に改名して、全土で一斉に日本軍に対する反乱を起こし、5月1日ついにヤンゴンを占領したのである。

再びイギリスの指揮下に入ったビルマ国民軍はビルマ愛国軍(Burma Patriot Army:BPA)と改称。そして1945年9月キャンディ協定により、ビルマ愛国軍(BPA)とビルマ植民地軍統合されビルマ国軍(Tatmadaw)が設立され1万2000人の常備軍と不特定多数の準軍事部隊を維持する権利を与えられた。しかしBPA兵士の95%がビルマ族であるのに対し、ビルマ植民地軍カレン族、カチン族、チン族、シャン族などの少数民族兵士が中心で、両者は水と油の関係にあった。そして新生国軍では兵士としての熟練度が高い後者が幅を利かし、参謀長・ス ミス ・ドゥン、空軍司令官・ソー シー シ ョウ、作戦参謀・ ソー チ ャー ドゥいずれもカレン族で当初からビルマ族兵士との間に確執があった。

また国軍から漏れたBPA兵士たちは故郷に戻っても仕事がなく、生活に窮していたので、アウンサンが人民義勇軍(People's Voluntary Organisation)再編した。やがてPVOはAFLPの私兵のような存在になり、全国に組織を拡大して、その兵力は10万人規模となった。

ネウィン

第4ビルマ・ライフル部隊

一方、新生国軍においては、ネウィンは第4ビルマ・ライフル部隊の隊長になった。この部隊には社会主義者が多く、”社会主義部隊”と呼ばれていたが、1948年から1950年にかけての反乱・離反鎮圧の際にもほぼ唯一無傷で残った部隊となり、国軍の中核となっただけでなく、1962年にクーデターで成立したネウィン軍事独裁政権でも件の部隊出身者が要職を占め、ミャンマーの歴史に大きな影響を及ぼすことになった。軍事独裁政権の最高権力機関・革命評議会は”第4ビルマ・ライフル部隊政権”と呼ばれたほどである。革命評議会No.2だったアウンジー、ネウィンの片腕だったティンペ(Tin Pe)、チョーソー(Kyaw Soe)、1988年民主化運動の最中17日間だけ大統領を務めたセインルイン(Sein Lwin)1976年から1985年まで陸軍参謀総長、1976年から1988年まで国防相を務めたチョーティン(Kyaw Htin、1988年にビルマ社会主義計画党(BSPP)から改名した国民統一党(NUP)初代党首・ウー・タギャウ(U Tha Gyaw)、ネウィンの専用コックで、強大な権力を有したラジュー(Raju)というインド人、皆、第4ビルマ・ライフル部隊出身だった。

30人の志士

この点、南機関の指導下、海南島で軍事訓練を受け、ビルマ独立義勇軍を結成したアウンサン以下いわゆる”30人の志士”が独立の英雄として名高く、彼らが現在の国軍の礎を築いたと思われがちだが、新生国軍に残ったのはネウィン、チョーソー、ボー・バラ(Bo Bala)の3人だけで、そのチョーソーにしても1957年に失脚後、ビルマ共産党(CPB)参加しており、残りのメンバーも多くがその後反政府運動に転じているボー・ラ・ヤウン(Bo La Yaung )とボー・タヤ(Bo Taya)はPVOの反乱に参加ボー・ゼヤ(Bo Zeya)、ボー・イェトゥット(Bo Ye Htut)、ボー・ヤン・アウン(Bo Yan Aung)はCPBに参加、ボー・レット・ヤー(Bo Let Ya)、ボー・ヤン・ナイン、ボー・ムー・アウン(Bo Hmu Aung)、ボー・セキャ(Bo Setkya)はウー・ヌがタイ国境で結成した反政府武装組織・議会制民主主義党(PDP)に参加した。1988年民主化運動の際には30人の志士の生き残り11人のうち9人がネウィンを糾弾し、デモへの参加を呼びかけた。このようにアウンサンスーチーが「父の軍隊」と呼んだ国軍は、アウンサンが率いた国軍とはまったく異質なものだった。

絞首刑に処せられるウー・ソオ

1947年1月アウンサン・アトリー協定が結ばれて1年以内のミャンマーの独立が約束され、2月にはパンロン協定が結ばれカチン州、シャン州、カレンニー州、チン特別管区の設置とシャン州、カレンニー州に10年後の連邦離脱権を認めることが決まり、9月には新憲法が制定され、新生ミャンマーはアウンサンの指導の下、新たな船出をする……はずだったのだが、そのアウンサンは1947年7月19日、6人の閣僚とともに暗殺されてしまった。暗殺の首謀者は英植民地政府首相を務めたことがあるウー・ソオ(U Saw)。暗殺の理由については諸説あるが、ウー・ソオは以前暗殺未遂に遭ったことがあり、その犯人をアウンサンとAFPFLだと信じていた節があるのだという。ウー・ソオは1948年5月8日午前5時33 分、インセイン刑務所にて絞首刑に処せられた。48歳だった。

アウンサン抜きで独立後の道を歩むことになったミャンマー。その叩き台となったパンロン協定が結ばれた2月12日は、連邦記念日として祝日になっており、民族融和の象徴とされている。が、果たしてそうか。小さな国では相手にされないという理由で拙速に統一を進め、民族ごとにまちまちの対応をしたことが、その後の混乱に拍車をかけたのは否めないように思う。

1950年代

独立後の反乱

1948年1 月4日ミャンマー連邦(当時、対外的には「ビルマ連邦」と称した)は独立した。しかしこの独立は労働党のアトリー政権だったからこそ認められたものであり、戦時中イギリス首相で、戦後、野に下っていたチャーチルは「幾世代にもわたった努力の成果を不当な 性急さで放棄する退却政策で、イギリスの友人たち(大戦中連合国軍側についたカレン族、カチン族、シャン族、チン族等)に問題解決の時間を与えず、彼らの忠誠心と友情を無視し、未開の住民たちに英国の正義が保障してきた平和な生活を踏みにじるもの」と批判し、野党になった保守党内部でも「カレン族は新体制に反対しており……ビルマはアーナキーと低劣な生活水準に陥って、10年以内に独立を失うであろう」というがあった。

果たして彼らの言うとおりになった。

独立とともに発足したウー・ヌ政権はシャン族の土侯・ツァオ・シュエ・タイッが初代大統領、カレン族のスミス・ドゥン(Smith Dun)陸軍参謀総長に登用されるなど、少数民族にも一定の配慮が見られたものであった。ちなみにウー・ヌは助けを求めにきた部下に「この経文を毎朝4回唱えなさい。そうすればあの敵を必ず打ち負かすことができる」と言って、パーリ語の経文を書いた色紙を渡すような人物だった。

しかし反乱の狼煙は既に上がっていた。

まずアウンサン・アトリー協定の内容は国辱的であり、イギリスからの独立はあくまでも武力で奪取すべきと主張するビルマ共産党(CPB)が、1948年4月、バゴー近郊で反乱の狼煙を上げた。7月にはアウンサンの死によって統制が取れなくなっていたPVOが分裂して、その一派がビルマ革命軍(Revolutionary Burma Army)を結成し、地下に潜った(1948年、1950年の2度政府に帰順し、1958年からは議会闘争に転換した)。また同月、事態を収拾するために第1部隊と第3部隊合わせて約2000人の兵士が国軍を離脱してネウィンにクーデターを促したが、ネウィンは動かず、両部隊は8月10日に国軍の攻撃に遭って四散。残党はCPBに吸収された。

それ以外にも同年8月にはカレンニー州でカレンニー族の小規模な武装勢力が武器と新兵を集め始めたり、シャン州でパオ族の武装勢力が結成されたり(ただし政府ではなくシャン州の土侯と戦うため)モン州でモン人民戦線(The Mon People's Front)が、ラカインではムスリムのムジャヒッド党(Mujahid Party)が反政府武装闘争を開始し、反乱はミャンマー全土に拡がっていった。

KNDOのリーダー・ソーバウジー(左から2人目)

そして1948年9月頃から反乱の兆しを見せていたカレン族の武装組織・カレン民族防衛機構(Karen National Defence Organisation:KNDO)カレン民族解放軍《KNLA》前身)が、1949年1月インセインの武器庫、マウービンの国庫を襲撃31日にはインセインを占拠し国軍を離脱したカレン族3個部隊もこれに加わるという事態が発生した。たまらずウー・ヌは陸軍参謀総長スミス・ドゥン以下カレン族の将校・兵士を全員解雇、後任にネウィンを据え、これにて国軍からビルマ植民地軍の影響が消えた。ネウィンが国軍を引き継いだ当時、国軍の兵力はわずか2000人。ヤンゴン陥落は目前と思われ、ウー・ヌ政権は”ヤンゴン政府”と揶揄されていた(結局、KNDOは5月にヤンゴンから撤退)。

また当初カチン族、チン族、シャン族の”辺境の民”は、中央集権的な政府に不満があったものの、パンロン協定で一定の地位が認められたことに恩義を感じて国軍側に加勢していたが、第二次世界大戦の英雄で、第一カチン・ライフル部隊を率いていたノー・センが、同じキリスト教徒のカレン族と戦うことをよしとせず、武装勢力側に寝返った。

さらにシャン州では中国共産党との内戦に破れた中国国民党が雪崩こみ、ケントンとタチレクまでの国境沿いに基地を設置、モンサットに空軍基地も建設した。1949年にはわずか200人の兵力だったが、1952年までに1万2000人ほどにまで膨れあがった。この国民党は台湾とCIAの支援を受けており、CIAはシャン州に独立国を樹立するように国民党に促し、チベット独立と呼応させようと画策していたのだという。

最初の軍事ドクトリン

反政府武装勢力の総数は約3万人に達し、国土の3分の2が彼らの支配下に入る絶体絶命のピンチだった。

こうした状況の中、1988年民主化運動の際にビルマ社会主義計画党(BSPP)議長となるマウンマウンが、国軍最初の軍事ドクトリンを策定した。しかしそれは、国内の少数民族武装勢力の反乱が喫緊の課題だったのに関わらず、意外にも外国勢力対策重視のものだった。強烈な反共主義者だったマウンマウンは誰よりも中国共産党を最大の脅威と考えていたらしい。

内容は大規模師団、装甲旅団、戦車、機動戦による正規戦にもとづく防衛計画で、朝鮮戦争時に行われた国連軍の活動を想定して、国連軍の到着を待つ間、侵略勢力を国境地帯に2、3ヶ月封じこめるというものだった。しかしこれを実現するためには、適切な後方支援・訓練体制、豊富な経済的・技術的資源、効率的な民間防衛組織が不可欠で、当時の国軍にはそのすべが欠けていた。

なにはともあれ、この軍事ドクトリンに従って兵力増強が図られ、国軍は地方有力者の協力を得てリクルートした、シッウンダン(Sitwundan)という練度の低い兵士からなる準軍組織を結成し、1万3千人ほどの兵力を確保した。またウー・ヌの呼びかけにより一旦政府に反旗を翻したPVOも国軍側に再度寝返り、さらにカチン・ライフル部隊は3個大隊から6個大隊に増設され、新たにシャン・ライフル部隊とカレンニー・ライフル部隊が設置された。これにより国軍は、1949年2月の時点で6個大隊しかなかったものを、シッウンダンを編入することにより1953年までに41個大隊にまで拡大し、その兵力も1955年までに約4万人に達した。さらにこの頃からインドやイギリスからの軍事支援が届き始めた。ミスマッチな軍事ドクトリンはその都度修正が加えられ、国軍の反撃は一定の成功を収め始め、1950年代半ばまでにCPBをイラワジデルタ地域とバゴー山脈へ、KNDOイラワジデルタ地域とタイ国境の山岳地帯へ、ムジャヒッド党を東パキスタン国境地帯へと追いやった。ただシャン州に根城を張った国民党との戦いには破れた

ミャンマーの国境地帯はゲリラ戦を可能とする丘陵や山岳となっており、また資金源となる天然資源や麻薬も豊富だった。そして三方をインド、中国、タイという大国に囲まれ、外国に介入されやすく、国家機関は脆弱(高野秀行氏は「ミャンマーの柳生一族」の中で「脆弱な徳川幕府」と喝破している)で、しかも反英独立闘争、第二次世界大戦を経て、人々の間に問題解決を暴力に頼る習慣が身についていた。

これらがミャンマーの内戦が長引いている原因である。

国軍強化

一旦反乱を鎮圧するとネウィンは国軍は組織強化に乗り出した。

①人材育成

まず、カレン族将校、イギリスシンパ、忠実でない将校など、多くの同僚を排除して、その後釜に第4ビルマ・ライフル部隊出身者を据えた。

次に、国軍は、独立直後の1948年士官訓練学校(Officers Training School:OTS)を設立していたが、訓練期間も訓練マニュアルも訓練用兵器も不足しており、兵士の質は低かった。また将校についても、イギリス、インド、パキスタンなどの国々の訓練学校に派遣して養成していたが、それも不十分だった。当時、アウンジーは「軍事科学や軍事思想を理解しておらず、軍事史の知識もなく、ゲリラ戦以上の軍事経験もない将校が大半を占める国軍の質は非常に低いことを受け入れなければならない」と述べている。こうした状態を憂慮した国軍は、50年代に国軍士官学校(Defence Services Academy:DSA)(1955年)、国防大学(National Defence College:NDC)(1958年)などの教育施設を設立、さらに留学にも力を入れ、サンドハースト王立陸軍士官学校等イギリス、アメリカ、オーストラリアの名門士官学校に多数の将校を留学させ、人材育成に力を注いだ。ちなみにミャンマーの訓練学校のマニュアルはイギリスのもの、教官は日本軍の下で訓練を受けた者が多かったので、国軍は日本的な心を持った英国的な組織」とも言われているのだという陸軍中心で海軍・空軍の地位が低いというのが、国軍の特徴である

②兵器増強

当時、兵器はインド、イギリス、イスラエル、ユーゴスラビア、スウェーデンなど様々な国から調達していたが、国軍はフリッツ・ヴェルナー(Fritz Werner)という西ドイツの小さな兵器会社と提携して自前生産に乗り出し、ヤンゴン郊外に工場を設立して、新型歩兵銃G-3やその他の兵器を生産し始めた。なお国軍の主要な兵器調達のほとんどは、1950年代と1960年代初めに行われ、その後1990年代に入るまでほとんど更新されず、兵器の近代化は大幅に遅れていた。

「陸軍は基本的に対反乱作戦のために組織され、配備された軽装備の歩兵部隊であった。経験豊富で戦闘には慣れているが、重装備は時代遅れで、兵站と通信システムは非常に弱く、作戦は輸送、燃料、弾薬の不足によって常に妨げられていた。海軍と空軍はどちらも非常に小規模な部隊で、陸軍を支援する役割に委ねられていた。海軍は沿岸と河川のパトロールしかできず、空軍は地上支援にほぼ特化した構成だった。どちらも時代遅れの兵器プラットフォーム、貧弱な通信機器、予備部品の不足、熟練した人材の不足に苦しんでいた」(アンドリュー・セルシュ)

日刊ミャワディ

③プロパガンダ

国民、反乱分子、共産党シンパに対する心理戦を遂行するために、1952年に陸軍心理戦局(The Psychological Warfare Department)を設立。メンバーには元CPB党員も採用し、その規模は着実に拡大。国防省歴史研究所の設立、文化祭、ラジオ番組、全国的な反共ビラ配布など多くのプロジェクトを手がけ、1952年から1953年にかけて約115万枚もの反共ビラを全国で撒いた。また反共雑誌・ミャワディも創刊され、これは現在まで存続し、国営テレビの名前にもなっている。

さらに国軍は自分たちの考えを国民に伝えるために1955年、日刊紙・ガーディアンを創刊。創刊者は1988年民主化運動の際にビルマ社会主義計画党(BSPP)議長に抜擢された法律家のマウンマウン、編集長はミャンマーを代表するジャーナリストでAP通信記者も務めたセインウィンだった。

ティンウー

④MIS

1958年、MIS(Military Intelligence Service)という軍事情報局を設立。責任者はネウィンが若い頃から目をかけていたティンウー(Tin Oo)だった(1974年から1976年まで国軍総司令官を努め、NLD副議長も務めたティンウーとは別人)。ちなみにネウィンの人事哲学は「賢い人物より忠実な人物」であり、国軍における出世はその能力よりも忠誠心が重視される傾向が強い。ネウィンは日本軍の指導下にあった頃、拷問を含む憲兵隊仕込みの諜報術を習得し、それをティンウーに授け、その後、ティンウーはアメリカCIAとイギリス王立憲兵隊(RMP)に派遣されて訓練を受けた。MISのスパイは反政府活動家の家族、少数民族武装勢力などどこにでも潜んでおり、後にはNLDの党員・職員の中にも潜み、NLDの会議の内容はすべて国軍に筒抜けだったのだという。また民間人だけではなく軍人、国内だけではなく海外に亡命した反政府活動家も監視対象として、海外の諜報機関とも繋がっていて、当時、世界でもトップクラスの諜報能力を持っていたのだという。さらにMISは独自の刑務所と拷問センターも有しており、特にヤンゴンのミンガラドンにあるYay Kyi Aingは悪名高い。

MISの存在は”エムアイ”の名前で人口に膾炙しており、ティンウーはMIティンウーと呼ばれ、1983年に失脚するまでネウィンの絶大な信頼を得ていた。MIAは国防省情報局(Directorate of the Defence Services Intelligence:DDSI)(1960年代~2001年)、軍情報総局(Office of the Chief of Military Intelligence:OCMI)(2001年~2004年)、軍保安局長事務所(Office of the Chief of Military Security Affairs:OCMSA通称サ・ヤ・パ)(2004年~)と名称を変えつつ、現在も存続しており、国軍の結束と力の源泉となっている。

ミャンマー・国家と民族」にこのMISの凄さを物語るエピソードが収録されている。1996年当時、国連に出向していた日本の外交官・赤坂清隆氏は、WHOの中嶋事務局長のお伴でミャンマーを訪問した。中嶋氏はポリオ撲滅キャンペーンの件で国軍関係者と会談する予定だったが、同時に国連事務総長ガリからスーチーに必ず会うように指示を受けていた。が、国軍を怒らせてキャンペーンが台無しになることを恐れた中嶋氏がこれを無視したので、氏が国際的非難を浴びることを恐れた赤坂氏は、密かにスーチーとの会談をセッティングした。その際、ホテルの電話は盗聴されていると思い、公衆電話を使った。2人は、訪問最終日にパガンからヤンゴンに戻った後、シンガポールに発つ予定だったところ、シンガポールへのフライト待ちの2時間半を使ってヤンゴンのWHO事務所でスーチーと会談する計画を立て、彼女も了承した。しかし、当日、パガン空港に予定の飛行機がなかなか現れない。結局1時間10分遅れて離陸し、ヤンゴン空港に到着した2人は、急いで空港からWHO事務所に向かおうとしたが、その前にミャンマー政府関係者が立ち塞がり、「次の飛行機に間に合わなくなるので空港を出るのは駄目です」と言って、断固として2人を空港の外に出そうとしなった。押し問答を続けているうちに件の政府関係者の顔がみるみるうちに”軍人の顔”になっていく。その顔を見ているうちに赤坂氏はようやく気づいたー”そうか。君たちはすべて知っていたのか。飛行機の遅刻も故意なのか”ー結局、空港から電話でスーチーに侘びの電話を入れ、2人はシンガポールへ発った。電話を受けた彼女は「そうですか」とさほど驚いた様子もなかったのだという。

⑤ビジネス

また国軍は将校・兵士とその家族の福利厚生を図り、忠誠心を高めるためのビジネスにも乗り出し、1951年に幹部ほとんどを第4ビルマ・ライフル部隊出身者で占める非営利組織・国防サービス研究所(The Defence Service Institute)を設立。まずヤンゴンのスーレーパゴダ通りに、軍人とその家族に低価格の輸入品や地産品を供給する雑貨店を開業して成功を収め、数年のうちに全国18店舗に拡大した。次にアバハウス(Ava House)という文房具店兼出版社を設立、これは軍人だけではなく一般にも開放され、これも成功を収めた。自信を付けた国軍はビジネスを巨大化、高品質の外国製品を一般消費者に販売するデパートロウ・アンド・カンパニー(Rowe & Co)、民営のA・スコット銀行を買収して改組したアバ銀行、東アジア会社を買収して改組したビルマ・アジア会社、7隻の船を保有する貨物船サービス会社ビルマ・ファイブスター・シッピング・ライン(Burma Five Star Shipping Line)など多数の企業を設立し他にも石炭の輸入ライセンス取得、ホテル、水産業、鶏肉流通業、建設、ラングーンとマンダレーを結ぶバス路線、国内最大の百貨店チェーンなどを傘下に収めた。

1958年10月に、国軍は陸軍心理戦局が策定した「国家イデオロギーと国防省の役割(The National Ideology and the Role of the Defense Service)」と題する論文を発表して、「軍は国の防衛だけでなく社会的政治的発展においてもその役割を果たさなけれならない」とする独自のイデオロギーを披露。物質的に満ち足りた国軍が、やがて人心を操作することに興味を持ち、そしてそれを企業、さらに国家全体に拡大していこうとする過程がここに読み取れる。

政界進出、そしてクーデター

反乱は一段落したが、政界は紛糾していた。独立以来、絶対多数与党として政権の座にあったAFPFLが、1958年、ウー・ヌの清廉AFPFLとバ・スエらビルマ社会党のメンバーからなる安定AFPFLに分裂(与党は清廉AFPFL)。国軍は安定AFPFLを支持していたとはいえ、政治不介入の原則は崩さず事態を静観していたのだが、分裂後の清廉AFPFLが恩赦令を発布するなどしてCPBや武装勢力に譲歩したり、国軍非難キャンペーンを始めたりしたので、対清廉AFPFL感情を大幅に悪化させた。そして同年10月、国軍北部軍管区司令部のクーデター計画が発覚。これを抑えるためにウー・ヌは、1959年4月末までに総選挙を行うことを条件にネウィンに政権移譲し、ネウィン選挙管理内閣が成立した。件の内閣は①武装勢力鎮圧と治安回復②物価の引き下げ③行政機構の刷新④ヤンゴンの美化⑤シャン州・カレンニー州の土侯の伝統的世襲特権の廃止⑥中国との国境画定などの実績を出しつつ、1960年2月の総選挙に勝利した清廉AFPFLに平和裏に政権を返還した。この功績によりネウィンはアジアにおける社会貢献など傑出した功績を果たした個人・団体に贈られるマグサイサイ賞の候補に上がった。

しかしこの清廉AFPFL政権も安定しなかった。

まず独立10年後の連邦離脱権が発効していたシャン州とカレンニー州では小規模な反乱が発生する一方、シャン族の初代大統領・ツァオ・シュエ・タイッらシャン州の元土侯たちは、武力ではなく、あくまでも法的・憲法的枠内での解決を図るべく「真の連邦制」を求める運動を起こし、1961年6月、様々な民族のリーダーたちを集めてタウンジーで全州会議を開催。そして①ビルマ族のためのビルマ州の設置②国会上院議席の各州へ の同数割り当て③中央政府の権限を外交や国防などに限定することなどを要求、そのための憲法改正を訴えた。これはシャン州のみならず、国家全体の統治制度の改革を求めた点で非常に画期的なものであり、パンロン協定で認められたシャン州、カチン州、カレンニー州の他、チン州、モン州、ラカイン州の設置を求める決議なされ(ただしモン州は1958年にモン族の武装勢力と政府が停戦合意した際に、既に州設置の約束がされていた)、ウー・ヌは1960年の選挙で公約していたモン州とラカイン州の設置を1962年9月までに実施せざるをえなくなった。

またネウィン選挙管理内閣下で行われた中国との国境画定により、従来カチン州の領土とされていたピモー、ゴーラン、カンパン地方を中国に割譲したこと、ウー・ヌが選挙で仏教国教化を公約に掲げていたこと(後に撤回)に反発したカチン族の有志が、1961年2月カチン独立機構(KIA)/カチン独立軍(KIO)を結成して反政府武装闘争を開始した。

この時期の反政府武装闘争は小規模で取るに足らぬものであった……しかしせっかく政権を平和裏に返還したのに、相変わらず汚職に塗れ、民族やイデオロギーで対立し、連邦統一を危機に晒す政治家たちの姿に、国軍首脳部は呆れ果て、日刊紙・ガーディアンにもそのような論調の記事が載った。M.P.キャラハンはこの時期に国軍は、政治家、ひいては国民に対する不信感を育んだと指摘している。これが国民は「弱者」であり、保護すべき対象と見なす、現在まで続く国軍独特のエリート意識に繋がっているように思える。

それにしても「真の連邦制」は国軍にとっては連邦分裂をもたらしかねない危険思想と映ったに違いない。シャン州の武装勢力・シャン州統一軍(SSIA)がタイの支援を得て独立し、東南アジア条約機構(SEATO)に加盟させようと画策している情報を国軍が事前に得ていたとも言われるそして1962年3月2日、まさにウー・ヌがヤンゴンで閣僚や少数民族の代表団と会談しているその時にネウィンはクーデターを決行し、ウー・ヌ以下内閣の閣僚と会談出席者全員拘束したのだった。今となってはネウィンの”暴挙”とも言われるこのクーデターだが、当時、ニューヨーク・タイムズ紙は「ミャンマー国民も米国の世論と政府もこの無血クーデターを、中立を維持し、連邦の崩壊を防ぐだけでなく、麻のごとく乱れていた議会政治を封じ、国家秩序を回複したとして歓迎している」と伝えていた。


ミャンマー国軍(2)