2021年前半

2021年前半

日本バッシング

クーデター後のミャンマー

春の革命が勃発した直後、一時期ミャンマー人の間で日本バッシングが巻き起こるようなことがあった。理由は丸山・ミャンマー大使が「ミャンマーの人々の声を無視しない」と発言しつつ、国軍を明確に批判しなかったこと、日本の長年の対ミャンマーODAが国軍の増強に繋がったこと、渡邉英央・日本ミャンマー協会・会長、笹川陽平・日本財団会長と国軍の深い関係が暴露されたことなどである。一方、韓国は当時の文在寅大統領が明確に国軍を批判したことで、この時期、日本下げ、韓国上げの雰囲気が高まった。中には韓国は軍政を倒して民主主義国家を作ったので、ミャンマー人の気持ちがわかるが、日本は自分たちの力で民主主義を勝ち取った経験がないのでわからないのだと言うミャンマー人までいた。ちなみに従来のミャンマー人の両国に対する感情は、圧倒的に日本>韓国である。

彼らの日本史理解がどの程度のものかは知らないが、各国のクーデターに対する対応の違いは、ひとえにミャンマーに対する関わりの違いである。日本は韓国、欧米諸国に比べてミャンマーとの関わりが深い。日本よりも関わりが深い隣国の中国、タイ、インドは日本よりも慎重な態度を取っている。当時の麻生太郎財務相がG7財務相会合で「ミャンマーのことは日本に任せておけ」と各国に伝えたと報道されたが、あれはいざとなれば、日本を介して各国がミャンマーとの関係修復を図るという意味を含んでいると考えるのが妥当だろう。一言で言えば、これはミャンマー民主派が得意とする”政治活動”ではなく、政治の問題なのだ。批判だけしていれば禄を食める学者やジャーナリストや活動家とは一味違う現場当事者の苦悩の声なのだ。

ちなみに渡邉、笹川両氏の考えは、以下を読めば窺える。

なお渡邉、笹川両氏は国軍に拘束された日本人ジャーナリスト映像作家アメリカ人ジャーナリストの解放にも尽力した。映像作家のケースでは現役の国会議員が現地に赴いて、ミンアウンフラインに直談判し、刑務所の食事が合わない彼のために大使館がおにぎりの差し入れをしていたのだという。なお解放後、前二者は国軍批判とそれを”支援している”と彼らが主張する日本政府批判を繰り返している。

また日本の対ミャンマーODAについては以下の論稿が参考になる。

工藤氏はこの論稿の最後で「日本の対ミャンマーODA がミ ャンマーの経済発展に貢献しなかったわけではないし、ましてやミャンマーの民主化を 阻害したわけでもない…2021年2月のクーデター後に噴出した日本の対ミャンマーODA に対する批判のな かには、国軍との武装闘争を開始したミャンマー民主派勢力が感情的にあるいは政治的意図をもって、必ずしも冷静な議論に基づかないものも含まれていたように思う」と述べている。またこちらで山形浩生氏が日本のミャンマー利権なるものについて解説している。

なお日本政府は2月中に人道支援を除くミャンマーへの新規ODAを凍結しており、2023年5月には継続事業の追加融資も見送っており、「日本は何もしていない」という批判はまったく当たらない(2024年2月現在も凍結中)。これによりどの程度国軍に打撃を与えたのかは知る由もないが、国民生活に影響を与えたこと、ミャンマーにおける中国の伸長の機会を与えたことは間違いない。このように”パイプ”を切ってしまえば、むしろミャンマーに対する日本の影響力は低下するのだ。それがミャンマー人の選んだ道というのであれば仕方がない。ミャンマーはミャンマー人のものだ。なおODA凍結に対するミャンマー人の反応は、私が知る限り、否定的なものが多かった。彼らとて外国からの投資がなければミャンマーが立ち行かなくなり、中国の影響力が増すことくらい理解しているのだ。なお従来のミャンマー人の両国に対する感情は、圧倒的に日本>中国、クーデター直後は「中国の指示でクーデターが起きた」という陰謀論が渦巻き、中国製品不買運動が起きたくらいである(もっともミャンマー人が使っているスマホのほとんどが中国製なのだが)。

一方、一時期株を上げた韓国だが、2021年11月、ヤンゴンのロッテホテルにて国軍関係者と韓国大使館員、韓国大企業関係者が面会したことが報道された。が、この頃は既に春の革命もかなり下火になっていたので話題になることもなかった。また2023年4月には韓国人のバン・ギムン元国連事務総長が、ミャンマーを訪問して、ミンアウンフライン国軍最高司令官やテインセイン元大統領と会談し、ミンアウンフラインと握手する写真が国営紙に掲載された。「情勢の改善の糸口とするための訪問だったと思うが、国軍にその意思はない。弾圧を強めているなかでの会談は、国軍の統治を承認したとの誤ったメッセージにもなりかねない」 という指摘もされたが、やはりこれも話題になることはなかった。

そもそも韓国企業は、2000年代前半、当時軍政下だったミャンマーに、砲弾の生産設備と技術資料などを違法に輸出した疑惑が持たれている。知らないことは幸せである。

逆に日本におけるミャンマーのクーデターに対する反応だが、最初から冷たいもので、悲しいくらいに関心を呼ぶことがなかった。渡邉、笹川両氏の世代にはビルメロ(ビルマメロメロ)、ビルキチ(ビルマキチガイ)という言葉があり、先の大戦でミャンマーを戦場としたことに対する贖罪意識と恩義からミャンマーに肩入れする人も多く、さらにその下の世代は小説「ビルマの竪琴」、映画「ビルマの竪琴」新旧版双方に馴染み、特に中井貴一主演の新版「ビルマの竪琴」は、地上波テレビで繰り返し放送されたことにより人口に広く膾炙しており、またノーベル平和賞を授賞したスーチーがメディアに度々取り上げられていたこともあって、ミャンマーはそこそこ存在感のある国だったのだが、地上波で映画が放送されることもなくなり、2011年に解放されて以降、皮肉にも日本におけるスーチーの露出は減ってしまったため、日本人にとってミャンマーはあまり馴染みのない国になってしまったのだ。

が、結果的にそれはよかったのかもしれない。

↑の記事は、後で紹介する民主派亡命政権NUGに寄付している在日ミャンマー人の話だが、「NUGは海外からの寄金などで武器を調達」とある。善意の寄付金が武器・弾薬に購入費に当てられ、殺人に使われていると知ったら快く思わない人も多かっただろう。

なおネットの反応は、4月上旬に放送された「報道ステーション」で、ある在日ミャンマー人の「日本のお金で人を殺さないでください」という発言(画像)が、拡散して多くの人々の怒りを買い、以降、ミャンマーに同情を寄せる人は激減した。これも自己主張と依存の結果である。

またコロナ禍でデモを行い、その際、バスをチャーターして遠方からデモ会場へ向かったり(Facebookでその様子を見たことがあるが、マスクも付けずにお菓子を食べながらぺちゃくりお喋りをしていた)、デモの後、ファミレスや居酒屋で打ち上げをしていたせいか、在日ミャンマー人の間でクラスターが起きていた。仮にミャンマーへの関心が高ければ、大きな非難の的になっていたのは確実だろう。無関心に助けられた格好だ。

さらにデモの際に、ミンアウンフラインとともに渡邉英央氏、麻生太郎財務相(当時)、菅義偉首相(当時)を描いたポスターをミャンマー人のデモ参加者が踏みつける一コマもあった(画像)。3人とも仮にも日本国民が選んだ国政の代表者であり(渡邉氏も元国会議員)、これは日本の民主主義に対する冒涜に等しい。批判したいのであれば、それは言論を用いるべきで、それこそが民主主義のルールだ。残念ながら彼らはこの点でも民主主義を理解していなかったようだ。

NUGとPDF

2021年4月16日、民主派は国民党一政府(NUG)を設立。大統領のウィンミン、国家顧問のスーチーが獄中にあったので(ゆえに就任にあたって2人の承諾はなかった)、副大統領のドゥワ・ラシ・ラーが事実上のトップとなった。彼はカチン族で、社会活動家・法律家として長いキャリアがあり、全国レベルの政治対話を行うためにカチン族の諸勢力の調整を行うカチン諸民族諮問会議という組織の議長を務めていた人物だった。NLDの中堅議員を中心に構成されていたが、副大統領、首相以下、大臣・副大臣の半数が少数民族出身者で、女性、若者、LGBTの幹部も多くいた。ちなみに軍政側の国家行政評議会(SAC)も19人のメンバーのうち10人が文民で、そのうち2人が元NLD党員、8人が少数民族出身者で、双方ともに少数民族に対する配慮が見られ、図らずもミャンマー最大の問題が民族問題であることが露わになった形である。なおNUGは6月、ロヒンギャに市民権を与える方針を発表し、2023年6月にはロヒンギャの人物を副大臣に任命した。しかし、NUGのこうした態度はロヒンギャに対する差別意識の強い国民の一部からは不満の声が上がり、ロヒンギャ側からも「苦し紛れの策では?」と不信の声が上がった。なおクーデター発生時、スーチーが拘束された際には、ロヒンギャの人々からは喝采の声が上がったのだという。クーデター後、日本で開催されたミャンマー人のお祭りのテナント、ステージにロヒンギャの人々が参加したという話は、2024年2月現在、寡聞にして聞かない。

また5月5日、NUGは将来の連邦軍の中核となる前身組織として国民防衛隊(PDF)の設立を発表した。ただこれはNUGが設立したというより、弾圧を逃れた若者たちが、カレン民族解放軍(KNU)カレンニー軍(KA)カチン独立軍(KIA)の下で軍事訓練を受けた後、各地で自発的に結成していた武装組織を事後承認した形だった。なお連邦軍構想というのは、2011年から2019年まで活動した統一民族連邦評議会(United Nationalities Federal Council)にもあったが、この時は実態を伴うものにはならなかった。

この時のNUGの方針は各PDFを傘下に収め、各少数民族武装勢力と協力して国軍を打倒し、その後は高度な自治権を有する各民族の自治区からなる民主的連邦国家を樹立するという、ある意味、理解しやすいものだった。

ただNUGはメンバーの多くがおそらく海外に逃亡しており、ネット上で会合を持つだけの仮想空間政府で、実効支配している国民も領土もなく、国民からの寄付はあるものの、国軍を打倒するためには到底不足しており、欧米諸国・国際社会から支援を引き出せるかが鍵だったが、発足時点でNUGをミャンマーの公式政府と認めた政府・国際機関はなかった。ちなみに1969年から1973年にかけて議会制民主党(Parliamentary Democracy Party:PDP)/愛国解放軍(Patriotic Liberation Army)を率いて反政府武装闘争を行っていたウー・ヌ元首相は、石油探査の独占権と引き換えにカナダや中東の石油会社から1000万ドルを引き出している。NUGも特区における外資規制撤廃免税特権を条件に各国から協力を引き出さなければならないところ、2024年2月現在、寡聞にしてそんな話を聞かない。

またPDFは士気は高く、カレン民族解放軍(KNLA)カチン独立軍(KIA)などから軍事訓練を受けていたものの、経験、資金、兵器が決定的に不足していた。さらにクーデターに対する少数民族武装勢力の対応をまちまちで、明白にNUGに共感を示したのは前述のカレン民族同盟(KNU)、カチン独立機構(KIO)、そしてカレンニー民族進歩党(KNPP)チン民族戦線(CNF)のみで、その中で正式にNUGと協定を結んだのはCNFのみで、他は様子見という感じだった。NUGはNLDの下位互換で、所詮今回のクーデターはビルマ族同士の権力闘争に過ぎないという見方が、少数民族武装勢力の間では強かった。NLD政権が少数民族武装勢力と信頼構築できなかったのが、響いた形だった。

そもそも民政移管後も、カレン民族解放軍(KNLA)シャン州軍南部(SSA-S)カレンニー軍(KA)カチン独立軍(KIA)、民主カレン慈善軍(DKAB)シャン州軍北部(SSA-N)ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)アラカン軍(AA)などとの戦闘は続いており、今回のクーデターはその構図をガラリと変えるものではなく、そこにNUGとPDFが加わって引火したという形だった。1988年民主化運動の時と同じく、少数民族武装勢力側にしてもクーデターを座して見守るだけでは、血気盛んな若い兵士たちの士気を保てないという事情があったのだろう。

何はともあれ、この時はNUGが示したこの戦いの構図に多くの国民が賛同していたように見え、当時、「民主派」という言葉は、NUG、PDF、それを支持している(はずの)大半の国民、そして少数民族武装勢力を包含した概念だった。ただ都市部のミャンマー人は少数民族武装勢力の実態についてはほとんど無知で、彼らを野獣のごとく罵っていた国軍のプロパガンダが嘘だということには気づいたようだが、彼らを”正義の味方”と勘違いしている人も散見された。実際の彼らは国軍と変わらない政軍一致の組織であり、国連ヒューマン・ライツ・ウォッチから子ども兵士の強制採用と使用、住民の強制移動、拷問、国軍兵士への虐待や超法規的処刑、成年と未成年の女性への性暴力、民間人居住地域での対人地雷の敷設などで人権侵害の告発をされてい

なおこの時期、チン族の医師・ササが、NUGのスポークスマンとして注目を浴び、スーチーを失った民主派の次期リーダーと目されていた。「ロヒンギャは私たちの兄弟姉妹」と呼びかけたのは、かのササである。しかしスーチーが引っ張ってきた人物だけあって、その話は抽象的で具体性に欠け、悪く言えば無内容だった。案の定、その後、彼は見識を欠く発言を繰り返したり(「各国は軍政を支援する中国・ロシアに経済制裁を課すべきだ」等)、怪しいアメリカ人の武器製造セミナーに参加していた事実が暴露されたりして(記事を発表しようとすると、ササは法的手段をちらつかせたのだという)、やがて記者会見が取り上げられることも、外国政府との会合に出席することもなくなり存在感は薄れていった。「彼は言うべきこととそうではないことの区別がついていない」と苦言を呈すNUG幹部もいた。現在、NUGのスポークスマンを担っているのは外務相のジンマーアウンである。

PDFによる爆弾テロ、暗殺、学校CDM

PDFの効果はすぐに現れた。

ヤンゴンなどの大都市で爆弾テロが頻発するようになったのだ。当初は正体不明、国軍の自作自演では?などと主張する人々もいたが、軍事施設、行政機関、国軍系企業などが狙われ、死者まで出していたので、PDFによる犯行であることは明らかだった。仮に自作自演であれば、士気が低下するので、自陣に死者が出るような事態は避けるはずで、自作自演説を唱える人々は、見苦しい自己正当化をしているようにしか見えなかった。自分たちが味方する者が”無垢”でなくては困るのだ。


またPDFは、行政官公務員、USDP関係者、密告者(ダラン)の疑いをかけた者などを国軍派と見なして暗殺し始め、ヤンゴンなどの大都市で銃撃戦を繰り返すようになった。6月までにUSDPの党員70名がPDFによって殺害されたという報道もあった。行政官公務員、USDP関係者と言っても、皆、丸腰の一般市民であり、これは明らかなテロ行為だった。そしてこれは1970年代前半にイラワジデルタ地帯からビルマ共産党(CPB)とカレン民族解放軍を駆逐して以来、比較的平和だったビルマ族が多く住むミャンマー平野部が戦場となったことを意味した。8月にはヤンゴンの鉄道で鉄道警察官6名がPDFに銃撃され、携帯していた銃が奪われるという事件が起き、血溜まりの中に横たわる警察官たちの遺体の写真が広く拡散した。ただこの時は、まだ事の重大さに気づかず、”戦勝気分”に浮かれていたミャンマー人が多かったように思う。

さらに当初、公務員や医師に限られていたCDMが拡大解釈されるようになり、商店や工場を開けたり、Facebookでオンラインショップを開いたり、就職活動したり、経済活動に携わる人たちまで非難の対象となった。私の友人などは他人に知られないようにこっそり就職活動をしていたくらいである。現地にいた日本人の方によると、いつまでもCDMを続けていた人々は、比較的経済的余裕のある人々だったのだという。つまり恵まれた人間が恵まれていない人間を糾弾していたということだ。

そしてCDMは学校にも”進出”。NUGは、軍政下で行われる学校教育は”軍事奴隷教育”であるとし、学校へ通わないように圧力をかけ始めた(ただしアラカン軍《AA》だけは従わず、子供たちに学校へ行くように促し、NUGから批判された)。学校へ通うと国軍派のレッテルを貼られて暗殺されかねないような雰囲気が醸成され、実際、この後、学校への放火、授業を行う教師の拉致、殺害が頻発するようになった。

学校CDMの効果は覿面に現れ、2024年2月現在、クーデター前に比べて高卒は60%減、大卒は90%減と大幅に減少した。これは間違いなくミャンマーの将来に禍根を残す。中国文化革命が吹き荒れた1965年から1975年が就学期間に当たった中国人が、大学に行けなかったばかりに学力的・倫理的に問題があり、働き盛りの年齢になっても使い物にならず、中国の経済成長が大幅に阻害された話と似ている。そもそも軍事奴隷教育と批判するが、その軍事奴隷教育を受けたはずの人々の多くが、国軍に悪感情を持っていることからして、なんの効果も上げていないのは明らかだ。

この点、NUGはオンライン教育を提供し始めたが、資金難、教員不足、カリキュラムの不統一、ネットの接続が不安定と問題山積みで、大学も3つほど用意したらしいが、果たしてそんな大学の学位がどこで通用するのかも疑問だった。

また少数民族系の学校がその代替手段になるという主張もあったが、ミャンマー語ができなければ就職の機会が限られるのは必定であり、少数民族武装勢力によるもう1つの軍事奴隷教育と言わざるをえなかった(写真はシャン州軍南部《SSA-S》の本拠地・ロイタイレンにある学校)。

「政争を教育にまで持ち込むのはおかしい。何よりも家族が大事だ。子どもの教育を受ける権利を守りたい」とこぼした。子どもの登校を再開させた6月時点では、公立校に子どもを通わせることを認めない同調圧力が強かったが、最近は和らいできているという。ただ、民主派勢力から「裏切り者」と後ろ指を指される恐れがあり、安心して生活できない状況が続いている。(出典

こちらはネットで拾ったミャンマーの風刺漫画。近未来のミャンマーである。

ビルマのプラットホーム

P1:軍人の幹部、ブルジョワの子供たち

外国の学校やインターナショナルスクールに通い、高い教育費を払い、最高の教育費を受ける。下層の人々の生活には無関心。

P2:都市の中流家庭の子供たち

両親が家で教え、オンライン家庭教師を雇い、軍政に税金を収める

P3:避難民の子供たち

家を燃やされ、戦禍を逃れる。食糧が得られず、寄付金を少しもらう。CDM教師から教育を受ける(罵声は浴びせられない)。

P4:村や都市の貧しい子供たち

インターネットを使えない。両親には子供に勉強を教える学がない。家庭教師も雇えない。軍政下の学校へ通い、罵声を浴びせられる。

5月から7月にかけてミャンマーではコロナの嵐が吹き荒れ、正確な数はわからないが実に多くの人々が亡くなった。私の友人の家族も何人も亡くなり、両手では数えきれないくらいである。たしかに軍政の対応が不十分だったということもあるだろうが、NUGが推進した医師のCDMが被害を拡大させたことは明らかだ。教師不足とともにCDMによる医師不足も深刻で、2022年に軍政は医学部への入学基準を引き下げたが、それでも足りず、仕方なく他学部からの編入を認めたが、このような付け焼き刃の対処法では医師のレベル低下は必定である。NUGはオンラインで医学教育を提供しているようだが、当然臨床実習などないので、とてもではないが医学教育の名に値しないものだ。

そしてこれらのことの当然の帰結として、ミャンマー経済は奈落の底に落ち始めた。


2021年後半