カチン独立軍

Kachin Independence Army

・活動時期:1961

・活動場所:カチン州、サガイン管区

・本部:ライザ

・宗教:キリスト教

・主義主張:カチン民族主義、連邦主義

・兵力:1万5000人

カチン独立機構Kachin Independence Organisation)の軍事部門

北の雄

前史

カチン族がいつから現在の地に住んでいるのかよくわかっていないが、カチン州だけではなく、中国に12万人、インド北東部にも34万人住んでいると言われる。翡翠、木材、金、チーク材などの天然資源が豊富で、シャン州に次いでケシ栽培が盛んな地でもある。特に翡翠は価値が高く、中国の愛好家はカチン産の翡翠を「皇帝の翡翠」と呼んで、ダイヤモンドより珍重している。

カチン族がビルマ族と初めて接触したのは1516世紀。1555年頃にビルマ族のタウングー朝がシャン族のアヴァ王朝を滅ぼし、その際、シャン族土侯の傭兵だったカチン族の一部がビルマ王の傭兵となった。

19世紀末にはインド人傭兵を主とするイギリス軍が侵入。カチン族は先込め銃、刀槍、弓矢などの原始的な武器で抵抗たが、1914年に制服された。しかしイギリスのビルマ本土の支配に重点を置く政策により、カチン州はビルマ本土とは別に間接統治下に置かれ、土侯たちの地位もそのまま保たれた。

それより前、1837年にアメリカ人宣教師・ユーヘニオ・キンケイドがカチンの地を訪れ、キリスト教の布教を開始した。当時カチン族は特定の宗教を信仰しておらず精霊信仰を奉じるのみでさらにカチン族には”失われた本”という伝説があった。かつてカチン族は神から創造、死、復活、さらには洪水の物語を含む羊皮紙の本を受け取ったのだが、その本を受け取った者がカチンの地に戻る途中、お腹が空いてその本を食べてしまった。自分たちが原始的で貧しい生活を強いられているのはそのせいで、いつの日か外国人がその本を返しにきてくれる……聖書を。というわけで既に仏教が広まっていたシャン州と違、カチン州にはキリスト教が受け入れられる土壌があった。

ミャンマーが完全にイギリス植民地となり、治安が安定すると、先にキリスト教に改宗したカレン族宣教師の力も借りて、欧米人宣教師たちの活動も活発化し、カレン族の改宗者が爆発的に増えていった。宣教師たちは布教だけではなく、医療活動や教育活動も行い、ミッチーナなどの平野部に建てられた学校に通うために山岳部から移り住カチン族も現れた。また改宗したカチン族宣教師たちはシャン州北部や雲南省に住むカチン族へ布教活動も行った。ちなみに「カチン」という言葉も欧米人宣教師たちが作ったものと言われているが、土着語でもなく、その起源もよくわかっていない。

オラ・ハンソン

1890年から1892年の間に、スウェーデン語、英語、ドイツ語、ギリシャ語、ヘブライ語を操り、ミャンマー着任後はビルマ語とジンポー語(カレン族の共通語)をマスターした語学の天才であるスウェーデン系アメリカ人宣教師・オラ・ハンソンが、カチン族の共通語であるジンポー語の文字を作った。彼は聖書をジンポー語に翻訳したり、ジンポー語辞書を出版したりするなど、キリスト教の布教とカチン族の教育水準向上に多大な貢献をした。このようなキリスト教の布教はカチン族のライフスタイルを変え、その民族的自覚を芽生えさせた。

連合軍への協力

イギリスはカチン州へ侵攻した際、獰猛な山岳戦士であるカチン族の兵士としての素質の高さに気づき、やがて自身の軍隊に徴兵し始めた。カチン兵は第一次世界戦ではヨーロッパ、中近東、インド北西部に送られ勇猛果敢に戦い、その評価を上げた。1930年代にビルマ族中心のタキン党による反英植民地運動が盛り上がると、その鎮圧にも駆り出され、ビルマ族の大きな恨みを買った。1930年代当時の植民地軍の構成は、ビルマ族1893人、カレン族2797人、カチン族852人、チン族1258人、インド人2578人。たしかにビルマ族の比率が低く、分割統治の結果と言えなくもないが、①多数派で民族的統一感のあるビルマ族に兵器を持たせなくなったカレン族、カチン族、チン族は狩猟経験豊富で、銃の扱いに慣れ、勇猛果敢②キリスト教の学校で英語を学習して堪能だった③ビルマ族を嫌悪していた④比較的経済水準の高いビルマ族は兵士の待遇に不満を言う恐れがあったことなどが大きな要因とも思われ、はたして「分割統治の結果」なのか「結果としての分割統治」なのかは疑問の残るところではある。

第二次世界大戦が始まると、白人へのシンパシーと日本軍がビルマ独立義勇軍(BIA)を支援したことから、大部分は連合国軍側に付いた。カチン兵はイギリス軍のカチン部隊に編成され、ここでも勇猛果敢な活躍をした。また レド公路建設においても多大な貢献をした。

さらにイギリス軍での活躍を耳にしたアメリカ軍もカチン族中心の第101分遣隊を創設し、最終的には1万1千人もの兵力を誇り、日本軍相手にゲリラ戦に挑んだ。一説には第101分遣隊による日本兵の犠牲者数は1万人余に上り、カチン兵は戦果を確認するために日本兵の遺体両耳を削いだのだという。後に独立運動を先導したノー・セン(Naw Seng)もこの時の活躍により、メダルを授与されている。

1944年83日、ミッチーナが連合軍によって解放されると、カチン兵はカチン・ライフル部隊として政府軍に組みまれた。戦時中のカチン兵の死者は338人。連合国の戦勝に多大な貢献をしたということで、この戦争はカチン族にさらなる自信をもたらし、今でも栄えある日々として記憶されている。ただこの戦争によりビルマ族との関係は大幅に悪化した。

初期の武装闘争

戦争が終結するとミャンマーの独立熱高まり、1946年1947年に開催されたパンロン会議カチン族代表団シャン族、チン族とともにに参加し協定に調印。その際、カチン代表団はウー・ヌ首相の「イギリスの分割統治が少数民族間の憎悪を煽った」という反英的演説に対して、「ビルマ族こそ日本軍と結託して山岳民族を苦しめたではないか」とこれを全面否定。同時に「カチン族の伝統的な世襲の権利、習慣、宗教を尊重するのであれば、ビルマ族と緊密な関係を結ぶこともやぶさかではない」とも述べた。ただ同年イギリスの辺境地域調査委員会が各少数民族のヒアリングを行った際には、カチン族代表団は連邦内にカチン族の独立国家を樹立することを再三要求している。1948年ミャンマー連邦独立。前年4月に制定された憲法ではカチン州の設置は認められたが、ミッチーナとバモーの主要都市をカチン州に組み入れることを条件に、シャン州、カレンニー州と違って連邦離脱権は認められなかった。

ノー・セン(中央)

独立はしたが、早くも1948年4月にビルマ共産党(CPB)が、1949年1月にカレン民族解放軍(KNLA)の前身・カレン民族防衛機構(KNDO)が反乱を起こした。これに対してパンロン会議に参加したカチン族、チン族、シャン族の”辺境の民”は、中央集権的な政府に不満があったものの、パンロン協定で一定の地位が認めらたことに恩義を感じてこの列に加わらず、むしろ国軍に加勢。国軍第1カチン・ライフル部隊隊所属の大尉となっていたノー・センはCPB相手に大きな戦果を上げ、”ピンナマの共産主義者の恐怖”と称されるほどだった。

しかしノー・センはKNDOの掃討を命令された際、同じキリスト教徒のKNDOと戦うことをよしとせず、配下の兵士とともにカチン族の独立を標榜してタウングー付近のイエダーシーで武装蜂起。KNDOと合流して、メクテラー、ピンウールウィン、マンダレーを攻め落とした。さらにヤンゴンのインセイン地区で包囲されているKNDOを支援するためにバゴーまで進軍したが、そこで国軍の反撃に遭いシャン州北部、さらにカチン州山岳部まで撤退した。同年11月ノー・センはポンヨン民族防衛軍(PNDF)を結成。ポンヨンとは神話に出てくるカチン族の始祖の名前、カチン族を意味する。PNDFは2、3000人の兵力を誇り、カチン族の他、ノー・センを慕って付いてきたカレン族、シャン族兵士も若干名いた。しかしPNDFは政府側にいたカチン族の首長・政治家と対立住民の協力も得られず、カチン州山岳部まで追ってきた国軍の攻撃に遭って、ノー・センは400名の部下を引き連れて1950年中国雲南省に亡命した。

カチン独立軍(KIA)

1950年代のカチン州では、戦争で活躍したのにも関わらず、相変わらず貧しく、中央政府に無視されたままの境遇に住民の不満が高まっていった。また政府は1956年と1957年にカチン州に属するウディ、ウガ、ライサイ地方をサガイン管区に編入。1960年にはピモー、ゴーラン、カンパン地方を中国に割譲、さらに1961年にはウー・ヌ政権が仏教を国教化するなど(後に取り止め)、カチン族の神経を逆撫でするようなことを立て続けに行い、カチン族の間で独立を求める機運が高まった。隣のシャン州で独立運動が盛り上がっていたのも刺激となった。

ゾー・セン

1957年 ヤンゴン大学のカチン族の学生が秘密裏に会合を持ち、北斗七星(サニット・マジャン)なる組織を結成し、武装闘争の準備に入った。メンバーの中には後の初代KIA副議長・パロン・ゾー・トゥー、初代書記長・プンシュウィ・ゾー・セン 現副議長マリズップ・ゾー・マイがいた。会合をアレンジしたのは、ゾー・トゥーの長兄パロン・ゾー・セン(Zaw Seng)で、彼は第二次世界大戦中カチン・レンジャー部隊に所属し、PNDFでも要職に就いていたが、中国には亡命せず、密かに国内に潜伏して武装闘争を続けていた。彼らは支援を求めてタイ国境地帯にあるKNU/KNDO支配地域に赴いたが、残念ながらKNDOは余分の兵器を所持しておらず、この試みは失敗した。

そこで彼らは、1959年、ミッチーナで文化振興青年組織なる団体を組織し、カチン語の書籍の出版したり、集会を開いたりしながら、カチン族の伝統文化保持に努めつつ、自治権の拡大を求める運動を行い、後にKIA/KIOの2代目議長となるカチン・バプテスト高校校長・マラン・ブラン・セン(Maran Brang Seng)接触。協力して武装組織を作ることになり、高校生、大学生、国軍内部のカチン兵、州政府内のカチン族公務員をリクルートし始めた。そして1961年2月5日 カチンランド自由共和国の樹立を掲げカチン独立機構(KIA)/カチン独立軍(KIO)を結成。ゾー・センが初代議長となった。3月7日にはラショーの政府銀行を襲撃して、現金9ksを強奪。これを軍資金として反乱の狼煙を上げた。なお当時彼らにあった兵器は、第二次世界大戦中に使用した旧式ライフル30丁と弾丸がそれぞれ5~15発だけで、かなり小規模な組織だった。

国軍vsKIAvsビルマ共産党(CPB)

1962年3月2日ネウィンがクーデターを起こし軍事独裁政権が成立。7月、国軍はヤンゴンでデモ隊に発砲、学生会館をダイナマイトで爆破するなどして弾圧したことで、怒った何百人もの学生がカチン州やシャン州の武装勢力に合流、KIAも手強い武装勢力に成長していった。1963年11月、政府はCPB、KNLA、KIAなどの指導者をヤンゴンに集めて和平交渉が行たが、あえなく決裂。以降、国軍は、資金・食糧・情報・兵員といった重要な供給源を断って相手を弱体化させるフォー・カット作戦を取り始め、これが徐々に効果を上げ、各地の少数民族武装勢力を追いつめていった。しかし当時の国軍はシャン州に侵入してきた中国国民党の掃討にかかりきりだったので、KIAは容易にカチン州とシャン州のカチン族居住地域を支配下に置いた。KIAの戦略は山中にたてこもるゲリラ戦が主で、村々で支援を訴えて、若者を組織化しジャングルで軍事訓練を行った。さらに1960年にはミャンマー政府軍に破れタイ国境地帯に逃れた後もミャンマー国内拠点欲していた中国国民党と結託彼らからも軍事訓練を受け翡翠やアヘンと引き換えに弾薬、医薬品、生活必需品を入手した。世界反共産主義者同盟(WACL)カチン支部が置かれたこともある。

しかし敵は国軍だけではなかった。支配地域を巡ってシャン族の武装勢力、時には同じカチン族の他の武装勢力と戦うこともあった。カチン族は7つの言語集団に分かれ、その中でもラワン族、ヌン族はカチン族への帰属意識が低く、KIAにも非協力的で、そのためKIAがラワン族の住民をスパイ容疑で処刑するようなこ事件が度々発生した。1964年末から1965年5月にかけてはKIAとラワン族、ヌン族の住民との間で武力衝突が発生。KIAは住民の家を焼き討ちしたり、住民を処刑したりして数百人の死者が出る惨事となり、この事件をきっかけにラワン族、ヌン族は完全に政府側に付いた。さすがにこの事態を見過ごせなくなったKIAは1969年、ジンポー国独立機構・軍という組織のカチン名をウンポン国独立機構・軍に変えた。ウンポンとは7人兄弟である各言語集団の父親、民族の始祖の名前である。

またビルマ共産党(CPB)の脅威も現れた。

中国雲南省に亡命したノー・センたちは中国共産党の世話になりながら雲南省、貴州省を転々とし、鉱山・工場で働きながら中国語を学び、共産主義思想と毛沢東の人民戦争・革命理論を叩き込まれた(とはいえ彼らの中で真の共産主義者になったのは少数だったようだ)。中国共産党はミャンマー政府がシャン州に逃れた中国国民党を掃討することを望んでいたため、ウー・ヌ政権時代は中立政策を取っていたが、1967年にヤンゴンで反中暴動が発生すると、ネウィンがこれを黙認したと考え、一転してCPBを支援に方針転換ノー・センを既に中国に逃れてきていたCPB幹部に引き合わせ、CPBへの合流を要請した。いい加減、中国の生活に飽きていたノー・センもこれを承諾し、中国人民解放軍の下で軍事訓練を積んだ。そして1968年1月1日、ノー・セン率いる雲南省のカチン族義勇兵を中心とするCPB部隊は、シャン州北端モンコーに侵入して国軍駐屯地を占領シャン州北部に解放区を築きいた。しかしノー・センは同じカチン族のKIAと戦うことを良しとしていなかったようで、1972年3月9日、狩猟中に謎の事故死を遂げた。噂ではKIAと戦うことを拒否してCPBに暗殺されたと言われている。

国軍とCPB両方と戦うことになったKIAは戦闘で夥しい犠牲者を出し、ミャンマー・中国国境の密貿易で利益を上げてたとはいえ、拡大する戦線を賄いきれず資金も枯渇した。1972年6月に国軍と停戦合意を結んだものの、国軍がKIAに国境警備隊(BGF)への編入を迫ったため3ヶ月半で決裂。1975年にはシャン州北部の銀山で働いていたドイツ人技師を誘拐し、25万ドルの身代金を奪ったが状況は好転せず。その一方でタイ国境に居座ったKIA幹部は、貧窮する兵士そっちのけでチェンマイやバンコクに豪邸を構え、翡翠ビジネスに精を出して財をなしており、1975年6月、ついに幹部の腐敗に対する兵士の怒りが爆発。ゾー・セン議長、ゾー・トゥー副議長、プンシュウィ・ゾー・セン書記長が不正蓄財の罪で処刑されるという大事件が発生した。

KIO/KIAは結成以来最大の危機に陥ったが、1976年1月、すぐさまマラン・ブラン・セン議長 マリズップ・ゾー・マイ副議長 ゾン・クラー書記長の新体制を発足。その4ヶ月後には政府を共通の敵としてビルマ共産党(CPB)と停戦合意を結んだ。これにより、KIAは中国からライフル、機関銃、迫撃砲、弾薬などの兵器を入手できるようになり、タイ国境の拠点を引き払って、カチン州での国軍との戦いに集中した。ただ中国共産党と深い繋がりを持ったことで、少数民族武装勢力の連帯組織・民族民主戦線(National Democratic Front)からは脱退せざるをえなかった。NDFはタイの支援によって結成されたもので、当時、タイはアメリカからこの付近一帯の共産化阻止の最後の砦とされており、さらにミャンマーの少数民族武装勢力を結集して反共の砦にしようとしていたという事情があった。

停戦合意

1980年、KIAとCPBは政府との間で停戦交渉が行ったが、結局、双方とも決裂。しかしこの際、国軍に対抗するためには少数民族武装勢力の結集が必要と再認識したKIAは、NDF加盟し1986年12月16から1月20日にかけて当時KIO/KIAの本部があったパジャウに、モン族、カレン族、ラカイン族、パオ族、シャン族、ワ族、パラウン族、カチン族の代表団を集めて会合を開いた。ちなみにこの時、多民族から構成されるNDF代表団が会合に参加するためにタイ国境からパジャウへ長旅をしたのだが、これに随行したのがノンフィクション作家の吉田敏浩氏で、その様子は森の回廊」に描かれている。1986年3月にはNDFとCPBが対国軍共同作戦を取ることが決定(KNU/KNLAはこれに反対してNDF脱退)。1986年から1987年にかけてCPB、カチン族、シャン族、パラウン族の合同軍が国軍と戦ったが、しかし結果は惨憺たるもので、同年5月30日パジャウ陥落した。

1988年、ミャンマー全土で民主化運動が盛り上がり、1000人以上のビルマ族学生が国軍の弾圧からKIA支配地域に逃れてきて、国軍と戦うべく軍事訓練を受けた。1990年12月18日には少数民族武装勢力と学生の連帯組織・ビルマ民主同盟(Democratic Alliance of Burma)が結成され、議長にKNLAのボー・ミャ、副議長にKIO/KIAブラン・センが就任した。

が、その前年の1989年、CPBはワ族、コーカン族の下級兵士の反乱により崩壊。ワ州連合軍(UWSA)ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)民族民主同盟軍(NDAA)新民主軍カチン派(NDA-K)に分裂し、これらの組織は即座に政府と停戦合意を結んだ。NDA-KはCPBのカチン兵によって結成されたグループで、一時期KIAに近づいたものの、すぐに政府に帰順し、2009年に国境警備隊(BGF)に編入された。

CPBが崩壊したことで、KIO/KIAはシャン州を通過してタイへ抜けるルートと弾薬の供給源を失った。さらに翡翠、金、チーク材の国境貿易を安定的に行いたい中国、同じくタイ共産党を殲滅し、国境貿易を安定的に行いたいタイから停戦合意を結ぶよう圧力があり、長引く内戦で住民の厭戦気分も高まっていた。1991年1月にはKIA第4旅団が脱退してカチン防衛軍(Kachin Defense Army : KDA)を結成し、政府と停戦合意を結んだ。1992年には失ったタイルートの代わりにインドルートを確保すべく、一旦インド国境地帯のパンサウを占拠したが、これもすぐに国軍に奪還された。

ということで、追いつめられたKIO/KIAは、1994年、カチン・バプテスト協議会の仲介で、ミッチーナついに政府と歴史的な停戦合意を結んだ。当初、KIO/KIAはDAB全体で停戦合意を結ぶつもりだったが、他のグループの理解を得られず、逆にDABから追放されてしまった。ちなみに他の少数民族武装勢力と政府との間で結ばれた停戦合意は口頭によるものだったが、KIO/KIAのみ協定書が作成され、①カチン州全土で停戦すること②大赦を実施すること③カチン州で開発事業を行うこと④KIOは新憲法で内容が決まるまで兵器を所持できることなどが盛りまれた。

束の間の平和、再び内戦

平和が訪れたことにより、ビルマの他の地域や中国との交易が盛んになり、道路、発電所、病院、学校などのインフラが整備され、カチン州は栄え始めた。翡翠や金の鉱山の開発も盛んになった。しかしその利益の大半は中国人に持っていかれ、安全管理不足から度々崩落事故を起こし、その度に多くの死傷者を出した。KIO/KIAの幹部は潤ったかもしれないが、大半のカチン族の人々は貧しいままだった。

またカチン州はシャン州に次いでケシ栽培が盛んな地域であるが、KIO/KIAは1990年代から麻薬生産・取引に対して売人の一斉検挙・処刑など厳しい態度を取り始め、その結果、ケシの生産量は大幅に減少した。しかし政府に帰順したNDA-K支配地域では相変わらずケシ栽培が盛んであり、1994年の停戦合意後、治安が安定したことにより、むしろ生産量は増加しているという報告もある。鉱山やプランテーションで重労働に従事する労働者たちの中には麻薬中毒者も少なくなく、また注射を使い回すことによってHIVに感染する人も多く、カチン州内のHIV感染率は2.8%と全国でもっとも高くなっている(ミャンマー全国の HIV 感染率は 0.57% )。

しかしその”繁栄”も長くは続かなかった。

2008年憲法20条第1項で「国軍は強固で時代に即した唯一の愛国軍である」と定められたが、政府はこの条項にもとづいて従前の停戦合意を一方的に破棄し、あらためて少数民族武装勢力に対して国軍傘下のBGFに編入するように要求した。しかしKIO/KIAを含む大多数の少数民族武装勢力はこれに反発。さらに2009年には、カチン州でミャンマー政府と中国企業が共同出資したミッソンに大型ダム建設計画が持ち上がったが、電力の90%は中国への輸出向けであり、また広範な地域が水没することによ環境破壊、生活基盤喪失の不安が住民の間で高まり、激しい反対運動が起きてKIO/KIAもこれに同調し、両者の関係は次第に険悪になっていった。

そして2011年6月9日、17年ぶりに停戦合意が破られ、国軍とKIAとの間で戦闘が勃発。2014年11月19日には、国軍がライザ近郊の戦闘幹部訓練施設に砲弾を撃ちこみ、23人が死亡・20人が負傷する事件が発生した。犠牲者はアラカン軍(AA)8人、タアン民族解放軍(TNLA)11人、チン民族軍(CNA)2人、全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)2人と他の武装勢力の若者たちばかりだった。その後も散発的に戦闘が発生し、2020年1月の国連の報告によると、両者の戦闘により10万7000人以上の国内避難民が中国国境近くや中国雲南省に逃れたのだという。この国軍とKIAとの紛争は、2015年の全国停戦合意(NCA)にわずか8つの武装勢力しか署名しなかった要因の1つとなった。

2021年のクーデター以降も国軍とKIAの戦闘は続いており、また戦闘激化による地元経済低迷が原因で、ケシの生産量も爆発的に増加していると言われている。