アラカン軍

Arakan Army

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17世紀のアラカン王国の首都・ミャウウー

前史

ラカイン州には1429年から1785年までアラカン王国があり、当時は東西交易の要衝の地として栄えていた。仏教王国であったが、支配地域にはムスリムも多かっため王はムスリム名を持ち、文化の多様性を反映して、ペルシャ語、ベンガル語、アラカン語の3ヶ国語が刻まれた硬貨も発行されていた。ポルトガル人宣教師マンリケは1630年に国王の傭兵を務める日本人キリシタン武士団がいたという記録を残している。このように過去に国際色豊かな王国を持ったのはラカイン族の大きな誇りとなっている。

しかし1785年、アラカン王国はビルマのバウン朝に滅ぼされ、その際、ルマ族によってラカイン族の信仰を一心に集めていたマハムニ仏がマンダレーに持ち去られた。その後数年間で数万人のラカイン族住民が殺害・徴兵され、10万人もの人々がベンガル地方へ逃亡した。この史実はラカイン族の中で民族の屈辱として深く記憶されている。コバウン朝支配下の時代にも度々反乱が発生したが、その度に鎮圧された。

ポー・トゥン

ウ・オッタマ

イギリス植民地時代

1826年、英緬戦争終結の際、ラカインはイギリスに割譲され英領ベンガル州の一部となり、1886年イギリスミャンマーを完全に植民地化した後、1897年にはミャンマーは英領インドのビルマ州となった。この際イギリスは、辺境地区に対しては間接支配に留めたのに対し、ラカインはアラカン管区(現在のラカイン州とチン州の一部)として直接統治、部分的ながらも議会制民主主義を導入した植民地政府はラカインをあまり重視しなかったが、それでも小さな漁村にすぎなかったシットウェは米輸出のハブ港として栄え、その教育水準の高さからラカイン族の中には銀行員や公務員になるものも多く、ラカイン族弁護士・ポー・トゥン(Paw Tun)などは英植民地政府の首相に登用された。

しかし独立運動の火が完全に消えたわけではなく、ポー・トゥンやラカイン族僧侶・ウ・オッタマ(U Ottama)のようにビルマ族と協力して独立運動を展開する人々がいる一方、ラカイン族独自の独立運動を模索する動きもあり、様々な文化的・政治的組織が設立された。1940年5月には様々な組織が結集したアラカン民族会議(Arakan National Congress:ANC)の第1回大会がポークトー(Pauktaw)で開かれ、同年、過激左翼思想を持つウ・セインダ(U Seinda)という僧侶が仏教徒中央アウワダサリヤ機構(Buddhist Central Auwadasaruya Organisation:BCAO)の会合をチャウピュー(Kyaukpyu)で開いた。なおラカイン族の民族主義者には僧侶が多いが、これはラカイン族の仏教遺跡に対する誇りがナショナリズムに結びつきやすいという理由からである。

ウ・セインダ

アウンザイワイ

日本占領時代、独立期

1942年に日本軍がミャンマーを占領すると、ラカイン族はビルマ国民軍(BNA)傘下アラカン防衛軍(Arakan Defence Army:ADAに付き、ムスリムはラカイン奪還を狙うイギリス軍が結成したゲリラ部隊・Vフォースに付いて両者の対立が激化した。やがて連合軍が巻き返し、日本軍が劣勢に立たされると、ADAは反乱を起こし、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)より先に日本軍からラカインを奪還した。が、その後やってきたイギリス軍に武装解除させられ、ADA長官ボークラフラアウン(Bo Kra Hla Aung)やウ・セインダなどが逮捕されたことにラカイン族の人々は憤った。

この頃、ラカインの独立運動は、ポー・トゥン率いる議会グループ、アウンザンワイ(Aung Zan Wai)率いるANC、ウ・セインダがANCを脱退して1945年1月に結成したアラカン人民解放党(Arakan People Liberation Party:APLA)の3つのグループに分かれていた。一番過激で3000人の党員を要するAPLAは直ちにイギリス政府に対する攻撃を開始したが、AFPFLはANCとだけ協力したので、ラカイン族民族主義者の間で分断が深まり、AFPFL、ビルマ共産党(CPB)、APLP、人民義勇軍(PVOアウンサウンが結成した第二次世界大戦の退役兵らで構成される準軍事的組織)の各派に分かれていった。特にCPBの浸透は速く、ラカインはCPBの一大拠点となり、1947年4月ウ・セインダと赤旗CPBが連帯してアラカン左翼統一戦線(Aarakan Leftist Unity Front:ALUF)結成した。このように第二次世界大戦の終結はむしろラカイン族民族主義者の分裂と過激化を促進していった。仏教と共産主義のハイブリッドが初期ラカインの反政府運動の特色だった。

1946年、1947年に開催されたパンロン会議にもラカイン族代表団は招待されず、アウンザンワイがAFPFLの一員として参加しただけで、1947年9月24日に採択された憲法では、ラカイン州の設置認められなかったばかりか、従来ラカイン族の支配地域とされていたカラダン渓谷上部をチン特別管区として分離され、ラカイン族民族主義者たちは激昂した。1949年には赤旗・白旗両CPB主導で各派が協力した統一共同戦線が張られた。この対立は武装闘争だけではなく議会政治にも持ちこまれ、1951年の選挙ではラカイン選挙区においてAFPFLがわずか3議席に留まったのに対し、後にアラカン民族共同機構(Arakan National United Organisation:ANUO)となるグループはアラカン州設立を訴え17議席を獲得した。1950年代初頭、各地で反乱が起きて国内が騒然とする中で、白旗CPB主導で和平を推進する左翼政党の連帯組織・国民統一戦線(National United Front)が結成され、ラカインからもANUOとビルマ・ムスリム会議(Burma Muslim Congress:BMC)がこれを支持して、一時和平の気運が盛り上がったが、1958年に成立したネウィン選挙管理内閣が、赤旗・白旗CPBを含む国内の武装勢力の一掃に乗り出したため一気に萎んだ。

1960年再びウー・ヌ政権になると、サオ・シュエ・タイッらシャン州の元土侯たちが中心となって「真の連邦制」を求める運動を起こした。そして1961年6月、様々な民族のリーダーたちを集めてタウンジーで全州会議を開催。①ビルマ族のためのビルマ州の設置②国会上院議席の各州へ の同数割り当て③中央政府の権限を外交や国防などに限定することなどを要求、そのための憲法改正を訴えた。これはシャン州のみならず、国家全体の統治制度の改革を求めた点で非常に画期的なものであり、パンロン協定で認められたシャン州、カチン州、カレンニー州の他、チン州、モン州、ラカイン州の設置を求める決議もなされ(ただしモン州は1958年にモン族の武装勢力と政府が停戦合意した際に、既に州設置の約束がされていた)、ウー・ヌは1960年の選挙で公約していたモン州とラカイン州の設置を1962年9月までに実施せざるをえなくなった。

その一方で、1960年6月、退役軍人のマウンセインニュント(Maung Sein Nyunt)が30人の元APLP幹部とともに親マルクス主義のアラカン民族解放軍(Arakan National Liberation Army:ANLA)を結成、さらに赤旗CPBの一部がアラカン共産党(Communist Party of Arakan:CPA)を結成を画策する不穏な動きもあった(1962年3月結成)。そして1961年5月、ウー・ヌはラカイン州の設置に先んじて、ラカイン北部に政府直轄地のロヒンギャ自治区・マユ辺境行政区を設置(1964年解除)。ロヒンギャの武装勢力・ムジャヒッド党(Mujahid Party)の鎮圧に手を焼いた結果だったが、これはラカイン族の人々には政府のひどい裏切りに映った。

1962年3月2日ネウィンはクーデターを起こし、軍事独裁政権が成立した。クーデターを起こした理由は連邦分裂を防ぐためだった。

ウー・オータートゥン

ネウィン時代

赤旗CPBが分裂したことにより、1960年代ラカインの反政府運動を主導したのは白旗CPBだった。しかし1967年8月13日、シットウェで米不足に抗議する人々に国軍が発砲し、400人以上の死傷者・行方不明者が出るという事件が発生米殺しの日/Rice Killing Day)。この事件を機にアラカン独立機構(Arakan Independence Organisation:AIO)アラカン解放党(Arakan Liberation Party:ALP)/アラカン解放軍(Arakan Liberation Army:ALA)が結成された。両組織ともウー・オータートゥン(1991年に獄死)という歴史家の影響を受けており、前者はマンダレーの大学に通うラカイン族の学生によって結成され、カチン独立軍(KIA)の下で軍事訓練を受けた後、ラカインに反政府運動の足場を作った。後者は1968年に結成されたが、その直後に幹部が逮捕され、活動は一時停滞。1972~1974年にカレン民族同盟(KNU)の支援を受けてKNUの支配地域で正式に結成された。

1974年憲法でチン州とともにラカイン州が正式に設置されたが、ラカイン族の反政府勢力の間では歓喜の声は聞こえず、むしろラカイン族分断工作の一環と捉えられた。

そしてこの頃から、紛争に関しては比較的低度だったラカイン州は国軍の少数民族武装勢力掃討の標的になり始めた。理由としては①1974年から1975年にかけて平野部にいたCPB、KNLA(KNUの軍事部門)を一掃したこと②1973年の国勢調査でインド系・中国系移民の減少が観測されたのにも関わらず、世論調査を実施したこと自体が政府の外国人嫌悪を増幅させたこと③ラカイン州と国境を接するインド・バングラデシュの情勢が不安定で、インド系、ムスリム移民の流入が懸念されたことが挙げられる。

1977年、国軍はラカイン州に新たに2個師団を設け、ラカイン州の武装勢力にフォー・カット作戦と戦略村作戦を組み合わせた総攻撃を仕かけ始めた。まず国軍はラカイン州内のCPBを壊滅させ、次にカチン州からラカイン州に移動中だったAIOの部隊をチン州で待ち伏せ攻撃して、創始者を含む全員を殺害、全滅させた。同様にKNU支配地域からラカイン州に移動中だったALAの50人の部隊もチン州で国軍に全滅させられた。また1978年にはラカイン州のムスリムに対してドラゴン・キング(ナガーミン)作戦を発動、数ヶ月間で20万人以上のムスリムをバングラデシュに流出させた。1980年の大恩赦の際にはCPB、CPA、AIOの幹部がこぞって国軍に降伏した。

その後、1985年にAIO、ALA、CPAが連帯してアラカン民族統一戦線(National United Front of Arakan:NUFA)を設立したものの、内紛やラカイン族とムスリムとの対立などが顕在化し、ラカイン州の武装勢力の活動は低調なものになった。

国家法秩序回復評議会(SLORC)/国家平和発展評議会(SPDC)時代

1988年民主化運動に対するラカイン州の反政府勢力の反応は迅速で、NUFAは、9月、古参のアラカン民族解放軍(ANLA)、部族民族党(Tribal National Party:TNP)、若い活動家によるアラカン民族民主軍(National Democratic Force of Arakan:NDFA)を新たに加えて組織を拡大。既に少数民族武装勢力の連帯組織・民族民主戦線(National Democratic Front)のメンバーだったALPはAIOと合併した後、少数民族武装勢力と1988年民主化運動の学生組織の連帯組織・ビルマ民主同盟(Democratic Alliance of Burma)に参加した(ただし新生ALPからすぐに一部メンバーが脱退して単身KNLA支配下に赴き、NDF、DAB、ビルマ連邦国民連合政府(NCGUB)に参加するお粗末さだった。11月には全アラカン学生同盟(All Arakan Student Union:AASU)が結成され、全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)の傘下に入った。ただCPAは1997年に政府と停戦合意を結び解散。また1991年2月アラカン軍(AA)の前身・ラカイン国軍(Rakhaing Tatmadaw。その後Rakhaing Tatmadaw - Pray Tatmadaw)がKNU支配地域で結成されたが、彼らもまた60人の部隊がラカイン州のバングラデシュ国境へ移動中、国軍の攻撃に遭って20人が戦死する憂き目にあった。

ラカイン州のこうした動きに対して、国軍は1977年、1978年以来の強硬姿勢で臨み、特にムスリムの武装勢力に対しては1991年、清潔で美しい国作戦(Operation Pyi Thaya)を発動して激しく弾圧。1978年のドラゴン・キング作戦の時と同様20万人以上のムスリムをバングラデシュに流出させた。

こうしてラカイン州の反政府運動の萌芽は90年代早々国軍によって刈り取られ、1994年に各武装勢力が結集してアラカン民族統一党(The National United Party of Arakan:NUPA)が、1995年に若者中心の全アラカン学生青年会議(All Arakan Students and Youth Congress :AASYC)が結成されるなどの動きはあったものの、相変わらず武装勢力の内紛が激しく、グループは離合集散を繰り返し、ラカイン族とムスリムの連携もなく、この時期の活動もまた低調なものだった。またこの時期、政治的混乱や貧困に絶望した多くのラカイン族の若者がカチン州の翡翠鉱山に出稼ぎに行ったり、インド、タイ、マレーシアなどの海外へ出稼ぎに行ったりした。

カイン・ラザ(中央)

アラカン軍(AA)

1998年2月8日、NUPAとKNLAの40人の合同軍がインド政府の黙認を得て、軍事基地を設置すべく、2艘のボートに兵器を満載してタイ国境からアンダマン諸島のインド領の島・ランドフォール島に上陸した。しかしインドはこれを裏切り、合同軍が上陸するや全員当局に拘束され、リーダーのカイン・ラザ(Khaing Raza)含む6人が処刑された。他のメンバーも2011年までインド当局に拘束され、その後難民認定を受けてオランダに移住した。なぜインド当局が裏切ったか、真相は謎のままだが、この後、NUPAは急速に勢いを失っていった。

2004年、ラカイン州の非武装組織と武装勢力を結集すべく、インドのニューデリーでアラカン民族会議(Arakan National Congress:ANC)(1940年に結成された組織と同名)が結成され、ALD、NUPA、AASUCなどラカイン州の広範な組織が参加したが(ただしALPは不参加)、ムスリムの組織が一つもなく、かえってラカイン族とムスリムの分断露わになった。

カラダン・マルチモーダル・プロジェクト

そんな、2000年にラカイン州沖合のシュエ・ガス油田プロジェクトと2009年にインド北東部7州とミャンマーを結ぶカラダン・マルチモーダル・プロジェクトが持ち上がった。この際、プロジェクトの進行に地元民が関われなかったこと、過去のプロジェクトを引き合いにして地元にあまり利益をもたらさないことに対して人々の不満が高まり、「ラカイン州が貧しいのはビルマ族政府のせいだ」というラカイン・ナショナリズム(とその裏返しの反ムスリム感情)が再燃した。

トゥミャーナイ 

ニョートゥンアウン

に現れたのがアラカン軍(Arakan Army)。2009年、KIAの支援を受けKIAの本拠地ライザで、カチン州のパカンの翡翠鉱山で働くラカイン人の若者26人によって結成されリーダーはトゥミャーナイ (Twan Mrat Naing)ニョートゥンアウン(Nyo Twan Awng)2人とも若く教養があり、前者は元ツアーガイド、後者は医師だった。従来、ラカイン州の反政府運動指導者は北部出身のムスリムが多く、南部の人々の支持を得られないのが悩みの種だったが、2人とも南部出身で、この点にもアドバンテージがあった彼等の目標は”ラキータの道”なる「アラカン(ラカインの旧称)の主権をアラカン人に回復し、アラカン民族を創設する」というシンプルなもので、当初は他のラカイン族武装勢力と同じ道を歩むかに思えたが、若いリーダーたちの清新なイメージとSNSを駆使した宣伝工作で、瞬く間にラカイン族の若者たちの間で支持が拡大していった。

2008年に新憲法制定、2010年に30年ぶりに選挙が行われ明るい兆しが見えたが、それも束の間、2009年にシャン州で、2011年にカチン州で停戦合意が破られ戦闘が再開。AAはKIA、ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)、タアン民族解放軍(TNLA)の下で戦闘経験を積んだ。またテインセイン政権下で各少数民族武装勢力との停戦合意が進んだが、ラカイン州の武装勢力で交渉相手とされたのは、ラカイン州での武装闘争の経験がほとんどないALPで、ALPは2012年4月5日政府と停戦合意を結び、2015年10月15日全国停戦合意(NCA)にも署名した。この点につき政府からKIAの指揮下にあるとされ、蚊帳の外にされたAAとその支持者の間に不満が高まった。政府はラカイン州におけるラカイン族VSムスリムの対立は認識していたが、ラカイン族のナショナリズムの高まりは過小評価していた。2014年11月19日にはライザ近郊の戦闘幹部訓練施設に国軍が砲弾を撃ちこみ、23人死亡・20人が負傷する事件が発生したが、その中にはAAの兵士8人も含まれていた。そして2014年頃からAAはラカイン州のインド・バングラデシュ国境地帯で、国軍との間で小規模な武力衝突を繰り返すようになったのである。

勢力拡大

2016年、政権はNLD政権に変わったが、このNLDのラカイン州に対する強硬姿勢もまたAAの勢力拡大を招いた。2015年ラカイン州議会選挙でアラカン民族党(ANP)が過半数の議席を獲得したのにも関わらず、NLDは同州首相にNLD国会議員・ウ・ニープー(U Nyi Pu)を選んだ。停戦合意の新たな枠組み・21世紀のパンロン会議にKIOの指揮下にあるとしてAAがを招待しなかった。2018年にはアラカン王国がビルマ軍の前に陥落した日を追悼するムラウク・ユーでの式典を直前になって当局が中止したため、ラカイン族の人々が激怒して暴動が発生、警察隊が発砲し7人死亡、多数の負傷者を出す事件が発生した。さらにその前日、現職下院議員・エーマウンが、武装闘争によるラカイン族の主権回復を訴えたとして国家反逆罪の罪で逮捕され、他の民族主義者とともに懲役20年の刑を受けた(その後、事件当時行政長だった人物が殺害されたがAAの仕業と言われている)。2020年の総選挙では治安悪化を理由にラカイン州での選挙を中止した。このようにNLDがラカイン人の神経を逆なでするようなことを繰り返した結果、人々のAA支持が高まっていった。

またシャン州、カチン州での戦闘も止まず、AAはKIA、MNDAA、TNLAに加勢。2016年、これらのグループ北部同盟結成され今でもAAはカチン州に半分ほどの兵力を残しているのだという。2017年にはAAワ州連合軍(UWSA)主導で全土停戦合意(NCA)に代わる和平プロセスを目指す連邦政治交渉協議委員会(Federal Political Negotiation and Consultative Committee: FPNCC)も参加ちなみにUWSAは中国と協力関係にあるため、AAはラカイン州で進んでいる国家プロジェクトのうち、シュエ・ガス油田など中国に関わるものは標的にしておらず、中国の一帯一路構想にも賛同している(ただラカイン州における中国の経済開発は地元に公害と貧困をもたらしていると批判されている)。資金源についても在外ラカイン族からの支援の他、カチン州・シャン州で生産された麻薬をバングラデシュに流して資金作りをしている疑惑が持たれており、2023年12月、国営紙はシャン州で518億7,000万ks(約1,500万ドル)相当の2.07トン以上のメタンフェタミンを押収、軍曹と2人の少尉を含む5人のAAメンバーを逮捕したと発表した。

そして2019年1月4日、約100人の兵士を擁するAAがブーディーダウン郡の国境ポイント4ヶ所を襲撃したことにより、国軍との間に激しい戦闘が発生。お互いに民間人を巻きこみ、スパイと目された人物を拉致・監禁・殺害するような事件も頻発し、2020年11月に補欠選挙を実施するために笹川陽平氏の仲介で一時停戦するまでに3万人以上の避難民が発生し、1000人近くの一般市民が死亡・負傷したと言われ、当時、1989年にビルマ共産党が崩壊して以降、国軍が経験したもっとも激しい戦闘と評された。この際も、NLDはAAをテロ組織認定したり、国軍のラカイン州のインターネット遮断に協力したり、スーチーがAAと戦っている国軍兵士たちに感謝の意を表したりと国軍に非常に協力的だった。 

クーデター前のラカイン州の武装勢力を整理すると、もっとも活発なアラカン軍(AA)、2012年の停戦合意以降、実質武装闘争を放棄したアラカン解放軍(ALA)、そして現在は全アラカン学生青年会議(AASYC)が主体のアラカン民族会議(Arakan National Congress)がタイ国境で展開させている小規模の同名別組織・アラカン軍(AA)の3つとなる

「ビルマの植民地支配と人種差別政権の下で、アラカン州は現在ミャンマーでもっとも貧しい地域になっており、アラカン州の人々は不平等、貧困、飢餓の悪循環に陥っています。これらの大きな苦しみと悲劇は、アラカン人の新しい世代に国家革命を起こす以外に選択肢を与えませんでした」

(AAの2020年のキャンペーン”アラカン・ドリーム”)

クーデター後

クーデター後も他の地域と違って、反ビルマ族、反NLD政権感情が強いラカイン州では大規模なデモやCDM(職場放棄運動)は起きず、軍政側も1年半に及ぶインターネット遮断を終了したり、ANPのリーダー指導者にクーデター後に設けられた国家行政評議会(SAC)の議席を与えたり、ラカイン民族主義者の政治家、作家、ALP党首を釈放したり、AAのテロ組織認定を解除したりと懐柔策を取った。この間、AAは統治機構の整備を進め、ラカイン州の3分の1を支配していると発表(が、実際は農村部の3分の1だそう)。ただミャンマー北部・北西部で国軍と戦う北部同盟のメンバーに加勢したり、複数のPDFに軍事訓練を施してはいた。

が、AAが2021年6月にネピドーで行われた和平交渉への招待を拒否すると、にわかに両者の緊張は高まり、戦闘が再開、両者におびただしい犠牲者が出た。2022年11月、日本財団の笹川陽平氏の仲介で再び停戦したが、口頭の合意のみで、両者はいつでも戦闘は再開しうると発言しており、実際、2023年10月に北部同盟がシャン州で敢行した1027作戦にAAも参加、ラカイン州でも戦闘が再燃した。AAは「UWSA程度の自治権が欲しい」と述べている。