アラカン解放軍
Arakan Liberation Army
戦う前に終了
1967年8月13日、シットウェで米不足に抗議する人々に国軍が発砲し、400人以上の死傷者・行方不明者が出るという事件が発生した(米殺しの日/Rice Killing Day)。当時、ラカイン州はミャンマー最大の米生産地だったが、政府が輸出用に大量の米を強制購入したため、人々の間で米不足が深刻化して餓死者が出るに及び、暴動に発展したのだった。
「私たちは抗議活動の先頭にいました。 一部の人々はフェンスを突破して抗議活動を行っていました。 その時、兵士たちが車に乗り込む途中、若いデモ参加者数名が彼らに棒を投げつけ始めたんです。 彼等を説得する人はませんでした。 今だったら僧侶が説得したかもしれません。 隊長が車から降り、棒を投げつけたデモ参加者に発砲するよう兵士たちに命じました。 振り返ると、血を流して横たわっている人が何人かいました。 私たちは死体をまたいで、精米所の前で川を渡り、カセル村に向かって走りました」(出典)
カインモールン
この事件を機に海軍兵・カインモールン(Khaing Moe Lun)が仲間たちとともにアラカン解放党(ALP)/アラカン解放軍(ALA)を結成。彼らは海軍に入隊し、ヤンゴン郊外タンリンの海軍基地に配属され、そこで軍事技術や戦略を学び、軍事情報を収集した。そして1968年11月、ラカイン州シットウェの軍事基地から兵器と弾薬を盗んだ後、逃亡する計画を立てたところ、直前で仲間の一人が裏切り、武器庫の前で集合したところで全員逮捕され投獄された。
1972年、カインモールンは恩赦で釈放され、その後、故郷の村で結婚して商人として働いていたが、翌年、カレン民族同盟(KNU)支配地域に赴いて武装闘争の再開を決意。仲間たちも合流した。そして厳しい軍事訓練を受けた後、1974年6月1日、ALP/ALAを再結成、カインモールンは議長兼軍の最高責任者の座に就いた。1976年にはKNU支配地域で結成された少数民族武装勢力の連帯組織・民族民主戦線(National Democratic Front)の創設メンバーにもなった。
その後3年間、KNLA(KNUの軍事部門)の下で戦闘の経験を積んだ後、いよいよラカイン州に帰還することになり、1976年6月、120人以上のメンバーを引き連れてカレン州からラカイン州への2000マイルの旅に出た。そしてナガ丘陵、カレン、カレンニー、シャン、カチン州を横断した後、1977年2月、チン州に到着。そこで同じく海軍を脱走してチン解放軍(Chin Liberation Army:CLA)というチン族の武装勢力を率いていたウィリアム少佐と13人の兵士と合流した。が、そこに国軍が6000人の軍勢で攻撃を仕かけてきて、AA・CLA連合軍は徐々に追いつめられ、6月4日、カインモールンは自決、その他50人のメンバーも戦死した。
その後、ALP/ALAは現在も議長を務めるカインイェカイン(Khaing Ye Khaing)が引き継いだが、50~100人ほどの部隊をKNU支配地域に残していたとはいえ、壊滅的打撃を受け、現在に至るまでラカイン州で本格的な武装闘争を行わないままである。
1985年、ALPはアラカン共産党(Communist Party of Arakan:CPA)、アラカン独立機構(Arakan Independence Organisation:AIO)とともにアラカン民族統一戦線(National United Front of Arakan:NUFA)を設立したが、ラカイン州全体の反政府武装勢力が停滞する中、NUFAの活動も停滞した。
1988年民主化運動が起きると、ALPはAIOと合併した後、少数民族武装勢力と1988年民主化運動の学生組織の連帯組織・ビルマ民主同盟(Democratic Alliance of Burma)に参加した。しかしこの新生ALPからすぐに一部メンバーが離脱し、単身KNU支配下に赴いてNDF、DAB、ビルマ連邦国民連合政府(NCGUB)に参加するというちぐはぐさで、結局これも大きな勢力にはならなかった。
その後目立った活動はなく、長らく支援してくれたKNUが2012年1月12日政府と停戦合意を結んだことにより、ALPも2012年4月5日ミャンマー政府と停戦合意を結び、2015年10月15日には全国停戦合意(NCA)にも署名した。ラカイン州で本格的に武装闘争をしたことがないALPが、ラカイン州の武装勢力代表に選ばれたことは、他のラカイン州の武装勢力にとっては不満だったようだ。
2021年クーデター後も目立った動きはないが、2023年1月4日、ALP党員3名が何者かに射殺される事件があり、ALPはアラカン軍(AA)の犯行を疑って非難声明を出した。