「高山智津子・文学と絵本研究所」は活動を終了しています。この頁は、研究所のHPのアーカイヴとして作りました。
「すべての子どもに読書の喜びを」
「赤ちゃんからの絵本の読みきかせを」
そんなメッセージをたずさえて、高山先生は日本全国をかけまわり、四千回以上の講演をされ、多くの方に笑いと勇気を届けてきました。
2006年6月に、高山先生がなくなられてから、「文学と絵本研究所」では先生のこれまでの仕事を記録保存し、その遺志を引き継ぐために、「高山智津子先生をしのぶ会」「春の絵本講座」「秋の文学講座」などの活動を続けてきました。
そして2011年の「第五回しのぶ会(ファイナル)」をもって、活動に一つの区切りをつけました。
2016年に、没後十年企画を実行し、新しいDVD講演セレクションも完成しました。これで研究所としても当初の目的を果たしたと思います。
今後、研究所をどうするか、相談しました。しばらくは、文学と絵本を語るサロンのような形で、年数回所員が集まろうということになり、研究所仕舞いは、もう少し先にのばすことにしました。それで、このHPもあと数年は継続しまrす。
2016年7月
最新(2016年)のHPから
高山智津子講演セレクション全5巻完成
宇治の「キッズいわき・ぱふ」から譲り受けたビデオテープ68本を元にして、DVD5巻の「講演セレクション」を編集しました。そのラインナップはこんな風です。
⑴絵本大学第1回講義 2002年4月14日
⑵おしゃべりコラージュ 2002年~2005年
⑶私の絵本史、学びの軌跡 絵本大学最終講義 2003年3月
⑷絵本の学校1998 1998年8月
⑸絵本と人生 マイヒストリー絵本カレンダー 2005年8月
これから、これのダビング作業にかかり、5月14日には、販売できるようにしたいと思っています。
高山智津子先生没後十年企画
高山先生が亡くなられて今年で十年がたちます。そこで、研究所では、2016年5月14日(土)に、連続で三つの催しを企画しました。
企画その一 絵本講座 『こどもとおとなを結ぶ絵本の世界』
場所 尼崎ピッコロシアター中ホール
時間 14時~16時
プログラム ①岡スミ子さんによる語り「じろはったん」(30分)
②広瀬恒子さんによる講演 『こどもとおとなを結ぶ絵本の世界』(90分)
参加費 1800円 (予約すれば1500円、予約申し込みは FAX 06-6422-6905またはメール eiji1952@kd6.so-net.ne.jp)
企画その二 高山智津子講演ビデオ上映会
場所 尼崎ピッコロシアター中ホール
時間 16時15分~16時45分
参加無料・申し込み不要
企画その三 高山先生の思い出を語る10年のつどい
場所 ひろ田(JR塚口駅徒歩5分)
時間 17時30分~20時30分
会費 6000円
☆ 詳しくは研究所藤本まで (電話は072-782-9015 メールは eiji1952@kd6.so-net.ne.jp)
2015年4月13日(月)、「キッズいわき ぱふ」の元スタッフの方3人に来ていただいて、高山先生をしのぶ会ミニをやりました。
高山智津子先生の講演ビデオ・録音カセット大量に入手
高山先生の講演のビデオと録音カセットが大量に届けられました。
「キッズいわき・ぱふ」の岩城敏之さんから、高山先生のビデオが沢山あると聞いたのは、「第五回しのぶ会」の席ででした。その後、こちらも忙しくて連絡もとらずにいたのですが、先日大阪健康福祉短期大学から連絡があり、高山先生夫妻の蔵書の一部を引き取りに行き、没後十年に向けて、整理できるものは、整理しようと思い、岩城氏に連絡をとると、早速送り届けてくださいました。こんなことなら、もっと早く連絡を取ればよかったと反省しました。届いたものは、カセットテープ23本、8ミリビデオ10本、ミニDVビデオテープ58本です。確認するだけで膨大な時間がいりそうですが、なんとか整理して、「高山先生の話」をみんなに届けたいと思います。
☆続々と新刊が出ます!
☆小西さんの大人向けのお料理本、『おいしく食べて、おおきくなあれ!』(かもがわ出版、2012年8月20日発行、1600円)が出版されました。
☆もう一冊も完成まじかです。おさなご保育園の実践から生まれた『まるごと発達の保育』(フォーラムA)のシリーズにあたる『離乳食からあかちゃんのごはん』です。
☆徳永さんの新しい作品『プールちゃん』が「ひかりのくに」の「ぴこちゃんえほん」6月号に載りました。これは市販されていないので、読みたい方は研究所まで連絡ください。
☆宮川ひろ先生の『わたしの昔かたり』(童話屋、2012年8月発行、2000円)が出版されました。これはCDブックで89歳のひろ先生の声、語り口調がじかに伝わってくる貴重なものです。《ねずみ経、さると地ぞう、せんがりの田、ねずみの相撲、天から落ちた源五郎、大工と鬼六、爺さまと湯治》の七つの話が収録されています。編集者は後路好章氏で、そのあとがきで「ひろさんの言葉の一つ一つが、登場する人物像に重ね合わさって、体の奥まで染み込んで来ます。いつの間にか浄化されていく自分に気づき、幸せな気持ちになるのです。」と述べています。これまで研究所が大変お世話になった宮川先生、後路さんの新しい仕事の成果です。第二作目は戦争にしぼった語りで構成されるとか。これも楽しみです。
☆毎日新聞の8月22日(水)朝刊でも紹介されています。
☆徳永満理さんの『よくわかる絵本読み聞かせ』(チャイルド本社、2013年1月、1680円)が出版されました。
雑誌「ポット」に4年間連載したものを、編集したものです。
第1章 知っておきたい読み聞かせの基本
第2章 よくわかる年齢別・異年齢・気になる子 読み聞かせのポイント
第3章困った……でも大丈夫!読み聞かせのQ&A
長年にわたるおさなご保育園での読み聞かせ実践から、徳永先生がつかんだコツやポイントが満載の本です。豊富なイラストで、項目の立て方も細かくて、よみやすい本になっています。
☆おさなご保育園の『0歳~6歳 まるごと発達シリーズ』(フォーラム.A)
☆おさなご保育園の30周年を記念して出版された『jまるごと発達の保育』(おさなご保育園編著、2011年6月刊行、フォーラムA)がシリーズになります。
第二弾は『だれでもできるクッキング保育 2歳児からたのしめるレシピ34』(徳永満理監修 瀧本智子著、2012年9月、フォーラムA、1238円)
第三弾は『保育園のおいしい離乳食 46のレシピとおいしく食べる工夫』(徳永満理監修 小西律子・市枝恵子共著 2013年6月20日、フォーラムA、1300円))
FUJIMOTO通信 (「授業をつくる」も掲載中)
☆藤本は児童文学三部作について、「図書新聞」からインタビューを受けました。記事は6月9日号に載りました。
2011年活動報告
2011年6月18日(土)13時~16時
場所 酒心館(神戸) 神戸市東灘区御影町1-8-17
電話078-841-1121
阪神電車石屋川駅下車南へ徒歩8分
内容
絵本ゆうちゃんシリーズを作ったときの高山先生 後路好章
日和佐・文学と絵本研究所と高山先生 徳永満理・小西律子
兵庫文学教育の会と高山先生 藤本英二
参加者からのスピーチ、高山先生の講演上映、ほか。
高山先生の人生の軌跡をまとめた『ありがとう、高山智津子先生』
高山先生の講演のエッセンスを編集したDVD110分版
を参加者全員に差し上げますした。
なお、この『ありがとう、高山智津子先生』と、DVD『高山智津子講演全集』は
各1500円で頒布いたします。
高山智津子先生の写真や、研究所の活動の写真はこのページにあります。
講演の記録 (クリックすればそのページへ)
高山先生は全国各地をかけめぐり、四千回以上の講演をされてきました。研究所では、その講演の録画ビデオや録音テープを集め、保存しようとしています。現在、研究所が所蔵しているものは、この「講演の記録」のページにあるとおりです。
ここからの下の項目は折りたたんでいます。右端の所をクリックすれば、開きます。
2011年6月18日(土)13時から、神戸の「酒心館」ホールで、第5回高山智津子先生をしのぶ会を開きました。このホールは、『ゆうちゃんシリーズ』完成祝賀会を開いた場所で、高山先生、お気に入りの場所でした。広々とした和風のホールで、美味しい料理を楽しみながら、会を進めていきました。
第1部は、元アリス館編集長の後路好章氏と所員三人が話しました。
後路さんは、高山先生を船長として、文・徳永満理、絵・宮沢晴子、小西律子、後路好章の五んのプロジェクトチームで「ゆうちゃんシリーズ」作ったときの思い、高山先生の講演の「間」の良さ、晩年高山先生の代役で、札幌で講演をしたときの話などを語ってくださいました。
次に、研究所の徳永満理、小西律子の二人が交互に高山先生のエピソードを語りました。
徳永さんがハイジの旅で高山先生と知り合いになったときの話、高山先生が「おさなご保育園」のバザーや運動会にやってきたときの話、お孫さんを「おさなご保育園」に何日間か預けられた話、「子どもが主人公の保育をする」という「おさなご保育園」にひきつけられていった様子がよくわかりました。あかちゃんが喜ぶ絵本はどんな絵本なのかを、さぐるうちに、『ゆうちゃんシリーズ』が生まれていった話、高山先生が最後の講演を「おさなご保育園」でしたときの話、高山先生から出された三つの宿題、など盛りだくさんの話でした。
最後は、藤本英二が『ありがとう、高山智津子先生』の編集をした立場で、高山先生の生涯の簡単なスケッチを話し、そのあと「兵庫文学教育の会」の頃の高山先生と、歌人としての高山先生について話しました。
(休憩)
第2部 参加者からのスピーチ
次の6人の方にスピーチをしていただきました。
①「さよならまたね」の担当していた浅野さん(ひさかたチャイルド)
②「日和佐絵本の学校」の写真班だった檜すけみさん
③絵本とおもちゃの専門店「キッズいわき・ぱふ」の岩城敏之さん
④エプロンシアターの永崎みさとさん
⑤大阪保育専門学校の浅雛さん
⑥高山先生が講演でその読みきかせ実践をよく紹介していた、「兵庫文学教育の会」の石川百合子さん
最後は、高山先生の講演のビデオを大スクリーンで見ました。小学校の教師をしていたときのクラスの子どもたちの話を「川とノリ」「スーホの白い馬」などの作品を通して語っておられ、厳しい環境の中でつらい思いをしている子どもたちに寄せる高山先生の愛情が伝わってきました。そして結びは「世界でいちばんすてきなところ」の話でした。参加されていた皆さんの胸にも高山先生の思いが届いたのではないかと思います。
参加いただいた皆さんには、『ありがとう、高山智津子先生』の本と、『高山智津子講演全集』DVD110分版を、お土産として持って帰っていただきました。なお、この二点を、希望される方は、お申し出ください。残部がある限り、各1500円でお分けいたします。
2010年6月19日(土)に第4回「高山智津子先生をしのぶ会」をライクスホールで開催しました。
今回は絵本作家の宮西達也さんをゲストにお迎えして、高山智津子先生との思い出や、先生に対する思いを語っていただこうと企画しました。
まず最初に、いつものように、高山先生の講演ビデオを流しました。今回は北海道で、宮西さんの絵本『おっぱい』のよみきかせ実践を語っているビデオを準備しました。ビデオの画面の中でも、こちらでビデオを見ているみんなも、笑いっぱなしでした。
宮西さんの話も『おっぱい』の思い出から始まり、高山先生と一緒に講演してまわったときの話、そのときに高山先生からもらった「手紙」を今も講演のときに持ち歩いているという話など、高山先生に対する愛情の感じられる素敵なお話でした。『おっぱい』のよみきかせもしてくださいましたし、新作の絵本の紹介、今度アニメ化される映画の話など、興味深い話の連続で、しかも『おとうとのおっぱい』という『おっぱい』の続編もよみきかせしてくださいました。いっぱい笑って、胸にジーンとくる話に、参加者も大満足だったと思います。
休憩を挟んで、五人の参加者にスピーチしていただきました。たのっこ保育園の園長・田中先生、北海道の図書館の岸田さん、淡路の木戸内さん、新日本婦人の会の神田さん、日和佐から来てくださった作家の梅田佳子さん、たちがそれぞれに高山先生の思い出を語ってくれました。
最後に、研究所の活動報告をしました。
2009年6月13日(土)、第3回高山智津子先生をしのぶ会が、尼崎女性センタートレピエで開催されました。全国各地から45人の方が参加してくださいました。
高山先生の講演ビデオを15分ほど上映しました。(「野球がうまくなる一週間」のエピソードを中心に)
その後、清風堂書店専務取締役の石田昭子さんに「企画者、編集者としての高山先生」を語っていただきました。
休憩のあと、第二部では、絵本作家のかさいまりさんが出来上がったばかりの新作『あんなになかよしだったのに』の読みきかせをしてくださいました。
参加者からのスピーチは、公文の伊丹美華さん、広島からの奥本由利子さん、スクールカウンセラーの岩立哲治さん、チャイルド本社の加藤暢穂さんにお願いしました。
参加者へのお土産として高山先生の講演CD(50分、宮川ひろ先生の作品を中心に語った貴重なもの)をお持ち帰りいただきました。また、上野由紀子さんから「さくらんぼ」を送っていただきました。参加者みんなでおいしく食べました。
2008年6月14日(土)、第2回高山智津子先生をしのぶ会が、尼崎女性センタートレピエの3階ホールで開催されました。
全国各地から65名の人々が集まってくれました。
野田淳子さんの「千の風になって」のCDが会場に流れ、そのあと大スクリーンで高山先生の講演ビデオの上映。このビデオは研究所が販売しているDVD「赤ちゃんからの読みきかせ」の一部で、サイレントベイビーの話題から「おててがでたよ」の読みきかせの話まで、約十五分ほどを上映しました。
1991年の高山先生の話しぶりは、声にはりがあり、元気そのもの、会場の参加者もじっと聞き入り、時には笑い声も響きました。
その後、所長の徳永満理からの挨拶があり、引き続いて今年のメイン企画、「子どもの本の出版社にとっての高山智津子」というテーマでのリレートークに移りました。東京から来ていただいた四人の編集者の方々が順番に高山先生との出会いやその後のおつきあいについて語ってくれました。
第一部
リレートーク「子どもの本の出版社にとっての高山智津子」
くもん出版の長谷総明氏のお話の概要(レジメを利用しております)
2000年に『ひかりの季節に』(大谷美和子著)を刊行しました。
死の意味と生の意義を「子どもも大人も共に読んでもらえる」3部作を、という思いで紡いだ2作目でした。1作目の『またね』から約5年かかって出すことができた思い入れの深い作品でした。
いちばん最初に、作者の意図も汲んだ書評を高山先生が書いてくださいました。早々に高山先生に、ご連絡を取ったのがお付き合いの始まりでした。何度も神戸のターミナルホテルのロビーでお会いしてお話をきき、おさなご保育園の紹介もしてもらいました。
以来、新企画の絵本について、感想を含めいろいろなご相談をさせていただきました。
2001年に3歳の子どもが書いた『さあちゃんのぶどう』という絵本について、「待つことの心のふくらみ」を教えていただきました。
翻訳のクリスマス絵本『トリフのクリスマス』を刊行するかどうかで、社内で結論が出ないときにも相談させていただき、おさなご保育園で読み聞かせをしていただき、決定的な子どもたちの反応や感想をいただきました。
その後、『ネリーとゼザール』『フォルケ』という翻訳絵本のシリーズを刊行する際にも、おさなご保育園での読み聞かせをとおして、適切な感想やご意見をいただいてまいりました。
「ブックトーク」という読書情報誌で高山先生に、2003年から2年間「新刊ブックレビュー」を、2005年から2年間は「思春期の本棚」を連載いただきました。
2004年5月のゴールデンウィーク東京上野で恒例の「上野の森親子フェスタ」では、国立博物館の特別会場で、徳永満理先生と二人で読書講演をしていただきました。この頃はもう足が悪くて杖を突きながら、おいでくださったことが印象に残っております。
チャイルド本社の植村和久氏のお話の概要(レジメを利用しております)
高山先生が教えていた大学の授業で「自分が感動した絵本」というような課題に、当社(チャイルド本社)刊/月刊絵本・おはなしチャイルド1999年1月号「さよなら またね」を取り上げた学生がいて、高山先生感動する。
高山先生この「さよなら またね」を講演に取り入れる。それを見て感動したアリス館後路好章さんが作者のかさいまりさんに伝える。(この時すでに『さよなら またね』〔ひさかたチャイルド刊〕は市販本になっていた。)
2000年のいつごろか、講演を見にいって感動したかさいさんが、それを植村に伝える。その講演に植村がいったのは2001年か2002年頃であったと思われる。
遅ればせながら感動した植村は、この講演を何とかしてライブ映像にして残そうと思い立ち、ビデオ化を企画する。ビデオは徳永満理先生を巻き込み、おさなご保育園などで2003年に撮影、2004年『絵本・読み聞かせ/いまからはじめましょう・3巻セット』(チャイルド本社刊)の題名でリリース。
ビデオ収録は大変なんです。東京で缶詰で全部の収録をしました。撮影の途中でとちるということもありました。普通なら、とちった所から撮りなおしをするのですが、高山先生は全部始めからやり直すんです。やり直すと話の内容が変わる。取り上げてる本は同じなのに、話の内容が違う。全部アドリブなんですね。これだから面白いのかなと思いました。
その関連で2004年6月、高山先生・徳永先生の共著で、単行本『絵本でひろがる子どものえがお』(チャイルド本社刊)上梓。
一方で高山先生には、月刊絵本活用冊子「月刊ほいくえほん」に2003年4月号から病魔に倒れる2006年7月号まで「読み聞かせワンポイントアドバイス」のコーナーにご執筆いただき、いまそれは徳永満理先生に引き継がれています。
高山先生の感動はどうも伝染するようで、こんなふうにみんなを巻き込んできました。そしていまも、高山智津子・文学と絵本研究所所員の小西律子先生の著書『子どもとつくる食育レシピ12か月』(チャイルド本社・2008年1月刊)等々ますます増殖中です。
鈴木出版の波賀稔氏のお話の概要
結構おつきあいは古いのです。鈴木出版は本が売れず、市販をやめて直販の会社としてやっていたのです。でもやはり自社で絵本を出したいというので、1988年に絵本を6冊出しました。翌年もう一度6冊出した。その中に「おっぱい」という本があった。そうすると噂が流れてきて、講演でこの本を紹介してくれている人がいるらしい。それが高山先生だったんです。おかげで「おっぱい」は徐々に売れていくわけです。結局この十二冊のうち現在生き残っているのは、「おっぱい」だけなんです。これが売れたおかげで、いまも絵本を出していけている。私からすれば高山先生は恩人なんです。宮西達也さんにお会いしたんですが、いまは売れっ子になって大忙しですが、「おっぱい」が売れてなかったら、いまも売れない絵本作家として細々とやっていたのではないか、とご本人おっしゃっていました。
高山先生にこの本を紹介したのは九州の書店エルマーの前園さんだったということも、あとで知りました。
1994年からは、会社でやっております「幼児のことば遊び会」で講演していただきました。2005年の100回大会まで15年間に15回話していただきました。高山先生が話されると絵本が飛ぶように売れるので、営業の方も納得いたしました。会社の者も毎年、高山先生のお話をきくので、絵本に対する意識が高まっていったと思います。
私の中には高山先生の本を作りたいという思いもあって、月刊「ふれあい広場」(すずき出版)で、「おはなし絵本の楽しい世界」(1999年4月~2000年3月)、「絵本を子どもの心にとどけよう」(2000年4月~2001年3月)と、二年間連載をしていただきました。これをもとにと思っている矢先に、アリス館やチャイルド本社から本が出たといういきさつもありまして、実現できませんでした。そのあと徳永先生に連載をしていただいて、「絵本と子どもが出会ったら」を出すことができました。
2004年から海外翻訳読み物を出し始めました。「ヒットラーの娘」を刊行し、高山先生にお送りしたのですが、返事がありませんでした。しかし、私がこの企画の意図を雑誌に書きましたら、その後メールをいただきました。「ヒットラーに拒否反応を持ったのですが、読んでみて厳粛な気持ちになっています。」そして紹介のメモもありました。無償の愛で本を紹介してくださった先生でした。そして出版社の者は先生に支えられたと思います。
元・アリス館の後路好章氏のお話の概要
1988年か89年に高山先生という名前を意識しました。前におりましたあかね書房で、オーナーに反対されながら、、「ゆうたはともだち」を出版しました。この本が徐々に売れまして、愛読者カードの購読の動機という欄に「高山先生の講演を聞いて」というのがドッドッドッドときました。「子どもの本」の編集もしておりましたから、事務局の伊藤さんと一緒に講演を聞きに行きました。そして「この人にインタビュー」という欄に登場してもらいました。これまで作家か画家さんのコーナーでしたが、初めて本の渡し手が登場したのでした。
その後、高山先生と急速に仲良くなりまして、おさなご保育園にも連れて行ってもらいました。保育園から発信する絵本を作りたいという提案を受けまして、四年半かけて「ゆうちゃんシリーズ」九冊を作りました。子どもたちの姿から学ぶということを経験し、絵本を作る編集者の細胞がすっかり入れ替わったように思います。読者に学ぶというのがこんなに大切なのかということを高山先生から学びました。その後『絵本でふくらむ子どもの心』を書いていただきました。高山先生はバラバラバラバラ原稿を送ってくるんです。私は目次を作ってください、と厳しく言いました。徳永さんにも『絵本で育つ子どものことば』を書いてもらいました。高山先生に背中を押されて、私も『絵本から擬音語擬態語ぷちぷちぽーん』を書いてしまいました。
高山先生からは何度も薫陶を受けているのですが、人のしらぬ所で努力をしていることを知りました。声を鍛えるために、声楽を習っておられたのです。お亡くなりになる一ヶ月前、札幌の講演の代役を頼まれまして、高山智津子の弟です、といって登場しました。それから講演が増えまして、この頃高山先生に似て来たねと言われます。
高山先生最後の講演がおさなごでやった絵本講座でした。高山先生、徳永先生、私の三回講座でした。その中で『もうわらった』(安岡加代子・後路好章、かさいまり)という作品が生まれました。(ここで安岡さん・後路さんの読みきかせがありました)68才になりましたが、赤ちゃん絵本の読みきかせが恥ずかしくなくなりました。
(休憩)
休憩時間に、本やDVDの販売をし、高山先生のニュース映像を流しました。これは櫛引町で講演したときの様子をデケーブルテレビが紹介したものです。
第二部
参加者からのスピーチ
今回は五人に方にお願いしました。
かさいまりさん(絵本作家)のお話の概要
高山先生が、講演でかさいさんの「さよならまたね」の紹介をしてるよ、と後路さんから聞きました。それでお礼を言わなきゃと思って、講演を聞きに行きました。そのときに話を聞いていて、ちょっとうるうるってしてしまいました。そしたら、高山先生はそのときのわたしのことを、講演で話すようになりました。「一番前でボロボロ泣いている人がいて、講演が終わったら、作者のかさいまりですって挨拶にきはった。自分の絵本で泣くんや」、って。高山先生はその話をいろんなところに広めてまわったので、今でも、「かさいさん、高山先生の講演を聞いて号泣したんだって」などといわれるようになりました。うるうるってしたのが、泣いたになり、号泣になってしまいました。私も講演に行くようになったんですが、司会者の方に「高山先生の「さよならまたね」のかさいまりさんです」って紹介されたり、高山先生の話を聞いていたから初めて会ったような気がしない、って言われたりします。高山先生と私には共通点があります。10月18日生まれ、お誕生日が一緒です。もう一人郷ひろみ。FAXでこの誕生日の運勢を送って、電話でこれあたってるね、なんてギャアギャア話しました。
田川浩三さんのお話の概要
去年、保育問題研究会が松山で開かれたときに、飛行機の後ろの席に大阪の保母さんたちの団体がおられたのです。いろいろ話が聞こえてきたのですが、「田川先生はもう亡くなられたよ」「いやまだ生きてるよ」「三年前に亡くなられたよ」「それは高山先生や」高山先生はみんな知ってるんです。「ええ、高山先生がなくなられたの」、とかみんなが騒いでる。田川って誰や、若い人たちは知らないんですね。立ち上がって「田川ですけど」というたら、若い保母さんたちが「きゃあ」って。
兵庫新婦人の会で25年前に電話子育て相談というのを発足させたんです。高山先生に室長になってくださいといいましたら、快く引き受けてくださいました。高山先生の電話の様子をここで一人芝居でやってみます。「はいはいはい、……ふん、ああそう、……ほう、ふうん……はあ、そう……わかるわかる、……そう、うーん」ばっかりです。電話相談って20分とってるんです。はじめは泣き声だったのが、15分ぐらいの時から、相手の声の調子がすっと変わるんです。声がだんだん明るくなってくる。最後に「じゃあまた電話かけてね」っていうと、「ありがとうございます」。私も相談は成功したね、よかったね、と思ってたんです。でも、ふっと考えてみたら、高山先生、何を言うてたか。どんな指示を与えたか、どんな診断をしたのか、「そう、ふーん、そう、わかるわかる」いわはっただけや。相手は「よかった、ようわかりました」って、電話きられた。室長となるとこれぐらいやらないと、……ほんとすごかったです。
庄野昭子さん(香川県子ども文庫連絡会)のお話の概要
私が高山さんの講演に初めて行ったのは20年ぐらい前なんです。家庭文庫をし始めたばかりで、本を読むのに忙しく、徹夜徹夜でした。それで、寝てしまったんです。そうしたら、誘ってくれた友達から「あんたはあほや、寝てたんはあんただけや。人生の大きな損をしたよ」と怒られたんです。くやしくて、絶対自分たちで高山さんをお呼びして、寝ずに笑いたいという不純な動機で、講演をお願いして、それから何度も来て頂きました。私たちの会報の編集をしているんですけど、高山さんの講演は誰も書けない。それは笑いすぎてメモらないからなんです。私たちの仲間の松崎が、世の中で面白くないこと、腹がたつことがあると、「高山さんの話を聞こう。笑わしてもらおう。元気をもらおう」といって、計画を立てていました。私が送迎担当でよく車の中でいろんな話をさせて頂きました。聞きたがりですので、週刊誌的、ワイドショー的な質問をするんですけど、際どいところで、それは内緒内緒と笑うんですね。本を伝えるという素敵な宿題を私たちに残してくださった高山さんにいつもありがとうと言っています。
中村明さん(サムコーポレーション)のお話の概要
児童文学者の森はな先生という方がいらっしゃいます。「じろはったん」をはな先生の但馬弁の語りでカセットを作りたいと思って仕事をしているときに、はな先生を通じて高山先生と知り合いました。講演がめちゃめちゃおもしろくて素晴らしいというので私もなんべんか聞きに行きました。これをカセットにしたいという気持ちになりまして、「絵本と子育て」というカセットを四巻ほど作りました。当初五巻の予定だったんですがね。スタジオで録音したんですけど、ものすごく簡単でした。60分の話は60分で終わるんですよ。失敗がないというか、失敗をごまかしてるというか。二枚ぐらいの原稿を持ってきて、60分で終わって、あともう編集のしようがない。A面とB面に分けるぐらいで、そのまんまでした。スタジオで録音したので、お客さんの反応とか臨場感とかがないので、あとで考えれば、ライブで録音したかったな、というのが残っています。それも何回か録音はしてるんですよね。形にはなっていませんが、音源が残っているはずですので、もし会で、保存用でしたら、提供したいと思います。
鶴岡淑子さん(かもがわ出版)のお話の概要
周囲の人から、ものすごく面白い話をする人がいるよ、一回聞きに行ってごらんと言われて、行きました。初めて行ったのが宇治の「ぱふ」さんで、一時間半おなかをかかえて笑い転げて帰ってきました。噂にたがわぬおもしろい講演でした、と会社のみんなに言いました。ミレー書房の南さんから、高山先生がうちで本を出したいとおっしゃっているけど、という連絡がありまして、三人でお会いしました。講演会が3000回になるので、それを記念して本をまとめたい、あゆみ出版から出された『女教師愛ひとすじ』の後編のような形のものにしたいということでした。九州のエルマーさんのところで3000回のお祝いの会をするから、それに間に合わせたい。たしか二ヶ月半ぐらいしかなかった。当時はまだパソコンもなかったですし、全部手書きの原稿だったんです。とにかく間に合わせたいと思うので、私も頑張りますから、先生も頑張ってください。何はともあれレジメを書いてください、と言いました。塚本や神戸のホテルに原稿を取りに行きました。私としては書き下ろしをお願いしたかったのですが、先生も忙しかったので、これまでの原稿をちょこちょこ送ってくるんです、先生これだめですから、もう一回書き直してください、ということでレジメとにらみっこしながら、あまりはずれないような内容のものをまとめていくことをしました。急いでくださいといってましたから、先生も気があせってたと思うんです。辞書をひくのがめんどくさいんでしょうね、たとえば原稿用紙二コマあけてあって横に「ささい」ってひらがなで書いてあるんです。そんなところがいっぱいありまして、書き取りテストをされているような気になりました。3000回の講演のの一日前に本が出来上がりまして、私も当日、九州でやっとみるという離れ業のような本を作らせていただきました。高山先生も本当に喜んでくださったので、ほっと一安心いたしました。
このあと研究所の活動報告をしました。
☆また今回のしのぶ会で、次のような資料を提供していただきました。ありがとうございました。
・京都の佐藤るり子さんより 「新日本婦人の会京都宇治支部「いきいきフェスタ」での講演会・2004年10月17日・90分」のカセットテープ
・鈴木出版の波賀さんより 「ふれあい広場」99年4月~2001年3月まで高山先生の原稿24回分のコピー10セット。
・チャイルド本社より 「ほいくえほん」(「読み聞かせ」ワンポイントアドバイス)2003年4月~2006年9月までのコピー
・岩立哲治さんより 「月刊女性&運動」2005年8月~2006年8月
☆来年も6月に高山智津子先生をしのぶ会を行います。このHPでもご案内いたしますので、どうぞおこしください。
2007年6月16日(土)、第1回高山智津子先生をしのぶ会を終えることができました。1年前、先生の訃報をお聞きし、急遽“ありがとう 高山智津子先生”の会を開いた際、あまりの突然でご参加いただけなかった方もあり、改めての“しのぶ会”開催としました。当日は、100人の高山先生大好きな皆様にご参加いただき、涙あり、笑いありのなごやかで楽しい会になりました。
ゲストにお招きした宮川ひろさんは、関西弁で語る高山先生のしゃべりの面白さや、女性としてたくましくも繊細に生きた生き方への共感などを、ゆったりと静かに語ってくださいました。
スピーチをしてくださった5人の皆様も、高山先生の生前が、いつもご自分の周りの人々を励まし、学び続けた人生だったことを彷彿とさせるお話でした。
“尼崎子育て支援センターきりんはうす”所長篠原秀子さんは、“きりんはうす”立ち上げの際、顧問を引き受けてもらいずっと励ましてもらったことを……。福岡から参加してくださった“子どもの本専門店エルマー”店長前園敦子さんは、亡くなられる寸前に送られてきた先生の付箋の入ったたくさんの本のことを……。北海道根室の図書館司書松永伊知子さんは、夫、藤三さんの死の直後に、一緒に行ったカナダ旅行での先生の前向きさを……。看護士の安藤温子さんは高山先生と食べ物の話を……。児童文学者鳥越信さんは、高山先生と初めての出会いから「科学としての児童文学研究会」の話、聖和大学の大学院のゼミに聴講に来ていたときの話、鳥越塾での話、聖和大学大学院の入試問題に高山先生のエッセイの一節を使った話、……。
最後に、60年来の親友、そして、オフィス・T・Yを高山先生と共に運営した吉住育子さんは、セピア色の思い出や先生の最期を語ってくださいました。
お一人お一人がスピーチされるごとに、笑いと涙の渦ができていき、高山先生が結んでくれた人々の絆を深く感じたものでした。
先生の死をまだまだ受け入れられない私たちですが、この会を終えたことで、一つの節を超えられた気がします。先生が残してくれた研究所は、先生の歩んでこられた軌跡をたどりながら、“すべての子どもたちに本と絵本を!”という先生の夢実現に向けて取り組んでいこうと心新たにしています。
当日のプログラム
全体司会 小西律子
第一部
初めのあいさつ 所長 徳永満理
高山先生の歩み 藤本英二
高山先生をかたる 宮川ひろ
第二部
参加者からのおはなし
・篠原秀子(子育て支援センター・きりんはうす)
・前園敦子(福岡・エルマー書店)
・松永伊知子(北海道・図書館司書)
・安藤温子(香川・看護士)
・鳥越信(児童文学者)
特別インタビュー 吉住育子 (聞き手徳永満理)
展示コーナー
・寄せられたメッセージ
・高山先生が話題にした本
・高山先生の写真コーナー
販売コーナー
・書籍、DVD販売
しのぶ会点描
会場は阪急塚口から歩いて5分の、ライクスホール。去年の「ありがとう、高山智津子先生」の会と同じ会場ですが、今年は半分に仕切らず全フロアを使いました。正面には高山先生の写真とひまわりの花を飾りました。
「寄せられたメッセージ」、「高山先生が話題にした本」などの展示コーナーを設けました。特に大きく引き伸ばした写真を沢山展示した「高山先生の写真コーナー」はとても評判がよかったです。(特に、小学校以来の友人吉住さんが提供してくださった少女時代の記念写真はめったに見ることのできぬ珍しいものでした)
また九州から駆けつけてくださったエルマー書店の前園さん達に、できあがったばかりの「高山先生の講演DVD」や書籍の販売を手伝っていただきました。宮川ひろさんや宮西達也さんには本にサインをしていただきました。
作家のとよたかずひこさんから、こんな電報が届きました。
「とよたかずひこは高山先生に、本当にお世話になりました。「でんしゃにのって」をいち早く取り上げていただき、今日があります。感謝の一言であります。三年前高山先生の講演4千回記念で、尼崎にお邪魔したおり、会場でお会いした西尾市立図書館の方のお誘いで、ただ今愛知県におります。これも何かのご縁と思います。高山先生、本当にありがとうございました。 とよたかずひこ」
研究所としては、「高山智津子先生をしのぶ会」を五年間は続ける予定です。単なる回顧の会に終わらせず、高山先生のやろうとしていたことを我々がどんな形で引き継いでいけるか、それを模索する会にしたいと考えています。
来年も同じ時期に開催するつもりです。沢山の方のご参加をお待ちしております。(詳細については、改めて掲示いたします。)
研究所ができるまで
・徳永満理、「ハイジの旅」に参加。高山智津子と知り合う。
・徳永満理、小西律子、兵庫文学教育の会に参加するようになる。
・高山智津子、『紙の花』(ピッコロシアター)、『野田淳子コンサート』(アルカイックホール)の
公演に奔走。
徳永・小西、協力し、二つの公演を成功させる。
・兵庫文学教育の会、定期的な活動を終了。高山智津子、徳島県日和佐に移住。
・日和佐絵本の学校開催。
・徳永・小西、日和佐櫛が谷に別荘を建設するために、何度も日和佐に足を運ぶ。
・高山智津子より研究所の設立の相談を受ける。
1994年
日和佐・文学と絵本研究所を設立。所長高山智津子、所員徳永満理、小西律子の三人だ:けの小さな研究所がスタートした。
1995年
日和佐・文学と絵本研究所オープン記念講座
「作品と読者が出会うとき…テクストのレトリック性と読みの倫理性…」を五回連続でひらく。
(講師藤本英二、会場・日和佐櫛ケ谷荘)
1月28日 ①北極王VSじゃりン子チエ
2月18日 ②隠れん坊、少年倶楽部、「りぼん」の付録
3月4日 ③高校生、ベストセラーを読む
3月25日 ④「伊豆の踊子」とは、一体どういう話だったのか
4月8日 ⑤「読む」という行為をどうとらえるか
日和佐櫛ケ谷荘にて
8月 「日和佐・文学と絵本研究所紀要Ⅰ 作品と読者が出会うとき」を発行。
第2回公開講座を五回連続でひらく。
95年12月9日 ①小説をみんなで読む 大江健三郎の初期の作品「不意の唖」 藤本英二
96年1月20日②宮沢賢治の求道の意義と限界を考える「本統のさいはひ」「虔十公園林」中嶋信(徳島大学・経済)
96年2月17日③ドロシー・バトラー「クシュラの奇跡」から学ぶ子どもの発達を促す絵本の役割 高山智津子
96年3月2日④乳幼児の発達とことばの萌芽 赤ちゃんの好きな絵本について考える 徳永満理
96年3月3日⑤離乳食の作り方、食べさせるときのことばのかけ方 絵本に出てくるお料理作ろう 小西律子
1996年
5月 アリス館より「ばいばいまたね」(とくながまり・みやざわはるこ)が出版される。企画協力高山智津子・小西律子。このシリーズは、アリス館の編集長後路好章氏、画家宮沢晴子と、研究所の協議によって生み出されていった。
9月頃「ばいばいまたね」出版祝賀会(アルカイックホテル)
1997年
1998年
5月9日 公開講座IN尼崎 (武庫之荘・トレピエ)
「多喜二の青春と文学」 山口哲臣
9月12日 絵本の学校・移動講座IN尼崎
・「あかちゃんと絵本」 徳永満理
・絵本の絵を描くときのデッサンとデフォルメ 宮沢晴子
・絵本づくりのシークレット 後路好章
1999年
1月30日 第5回公開講座
「詩から聞こえてくる声」 藤本英二
5月29日 公開講座IN尼崎
「グリム童話について」 山口哲臣
9月11日 公開講座IN尼崎
「事件と文学の関係」 藤本英二
「詩から聞こえてくる声」(夜) 藤本英二
11月ゆうちゃんシリーズの9冊目「いらっしゃいいらっしゃい」が出版され、シリーズは完結する
2000年
5月27日 絵本「ゆうちゃんシリーズ9巻」完結お祝いの会21世紀を見てかわいく輝く瞳 酒心館明蔵ホール
第一部 完成お祝いの会コンサート
「歌の絵本ゆうちゃん」(作曲金井徹・全10曲の組曲)
第二部 祝賀パーティー
9月9日 公開講座IN尼崎 後藤竜二
・講演 「1ねん1くみ」のくろさわくんと「ひみつのちかみちおしえます」のゴンちゃんについて、
他
・特別講座 「児童文学創作について 21世紀に生きる子どもたちへ伝えたいこと」
2001年
9月8日 公開講座IN尼崎
鳥越信「日本の絵本の歴史」
2002年
9月7日 公開講座IN尼崎 松本則子(人形劇団クラルテ代表)
「人形劇は絵本じゃない ー「大きなかぶ」を劇にしてみればー」
2003年
9月13日 公開講座IN尼崎 藤本英二
「物語の再創造-「たそがれ清兵衛」、「本格小説」ー」
2004年
5月15日 「すべての子どもに絵本の読み聞かせを
日和佐文学と絵本研究所10周年記念
高山智津子講演4000回記念祝賀会 」
(尼崎総合文化センター)
9月18日~19日 公開講座(日和佐・ホテル「白い灯台」)
Ⅰ 絵本講座 「1冊の絵本ができるまで」 かさいまり
Ⅱ 哲学講座 「自分の生き方を考える」 中田進(関西勤労者教育協会)
Ⅲ 絵本史講座「はじめて学ぶ日本の絵本史」を読む 高山智津子
2005年
2006年
公開講座「あかちゃん絵本を創りましょう」 (おさなご保育園プレイルーム)
4月15日 Ⅰ「あかちゃんはどんな絵本をよろこぶか?
発達・ことば(オノマトペについて)・心情」 徳永満理
5月13日 Ⅱ「絵本論・あかちゃん絵本を考える
優れた絵本とは?実作・創作のすすめ」 高山智津子
6月30日 Ⅲ「創作絵本合評交流会
あかちゃん絵本編集者よりアドバイス」 後路好章
6月11日 高山智津子死去。
7月 1日 「ありがとう高山智津子先生」の会
(尼崎・塚口・ライクスホール)
8月22日 研究所の今後について、徳永、小西、藤本が相談。
「高山智津子・文学と絵本研究所」と名前を改める。
所長は徳永満理、所員は小西律子、藤本英二の
小さな研究所が再スタート。
10月21日 文学講座 (おさなご保育園プレイルーム)
「文学は夢をどう描いてきたか」 藤本英二
2007年
4月14日 絵本講座 (おさなご保育園プレイルーム)
「あかちゃんは絵本の何をよろこぶか」 徳永満理
6月16日 第一回「高山智津子先生をしのぶ会」
(尼崎・塚口・ライクスホール)
10月13日 文学講座 (おさなご保育園プレイルーム)
「児童文学の可能性
かいけつゾロリから精霊の守人まで」 藤本英二
2008年
4月12日(土) 絵本講座 (尼崎女性センター トレピエ)
「子どもの本の本屋さんが語る絵本の世界」
講師 前園敦子氏(子どもの本エルマーの店主)
6月14日(土) 第二回「高山智津子先生をしのぶ会」
(尼崎女性センター トレピエ 大ホール)
☆「子どもの本の出版社にとっての高山智津子」
10月18日(土) 文学講座 (おさなご保育園プレイルーム)
「児童文学の可能性パート2
オール・アバウト・マイ・梨木香歩」藤本英二
2009年
4月18日(土) 絵本講座 (おさなご保育園プレイルーム)
「赤ちゃんにどんな絵本を読もうかなー保育の中の絵本の役割ー」 徳永満理
6月13日(土) 第三回「高山智津子先生をしのぶ会」
(尼崎女性センタートレピエ) 45名
☆「企画者、編集者としての高山先生」石田昭子
11月21日(土) 文学講座 (尼崎、立花公民館)
「児童文学の魅力」 鳥越信 24名
2010年
4月17日(土) 絵本講座 (尼崎女性センタートレピエ)
「絵本づくりの舞台裏」 植村和久 24名
6月19日(土) 第四回「高山智津子先生をしのぶ会」
(尼崎、ライクスホール)
☆「高山先生を語る」 宮西達也
2011年
6月18日(土) 第五回「高山智津子先生をしのぶ会」
(神戸、酒心館ホール)
☆しのぶ会ファイナル
2012年
昨年6月、5回目の「高山智津子先生をしのぶ会」を終えて一年が過ぎました。終了後の課題は研究所の行く末です。高山先生が愛してやまなかったこの研究所を閉じるのか、継続するとすればどのような形で活動をするのか、所員三人で話し合いました。結果、当面は絵本研究を中心に進めていくことにし、2カ月に一回定例会を開き、課題絵本を決めて報告しあってきました。
いろいろな出版社から出版されている『ももたろう』や『いないいないばあ』の絵本を比較検討や、子どもに人気の絵本を深読みする楽しさ、面白さを満喫しています。
所員と数名の参加者で続けているうちに、しばらくお休みしていた、絵本講座を開きたくなりました。学びの楽しさを思うとワクワクします。
今回は、編集者として豊かな経験を持たれている植村和久さんをお迎えします。編集の傍ら、本の創作もされており『わんぱくだん』シリーズの作者としても知られています。植村さんが育てた絵本作家さんのお話などを交えながら、絵本作りのシークレットについてお話を聞かせていただく予定です。講演の頃には、新作が出版されているとのことです。
絵本大好きな人、絵本作家になりたい人、絵本をもっと深く学びたい人、ご一緒に学びましょう。たくさんの参加をお待ちしています。
所長 徳永満理
講演テーマ
『ファンタジーの効用ーわんぱくだんがやってくる』
講師 植村和久(上野与志)さん 編集者・絵本作家
プロフィール
昭和47年中央大学文学部卒。児童図書出版社で編集を34年、編集長を17年間勤める。
その傍ら子どもの本の創作を発表する。
上野与志のペンネームによる主な作品に
『わんぱくだんの どろんこおうこく』他わんぱくだんシリーズ17冊(共著)。
『あかまるちゃんとくろまるちゃん』(ひさかたチャイルド)
近著に『おおきいおうちと ちいさいおうち』(岩崎書店)
日本児童文芸家協会会員、チャイルド本社・ひさかたチャイルド顧問、
日本書籍出版協会/児童書部会/四者懇談会座長
日時 2012年10月13日(土) 午後2時~4時半
場所 いかりビル3F コミュニティルーム
阪急神戸線塚口駅北出口から直進徒歩1分右手側
尼崎市塚口本町1-15-8
参加費 1500円(当日1800円) 学生 1000円
2012年10月13日(土)に秋の絵本講座を開きました。去年の6月に高山智津子先生をしのぶ会ファイナルをやってから、研究所としては活動を縮小していたのですが、ついに活動再開。久しぶりに講座を開催しました。
今回は東京から作家上野与志(元編集長植村和久)さんをお招きして、『わんぱくだんがやってきたーファンタジーの効用』というタイトルで話していただきました。38名の参加で、狭い会場はぎっしり満員でした。あまりの熱気にクーラーガンガン入れました。
子どもに大人気の「わんぱくだん」シリーズが、どのように生まれたのか。参加者の一番の興味はそこにあると思うのですが、上野さんの体験に基づく話がまず面白い。好きだった児童文学作品、暗い少年時代、学校の教師のひどい仕打ち、どれも興味深かったです。そして「わんぱくだん」実は最初は4人だったという秘話も飛び出しました。読み聞かせもしてくれるし、現在制作中の第18作目『わんばくだんのまほうのじゅうたん』も見せてくれました。(まだ絵に色が入っていない)
また、編集者として50人もの作家の誕生に立ち会ったという植村さん(こちらが本名)は、この日会場に来てくれた何人もの絵本作家さんたちの作品を紹介しながら、作品誕生の現場の話をしてくれました。『どうぞのいす』の制作過程の話も、なるほどというものでした。
サイン会も大好評で、主催者側としては、よかったよかったと喜んでいます。上野与志さんは2013年1月に、絵本の会にも来てくださいます。今回これなかった方はぜひ1月に。
2010年4月17日(土)、尼崎女性センター トレピエで「春の絵本講座」が開かれました。今回はチャイルド本社専務の植村正久氏(ペンネーム上野与志さん)をお迎えして「絵本づくりの舞台裏」という題で語っていただきました。
講演の前に上野さんの絵本『しろくもちゃん』のペープサートをおさなご保育園の保育士さん3人がしてくれました。絵本の絵を拡大して使ったりしていいのだろうか、ということを司会者がふったので、植村さんは話の流れとして「著作権の話」から話し始められ、前半1時間はこの著作権をめぐってわかりやすく、深い話をじっくり聞くことができました。著作権には⑴財産権と⑵著作者の人格権があるとか、その著作者の人格権には①公表権(公表しないことも含めて)、②氏名表示権、③同一性保持権(勝手に変えてはいけない)がある、とか久しぶりにノートを取りながら「勉強」しました。保育園などで絵本を拡大コピーして部屋に飾ったりしてもよいものだろうかとか、読みきかせを外でするとき作者に断らなくても大丈夫か、とか何人もの参加者から質問も出て、この問題に対して強い関心をみんなが持っていたことがわかりました。
後半は自分の子どもの頃からの話をされ、『わくぱくだん』シリーズがどのように生まれたかの話になりました。そして最後は編集者としての絵本作りの話をしてくださいました。
参加者は24名でしたが、著作権についての話をじっくり聞いて、皆久しぶりに勉強したという気持ちになりました。
2010年 春の絵本講座
子ども読書年から10年を経た今、子どもから大人まで広く読まれるようになった絵本は、年間1400~1500点出版されているそうです。保健所の乳幼児健診時に親子に絵本を手渡すブックスタートも広がっています。学校や図書館でのボランティアによる読み聞かせも盛んです。絵本作家などを講師に招いての絵本講座も人気です。保育園や幼稚園では絵本の読み聞かせが保育の中に位置づいているようです。保護者の関心も高く、いまや絵本は、子どもたちの生活の中になくてはならないものとなっている感があります。さて、今年の春の絵本講座は、絵本づくりの舞台裏からの学びをしたいと企画しました。講師は、編集者であり、絵本作家でもあるチャイル本社に勤務されている植村和久さんです。植村さんは、子どもたちに人気の『わんぱくだん』シリーズの著者でもありますが、著作権についても造詣が深く、私たちに多くを語ってくださることでしょう。絵本の中のいろいろを造形物にして子どもたちを喜ばせるのは、保育や教育の現場では日常茶飯事ですが、私たちは、著作権については知らないことが多いように思います。ご一緒に学びませんか?! ご参加お待ちしています。
高山智津子「文学と絵本」研究所所長 徳永満理
講座テーマ 『絵本づくりの舞台裏』
講師 植村和久さん チャイルド本社専務
日 時 4月17日(土) 午後2時~4時半
場 所 尼崎女性センター トレピエ 視聴覚室
尼崎市南武庫之荘3丁目36-1 TEL06-6436-6331
阪急武庫之荘駅南へ徒歩5分
参加費 2,000円(当日 2,300円)学生1,000円
申し込み先 尼崎市塚口本町1丁目21-10
おさなご保育園 小西律子
FAX 06‐6422‐6905
メールeiji19522210@m5.dion.ne.jp(藤本英二宅)
定員 50名(締め切り 4月9日) 最新本を販売します。
講師プロフィール
昭和47年中央大学文学部卒。(株)チャイルド本社専務取締役・編集本部長。(株)ひさかたチャイルド編集担当取締役。(社)日本書籍出版会児童書部会/四者懇談会座長。上野与志のペンネームによる主に『わんぱくだん』シリーズ(共著)。『あかまるくんとくろまるくん』『くまごろうくんって、ね』『くんくんくん』『みーつけた』『しろくもちゃん』(共著 ひさかたチャイルド)等がある。
若い保育士さんを中心に35名の参加者がありました。徳永先生も若い人に赤ちゃんへの読みきかせの意義伝えたいという熱意で、話に力がこもりとても熱のある講義になりました。新しい本 『赤ちゃんにどんな絵本を読もうかな -保育の中の絵本の役割-』(かもがわ出版)をもとに、0歳児から半年ごとに赤ちゃんのできること、どこに読みきかせの力点をおくかが、実践に基づいて語られました。歌を歌ったり、ごっこ遊びをしたり、一人一人の反応に応えてあげたり、「赤ちゃんに読みきかせをしようと思ったら、一時間では足りない」なんて、発言もあり、とても面白い話の連続でした。
研究所も「高山智津子・文学と絵本研究所」と改名し3年目となりました。今年も春の絵本講座を開きます。高山先生とご一緒に赤ちゃん絵本読者論を学び始めて15年が経ちます。赤ちゃんから絵本がどんな風に見えているのか、赤ちゃんが絵本の何を楽しむのか、そのことが赤ちゃんの育ちにどんな意味をもたらしているのか、研究所ではそんなことを話題にしながら、おさなご保育園の職員のみなさんの協力を得て、実践を積み重ねてきました。保育園での40年近い絵本の読み聞かせの実践は、子どもの育ちを見つめる日々でもありました。
この春、その実践を1冊の本にまとめることができました。高山先生が生きておられたら本当に喜んでくださることと思います。2009年春の講座は、その内容をお知らせしたく企画しました。
新年度を迎えて、慌しい日々をお過ごしのこととは思いますが、多数お集まりいただけるとうれしいです。赤ちゃんに幸せをもたらせてくれる絵本の魅力について共に学びあえることを楽しみにしています。
高山智津子・文学と絵本研究所所長 徳永満理
講座テーマ 『赤ちゃんにどんな絵本を読もうかな -保育の中の絵本の役割-』
講師 徳永満理 (おさなご保育園園長)
日時 4月18日(土) 午後2時~4時半
場所 おさなご保育園プレイルーム
(尼崎市塚口本町1丁目14の7 塚口KRマンション TEL06-6429-3980)
参加費 2000円(当日2300円)、学生1000円
申し込み方法(次のどれかをご利用ください)
①はがき 尼崎市塚口本町1丁目21-10 おさなご保育園 小西律子あて
②FAX 06-6422-6905 (おさなご保育園 小西あて)
③メール eiji1952210@m5.dion.ne.jp (藤本英二あて)
定員 30名 申し込み締め切り 4月9日
講師プロフィール
1949年福岡県生まれ。1970年に杉の子共同保育所で保育士としてのスタートを切る。1982年におさなご保育園長として勤務し現在に至る。他に、佛教大学非常勤講師、兵庫大学非常勤講師として、保育士養成に関わっている。
著書についてHPの著作一覧のページをごらんください。
208年4月12日(土)尼崎女性センター トレピエで「春の絵本講座」が開かれました。福岡の子どもの本専門店「エルマー」の店主前園敦子さんにきていただき 「子どもの本の本屋さんが語る絵本の世界」というテーマで話してもらいました。
博多弁の『給食番長』の紹介から始まり、自分がなぜ子どもの本の本屋をしているかという話、母親としての自分の子育ての悩み、読み聞かせボランティアと学校の問題、死んだ人間が生き返ると思っている子どもたちの問題、なと多岐にわたる話を、自分の子どもや孫の話を交えながら、『ぼくにげちゃうよ』や『おじいちゃんのごくらくごくらく』などの絵本と結んで話してくれました。とにかく笑いの連続、パワフルでざっくばらんな語り口、高山先生の再来かと思う場面もありました。
ちょうどこの日は、職員会議をしている保育園もあり、参加者は21名と、少し少なめでしたが、話の面白さに参加者はみな大満足。九州のお店から送ってもらった絵本もとぶように売れて、よかったよかったと、所員一同喜んでおります。
案内チラシはこんな風でした
高山先生がなくなられてもうすぐ2年を迎えようとしています。研究所も「高山智津子・文学と絵本研究所」と改名し、先生の遺志を継いで活動を続けています。
さて、本や絵本が子どもの手に届くまでに、いろいろな大人たちが関わっていることは周知のことです。作品を創造する著者、編集者、印刷者、親、保護者、教師など、子ども達に思いを寄せる大人たちによって、子ども達は本や絵本に誘われていきます。高山先生は、「すべての子ども達に本や絵本の面白さを!」ということをスローガンに、全国各地を講演して回られました。「どんなにいい本や絵本が出版されても、手渡す大人がいなければ、子ども達はその本に出会うことがないのだから」というのが口癖でした。
今回は高山先生のそんな思いも受けて、手渡し手の筆頭にいる子どもの本の本屋さんのお話を聞きたくて春の講座を計画しました。新年度を迎え、お忙しい日々をお過ごしのこととは思いますが、是非、ご参集くださいますことをお願いいたします。
高山智津子・文学と絵本研究所所長 徳永満理
テーマ 「子どもの本の本屋さんが語る絵本の世界」
講師 前園敦子さん(子どもの本エルマーの店主)
日時 4月12日(土) 午後2時~4時半
場所 尼崎女性センター トレピエ 視聴覚室
尼崎市武庫之荘3-36-1
阪急武庫之荘駅南へ2分
参加費 予約2000円(当日2300円) 学生1000円
申し込み方法(次のどれかをご利用ください)
①はがき 尼崎市塚口本町1丁目21-10 おさなご保育園 小西律子あて
②FAX 06-6422-6905 (おさなご保育園 小西あて)
③メール eiji1952210@m5.dion.ne.jp (藤本英二あて)
定員 50名 申し込み締め切り 4月9日
講師プロフィール
1947年愛知県生まれ。2児の子育ての中で絵本の魅力に触れ、1989年福岡県に子どもの本専門店「エルマー」を開く。開店時から高山智津子先生に影響を受け、すべての子ども達に絵本の喜びを……と、地域に根ざした書店を展開している。現在、春日市子ども文庫、読書サークル連絡会会長、香蘭短期大学非常勤講師。
最近力を入れて紹介している本は
・すきすき ちゅっ 徳間書店
・いろいろおせわになりました 福音館書店
・としょかんライオン 岩崎書店
・おじいちゃんのごくらくごくらく 鈴木出版
・わたしのすきなもの 偕成社
・ぼくにげちゃうよ ほるぷ社
・ケーキやさんのゆうれい フレーベル館 など。
2016年
1月30日(土)
高山先生をしのぶ会の会場がやっと決定して、所員会議のあとで会場見学を兼ねて、夕食を食べに行きました。会場はJR塚口駅から徒歩5分の「ひろ田」というお店です。元庄屋屋敷の古民家で、なかなか素敵な所でした。これまで会場探しで、異人館街やポートアイランドなどに行きましたが、決まってみれば、おさなご保育園のすぐ近く。
この日は、「私も行きたい」というので、妻も連れて行くと、徳永さんと小西さんと3人で盛り上がって、今度は女子会やりましょうなどと、ほんとにもう、呑み助3人組に、あきれてしまいました。
2015年
6月12日(金)
しのぶ会の会場探し第2回目、神戸空港の近く「ラ・ヴィマーナ」に行ってきました。三宮のポートライナー改札口で待ち合わせて、ポートライナーで神戸空港まで。空港へ行くのは初めてなので、気分は遠足。
ところが、空港から「ラ・ヴィマーナ」までは遠く、タクシーで。レストランに着いた頃には、ここでしのぶ会は無理、遠すぎる、と三人の意見がまとまりました。が、しかし、食事のあと施設を案内してもらうと、コテージ風の独立したパーティ会場が素敵ですっかり気に入り、海に臨んだ結婚式場も見せてもらい、こりゃあいいなあと、大いに盛り上がりました。しかも、帰りは送迎バスに乗せてもらったので、三宮まで二十分。ううん、これを利用してもらうなら、やれるかも、とおおいに迷い、来月もう少し検討することになりました。続く。
5月21日(木)
来年予定しているしのぶ会の会場を探しに、三宮の異人館、「レストラン花の館パラディ北野」に行ってきました。近くまでは行きついたはずだけど、待ち合わせに遅れそうなので案内所に入って聞いてみました。案内所のおじさんが親切で、その店ならサービス券があったはずやでと、探してくれて、案内所の外まで出て、行き方を教えてくれました。それでも僕は間違えて、急な坂を上まで登ってしまいました。おかしいと引き返して、坂をおりたあたりで徳永さんから携帯。「今どこですか」「近くです」とやりとりの15秒後、2分遅れでお店に到着。ランチは上品で、とってもおいしくて、3人とも大満足。
でも、迷う人が出るかもしれないし、三宮から歩くと結構坂道を歩くことになるので、年配の人にはきついかも、などの観点から、会場としては無理かなと結論を出しました。で、来月は神戸空港の近くの海の見える店を見に行くことになりました。
帰りには、ラインの館を見物したり、異人館通りをぶらぶらした、「のんびり所員会議」でした。
4月13日(月)
3月に宇治の「キッズいわき ぱふ」に行った時、岩城さんから、「絵本大学」担当だった松本さんを紹介してもらいました。松本さんとメールのやりとりをしているうちに、松本さんの先輩、後輩のスタッフの方にも集まっていただいて、高山先生の話を聞くことになりました。
で、今日、おさなご保育園のプレイルームで、高山先生をしのぶ会ミニを実施。
「ぱふ」での、高山先生の様子を聞いたり、写真を見せていただいたり、懐かしい話に花が咲きました。
高山先生のDVDを上映しようと、入念に準備していたのですが、何故かスピーカーの音が出ず、あわててしまいました。おかしいなあ、パソコンが壊れたのか、スピーカーが壊れたのか、といろいろ操作しましたが、うんともすんとも、音が出ません。しかたがないので、映像だけ上映して、しのんでいたのですが、突然小西さんが、あっごめん、そっちのブレーカー落ちている。
まさかの電源ダウンにやっと気付きました。(同じテーブルタップに接続していたパソコンは、実はこの時内蔵のバッテリーで動いていたのです。パソコンも起動しなかったら、これは電気が来てないとすぐに気付いたでしょうが)。というわけで、なんとか高山先生の声も聞けて、良かったよかったと胸をなでおろしました。
教訓 機械が動かない時はまず電源を疑え。バッテリー内蔵にまどわされるな。
3月1日(日)
今日は高山先生のビデオ「旬の絵本さがし、第三回」2005年10月9日」の初め30分ほどを3人で見ました。
このビデオは「ぱふ」さんから入手したビデオの中で、最も新しいもので、高山先生もちょっとしんどそう。話でも病院を抜け出しては講演に行っていることを語っていて、二階の会場へ上がることが難しい……。
新刊紹介では『それはひ・み・つ』(エリック・バトゥー作、石津ちひろ訳、講談社BOOK倶楽部、2005年)をとりあげていました。図書館で借り出してみてみましたが、なかなか素敵な絵本で、3人とも気に入りました。なんだか、改めて、高山先生から絵本を教えてもらった感じです。
没後10年の企画はまだまだ動いています。DVD編集、ビデオ上映会は、ちょっと計画を見直し(DVDの音が少し聞き取りにくい)。『はるちゃんのぼんぼりぼうし』の中国語出版はまだ契約が完了していないそうで、実現までにもう少し時間がかかりそう。
でもパーティはやるぞ、ということで4月に会場の検討をし、5月の所員会議は会場でランチを、と、こちらは着々と計画進行中です。
今回のDVDを観ていて、高山先生が「マイ・ヒストリー、絵本カレンダー」ということを提唱し、「ぱふ」の講演会の参加者に呼びかけていることを知りました。大人にとっての絵本、自分の人生をふりかえるものとしての絵本、今の自分を励ます絵本、など、高山先生が踏み出そうとしていた分野が少しわかりました。「すべての子どもに読みきかせを」「赤ちゃんからの読みきかせ」とは違う角度からの絵本へのアプローチで、この点については、ビデオの中で語っている話しを文字化しようかと、考えています。
1月11日(日)
今年最初の所員会議。2016年は高山先生没後10年になる。そこで、研究所としてどんなことをするかを話し合いました。
⑴高山先生の講演ビデオが大量に手に入ったので、まずこれを編集して3~5巻のDVDセットを作る。
⑵ビデオ上映会を各地でやる。ゆかりの人に声をかけて。
⑶2016年6月18日(土)に「高山智津子先生をしのぶ会」をやる。できれば神戸のお洒落な店を借り切って、パーティを。
⑷『はるちゃんのぼんぼりぼうし』の中国語版出版の祝賀会を東京で行う。
以上の計画を実施するために、2015年は、絵本講座、文学講座は実施しない。
次回は3月1日。5月頃までに企画プリンを作りト、呼びかけを始める。9月頃までに⑴から⑷の具体的な計画を立てる。
ということで、来年6月に向けて、研究所始動。
会議の最後に、今回入手した「高山先生の講演」を30分ほど見ました。絵本と人生というテーマで、お父さんやお母さんの話もされていて、これまであまり聞いたことのない話しでした
2014年
12月7日(日)
ビデオのダビング作業完了!わかりやすいリストも作った。
家でDVDにしたものは全部で58本(暫定的なリストを作った時に数え間違えていた、一本リストにないテープを最終段階で見つけた)、業者に頼んだ10本とあわせると、68本になる。
これから、個々の内容をチェックする作業が待っている。
ダビングしながら、時々覗いてみていたのだが、最終の日付「2006年2月5日」のテープが2本あり、一本は「旬の絵本さがし講座」の参加者たちが発表したり、「絵本カレンダー」づくりの相談をしていた。もう一本は宮川ひろさんの講演だった。その講演の冒頭を見ていると、この日高山先生は会場に来ていないことがわかった。この頃には、もう講演をするのがきつかったんだな。亡くなる4カ月前だ。
これが最後だなと思っていたテープに、高山先生の姿がなかったので、ちょっと複雑な気分になった。
12月6日(土)
昨日図書館で借りてきて、確認しました。『サンタクロースを探し求めて』の中に高山先生の文章が引用されていました。「こんなもの発見」のページに載せておきます。
12月4日(木)
ビデオのダビング作業は、あと9本という所まできた。
今日たまたま聞いていた箇所で高山先生がこんなことを喋っていた。
『サンタクロースってほんとにいるの』を話題にしてあちこちで話してきたが、この前(2004年)暉峻淑子(てるおかいつこ)さんから手紙が来た。てるおかさんが『サンタクロースを探し求めて』(岩波書店、2003)という本に、高山先生の話を引用している、とか。
さっそく、明日にでも伊丹の図書館で借りてきて見てみよう。
57本もビデオテープをDVDにダビングしていると、いつの講演か、すぐにはわからないものが出てくる。「講座名、何回目、年月日、AM、PM、何本のうちの何番目」という情報を丁寧に書いてあるものもあれば、ほとんど何も書いてないテープもある。そこでシリーズの講演なら何回目か、推理しながら並べていく、気分は「探偵」。
今日の三本の「情報」は、こうだった。
⑴ 第4回読みきかせ講座 土よう②―1
⑵ 第4回読み聞かせ講座 日よう AM
⑶ 04・10・31 AM
⑴と⑵には日付がない、⑶には「日付とAM」しかない。読みきかせ講座というシリーズが2004年にやられていて、第3回が9月であったことは他のテープの情報でわかっていた。カレンダーを確認したら、⑶の日付は日曜日。しかし⑵が10月31日(日)のテープならこの二本は連続したものだろうか。
いちおう冒頭と最後を確認。⑵と⑶は同じ服装なので同日と判断。そして⑵の冒頭では上着を着ていたのに途中で脱いでいるのでたぶん⑵が先。さらに見ると、⑵の最後で昼休みの案内を係の人がしている。つまり⑵で午前の部は終了だ。そしたら⑶の「AM」と矛盾する。
やはり別の日なのか。
さらにさらに調べると、午後は誰から発表(絵本のよみきかせ)するかと、高山先生が会場の参加者に問いかけて、私がと手を挙げている人の後姿を確認。青いトレーナーで袖口が赤。そこで⑶のテープの冒頭を見ると、その服の人が絵本を読んでいる所から始まっていた。
ということで、⑶の「AM」が「PM」の書き間違いであることが証明された。
気分は犀川創平、「命題は証明された」。
12月1日(月)
「きっずいわき ぱぷ」さんから譲り受けた高山先生の講演ビデオのうち、Hi8の10本は梅田のダビングスタジオに頼んだ。ちょうどセール期間中ということもあり、1本480円、ケース1枚50円、で10セットで5300円だった。家に帰ってちらちらと確認してみると、結構いい出来だった。
ミニDVの方は家でせっせとダビングしている。今日現在で37本分完了。あと20本ほどだ。この二週間ほどダビング漬けの毎日、一日三本の日もある。もちろん機械をセットして、別の仕事をしているのだけど、時々はちゃんと出来ているか、確認してみるので、毎日高山先生の話を聞いているようなものだ。
ときどき、僕を話題にしているので、ちょっと聞いてみると、まあ話しを面白くするためか、思い込みか、嘘ばっかり。いつの間にか、僕は学生時代に高山先生の読み聞かせ実践を見学しに行っていることになっているし、ロシア語の小野先生から大学院に残るように勧められていたり、ほんまにもう勝手に話を作りすぎや。一回きちんと、講演の内容について正誤表を作らねばなるまい。
11月15日(土)
所員会議で「ジョン・バーニンガム」読んだ。
そのあと、「きっずいわきぱふ」の岩城さんから譲ってもらったビデオテープをどう活用するかの話しをした。実際にいくらか見てみて、今まできいたことのない話があったりして、きちんと整理して、みんなにも紹介しようということになった。ビデオをDVDにするのに時間がかかるのだが、僕の家でコツコツ変換している所です。現在11本完了。先は遠い。なにしろミニDVだけで57本ある。Hi8は10本あるが、これは業者に頼むしかない。必ずしも一本のテープに二時間の講演が入っているわけではないが、それでも100時間以上はあるはずだ。画質も悪くないし、バストサイズで撮っているので、高山先生の表情もよくわかる。何だかすごいものを手に入れたという思いでいっぱい。研究所の事業として何かちゃんとした形にしたいものだ。
来年は、このビデオにもとづいて、高山先生がとりあげた絵本について、あらためて検討していこうということになった。
10月25日(土)
秋の文学講座は全然参加者が集まらないのではないか、と心配していたが、10名来てくれた(おさなご保育園の若い保育士さんが3名も)ので、僕としてもほっと一安心。去年は20名ほどだったが、なぜ半減したのかな。
9月13日(土)
今日の所員会議は、盛り沢山の内容でした。秋の文学講座について、高山先生の蔵書の整理、ノンタンについて、などなど、それに「おさなご保育園」に分園の認可が下りたことなど、これから園長の小西先生は大忙しになるようです。
8月27日(水)
今日は堺市にある大阪健康福祉短期大学まで、高山先生の本をとりに行ってきました。
高山先生の日和佐の家には、高山先生と夫の藤三氏の蔵書が収められた「藤の木文庫」という書庫がありました。先生が亡くなられ、この蔵書をどうするかという大きな問題がおこった時に、すべて一括して引き取ってくれたのが、この大阪健康福祉短期大学(2002年開校)でした。高山先生は、この短大の前身である大阪総合福祉専門学校で1997年から講師をしていました。そんなご縁もあってのことでした。
つい先日、この短大の図書館の司書の方から、高山先生の蔵書をリサイクルするのため展示するという連絡があり、出かけていきました。若い司書の方は、当時の事情を前任者から引き継いでいないらしく、困っていたようです。
絵本は図書館に登録され、配架されているのですが、一般書は利用の可能性が低いこともあり、処分するようです。そういうわけで、引き取れるものは研究所で引き取ろうということになり、今日行ってきたのです。
ざっとダンボール箱10箱分、引き取って来ました。整理するのは所長がベルギーから帰ってきてから、9月の所員会議のあとになりそうです。
7月12日(土)
6月は『どろんこハリー』と『あかいぼうし』(あまんきみこ/すずきよしはる)の検討をしました。
今日は『うさこちゃんシリーズ』(ディック・ブルーナ)と『100万回生きたねこ』(佐野洋子)の検討をしました。
「うさこちゃん」は目に入ってはいても、ちゃんと調べたり、丁寧に読んだことがなかったけれど、今回検討してみて、とても面白かったです。
作者のブルーナはオランダの人で、オランダでは「ナインチェ・プラウス」というのだとか、「ミッフィー」というのは英語版を作る時に決めた名前だとか、日本では福音館は石井桃子、松岡享子の訳で「うさこちゃん」シリーズとして30数冊全て出ているとか、後発の講談社は舟崎靖子・角野栄子の訳で「ミッフィー」シリーズとして12冊ほど出ているとか、わかりました。僕は『うさこちゃんときゃらめる』『うさこちゃんのだいすきなおばあちゃん』に驚きました。またどこかで丁寧に論じたいです。
8月は『ノンタンシリーズ』と『ガンピーさんのふなあそび』です。
4月20日(日)
久しぶりに所員会議をやりました。気がつけば5か月ぶりでした。みんな忙しく、いろんな日程調整もつかず、6月に予定していた絵本講座は中止することにしました。
それで、これからは定期的に所員会議をすることにし、1年間の日程を決めました。来月から第2土曜は所員会議です。当面の勉強のテーマはロングセラーの絵本の再検討です。
4月19日(土)
僕の所に、金楽寺小学校時代の高山先生の教え子の方から、メールが来ました。インターネットで検索しているうちに、研究所のホームページを見つけたそうです。『ひょうたん池の子ら』を読んでみたいが、どこかの図書館にないだろうか、という問い合わせでした。それで調べてみると、この近くなら、西宮市立図書館、大阪府立図書館にありました。私家本なので、どこにもないかもと僕も思っていましたが、ありました。やはり、本が図書館にあるということは、大きいですね。いつかたどり着いてきてくれる人があるかもしれないので。HPもそうですね。
2013年
12月21日(土)
絵本の勉強会をする。今回は「笑い、滑稽」を描いた絵本ということで作品を探したが、なかなか適当なものが見つからなかった。民話絵本の中では、『へっこきあねさ』(岩波書店)、『へっぷりむすこ』(第一法規)、『おならのしゃもじ』(教育画劇)など、《おならもの》。
柳田國男の「笑いの文学の起源」を紹介。あと、『おどります』(高畠純、絵本館)が徳永さん小西さんにうけた。これは動物たちが布を持って次々登場し、踊るというもの。感動も、優しさも、思いやりも、メッセージも、あんまり関係なくて、ただただその踊る姿が楽しい、可笑しいというもの。「これどう読み聞かせるんやろ」「お母さんたちは、買わないだろう」とのこと。僕も図書館や書店でいくつか絵本を眺めてみたが、本当に絵本は何か心温まるものという、暗黙の了解がそこには浸透しているようで、ちょっと辟易した。深いメッセージやなにか教育的なものを求め過ぎではないのかな。単純におもしろい、おかしいというのが、僕は好き。で、今回本やで見つけたお薦めは『ニャンともクマったもんだ』(新井洋行、えほんの杜)。だじゃれがこれでもかと連発されて、子どももきっと気に入るものがひとつやふたつはあるはず。「いつもつちにウマっているウマ」「みんながシマウマでかたづけないシマウマ」「ウシろをむいてぶきみにわらうウシ」なんてのが出てくる。絵も素敵だ。
さて、来年の活動をどうするか相談して、あれやこれや考えて、次のように決まりました。
⑴絵本講座(6月14日、14時~16時半、おさなごプレイルーム、定員20人)
・所員3人がそれぞれ研究発表する
①最近の赤ちゃん絵本について 徳永
②おいしい絵本、食べ物絵本 小西
③長谷川集平の世界 藤本)
⑵文学講座(10月18日、会場等未定)
・藤本が報告、テーマは未定
あと、所員3人で講座に来てもらうだけでなく、一緒に研究してくれるメンバーも欲しいねという話で、所員の枠を広げようかという話になりました。具体的には、6月以降に、研究のテーマ・日程を決めて、募集ということになりそうです。
会議のあとは忘年会をやりました。
10月19日(土)
秋の文学講座。今年度初めての、研究所主催の行事になる。尼崎の「トレピエ」の視聴覚室。参加者は20名だったが、新しい参加者がいて、賑わった。「現代文学は働く女性をどう描いたか 絲山秋子と津村記久子」というテーマで、僕が話した。
作品を読んだことのない人でもわかるようにという注文なので、できるだけ内容と文体を理解してもらえるように、いくつか工夫した。紹介する作品は、2作品ずつ(芥川賞受賞作とデビュー作)に絞り込み、①登場人物をボードに書く、②冒頭は必ず読む、③あらすじをわかりやすく話す、④大切な箇所は朗読する、⑤タイトルの意味にふれる、などを意識した。結構笑ってもらえたので、成功だったかな。
『ばかもの』も一部見てもらったが、「もっと見たい」という声があがったので、よかった。ただ、やはり時間が足りず、一番語りたかった『君は永遠にそいつらより若い』は少しふれるにとどまった。いつも欲張りすぎて、時間が足りないのが、僕の悪い癖だと、反省。この反省一体何回したことだろう。
県立伊丹の元同僚や卒業生も来てくれたので、よかった、よかった。
10月12日(土)
久しぶりに所員会議を行う。19日(土)に秋の文学講座をやるので、その打ち合わせ。この日、おさなご保育園は運動会だったらしい。打ち合わせは簡単に済んで、近くの焼き鳥屋で「事前打ち上げ会」。来週の講座当日、終了後に徳永さんは大分へ移動するので、打ち上げができない。それでこういうことになった。この日はちょうどこの辺りの秋祭りで、店の前にも山車が現れ、居ながらにして、祭り気分を味わえた。
8月15日(水)
連日、記録的な猛暑です。日中は外に出ず、家の中にいることにしました。それで、久しぶりに研究所のホームページを点検して、追加、改変をしてみましした。例えば「著作一覧」、徳永さんも小西さんもここ一、二年のうちに次々と新しい本を出版。それを追加しました。それから「文学講座」、新しいページを作って、そこから各年度へ飛べるようにしました。他にも、手直しした方がいい所があるので、ちょっとずつ修繕していきます。とにかく、全体の見取り図なしに、増築、改築を繰り返してきたので、迷路みたいなホームページになっています。まあ、これはこれで面白いかもしれないけど、作った本人でさえ、「あれ。あのページどこから飛ぶんだっけ」と道を見失うことがあるのはやはりまずいでしょうね。
8月の初めに、奈良から高校生が僕を訪ねてきました。大阪にある清教学園高校の三年生で、秋までに四万字以上以上の論文を書くそうです。スポーツ小説の面白さとは何かというテーマに取り組んでいて、図書館の先生に薦められて、『人気のひみつ、魅力のありか』を読み、作者である僕に会って話を聞きたいと思ったとのことでした。取材申し込みの手紙が丁寧でしっかりしていて、好感を持ちました。実際に会ってみると、物おじしないはきはきした子で、僕もあれこれ話しました。いい論文ができるといいなあと思います。高校生で原稿用紙百枚書くというのは、すごいことですね。
7月7日(日)
6月に予定されていた所員会議を延期して、七夕の日15時に久しぶりに所員3人、おさなご保育園のプレイルームに集合した。「滑稽譚、笑話」を扱った昔話絵本について、報告を受けたが論点がうまくかみ合わず、「笑い」を論じるのは難しいと感じた。
秋の文学講座については、「絲山秋子と津村紀久子」で行こうということにまとまった。
そのあと、鳥越信先生が亡くなったこと、ジブリの新作「風立ちぬ」のことなど、高山先生の「×のついたカレンダー」を研究所としてどれだけ買い取るかとか、いろいろ雑談、最後は徳永さんの文学学校の課題小説に対する感想を話したりして、気が付くと20時だった。
3月30日(土)
「絵本の勉強会」は昔話絵本について、今回は「かちかち山」を取り上げました。何種類も集めて比較してみると、違いがくっきりわかります。今回特に「松谷みよ子/瀬川康男」のコンビが2種類の「かちかち山」を作っているのを発見。柳田國男の『桃太郎の誕生』からも参考になる箇所をピックアップして報告。結構密度の濃い内容になりました。
で、次回は6月15日(土)14:00から、「滑稽譚、笑話」を扱った昔話絵本をテーマに。その日は「ミニ高山先生をしのぶ会」として、講演ビデオを一緒に見ようという企画もあります。
あと10月19日(土)は研究所主催の文学講座を計画しています。「絲山秋子、津村紀久子」という現代社会で働いてきた女性作家の作品をとりあげるつもりです。
4月から徳永さんは大阪文学学校へ通うそうです。小西さんはおさなご保育園の園長になります。藤本は「つかしんカルチャー」で「おもしろ文学講座」を始めます。
1月27日(日)
昨日、小西先生のおうちで新年会を兼ねて、久しぶりに所員会議をやりました。昨年は秋に絵本講座をやってからは事実上活動休止状態でしたが、やっぱり「高山智津子・文学と絵本研究所」は続けて行こうということで、各自がこれからやりたいことを出しあいました。
それで当面、「絵本の勉強会」を再開。次回は3月30日(土)15時、おさなご保育園で、テーマは昔話絵本、特に「カチカチ山」。各自が「カチカチ山」の絵本を集めてじっくり読んでみようということになりました。太宰治の中期の作品『御伽草紙』の中に「カチカチ山」があるので、これについては藤本が報告します。
2012年
10月3日(火)
インターネット回線をADSLから光に変えました。プロバイダーも変えました。なにがどうなるのかよくわからんけど、とりあえずこれまで使っていたメールアドレスとHPのアドレスは継続できるようにはしてもらいました。だから、メールもHPも、新しい(so-net)のと古い(DION)のと二重になるのですが、やむをえません。
この直前に3台目のパソコンを購入。これに初代のパソコンからHPの内容を移し替えるという大工事を頼んでやってもらいました。これで作業は早くなります。
やるときはやるんだぜ、とちょっと威張ってみたいような、でもうまく動くかちょっと心配なような。
7月21日(土)
暑い日が続きます。今日は3時から絵本の勉強会、『ようちえんがばけますよ』が課題でした。ところが、この作品にしようと提案した徳永先生は「今日は何をするんでしたっけ」と言うし、小西先生はなかなか姿を見せず、家に電話をすると、病院へ行ったとのこと。うーん。
しかたがないので、僕が伊丹図書館で借りてきた『ようちえんがばけますよ』を真ん中にして、集まった三人でわいわい言う。小西先生はまだ来ない。ひょっとして入院せなあかんということになったのでは、と心配していると、もうすぐ行くと家から連絡あり。現われたのは5時半すぎ。なんと一週間先だと勘違いしていたとのこと。
まあ、みんな忙しいのと、暑いのとで、(年もあるかも)ポカをやることもあります。でも手作りの鮭のほぐし身を貰ったので、寛大な気持ちで、こんなこともあるよね、と許す。(結構沢山あるので毎日食べてもなくならない。シャケコロッケも作りました。)
徳永先生の「プールちゃん」も出来上がり、小西先生の『おいしくたべておおきくなあれ』(かもがわ出版)も出版されました。
7月8日(日)
昨日、西宮へ劇を観に行こうとして、塚口に車を止めて、阪急の駅に向かった。いつもなら北改札から入るのだけど、どこかで早めの晩御飯食べようと、踏み切りを渡って南改札口の方へ行こうとした。ちょうど遮断機が下りていて、ふと見ると向う側に小西さんが立っていた。僕に気づいてなかった。遮断機が上がり、声をかけて、踏み切りの真ん中で話す。何か連絡することあったんやけどなあ、と小西さんが思い出そうとする。踏み切りの真ん中で、次の電車来たらどうするんや、とちょっと気にしながら、「絵本ワールドのことじゃないですか」と尋ねると、「あっ、そうそう、それそれ。こちらへの連絡は遅れているけれど、向うでは着々と進行しているそうよ」、「僕これから劇、観に行くんです」「どこまで」「西宮まで、野村萬斎の『藪原検校』、次の所員会議は21日の土曜でしたね」「そうそう」「ではまたその時」ととあわただしく話して、別れました。踏み切りで立ち話をしてはいけません。電車が来なくて良かった。
6月30日(土)
今日も別荘の片付けをしていた。大学時代のノートや資料が出てきたのでパラパラと読んでいると、いろんなことが思い出されてくる。忘れていた人の名前もノートの中にある。そんなのをゆっくり読んでいると、全然片付けははかどらない。そして、またまた見つけてしまった高山先生の貴重な資料。僕は大学生の時、兵民教で初めて高山先生とであったのだが、その分科会のレポートが出てきた。
表紙は「一九七三・八・二七 於 兵庫県氷上郡 兵庫サークル協議会 『あるハンノキの話』ー授業報告ー(六年) 尼崎・金楽寺小 高山智津子」別冊で子どもの感想文集もある。
毎週30分ずつぐらいのペースでは、トランクルームはなかなかからっぽになりません。
6月22日(金)
今日もちょっとだけ裏の別荘(トランクルーム)の片付けをした。一年かけて、空っぽにするつもりなので、のんびりと作業している。古い雑誌の中に『教育』1984年11月号(特集 教育実践とユーモア)があった。ここに高山先生の「教師や親や子どもに求められている楽天性について」という原稿が載っているのを確認。ここにあったんだ。看護学校での授業の話、将棋大会の話、児童文学や絵本の中の楽天性、ハイジ、清光館哀史などが出てきます。また、近々「こんなもの発見」のページで紹介します。
6月6日(水)
先日、特別の所員会議をしました。エフシーミュージックの中村さんから、「絵本ワールドinけいはんな」という催しについて相談を受けて、いろいろ案を出したのです。まだ企画段階ですからどうなるかわかりませんが、研究所総出で(といっても三人ですが)、一仕事することになるかもしれません。本決まりになったらまたお知らせします。
今日は久しぶりに山歩きをしました。手術後、山からは遠ざかっていたけど、体力もだいぶ回復したし、時間もあるし、よし、山に行こうと思いました。再開の第一歩なので、近場で、比較的楽なコースをと、神戸市の水源である千刈水源池のそばの大岩岳へ。JR福知山線の道場駅は無人の駅だった。三時間のコースなのに、分岐点を見落として、二時間ぐらい歩いて、どうもこれは迷ったと気づき、引き返しました。正しい分岐点まで戻って、どうしようかと考え、無理はせずに、そのまま帰ることにしました。帰り道、右ひざの腱に痛みが、「そのまま帰るという判断」の正しさを噛みしめました。結局、四時間半ほど歩いたなあ。完全復活とはいかんなあ。
6月1日(金)
定年退職して二ヶ月がたち、少し時間もできたので、裏の別荘(トランクルーム)の整理をしようと思った。いらないものはどんどん捨てていこうとまず雑誌に手をつけた。で、見つけた。高山先生が初めて海外旅行をした時に自費で作った報告書。高山先生からもらって、どこかに置いておいたことは確かなのだが、その場所がわからなかった。なんだ、ここにあったのか。
報告書のタイトルは『第15回 ボローニヤ国際絵本展視察報告/ボローニヤ公立学校参観印象記』。五十四ページのちょっとした小冊子。一九七八年五月五日発行、編集発行日本子どもの本研究会高山智津子(尼崎市立城内小学校) 印刷所ファースト印刷(尼崎市杭瀬…)とある。
内容については、近々「こんなもの発見」のページで紹介します。
実は、講演テープも一本発見。兵庫文学教育の会の県大会で広瀬恒子さんに記念講演をお願いしたことがあった。一九九〇年秋、第十六回大会でのことだ。この時、記念講演の前に、高山先生が「アンとローラの旅」について報告している。そのテープがあったのだ。
高山先生は一九九〇年夏に《高山先生と行くアメリカ・カナダの旅 『大草原の小さな家』『赤毛のアン』とカナディアンロッキー11日》というツアーを企画実現し、四十数名の仲間と旅に出かけている。その旅行については、翌年九月発行の『赤毛のアンと大草原のローラ』(清風堂書店)に詳しく描かれている。つまり、このテープの報告は、旅行から帰って間もない頃、本もまだ執筆されていない時期のものなのだ。
本当に、資料は自分の家の倉庫にいろいろ眠ってるなあ、と再認識
5月20日(日)
絵本研究の報告
①3月24日(土) 藤本がレポート報告。絵本の文法をふまえながら、ジョン・バーニンガム、きたむらさとし、長谷川集平などの作品を紹介しました。
②5月19日(土) 兵庫短期大学に勤めている徳永さんが、学生達の作文をもとに「子どもにどんな絵本を読んであげたいか」という問題を報告しました。
そのあと「絵本講座」の相談をしました。一応、10月13日(土)に植村(上野さん)さんに話してもらうことにしています。詳しくは改めて。
1月24日(火)
昨年の暮れ、12月24日に2回目の「絵本の研究」をやりました。松谷みよ子/瀬川康男の『いないいないばあ』がいかにすぐれているかを再確認しました。ヒゲやシッポにも力がこもっていました。後半はかがくいひろしの絵本をいくつも読んで一同(総勢四名でしたが)大感激。次回は3月24日、藤本がレポートします。
しのぶ会を終了し、文学講座も絵本講座もやらないので、なんとなく活動のモチベーションがないなあと感じていたのですが、徳永先生も同じように感じていたらしく、また講座をやりましょうということになりました。詳しい計画は次回立てるということです。
2011年
12月3日(土)
しのぶ会ファイナルをやり終えてから、研究所は活動を縮小しています。そのせいもあり、HPの更新もストップしていたのですが、久しぶりに所員日誌を書くことにしました。
「絵本の研究」は、第一回を10月8日(土)にやりました。とりあげたのは、①なかやみわ『くれよんのくろくん」、②『もものこたろう』でした。参加者は6名で、結構好きなことがいえてよかったです。ほかに『こびとづかん』
も話題に上がりました。次回は12月24日(土)で①まつたにみよこ『いないないばあ』、②かがくいひろし『だるまさんが』の予定です。
しのぶ会を終えて、8月から、予定していた原稿書きを再開。11月はフル稼働で執筆の日々。で、出来上がりました。発表します。
現代日本児童文学論第三部・完結編
『人気のひみつ、魅力のありか 21世紀こども文学論』
2011年12月12日、久山社
第一章 かいけつゾロリ徹底分析
第二章 児童文学はスポーツをどう描いたか
Ⅰ バッテリー
Ⅱ DIVE!!
Ⅲ 一瞬の風になれ
第三章 岩瀬成子2010
Ⅰ オール・マイ・ラヴィング
Ⅱ まつりちゃん
あとがき、あるいは{21世紀こども文学論」のための走り書き
という内容です。
かいけつゾロリについては研究所の文学講座で報告したことがありましたが、今回はさらにパワーアップ。パラテクスト、メタフィクション、トリックスターなどの概念を使いながら論じました。
バッテリーについても、報告したことがありますが、今回分析しなおして、自分でも満足できる出来になりました。佐藤真紀子の表紙・イラストの変化、あさのあつこの文体の変化などを絡めて書きました。物語から小説に舵を切るというのがキーワードです。
DIVE[!!、一瞬の風になれ、は初めて論じることになりましたが、まあ読んでみてください。
第三章はもともとは岩瀬成子で一冊と考えていたのを、編集者の意向もあり、この形になりました。出来上がってみれば、2010年の最新作で岩瀬成子を語るという方法も、なかなか正解だったなあと思います。
この 『人気のひみつ、魅力のありか 21世紀こども文学論』についてどこかで報告したいと思います。もし、注文があれば、藤本まで。宣伝でした。
8月20日(土)
心臓の手術をして8ケ月たったので、三日間検査入院する。四本入れたステントはどれもきれいで、
今の所心配ないとのこと。
病院から帰り、家の中のテープの整理をする。タイトルをつけていない録音テープを聴きなおしていくうちに、高山先生のテープを発見した。ちょうど講演4000回突破の祝賀会直前、銀杏庵で、徳永さん、小西さんと三人で、高山先生に講演の裏話を聞いたことがあった。そのときにテープを録っていたのを、すっかり忘れていた。最後のあたりは電池がなくなり、声が小さくなって、消えてしまうのだが、なかなか貴重なテープだ。沖縄で一日に五回話をしたとか、全国で行っていないのは青森と岩手の二県だけとか、病院から抜け出して講演に行ったとか、……。
今日は、6月のしのぶ会ファイナルのビデオテープをDVDにコピーする。
この日誌を作りながら作業する。
8月2日(火)
所員会議をするために、おさなご保育園に行く。保育園の子どもたちから、「だれのじいちゃん?」ときかれてショックを受ける。
研究所のこれからの活動をどうするか、改めて相談して、次のように決めました。
①2ケ月に1回ずつ、絵本の研究をする。
②絵本の歴史や、絵本を読んだときの子どもの反応について語るのではなく、
自分たちの「絵本を読む力」そのものを鍛えたい。
③新しい作品と古典的な作品を一つずつとりあげる。
④三人だけでやるのでなく、関心のある人の参加も募る。(10人程度)
で次回は10月8日(土)15時から、おさなご保育園で。
しのぶ会で配った、「高山智津子講演全集」のDVDの評判がいい。注文もあった。で、手持ちのものがなくなったので、新たに20枚焼くことにした。作ってよかった。
6月18日(土)
神戸酒心館で最後の「高山智津子先生をしのぶ会」を開催しました。
この五年間に、高山先生の縁で知りあえた人々も多く、これで終わりかと思うと、少し寂しい気もします。二次会では、「しのぶ会」はこれで終わるにしても、また何らかの形で集まれないだろうか、という希望が何人もの方から出され、「七回忌」案や、「高山先生ゆかりの地を訪れるツアー」案などが提案されました。今後の研究所の活動をどうするかについては、6月26日(日)の所員会議で話し合うことにしています。結果はHPに載せる予定です。
今回参加された方から、高山先生の資料(写真やビデオやプリント)の提供の申し出がありましたので、とりあえずは、それらを整理して行く作業が必要になります。提供された新しい写真はアルバムのページに掲載していくつもりですので、ときどきは覗いてみてください。
6月5日(日)
一時はどうなることやらと心配した高山先生の追悼の本ですが、3日(金)にすべての原稿を印刷所に渡し、あとは出来上がりを待つだけになりました。250ページほどのしっかりした本になりました。
そして、もう一つ、「高山智津子講演全集」DVDを今せっせと作っています。これは研究所の所蔵しているDVDを四本使って、110分ほどに編集したもので、高山先生の講演のエッセンスというか「十八番」の話をまとめたものです。しのぶ会の当日お土産として配布する予定です。ぼくのパソコンで一枚一枚「手焼き」しています。一枚焼くのに20分ほどかかるので、ご飯の準備をしながら、洗い物をしながら、あるいは洗濯物をたたみながら、はたまた間にお風呂に入りながら、せっせと焼いています。ビデオの編集は何日か前に終え、試しに焼いてみたら、パソコンでは再生できるのに、DVDプレーヤーでは再生できないなどというトラブルがあり、一時は業者に発注しようかと考えました。でも、昨日日本橋へ行き、電気屋のお兄ちゃんに聞いてみると、古いタイプのDVDディスクなら大丈夫と教えてもらい、生産中止のアナログ放送録画用の8倍速のディスクを80枚買いました。家でやってみると大成功。やっぱり専門の人に相談するのが一番です。
日本橋では、中古のビデオカメラも買いました。これまで研究所主催の「しのぶ会」や講演会を撮っていたビデオが壊れたので、テープの再生ができなくなりました。電機店には新しいタイプの機種は並んでいても、ミニDVテープの使える機種はもう生産中止で、店にはありません。本当にもうという感じです。中古品屋のおじさんは親切で、これがしっかりしているというのを薦めてくれました。
4月5日(火)
もうこうなったら、俺がやるしかない!!と強く決意し、コツコツ、ガシガシ原稿作りをしました。その結果、一人で130ページ分ができた。実はこのホームページを徹底的に活用して作ったのです。初めはどうすればよいか、よくわからなかったけど、情報処理の若い同僚に訊ねてホームページをコピーして単純にワードに「貼り付け」るのではなく、「形式を選択して張り付ける」(テキスト形式)にすればいいということを教わりました。おかげで、これまでこのホームページでコツコツ作ってきた原稿を活かせることになりました。やっぱり教えてもらうことってだいじですね。また一つ賢くなりました。
3月19日(土) 所員会議
三人で「高山智津子先生をしのぶ会」の案内チラシを完成。そのあと高山先生の追悼記念の冊子の原稿の出来具合を確認をしました。なんと徳永さん小西さんの原稿が全然進んでいないではないか。さすがに、こんなのでは間に合わない!!とあわてました。これから一ヶ月が勝負です。
3月5日(土)
3月から職場に復帰。まだ本調子ではないけれど、慣らし運転のつもりで少しずつ仕事をしています。2カ月半休んで、一年はやく退職することも頭をよぎったけれど、まあできるだけ頑張ることにしました。この間高山先生の本を読み直したり、講演テープを聴きなおしたり、高山先生に伴走してもらった気分です。高山先生も晩年は入院生活が続いたけど、どんな気持ちだったのだろうと考えたりしました。高山先生の年譜も少し詳しくまとめたので、HPにアップします。著作解題も現在作成中。こうした仕事が、僕自身をささえてくれたようです。カロリー計算もするようになり、食事も弁当も自分で作っています。魚を食べるようになり、野菜を今まで以上に食べるようになりました。ウオーキングもし、インスリン注射もベテランの域に達しました。かかりつけの内科の先生に復職のための診断書を頼んで、血液検査をしたら、先生いわく「できすぎや」。ヘモグロビンA1Cもぐっと下がり、順調です。入院した12月中ごろと比べれば体重も5キロおち、精悍な身体になったと自負しています。気分は映画『SP』の岡田准一です。
2月19日(土)所員会議再開
藤本が入院していたため、所員会議がとまっていましたが、ようやく再開することができました。そこで、6月18日(土)の高山智津子先生をしのぶ会の企画を確認。今回はお昼ご飯をちゃんと出して、それから報告等をやろう、元アリス館編集長の後路好章氏に絵本「ゆうちゃんシリーズ」を共同で企画していったときに高山先生がどのようであったかを語ってもらおう、徳永さんと小西さんは日和佐・文学と絵本研究所の誕生からその活動を語るべし、藤本はこの間に勉強した児童文学のこと(岩瀬成子ほか)を報告しようという話になりました。そして追悼の記念の本はタイトルを『ありがとう、高山智津子先生』として、サイズはB5版、活字の組み方は『たばかぜの中を』に倣おうということになりました。あとは、各自が原稿を仕上げるだけです。徳永さんがいよいよ、これは書かなければとあせり始めましたが、たぶん徹夜が必要になるでしょう。
緊急報告
藤本が入院・手術しました。以下がその報告です。
2010年12月16日の午前2時頃、なにやら息苦しくなり、家の近くの伊丹市民病院に車で駆け込みました。酸素マスクをあてられ、少し落ち着きました。若い当直医が病棟に居た専門医に連絡、循環器の専門医が心臓のエコーをとり、心筋梗塞と判断。救急車で心臓専門の東宝塚さとう病院に搬送されました。足の付け根の動脈からカテーテルを入れて、検査・手術をし、心臓の血管にステント(網)を3つ入れ、心不全をおこしている個所はバルーンでマッサージをしてもらいました。手術そのものは1時間半ほど、部分麻酔で、身体的な負担はあまりありませんでした。
その後、1月5日に右手首からカテーテルを入れて、再検査・再手術でステントをもう1か所入れました。10日に退院し、現在自宅療養中です。また糖尿病の精密検査・治療方針の見直しのため24日から2週間ほど別の専門病院に入院する予定です。
入院中も心臓リハビリを行いましたが、最初は200m歩行からでした。今日は家の近くの昆陽池を半周、20分ほど歩きました。予想以上に体力、とくに心肺機能が落ちているのがわかります。でも徐々に回復しつつあるのも実感しています。
今回のことは、結果的にはきわめてラッキーだったと思っています。我慢せずに自力で病院まで駆けつけたことも幸いしました。東宝塚さとう病院は近畿でも有名な心臓専門の病院らしく、素人の目にも設備・技術とも優れていると感じました。
2月末まで、学校は休み、病気療養に専念します。
ご心配をおかけしましたけれど、幸運に拾った命を、できるだけ大切にしたいと思います。
2011年1月 藤本英二
2010年
11月20日(土)
しのぶ会の企画を立てる。今回は13時から食事をしてもらい、会は16時までやること、いつもやっている高山先生の講演ビデオは終わりにやること、研究所のこれまでの取り組みを発表すること、他を決め、今後の所員会議の日程を決める。
11月6日(土)
最後のしのぶ会の場所の検討をする。三宮周辺でもいくつか候補を探してきたが、なかなかぴったりの所がない。結局、時間、広さなどを考慮して、「酒心館」でやることに決定。年内にまずハガキでお知らせすることにする。
9月22日(水) 久しぶりの所員会議
第4回の高山智津子先生をしのぶ会は、大成功でした。それで気がゆるんだわけでもないのでしょうが、所員会議が3ヶ月ほど開かれませんでした。久しぶりに9月18日(土)に所員会議を行いました。
まず、最後のしのぶ会(高山先生に関する本も作る)の準備のために、秋の文学講座と春の絵本講座を一本化することにして、冬の文学講座(2011年1月29日(土)藤本報告)を行うことにしました。
次に年内にしのぶ会の案内を出すことにして、その企画について話し合いました。まだ詳細は未定ですが、とにかく所員三人が高山先生についてまとまった話をしようということになりました。そのためにも、高山先生に関する本の原稿を早く書くことにしました。次回は10月9日(土)に会議です
藤本の眼は完治し、映画見まくり、本読みまくりの毎日です。児童文学三部作の第三作目に取り掛かり、今は『一瞬の風になれ』を再読している所です。寝る前には『かいけつゾロリ』を一、二冊読んでいます。
夏には近代文学館主催の「夏の文学教室」に行ってきました。15人の話を聞いたので、勉強したなあという感じ。一番おもしろかったのは詩人の伊藤比呂美で、現代語訳の般若心経の朗読に感動しました。それ以後伊藤比呂美のまとめ読みしています。
4月5日(月) 今日は14000歩歩きました
3月の初めから左目の調子が悪い。斜めに傾いて見えるのだ。右は正常だから、当然両目の像がずれてしまう。こういう症状は十年前にも経験しているので、心配はしていないが、不自由なことに変りはない。現在ビタミン剤を飲みながら気長に回復を待っている。車の運転は片目では危ないので、なるべく控えている。で、通勤だが、バスと電車を乗り継ぐと、四角形の三辺をなぞることになり、一時間半近くかかる。ところが、四角形の残りの一辺をバスと徒歩でたどると35分ほどで学校まで行ける。(バスは7分、そこから徒歩25分ほど)ただこの経路は帰りの時に困る。最終バスが10時15分なので、乗れないのだ。だから、今日も宝塚小林の学校から伊丹の昆陽池まで夜道を45分歩いて帰ってきた。夜桜がきれいだった。結果、今日の歩数は14000歩。万歩計を見るのが楽しみな
毎日です。映画も読書も控えて寝る前はFMでジャズを聞いたりしています。
3月30日(火) 「日和佐だより」を発見
高山先生の講演ビデオを見直していたら、雑誌「子どもと読書」に二年間、「日和佐だより」を連載したという話が出てきました。以前にも聞いていたはずなのに、あまり意識していなかったので、今回ああそうか、この時期の「子どもと読書」のバックナンバーを探せば見つけることができるはずだ、と気づきました。さっそく大阪市立図書館で探してみたら、発見!92年の4月号から94年の3月号まで24回分の連載がありました。久しぶりの新発見でした。
3月20日(土) 徳永先生の退職を祝うパーティに行ってきました
研究所の所長、徳永先生はおさなご保育園の園長として28年間勤めてこられました。60歳を迎えて、退職されることになり、そのパーティがライクスホールで開かれました。この日は朝から、卒園式、謝恩会、そして夜はこのパーティと大忙しだったようです。もう朝から泣きっぱなしで、化粧が流れてしまったという発言もありました。
徳永先生は理事長となり、市枝先生が二代目の園長となるそうです。徳永先生は兵庫大学の教員となり、若い世代を育てることになります。もちろん、研究所の所長は変りありません。
3月6日(土) 所員会議で「大きな変更」を決定
2/20の所員会議は徳永先生の旦那さんの退職記念のパーティがあるので、中止にしました。
で、今日の所員会議。藤本から、『高山智津子先生の軌跡(仮題)』の編集をめぐってある提案をしました。当初、この本の企画をを出版社に持ち込み、きちんとした出版物として刊行する予定でした。ところが、先日清風堂に出かけてみて、藤本はやや愕然。高山先生の本がほとんどないのです。一方であふれるばかり、新しい教育関係の本は出ているのです。そうか、今から高山先生をしのぶ本を出しても市場のニーズはないのか、と思いました。そこでその現状を話し、『高山智津子先生の軌跡(仮題)』は研究所の本として作り、最後のしのぶ会で参加者の皆さんに配布しようと考えました。(つまり、売る本としての出版はめざさないということです。)徳永所長、小西さんも賛成してくれて、出版計画は大きく変更されました。
1月10日(土) 今年最初の所員会議、年間の会議予定を立てる
これまで、所員会議はそのつど次回の会議日程を決めていましたが、これではなかなか日程を確保できない(徳永先生が結構忙しくて、いろいろ予定が入ってしまう)ということに、やっと気づいた所員一同は、年間の所員会議の予定を立てることにしました。これは場当たり的、出たとこ勝負、泥縄方式の我々としては、画期的なことです。
今後の所員会議予定は次の通り。
2/20、3/6、4/10、
4/17絵本講座、
5/8、6/5、
6/19第4回しのぶ会、
7/10、8/21、9/11、10/9、
11/20文学講座、
12/11
2009年
11月21日(土)秋の文学講座開催
10月31日(土)所員会議、最大の危機に立ち向かう
秋の文学講座の会場がおさえられないという事態が発生。案内はすでに出しているし、新しい会場を探さないといけないし、と研究所始まって以来のピンチにたたされました。おさなご保育園のプレイルームではいくらなんでも狭すぎるだろうとあちこちあたり、結局公民館をかりることになりました。それにしても、案内状を早く配るのはリスクがあると、学習しました。
7月18日(土)所員会議で秋の文学講座と第4回のしのぶ会の方針を決める。
6月12日しのぶ会の準備確認
5月28日()しのぶ会の打ち合わせをしました。
4月18日(土) 絵本講座、大盛況
今年の絵本講座は「赤ちゃんにどんな絵本を読もうかな」というテーマで徳永先生が話しをしました。若い保育士さんを中心に35名もの参加があり大盛況でした。
3月30日(月) 石田さんにインタビューしました
所員三人うちそろって、石田さんを訪ねて行きました。高山先生との出会い、最初に編集した本、読みきかせ入門シリーズの編集の舞台裏、『心をたがやす保育』を作るときに高山先生が見せた編集者としての姿など、興味深いお話が聞けました。しのぶ会当日は、徳永先生、小西先生が石田さんに話を聞くという形式で話していただくことになりました。ようやく、見通しが立って、所員一同ほっと一安心です。
3月21日(土) 所員会議で、第3回しのぶ会の案を練る
第3回のしのぶ会のテーマを何にするかについては、昨年来いろいろ案を出して検討してきましたが、なかなか実現の見通しがたたず、困っていました。この日、清風堂の石田さんに話を聞こうということになりました。
1月10日(土) 新年会をひらきました
HAT神戸の近くのロイヤルホストで、吉住さんを囲んで、新年会をひらきました。劇団四季の「夢から醒めた夢」の京都公演が1月20日から始まるとかで、研究所にも招待状が来ました。(高山先生の原稿がパンフレットに再掲載されています)
新年会のあとで、「高山智津子の軌跡(仮)」の編集計画について所員会議を行いました。単なる追悼集や記録集ではなく、高山先生がいきいきと蘇ってくるような本にしたいね、という点でまとまりましたが、これから2年ほどかけて実現して行かなくてはなりません。
2008年
10月13日(月) 児童文学学会に行ってきました
HPの容量を増やしたというのに安心して、更新をさぼっていました。でも何もなかったわけではありません。所員会議で来年の「しのぶ会」の計画を立てて、大変盛り上がったのですが、(なにせ、その案が出たときに雷鳴がとどろき、あっ高山先生も喜んでるんやと三人で笑いました)その案の計画を実現できるかどうか、現在交渉中なので、内容についての報告はもう少し待ってください。9月には徳永さんはアフリカに旅行にでかけたので、なかなか連絡がとれませんでした。10月11日、12日と名古屋で日本児童文学学会が開かれ、僕も参加しました。「リアリティのありか」という大会テーマで、東浩紀氏の講演もあり、ライトノベルやアニメの話もいっぱいで、刺激にはなりました。「涼宮ハルヒの憂鬱」ぐらいは読んでいたのですが、アニメの「電脳コイル」や「ほしのこえ」はこれから見てみようと思っています。
で、18日(土)の研究所主催の秋の文学講座、準備は着々とすすんでいます。梨木香歩が英国留学したときに下宿した先のウェスト夫人(すなわち児童文学者ベティ・モーガン・ボーエン)の絵本も英国から届きました。当日紹介するつもりです。「からくりからくさ」の文庫本などはもう傍線と書き込みだらけになりました。「りかさん」との関係も分析・整理し、フラクタルな構造というのもだいたいわかりました。資料はこのままでは10枚以上になりそうで、かえってわかりにくいと思うので、これから削る作業にはいるところです。
8月28日(木) HPの容量を10倍にしました
8月中旬、アルバムのページを増やそうと考えて、コツコツ作業してサーパーに転送しようとしたら、何度やっても失敗。おかしいなあと思って調べると、どうやら容量が不足しているらしい。そこで、容量を変更することにしました。これまで5MBだったのを50MBに増設(料金は同じ)。もちろん、新しいアルバム2ページも転送完了。ちなみに現在の使用量は6MB。まだまだ余裕があるのでこれからはどんどん写真をアップできます。手塚治虫の「鉄腕アトム」は10万馬力でしたが、「地上最大のロボットの巻」で100万馬力に改良されました。今ほとんど、そんな気分です。
8月3日(日) 徳永さんの新しい絵本ができました。今年は忙しい夏です。
しのぶ会で予告していた徳永さんの新しい絵本『よしよしなでなで』(アリス館)が7月10日に発行されました。絵は入山さとしさんです。TOPページに表紙の写真を載せています。あたたかい色調の絵本に仕上がっています。もっと早くホームページでお知らせすべきでしたが、忙しくてなかなか更新できずに遅れてしまいました。所員一同いろんな研究会に出かけたりで大忙し、実はしのぶ会以後、所員会議がもたれていないのです。(6日にやることになりましたが。)
僕も、高校でやっている文学講座(全3回)が昨日終わったところです。「現代児童文学の傑作を読む」というテーマで、西の魔女が死んだ、バッテリー、精霊の守り人を取り上げました。いろんな資料をさがして、奈良県立図書情報館や大阪府立図書館、大阪府立国際児童文学館、大阪市立図書館などを回りました。梨木香歩さんの貴重な写真もついに入手しました。ふふふ、誰も見たことないだろうなあ。
8月1日には日本作文の会の全国大会で、谷川俊太郎さんの話も聞いてきました。「二十億光年の孤独」の謎がとけました。今週は井上ひさしさんの講演を聞く予定。そのあと京都で村上春樹の「バースデイガール」の授業報告を聞くつもりだし、研究会のかけもちで今年は忙しい夏です。
6月23日(月) しのぶ会が終わって、ほっとひといき
しのぶ会が終わりました。詳しい報告を作ろうとしているところですが、なんだかちょっと虚脱状態に落ち込んでいます。6月に入ってから、会場のトレピエにビデオの試写に二度出向き、連日のように小西さんとメールで参加者の人数を確認。普段メールなんかこないのに、参加申し込みやキャンセルのメールがあちこちから来たり、とにかくせわしなかった。当日14日(土)は1時から会場を借りていたのだけど、少し早く会場に入り準備をしていたら、係りの人に怒られるし、(結局午前中から借りることにしましたが)、机と椅子を運び出してセッティングするだけで大仕事でした。小西さんのだんなさんと息子さんが手伝いに来てくれていなかったら、どうなっていたことやら。
会そのものの様子は改めて報告するとして、まあ大成功だったと思います。参加者も65名ほど来てくれたし、四人の編集者のかたがたの話もめったに聞けない貴重なものでした。書画ビデオ付液晶プロジェクターも大活躍しました。第二部の参加者からのスピーチも爆笑の連続。高山先生の姿がはっきりと浮かんでくるものでした。
軽い打ち上げを近くの「一膳」でしたのですが、この次は「読みきかせ大会」をやろう、参加者から出場料をとって、編集者と保育園の先生の対抗戦にしよう、などと大いに盛り上がりました。
終わってみれば、あっという間のことのように思えます。まだ、お金の清算とか、報告書の作成とか、第3回の企画準備とか、ビデオのコピー、録音CDの作製とか、いろいろやるべきことはあるのですが、ちょっと休憩しています。
5月31日(土) しのぶ会にむけて、所員会議をしました
6月14日(土)の第2回高山智津子先生をしのぶ会の準備打ち合わせのために、所員会議をしました。参加申し込みの出足が悪くて、小西さんと何度もメールのやりとりをしていたのですが、今日現在で48名でした。去年が94名だったので、もう少し増やしたいということで、さらによびかけ、お誘いをすることにしました。後、当日の仕事の分担、配布物の確認などをしました。当日の参加者のスピーチをどうするかについても、いろいろ思案して、何人かの方に依頼することを確認、相談していくうちに、なんだか楽しくなってきて、元気になりました。リレートークの時に、話題になっている本や絵本をプロジェクターで映し出そうという計画で、その話をしているうちに、おさなご保育園で「書画カメラ付の液晶プロジェクター」を購入したということがわかり、当日はそれを使おうということになりました。家に帰るとメールが3件、しのぶ会の参加申し込みが届いていました。小西さんからも電話で申し込みがあったとの報告があり、結局参加申し込み51名になりました。
5月7日(水) カセットテープのCD化に成功
古いカセットテープをCDにするためにUSBオーディオ・キャプチャーというものを購入。GW中、ああでもないこうでもないと触っていた。何とかCD作製に成功。どのくらい音がよくなったのか、もう一つピンとこないのだけれど、まあ、これでカセットテープをCDにする方法は手に入れたから、これからはせっせと、高山先生の講演をCDにしていこう。
4月12日(土) 絵本講座のあと、インタビューをやりました
福岡の前園さんを招いての絵本講座は、大成功でした。(報告は「絵本講座」を見てください)そのあと、前園さんたちを囲んで夕食。場所を宿舎のアルカイックホテルに移し、ホテルのロビーで、一時間半にわたって高山先生の思い出について前園さんにインタビューしました。
この日の毎日新聞の夕刊一面に「おさなご保育園」の食育の記事が載っていました。
3月27日(木) 高山先生の古いテープ発見
家のすぐ裏にライゼボックス(トランクルーム)がある。僕はその一室を借りて本や資料の置き場にしている。家の者に「ちょっと、別荘に行ってくる」などと言って、時々資料を探しに行ったりしている。今日、行ってみて、ふと棚を見ると、昔カセットテープを入れていた箱があった。何を入れてたかなとあけてみると、なんとテープに高山先生とメモってある。1975年頃のもの、2本発見。聞いてみると、まだ現職の小学校教員として喋っている。1本は「母として、教師として」というタイトルで、どうも神戸のサークル協議会の集会で話したものらしい。冒頭、本岡さんが紹介をしていて、講演の中身もちょっと珍しい内容のものだった。いやあ、全国の皆さんに高山先生の講演のテープやビデオありませんか、と呼びかけている自分の「別荘」にこんなものが隠れていたとは、びっくり、びっくり。というわけで、この文を読んだ人は、自分のテープ置き場、ビデオ置き場に高山先生の講演が眠ってないか一度、その気で探してみてください。
3月18日(火)だったかな、 徳永さん、毎日新聞阪神版に登場
朝おきて、新聞をひらくと、徳永さんの写真が目に飛び込んできた。びっくり、びっくり。つい二、三日前に所員会議したときには、新聞の取材のことなんか言ってなかったのに。何があったんや、とよく読んでみると「わたしとおかあさん」という記事。でも最後には、『今考えると、お互いに絶妙のパートナーだった両親のもとで育ったことが、▽食育▽絵本読み聞かせ▽(看護士さんが常駐する)健康教育 を中心にすえた「おさなご保育園」の実践につながっていることは間違いないですね。』と、ちゃんと保育園の宣伝もしていて、さすが園長!と感心しました。
3月15日(土) 所員会議 絵本講座としのぶ会の計画をたてる
絵本講座の細かな所を打ち合わせする。せっかく九州から前園さんに来てもらうのだから、高山先生との交流についてのインタビューもしようということになり、その場で電話をして、都合をつけてもらった。考えてみれば、吉住さん、宮川ひろ先生、後路さん、徳永・小西さんとインタビューを続けてきてCDに録音しているんだけど、文章化の方はなかなかめどがたたない。ウーン、どうしたものか。
6月のしのぶ会の会場もおさえることができた。去年の会場はAV機器の設備に問題があったので、今回は会場を変えて尼崎市女性センタートレピエにした。司会をどうするか、の話になり、僕としては裏方でビデオをまわす役をやりたかったが、小西さんがビデオならわたしにもまわせるから、ということで、今年は僕(藤本)が司会をすることになった。参加者の皆さんに何かお土産を、と考えて、高山先生の雑誌原稿をいくつか印刷してパンフレットにしようということになる。
2月9日(土) 第2回しのぶ会の打ち合わせのため、東京へ
6月に予定している第2回「高山智津子先生をしのぶ会」の打ち合わせのために、所員全員(三人ですが)新幹線に飛び乗って、一路東京へ。ところがこの日は新大阪ですでに雪が舞い、新幹線は五分遅れ。京都を過ぎる頃には車窓から見えるのは一面の銀世界。この列車東京につくのやろかと心配していたところ、豊橋を出たあたりから雪もやみ、東京にきてみれば、雪の片鱗もなし。
飯田橋の「北海道」で四人の人に会いました。元アリス館編集長の後路さん、鈴木出版の波賀さん、チャイルド本社の植村さん、公文出版の長谷さん。第2回のメイン企画は、高山先生が親しくしていた出版社の編集の方々に集まっていただいて、「児童書の出版社にとって高山智津子はどういう存在だったか」というテーマで語り合ってもらおうというものです。企画の趣旨を説明し、四人の方に引き受けてもらうことになり、この場でも高山先生の思い出のあれこれを話してもらいました。五時間にも及ぶ長時間の会議で、この企画はきっと成功するぞ、と確信を持つことが出来ました。(まあ、五時間のうちには、自分のうちの猫自慢、ウーパールーパー自慢など脱線も多々ありましたが、それはさておき)後路さんからは、高山先生が「ゆうちゃんシリーズ」を作るときに船長としてどのようにふるまったかを語りたいとの提案もあり、それは即決で第3回以降の企画として採用させていただきました。
この打ち合わせの中でも、高山先生は、本と読者をつなぐ仕事だけでなく、人と人とをつなぐ仕事をされてこられたのだなあと改めて実感しました。
1月某日
年末に家のパソコンを買い換えた。五年も使って、だいぶ動作が遅くなっていたので、思い切って新しいのに切り替えようと思ったのだ。問題はこの研究所のホームページだ。うまく引っ越せるかなと、恐る恐る旧「ソニー・バイオ」から新「東芝・ダイナブック」へ必要なファイルを移動させようとした。結果、なんか違う。よくわからんけど、どこかがちょっとおかしい。小西さんの本の表紙をスキャンして、トップページに転送しようとしたら、なかなかうまくいかない。あれこれさわっているうちに、なくなってしまったページもでてきた。ぎゃあ、どうしようとあせったが、そうや古いバイオにはまだ情報がのこっているはずと気がつく。そこで、バイオから転送して壊れかけたホームページを修復した。そんなわけで、1月にホームページを見てくれた人の中には、あれうまく表示できないぞ、と思った人がいるはずだ。それはあなたのパソコンのせいではありません。みんな、僕が悪いのです。
1月12日(土) 所員会議でふぐを食べる
小西さんの家で新年会を兼ねて所員会議をする。小西さんの新しい本ができあがっていた。(トップページに写真を載せています)約一時間研究所の歩みについて二人にインタビューする。そのあと、小西さんの手作りの料理の数々をご馳走になる。最後に「河豚の白子の塩漬け・ぬか漬け」のお茶漬けを食べる。三年漬け込んだものだときかされても、ちょっとびびった。笑いながら食べていた徳永さんが、「なんか口のあたりがちょっとしびれてきたような気がする」などというものだから、よけい心配になった。
2007年
4月14日(土) 絵本講座「赤ちゃんは絵本の何を喜ぶか」
徳永満里さんが講演。園児のビデオがとてもかわいくて、参加者から何度も歓声があがりました。
5月某日 メッセージ集の原稿をつくる
G・W(ゴールデンウィーク)中に、メッセージ集の印刷をする予定だったが、原稿の打ち込みがなかなか終わらない。打ち込みを引き継いでみて、前任者の苦労のほどがしのばれる。読めない字が多すぎる。上手な字、達筆ほど、素人には判読が難しい。(みなさん、できれば楷書で書いて下さいね。)なんとか名前だけは、読み取ろうとするが、……ネットで名前の一覧を探して、名前を推定したり、団体名がある場合はそこのホームページを訪ねていって、該当しそうな人を探したり、もう半分「探偵」みたいなものでした。
5月19日(土) 所員会議
しのぶ会の計画を詰める。参加申し込みが締め切りの段階で88人だったので、なんとか100人にしたいね、と話し合う。当日参加もあるはずだから、大丈夫ということで話を進める。
5月12日(土) メッセージ集を印刷、製本する
なんとか原稿が出来上がったので、印刷をする。これまで何度も印刷してきたので、中質紙の両面刷りはお手のもの、44ページを二時間ほどで完了。
なじみの辰巳印刷に製本を頼む。表紙の色は高山先生が好きだった紫(藤色)にした。紙代・表紙印刷代・製本代をあわせて一万円程度。会計担当の小西さんに喜んでもらいました。(全部印刷屋さんに頼んで30万円ほどかかるだろうと小西さんは覚悟していたらしいけど、打ち込みから印刷まで自分達でやれば、まあこんなくらいでできます。)
6月某日 岩立氏より講演カセットを借りる
岩立哲治氏より、高山先生の講演カセットテープ「子供の背中が語るとき 親と子のひびきあい 1998年6月20日」を送っていただき、ダビングさせてもらう。
6月27日(水) 所員会議
しのぶ会の反省会をする。話しているうちに来年の第2回の構想がどんどん膨らんできて、「こどもの本の出版業界にとって、高山智津子とはどのような存在であったか」というテーマで編集者の方に座談会(あるいはパネルディスカッション)を行なってもらおうという企画が生まれました。その打ち合わせに12月頃には所員全員(といっても3人だけど)東京に出張することにしました。
6月某日 しのぶ会の記録をDVDにする
高山先生をしのぶ会の記録ビデオを、東京の業者に頼み、DVD化した。当日話してくださった方に差し上げる予定で15枚作る。DVDのタイトルは自分で印刷することにし、山田電器にタイトルプリンターを買いに行く。
7月某日 竹内氏より講演カセットの寄贈
竹内加代子さんから高山先生の講演カセットテープ4本(うち2本分①③はテープ起し原稿付き)の寄贈を受けました。
①幼児教育講座「子供と絵本の楽しい出合い」1989年(平成元年)1月25日
②高砂公民館にて講演 1989年(平成元年)2月26日
③幼児教育講座「子供の心と絵本」 1992年(平成3年)3月6日
④読書シンポジウム 1992年(平成3年)9月23日
7月19日(木) DVDタイトル印刷成功
しのぶ会の記録DVDのタイトル印刷に成功した。プリンターを買ってから何度も試行錯誤を続け、毎回ちょっとずつ作業して、四日から五日かかったことになるけれど、まあやればできる。また一つパソコンを使ってできることが増えた。
7月21日(土) 酒心館で所員会議
吉住さんも誘って、灘の酒心館で所員会議を行なう。ここは高山先生お気に入りの店。名簿の整理をするのが目的だったが、料理がうまく、酒がすすみ、なんとなくお互いの慰労会の雰囲気もあり、高山先生の思い出話に花が咲いた。
7月某日 研究所所蔵の講演ビデオをすべてDVDに
ビデオDVD一体型の機械がうちの学校にもあったことを思い出す。説明書を取り出して、確かめてみると、DVDにダビングできる。これを使って現在手元にあるビデオはすべてDVDにしました。
便利なので、自分でも東芝のビデオDVD一体型レコーダー2万8千円を購入。もうこれで、大丈夫。講演ビデオをお持ちの方は研究所に貸して下さい。DVDに変換して保存します。(提供してくださった方にも1部DVDを差し上げます。ビデオテープは劣化が早いです。)
8月某日 ホームページビルダー11を買う
研究所が新しく発足してからずっと考えていたホームページの作成をついに決意し、ホームページビルダー11を買う。本当に一人でできるんだろうか。
8月26日 研究所発足の話をきく
小西さんの自宅で、徳永さんと小西さんに、日和佐・絵本と文学研究所のことについてインタビューをする。そもそも高山先生とどのように知り合ったかから始めて、尼崎のピッコロシアターで公演した「紙の花」、アルカイックホールで実施した「野田淳子コンサート」、日和佐移住の顛末など、一時間半でやっと研究所設立にたどりついたというありさまで、とても一回では無理ということがわかり、日を改めて研究所ができてからの活動について話をきくことにした。
9月4日 ホームページ完成
試行錯誤の末、長く苦しい道を、一人でとぼとぼと歩き続け、やっとホームページが完成した。人間、やればできる。
しかし、アドレスを打ち込んだけど、ホームページが見つからないという苦情が、徳永さんからくるし、大槻さんからも手紙でくるし、もうどうしたらいいんだろうとあせる。それに、自分のパソコンでもアドレスを打ち込めば見つかるけれど、「検索」しても出てこない。いちおう、グーグルにもホームページの登録したんだけど。何故なんだ。審査に時間がかかってるのかな。
グーグル活用術という本を見ているうちに、リンクを張ってないホームページは検索にかからないらしいということがわかった。リンクなんか考えてもいなかったんだ。
リンクを頼めるところはないかと考えて、「日本児童文学学会」に会員のホームページが紹介してあったことを思い出す。一応、研究所所員はみんな会員だから、頼んでみることにした。するとメールを送った翌日にはもう紹介されていて、大感激。事務局の川勝泰介さん(京都女子大)からメールも届いて、大学院生の頃に、まだ小学校に勤めていた高山先生に会ったことがあるとのことだった。
10月10日 ホームページが検索でヒットするようになった
何が功を奏したのかよくわからんが、検索でヒットするようになった。やった!これでネット社会で認知されたぞ。ですから、みなさんこれからは、ややこしいアドレスをうちこまなくても、「高山智津子・文学と絵本研究所」を検索するだけで、ホームページにたどり着けます。まわりの人に教えてあげてください。
10月13日 秋の文学講座をやりました。
詳しい報告は「講座」のページを見てください。みんながよく笑ってくれたので(ときどきは涙ぐんでたようにも思うが、これは未確認)、報告者としては大変やりがいがありました。終わってからの所員会議はたこ焼きをつまみながら、次はあれをやろう、こんな企画もと、盛り上がりました。
10月28日 九州からDVDの注文が来る
「九州から高山先生の講演のDVDがほしい」という電話があったんよという報告が小西さんからありました。今まで研究所と何のつながりもない方だったのに、HPを見て注文してくれたようです。HPの力が少しずつ発揮されているのかな。「おさなご保育園」もHPを作ったようです。業者に発注したそうですが、この研究所のHPは所員の手作りです。画面がうごくわけじゃないし、レイアウトもバラバラだし、まあ確かにミバは悪いかもしれませんが、心がこもっていると思いませんか、みなさん。なにしろ、出勤したら職場のパソコンで見て、帰ってきたら家のパソコンで見て、と毎日二回はHPに異常がないか確認しているのですから。
10月31日 「ひょうたん池の子ら」から転載
活字認識機能の「本格読取2」というソフトを購入。ついにOCR(紙の原稿を読み取ってWordなどに変更)に挑戦。やってみたのが、「発見」のページ。
高山先生の幻の文集「ひょうたん池の子ら」から子どもたちの文集を一つ転載しました。高山先生が再婚するときのお祝いの文章ですが、小学校の教師としての先生の姿が活写されています。ぜひご一読ください。
12月8日 研究所の歩みを振り返る
久しぶりに所員会議。これまでの研究所の資料を整理。HPの「研究所の歩み」を全面改定する。高山先生が雑誌などに連載していた記事の整理にも取り掛かる。
研究所ができるまで
・徳永満理、「ハイジの旅」に参加。高山智津子と知り合う。
・徳永満理、小西律子、兵庫文学教育の会に参加するようになる。
・高山智津子、『紙の花』(ピッコロシアター)、『野田淳子コンサート』(アルカイックホール)の
公演に奔走。
徳永・小西、協力し、二つの公演を成功させる。
・兵庫文学教育の会、定期的な活動を終了。高山智津子、徳島県日和佐に移住。
・日和佐絵本の学校開催。
・徳永・小西、日和佐櫛が谷に別荘を建設するために、何度も日和佐に足を運ぶ。
・高山智津子より研究所の設立の相談を受ける。
1994年
日和佐・文学と絵本研究所を設立。所長高山智津子、所員徳永満理、小西律子の三人だ:けの小さな研究所がスタートした。
1995年
日和佐・文学と絵本研究所オープン記念講座
「作品と読者が出会うとき…テクストのレトリック性と読みの倫理性…」を五回連続でひらく。
(講師藤本英二、会場・日和佐櫛ケ谷荘)
1月28日 ①北極王VSじゃりン子チエ
2月18日 ②隠れん坊、少年倶楽部、「りぼん」の付録
3月 4日 ③高校生、ベストセラーを読む
3月25日 ④「伊豆の踊子」とは、一体どういう話だったのか
4月 8日 ⑤「読む」という行為をどうとらえるか
日和佐櫛ケ谷荘にて
8月 「日和佐・文学と絵本研究所紀要Ⅰ 作品と読者が出会うとき」を発行。
第2回公開講座を五回連続でひらく。
95年12月9日
①小説をみんなで読む
大江健三郎の初期の作品「不意の唖」 藤本英二
96年1月20日
②宮沢賢治の求道の意義と限界を考える
「本統のさいはひ」「虔十公園林」 中嶋信(徳島大学・経済)
96年2月17日
③ドロシー・バトラー「クシュラの奇跡」から学ぶ
子どもの発達を促す絵本の役割 高山智津子
96年3月2日
④乳幼児の発達とことばの萌芽
赤ちゃんの好きな絵本について考える 徳永満理
96年3月3日
⑤離乳食の作り方、食べさせるときのことばのかけ方
絵本に出てくるお料理作ろう 小西律子
1996年
5月 アリス館より「ばいばいまたね」(とくながまり・みやざわはるこ)が
出版される。企画協力高山智津子・小西律子。
このシリーズは、アリス館の編集長後路好章氏、
画家宮沢晴子と、研究所の協議によって生み出されていった。
9月頃 「ばいばいまたね」出版祝賀会(アルカイックホテル)
1997年
1998年
5月9日 公開講座IN尼崎 (武庫之荘・トレピエ)
「多喜二の青春と文学」 山口哲臣
9月12日 絵本の学校・移動講座IN尼崎
・「あかちゃんと絵本」 徳永満理
・絵本の絵を描くときのデッサンとデフォルメ 宮沢晴子
・絵本づくりのシークレット 後路好章
1999年
1月30日 第5回公開講座 「詩から聞こえてくる声」 藤本英二
5月29日 公開講座IN尼崎 「グリム童話について」 山口哲臣
9月11日 公開講座IN尼崎 「事件と文学の関係」 藤本英二
「詩から聞こえてくる声」(夜) 藤本英二
11月 ゆうちゃんシリーズの9冊目「いらっしゃいいらっしゃい」が出版され、
シリーズは完結する
2000年
5月27日 絵本「ゆうちゃんシリーズ9巻」完結お祝いの会
21世紀を見てかわいく輝く瞳
酒心館明蔵ホール
第一部 完成お祝いの会コンサート
「歌の絵本ゆうちゃん」(作曲金井徹・全10曲の組曲)
第二部 祝賀パーティー
9月9日 公開講座IN尼崎 後藤竜二
・講演 「1ねん1くみ」のくろさわくんと
「ひみつのちかみちおしえます」のゴンちゃんについて、
他
・特別講座 「児童文学創作について
21世紀に生きる子どもたちへ伝えたいこと」
2001年
9月8日 公開講座IN尼崎 鳥越信
「日本の絵本の歴史」
2002年
9月7日 公開講座IN尼崎 松本則子(人形劇団クラルテ代表)
「人形劇は絵本じゃない!
ー「大きなかぶ」を劇にしてみればー」
2003年
9月13日 公開講座IN尼崎 藤本英二
「物語の再創造
-「たそがれ清兵衛」、「本格小説」ー」
2004年
5月15日 「すべての子どもに絵本の読み聞かせを
日和佐文学と絵本研究所10周年記念
高山智津子講演4000回記念祝賀会 」
(尼崎総合文化センター)
9月18日~19日 公開講座(日和佐・ホテル「白い灯台」)
Ⅰ 絵本講座 「1冊の絵本ができるまで」 かさいまり
Ⅱ 哲学講座 「自分の生き方を考える」 中田進(関西勤労者教育協会)
Ⅲ 絵本史講座「はじめて学ぶ日本の絵本史」を読む 高山智津子
2005年
2006年
公開講座「あかちゃん絵本を創りましょう」 (おさなご保育園プレイルーム)
4月15日 Ⅰ「あかちゃんはどんな絵本をよろこぶか?
発達・ことば(オノマトペについて)・心情」 徳永満理
5月13日 Ⅱ「絵本論・あかちゃん絵本を考える
優れた絵本とは?実作・創作のすすめ」 高山智津子
6月30日 Ⅲ「創作絵本合評交流会
あかちゃん絵本編集者よりアドバイス」 後路好章
6月11日 高山智津子死去。
7月 1日 「ありがとう高山智津子先生」の会
(尼崎・塚口・ライクスホール)
8月22日 研究所の今後について、徳永、小西、藤本が相談。
「高山智津子・文学と絵本研究所」と名前を改める。
所長は徳永満理、所員は小西律子、藤本英二の
小さな研究所が再スタート。
10月21日 文学講座 (おさなご保育園プレイルーム)
「文学は夢をどう描いてきたか」 藤本英二
2007年
4月14日 絵本講座 (おさなご保育園プレイルーム)
「あかちゃんは絵本の何をよろこぶか」 徳永満理
6月16日 第一回「高山智津子先生をしのぶ会」
(尼崎・塚口・ライクスホール)
10月13日 文学講座 (おさなご保育園プレイルーム)
「児童文学の可能性
かいけつゾロリから精霊の守人まで」 藤本英二
2008年
4月12日(土) 絵本講座 (尼崎女性センター トレピエ)
「子どもの本の本屋さんが語る絵本の世界」
講師 前園敦子氏(子どもの本エルマーの店主)
6月14日(土) 第二回「高山智津子先生をしのぶ会」
(尼崎女性センター トレピエ 大ホール)
☆「子どもの本の出版社にとっての高山智津子」
10月18日(土) 文学講座 (おさなご保育園プレイルーム)
「児童文学の可能性パート2
オール・アバウト・マイ・梨木香歩」藤本英二
2009年
4月18日(土) 絵本講座 (おさなご保育園プレイルーム)
「赤ちゃんにどんな絵本を読もうかなー保育の中の絵本の役割ー」 徳永満理
6月13日(土) 第三回「高山智津子先生をしのぶ会」
(尼崎女性センタートレピエ) 45名
☆「企画者、編集者としての高山先生」石田昭子
11月21日(土) 文学講座 (尼崎、立花公民館)
「児童文学の魅力」 鳥越信 24名
2010年
4月17日(土) 絵本講座 (尼崎女性センタートレピエ)
「絵本づくりの舞台裏」 植村和久 24名
6月19日(土) 第四回「高山智津子先生をしのぶ会」
(尼崎、ライクスホール)
☆「高山先生を語る」 宮西達也
2011年
6月18日(土) 第五回「高山智津子先生をしのぶ会」
(神戸、酒心館ホール)
☆しのぶ会ファイナル
2012年
10月13日(土) 絵本講座(尼崎、ライクスホール)
「わんぱくだんがやってくるーファンタジーの効用ー」 上野与志(植村和久)
発行年/書名/出版社/単著・共著等
・1977/ひょうたん池の子ら/ファースト出版/自費出版
・1982/女教師 愛ひとすじに/あゆみ出版/単著
・1985/この本に夢中 知性が育つ子どもの本のカタログ/神戸新聞総合出版センター/編著
・1986/子どもの内に潜むもの 親と子の響きあい/清風堂書店/単著
・1988/もの心つくまでに 親と子の響きあいpart2/清風堂書店/単著
・1988/あなにやし愛のうた 万葉相聞歌と「12年の手紙」に思う/清風堂書店/単著
・1989/「ハイジ」100年の旅/清風堂書店/単著
・1991/赤毛のアンと大草原のローラ 女教師・子どもの世界の響きあい/清風堂書店/単著
・1992/読みきかせで育つもの/神戸新聞総合出版センター/編著
・1993/絵本で遊ぼう 障害のある子どもたちと/あゆみ出版/石川百合子との共著
・1993/絵本で育てあかちゃんとお母さんと 0才児が喜んだ本/清風堂書店/徳永満理との共著
・1993/絵本でおぼえたおしゃべりいっぱい 1才児が喜んだ本/清風堂書店/徳永満理との共著
・1994/絵本でみつけたともだちと遊び 2才児が喜んだ本/清風堂書店/徳永満理との共著
・1994/絵本といっしょにひろがる世界 3才児が喜んだ本/清風堂書店/篠原秀子との共著
・1994 絵本でひろがる豊かなイメージ 4才児が喜んだ本/清風堂書店/坂本美き子との共著
・1994/この本だいすき1年生 1年生が喜んだ本/清風堂書店/幾本幸代との共著
・1994/本もともだち2年生 2年生が喜んだ本/清風堂書店/石川百合子との共著
・1994/あしたも読んでや3年生 3年生が喜んだ本/清風堂書店/小原弘子との共著
・1994/読みたい知りたい4年生 4年生が喜んだ本/清風堂書店/万本光恵との共著
・1995/個性で楽しむ読書の世界5年生 5年生が喜んだ本/清風堂書店/金谷洋子との共著
・1995/読書でみがく知性と感性6年生 6年生が喜んだ本/清風堂書店/樽見厚子との共著
・1994/まないたとんとん 絵本にでてくるお料理つくろ/清風堂書店/小西律子との共著
・1994/たばかぜの中を 読書で出会ったもう一つの人生/かもがわ出版/単著
1996
絵本で育つイメージの世界
豊かな表現をうながす絵本50選
清風堂書店
単著
1998
子どもの背中が語るとき
思春期の子育て峠
清風堂書店
単著
2000
読みきかせで育つ生きる力
フォーラム・A
水野小夜子との共著
2001
劇あそびがうまれる
読みきかせバリエーション
フォーラム・A
徳永満理との共著
2003
絵本でふくらむ子どもの心
アリス館
単著
2004
絵本でひろがる子どものえがお
発達にそった年齢別読み聞かせ
チャイルド社
徳永満理との共著
2004
小学生が夢中になる本
読み聞かせから読書へ
フォーラム・A
単著
2005
×のついたカレンダー
母として教師として
ルック
単著
(女教師愛ひとすじ改訂版)
高山智津子先生の歩み(年譜)
一九三〇年(昭和五年)十月十八日、大阪に生まれる。カトリックの家に育つ。父は徳之島に生まれ、外国航路の貨物船の罐焚きとなり、外国へ行く。母は三代続いたカトリックに育てられる。
一九四二年(昭和十七年)頃 大阪市塚本から西宮池田町に転居。浜脇尋常高等小学校高等科に入学。後年、「オフィスT・Y」を立ち上げることになる吉住育子氏と出会う。
一九四五年(昭和二〇年)四月、明石にある兵庫師範学校(神戸大学教育学部の前身)予科一年に入学。七月七日、明石大空襲を体験する。八月十五日、集団疎開に出発、以後四カ月を美嚢郡那珂吉川村で過ごす。
一九四七年(昭和二二年) 春、丹波篠山で、予科三年生として男女共学の教育を受ける。
一九四八年(昭和二三年) 明石へ戻り、本科一年生となる。予科生の時は出ていた奨学金が本科生では打ち切られ、諸費未納者として名前が貼り出される。金持ちの家のおなごっさん(家事手伝い)、イカナゴ売り、学用品売り、銀行独身寮の皿洗いなどのアルバイトをする。父は失業中。退学を決意する。九月尼崎市役所を訪れ、教師になりたいと告げると、立花小学校を紹介される。(この当時深刻な教員不足で、教員の半分は役所が、後半分は校長が探さなければという風であった。)即日、四年三組の担任となる。関先生に出会う。尼崎市の短歌教室に通う。
映画サークルの活動を知り、立花小学校にもサークルを作る。
一九四九年(昭和二四年) 秋、教員免許を取るために、この年春に開設されたばかり大学の通信教育を受講する。(のち夏休みを利用して東京で四十日間のスクーリングを受ける。ここで知り合った石井氏と結婚することになる。)
一九五三年(昭和二八年) 春、石井氏(二八歳)と結婚する。
一九五四年(昭和二九年) 姫路市立糸引小学校に勤務。
一九五六年(昭和三一年) 八月二日、長男(一雄)を出産。十月、兵庫県第一回母親大会に参加。姫路教職員組合の婦人部副部長となる。矢部茂太氏の短歌サークルに参加する。
一九六一年(昭和三六年) 離婚を決意し、長男と二人尼崎へ戻る。
一九六二年(昭和三七年) 五月、尼崎市立金楽寺小学校に転勤。新日本婦人の会尼崎支部教職員班(あかね班)に入る。
一九六四年(昭和三九年) 関六郎校長が金楽寺小学校に赴任。尼崎教職員組合婦人部長になる。第八回兵庫県母親大会(尼崎)のために労働組合を訪問しオルグをする。
一九六六年(昭和四一年) 春、大阪の労演(労働者演劇協議会)の会場で、十八年ぶりに高山藤三氏(尼崎映画サークルの事務所で出会っていた)と再会、歌集を送る。初めて教育実習生を担当する。担当教官は神戸大学教育学部の斉藤浩志氏(のち兵民教会長)であった。また初めてストライキ(一〇・二一スト)に参加。その時の興奮を高山氏に電話する。十一月三日、高山氏より結婚の申し込みを受け、再婚する。高山藤三氏は当時高見診療所に勤務。地域の集会所の二階で祝賀会が開かれ、多くの人々がお祝いに駆けつける。
一九六七年(昭和四二年) 次男(智二)を出産。
一九六八年(昭和四三年) 老人性痴呆症失語症の母を引き取る。のち奈良の病院に入院。
一九六九年(昭和四四年) 五月、算数サークルの合同合宿研究会(芦屋)に参加。また、あかね班の学習会で岸本裕史氏(のち兵民教の副会長)から教育と政治の話を聞く。地域母親集会(金楽寺校区)を開く。
一九七一年(昭和四六年) 八月、日本文学教育連盟の第十四回全国集会(静岡・三保)に初めて参加する。岩井幹明氏の「あるハンノ木の話」の授業実践や小松崎進氏の読みきかせ実践に深い感銘を受ける。閉会集会で感想を述べ、兵庫県からの参加者に呼びかけ、神戸の井上恵美子氏らと文学教育のサークル、兵庫文学教育の会を結成する。尼崎産業郷土会館で毎月サークル例会を二十年以上にわたって主宰する。
一九七三年(昭和四八年) 八月、兵民教合同研究集会で「あるハンノ木の話」の実践報告をする。当時大学生であった藤本らと出会う。
一九七五年(昭和五〇年) 八月、日本文学教育連盟の第十八回全国集会を神戸で開催する。
一九七六年(昭和五一年) 八月、日本文学教育連盟の第十九回全国集会(岐阜・高山)の全体会で「現場からの報告・文学教育で、創造性ゆたかな子どもをどう育てたか」を発表する。
一九七七年(昭和五二年) 体力の衰えを感じ退職を考えるが、若い先生たちに説得され、思いとどまる。尼崎市立城内小学校に転勤。十五年間勤めた金楽寺小学校の思い出を綴った『ひょうたん池の子ら』を自費出版する。
※貧しい生活を余儀なくされている子どもたちのために奮闘する。心身ともに疲労困憊。
※世界絵本展を見るために、イタリア・ボローニャへ。
※胆嚢炎のために二度入院、手術。小学校教師として働くには、体力の限界を感じる。
一九八一年(昭和五六年) 三月、三十二年七ヶ月の小学校の教師生活を終え、定年を待たずして退職する。香里ケ丘看護専門学校の講師となる。児童文学作家の勝尾金弥氏の講義を聴きたくて、愛知県立大学児童教育学科聴講生となる。さらに、勝尾氏の紹介で、心理学の横山明氏、児童教育学の宍戸氏、西洋哲学史の高浜誌の講義を受講し、金曜日四コマを埋め、週一日だけの大学生となる。新日本婦人の会兵庫県本部の子育て相談室室長となる。
一九八二年(昭和五七年) 神戸大学教育学部土屋基規研究室の研究生となる(?)。半生を綴った『女教師愛ひとすじに』(あゆみ出版/上巻七月、下巻十月)を出版。
一九八五年(昭和六〇年) 三月、サークルでの読みきかせ実践をまとめた、高山智津子編著『この本に夢中 知性が育つ子どもの本のカタログ』(神戸新聞出版センター)を出版。八月、日本子どもの本研究会のツアー『ニュージーランド児童文学の旅』に参加し、『クシュラの奇跡』の著者ドロシー・バトラー氏に会う。この旅には宮川ひろ氏も参加していた。
一九八六年(昭和六一年) 二月、『子どもの内に潜むもの 親と子の響きあい』(清風堂書店出版部)を出版。この本の著者紹介によれば、当時香里ケ丘看護専門学校、大阪保育・学童保育専門学院(八五年開設)の非常勤講師をしていた。また、児童文学創作研究会(森はな学校)世話人。「青木教室」の子どもの本専門コースの講師をつとめる。
一九八七年(昭和六二年) 鳥越信氏らが始めた「科学としての児童文学研究会」に参加する。
一九八八年(昭和六三年) 四月、『もの心つくまでに 親と子の響きあい PART-2』(清風堂書店出版部)を出版。夏、清風堂が企画したアンデルセンとハイジを訪ねるヨーロッパ旅行に参加。四六人のツアーで、徳永満理もこれに参加、知り合いになる。十一月、『あなにやし愛のうた 万葉相聞歌と「12年の手紙」に想う』(清風堂書店)を出版。
一九八九年(平成元年) 四月、『「ハイジ」一〇〇年の旅』(清風堂)を出版。
一九九〇年(平成二年) 梅花女子大学三宅興子先生の児童文学の講義を受講する。六月、前年になくなられた森はな先生を偲ぶ会代表として『いとおしむ 森はな追悼文集』を刊行。八月二十日より、清風堂が企画した「一九九〇夏休み高山先生と行くアメリカ・カナダの旅『大草原の小さな家』『赤毛のアン』とカナディアンロッキー十一日」に出かける。四十数人の参加。
一九九一年(平成三年) 九月、『赤毛のアンと大草原のローラ 女教師・子どもの世界の響きあい』(清風堂書店)を出版。
一九九二年(平成四年) 七月、高山智津子編著『読みきかせで育つもの』(神戸新聞総合出版センター)を出版。これは兵庫文学教育の会の読みきかせ実践の集大成となった本であり、徳永満理、小西律子らおさなご保育園のメンバーも執筆している。夫藤三氏の病状が重くなり、転地療養のため、徳島県日和佐に転居を決意する。兵庫文学教育の会の月例会を閉じる。それまで勤めていた専門学校も辞める。兵庫子どもと絵本の会を結成し、赤ちゃん絵本の研究を始める。
一九九三年(平成五年) 五月、『絵本であそぼう ―障害のあるこどもたちとー』(石川百合子との共著/あゆみ出版)を出版。また清風堂書店より、読みきかせ入門シリーズとして十二巻のブックレットの出版を開始する。(一九九五年完結)
一九九四年(平成六年) おさなご保育園の徳永満理、小西律子の二人を誘い、日和佐・文学と絵本研究所を開設、所長となる。全国での講演回数が三〇〇〇回を突破し、東京、福岡で祝賀会が開かれる。九月、『たばかぜの中をー読書で出会ったもう一つの人生』(かもがわ出版)を出版。九月、講演三〇〇〇回記念カセット絵本と子育てシリーズ(全四巻/サム・コーポレーション)の刊行開始。
一九九五年(平成七年) 阪神大震災。研究所開設を記念しての五回連続講座を日和佐櫛ケ谷荘(徳永、小西の別荘)で開く。また阪急六甲に事務所オフィスT・Yを吉住育子氏と立ち上げる。(Tは高山、Yは吉住の頭文字)
一九九六年(平成八年) 四月、夫高山藤三氏死去。五月、徳永満理/宮沢晴子のあかちゃん絵本ゆうちゃんシリーズ(アリス館)の第一巻『ばいばいまたね』を出版。この本には、企画協力として高山智津子、小西律子の名があげられている。後路好章編集長を含めて、五人で協議を重ね、全九巻のシリーズに成長した(一九九九年十一月完結)。七月、『絵本で育つイメージの世界 豊かな表現をうながす絵本50選』(清風堂書店)を出版。この年からサムディ・スクール事務局長となる。
一九九七年(平成九年) 大阪総合福祉専門学校講師となる。
一九九八年(平成十年) 『子どもの背中が語るとき 思春期の子育て峠』(清風堂書店)を出版。
二〇〇〇年(平成十二年) この頃、聖和大学で鳥越信氏の聴講生となる。五月二七日、絵本ゆうちゃんシリーズ完結お祝いの会を神戸の酒心館で開催する。八月、『読みきかせで育つ生きる力』(水野小夜子との共著/フォーラムA)を出版。
※変形性膝関節症で入院、手術をする
二〇〇一年(平成十三年) 六月、『劇あそびが生まれる 読みきかせバリエーション』(徳永満理/フォーラム・A)を出版。
二〇〇三年(平成十五年) 十一月、講演四〇〇〇回を突破する。十二月、『絵本でふくらむ子どもの心』(アリス館)を出版。
二〇〇四年(平成十六年) 鳥越信氏の私塾「鳥越塾」に参加する。二月、徳永満理とビデオ『絵本・読み聞かせ 今からはじめましょう』全三巻(チャイルド本社)を発売。六月、『絵本でひろがる子どものえがお 発達にそった年齢別読み聞かせ』(徳永満理との共著/チャイルド社)を出版。
二〇〇四年(平成十六年) 『小学生が夢中になる本 読み聞かせから読書へ』(ファーラム・A)を出版。
二〇〇五年(平成十七年) 日和佐・文学と絵本研究所設立十周年、講演四〇〇〇回突破を記念して、尼崎塚口のライクスホールで祝賀会を開く。『×のついたカレンダー 母として教師として』(ルック)を出版。これは『女教師愛ひとすじに』の改定版であり、かなり削られている。高山先生の最後の著書となった。
二〇〇六年(平成十八年) 六月十一日、永眠。
Ⅷ てるおかいつこさんが高山先生を引用していた
暉峻淑子『サンタクロースを探し求めて』(岩波書店、2003)に高山先生の文章が引用されていました
「第3 章サンタクロースの本を書く」 の「子ども達はどのように読んでくれたか」という節です。
私はこの本を書き終わったときに、私の魂もこの本のなかに置いてきたような気分になり、
もう、この一冊以外は、子どもの本をかくことはしない、と、心に誓った。この本が出版さ
れてからもう二〇年になる。 一一月頃から書店に並ぶこの本を見ると、なつかしくはあるが、
自分が書いた本だという気がしない。
そして、クリスマス近くなると、どこかの放送局で、この本が朗読される。朗読する人は
女性だったり、男性だったりするが、その言葉は、朗読している人の言葉ではないかと思え
るほど、その人のものになっている。サンタクロースは一人旅をつづけて、それぞれの人の
サンタクロースになっているのだろう。
ところがあるとき、私はぐうぜんに、 この本を子ども達に読み聞かせている、小学校の先
生のエッセイをみた(『子どもと読書』岩崎書店、 一九八三年一二月号)。
その著者、高山智津子先生は、小学校の先生で兵庫文学教育友の会に所属している人だと
紹介されている(のちに、日和佐「文学と絵本」研究所所長)。子ども達にずっと本の読み聞かせをしつづけてきて、読む時も、子どもに決して強制せず、聞きたい子だけがきく、という自由を大事にしてこられた。本を読めばどういう効果がある、とか、教育上どうだとかいう議
論ぬきに、ただただ本は楽しいから読む、という立場をつらぬいてきた先生のようだ。しか
し、先生のクラスは、他のクラスにくらべて、子ども達が攻撃的でなく、豊かな情緒にみた
されている、と、ある教師が書いている。
先生の書いた文章の一部を紹介しよう。
《小学校の三年生ごろまで、サンタクロースの存在を信じている子がいます。 一年生でも
幼児でも「サンタクロースなんか、いてへんでぇ―。おとうさんやおかあさんにきまって
る!」と言う子もいます。でもこどもたちは、「サンタクロースってほんとにいるの?」と、
一度ならず問いかけた経験をもっています。『サンタクロースってほんとにいるの?』書名
を読んだだけで「ほんまや、ほんとにいるか?」「そら、いてるで」「おらへん、おらへん」
わいわいがやがやと、いいはじめます。はじめのページに大きく?マークがでているので、
まずおどろいています。「ウワー」「いてるで―」「いてへん」。
「えんとつがなくてもくるの?」
「そやそや、えんとつない家はいかれへん」「へいきさ」「ほらみてみい」……
「こないうちもあるのはなぜ?」
「そや、そや、けえへんとこもある」「けえへんときもあった」
「びょうきのこのそばで、あさまではなしこんでしまって、まわりきれなくなったのかな
あ」
私はこのベージがとくに好きです。私ならどう答えただろう、と思うからです。私の息子
がもしこんなことをたずねたら、私はきっとこう言ったでしょう。
「その子一年間悪いことばっかりしていたからでしょう」と。……
「ねえ、ほんとにいるの」
「いるよ。サンタクロースはね、こどもをよろこばせるのが、なによりのたのしみなのさ。
だって、こどもがしあわせなときは、みんながしあわせなときだもの」
この文を私は、いろいろな思いで読むのです。わが子がつらいことがあると悩んでいると、
私の胸も痛む。わが息子が受験に苦しんでいると、私も苦しむ。しかし、子どもが悩みから
脱したときの笑顔、息子が苦しみをのりこえたときの晴れやかな顔に、しあわせを感じるの
です。
そんなプライベートなことだけではないでしょう。作者は、もっともっと大きいしあわせ、
戦争のない平和なとき、それが子どものしあわせ、だと言いたいのでしょう》
高山先生の文章のなかから、私は、読みきかせをきいている子どもたちのいきいきとした
表情や姿が見えてくる。そして、そんなとき、しみじみと本を書いた幸せを感じるのだ。
てるおかいつこさんは『サンタクロースってほんとにいるの』という絵本の作者ですが、絵本はこの一冊だけ。生活経済学が専門の学者さんです。高山先生はあちこちの講演で。この絵本を話題にしていたら、或る日、てるおかさんから手紙が来たそうです。僕はそのことを、高山先生の講演ビデオ(岩城さん提供)で知りました。
発見日 2014年12月4日
Ⅶ 『第15回ボローニヤ国際絵本展視察報告/
ボローニヤ公立学校参観印象記』
高山先生が初めて外国旅行にでかけたのは、一九七八年。長年勤めた金楽寺小学校から城内小学校に移ったのが七七年四月です。
旅行のあとに自費出版の形でまとめたのが、この『第15回ボローニヤ国際絵本展視察報告/ボローニヤ公立学校参観印象記』(一九七八年五月五日発行)です。これが僕の書庫から見つかりました。全部で五四ページもあるので、「はじめに」の部分だけ引用します。
①視察を決めるまでのためらい
食べ物のことが一番心配、ご飯のない生活を送る事など考えられない。
新学期の心の準備ができない。春休みは子どものことで心配なことばかり。春斗、任命制主任の手当支給の大詰め、サークルの春の合宿、四月例会、夏の集会の準備、そして、家族のこと、自分の健康の心配。費用の心配等、数えあげればキリがない。
何よりも、日本の絵本を知らずに国際絵本展を視察して、何が解ろうと言う不安です。
それよりも、外国語が全然出来ないのに外国へ行くことの冒険等々、行くことを決心するまでの逡巡は堂々廻りをするばかり。
②すべてをふり切って
日本子どもの本研究会事務局長代田昇氏の「日本の絵本研究のために、ぜひに」と言う強いすすめ。
家族の積極的同意と、私自身の内なるI求(教室にあふれる四五人の子どもを前に頭の痛いことばかり。集金事務や保健事務・登校下校指導、昼の休憩時間もなくる給食指導。日曜日も深夜も関係ない生徒指導などで疲れ果て、私自身教師として精神的にも体力的に限界を感じ教育への情熱の醒めていく怖れと不安。それらに対処する方法を模索している毎日)から、出発する決心を固めていった。
出発を決意をすれば、気にしていたことがひとつづつ解決の方向を示す不思議さ……
ご飯がなくても、パンが美味なる事を教えてくれる人。相談した同僚の先生方が快く行って来なさいと言ってってくれたこと。春休みに学級の子どもと遊ぶ約束は春分の日に変更し、蒸発していた子どもの母親を探して手紙を出し話し合えたこと。
サークルの事はすべて若い仲間が快くひき受けてくれたこと、あとは家族のこと、小さい方の息子は、近所の方々と、弟の家で世話になるように頼めたこと、自分の健康管理。姉と妹がつけやきばで栄養学をたたきこむ。パンと肉と果物を食べていれば大丈夫、少しやせて帰って来なさいと。費用も思いがけないことから解決の方向がみつかった。
日本の絵本を、外国で見てくるのも、日本の絵本を勉強するきっかけになるのではないかと言う、家族の意見。
最後まで解決しないのは、外国語のこと、これは今更勉強するということは不可能であった。しかし、先輩の野田先生が「心よ、しぐさよ、通じるもんよ。」と助言してくれた。―そうかなあ-と不安は消えなかったけれど、大阪弁しかしゃべれないのに……すべてをふり切って決心した。
決心がおそかったので、それからが大変、パスポート、種痘、説明会、かばん、荷物、めまぐるしく準備に忙殺されながら、学年末の仕事、生来かっちりした仕事の不得手な上に、短時間で仕上げ(たつもり)てしまったので、学校には、ほんとうにご迷惑をかけました。
三月二十六日、羽田発アンカレジ経由ハンブルグらミラノ。そしてバスで、ボローニヤ着三月三十一日。
☆この旅行が大きなきっかけになって、のちに高山先生はハイジ、赤毛のアン、ローラを訪ねて、世界を飛び回ることになるのです。それにしても、後半の「ボローニヤ公立学校参観印象記」を読むと、あまりの計画性のなさ、無謀さ、(当日飛び込みで行っている!おまけにこの報告にはその学校の名前さえ記してない!)にあきれてしまいます。読んでみたいという方は、藤本までご一報ください。
発見日 2012年5月
Ⅵ 劇団四季のパンフレットに原稿を
高山先生が劇団四季のパンフレットに原稿を書いていたなんて、全く知りませんでした。もともとは2006年に上演された『夢から醒めた夢』のための原稿ですが、今年このミュージカルが再演されるので、原稿を再掲したいという文書が研究所あてに来ました。それでこの原稿の存在がわかりました。
『夢から醒めた夢』から学ぶ「生きる」ということ。
「感動は、行動への指導力」~生きる力へ~
『夢から醒めた夢』の舞台をもう一度観たい。
そう思って私は「入院」を決意しました。早くからお医者さんに入院治療をすすめられていましたが「イヤイヤ」と拒否していました。前の入院治療のとき、退院後の楽しみの無い人は治りが遅いことを見て聞きました。私は、ある舞台を観に行く日が迫っていましたから必死でリハビリをしましたし、同じ年齢で同じ手術をしても退院後の楽しみのある人とそうで無い人とは、快復力に違いがあると聞いて「なるほど!」と納得しました。
そして、今回は五月から京都劇場で『夢から醒めた夢』が上演されると聞いて「入院」を決めました。一ヶ月間入院して五月には観に行こうと思うと、あれほどイヤだった入院準備もイソイソと出来ます。お医者さんも「そうか、気力が出てきたか」と喜んで入院手続きの書類を容易してくださいました。
『夢から醒めた夢』を観てからずーっともう一度観たいと思っていました。目を閉じると見えてくるのは、遊園地の灯りの綺麗な光の線と点滅。うっとりと夢心地にさせてくれます。
次に見えてくるのは、マコが愛する母との思い出を語る場面です。♪♪いつも一緒♪♪と歌う声に涙があふれてきました。マコと母親とのしあわせだった日々をイメージしたからです。
霊界空港の場面は、ドキドキします。白いパスポート、グレイのパスポート、真っ黒のパスポート、……「私は何色だろう?」と考えてしまいます。子どもの頃に教会で天国・煉獄・地獄の話を聞いたことを思い出しました。盗んではいけない。自死してはいけない。騙してはいけない。と心に誓いました。そして、神に正しい行ないが出来るようにと真剣に祈ったことを昨日のことのように思い出しました。
優れた文学は……。
桑原武夫がその著『文学入門』(岩波書店)にトルストイの芸術論からの引用として「優れた文学」の条件を三つあげていたような記憶があります。
一つめは、新しさです。新しさとは、表現の新しさだけでなく人生を再発見させてくれる新しさである……と。私は、『夢から醒めた夢』に表現の新しさもさることながら、我が人生を再発見しました。子どもの頃に遊園地へ父に連れて行ってもらったこと、大好きな母に抱きしめられたぬくもりを思い出しました。
そして、世界中の子どもたちの幸せのために生きたいと希望に燃えた青春時代を思い出しました。その頃、第二次世界大戦後で父母を戦災で失った浮浪児が多く巷にあふれていました。今も世界中の子どもたちが泣いています。「まだまだ、私に出来ことがあるのではないか?」「子どもたちの幸せの為にしなければならないことがあるのではないか?」と考えました。
二つめは、誠実さです。『夢から醒めた夢』には、「人生如何に生きるべきか!」が誠実に語られています。それは、霊界空港でのパスポートを巡る会話で強く感じました。
三つめは、明快さです。難解な文学は、優れた文学とは云えないと述べています。私は、安心しました。難解な文学に出会うと自分の理解の無さや愚かさに情けなくなってしまいます。しかし、優れた文学は、難解ではない!と知ってホッとしました。
明快な文学は、人に伝えたくなる感動がある。というのに至っては、我が意を得たり!です。難しい芸術論は、苦手なのです。「ねぇ、ねぇ、『夢から醒めた夢』よかったよ。五月には京都で上演するらしいよ」と友人たちに触れまわっているのですから……優れた文学を優れたミュージカルに置き換えてみればよく判ります。
ミュージカルは大好きです。その舞台、その歌に全身全霊で浸る心地よさがたまらなく好きです。『夢から醒めた夢』に再び出会える楽しみを胸に「生きる」ための治療に励もうと思います。
「感動は、行動への始動力になる」と「文学入門」に述べられています。
『夢から醒めた夢』からもう一度感動をもらいたい!
発見日 2008年8月6日
Ⅴ 30年前のカセットテープをCDに復元
所員日誌にも書きましたが、自宅の倉庫で30年前のカセットテープを発見しました。一本は1975年10月18日の日付のあるもので、神戸の教育サークル協議会(神サ協)主催の会合で、「母として教師として」というタイトルの75分の講演を録音したものでした。もう一本は1976年8月、日本文学教育連盟(文教連)の全国大会(飛騨高山)での「現場からの報告」という60分の実践報告を録音したものでした。どちらもテープの音質が劣化しているので、オーディオ・キャプチャーを利用して、少し補正しながら、CDにすることに成功しました。どちらの講演も、まだ現職の小学校教師としてのもので、教室での実践が多く語られています。例えば、キューリー夫人の伝記を授業したときの話とか、「夕やけの雲の下」の授業の話とか、またのちに高山先生が「読みきかせの講演」で典型化して語ることになる、「いろいろへんないろのはじまり」「しずかなおはなし」「わたしのワンピース」などが「生の形」(未整理の形)で語られています。なかなか貴重なものを見つけたなあと、思っています。
Ⅳ 高山先生の2002年講演ビデオが見つかりました
小西さんから「こんなテープを見つけたよ」と渡されたHi8のテープ。おさなご保育園での講演ビデオらしい。家に持って帰っても、Hi8の再生機がないので中身の確認ができない。まあ、大丈夫だろうと、去年DVD制作をしてもらった、フラッグメディアにDVD変換を依頼。一週間ほどで手元に戻ってきた。 「いまこそ語りたい平和へのねがい」というタイトルで2002年9月4日の講演だった。これは現在研究所が保有しているものの中で一番新しい講演、しかも内容がこれまでのビデオ等とぜんぜん違うもので、とても貴重なものだった。音質がちょっと悪いのが残念だが。なんとか音質の改善を図りたいと思っている。(CDにするという手もあるし)
Ⅲ鳥越信先生の原稿に高山先生の名が
『現代児童文学論集5』(日本図書センター、2007年)を読んでいくと、鳥越信先生の「現代児童文学の方法」という文章がありました。その冒頭部分に高山先生の名前を発見。
「大阪へ移って五年め、ようやく今年の春から念願だった児童文学の勉強を始めた。柏木みどり、高山千津子、田丸信堯、正置友子らと一緒に始めたもので、グループの名は「科学としての児童文学研究会」という。月一回、過去の理論遺産の検討と、現代創作の話題作の分析と、交互にやっているが、前者ではすでにゴーリキー、マカレンコをとりあげ、次回はチュコフスキーを予定している。ひきつづき槙本楠郎、菅忠道、横谷輝、ポール・アザール、リリアン・スミス、そして石井桃子らの「子どもと文学」などを考えているが、たまたま地域を同じうする者のサークルではなく、はっきりと目的意識をもったエコールとしてやっていくつもりなので、やがては同人誌発行までこぎつけたい、というのが一同の夢である。」
智津子が千津子となっているのが、元の原稿の誤りか、この本の誤植かはさだかではないが、まあそれはさておき、この「科学としての児童文学研究会」こそ、鳥越先生が2007年の「高山智津子先生をしのぶ会」で紹介されていた会だったのだ。ちなみに、この原稿の初出は昭和62年10月発行の雑誌『国文学』10月号(学燈社)です。
そやけど、高山先生、こんな難しそうな理論の勉強してはったんやな、とちょっとびっくり。(ちゃんとついていけたんやろか)
発見日2008年2月11日
Ⅱ 雑誌原稿48編を発見
高山先生の雑誌原稿を見つけました。前まえから雑誌に連載をされていたことは知っていました。整理するからと、徳永さんに頼んでいたのですが、忙しくてなかなか渡してもらえませんでした。で、12月の所員会議の前に、小西さんにメールで「雑誌原稿を用意しておくように」徳永さんに伝言してくださいと、それとなく圧力をかけて、おさなご保育園で会議をしました。それで、ようやく手に入った資料のかずかず。どんなものが見つかったかというと、次の通りです。
①「ふれあい広場」1994年4月号~2001年3月号
・おはなし絵本の楽しい世界(全12回)
・絵本を子どもの心にとどけよう(全12回、ただし第1回は欠)
②「月刊女性&運動」
・絵本といっしょキラキラ子育て(7回分)
2003年8月号が35回なので、まだまだ未入手の資料がここに眠っている。
③「母の広場」
・みつけたよ!童心社の本
2003年11月15日号
2004年2月15日号
2005年2月15日号
2005年7月15日号
・新刊紹介
2005年10月15日号
④「ブックトーク」2004年5・6月号~2006年3・4月号
・思春期の本棚(全12回)
以上4種類の雑誌の原稿を発見。一つ一つは短いものですが、48編にもなります。いずれ何らかの形で紹介したいと思っています。
Ⅰ 生徒の作文を発見
『ひょうたん池の子ら』は高山先生が金楽寺小学校から城内小学校に転勤するとき、自費出版された文集です。
今では手に入らない貴重なものです。その中に「おむこさんに先生のこと教えてあげます」という素敵な文章が載っていました。
HPで特別に紹介します。
きょうは、私たちの先生の、おめでたい日です。
五年三組四十二人全員が、ここへ来たかったのですが、私たち四人だけが、学
級会で選挙され代表にえらばれて来ました。
先生、おめでとうございます、というかわりに、今から、先生の事をおむこさ
んに教えてあげます。
先生は、作文が大好きです。毎ロ毎日作文を書かせます。書け書けと毎日言い
ます。
三年も四年も五年もと、三年聞作文を書かされたかわいそうな子もいます。私
たちは、朝学校へ行くと、先ず先生の机の上に作文帳を出します。先生の机の上
に作文帳がたくさん積んであると、先生は、にこにこして一時間目の勉強をはじ
めます。
作文を読んでいるとき何を言っても、ふんふんふんと言います。返事はするのですが、聞いていません。
先生は、こんなに作文が大好きですから、おむこさんも、書かされるかもしれませんよ。
それから、先生は、テレビが大の大大きらいです。一日に三十分以上テレビを
見たらいけないと言うのです。
先生の好きなテレビは、『四つの目』や、『みんなの科学』『ジャングル大帝』と
『トムとシェリー』などです。それだけしか見せてくれませんよ。なぜかというと、
先生は流行語がきらいだからです。ぼくたちが「シェー」「ダヨーン」「ケケケ、ソ
ウザンスカ」と言うと、いやがります。日本語で言いなさい、大阪べんで言いな
さい、と言って、かんかんになっておこります。テレビばっかり見るからそんな
言葉をおぼえると言っておこります。先生も一ぺんおもしろいテレビを見てから、
おこったらいいのにと、ぼくたちは言いました。
あるとき、学級会で先生に注文したことがあります。一ぺんおもしろいテレビ
を先生も見てください.そしておもしろくなかったら見たらあかんことにしてく
ださい、と、言ったのです。でも完生は、宿題を忘れてくると、テレビを見たか
らでしょうと言います.テストで百点にならなかったら、テレビばっかり見てる
からでしょう、と言います。なんでもテレビのせいにせんといて欲しい思います。
先生は、みかけはふとっていてこわそうですが、ほんとうはこわくありません。
体重は六十八キロで、身長は一メートル四十七センチ。いそくんと同じです。
みんなが、「でぶ」とか「大根足」とか言ってもおこりませんが、あんまり言わ
ないようにしてあげてください。聞きずらいと思いますから。
それから、ぼくたちがけんかしておこりません。運動場へ行って思いきりし
て来なさいと言います。でも、命にかかかることをしたり、友だちをぶじょくし
たりするとおこります。
先生は、泣きみそ。私たちの友情を知って泣きはっとことがあります。
男の子が、女の子にいたずらをしたときのことです。私たちが、もう一度チャ
ンスをあげていい子にならしてあげよう、と学級会で話し合っていたとき、先生
は泣いていました。
それから、先生の子どもの一雄君の参観日に行って帰って来たときも泣きます。
なんでかなしいのと聞くと、一雄がかしこうにしていたからやと言って泣きます。
なんでかしこうにしてたらかなしいの、と聞くと、あの子が一時間中前を向い
てかしこうにすわっているのは、つらいことやったやろうなあ、と言います。私
たちは、先生が泣く意味がわかりません。わからんこともありますが、よく泣き
ますよ。。
先生は、体育に弱いのです。とびばことてつぼうと走るのが弱いのです。
とびばこはようとばんから、ぼくたちが六だん八だんととんでいくと、ものす
ごいよろこびます。
てつぼうで連続足かけまわりをすると、もう一回見せて、と言って何回もさせ
て、すごいすごいと言って手をたたきます。
走るのがおそいのでなさけないのです。運動会でいつも走ってくれるのですが、
どんじりです。でも、一生懸命に汗びっしょりで走ってくれる顔を見ると、リレ
―に負けても、ぼくたちは、なあんにも言えません。
それから、先生の好きな色ぱ、ふじ色とむらさき色と紅色です、いつか先生の
病気のとき、ふじ色の花をお見舞いに持って行ったら、とてもうれしいと言ってよ
ろこんでくれました。
先生ぱ、いつも大きな□をあけて、「あっはっはっ」と笑います。わたしたちの
作文を読みながら急に笑い出します。なんで笑ってはるのかわからんけど、先生
の笑い声を聞いて、わたしたちも笑ってしまいます。
先生の機嫌がいいときは、一雄君の話をするときです。一雄君はどうやらプラ
モデルが好きなようです。ひとりっ子だから、気にしていたようです。だから、
もうひとり女の子がほしいほしいと言っています。みつあみの髪の毛の長い女子
を見ると、髪をさわらしてと言ってよってきます。
男の子が、さんぱつをしてくると、おはつ三日といって頭をたたきます。
先生に、おこりんぼで、泣き虫で笑いじょうごです
その上に、はずかしがりです
先生は、結婚することを、自分でよう言いませんでした。
ぼくたちの先生は、こんな先生です。
大事にしてあげてください。
五年三組一同より
先 生のおむこさんへ
一九六五年十二月
徳永満理、小西律子、藤本英二の著作を紹介しています
ここからは徳永・小西・藤本の著作一覧です。
発行年
書名
出版社
単著・共著等
1993
絵本で育てあかちゃんとお母さんと
0才児が喜んだ本
清風堂書店
高山智津子との共著
1993
絵本でおぼえたおしゃべりいっぱい
1才児が喜んだ本
清風堂書店
高山智津子との共著
1994
絵本でみつけたともだちと遊び
2才児が喜んだ本
清風堂書店
高山智津子との共著
1996
心をたがやす保育
-保母・看護師・調理師のシンフォニー-
清風堂書店
単著
1997
絵本は友だち
-子どもの発達∞無限大-
あゆみ出版
単著
2000
読み聞かせで広がるゆたかな育ち
フォーラム・A
監修秋葉英則
2001
劇あそびが生まれる
読みきかせバリエーション
フォーラム・A
高山智津子との共著
2002
絵本で育つ子どものことば
アリス館
単著
2002
ウキウキわくわく手づくりおもちゃ!
「発達」からうまれる0、1歳児のあそび
かもがわ出版
山口千恵子との共著
イラスト島村美奈子
2004
絵本でひろがる子どものえがお
発達にそった年齢別読み聞かせ
チャイルド社
高山智津子との共著
2004
絵本でスタート 赤ちゃんが喜ぶ読み聞かせ
フォーラム・A
単著
2004
絵本はともだち 子どもが楽しむ読み聞かせ
フォーラム・A
単著
2005
絵本と子どもが出会ったら
子育てに役立つ絵本100
すずき出版
単著
1996
ゆうちゃんは1さい① ばいばいまたね
アリス館
絵は宮沢晴子
1996
ゆうちゃんは1さい② なあいなあいあった
アリス館
絵は宮沢晴子
1996
ゆうちゃんは1さい③ おいしいなうれしいな
アリス館
絵は宮沢晴子
1997
ゆうちゃんは2さい① ぶらぶらさんぽ
アリス館
絵は宮沢晴子
1997
ゆうちゃんは2さい② できたよできたよ
アリス館
絵は宮沢晴子
1998
ゆうちゃんは2さい③ じぶんでじぶんで
アリス館
絵は宮沢晴子
1999
ゆうちゃんは3さい① きょうからおはし
アリス館
絵は宮沢晴子
1999
ゆうちゃんは3さい② どろだんごつくろ
アリス館
絵は宮沢晴子
1999
ゆうちゃんは3さい③ いらっしゃいいらっしゃーい
アリス館
絵は宮沢晴子
2004
やさいパーティしましょ
童心社
絵は長谷川知子 紙芝居
2006
あっあっあっ、みーつけた!
童心社
絵は垂石眞子
2008
よしよしなでなで
アリス館
絵はいりやまさとし
2009
ともだちともだち(「こどものくに たんぽぽ版)
すずき出版
絵は長谷川知子
2009
赤ちゃんにどんな絵本を読もうかな
-乳児保育の中の絵本の役割ー
かもがわ出版
単著
2013
よくわかる絵本読み聞かせ
チャイルド本社
単著
『よしよしなでなで』
文・とくながまり、
絵・いりやまさとし
(アリス館)
2008年7月刊行、1200円。
「弟や妹ができたときの上の子の興味、関心、とまどいなどを
あたたかく見守ってあげたい」そんな想いから、この企画は生
まれました
おさなご保育園園長徳永満理さんの新しい絵本です。
2009年・新しい本が出版されました
・『ともだちともだち』
(徳永満理、長谷川知子)
「こどものくに たんぽぽ版」すずき出版
2009年4月、360円
「幼稚園や保育園の4月の朝はにぎやかです。進級をした子どもたちの晴れやかな歓声はもちろんのことなのですが、入園式を済ませた新入園児さんたちの泣き声も混じっているからです。目にいっぱいの涙を浮かべて、おうちの人とお別れをする子どものけなげさに、保育者は、胸が詰まることもしばしばです。そんなときに助けてくれるのが友だちとの遊びです。……中略……別れるときはつらくても、幼稚園や保育園には、大好きな先生はもちろんですが、なにより友だちがいるのです。友だちを支えに大きく育ってくれることを願って書きました。」
『赤ちゃんにどんな絵本を読もうかな
-乳児保育の中の絵本の役割』
徳永満理、、かもがわ出版
2009年4月 1300円
目次 より
はじめに 赤ちゃんは絵本の何を楽しむのか
第一章 保育の中の絵本
第二章 発達・ことば・絵本
・0歳児の発達と絵本の選書と読み聞かせについて
・1歳児が喜ぶ絵本の読み聞かせ
・2歳児が喜ぶ絵本の読み聞かせ
第三章 赤ちゃんから2歳児さんたちは、
絵本の何を楽しむのか
乳児保育の中で読みたい絵本のリスト
発行年
書名
出版社
単著・共著等
1994
まないたとんとん
絵本にでてくるお料理つくろ
清風堂書店
高山智津子との共著
2002
「おいしいにきまってるやん!」
保育園のお昼ごはん365日
かもがわ出版
イラスト島村美奈子
2008
子どもと作る食育レシピ12か月
チャイルド本社
単著
2012
おいしく食べておおきくなあれ!
かもがわ出版
単著
2013
保育園のおいしい離乳食
46のレシピとおいしく食べる工夫
フォーラムA
市枝恵子との共著
2008年・新しい本が出版されました
『子どもと作る食育レシピ12ヵ月』小西律子著
(チャイルド本社)
2008年1月刊行、1800円。写真満載。
集団保育の中でのクッキング保育の勧め。
26のレシピ。年齢別のクッキング。楽しくお いしい 料理の数々。
おさなご保育園での小西さんの実践から生まれた本です。
図書館協会の選定図書に選ばれました
発行年
書名
出版社
単著・共著等
1988
ことばさがしの旅
国語表現の試み 上
高校出版
単著
1988
ことばさがしの旅
国語表現の試み 下
高校出版
単著
1993
現代詩の授業
三省堂
単著
2001
読むこと書くこと
大人への回路
久山社
単著
2002
聞かしてぇーな仕事の話
聞き書きの可能性
青木書店
単著
2004
読みきかせに始まる
絵本から『サラダ記念日』まで
久山社
単著
2009
児童文学の境界へ
ー梨木香歩の世界ー
久山社
単著
2010
物語のかなた
-上橋菜穂子の世界ー
久山社
単著
2011
人気のひみつ、魅力のありか
ー21世紀こども文学論ー
久山社
単著
『ありがとう、高山智津子先生』完成
目次
はじめに
第Ⅰ部 高山智津子先生のあゆみ
第一章 「兵庫文学教育の会」時代の高山先生 藤本英二 八
第一節 サークル誕生・一九七一年~
第二節 サークルの飛躍・一九七五年~
第三節 高山先生の新しい活動とサークルの変容・一九八一年~
第二章 「日和佐・文学と絵本研究所」時代の高山先生 徳永満理 四三
第一節 高山先生と児童文学の旅
第二節 高山先生からの提案が次々と
第三節 「日和佐・文学と絵本研究所」の誕生
第四節 『ゆうちゃんシリーズ』をつくる
第五節 さようなら、高山先生
第三章 高山先生のいる風景 小西律子 九八
なあ、三人で勉強せえへんか/育ちゃん、ちーさん/
オープン講座に所員2名が欠席!どういうこと!/ 育ちゃんのダメ出し!ステキ!!/所員会議は「銀杏庵」で/
所員会議は食べて、飲んで/「銀杏庵」の3不思議/
第四章 「日和佐・文学と絵本研究所」の記録 一一五
第Ⅱ部 高山先生のさまざまな顔
こんなもの発見⑴ 「おむこさんに先生のこと教えてあげます」 一二四 ・歌人として高山智津子 一二九
こんなもの発見⑵ 鳥越信先生の原稿に高山先生の名が 一四〇
森はな先生と高山先生 一四二
パーティ、パーティ、パーティ 一四六
こんなもの発見⑶ 「高山藤三さんを偲ぶ会」のあいさつ文 一四八
「日和佐・文学と絵本研究所」の十周年に寄せて 一五四
高山智津子講演四〇〇〇回突破の秘密 一五七
こんなもの発見⑷ 劇団四季のパンフレットに原稿を 一六三
追悼メッセージ集から 一六七
第Ⅲ部 「高山智津子・文学と絵本研究所」のあゆみ
第一章 研究所の再スタート 一七二
第二章 「高山智津子先生をしのぶ会」の記録 一七五
第三章 「春の絵本講座」の記録 一八五
第四章 「秋の文学講座」の記録 一八九
第五章 所員日誌(抄) 一九四
第Ⅳ部 資料編
⑴高山智津子年譜
⑵高山智津子著作解題 二二三
⑶雑誌掲載の文章について 二三三
⑷講演の記録 二三五
編集後記 二四
歌人としての高山智津子 藤本英二
短歌が収められた二冊の本
高山先生は若い頃、短歌を詠む人であった。再婚する前、藤三氏に自分の歌集を贈っているほどである。歌人としての姿は、『女教師愛ひとすじに』と『あなにやし愛のうた』の二冊からうかがい知ることができる。
この二冊に収められた歌の多くは重複している。しかし本の性格が違うので、歌の扱い、位置づけは異なる。『女教師愛ひとすじに』では、歌は自叙伝を支える「物語の一要素」として働いていて、引用される歌は「高山智津子」の人生と切り離しがたく存在している。一方『あなにやし愛のうた』では、歌は人生の物語からいったん離れ、歌それ自身の世界を創り出してしている。
『女教師愛ひとすじに』(あゆみ出版、一九八二年)はもともと上下二巻本として出版された。上巻は藤三氏との再婚までを扱い、下巻はその後五〇歳で小学校教師をやめるまでを綴っている。引用される短歌は上巻四〇首、下巻十一首(うち二首は上巻との重複)である。
『あなにやし愛のうた』(清風堂書店、一九八八年)は第Ⅰ部大洋の水、第Ⅱ部あなにやし(第一章万葉愛のうた、第二章『十二年の手紙』と私)の二部構成。第Ⅰ部は歌集として編集されていて、一八〇首が収められている。あとがきに次のような一節がある。
《第一部の「大洋の水」の歌の初出は、二十七年前の小さな歌集『彫りし渚』です。/「子どもの本」のことや「子育て」のことを書く前に、「あなたの歌をまとめなさいよ」と励ましてくれた職員室の仲間と、私が歌つくる人と思って結婚したのに歌つくらぬ人になったと嘆く夫にお礼とお詫びをこめてあとがきにかえます。》
藤三氏がいうように、「歌つくる人」であった智津子先生は再婚して「歌つくらぬ人」になったように思う。
作歌について
『女教師愛ひとすじに』を読むと、短歌を作ることについて、二箇所記述がある。一つは十七歳で教壇に立った頃、立花小学校時代のことである。
《その頃育友会の役員さんに誘われて尼崎市の短歌教室に通っていた。何でも勉強したいと思っていた私は短歌は生活の中で作るものと聞いて、すぐに作り始めた。五七五七七と指折り数えながら、短歌でも作って、少しでも空しさを忘れようとした。》
もう一箇所は姫路時代。結婚し子どもも生まれたが、夫の両親は女性が仕事をすることに理解がなく、夫は夫で別の女と暮らし、たまにしか家に帰ってこないという時期だ。
《待つことにセンチメンタルな心のゆれを感じ短歌を作って自らを慰めていた。それは自慰であって何の解決にならないことなど判っていなかった。/そんな頃、矢部茂太先生の短歌グループに誘っていただいた。矢部先生は私が組合の婦人部の役員に出ていたときの組合委員長だった。》
矢部先生は「あなたの短歌の素材は事実ですか。それともフィクションですか」と問いかけ、やがて事実だとわかると、次のように言ったという。
《男女同一賃金で働きながらあなたの生活には人間としての生活がない。一人の女性としての生き方、母親としての生き方すらそこには見られないではないですか。本気で自分の生活を見つめてごらんなさい。そんな中で溺れているようでは短歌としての完成度も高まって来ないですよ……。と早口で息もつかずに私に言って聞かせてくださる。/誰も私にこんなことを言ってくれた人はいなかった。もちろん誰にも私の生活を話していないのだから誰も言えるはずはなかったが……。》
この矢部先生の叱咤激励は感動的ですらある。短歌はセンチメンタルな詠嘆の文芸にすぎず、自己慰安の道具にすぎぬのか、それとも自分の生活を見つめなおす厳しい自己批評の文学たりうるか、という根本的な問題がここで問われている。
高山先生の短歌作品は、事実に基づく歌、懸命に生きる中で歌われた歌が多い。それは逆に言えば、歌が人生という背景を持っているということであり、作品の評価もそこで、人生の中での意思のありようと無縁ではいられなくなる。つまり、矢部先生の批判があたっているということになる。
『女教師愛ひとすじに』から
ここから、少し高山先生の短歌を紹介していく。まず『女教師愛ひとすじに」から。
君がためこれほどまでに生き方を動かさるるとは思わざりしよ
最初の結婚を決意したときのこの歌は、『女教師愛ひとすじに』でも『×のあるカレンダー』でも「動かさざるとは」とされていた。読んでいて、意味が通らないと思っていたが、『あなにやし愛の歌』では「動かさるるとは」となっていた。いうまでもなく、「動かさるる」が正しい。
田舎での嫁としての暮らしと自分の内面との乖離を詠ったものを二首引用する。
デュルタイやカントの理論に関わらず昼は洗濯に過ごす妻吾れ
進み行く歴史の中に生きること忘れし如き嫁の日々なり
矢部先生に批判されたころの歌を四首引く。
幾日も夜離れのつづく夫なれど今宵も待ちぬ灯りをつけて
離れ住む夫の帰宅の夜なればためらいつつも紅の帯しめぬ
欺くより欺かれるをよしとしてくちなしの白コップにさしぬ
疑いは疑いを生みどこまでも堕ち行く吾に粉雪の舞う
この四首は短歌として一定の水準に達していて、歌としては悪くないと思う。裏切られても夫に対する未練を捨て切れず、そんな自分を肯定もできぬまま思いは屈折し、それでも美的なイメージでそんな自分を包みこみ歌を着地させている。そこに一つの叙情の世界が成立している。しかし、歌が生き方と分かちがたく一体化しているのなら(歌われていることがフィクションでなく事実ならば)その生き方そのものが評価の対象となる。矢部先生が強い言葉で批判されたことが当たっている。
最初の結婚は七年間続いたのだが、離婚の決意をする前に、高山先生は一人で旅に出ている。
乗り次ぎてまた乗り継ぎて国の涯足摺岬にわれは来りけり
人の住む家など見えずどこまでも天に向かいて段なせる畑
砂浜の見えざる海の哀しかり崖下に波の砕けては散る
砕け散る飛沫の白き水玉の藍に解けゆく過程をみつむ
愛されし記憶のなきこと思いいで涯なる岬の断崖に立つ
のちの明るく楽天的な高山先生しか知らぬぼくなどにはちょっと想像もつかないような哀しい女の姿だ。
そして、《足摺岬から帰ってすぐに家庭裁判所へ出かけて行った》という。
ひとひとり愛し終えざる吾なりき枯草白く光る道行く
訴訟手続きついに終わりて木枯しの吹き衝く街を顔曝し行く
婚家から息子と尼崎に戻り、二人で暮らし始める。母一人、子一人の暮らしはどううたわれたか。
朝焼けも夕焼けも今日よりは吾がものとなる吾子と住まいて
詮索や憐憫等も欲しくなし離婚は吾の勲章なりき
『あなにやし愛のうた』から
ここで、『女教師愛ひとすじに』を少し離れて、『あなにやし愛のうた』の中の歌に眼を転じてみたい。
俵万智は、デビュー当時高校の先生をしていて、『サラダ記念日』には高校生を詠った歌がいくつかある。それと同じように、高山先生にも小学校教師の眼で小学生を詠った歌がある。
トトトーンふみきりの音も快くとび箱八段とびこして行く
よく似たる弟連れて買物のカゴさげて行く児にサヨナラをいう
叱りても叱りてもなお笑みかくる汝のえくぼを両掌にはさむ
「よく似たる」の歌などは『サラダ記念日』と比べても遜色がないといえば、贔屓の引き倒しだろうか。平易なことばづかいの中に教え子に対する愛情が滲んだいい歌だと思う。高山先生が、その後も教師生活を題材にして歌を作っていく可能性がありえたのではないだろうか。
次にカトリックの家に生まれたことをどのように詠っているかを見てみる。
生後七日吾に洗礼を受けさせし父母の信仰に従つけず抗らう
こんたつの祈祷の詞はなけれどもマリアの像の前に立ちおり
ロザリオの連祷の詞は失せしままこんたつの玉黒く光りぬ
祈るべき心は失きにぬかづきて「父と子と聖霊」と十字をきりぬ
高山先生の真摯な生き方、善きものを求め続ける生き方は、ある意味、「神」との関わりによって形成されたものかもしれない。たとえ、思春期に自らの意志で宗教を棄てたとしても、幼いころから育まれた「宗教的態度」「敬虔な思い」というのは残るのではないだろうか。
人生の物語に組み込むことの難しい、旅の歌、地名を詠みこんだ歌をいくつか拾ってみる。
青空をふたつに切りてそそり立つ槍が岳のきびしき稜線
塩原の山裾遠く広がりて那須野の原ははるかにつづけり
馬酔木の小さき白に手を触れつ嵯峨野の古寺の庭を歩めり
大いなるみどりの弧をば描くがに重なり並ぶ大和大峰
あくがれてみちのくたずね来し吾に一切径山の不穏なひびき
そして、『あなにやし愛の歌』の第一部(歌集)の最後の部分に次のような歌がある。
「百合子」読むひとときさえもままならぬ繋がれし如き日々もありにし
気がつけば修羅場いくつかくぐりぬけ「百合子」の歳を超えて生きおり
『伸子』が若い頃からの愛読書の一つであり、高山先生にとって宮本百合子の生き方が一つの理想であったことは確かだ。
宮本百合子は一九五一年に五十一歳で亡くなっている。これらの歌は高山先生自身が五十歳を超えてからの歌ということになる。この文章の冒頭で《第一部の「大洋の水」の歌の初出は、二十七年前の小さな歌集『彫りし渚』です。》という高山先生のことばを引用したけれど、厳密には、それ以後の歌も少し入っていることになる。しかし、高山先生の歌人としての営みは三十代なかばで終わったといっても大きくは間違ってないはずだ。
短歌から遠ざかった理由は
高山先生が四十を前にして、短歌から遠ざかっていったのは何故だろう。ここからはぼくの勝手な想像になるが、二つの要因があったのではないだろうか。
一つは、藤三氏との結婚が幸せなものであったこと。前夫との結婚生活は、苦労の連続で自分の理想と現実とのギャップに悩んでいたが、それが良くも悪くも歌の水源となった。短歌は嘆きの歌としての伝統を持ち、悲しみを歌うことを得意としてきた。詠嘆と叙景の組み合わせで歌は作られ続けてきたのだ。子連れの再婚に苦労がなかったとはいわないが、少なくとも嫁姑の葛藤や女性が働くことに対する舅姑の無理解、あるいは夫の不実などからは解放され、理想を語りあえる夫婦生活が始まったことは想像に難くない。現実生活での激しい苦悩が消えたとき、歌は嘆きを歌う必要がなくなった。卑近な言い方をするなら、世の中失恋の歌は山ほどあるが、得恋の歌で優れたものはそれほど多くはない。
二つ目は、言うのをちょっとはばかるが、「歌う」ことよりも「喋る」ことの方が面白くなったのではないだろうか。四〇〇〇回を超える講演が、何よりその傍証だと思う。それは違う角度から言えば、「文語」を捨て「口語」に移ったといえるし、「文学体」から「話体」への転向といってもいい。高山先生の講演は「笑って、泣いて、元気になる」という特徴がある。若い頃の高山先生の短歌には、「笑い」のかけらもない(そもそも短歌が笑いを生むことができるかというより大きな問題もある)。人生をおおらかに肯定する楽天的な生き方に人生の舵をきったとき、短歌的抒情は捨て去られたのだろう。
『女教師愛ひとすじに』の改訂新版である『×のついたカレンダー』(ルック、二〇〇五年)からは、自作短歌がほとんど削られ、残されたのはわずか五首である。これだけを読んだ人はある時期の高山先生には短歌が切実な自己表出の手段であったという事実は想像がつかないだろう。改訂作業をしている高山先生自身も、自己を語るうえで短歌はもはや必須のものではなくなっていたのかもしれない。
はじめての歌に生涯を貫く思いがこめられていた
もし歌人高山智津子を代表する歌を一つあげるとすれば、たぶんこの歌になるだろう。
大洋の水貝がらで掬うごと吾なすことは果てしもあらず
『女教師愛ひとすじに』でも『あなにやし愛の歌』でもこの歌が巻頭に置かれている。高山先生自身も自分の代表的な歌と考えていたはずだ。
五十歳までのあゆみを綴った『女教師愛ひとすじに』の最後は、次のように結ばれている。
《大洋の水貝がらで掬うごと吾なすことは果てしもあらず
短歌を作りはじめたとき、はじめてできた歌だ。
あの十代のときの心境に五十歳の今また戻った。
私のしたいことは、果てしない。それをひとつひとつ貝がらで掬うように、果てはないだろうが、あきらめずゆっくりゆっくり考えながら生きていきたい。
つらい心で泣いている子どもが一人ずつでも少なくなるような、そんな仕事をあせらず続けたい。》
十代の頃と、五十歳では「私のしたいこと」の中身は当然違うはずだ。十代で教壇に立ち、経験も知識もない自分が何度も無力感に襲われながら、それでも前に進みたいと願う切なる思いは、この歌にいくばくかの悲哀を漂わせる。しかし『女教師愛ひとすじに』に綴られたように、働く女性として戦後日本を力いっぱいに生き、文学教育、読みきかせ、絵本の世界を知り、これが自分のライフワークだと思い定めた五十歳の高山先生が口にするとき、「吾なすことは果てしもあらず」ということばは、その志の遠大さをこそ感じさせる。事実小学校教師を辞めてからの高山先生のあゆみは、この小冊子で紹介しているように、エネルギッシュで多彩なものだ。
「大洋の水貝がらで掬うごと吾なすことは果てしもあらず」という歌が短歌として優れているかどうかを論じることは、ぼくにはできない。しかし、この歌には、高山先生の初志が込められており、高山先生の生涯を貫くものである。