このページでは藤本卓ゼミのみなさんからのたよりを紹介します。
☆基本的にはいただいたメールをコピーして使っていますが、フォント変換など操作がうまくできなくて、不揃いであったり、ずれがでたりしているかもしれません。
№1 2020・6・6
突然の連絡、申し訳ありません。私は2013年に大東文化大学教育学科を卒業した有泉と申します。大学では藤本ゼミに所属させていただいていました。現在は埼玉県で教諭として7年目を迎えています。
今回、一つ下の代である藤本ゼミの和賀さんから教えてもらい、連絡をさせていただきました。
藤本先生は本当の意味で厳しくも温かい指導をしてくださる先生でした。そして学生一人ひとりと向き合ってこられた先生なので、卒業生それぞれがたくさんのエピソードを持っていると思います。
お役に立つことが出来るかわかりませんが、藤本先生にとって良いものになるのであればと思っています。宜しくお願い致します。
埼玉県戸田市立戸田東小学校教諭
有泉孝一郎
№2 2020・6・6
こんばんは。本日、お手紙をお受け取りいたしました、和賀真純と申します。
お手紙を拝見いたしまして、家中探し回りましたら、当時の資料がたくさん見つかりました。藤本先生の思い出もお手紙に書きましたので、月曜日に郵便局より発送いたします。
取り急ぎ、ご連絡させていただきました。この度はどうぞよろしくお願いいたします。
№3 2020・6・6
藤本 英二 様
初めまして、千葉県で小学校の教員をしております、礒部と申します。
お手紙をお送りいただきまして、誠に有難うございます。
藤本ゼミの卒業生として、『教育論集』の編集に何かご協力できないかと思っております。
そんな中、藤本先生のご指導の下、当時研究していた木更津の社会館保育園の園長先生にインタビューをしたものがデータとして残っておりました。
ですので、添付させていただきます。
藤本先生のお名前などは出てきませんので、資料として活用できるかどうかは・・・。
先生との出会いが今の自分の指針であることは間違いありません。
先生が「大学教授というよりも大学教育実践家」と申し上げられて、
ゼミ生一人ひとりに親身になってご指導してくださったことは今でも忘れません。
僕らが大学4年生の時、丁度還暦を迎えられて、ゼミ合宿においてお祝いをしたことも良い思い出です。
師の訃報に、同窓の者、皆大変落胆しておりました。
そんな中でのこのお話は非常に胸を熱くさせられました。
「資料などないか」と、仲間にも私の方から呼びかけました。
私も紙での資料などは現在探しております。
見つけ次第ご連絡させて梅雨入り前でございます。
編集工房の編集日誌、毎日の更新大変かと思いますが、楽しみ読まさせていただいております。
体調を崩されませぬよう、ご健康を心よりお祈り申し上げます。
№4 2020・6・8
藤本英二様
大東文化大学文学部教育学科を2007年3月に卒業しました、飯嶋たみと申します。お手紙拝読いたしました。突然の知らせに、言葉を失っています。
藤本先生は卒業後も私の就職先である児童養護施設に学生を連れてきてくれたり、ご自宅にお邪魔したり、結婚式のスピーチをしていただいたり、交流がありましたが、今年の年賀状の返信がなかったこと、気にかかっていました。
私が藤本ゼミに所属していたのは2005年、大学3年生の一年間です。藤本先生がしばらくゼミを持っていなかった時期で、翌年にイギリスへ行くことが決まっていた一年間限定のゼミとして開かれたものでした。メンバーは3年生6名。主な活動は、夜間中学校を舞台にした映画『こんばんは』の自主上映会でした。夜間中学校を中心とした様々な学習や合宿、上映会の実行委員会等を通して大変内容の濃い一年を過ごしました。私たち6名の誰もがこの一年が今の自分の支えになっていると感じています。
今回のお話を受け、ゼミメンバーと連絡を取り合い、先生の為に私たちも何かしたいという思いを確認し合いました。それぞれできる事でご協力できればと思っています。さっそくですが、ゼミ生の一人、小野雄一郎くんが『こんばんは』自主上映会の報告集を何冊か所有していたので藤本さんへ郵送してくれるとのことです。今読み返すと恥ずかしくなるような若い文章ですが、当時の私たちが学んだこと、考えていたことが良くわかる内容だと思います。私の方は写真がたくさん残っているので整理し、活動を振り返って文章をまとめてみようと思っています。
個別に連絡を差し上げることもあるかと思いますのでゼミ生の名前をお知らせしておきます。
小野雄一郎、山下楽、古屋恭平、大家伸啓、錦織佳奈(旧姓片渕)、飯嶋たみ(旧姓下山)の6名です。私以外は小学校教諭です。私は昨年まで児童養護施設で勤務し、現在は保育園で保育士補助として働いています。
それでは、文章がまとまりましたら改めて連絡いたします。 飯嶋たみ
№5 2020・6・8
こんばんは。和賀真純です。
本日、郵便局より資料とお手紙を発送させていただきました。到着は、明後日になるそうです。今しばらくお待ちくださいませ。
資料を改めて振り返りつつ、お手紙を書いているうちに、藤本先生との思い出をあれこれ思い出してしまい、お手紙だけでもかなりの量になってしまいました。お役に立てましたら幸いです。よろしくお願いいたします。
№6 2020・6・10 和賀真純さんからの手紙
藤本英二様
初めまして。和賀真純と申します。お手紙ありがとうございます。藤本先生が繋いでくださったご縁に、今とても感動しております。
私は平成27年の3月に大東文化大学を卒業し、現在は千葉県松戸市で、小学校の教員をしております。社会人6年目です。
藤本先生と、はじめてお会いしたのは、大学2年の時の「基礎演習」の授業でした。大東では1、2年でこの授業があり、このクラスのメンバーが「自分の4年間のクラス」になり、そしてこの授業を担当する教授が、「担任」となったのです。私はEクラスで、2年の時の担任が藤本先生でした。
1年の時の先生がとても優しい方で、2年はどうやら「フジモン」らしいと、1年の終わりの時、クラスがとてもザワついたのをよく覚えています。「とっても厳しくて、怖い先生なんだって」と。ですが私はそれを聞いてまだ会ったことがないのにも関らず、「何それ、おもしろそうじゃん!!」と、どこか楽しみにしている節がありました。
実際にお会いした先生は、たしかに厳しくはありましたが、私にはそれよりも「すごいおもしろい先生!!」という方が強かったです。(よく藤本先生に「私も変わっていますが、あなたも大概です」と言われました。)
2年の時には、その基礎演習の他にも、「生徒指導論」という授業を担当していらっしゃって、毎週2回の先生の授業は、とても楽しみでした。詳しくは同封の資料に書いてありますが、偶然にも私の母方に添田知道がいたこと、そして藤本先生がその著書を授業で使ったことがきっかけで、先生とよくお話するようになりました。
3年生からのゼミは、藤本ゼミ以外考えられず、第一志望のみで入りました。教員を志していた私にとって、藤本先生の授業は枠にとらわれない様々な教育のあり方を教えてくれる、とてもセンセーショナルで、楽しいものでした。そして、授業で取り上げたからといって、「これはすばらしい!」なんて決して片付けず、あえて批判を考えたり話し合ったりと、色々な面から物事をとらえることを大切にされていたと思います。この考え方は、間違いなく私の現在につながっています。
ゼミは週1でしたが、仲間たちは皆いつのまにやら週5でセミ室に集まっていました。夏と冬には合宿があり、木更津、湯河原、長野などに行きました。東松山キャンパスの、学生宿舎で学習会(泊まり)も行いました。
先生は観劇もお好きだったようで、ゼミ生を連れて行っていました。いただいたお手紙の、「奥さんの真美子さんの話では~」のあたりは、おそらく全て私の代、その前後のことかと思います。3年生の時、こまつ座の「頭痛肩こり樋口一葉」の劇を観に行きました。(当日私は発熱してしまい、参加できずでした……)そして4年の時、オペラシアターこんにゃく座の「アルレッキーノ」という作品を観に行きました。帰りは恵比寿のレストランバーでみんなでご飯を食べた気がします。
思えば、先生の授業は芸術にふれる機会も多かったです。観劇、丸木美術館、映画、……思い出深いのは高坂(東松山キャンパス近く)の大イチョウを見に行ったこと。あまりに見事な大木を前にして、先生が「この木には、きっと何かがすんでいる」と仰ったのが、意外で、でもやたらとしっくりきてしばらく皆でながめていました。
ゼミの時には、よく家庭菜園でとれたものをジャムなどにして(たぶん奥様がジャムにしたもの)を持ってきてくださって、みんなでおやつにつまんでいました。たばこがとてもお好きで、煙草をすいつつ喫煙所で課題の話をするなんてこともよくありました。(すわない私にはケムたかった……)先生のお誕生日に、ゼミの皆でお金を出し合って、万年筆を贈ったこともありました。楽しい思い出ばかりです。
最後に先生と連絡をとったのは、今年の年賀状です。先生からお年賀をいただき、それに私がお手紙を返ししたのが最後でした。最後まで、病気のことなんて一言も話してくれませんでした。桜のきれいな頃に、何も言わないでいってしまって、ゼミの仲間たちとは、悲しいやら、先生らしいなぁ、……やら、色々思い出話をしました。もっとお話したいことが、たくさんありました。偉大な恩師でした。本当に悔しいです。
もとより片付けが苦手な私ですが、今回ばかりは、片付けが苦手で本当によかった、と思います。お渡しした資料は、どうぞご自由にお使いいだければと思います。思い出せる限りでメモもつけさせていただきました。お役に立てば、教え子としてこれ以上嬉しいことはありません。
もし何か不明な点、詳しくききたい点などありましたら、いつでもご連絡ください。藤本先生の記録をのこす活動の一端を担うことができること、幸せに感じております。
くれぐれも、お体には留意くださいませ。
長文失礼いたしました。
6月6日 和賀真純
№7 2020・6・14
藤本英二様
はじめまして。メールでの返事であること、そして返事が遅れてしまったこと、お許しください。お手紙にありましたのでこちらにご連絡させていただきました。
藤本英二様、まずはお手紙ありがとうございます。そして「教授・藤本卓」としての先生のご遺稿を是非とも形として残していただきたく思います。
申し遅れました。私は藤本卓先生の教え子の一人で、お手紙を送っていただいた吉崎圭輔と申します。自己紹介させていただくと、大東文化大学文学部教育学科にて藤本先生にお世話になり、平成27年度より藤本ゼミの所属、28年度にはゼミ長を務めさせていただきました。現在は埼玉県にて公立小学校教諭を勤めており、今も先生の教えを胸に努めているつもりです。本当に今の姿を先生に見せて、「全く、本当に私の教え子ですか!」とお叱りを受けはしないだろうかと戦々恐々でありますが…。
そんなお叱りを受けることも叶わなくなってしまいました。私は同期からの連絡で知りましたが、先生の訃報は衝撃的すぎました。今年の年賀にも「また会って話しましょう」とあり、コロナ騒ぎが落ち着いたころにご連絡しようかと思っていたところでした…。去年はお会いする機会がなかったことが悔しい限りです。 まだまだご活躍いただけると思っていたので、残念でなりません。
さて、「教育者として先生の姿を再現」なさるということで、是非ともご協力させて下い。実は、お手紙をいただいてから周辺のゼミ生たちにこのことを連絡させていただきました。賛同者たちも悲しみに暮れる中で大いに喜んでおります。
つきましては、2点ほどご確認させていただきたくあります。
1点が、お手紙を写真化する等して仲間たちに見せても宜しいでしょうか?趣旨を間違いなく伝えたく思います。
もう1点が、「協力を呼び掛けたい」とのことなので、ご連絡先(メールアドレス)を教えて、藤本様と直接連絡をとれるようにしてもよろしいでしょうか?私を通しても良いのですが、それぞれには私に知られたくないこともあるかもしれません。それとも「紹介」ということで、藤本様に連絡先等をお伝えしたほうがよいでしょうか?
よろしくお願いいたします。
私の先生との思い出などは後日改めてまとめさせていただきたく思います。加えて資料などもゼミ生たちが保管したものを(各自とも実家に保管していたりで、早くても8、9月ごろになってしまうかもしれませんが)準備できるかと思います。
まとめる前のかじった程度の思い出話を少し。ゼミ生時代の先生は、ご指導いただいたり、お叱りを受けたり、学生を笑わせたり、ゼミ生の愚痴を聞いてもらったり、(先生の名誉のため一応()を付けますが…、喫煙所で世間話したり、「喫煙者はだんだん肩身が狭くなりますねぇ」とよく愚痴って笑ってたり、または帰り道に周りの学生と一回り年の離れた私を連れて、二人で飲みながら話したり…、)…ととにかく色鮮やかな方でした。
ゼミの活動として特に面白かったものといえば、28年度冬合宿です。先生の発案により希望者による高野山見学と宿坊体験のおまけつき、という教育学ゼミとしてはビックリ変わり種合宿があったりしたのが先生のゼミでした。
そしてうまく表現できないのですが、先生は「教授として」学生に教えて知識を与えることだけではなく、「一人一人を育てる(社会人、大人、人間?…なんと発していたか失念してしまったのですが…)」ことにも、とにかく熱心でした。学生(特にゼミ生)がお叱りを受ける場合は、ほぼこれにあたります。ほかの先生方も教育者ですから、もちろんそうなのでしょうが…、学生に対してその思いが特に強い我々の先生としての姿は「根っからの教育者」だったと私は思います(実際、 『「私」として同じなのに「教授(教える)」と「先生(育てる)」の2つの立場があって、特に大学は大変だ』、といったことをいつか話して(ぼやいて?)いましたし、この2つの違いは、授業やゼミでたびたび取り上げる重要なワードでもありました)。そんな姿がほかの教え子たちからもきっと上がってくるんじゃないでしょうか?
なんにせよ、先生との思い出はたくさんですし、先生を尊敬していましたし、そんな先生の姿を「真似ん(学ん)だ一人」として、真似ながら私も教壇に立っているつもりです。
すみません。確認のメールのはずが、先生のことで少しでも話をお伝えしたくなり、どうも長くなり、読みにくくなってしまいました。大雑把な思い出話と後半の私の記憶の先生像もあとでまとめ直したいと思います。…加えて、メールの仕方や文章などもご無礼があらば申し訳ありません。どうかご容赦ください。
最後に…。藤本様、我々も「教育者・藤本卓」先生の姿を「遺したい」と切に願っております。 私にとっても現在の私を構成する上で、間違いなく最大級の影響を与えたのが先生であると思っています。 どうか御身体にお気を付けて、力のない我々の分の願いをもよろしくお願いいたします。
元藤本ゼミ・28年度ゼミ長、吉崎圭輔
2020年6月14日(日) 藤本英二からのメール
吉崎圭輔様
メール受け取りました。ありがとうございます。
おたずねの二点について、
あなたに送った最初の手紙は、卒業生のどなたに見せてもらってもかまいません。おなじ内容のものを、明日にでも《『藤本卓教育論集』編集工房》のHPに載せますので、それを見るように勧めていただいても結構です。
私の連絡先は卒業生たちのどなたに教えてもらっても構いません。直接メール、手紙などで連絡していただいた方が、吉崎さん経由よりも、お互いに、てっとり早いのではないかと思います。
HPの編集日誌を見ていただければ、この間どのように私が動いているか、わかりますので、一度見てください。
また、今回のメールは「卒業生の声」のページに、全文掲載させてください。たぶん他の卒業生への強い励ましにもなると思います。
藤本英二
№8 2020・6・15
藤本英二様
お早いお返事ありがとうございます。
そうでしたか。では≪ 編集工房 ≫のこと等、仲間に伝えさせていだたきます。で、あるならば私が確認するまでもなかったですね、お手を煩わせてしまい申し訳ありません。
あのメールの後、≪工房≫を少々覗かせていただきました。和賀さんや磯部さんなど先輩方がすでに参加されていましたね。 資料なども手に入れられているようで安心いたしました。
ほかのゼミ事情を知らないので一概に言えませんが、そういえば卒業した先輩方と触れ合う機会が多いゼミでありました。
それに≪偲んで≫にあったように、先生はご自分でも「私はまったくもって優等生ではなかったんですよ」とお話していたこともあり、「先生らしい」と得心しましたし、「問題を考えるうえで近代を理解する必要がある」とある部分で、私のゼミ論と卒論に「明治期の教育問題を取り上げてはどうだ」と助言いただいたことに「先生の生き方あってのお言葉だったか」とつながりを感じて感動しました。
加えてまた思い出を少し。
とあるゼミの中で文章中に” ”というものが出てきて、よくある「何らか意味を含む言葉」として使っていましたが、先生は「意味が気に食わないし、それをする意味もなく嫌い」と、(確かこんなことを)言い放っていた「ピース・サイン」の形を、両手の人差し指と中指を2回運動させて表していました。
演劇に連れて行ってもらったのも懐かしいです。多くのゼミ生が初めての経験でした。確か一個前の先輩たち(27年度生)との話ですが、やはりこまつ座の「父と暮らせば」という公演だったかと。その後の感想会を開く場所を、主に私が地図を読み間違えたせいで先生を長く歩かせるハメになりお疲れでしたが、着いたら「どうでしたか?」「あの父親はいったいなんだったんでしょうか?」とすぐに教育者の顔を出されたことを覚えています。
こういった合宿やら演劇やらといろいろな活動を学生に経験させる先生でしたが、学生のお財布事情もよく考え、よく相談していただけました。冗談交じりか「藤本ローン」なるものもありましたが使った学生がいるのか、覚えている限りは不明です。が、そこまでしても、学生に経験をさせたいと思われていたのではないでしょうか。
そもそも、私は先生と違った、ともすれば真逆の考えを持っていました。しかし先生はそれを承知で、「でもゼミに入れた」と入ゼミ直後に話してくださいました。「それはそれでグループのゼミとしてどうなんだ?」と思ったのは今は昔のことです。それでも先生の下で教えを受け、育てられることになってよかったと思ってました。そしたらなんと、卒業近くに先生から「この2年であなたに”私という毒”を打ち続けてたんですよ。あとになれば、なるほど効いてくる遅効性の”毒”をね」とのお言葉を強烈に覚えています。指をワキワキしてて、それも印象深かった一因ですね。失礼ながら、あれは黒いローブ着てたら間違いなくおとぎ話の怪しい魔術師でした。…これほど貰ってうれしかった言葉は多くありません。「即効性がありましたよ?」と聞くと「全然足りませんね、まだまだです」とにこやかに…。どうなるんだと怖い部分もありましたが、考えてみればおっしゃっていた通り、まだまだ先生と遠いでしょう。その”毒”がもしじわじわ効いてきてくれるなら喜ばしいことと思っています。どう先生に近づいていけるのかと、今後の楽しみです。
…すごいですね、どんどん出てきてしまいます。止まりません。返信をいただいた30分後からこのメールを考えているのですが…。あれやこれやと、書いたり消したりし続けてしまい、まとめる内容がなくなっていってしまいます。先生のことを思い出せるのがこんなにも楽しいとは。
返信に戻りますが、全文掲載ですか。何分拙いものだけに。すでに誤字脱字を見つけてしまっていて、お恥ずかしい限りです。何故か、先生のお叱り顔が浮かんで仕方がありません。それもある意味でほかの方たちへの励ましの一部と考えるべきなのか、どうなのか。如何せん先生から「軍曹(当時の私のあだ名)と呼ばれるわりに気の優しすぎる小心者でしたねぇ、あなたは」と評された(見抜かれた)通り、心配性で臆病者な私ですので。私見ながらも、ほかの先生方と勝手に比べてますし。他ゼミの学生などから「うちの先生だって」、と言われないかどうか…。
しかし、そう思ったのだから仕方ないと割り切りましょうか。私にとって、私たちの先生が一番なのだ、と。なにより、学生としては卒業当時28と年を食っていただけで、決して頭の回転が良くない私の自尊心を傷つけぬよういつでも気を使って尊重しながら、しっかり立たせて育ててくれた先生のためとあらば、私の臆病など唾棄に値すべきものでしょう。どうぞお載せください。ただ、藤本様が「載せる必要がない」と思われた部分などはお手数ですがご編集ください。よろしくお願いします。
そしてすでに活動してくださっている藤本様やご協力なさっている奥様達が一番そう願っていることであり、百もご承知かと思いますが、先輩方や同期、後輩たちによって先生がよりはっきりと「形」として遺っていくことは私たちの願いでもあります。しつこいようですが、重ねてどうかよろしくお願いいたします。
追伸 打っていて先生との思い出を思い出すことがが楽しくなってしまい返信がまたしても遅れ、気づけば夜深くなってしまった無礼、誤字脱字などの力量不足、そして先生が形になって いく喜びと臆病故に長くなった私の駄文をどうかご容赦ください。
吉崎圭輔
№9 6月17日
藤本 英二 様
私は、 2006年度に大東文化大学文学部教育学科を卒業した小野雄一郎と申します。
現在は、東京都で小学校教員をしております。同期生の飯嶋たみさんからこの度のことを聞
きました。私も藤本ゼミの一員として何かできないかと思い、自宅にある大学時代の資料を
探ったところ、ゼミの活動報告集が見つかりましたので、藤本さんにお送りします。
この報告集は、2005年度に藤本ゼミで学習した「夜間中学校」についての学びの記録
です。夜間中学校のドキュメンタリー映画「こんばんは」の上映会に参加したことをきっか
けに、夜間中学の見学、映画監督の森康行さんと語る会、夜間中学校教員の見城慶和さんの
講演会、そして、大学での「こんばんは」自主上映会などの記録が記されています。10年
以上も前のことですが、振り返ると今でも心がワクワクするほど、当時のゼミでの学習活動
は充実したものでした。
今思うと藤本先生は、学生の主体性を引き出そうと様々な教材を私たちに与えてくれて
いたんだと感じています。この年は、夜間中学校の他に、書籍「二十四の瞳」や「推の木学
校」などを通じて教育について学んでいましたが、藤本先生は私たちがどの教材に興味をも
つかを見極めて1年間のゼミの活動を考えていたとの話を藤本先生から聞いた記憶があり
ます。当時の私たちの思いを大事にしてくれた藤本先生に対する感謝の気持ちと教員とし
ての尊敬の念で胸がいっばいになります。
報告集は、当時の私たちのつたない文章でまとめたものではありますが、そこから藤本先
生の大学教員としての姿を少しでも知っていただけたら幸いです。また、何か資料が見つか
ればお送りしたいと思います。どうぞお体ご自愛ください。
小野 雄一郎
№10 6月18日
初めまして。
大東文化大学4年生の増田雄一と申します。
藤本先生は厳しい先生という人もいらっしゃると思いますが、ゼミ生としては、私たちのことを大切にしてくださる優しい先生でした。
藤本先生の最後のゼミ生となってしまいましたが、藤本先生に教えていただいたことを、これからに生かしていきたいと思います。
少しでもお力になれればと、写真だけ送らせていただきます。
2020年6月18日(木) 藤本英二からのメール
> 増田雄一様
> 写真を送ってくださり、とても助かります。ありがとうございました。
> ちょうど、明日、埼玉の藤本卓さんのお家へ伺う所です。写真は帰ってから、HPに掲載させていただくつもりです。
> 最後のゼミ生の皆さんの声も聞きたいと思っていますが、六月末まで大学構内は立ち入り禁止とか。卒業されたゼミ生も、現在現役の学生さんたちも、ゼミの教官の急逝、新型コロナウィルスの騒動という、二重の大変さに見舞われて、状況に振り回され、様々にストレスを感じていることと思います。卓さんと一緒に写っている皆様に、機会があれば、「『藤本卓教育論集』編集工房」のことをお伝えください。(ゼミの先輩たちのたよりも載せています)よろしくお願いいたします。
> 藤本英二
№10 6月18日の二伸
(増田くんからの返信)
少しでもお力になれればと思います。
よろしくお願い致します。
私は藤本先生と2人で2回ほどカフェでお話を聞いていただいたりと、本当にお世話になりました。
ゼミ生には伝えてあるので、コロナや教員採用試験などがあり、遅くなってしまうかもしれませんが、情報を提供させていただきたいと思います。
№11 6月20日
藤本英二様
先日は小野君からの資料到着の連絡ありがとうございました。
小野君、他ゼミ生にもメールの内容を伝えました。
私の方は、写真がたくさん残っていたので活動の様子が分かるようなものをまとめてみました。
また、「こんばんは」を初めて見に行った後に作った感想文集がありましたのでこちらも送ります。
私たちの歩みの第一歩となった初々しい感動が伝わるのではないかと思います。
感想文集は手元に一部しかなかったのでスキャンしました。読みにくいかと思います。申し訳ありません。
藤本先生との思い出…今の私の言葉で何か表現したいと思っていますが、なかなかまとまりません。
仕事と男の子三兄弟の育児に追われています…と言い訳をしつつ、もう少し時間をください。
飯嶋たみ
№12 6月20日
藤本英二様
薄暑の候、ますますご清栄のこととお喜び申しあげます。突然のメールに驚かれたことと思います。初めまして、私は村田隆と申します。
2011年に大東文化大学を卒業し、現在は埼玉県で小学校教員をしております。大学時代は藤本ゼミに所属し、ゼミ長を務めました。大学構内の教室を借りての自主上映会の実施など、ゼミの思い出はたくさんあります。そして、藤本先生とはゼミを通してたくさんお話をさせていただき、そのことは今でも昨日のことのように思い出されます。藤本先生の突然の訃報にただただ驚いています。
先日、同じゼミ生の礒部君から連絡をいただきました。藤本先生の教育論集作成に私にも何か協力できることがあるのではないかと思い、資料を探したところ、当時の授業のノート等が見つかりましたので、メールに添付して送信させていただきます。(一度にすべては送れないため、何回かに分けます。)
ゼミでの思い出は、きのくに子どもの村学園や木更津社会館保育園等の勉強をしたことです。公教育しか知らない私にとっては良い意味で既成概念を壊されて「本当にこれでいいのか」と考えられる姿勢が身についた貴重な勉強時間でした。
授業での思い出は「公教育学校の教師はインストラクターであるばかりでなく、エデュケーターでもあることが求められる」、「教(教授機能)と育(訓育機能)はこのような意味がある」、「ケンカといじめの違い」等はとてもおもしろいなと思って授業を受けていました。
私事ではありますが、2019年8月に大東文化大学に教員免許更新講習に行きました。よいきっかけだと思い、その時に藤本先生と連絡をとり、更新講習の期間にお会いすることができました。そのときに、さすが藤本先生だなと思ったことは、この言葉を聞いた時でした。
「今は大学関係の仕事で忙しくて、なかなか本来の研究が進んでいない。しかし、定年を迎えたらようやく自分の好きな勉強ができる。」
この言葉を聞いた時には、生涯現役の先生なのだなと強く思いました。定年後でも、研究を進めようとする姿勢に私も胸が熱くなりました。他にも、私が大学時代に勉強したことは現場ではなかなか使うことができていないとお話したところ、大学では学生たちに批判する目を養ってほしい、本当にこれでいいのか?と考える姿勢を持ってほしいとお話されていて、その姿勢が身に付いていれば大学での勉強には意味があると仰っていました。また、大学教員として最後に何か一つ大きなイベントを企画・実施したいと仰っていました。内容についてはまだ決まっていなかったらしく、大学生と現役の教員が話せる場を設定するという大まかな内容を聞きました。そのイベントで現役教員が必要になった時には声をかけるからよろしくと言われ、もちろん協力しますと返答してお別れしたのが最後でした。協力できなかったことがとても悔やまれます。
編集工房の編集日誌など、楽しく拝見しております。送信したものにつきましては、何かご不明な点等ありましたらいつでもご連絡ください。藤本様もお体をお大事になさってくださいませ。
村田 隆
№13 7月10日
藤本英二様
ご連絡ありがとうございます。ホームページ読ませていただきました。
ゼミ生には連絡を入れました。感想を寄せてもらう予定です。
ゼミ生以外の実行委員メンバーは連絡先がすぐに分からないメンバーもいる為連絡が取れ次第伝えていきます。
あの報告集は私たちの宝物のような物です。丁寧に読み解いてくださりありがとうございます。
当事者としては恥ずかしくもあり、誇らしくもあり、また懐かしい日々を思い出しました。
今でも6月の蒸し暑い時期になると所沢に行ったあの日を思い出します。
上映時間が迫る中、ゼミ長の私はとても焦っていました。それぞれ家にいる家族に調べてもらったり、私も実家の母に電話をしたり、必死でした。確か最後はタクシーに乗ったと思いますが、運転手さんもなかなか場所が分からず、着いた時にはすでに上映が始まっていました。しかし、せっかく来たのだからと上映終了後に私たちの為に見逃してしまった冒頭15分ほどでしょうか、再度上映してくれたのです。後の打ち上げの時だったと思いますが、藤本先生が「それが良かったよね」と言っていたのを覚えています。それに続く言葉は思い出せないのですが…遅刻してきた学生をあたたかく迎え入れてくれ、私たちの為に時間を作り再上映してくれた所沢の方々も私たちが出会った忘れてはいけない人たちだったのですね。
実は、報告集を作る際に藤本先生から参考にと渡された自主活動の報告集がありました。当時でもかなり前の先輩のもので、それが藤本ゼミのものだったのか、いつ、誰の、どんな活動だったか等全く覚えていないのですが、報告集の構成は参考にしていて、最後の会計報告もその一つです。(おまけのしおりはオリジナルです!)
それから、当時上映会に関する資料を小さな段ボールに詰めてゼミ室に残しました。その中にビデオテープも入れたと思うのですが…残っていれば見れるかもしれません。(ゼミ室が変わっていなければ、入り口入ってすぐの左側の書棚の上です。)
まとまらない文章になってしまい申し訳ありません。
対談に出てきた疑問の部分や思い出した事など、仲間たちの感想と合わせてまた改めてメールいたします。
飯嶋たみ
№14 7月12日
藤本英二様
酷暑の候、ますますご清祥のこととお喜び申しあげます。大東文化大学を2011年に卒業生しました村田隆と申します。
さて、以前「特別活動の研究」のノートを送信致しましたが、「生活指導論」のノートも見つけましたので、何回かに分けて画像にて送信させていただきます。これは2008年に受講したものだったと思います。また、大学時代について思い出したことがあるので、この場を借りて少し書かせていただきます。
当時、藤本先生は授業の評価について厳しいという評判でした。私は単位を落とさないように心して受講しなければならないなと思っていましたが、それを裏付けるようなことがありました。
当時は、授業の最後に出席カードという色がついた小さな紙に、直筆で学籍番号と名前を書いて提出をしなければなりませんでした。多くの大学の先生は、さぼらないようにと毎回出席カードの色を変えたり、名前を出して返事をさせたりしていた先生もいたようです。しかし、藤本先生は毎回授業での出席を取りませんでした。(たまに出席をとっていましたが…)確か最初のオリエンテーションで「授業に出ていればテストもできる。さぼっている人はテストの結果でわかるから毎回の出席はとらない。」と仰っていたような気がします。逆に考えれば、さぼっていると単位を落とすぞということと、頑張って授業を受けなければ出席していないのと同じだということを暗に伝えたかったのではないかなと思います。これを聞いた私は、やはり心して受講しなければならないなと思いました。しかし、別にそんなに身構えることもなく、授業の内容は私自身とても興味があったものばかりでとても面白かったです。編集日誌にもありましたが、授業で勉強していれば知識は増える(既知)が、今まで知る必要がないと思われる領域も知る必要が出てくる(未知)から、なおさらおもしろいし、勉強すればするほど分からないことが増えるということを仰っていたような気がします。また思い出したことがあったら、メールにて連絡させていただきます。
編集日誌など、前回と同じく毎日楽しく拝見しております。送信したものにつきましては、何かご不明な点等ありましたらいつでもご連絡ください。藤本様もお体をお大事になさってくださいませ。
村田 隆
№15 7月12日 「こんばんは」上映会に関する問い合わせに対する、村田隆くんからの返信
当時、上映会を実施するためにフィルムを借りました。そのフィルムの貸し出し料が10万円ほどだった気がします。チケットの収入をその借りた代金に充てようと考えたのですが、チケットという名称だと利益を求める活動になってしまうため、カンパ代ということにしました。たしかその代金は500円ほどにした気がします。カンパといっても映画を観るだけではなく、それ以上の見返りは必要だろうということで、500円ほどの価値のあるパンフレットを作ろうということになりました。上映会の準備にあたり、下記がゼミのメイン活動になっていたと思います。
1. 大学構内の広い教室を借りる。そして、当日の運営の仕方を考える。
2. 集客するために、いろいろな人に声をかけて宣伝をする。
3. パンフレットを作成する。
1番苦労したのは、パンフレット作成だったような気がします。私自身、編集長みたいな役割をしていたので大変でした。当時のパンフレットをまだ持っているか同期のみんなに連絡をしました。ゼミ室に保管した記憶はみんなあるのですが、個人でも持っている人がいるかもしれないので連絡を待ちたいと思います。
№16 7月14日
藤本英二様
初めまして。
大澤明浩と申します。
2011年3月に藤本ゼミを卒業しました。
同期の村田隆くんから同期LINEに連絡があり、当時の資料を探し出しました。
当時は、里山保育について学び、映画上映会など行っていました。
その時のパンフレットや報告集、木更津社会間保育園宮崎園長のインタビューの資料があり、総ページ数100ページほどです。
必要なものがありましたら、提供いたします。
添付の写真をご確認していただき、返信をお待ちしております。
✩このあと大澤くんとメールのやりとりをして、実物を郵送してもらうことになり、手元に届きました。
№17 7月16日
藤本 英二 様
はじめまして。
突然のお便り、そして、夜分遅くに失礼致します。
私は、大東文化大学文学部教育学科を2010年に卒業し、藤本ゼミに所属・ゼミ長を努めていました、中嶋あすかと申します。現在は、埼玉県西部地区の小学校に勤務し、教員生活11年目になります。
今回、同期のゼミ生からこちらのホームページの存在を聞き、「何か協力できることはないか。」と思い、ご連絡させていただきました。
藤本先生の訃報は伺っていましたが、コロナウイルスの状況下で身動きが取れず、ただただ哀しむばかりでした。毎年年賀状をくださり、現場の大変さや健康を気遣ってくださる温かい文面に、何度も励まされたことを思い出します。体調を崩されていたとは知らず、直接お話しができぬままのお別れになってしまい、無念の思いです。
当時のゼミや授業のデータは、パソコンが壊れてしまい、残念ながら残っておりません。申し訳ありません。
私からは、ゼミで学んだことをお話しさせていただければと思います。
藤本先生とは、サマーヒル・スクールや和歌山の「きのくに子どもの村学園」の学びが強く印象に残っています。
諸外国の教育について興味関心が高まったとともに、日本の公教育が当たり前だと思っていた私にとって、「学校」や「教育」という枠組み・概念が大きく変わった時期でもありました。
特に、藤本先生と和歌山を訪れ、「きのくに子どもの村学園」を見学をした際には、子どもたちの自主性を大切にする新しい教育のあり方を目の当たりにし、子どもたちが持つ無限の可能性を感じました。とともに、「本当にこのやり方で子どもたちが育つのか?」と戸惑いも感じました。この葛藤が、より教育に対する私の思いを強くしたように感じます。
また、サマーヒル・スクールやきのくに子どもの村学園で行っている「ミーティング」は、現在私が研究を深めている特別活動の原点になったといっても過言ではありません。様々なきっかけを与えてくださった藤本先生には、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
ここからは、少し余談になります。
藤本先生は、学生からは恐いイメージがあったようで、私が藤本ゼミを希望すると、「本当に入るの?」と友人に聞かれたことを覚えています。(どことなく、厳しい印象があったのでしょうね。)
しかし、とても温かい方でした。深く接してみないと分からないのかもしれませんが。ゼミ室には本が山積みになり、正直、散らかり放題。「地震が来たら、確実に下敷きになるね。」と、よくゼミ生と話していましたが、そんなゼミ室が、不思議なことに居心地が良かったのです。
これも、今思い返してみると、「藤本先生の温かさがあったからこそなのかな?」と思います。
長々と失礼致しました。
藤本様のお力に少しでもなることができれば幸いです。
何かご不明な点等がありましたら、どうぞご連絡ください。
中嶋 あすか
✩きのくに子どもの村学園のことを知りたかったので、中嶋さんに次のような質問のメールを送りました。
中嶋あすか様
メール受け取りました。ありがとうございます。
藤本卓さんの大学での姿を知りたくて、卒業生の方から資料や証言をいただいています。
届いた資料は、HPの「教育実践家としての藤本卓」のページに載せております。
何点かお伺いしたいことがあります。
⑴中嶋さんは2010年卒業とのことですが、「きのくに子どもの村学園」へ見学に行ったのは、いつ頃でしょうか。
2009年夏合宿ですか。具体的には、参加学生は何人くらいで(3、4年生ですか)、どのくらいの時間、どんなものを見学したのでしょうか。園長の堀真一郎さんの話も聞いたのでしょうか。
⑵この見学の前後、ゼミで学習していたものは何だったのですか。具体的な人や本の名前も知りたいです。
⑶公開ゼミというものをやっていたということはわかったのですが、次の点を教えてください。
①これは藤本ゼミだけの行事か?それとも大学全体、あるいは学科全体?
②いつ頃、誰を対象にして、参加者の規模は?
③中嶋さんたちも公開ゼミを行ったか?その内容は?
⑷そもそも、何故「きのくに子どもの村学園」へ見学に行こうという話になったのでしょうか。藤本卓氏の提案だったのですか。
たぶん翌年には山梨にある「南アルプス小学校」にも出かけていると思いますが、何かご存じですか。
⑸『子どもがつくるTHE学校―堀真一郎さんとお話をする会』という藤本ゼミナール作成の冊子(2014年1月発行)を見ると、
斎藤優菜さんら2011年卒業のゼミ生が主催し、2012年1月に講演会を開いたようです。斎藤さんたちは中嶋さんの一つ下のゼミ生だと思いますが、この講演会について、何かご存じですか。
⑹この「きのくに子どもの村学園」見学に関わって、思い出せるエピソードや藤本卓さんのことばがあれば、教えてください。
わかる範囲、思い出せることで、結構ですから、お返事ください。急ぎませんので。
また、このHPをできるだけ卒業生に知らせていただければありがたいです。
連絡をくださったのは、現在10人程度です。もっと多くの卒業生から、いろんな話を聞きたいと思っています。
藤本英二
№18 7月17日
藤本 英二様
こんにちは。
先日メールを送らせていただきました、大東文化大学卒業生の中嶋あすかと申します。
返信いただき、ありがとうございました。
ご質問いただいた点について、分かる範囲でお答えさせていただきます。
⑴「きのくに子どもの村学園」へ見学に行ったのは、2009年です。すみませんが、時期まではうる覚えで…。
参加学生は、当時藤本ゼミに所属していた4年生の先輩方2名と、私たちの代3年生4名、合わせて6名でした。
見学時間は、約3時間程度で、学校生活の様子を自由に見学させていただきました。
きのくにの子どもたちは、「プロジェクト」という自分の興味のある活動に所属しており、それらを回りながら見学させてもらいました。「ミーティング」も見学しました。
堀真一郎さんのお話もお聞きしたと思います。
同日に他の団体も見学に訪れていて、たしか一緒にお話を聞いたように思います。
⑵見学の前後は、サマーヒルについて学んだり、堀真一郎先生の書籍を読んだりして、自由学校について議論したように思います。
その際に読んだ本を紹介します。
・世界でいちばん自由な学校 サマーヒル・スクールとの6年間
・ニイルと自由な子どもたち サマーヒルの理論と実際
・自由学校の設計 きのくに子どもの村の生活と学習
・きのくに子どもの村 私たちの小学校づくり
⑶公開ゼミは、私の代では行っていないため、詳細は不明です。
⑷「きのくに子どもの村学園」への見学は、藤本先生からの提案だったと思います。
ニイルのサマーヒル・スクールからの繋がりで、きのくにに結びついたように思います。
山梨の「南アルプス子どもの村小学校」は、設立される話を聞いていた程度でした。
⑸2011年卒業のゼミ生が主催した講演会については、すみませんが、私が知っていることはありません。
大した内容でなく、申し訳ありません。
実家に資料が残っているかもしれないので、探してみます。当時の仲間たちにも、聞いてみますね。何か情報があったら、またご連絡致します。
当時のゼミ生とクラスメイトには、ホームページの件は知らせました。
藤本先生は、私たちの代ではゼミだけでなく、「生活指導論」という授業も担当していたので、同じ学年の仲間たちにも、可能な限り、知らせてあります。
コロナウイルスの猛威が続いています。
藤本様も、どうかお身体には十分お気をつけください。
中嶋 あすか
№19 8月1日
藤本英二様
大暑の候、ますますご清栄のこととお喜び申しあげます。大東文化大学を2011年に卒業生しました村田隆と申します。
改めて振り返ってみたところ、いくつか思い出したことがあるので連絡をさせていただきました。
【ゼミについて】
ゼミでは上映会の実施以外にも、いくつかの書籍を使用して学習をしていました。その中の一冊が藤本先生が翻訳された「あきらめない教師たちのリアル」です。一章ずつ分担を決めて、A4・1枚程度にレポートを書くというものです。レポートについては指定された項目がありました。①主な登場人物、②内容要約、③日本との相違点と類似点、④日英比較に関わる質問事項の4つです。今思えば、藤本先生がイギリスに行った時の経験を私たちに教えてくれていた貴重な時間だったのだなと思います。
※そのほかは「虫眼とアニ眼」という本も取り上げて勉強をしていました。トトロを見つけた時のメイちゃんの好奇心に満ちた目が本当にいいですよねと仰っていました。
ホームページに載せていただいた「<教育>と<学習>の平行シェーマ」について、確か藤本先生とちょっとお話しする機会があったのですが、そのときにたばこを口の端に抱え、ライターでたばこに火をつけようとしながら「これは自信作なんですよ。」と、微笑みながら言っていたのを思い出しました。
他にもゼミで、藤本先生が演劇が好きだという話をされていたのを覚えています。たまに演劇のチラシもゼミ生に配っていたと思います。俳優座の2009年公演、加藤剛さん主演の「コルチャック」のチラシが手元に残っていました。
【講義について】
どのような経緯かは覚えていませんが「BASURA」というフィリピンの映画を観た気がします。いくつか出された選択課題の中の一つだったような気がします。
編集日誌など、いつも楽しく拝見しております。毎日読んでいると、自分にも何かできることはないかなといつも考えています。クライマーズハイに気を付けて藤本様もお体をお大事になさってくださいませ。
村田 隆
№20 8月2日
藤本英二様
少し間が空いてしまいましたが、こんばんは報告集の対談について実行委員の声をまとめました。
また、活動についてみんなの記憶をつなぎ合わせ…思い出した事も記載しました。添付いたします。
さらに、山下楽くんが当時の資料が出てきたと写真を送ってくれました。こちらも添付いたします。
ゼミ室の資料を取りに行く件ですが、錦織(片渕)佳奈さんが教育学科の杉田先生とやり取りしてくれています。
ご存じかもしれませんが、8月上旬に空調設備工事の準備の為に書籍の置き場所を動かしたり、箱詰めしたりという作業があるようです。その時に一緒に入室できないか問い合わせ中です。私は町立の保育園で働いているということもあり、現状東京に出向くことが出来ないため、もし入室が叶えば行けるメンバーで行きたいと話しています。
大学卒業から13年、ゼミメンバーとは毎年集まっていたのですが、それぞれの家庭や仕事のタイミングでここ5年ほどは会えていませんでした。今回のことをきっかけにライングループを作りました。私たちは会えなくても、ラインで繋がっていなくてもいつもそれぞれの事を思い合っていると思っていましたが、ラインではありますが久しぶりにみんなの言葉を聞き、なんとも言えない安心感と心地よさを感じました。そして2005年のあの一年がやっぱり今の自分の土台を作っているのだと再確認しました。
今回報告集を通して私たちの活動を知っていただけたこと、そして私たちがこの活動と仲間に愛情と誇りを持っているということが伝わったということが何よりも嬉しかったです。
またメンバーから寄せられた声や思い出したことなどあれば連絡いたします。
飯嶋たみ
☆添付されていた実行委員の声のまとめ、思い出した事のまとめは、「編集長とゲストが読む」のページの最後に掲載します。
№21 8月3日
藤本英二様
連日、連絡をしてしまい申し訳ありません。少しずつ記憶がよみがえってきていて、また思い出したことがあるので連絡をしました。
以前のメールで2019年8月、教員免許更新講習を大東文化大学で受け、その時に藤本先生に連絡を取り、会ったというお話の続きです。
お話の中で、「村田君は今でも勉強はしていますか?」と聞かれました。私は確か「個人的に特別活動には興味があるので、その面で実践的な勉強をしていますが、学問としての勉強はしていません。」と答えました。そうしたら「それはいかんなぁ。」というようなことを言われた気がします。そこで、「君に宿題を出そう。○○という本を読んでみなさい。結構面白くて勉強になるよ。」と言われました。本の名前が思い出せなくて悔しいのですが、確かイエナプランに関係があった本でした。その時に「広島県は結構、先進的なことをしているから、注目しているといいよ。」と言われました。
思い出したところで、自分で検索してみたところ下記の記事が見つかりました。時期としても、あっている気がします。
広島県福山市は2019年3月8日、異学年の児童が同じ学級で学ぶ「イエナプラン教育校」を創設する考えを明らかにした。2019年度から準備期間、2020年度から移行期間に入り、官民で協力して2022年4月の開校を目指していく。
3月4日開かれた福山市議会本会議において方針が示され、3月8日の常任委員会で正式に発表された。
イエナプラン教育とは、ドイツのイエナ大学の教育学教授が始め、オランダで普及している学校教育スタイル。3学年の異年齢児童で30人程度の学級を編成する。教室内には、「輪になって話す場所」「グループ作業の場所」「1人で静かに遊ぶ場所」などがあり、4つの特徴的な活動(対話、自立学習・基礎学習、協働学習・総合学習、催しと行事)と遊びを循環させる時間割で学ぶ。
広島県内では、広島県教育委員会が2019年度からイエナプラン教育を参考にしたカリキュラムの在り方を研究予定。2020年度以降、市町教育委員会と連携して県内公立小学校にイエナプラン教育のスタイルをモデル的に導入する考えを示している。
引用https://resemom.jp/article/2019/03/08/49560.html
上記は、大学のときに勉強していたことと少しリンクする部分があります。藤本先生はきのくに子どもの村学園や池袋児童の村、フリースクールに興味があったようなので、合点がいきました。
以上が思い出したことです。度重なる連絡となり、申し訳ありませんでした。何かのヒントとなれば幸いです。また、何か思い出したら連絡をします。
村田 隆