ここでは、講義のシラバスやプリントなどを紹介します。
研究室から持ち帰った資料を整理しているのだが、こんなものがあった。一部は折り畳みページで紹介している。
☆生活指導論(2年後期)、特別活動の研究(3年前期)。
・〈教育〉〈学習〉の並行シェーマ
・2004年度生活指導論授業計画
・2004年度生活指導論試験問題
・生活指導論授業計画(年度記載なし、上記のプリントと一部同じ)
・2004年度特別活動の研究授業計画
・2007年度生活指導論シラバス
・2008年度生活指導論シラバス
・2009年度特別活動の研究授業計画
・2009年度特別活動の研究・補足メモ
・2011年度特別活動の指導授業シラバス
・2013年度特別活動の研究・補充ノート⑵
・2016年度生活指導論定期試験問題
・2017年度生活指導論授業シラバス
・(年度不明)特別活動の研究・補充ノート
・(年度不明)生活指導論・補充ノート…いじめについて
・武田鉄矢さん(金八先生)への手紙 2005年7月1日
・「自己責任」問題の理解低迷滋養帯についての中間コメント2014年6月28日
・資料:わたしの「班つくり」とはなんだったのか 大西忠治
・資料:愛は教えられるか
・資料:学校教育の構造 竹内常一
・資料:新明解国語辞典 もの
・資料:教育ニ関スル勅語
・資料:虫眼とアニ眼 斎藤優奈、中込紗椰
・2009年度特別活動の研究:授業ノート…村田隆氏提供
・( )年度生活指導論:授業ノート…村田隆氏提供
・学校教育活動の領域区分(玉子おむすびシェーマ)…吉田氏に作成してもらったようだ。USBあり。
2005年7月1日
武田鉄矢さん(金八先生)への手紙
拝啓
突然お便りする非礼、お許しください。
先日(とはいえ、もう一月近く前になりますが)、事務所(武田商店)にお電話し、宛先
を教えていただき、このお便りをさせていただいております。その折にも少しお話ししま
したが、先頃放映された『3年B組・金八先生(第7シリーズ)』の中の台詞について、お教
えいただきたく、またお願いしたいことがあり、まことに勝手なこととは存じますが、お
暇のとれたときにでもお目通しいただきたく打鍵させて頂く次第です。
申し遅れましたが、私は、大東文化大学文学部に勤務し、教職課程をとる学生たちに教
育学を教えている者でございます。本来は「教育方法の哲学」を専攻しておりますが、主
な担当科目として「生活指導論」や「特別活動の研究(HR・行事・生徒会・部活動など
の指導法)」を受け持っていることもあり、とくに『金八先生』のシリーズは、いつも自身
としても興味を持って拝見し、また大学での授業でもしばしば話題にさせて頂いて参りま
した。時には、番組の一回分の内容をそっくり採りあげて議論し、あまつさえ“定期試験
問題(?)"の一部にしたこともありました。
で、今回お教えいただきたいと申しますのは、先般、第7シリーズの第7回(2004年11
月6日)放映分の終幕部で、金八先生が独白した台詞についてです。
ご記憶かとも思いますが、再現してみますと、それは次のような台詞でした。
〈あなたにやさしくできたから、やさしい私になりました。私をつくるのは、あなたです。〉
父の経営する会社の不祥事で、学校にも出られず、自室に籠もってしまつた「崇史」を
心配した「しゅう」が、ケータイで崇史を彼の住むマンション前の川っぷちに呼び出しま
す。二人が出会うところに行き当たつた金八先生が、思わず掛けようとした声を呑んで、
独り語つ場面でした。その後、しゅうは、トラック運転手をしていた父が薬物づけになっ
て起こした事故の余波で、しばらく前から一家が隠れるように暮らしている引越し先の家
の前へと初めて崇史を連れてゆきます。幼なじみにも隠していた自家の“転落"の実情の
一端を、今、思わぬ不幸に苦しんでいるその友に明かすことで、いわば〈惨めさを共有す
る〉ことを通して励まそうとしたわけでした。
この台詞に出遭って私は驚きました。この間、自分の教育論の核心として考えてきてい
た事柄とぴったりと重なるものだったからです。翌日にはもう、「昨日の金八先生コーナー」
のエピソードとして、大学の授業の話題にしたものでした。
その後、ノヴェライズ本を見てみましたが、該当部分には、「金八先生は、かけようとし
た声をのみこんだ」「仲のよい後ろ姿を見送って、金八先生はもと来た道を引き返していっ
た」とあるのみで、先の台詞はありません。また、この出版社(高文研)とは以前から少々
交渉もあり、編集者にテレビ台本を調べても貰いました。が、そこにはさらに簡略な卜書
きがあるだけだ、とのことでした。
しかし、それを不思議なことと思ったわけではありません。むしろ、あの場面の台詞ま
わしなどからも、この言葉は武田さんのアドリブ(?)によるものかもしれない、と当初か
ら私自身、感じてもいましたので.…。きっと、撮影現場での演出として、ディレクターと
の相談もあり、武田さんの発意からあの台詞は生まれたのだと思うのですが、いかがでし
ょうか?
以前、たしか何かのテレビ番組のなかで、『金八先生』の最近シリーズで恒例の卒業式後
の教室で生徒一人ひとりに言葉を送る場面などは、台詞部分が白いままの台本を渡される
のだ、と武田さんご自身が語られているのを耳にした記憶もあります。他にも、そうした
演出が、殊にこの作品の場合には折々あるのだろうと推測しています。作中人物としての
金八先生の〈声〉と、演じ手である武田さん自身の〈声〉とが、いわば倍音として重なっ
て響くように感じられるそうした場面を拝聴しながら、「昔(戦前)から、教壇を追われた元
教師が社会全円を教育の舞台にすべく出版社を起こすといった話があるが、教育実習まで
経験されている武田さんはテレビドラマを、よい意味での“自分流の教壇"にもしている
わけだな」と感じ入っております。
ところで、先の台詞です。いかにも大学教師風の“解釈"と苦笑されるかもしれません
が、「〈他者への具体的な関係(関わり)〉が〈実体としての私(自我)〉に先立つ」というこ
とを、あのフレーズは見事に言い当てているように思われるのです。「自分探し」などと言
いながら、その実、他者との真率な関わりを怖れ、囲いの中で自分の内側ばかりを覗いて
いるような傾向が強まる世に、大切なものとして取り戻さなければならない視点だ、と思
うのです。
実は、先のフレーズを授業で紹介した際、すぐに一人の女子学生が話しに来ました。「あ
の台詞は少し違うのではないか」と言うのです。「あなた(みんなに)にやさしくされたから、
やさしい私になりました、というのならよくわかる気がするのだけれど.…」というのがそ
の思いだ、とのことです。真剣に教師を目指している彼女としては、やさしい子どもを育
てるためにも、子どもたちにやさしい大人(教師)でありたい、と考えるというわけでもある
でしょう。それはそれで判りますし、励ましてもやりたい姿勢です。しかしやはり、「あな
たにやさしくできたから.…」と「あなたにやさしくされたから.…」との違いは無視でき
ません。そして、それは単に、後者「された」の含みもつ受身の甘さを、前者「できた」
は排している、といったことだけに留まるものではないでしょう。
例えば「やさしい私」を、自分の内側を覗くようにして探すのは、自ら迷路に填るよう
なものだ―そもそも、「やさしさ」にしても、私がまずもって私の内にもつものではなく、
私がそのとき向きあっている他者との間にこそまず到来することなのだ──ひとは、自分
が実際にそうである以上の「やさしさ」を、他者への具体的な関わりのなかで引き出され
ることがある──で、そうして引き出された〈関わり行為〉の容量分だけは、確かに「や
さしい私」が新しくそこにいる──それは、私が誰かに自分の「やさしさ」を分け与える
というよりは、他者への関わりによって「やさしい私」を、むしろ恵まれるとでもいうベ
き経験なのだ…。
おおよそこのように、先の台詞を私は聴きとりました。
こうした理路は、単に「やさしさ」にのみ関わるものではないでしょう。子どもたち/
若者たちの〈こころ〉を育む営み全般に通ずることだと思われます。だとすれば、私たち
大人の何より為すべきことは、「やさしさ」にせよ何にせよ、(ご存知のことと思いますが)
例の『心のノート』のような“国定ワークブック"なんぞを使って教え込むことではない、
ということになります。彼ら/彼女らが、例えば「やさしさ」を互いに引き出されつつ他
者に関わりあうような実際(リアル)の場を破壊から護り、維持保存(コンサーヴ)する、ということこそ大切なの
ですね。とりわけ、思春期―青年期にあっては、同世代の仲間関係が独自に重い意味をも
つことは言うまでもありません。
そう言えば、先の台詞の直前場面でも、金八先生は、母親の手で裂かれようとしていた
「和晃(わこう)」と「孝太郎Jとの掛け替えのない友達関係を繋ぎ直す一仕事をしてきていたので
した。家族の誰もいないアパートの一室で、コンビニ弁当の夕食をひとり淋しくとる孝太
郎と言葉を交わしたあと、その帰り際、和晃から預かってきたゲームソフトを手渡してや
りながら金八先生は言い残します。
「和晃はなあ、お前(孝太郎)のこと、たった一人の友だちだって言って、泣いてたんだぞ。
ほんじゃな、ハイ、しっかり噛んで、ゆっくり食え。」[放映ヴアージョン]
ここでは二人の気持ちをより強く結ぶための言葉を意図して口にした金八先生が、先の
崇史としゅうの場面では、思わず掛けそうになる声を危うく抑えて、二人の様子を蔭から
見守り、見送ったのでした。しかしどちらの場合にも、少年たちの友愛関係を〈尊厳〉を
もつこととして遇し、善意からであれ大人の側から侵そうとはしていない、という点で金
八先生の姿勢は全く一貫しているのだと感じました。自分たちの関係を、いわばサンクチ
ュアリ(聖域)として尊重されたこれら二組の少年たちは幸いでした。ちなみに、先の独自の
言葉に、ある種“恋愛"を想わせる雰囲気が漂っているのも、本格的な異性愛の段階に差
しかかる直前の十五歳という時期の少年たちの親密な友情が、元来、同性愛的な質を伴う
ものであることに相応しい表現であったと思います。
いや、勝手な御託が長くなりました。最初のお伺いとお願いに戻ります。
〈あなたにやさしくできたから、やさしい私に、…〉という、あのフレーズを、引用さ
せていただきたいのですが、その著作者(発案者)を武田さんとしてよろしいでしょうか?
自分の話の一コマのエピソードとして触れるだけだったこれまでとは違って、近く一つの
主題として正面に採り上げて、講演や授業で触れたり、書き物に引用したりさせていただ
きたいものですから、今回はこの言葉の出所をきちんと特定したい、と考えるのです。あ
るいは、この作品(この回)の原作・脚本は小山内美江子さんであることも考慮に入れて、
著作者の表記を工夫する必要もあるでしょうか?
また、この台詞の発案者が武田さんである場合、参考にされたものが何かあるのでしょ
うか? 恣意的な聴き取りかもしれませんが、放映作中、あの台詞を口にされるとき、武
田さんは、金八先生が自分の心に以前からしまわれていた大事な言葉を噛みしめているか
のように演じられた、いや、もっと端的に言えば、何か覚えていた言葉を金八先生が小さ
な声で口ずさんでいる(祈り唱えている)かのように演じられたと感じたのですが、いか
がでしょうか? この言葉には、何か出典にあたるものがあった、あるいは想定されてい
た、ということなのではないでしょうか?
あのフレーズは、普段使いの話し言葉とは明らかに異なって、整ったリズムの型をもっ
ています。その点からしても、単にあの時あの場で金八先生の口を自然に突いてでた言葉
とは少々違ったものとして受けとるべきもののように思われたのです。(今度のシリーズで
は、都合で観ることの出来ていない回が二三ありましたので、この辺り、あるいは基本的な
誤解が混入しているかもしれません。すでにDVDが発売されているようですので、全篇
を近く見直すつもりですが..。) で、典拠となつている可能性のあるものとして、あの回で
も触れられていた長田弘さんや相田みつをさんの著作など幾つか当たってみましたが、そ
れらしい言葉には行き当たることができませんでした。やはり、武田さんがご自分で創られ
たフレーズなのでしょうか。であればあったで、その案出(創作)の経緯や思いをぜひお教
えいただきたく存じます。あるいは、どこかにすでに武田さんご自身が書かれたものなど、
ございませんでしょうか。
金八先生のあの独白に送られた後、二人の少年が夜の月明かりの下、壊れたトラックの
屋根の上でリンゴを齧りながら共に口数少なく時を過ごす場面は、今回のシリーズ全体の
なかでも出色であったと思いますが、そのいとおしさを説得力あるものにしていたのも、
あの台詞であったと考えます。あのフレーズの美しさは、 ドラマの流れのなかでただ一度
語られただけで忘れ去るに任すのはあまりにもモッタイナイ、と感じているのです。
お忙しいなか、すでに放映後半年以上にもなる一言の台詞について、まことに勝手なお
便りで恐縮の至りですが、ごく簡単な形で結構ですので、お手すきの折にでもお返事をい
ただけますなら幸いこれに過ぎるものはございません。
また、ことのほか暑い夏が到来しています。くれぐれもご自愛のうえ、ご活躍下さいま
すよう。
敬具
2005年7月1日
藤本卓
武田鉄矢様
特別活動の研究 2009年度 授業計画
本講義は、教科外教育の方法的独自性を自覚することを目指して行われる。
すでに、一部学んでいるように、公教育学校の教師はインストラクターである
ばかりでなく、エデュケーターでもあることが求められるのだが、人が他者の
人格性を育てることはどのようにして可能となり、またどこまでが許されるの
か。今日、学校教師たちが社会の殊に強い要請と強い拒否とに挟撃されるのも
まさにこの点に関わっている。
1 はじめに-特別活動は課外活動か?
2 <愛>は教えられるか?
-教育課程の領域と指導形態
3 教師は「噂師」のカタワレなのか?
一公教育の自己限定性と消極教育の能動性
4 教科外諸活動の教育課程化は必要/可能か?
―特別活動の内容分類と構成原理の変遷
5 学校の掃除は児童・生徒がやるべきか?
-教科外諸活動の二つの系譜
6 子どもは「勉強」するために毎日学校にやって来る?
―年齢階梯制/ピアの力と近代学校の自己侵食
7 学校儀式は教育活動か?
一学校行事・学校儀式とシンボル政治
8 むすび―子どもコスモスの新生を!
特別活動の研究(藤本)2009年度 補足メモ
①人格性を育てるのは「自らの経験」か「他者からの感化作用」か?
講義のなかで、「人格性そのものを教授によって身につけさせることはできない」、つ
まり、「人格性は自分の実際の経験のなかでしか身につかない」と述べるとともに、同時
にまた、「人格性を育てる影響力の主要なものを他者からの感化作用と呼ぶ」とも述べま
した。
この両者は、一見別々の主張のようにも間こえますが、二つをつないで理解すること
が重要です。たとえば、人に優しい先輩の姿を見て、自分もあのようになりたいと考え(憧
れを持って)、実際そのように(他の人に優しく)してみる経験のなかで、自分自身も優し
い人格性を獲得する、といつた具合に。
②「生活指導」の定義について
本講義(並行シェーマ)では「生活指導」という術語を、「訓育(人格性を育てる作用)」
の「指導形態」を表わす語と規定して用いています。
公教育の自己限定性の下にある学校の教師は、自分をモデルにした無限定な(恣意的
で権力的な)感化作用を一方的に働かせることはできませんし、働かせてはなりません。
しかし、同時に、人格性の形成に働く主要な影響力が他者からの「感化」であること
も疑えないとすれば、学校の教師がなすべきことは、それぞれの生徒の周りに実際に存
在している人間関係(=感化関係)のネット(網)に心を配り、それをより豊かなものにす
るように努める、ということになります。
つまり、生徒の生活こそがその生徒の人格性を育てるということを踏まえて、その生
活(のなかにある感化関係)をより多面的で深いものになるよう導く仕事という意味で、
それを「生活指導」と呼ぶわけです。
したがって、この意味での「生活指導」では、〈教師一生徒〉関係のあり方が教科指導
の場合とは根本的に異なります。
[なお、本年の講義では、教科指導の指導形態のあるべき姿を、伝達イメージではなく三項関係の
分かち伝え(シェアー)のイメージとして説明する際に、教授内容を指す「モノとしての知識・技能」
という表現の「モノ/もの」の含意の深まりについても触れようとしましたが、みなさんが納得のい
く説明には成功していません。辞典のプリントを用いて、伝達イメージでの「モノ」は「物質・物体」
としての「モノ」であるのに対し、分かち伝えイメージでの「もの」は「もののけ」の「もの」に近い
と述べたのは、後者の場合、教師と生徒がともに教材に働きかけることを通して人間文化の本質(教育
内容)に迫っていくこととして授業を捉える、という考えによるものです。教科教授は、そうしたも
のであってこそ本来の訓育と結びつくと考えるわけですが、本年は説明が不十分でしたので授業のこ
の部分(「モノ」と「もの」の違いに関わる部分)は試験の対象にはなりません。]
③「レンジャー・イメージ」の〈教師─生徒〉関係とは?
上に述べたように学校教師の行う訓育は「生活指導」という形をとるべきなのですが、こ
の「生活指導」という指導形態の特徴は、「〈教師─生徒〉関係」の典型イメージを浮かベ
ることで把握できます。
教科指導の場合(伝達→分かち伝え)とははっきりと異なって、生活指導の場合には、感化
作用が豊かに働き交わす「場を保全する」という意味で「レンジャー」という言葉でその
関係イメージを表しているわけです。つまり、たとえば、いわゆるレンジャー(森林保護官)
が、希少生物の生きる生態系を保全する活動を行なうように、学校教師は、生徒をとりま
く感化関係=人間関係の環境(生態系)を豊かなものとして保全する仕事を行なう、というこ
とです。
④「生活指導」と「市民自治訓練」―講義の前半と後半はどうつながるのか?
生徒をとりまく感化的環境のなかでも、とりわけ大きな独特の意味をもつのが「ピア(同
輩)関係」のなかでの感化作用です。学校は、同世代関係の濃密に存在する場として、生徒
の人格形成にとって重要な意味をもち、教師は、そこに直接に関わる人間として特殊に重
要な大人なのです。
とくに現在のように「子ども組」的な集団が消失した環境では、「子ども世界」はいわば
“絶滅危惧種の動物の群れ"のような存在です。今後、学校について、「子どもの同世代異
年齢の関係」を保全する場としての意味づけが強められる必要があるでしょう。そうだと
すれば、教師の役割を「レンジャー」とイメージすることの妥当性もよりいっそう理解で
きるようになりますし、そこで求められる指導性がむしろ「間接指導(消極教育)」となる
理由もよりいっそう明らかになります。
そして、そのさい重要性が高まるのが、「市民自治訓練」の場としての教科外活動です。
それは、自分たちの生活を自分たちで仕切っていくトレーニングの場として、「大人から相
対的に自立した子どもの世界」の意味をもち、かつての「子ども組」が果たしていた役割
に近いものを再生させる可能性をもちます。
なお、こうした観点をとる前提には、「子どもは大人に教育されるだけでは育たない」と
いう教育観があります。大人社会から与えられる規範や価値観も、子どもたちが自分たち
の世界での“わがこと"として自ら経験することなしには、内面から裏打ちされた本物の
規範や価値観としては身につかないということです。「子どもの発達権よりも基底的な子ど
もの自治権」という言葉が示しているのも、このような考えかたです。
子どもは、大人に教育されるだけでは育たない。〈世代の自治〉論、新しい「訓育」の舞台としての学校。
特別活動の研究(藤本)2013年度 補充ノート(2)
α.「世代集団」の本質
本講義において、「消滅した子どもの自治組織」と呼ばれているのは、近代以前の地域社
会に広く存在していた「年齢階梯制組織」=「世代集団」です。それらは、単に個々の子
ども・若者の発達段階を示すものではなく、一種の自治組織として村落生活のなかで欠か
すことのできない役割を担う実体的組織集団でした。その役割遂行のなかで、前代の子ど
もたち、若者たちは人間的成長を遂げていたのです。
子供組=平素は自然発生的な遊び仲間に溶解しているが、決められた年中行事に当
たっては、組織的に行事を管掌する。行事の際には「子ども小屋」をもつ。
道祖神祭・鳥追い。石合戦(端午の節供)・七夕・十日夜・亥の子・天神祭・…
なお、女児の子供組組織はまれだが、雛流し・盆釜など、女の子ならでは
の役割も広く存在した。
若者組=多くの場合、数え15歳から結婚までの若者で組織された「若者組」は、自
分たちの詰め所(「若者宿」)をもち、重要な日常的役割も担う、村落の“常
設機関"であった。
その主要な役割は ・村落の警備・防災
・共同労役の中核―→「一人前」の起源
・祭社の執行
・村の仕来りや性に関わる教育―→「婚」
*なお、前代の「若者」は、未成年ではなく、「若い大人」である点、要注意!
娘組=男性の組ほどの組織性はもたないが、やはり「娘宿」をもち、平素から夜な
べ仕事を集まって行うとともに、行事や祭礼の際、若者組を補佐する役割をに
なった。しばしば、若者たちがこの娘宿を訪ね、仕事を手伝うとともに“夜遊
び"を愉しんだ(「合コン」の先祖??)。
*ちなみに、庶民の場合、前代においても“恋愛結婚”が珍しくなかった!!
こうした世代集団による訓育と並行して、親子関係も直系血縁だけに閉じられてはおら
ず、地域社会のなかでネットワーク化されていました。
一→仮規制度(名付け親・拾い親・カナ親・烏帽子親・宿親)
─→“孤立(密室)子育て"の回避
β.近代学校による「世代集団」の換骨奪胎
・上からの「啓蒙」「教化」の視点による民俗的伝統行事(陋習弊風)の排撃
(口実:金銭分配の悪習、サイト小屋の火災、賭けごと遊びの蔓延)
・「組」としての学級組織(等級制学校→単級学校→学年・学級制学校)
《今日、学級のことを「組」とよぶのは、子ども組の「組」から来ている。
・伝統的な「子供組」から、学校主導の「地域子ども会」への改組
(
⇒総じて、「世代集団」による子ども・若者の自治的ヘゲモニーは、大人(学校教師)の手
に剥奪されました。その結果、〈ピア(同輩)関係〉がもっていた人間形成力を奪われて、大
人たちから一方的に“教育"されるだけの子どもたちには、“いつまでたっても大人になら
ない"という悲喜劇が現出している、と見るべきでしょう。
γ.「教科外教育」と「市民自治訓練」
それぞれの生徒をとりまく感化的環境のなかでも)、とりわけ大きく独特な意味をもつの
が〈ピア関係〉のなかでの感化作用です。学校は、同世代関係の濃密に交錯する場所とし
て、生徒の人格形成にとって重要な意味をもち、学校教師は、その場に直接関与する専門
職として、特殊に(微妙に)重要な立場にある大人なのです。
とくに現今のように、「子供組」的な世代集団が消失し、加えて極端な少子化の進行した
生育環境にあっては、〈子ども世界〉は、“絶滅危惧種の動物の群れ"のような存在になっ
てしまっています。今後、学校について、近代化の過程でそれが果してきた役害を根本的
に見直し(逆転させて)、子ども同士の「同世代異年齢関係(広義の兄弟・姉妹関係)」を保全
する場としての意味づけが強められる必要があるでしょう。そうだとすると、教師の役割
を「レンジャー」とイメージすることの妥当性もよりいつそう理解できるようになります
し、そこで求められる指導性がむしろ「間接指導(消極教育)」となる理由もよりいつそう明
らかになるでしょう。
そしてそのさい、重要性が高まるのが、「市民自治訓練」の場としての「教科外諸活動」
です。それは、自分たちの生活を自分たちで“仕切る”トレーニングの場として、「大人か
ら相対的に独立した子どもの世界」を育み、かつての「子供組」や「若者組」「娘組」の果
していた人間形成的役割に近いものを再生させる可能性をもちます。(ここでの「教科外活動」は「服従訓練」としてのそれではない、という点に要注意!!)
なお、こうした観点をとる前提には、「子どもは、大人に教育されるだけでは育たない」
という教育観が伏在しています。大人社会から与えられる規範や価値観も、子どもたちが
自分たちの世界なかでの“わがこと"として、実際に(ウソッコでなく、ホンコで→つまり、
責任を問われる仕方で!)自ら経験することなしには、内面から裏打ちされた真性の規範や価値
観としては身につかない、ということです。「子どもの学習権よりも基底的な子どもの自治
権」という言葉が示しているのも、このような考え方なのです。
δ.近代教育の虚焦点としての「学校儀式」
近代国民国家(Nation State)の構築における「学校儀式」の役割
明治維新の二重性― 「欧化」と「復古」──帝国主義の状況下での国家統一
(そもそも、日本の近代学校教育は、この後発急進的近代化の槓桿(レバー)として、
上から権威主義的に導入されたものだった。)
その二重性の典型としての
「明治の改暦」(M.5)一経済合理性の追求と神道儀式の新造普及
さらに、その焦点としての「国家祝祭日」の制定
(近代的枠組みと古代的内容を併せもつ休日)
ex.紀元節・天長節・神嘗祭・新嘗祭・・・
民衆に不人気のそれら国家祝祭日を
広く定着させるための手立てとして、「小学校祝日大祭日儀式規定」(M.24)
《この普及は、新政権が時間(歴史)の支配者でるあることを示す上で重要視された!
ちなみに、これらの祝祭日は学校休日ではなく、登校して儀式に参列する!!》
つまり、わが国の「学校儀式」は、学校現場の教育活動の一環として創られたものでは
なく、「国家儀式」をメディアのなかった時代に全国津々浦々で―斉に実演して見せるもの
として始められたのです。通常の教育史ではそれほど重視されていない論点ですが、この
ことは、その後の日本の学校文化の質(風土性)を根っこで規定したものとして見逃せない意
味を持っています。それは、現在もなお、学校儀式をめぐって、厳しいイデオロギー対立
が表面化することがあるのにも現れている、と言ってよいでしょう。21世紀の学校がどの
ような儀式をもつべきであるか、時間をかけて深く考えてみる必要がある、と考えます。
むすび:「子どもコスモス」の新生を!
*今日、この社会の子どもたちの育ちについて、私の診るところ、何よりも憂慮すべき問
題は、子どもたちが伝統的な意味での〈子ども時代〉〈子ども世界〉をゆったりと手ごたえ
を感じつつ過ごせなくなっている、という点にあります。
*ここに言う〈子ども時代〉とは、全体社会のなかで子どもたちが、大人集団とは相対的
に区別された「自治」的な子ども集団を形成しながら、なお全体社会から期待された「出
番」をもつて、現に子どもたちであるがゆえの「役割」を果たしつつ暮らす時期、という
意味です。それは、子どもたち〈子ども世界〉=〈子どもコスモス(宇宙・意味秩序)〉を
もって生きる時期、と呼んでもよいでしょう。
*19世紀型の学校は、むしろこの〈子どもコスモス〉を壊して、個々別々の子どもを大
人社会にできるだけ都合よく移行させることに力を尽くしてきた面があります。しかし20
世紀を通して、そうした学校のありかたは、子どもの〈人としての育ち〉の根っこを痩せ
細らせてしまい、延いては学校自体の存立基盤をさえ掘り崩すものであったことが明らか
になってきた、と言えます。
*したがって21世紀の学校は、歴史経過からすれば逆説的なことになりますが、むしろ
自らの存立基盤の再構築のためにも、学校自体が、この〈子どもコスモス〉の新生の場(あ
るいは、それを支える場)に生まれ変わる必要があるでしょう。
*そうだとすれば、これからの学校は、その機能として「知育=教授」のみを限定的に前
景に立てるのではなく、むしろ(子どもコスモス)を保障する場として、新しい「訓育」
の舞台に(学校)自体を生まれ変わらせなければなりません。その途を考え続けたい、と
思うのです。
2013年度・期末試験のポイント予告
①「課外活動」と「特別活動」の用語解説
②「感化作用」と「習い覚え」の連関
③「学級会活動」と「学級指導」の異同
④「子どもの発達権」における「自治権」の基底性
生活指導論(2017年度)授業シラバス
藤本卓(ふじもと・たかし)
[授業目標・内容]
最初に断っておく必要があるのだが、本講義でいう〈生活指導〉とは、決してそのまま
“スクール・ポリス"の役割(学校の秩序・規律の維持機能)のことではない。つまり、
世に広く(皆さんのなかにも)見られるこの言葉の通俗イメージを一旦カッコに入れ、教
育の原義に立ち戻って提え直す必要がある、ということだ。そうしなければ、類似の言葉
「生徒指導」との異同も明らかにならない。
じつは、〈生活指導〉というこの言葉、この国の学術専門用語(テクニカル・ターム)
のなかでは極めて稀なことに、日本に根生い(ジャバン・オリジナル)の言葉なのだ。講
義でも些か触れることになるが、興味を覚えた人は、大正末から昭和初期に実在した個性
的な学校「池袋児童の村小学校」について調べてみてほしい。この学校で、当時広く盛ん
であった〈生活綴り方〉とも関わって、〈生活指導〉の自覚的な実践は始まつた。
授業で扱うべき事柄は数多あるが、本年は、とくに「いじめ問題」に重点をおく。昨今、
この問題については報道も多く、すでに語り尽くされているようにも見えるが、じつは意
外な盲点がいくつも存在する。ここでも俗論に流されず、教育の営みにとって真に意味を
持つ「いじめ」把握はどうあるべきか、講義のなかで受講生とともに考え深めたい。
[履修上の注意]
いずれの論点も、かなりの程度オリジナルな展開となる。他の市販教科書の類では触れら
れていない議論がしばしば含まれるので、授業時の能動的な聴き取り姿勢が肝要である。学
校教育の仕事の深さ・危うさ・面白さについて、自らの理解と判断を再考するための刺激剤
として、主体的な構えで講義を受けとめられることを希望する。
なお、本講義は「特別活動の研究」の序論ともなるが、本年度2年生は、4年次にそれを
受講してもらう予定である。
[成績評価]
学期末の論述試験を主(75点)にして、課題選択レポートを加味(2~3本で10点~25点)
して評価する。
期末試験の準備ポイントは、授業終盤に予告する。レポートは別紙指定の参考文献等から
各自選択して、期末試験時に提出のこと。書式は、各課題毎に2500字程度で、A4版横書
きにし、選択書籍等から重要箇所(最も印象に残つた点など)を2~3箇所、それぞれ数行引
用したうえで、何が特に自分の関心を触発したのかについて感想・考察を述べるように。
なお、加点条件は本試験40点以上であることとする。また、提出は何本でも可とする。
[授業計画]
《序》教科外教育方法論の基礎としての〈生活指導論〉
① 「生活指導」教師はスクール・ポリスか?
② “サドベリー・スクール"に「生活指導」は存在するか?
《I》学校教育構造(並行シェーマ)のなかの(生活指導〉
・・・学校教師はインストラクターか?
⑴教えることが上手なら 良い学校教師になれるのか?
① “教"と“育"、“ 学"と“習"の字源
② “教えること"と“育てること"・・・「調教」と「栽培」の比喩
③ 「教育」と「学習」の古き語源と新たな概念
④教えない“教育"・・・Education by Master―Apprenticeship
⑤養育/保育/教育
⑵「覚え」より「学び」が大事というのはホントに本当か?
⑥始原の学習・・・体験(自修)の総合としての経験
⑦母語と外国語・・覚える言葉と学ぶ言葉
⑧ Character Education訓育とInstruction教授
⑨ HomeとClass・・・EducatorとInstructor
《Ⅱ》イマドキの子どもは皆ヨイコか?コマッタちゃんか?・・・「逸脱行動」の変遷
① 「学級崩壊」で壊れているのは“級"か?“組"か?
② 「長欠」問題から「不登校」問題ヘ
③ 「登校拒否」という表現の画期的意味
④ 「非行の三つのピーク」論の誤り
《Ⅲ》「いじめ」撲滅はやってよいのか?やれるのか?
① 「いじめ」という用語の謎
② 「いじめ」にも“三つのピーク"が存在したという誤り
③ 「いじめ」定義の拡散曖昧化
④ 「いじめは犯罪」というのは正義の主張か?
⑤ 「いじめ防止対策推進法」の直面する困難
《跋》“絶滅危惧種"としての子ども/“レンジャー"としての教師
[参考文献]
○黒柳徹子 『窓ぎわのトットちゃん』+小林宗作研究 講談社文庫
打木村治 『天の園』(全六部の内1冊以上) 偕成社文庫
灰谷健次郎 『兎の眼』 角川文庫
○壺井 栄 『二十四の瞳』 角川文庫
梨木香歩 『西の魔女が死んだ』 新潮文庫
松沢哲郎 『チンパンジーはちんばんじん』 岩波ジュニア新書
○明和政子 『まねが育むヒトの心』 岩波ジュニア新書
西岡常一 『本に学べ』 小学館文庫
○小川三男 『不揃いの木を組む』 文春文庫
D.グリーンバ―グ『世界一素敵な学校』 緑風出版
○宇佐美 承 『椎の木学校』 新潮社
○堀 真一郎 『自由学校の設計』 黎明書房
斉藤道子 『里山っ子が行く』 農文協
瀬川正仁 『教育の豊かさ学校のチカラ』 岩波書店
竹内常一 『新・生活指導の理論』 高文研
中野 譲 『地域を生きる子どもと教師』 高文研
岡崎 勝 『新 子どもと親と生活指導』 日本評論社
木之下隆夫ほか『クラスに悩む子どもたち』 人文書院
柳 治勇 『〈学級)の歴史学』 講談社
広田照幸 『日本人のしつけは衰退したか』 講談社現代新書
土井隆義 『つながりを煽られる子どもたち』 岩波ブックレット
○滝川一廣 『学校へ行く意味・休む意味』 日本図書センター
大村英昭 『非行のリアリティ』 世界書院
○鮎川 潤 『新版 少年非行の社会学』 世界書院
〇森田洋司 『いじめとは何か』 中公新書
なだ・いなだ『いじめを考える』 岩波ジュニア新書
芹沢俊介 『いじめが終わるとき』 彩流社
中井久夫 『いじめのある世界に生きる君たちへ』 中央公論新社
諏訪哲二 『いじめ論の大罪』 中公新書ラクレ
大阪弁護士会『事例と対話で学ぶ「いじめ」の法的対応』 エイデル研究所
卒業生提供
このページでは、大学での授業やゼミの様子のわかる資料を紹介します。
その一 次のものは礒部光泰くんから提供されました
資料Aの1: 宮崎園長先生ロングインタビュー!!バリアを排除するのではなくどう乗り越えるか
☆資料Aの2の元資料。「木更津社会館保育園」の園長さんへのロングインタビュー。添付ファイルで入手。
その二 次のものは和賀真純さんから提供されました
☆資料Aの2; 宮崎園長先生ロングインタビュー!!バリアを排除するのではなくどう乗り越えるか
発行者=大東文化大学「里山っ子たち」上映委員会 2010年5月発行
『私がまだ藤本ゼミに入る前の資料です。多分、私たちより四代前?のものです。藤本ゼミに入るにあたって、歴代こんなことをしてきたというのを知るため、先生から渡されてものです。先輩方の研究を授業で使い、後輩が議論するのも藤本ゼミの特徴だったと思います。』
☆資料B:子どもがつくるTHE学校―堀信一郎さんとお話をする会―
「きのくに子どもの村小学校についてのまとめ」2014年1月発行
2011年度卒業生 お話会主催
2012年度卒業生 実施調査、記録
2013年度卒業生 冊子製作、文字化
2014年度卒業生 冊子完成 公開ゼミも実施している
『いただいたお手紙にあった、「和歌山の学校」です。これも私がゼミに入る前のものです。はさんでいる資料は、文集を読んで内容をようやくし、さらにそこからディスカッションをする授業で使ったものです。』
☆資料C:「はせがわくんきらいや」感想文集
『基礎演習の授業で、「はせがわくんきらいや」という本を扱い、その時の感想です。確かこれが年度の一番最初の学習で、いきなり、この作品が来たので皆でウンウン悩んで考え、文集にした記憶があります。』
☆資料D:「あなたに合う教育方法」(フリースクール班OMIYAGE)+「発表を聞いてorして今思うこと」
『2年の基礎演習の授業で、グループに分かれてワークショップをひらきました。
藤本先生の授業は、とにかく活動!!実際にやってみる!行ってみる!!でした。』
☆資料E:個人文献紹介(平成24年度基礎演習藤本クラス作成者:2E)
☆資料F:文集「あなたが大人になったと感じた時」2-E藤本クラス
『「基礎演習」の授業の時のものです。
茶色の方はいくつかの班に分かれて、テーマごとに自分のおすすめの本を紹介する学習の際の文集です。水色の方は「あなたが大人になったと感じた時」の文集です。この時は先生の授業でイニシエーションを学んでいた時のものだと思います。』
☆資料G:和賀さんの『小説教育者』(添田知道著)についてのレポート
『2年の生活指導論の授業で課題図書が出され、本の紹介を書きました。これが私と藤本お話しするきっかけになりました。講義後わざわざ私を呼び止めてくださって、添田について色々とお話したのです。』
☆資料H:丸木美術館訪問レポート集(教育学科2年Eクラス 基礎演習A)
『大学2年の時、藤本先生の「基礎演習」の授業で、東松山市にある丸木美術館に行きました。藤本先生はこういう見学会があると、終わった後に必ず感想文を学生に書かせ、文集にしていました。』
☆資料I:谷川俊太郎の詩「あなたはそこに」☆クリックすれば、詩が読めます。
『ゼミ合宿では深夜一時頃まで語り合うのが藤本ゼミの慣例でした。(だいたい私は起きていられず、先生が盛り上がっていようが先に寝てました。)
お気に入りの詩を朗読し、優秀な人には賞品が出たりしました。たしか4年の冬の合宿です。』
☆資料J:『世界の果ての通学路』関連
①パンフレット
藤本ゼミナール2014年度公開イベント
~問い直せ!〈夢〉と〈学校〉~
映画『世界の果ての通学路』を観て、語り交わす会
②公開ゼミ当日タイムスケジュール+当日シナリオ(全員発言!!)
③『世界の果ての通学路』の感想文集
『4年生の時の「公開ゼミ」の時のパンフレットと、当日のスケジュールです。藤本ゼミでは、毎年年あけにこのイベントを行っていました。4年が中心になって企画し、講師を呼ぶタメコンタクトをとったり……3年も手伝い、4月から入ゼミ予定の2年もお手伝いで参加するのがいつもの流れでした。
この公開ゼミのために、早い段階から映画をみに行ったり、ディスカッションしたりと、何だかんだ夏ごろから準備をはじめていました。』
その三 次のものは小野雄一郎くんから提供されました
☆資料K:学び欲がいっぱい 『こんばんは』報告集
大東文化大学「こんばんは」上映実行委員会・2005
その四 次のものは村田隆くんから提供されました
☆資料L:「特別活動の研究」のノート
授業計画、〈教育〉〈学習」の並行シェーマのプリント2007年版あり。
その五 次のものは飯嶋たみさんくんから提供されました
☆資料M:夜なのに明るい学校 映画『こんばんは』感想文集
藤本ゼミナール2005
その六 次のものは村田隆くんから提供されました
☆資料N:「生活指導論」のノート
その七 次のものは大澤明浩くんから提供されました
☆資料O: 『里山っ子たち』パンフレット、報告集
大東文化大学「里山っ子たち」上映実行委員会・2010
これは2007年版の「〈教育〉〈学習〉の並行シェーマ」のプリントである(村田隆氏提供)。「特別活動の研究2009年」の授業で配布されたものと思われる。なお、この「並行シェーマ図」は完成形ではなく、中西英代氏より提供されたプリント(2019年に藤本卓氏から受け取った)ではいくつかの修正がある。特に「並行シェーマの三次元化」という図が新しく加わっている。
以下は、村田くんから提供してもらった「特別活動の研究2009年度」の補足メモです。
特別活動の研究(藤本)2009年度 補足メモ
①人格性を育てるのは「自らの経験」か「他者からの感化作用」か?
講義のなかで、「人格性そのものを教授によって身につけさせることはできない」、つ
まり、「人格性は自分の実際の経験のなかでしか身につかない」と述べるとともに、同時
にまた、「人格性を育てる影響力の主要なものを他者からの感化作用と呼ぶ」とも述べま
した。
この両者は、一見別々の主張のようにも聞こえますが、二つをつないで理解することが重
要です。たとえば、人に優しい先輩の姿を見て、自分もあのようになりたいと考え(憧れ
を持って)、実際そのように(ほかの人に優しく)してみる経験のなかで、自分自身も優し
い人格性を獲得する、といった具合に。
②「生活指導」の定義について
本講義(並行シェーマ)では「生活指導」という術語を、「訓育(人格性を育てる作用)」
の「指導形態」を表わす語と規定して用いています。
公教育の自己限定性の下にある学校の教師は、自分をモデルにした無限定な(恣意的
で権力的な)感化作用を一方的に働かせることはできませんし、働かせてはなりません。
しかし、同時に、人格性の形成に働く主要な影響力が他者からの「感化」であること
も疑えないとすれば、学校の教師のなすべきことは、それぞれの生徒の周りに実際に存
在している人間関係(=感化関係)のネット(網)に心を配り、それをより豊かなものにす
るように努める、ということになります。
つまり、生徒の生活こそがその生徒の人格性を育てるということを踏まえて、その生
活(のなかにある感化関係)をより多面的で深いものになるよう導く仕事という意味で、
それを「生活指導」とよぶわけです。
したがって、この意味での「生活指導」では、〈教師─生徒〉関係のあり方が教科指導
の場合とは根本的に異なります。
[なお、本年の講義では、教科指導の指導形態のあるべき姿を、伝達イメージではなく三項
関係の分かち伝え(シェアー)のイメージとして説明する際に、教授内容を指す「モノとし
ての知識・技能」という表現の「モノ/もの」の含意の深まりについても触れようとしまし
たが、みなさんが納得のいく説明には成功していません。辞典のプリントを用いて、伝達イ
メージでの「モノ」は「物質・物体」としての「モノ」であるのに対し、分かち伝えイメー
ジでの「もの」は「もののけ」の「もの」に近いと述べたのは、後者の場合、教師と生徒が
ともに教材に働きかけることを通して人間文化の本質(教育内容)に迫っていくこととして
授業を捉える、という考えによるものです。教科教授は、そうしたものであってこそ本来の
訓育と結ぶつくと考えるわけですが、本年は説明が不十分でしたので授業のこの部分(「モ
ノ」と「もの」の違いに関わる部分)は試験の対象になりません。]
③「レンジャー・イメージ」の〈教師─生徒〉関係とは?
上に述べたように学校教師の行う訓育は「生活指導」という形をとるべきなのですが、こ
の「生活指導」という指導形態の特徴は「〈教師─生徒〉関係」の典型イメージを浮かべ
ることで把握できます。
教科指導の場合(伝達→分かち伝え)とははっきりと異なって、生徒指導の場合には、感
化作用が豊かに働き交わす「場を保全する」という意味で「レンジャー」という言葉でその
関係イメージを表しているわけです。つまり、たとえば、いわゆるレンジャー(森林保護管)
が、希少生物の生きる生態系を保全する活動を行うように、学校教師は、生徒をとりま
く感化関係=人間関係の環境(生態系)を豊かなものとして保全する仕事を行う、というこ
とです。
④「生活指導」と「市民自治訓練」─講義の前半と後半はどうつながるのか?
生活をとりまく感化的環境のなかでも、とりわけ大きな独特の意味を持つものが「ピア
(同輩)関係」のなかでの感化作用です。学校は、同世代関係の濃密に存在する場として、
生徒の人格形成にとって重要な意味をもち、教師は、そこに直接に関わる人間として特殊に
重要な大人なのです。
とくに現在のように「子ども組」的な集団が消失した環境では「子ども世界」はいわば
“絶滅危惧種の動物の群れ”のような存在です。今後、学校について、「子どもの同世代異
年齢の関係」を保全する場としての意味づけが強められる必要があるでしょう。そうだと
すれば、教師の役割を「レンジャー」とイメージすることの妥当性もよりいっそう理解で
きるようになりますし、そこで求められる指導性がむしろ「間接指導(消極教育)」となる
理由もよりいっそう明らかになります。
そして、そのさい重要性が高まるのが、「市民自治訓練」の場としての教科外活動です。
それは、自分たちの生活を自分たちで仕切っていくトレーニングの場として、「大人から相
対的に自立した子どもの世界」の意味をもち、かつての「子ども組」が果たしていた役割
に近いものを再生させる可能性をもちます。
なお、こうした観点をとる前提には、「子どもは大人に教育されるだけでは育たない」と
いう教育観があります。大人社会から与えられる規範や価値観も、子どもたちが自分たち
の世界での“わがこと”として自ら経験することなしには、内面から裏打ちされた本物の
規範や価値観しとしては身につかないということです。「子どもの発達権よりも基底的な子
どもの自治権」という言葉が示しているのも、このような考えかたです。
※最後から二行目の「発達権」について。
《イミが複数、〈学習権〉に直せば良い、 ~を保障するものとして、との村田くんのメモあり》