僕たちは1971年に出会った。僕は大学1年生、卓さんは留年し2度目の1年生だった。その後僕たちがどんな青春を生きたか。2つの古い文章でその一端を示そうと思う。
A《友達がいて、仲間がいて、勉強があった》は、「学びの自分史」をという依頼で一九九五年に書いたもので、「友達がいて、仲間がいて、勉強があった」というタイトルは、「月刊高校生」編集部がつけたものだ。『ブリコラージュ通信1号』(一九九九年)に一度全文を再録した。
前半部分は、「小学生のころ、算数が好きだった」、「学校信仰の瓦解」、「浪人時代、大江健三郎に出会った」というタイトルで小学校から大学入学までのことを、綴っている。今回、藤本卓さんを追悼するために、この原稿の後半部分(大学入学以後)を再々録する。
もう一つの文章、B「学園に新しい風をゼミナールの風を!」は僕の書いたものではない。神戸大学教育学部ゼミナール実行委員会名のレポートだ。
一九七四年三月に開催された、第二十回全国教育系学生ゼミナール(全教ゼミ)金沢大会の統一テーマレポートとして作成され、発表されたものだ
神戸大学教育学部のゼミナール実行委員会の事務局全員で検討して作成したものだが、実質的には卓さんの考えを軸にして作られていて、彼が目指したもの、彼の初志がわかると思う。
Aの中で《この自主ゼミ運動の精神や実際の活動については、ぼくではなくもう一人の藤本君が語るべきことであって、ここでは詳述は避けるが、まさに「疾風怒涛」という形容が大げさでない運動と人々の出会いがそこにあった》と僕は書いたが、それを運動の理念として結晶させているのがBだといえる。
A《友達がいて、仲間がいて、勉強があった》
藤本英二
A《学びの自分史》
友達がいて、仲間がいて、勉強があった
藤本英二
(後半のみ)
【もうひとりの藤本君】
大学に入って半年ほどは、ぼくは熱心に授業に出ていた。大学に入ったとたんに遊び始める学生に対する反発から、きちんと授業にだけは出ようとしていたのだ。
合気道部に入ったり、ロシア語のサークルに入ったりしなからも、自分の話をしっかりと受けとめてくれる相手、自分を賭けることのできるものを見つけることのできぬまま、不完全燃焼の気分を抱えて一年生の後期を迎えることになった。
秋から冬にかけて、大学の授業料値上げが問題となり、何度もクラス討論会が持たれるようになったのだが、そのなかでぼくは、ぼくと同じ姓の藤本君と知り合った。藤本君は留年生で同じ語学クラスに入っていたのだか、半年ほどは全然授業にも出てこず、ぼくはそんなやつが同じクラスにいるということも知らなかった。授業には顔を見せないけど、クラス討論会には出てくるという「変な学生」だったが、いわゆる学生運動家タイプではなかった。
ぼくたちは知り合ってすぐに気が合って(お互いの失恋の話も延々とした)、友達になったのだが、話せば話すほど、自分で勉強を続けてきた者とそうでない者(ぼく)との差を感じるようになった。「こんな本知ってるかなあ」と紹介されるものは、名前も聞いたことのない作家・思想家・哲学者ばかりで、ぼく正直焦ってしまった。ある日、「古本屋へ行くんだけど、つきあってくれる」と誘われて、「何かさがしてる本があるの」と聞くと、「いや、売る相談に」と答えが返ってきた。三木清の全集をいくらで引き取ってもらえるかという交渉をそばで聞きなから、ぼくはぶっ飛んでしまった。
ぼくは藤本君からいろいろな話を聞き、それまで自分が知っていたのとは違う広い精神領域を垣間見るようになった。
授業料値上げ反対のストライキは、 バリケード封鎖、機動隊の導入、期末試験のボイコットなど、紆余曲折を経ながらもやがて終息していった。しかし、ぼくたちは「授業料値上げのような現代日本の問題をとらえるためにも、日本の近代を理解する必要がある」という藤本君の意見で、クラス討論会を発展的に解消し、教育学部の学生を中心に日本近代史の学習会を始めることになった。これは、先に述べたような高校教育の欠如を自分たち自身で埋めていくことでもあった。江戸末期・明治維新からスタートしたこの学習会は、その後一年ほど続き、二年生の秋、専門へ上がるのを機に一応解散した。
この学習会は日本近・現代史を学ぶという目的で行ったのだが、近・現代史の理解以上にわれわれみんなが学んだことがある。それは、「わからない」ということが実はとても大切なのだということだ。テキストを読んで何となくわかったような気になっていても、だれかが「どうしてこう言えるのかわからない」「このことがどうつながるのかわからない」と正直に言うと、みんなはたと困ってしまう。わからないと言っている人にわかるように説明しようとすると、実はこっちも十分わかっていたわけではないということになることがしばしばだった。理解の質か間われることになる。
集団で学習する場合、「ものわかりの悪い人間がいる」ということが、その集団全体の理解の質を高めるのだ。疑問を抱かずす早い理解を示す者が実は表面をかすっているにすぎず、わからないとこだわっている者がかえって深くその問題へ参入することもある。話し合うなかで、問題は立体的な姿を見せ始め、疑問はますます広がっていくことになる。この学習会では、そのことを繰り返し経験した。問いと答えは必ずしも一対一に対応しているわけではなく、一つの問いに対して答えはいく通りもあり得るし、むしろいく通りもの層・いく通りもの水準において答えは存在するのだ、ということがわかった。
ぼくはこの学習会で、「わからないことはわからないと率直に発言し、みんなで話し合うということが、自分の学習権だけでなく、ほかのメンバーの学習権をも保障することである」ということを身を持って学んだ。そして、このことは将来教師になりたいと思っている教育学部の学生にとっては、「学ぶとはどういうことか」「わからないということをどうとらえるか」ということの実践的な学習会にもなっていた。
たぶん、ぼくは教育学部の友達とこのような学習会を続けることで、少しずつ教師になる気持ちを育ててきたのだと思う。教えること、学ぶこと、語り合うことのなかで、他者と自分との垣根を越えて、人間がお互いに自己を全面的に解放していけるかもしれない、そう感じ始めたのだ。
【近教ゼミに参加して】
ある日、藤本君がぼくに「君にはおもしろくないかもしれないけれど、よかったら一緒に行かないか」と誘ってくれた。ぼくは何だかよくわからぬままに、教育学部の友達が大勢参加するのでまぜてもらって、奈良教育大学で行われた近畿教育系学生ゼミナールという大会に出かけていった。
まあ、比較的これが無難かと参加した文学教育の分科会は参加者一〇名ほどで、木下順二の「かにむかし」と西郷竹彦の「さるかに合戦」の再話の比較をやっていた。
討論が進むにつれて、西郷再話を支持する者と木下作品を支持する者にはっきりと立場が分かれ、討議は白熱してきた。
ぼくは「かにむかし」派であったが、なぜこの作品のほうがいいと思えるか、相手を説得しようとすると、作品の細部をていねいに読み、自分の印象の根拠を論理化しなければならない。相手方も同じように論理化して、こちらを納得させようとする。この攻防はなかなかおもしろく、ぼくはこの討議にのめり込んでいった。
登場人物の造形性、オノマトぺ(擬声語・擬態語)の巧拙、作品の主題、作者の思想……をめぐってああ言えばこう言うのやり取りは果てしなく続き、どちらも自説をゆずらず、きりがなかったが、気かついてみれば、ぼくはどちらの作品の特徴もはっきりと把握できるようになっていた。子どもが読むようなやさしい作品でも、分析してみれば多くのことが発見できるのだということを、ぼくはこのとき実感した。
そして、先の日本史の学習会のメンバーを中心にして、藤本君は教育学部でゼミナール実行委員会を組織し、それから卒業までの二年の間、自主ゼミ運動を展開することになる。
ぼくはこの自主ゼミ運動の中心にいたわけではなくて、同伴者(居候)の位置にあったのだが、それでもけっこう熱心に首を突っ込み、さまざまな企画の運営に協力してきた。文学部の建物に行かぬ日はあっても、教育学部へこない日はないというふうになった。
この自主ゼミ運動の精神や実際の活動については、ぼくではなくもう一人の藤本君か語るべきことなので、ここでは詳述は避けるか、まさに「疾風怒濤」という形容が大げさでない運動と人々の出会いがそこにあった。自分たちの学習要求を自分たちの手で実現していこうとするこの運動は、最初の一年間だけで十数回の講演会や連続講座を開き、一〇〇人規模のゼミ合宿を成功させてきた。そのなかで文芸研・西郷竹彦氏、数教協・仙波元氏、歴教協・高橋?一氏、生活綴方・岩本松子氏、岸本裕史氏(このときまだ『どの子も伸ひる』は執等されてなかった)、森垣修氏(早くから地域に根ざした教育を実践されていた)など、民間教育研究団体の理論家や実銭家の方の話を聞くことができた。そして、多くの学生と知り合い、いろんな所でいろんな話をしてきた。それはいま振り返ってみると、どれほど贅沢な時間であったかということがわかる。
ぼく自身は教育学部の学生と文学教育研究会というサークルをつくり、全教ゼミ(全国教育系学生ゼミナール)、近教ゼミに積極的に参加するようになり、やがて、民間の教育研究集会や現場の教師のサークルにも出かけるようになる。勤評闘争の話、教室での子どもの話、職場の話、女性労働者としての悩み…このようにして全国各地を飛びまわりながら、多くの教師や教師志望の人々と出会ったことが、ぼくにとって何よりの勉強だったと思う。
文学部で七回の連続講座「ドストエフスキーの文学」(大学の先生を中心に特別に講義を依頼した)を自分たちの手で実施したのも、教育学部でのゼミ実践に影響されてのことだった。
もしぼくが文学部の建て物に閉じこもり、書物の世界に埋没していたら、ぼくはいまとはまったく違う人生を送っていたに違いない。同じように高校の教師をしていたとしても、きっと教育に対するスタンスがまったく違っていたはずだ。人間に対する信頼を持てず、仲間をつくることができず、小さな「自己」や「自我」に固執して、趣味の世界に耽溺していくか、学究的な方向に進んでいったかもしれない。
教師になってから二〇年、学生時代から出入りしていた「兵庫文学教育の会」を中心に、小学校の先生や保育園の保母さんたちと授業の話や教科書の話、子どもの話や絵本の話をしながら月一回のサークル活動を続けてきた。話すことで、ぼくは自分の考えを少しずつまとめてきたし、いい聞き手が自分のそばにいてくれることはとても大切なことだと実感している(いい聞き手は思いがけない方向へ話を打ち返してくれることかある)。
そして、毎年秋には児童文学の方々を招いて、講演会を開いてきた。かつおきんや、森はな、宮川ひろ、長崎源之助、岩崎京子、後藤竜二、岸武雄、大川悦生、あまんきみこ、杉みき子、今西祐行、梅田俊作、にしまきかやこ、きたやまようこ、長谷川知子…。自分たちが知りたいもの、聞きたいものを、自分たちでつくりだすというスタイルをずっと続けてきたわけだ。
【勉強とは何か、なぜするのか】
勉強とは何か、なぜするのかということを一般論として語る力量もつもりもないが、ぼくにとって勉強することがおもしろくなった、つまり意味のあることと自覚できるようになったのは、高校を卒業してからだった(何事においてもぼくは本当にスロースターターだ)。自分がいま生きているこの現実の世界に対して何か満たされぬ思いを持ち、それを解決するためにものを読んだり´考えたり人と話し合ったりする。そのようにしていくうちに、勉強していることと現実の世界との接点を見出すことができたなら、勉強はきっとおもしろくなるはずだ。
自分のなかの満たされぬ思い、不満や不安、疑間や悩み、怒りや憤りを一つひとつため込み、いつの日かそれらを解き放つために、ぼくはいまも少しずつ勉強を続けているのだと思う。
(月刊高校生一九九五年二月号掲載)
B 学園に新しい風をゼミナールの風を!
神戸大学教育学部ゼミナール実行委員会
1 はじめに
神戸大ゼミ実は、昨年四月に準構会として発足し、六月に正式結成をして現在に至っています。このレポートでは、私たちが〔何を求めてゼミナールを始めたのか〕、〔それを獲得するために運動の中でどう具体化していったのか〕、〔現在の神大ゼミ運動の到達点と問題点、そしてそれをどう克服しようとしているのか〕を明らかにし、さらに〔私たちのゼミナール運動を支える思想とは何か〕ということについて報告したいと思います。なおこのレポートは、神大教育ゼミ運動全体について全面的分析ではなく、ゼミ実事務局を中心とした活動の総括に限定されています。
2学友になろう
―大学の現状とゼミ実の出発―
「学友たち!」
と
呼びかけようとして、ぼくは今とどまっている
〈学友)というこの言葉
なんと手垢によごれてしまつたことだろう
〈学友〉というこの言葉
なんとうそ寒く
ぼくらの心と心の隙間を摺り抜けていくことか
きみとぼくとは〈学友〉なのだろうか
〈学友〉
学ぶことにおける友
学びあうことによって友となった者ら
学問の場にある人間が
その実、学問を信じてなどいないとすれば
それは悲惨である
学園に今あって
ぼくら学問を信じているのか
学問のもちばにあって
ぼくら真理に肉迫しているか
〈学問〉といい、〈真理)といい
ぼくらの学園に空虚なひびきを残さぬか
〈学友〉というこの言葉に
今、学問への不信が堅い背をむける
教室にはいつものように机がならび
学園には 今日も人々はあふれ
きみとぼくとは肩を触れあって人々の中にいる
けれども今日も
ぼくらはすれちがい通りすぎるのか
けれども今日も
ぼくらは心を開いて語らないのか
〈友情〉といい 〈連帯〉といい
ぼくらの心はひびきあう弾力を失ってはいないか
〈学友〉というこの言葉に
今、友への不信が冷たい背をむける
学問への不信
友への不信
〈学友〉という言葉は
今、挟撃のさなかに ○いでいる
「学友たち」
と
呼びかけようとしてぼくはまだとまどっている
とまどいながら考える
今一度
もっぱら正真のところはどうなのか
不信を言挙するのはなぜか
不信に承服できぬからだ
信じることのできるものを求めるからだ
そうだ
ぼくら、一人ひとりは
生きて働らく学問を求めている
それによって生き、それによって死ぬことのできる
そのような学問を
そうだ
ぼくら、一人ひとりは
内心の孤独をつきくずす友情を求めている
それによって自ら鞭打たれ、それによって友を支える
そのような友情を
学問への不信
友への不信
〈学友〉という言葉は
不信の渦に溺れそうだ
今
だからこそ ぼくは呼ぼう
〈学友たち!〉
だからこそ ぼくは呼ぼう
〈学友になろう!〉
学ぶことにおける友
学びあうことによって友となった者ら
〈学友たち〉
これは、昨年五月私たちが教育学部の全学友に最初に配ったビラの全文です。
たしかに〈連帯〉とか〈友情〉という言葉が虚しい響きを残し、〈学友〉と呼ぶにはためらいを感じさせる大学。ヤキナオシ授業(無内容)、オシツケ授業(独善)、ヒキマワシ授業(無系統)そして過密カリキュラムの中でほとんど授業に出席せず、試験だけ受ける学生、あるいは出席しても黙々とノートするだけの学生、同じ時間、同じ空間に居あわせながら、私たちは私たちでなく、〈孤立とあきらめ〉が学園を支配しているかのようでした。
そして学生の自主的学問研究活動は停迷していました。生活綴方研究会、地域子供会、文学教育研究会、同和教育研究会、僻地教育研究会、新英語教育研究会などが次々に崩壊し、活動しているサークルでも、サークル員の減少、研究面での停滞などの問題点が生まれて来ました。またゼミ実という名称は残っていましたが、近教ゼミ、全教ゼミの前に宣伝活動を行なうことが、中心活動であり、実質的な日常活動はほとんど行なわれていませんでした。
また、学部当局の反動化によって、学部改革における学生無視(初等科専修コース制導入、学部長選挙改革、幼稚園課程新設、養教廃止問題)、自治会否定(学部祭時の授業強行、学生大会の時間制限、公開質問状無視)、学生控室取り上げ、掲示物規制、その他など、いっそう学生の自治活動に抑圧と制限が加えられて来ました。
これらの状況の中で〈孤立とあきらめ〉は、ますます深刻化していく傾向を持っていました。しかしこのことは、単に大学の貧困な授業内容、学生の自主的活動に対する抑圧と制限だけによるものではなく、人間が分断され、ゆがめられる社会の中で、過去においては、生活と全く遊離した教育内容、点数による序列主義、選別体制によって、主体性を失った受身的人間にさせられて来ていること、また将来においては、公害・自然破壊、インフレなど体制的危機が実感される中で新しい未来への展望を見い出せないでいることにも起因していると考えられます。
この〈孤立のあきらめ〉の支配する学園の中で、恒常的なゼミ実を再建しようという確認が、第十九回全教ゼミ京都大会の大学別宿舎討論の中で行われ、その参加者の有志によって、ゼミ実準備会が四月に発足しました。
準備会の活動は、〈ゼミナール運動をなぜやるのか、学園に何をひろめたいのか〉を準備会の一人ひとりが問いつめていくことから始まりました。
〈学友たち!〉と呼びかけることにとまどいを感じさせる学園の雰囲気、そして私たち、このようなとまどいを感じることは、運動を主体的に担っていこうとする者としては、あるいは不自然なことであったかも知れません。しかし、この事実を事実としてリアルに把え直すことは、現状に即した運動を展開していく上での立脚点になったと考えています。つまり、心の底にうずまく不満のまま、容易に、実現への見通しと決意を伴った要求にまで高まらない現状の中で、まず不満を自覚化し、要求に変えていくことが、運動の中心的課題になると考えたのです。
更に〈孤立とあきらめ〉に犯されている、その自己のゆがみを、文教政策の反動化の中でまさに作られてきたゆがみ(〈内なる中教審〉)であるととらえ直し、その克服の努力は〈わからないのにわかったような顔をするのは自分の学習権を奪うだけでなく他人の学習権をも奪うことになるのだ〉という観点を持った学習集団(…解放された学習集団…)作りを自覚的に追求していくことであると考えました。これらの点をふまえて私たちは五つの活動基本目標を設定しました。
活動基本目標
一自主的に学び研究し成長していこう!
二集国の中でぶつかりあって成長しよう!
三集団の中で一人ひとりの成長を支えあおう!
四内なる中教審を克服し、外なる中教審を打ち破ろう!
五以上の日標の実現される大学の教育・研究のあり方を追求しよう!
この活動基本目標には、民主教育の実現、あるいは国民教育運動としてのゼミナールという位置づけは明確には示されていませんでした。しかし、それは、将来この基本目標を発展させる展望を持った上で、(この目標自体、発展の契機を含んでいる。)当面、運動に参加してくる人の成長を図り、ゼミ運動を主体的に支える人をつくり出すことをめざすという当時の段階をふまえたものでした。(事実、その後の活動を通じてゼミ主催の企画にはいつもほぼ一〇〇名前後の参加者があり、全教ゼミにも一〇〇名を越える参加者を確認しています。)そして今、この活動基本目標をより発展させるべき時期が来ていると考えています。
3不満を要求に
――ゼミナール運動の一年間――
学圏に友情と学問をとりもどすための神大ゼミ運動は、次のような形で具体化されました。その活動スタイルの特徴は〈不満を要求に!〉ということばで表わすことができます。このようなスタイルをとることによって、当初はごく一部の有志が呼びかけたにすぎなかったゼミ実結成とその活動にかなり広範な学友の理解と賛同を得ることができたと考えています。
神大ゼミ実の独自性は、まず第一にその組織体制にあるといえます。組織づくりにあたって私たちは、より広い組織性と運動体的機能の両面を兼ね備えることを重視しました。そのような組織体制として、基本目標で一致でき、積極的にゼミ運動を担っていこうとする団体ならどんな団体でも参加できるという学派的加盟団体制をとりました。(サークルを中心に若干のクラスが加盟。将来的には全サークル・クラスの参加により、自治会内の公的団体へ発展させる)私たちは運動の初期には組織の形式を整えること以上に、運動の内実をつくる機動性を尊重する必要があると考えています。また常設の事務局(八名)を設置したことが、ゼミ実の機動力を一層高めました。そして事務局を中心に、活動基本方針、長期活動計画(一年半)短期活動計画(二~三ヵ月)を作成し、日常的なゼミ運動を創造していきました。ここで、とりわけ長期計画を作成し、その下で当面する課題を限定したことは、ささやかでも確実に運動を発展させる上で重要な役割を果しました。
過去一年間の活動は、長期計画の第1期(新しいゼミナールの風を学園に流れ込ませよう!) 、講演・講座、ゼミナールニュースを中心に、多くの学友に自主的学問研究活動への関心を高め、将来の核づくりの基礎形成をすすめることで始まりました。企画は、?生きる姿勢を学ぶ?教育に対する姿勢を学ぶ?教育者として専門力量をやしなう、という三点を基準に内容を検討し、運動面では、研究グループの強化・支援(文教研・数教研・綴り方・英語科)、不満を要求に高め、要球を「生みだす」(婦人問題)ことに、婦人問題講座では、以後ゼミ実運動の基本的パターンとなる、各企画独自の実行委員会を組織し、ゼミ運動の新しい主体の形成につとめました。
十月、ゼミ運動は第2期(基礎単位のゼミの充実)をめざし、その出発点としてゼミ合宿を企画しました。多くの学友にとって受身的立場をまぬがれなかったこれまでの講演会形式の企画に対し、ゼミ合宿は自らが主体となって学び、さまざまの専門分野と交流し教育全体の中に自らの専門を位置づけるという新しい性格を持っていました。しかも職場で大きな問題になっている「できない子」の間題――現実の問題を、単なる批判ではなく「能力・学力問題」として創造的な迫求を試みたことは、学問の姿勢(研究の社会的役割)への自覚へ促し、ゼミ運動の質的発展の萌芽として評価できるでしょう。また学問に対する姿勢という点に関しては、民間教育研究団体の集会への積極的参加、学部祭パネルディスカッション(十一月)などによっても、研究内容の深化と結合して、中教審路線に対決する立場を鮮明にしていきました。
この間の活動において私たらは、隔週発行のゼミニュース、各企画ごとの系統だてたビラ、手書ポスター、絵入り立看、参加確認券の回収など、誰もが参加できる雰囲気づくりと、きめ細かな準備の努力をおこないました。
しかし、後の運営委員会で指摘されたとおり、これまでのゼミ運動は事務局中心という性格が強く、各研究グループの主体的な活動が充分尊重されていなかったこと、さらに事務局員の活動意欲の衰退など、いくつかの矛盾が深まっていきました。
秋以降、ゼミ合宿、新シニア生歓迎、学部察、十二月集会、近教ゼミとたて続けに企画が続くなかで、ゼミ実ボツクスには人影もまばらになり、十二月には事務局はほとんど機能を停止するに至りました。「事務局の仕事が忙しく自分の勉強ができない」「義務感ばかりで意欲がわかない」などの意見が出され、「このままでは活動をつづけられない」という空気が支配的になっていったのです。
事務局のこうした深刻な危機的状況の中で、「みんなの願いは一体何だったのか」を問い直し、「これまでの活動はどの様な役割を果たしたのか」という視点での徹底した話し合いをおこないました。
そして深夜におよぶ数回の討論によって、私たちは〈学ぶ〉ことの社会的責任をあらためて自覚し、〈自らの生き方の追求としてのゼミ運動〉のとらえ直しを進めたのです。そして、土屋基規氏の「学生の学習権と国民の教育権」(未来の教師2号)の学習会を行い、講演会を開くことによって、この危機を基本的に克服してきたといえるでしょう。
現在私たちは、この時期の矛盾を、事務局とゼミ運動発展の途上で遭遇する、不可避的な矛盾だったと考えています。つまり、短期間にあれほどの運動をほとんど計画案通りに展開するには、研究・運動画面に非常に影響力の強い指導者が必要であったのですが、運動と集団が一定の段階に達したとき、その構成員によって、主導権の組み替えが行われなければならないのです。事実、私たちの事務局においても、主導権が個人から集団に移行していき、その構成員一人ひとりが自覚的に運動主体となっていきました。すなわら、この危機は、事務局集団の質的転換期であったといえるでしょう。
危機を脱した事務局は二月に入り次々と新しい仲間を迎え、過去の活動に対する確信を回復し、国民の教育権の実現というより高い水準での活動の展開に着手しています。
以上、事務局を中心に、一年間の歩みを振り返ってみましたが私たちの運動の弱点、今後の課題として次のようなものがあげられます。まず第一は、すでに十月段階から基礎単位重視の方向が目ざされながら、具体化されずに現在に至っていることです。これは、事務局の量的・質的発展とその上での集団的一斉指導によって解決しなければなりません。また、ゼミ合宿以来、サークル・ゼミ間の交流(方針②)がなされていません。これは、各研究グループの運動体的性格、グループ問集団主義の形成をおくらせています。この問題を解決し、またゼミ運動全体の研究水準の向上をはかる具体案として、長期共同研究課題を設定し、全学部規模の総合的・集団的な研究をすすめることが、 一サークル(文教研)から提起されています。
その他、一年間の努力が一定程度実を結び基本方針①の条件整備運動として財政援助要求が、学友の中でも教官の中でも相当説得力を持って進みつつあります。さらにいくつかの新しいゼミ・サークルが生れようとしています。⑤。このような中で、運動の質的発展の支柱として研究機関誌⑩の発行が切実にもとめられており、①②③の方針を機関誌を通じて具体化しようと考えています。また「新構想教員養成大学」設置の動きなど、教員養成制度反動化の攻撃に対して、根底からの反撃を進めるため、積極的に教員養成制度のあり方を探求することがもとめられています。
①各サークル・科・Gの学習研究活動の状態を把握し、全学友に知らせよう。
②サークル・ゼミ相互の交流を深めよう。
③サークル・ゼミ活動の理論づくり、核づくりをすすめよう。
④サークル・ゼミ活動の条件整備の運動をすすめよう。
⑤新しいサークル・ゼミを生みだそう。
⑥授業の実態を明らかにし、学生の要求をまとめ改革をすすめよう。
⑦講演会・講座・合宿などを組織しよう。
⑧近教ゼミ・全教ゼミを通して全国の教育系学生との連帯を深めよう。
⑨民間教育研究団体との交流を深め、その成果を学ぼう。
⑩ゼミナール運動の軸としてニュース・研究機関誌を発行しよう。
⑪ゼミナール運動の成果をもって自治会運動発展の力となろう。
⑫現場教師・父母・働く国民と連帯し、民主教育をすすめる力となろう。
ゼミ実の一年間
48年
3月 全教ゼミ京都大会宿舎討論・ゼミ実準備会の呼びかけ
4月 ゼミ実準備会発足 ・
5月
1日文教研講演会「文芸の世界・文芸の理論」(一一〇名)、西郷竹彦氏(文芸教育研究協議会・「はぐる、ま」編集委員)
2日 数教研講演会「算数・数学の授業をどう進めるか」(九〇名)、仙波元氏(数教協。葺合中)
6月 婦人問題連続講座(企画独自の実行委体制)
2日 ①「ロシア・ソビエトの婦人」(六〇名)、小野理子氏(神大)
4日 ②「婦人教師の生活より」(五〇名)内藤美代子氏(国田小) 、飯原洋子氏(御影中)
3日 ③「歴史のなかの女性」(二五名)、脇田晴子氏(橘女子大)
22日 ④「社会のなかの女性」(五〇名)、金持伸子氏(八代学院大)
10日 第一一回はぐるま研(一〇名)
23日 東海・近畿教育サークル協議会合宿(八名)
27日 ゼミ実第一回運営委員会(ゼミ結成)
28日 ゼミ実結成記念講演会「歴史・人間・教育」(一五〇名)、高橋慎一氏(歴教協委員長)
7月
14日~15日 ゼミ実理論合宿(二〇名)
8月 民教連各団体全国研究集会(三〇名)、(全生研・数教協・日本作文の会他)
10月
14日~15日
ゼミナール合宿(一〇〇名)
〈統一テーマ〉
「現実の課題にこたえ、学びがいのある大学を創造しよう」
①能力・学力問題をみんなのものに。
②各科・G・サークルの交流を深め、自主的研究活動を広めよう。
〈講演会〉
岸木裕史氏(現場) 平原春好氏(行政)
芳賀純氏(心理)
25日 新シニア生歓迎講演会「底辺の子にささえられて(生活級方)」(八〇名)、」岩本松子氏(明郷中)
11月 学部祭
8日 ①パネルディスカッション「日本の教育。現在と未来――日教組教育制度検計委僕会報告をもとにして」(一七〇名) 小川利夫氏(名大)、岸本裕史氏(平野小) 、藤尾孝氏(神大学生)
9日 ②講演会「地域に根ざした教育実践」森垣修氏(府中小) 、(学部祭実行委主催)
12月
15日~18日
十二月集会 (学びがいのあるゼミナール像、婦人教師と語る集い)
22日~25日 近教ゼミ
49年
1月 「全教ゼミに参加する会」結成
2月
14日 講演会「発達を促すもの、教育・労働・集団」(七〇名)、清水民子氏(京都府立女子大) 、「学生の学習権と国民の教育権」(七〇名)土屋基規氏(東大大学院)
17日 小川太郎氏追悼記念学習会「教育と陶治の理論 序章」(二〇名)
3月
5日 全教ゼミ参加確認者一一〇名
4学ぶこと・戦うこと
――ゼミナール運動を支えてきたもの
これまでに述べてきたことからもわかるように、ゼミナール運動の条件において神大教育がとくにめぐまれていたわけではありません。当初ごく少数でとり組んだ私たちの運動が、ほぼ百名規模のゼミナール集団を形成しつつある現在の段階にまで到達できた理由にはさまざまなものがあるでしょう。私たちは今、ここでとくに運動を推進する主体の側の要因について述べたいと思います。
私たちの運動を貫いてきた基本的特徴は、「研究内容の重視」であったと考えています。これまで私たらは、講演会形式を多用してきましたが、それぞれの内容設定、時期設定、講師との打ち合わせなど研究内容の深化・発展という観点を重視して準備をすすめてきました。他方で、私たちは研究内容と乖離し、研究の発展段階を無視した「政治的」課題のもちこみをさける態度をとってきました。この「研究内容の重視」の姿勢は、従来より一回り大きな学友を、ゼミ実の回りにつくりだす役割を果たしました。
ゼミ実のこの姿勢に対して、「ゼミ実は筑波法案に対決する姿勢が弱い」「自治会運動と分離しているのではないか」「事務局はゼミ運動を純粋学問研究だと考えているのではないか」などの批判もありました。これらの批判に対しては、一年間の運動の発展と成果そのものが原則的反証となるでしょう。
私たちはゼミ運動の独自性を、その学問研究という側面に見て来ました。しかしそれを決して「純粋」な学問研究ととらえていたわけではありません。〈現実の課題にこたえる〉という学問姿勢は、ゼミ実の出発から貫かれてきたものです。これは決定的に重要なことであり、〈現実の課題にこたえる〉姿勢のない「学問」は運動になり得ず、学問と呼べるかどうかすら疑わしいと考えます。
さらに、私たちは〈研究内容重視〉の積極的根拠を次のように考えています。
〈おまえら、「学問」や「真理」やと、一体何ゆうてるんや。ここはそんなこと言うべきとこか?場所がらをわきまえ!ここは大学やゾ。それも教育学部や。〉
一学友のこの皮肉はなんと痛烈でしよう。この冗談はなんと悲惨でしょう。六四年学課目省令にはじまる政府の目的大学化政策は、ますます強化され、教員養成大学から最終的に学問を放逐しようとする段階に達しています。このようなとき、学園に学問をとりもどそぅとするゼミ運動の意義はきわめて大きいといえるでしょう。そして、それは、単なるスローガンではなく、私たちの求める学問の内実を創造することでなければなりません。
また、教育現場において「できない子」が大量につくられ、教育破壊が極限まで進行していることは、しばしば語られる所です。そして、そうであるからこそ、また、現場では自主編成運動がかつてない規模と質で高揚しようとしています。このような現場に出てゆく私たち〈未来の教師〉にとつて、自主編成のできる力量を培うことは、子どもたちに対する責任ともいえるでしょう。神大教育では、かつて「学生に教科書の編集ができる力量をつける」ことが学部の教育目標として確認されていた時期があります。この意味においてもまた、私たちのゼミナール運動にとって、研究水準を向上させることは、緊急かつ重大な課題となっています。
以上のような視点をもって、一年間の活動を進めてきた私たちは、〈現実の課題にこたえる〉学問を学ぶことは、とりもなおさず、たたかうことであると考えます。あるいは、学ぶこと抜きにたたかうことはできないとも言えるでしょう。
逆に、たたかうことが学ぶことであることを家永教科書訴訟が典型的に示しています。あの杉本判決をもたらした基本的な力は、永い歴史をもつ国民教育運動のさまざまな努力の結晶であり、訴訟の過程で、原告側自体国民の教育権の把握を深め、新しい型の学会(日本教育法学会)すらも生み出しました。認識は実践によって検証されることによって、真に自分のものとなるのです。
私たち自身もまた、現在進めつつある財政援助要求運動を、学生の学習権保障を要求する運動として展開し、自らの国民教育権理論をとぎすませていきたいと考えています。
私たちは現在、以上のような運動と理論の到達点を踏まえて、次のように結論づけています。
〈学ぶことはたたかうことであり、たたかうことは学ぶことである。そのような学問を、そのようなたたかいを〉――この思想は、私たちの研究をも運動をも規定するものです。研究抜きの短絡的な「政治」主義は、単にあやまっているというだけでなく、学問研究の中でたたかうことを放棄するいう、ゼミ運動における敗北主義であるとすら言わねばなりません。逆に、たたかいを放棄して「専門研究」に沈潜することもまた、正しくないでしょう。なぜなら、それはとりもなおさず〈現実の課題にこたえる〉という本来の学問そのものを放棄することであるからです。私たちは、研究を深めることによって虚偽の支配とたたかい、自らの要求と権利に根ざしたたたかいを進めることによって、自らの学問を生きたものとして発展させていく――そ,のようなゼミナール運動を展開していきたく思います。
5学びがいの宣言
これまで述べてきたように、私たちのゼミナール運動の一年間は、「学ぶ」意欲の回復の過程であったし、また「学びがい」を探し続けた一年間であったといえるでしょう。
当初から、大学と教育の現実に対する批判的な姿勢はもちろんありましたが、それはまだまだ感性的なものでおり、 一種の「重荷」としてしかとらえてられていませんでした。ですから、このような中で「学ぶ意欲」といい、「学びがい」といっても、それは個人的な不満の解決の域を出ていなかったといわなければなりません。しかし私たちは、一年間の活動と、その中で遭遇したさまざまの困難を克服する過程で、自分自身の「学びがい」を社会的な視野の中に、とらえなおしてきたといえます。
政府は、昨年十二月、「新構想教員養成大学」を私たちの兵庫県に設立(五一年)することを決定しました。その設立の理由を彼らは「よい教育はよい教師から」「質の高い教師をつくるため」と述べています。なんということでしょう。よりよい教育、教師をめざすが故の私たちの要求を拒んできたのは、彼らではありませんか。神大教育に幼児教育課程を新設しながら、そのためのささやかな学会増設さえ認めない彼らが、「新構想大学」の新設に巨費を投じるというのです。要するに政府は、「お前たちは質が低くて、教育をまかせられない」と私たちに白手袋を投げつけたのです。「どのような教育がよい教師なのか」それを判断するのは断じて政府ではありません。それは、誰よりもまず、子どもたちがそして国民が判断するのだと私たちは考えます。自らの底深い「学ぶ要求」に支えられて、ゼミナールの活動を進め、国民のものとして、現実の課題にこたえて生きて働く学問を進求してきた私たちは、今、この政府の挑戦を受けて立つ決意をかためています。
彼らは、真理の審判者は政府であるといい、政府の容認の範囲で、しかも教育の「技能」だけを「修練」することを、私たち教育系学生に強制しようとしています。
私たちは、自らの要求にしたがって、力いっぱい真理を探求する権利を主張します。そして、私たちのこの要求と権利は、犯すことのできない国民の学習権・教育権に支えられ、結合することによって、ゆるぎない正統性を確保するでしょう。ゼミナール運動を学生の学習権の実現と統一して把握し、運動をすすめることは、私たちにとって決して楽なことではないでしよう。しかし、「学びがい」を求めつづけてきた私たちは、決して楽な道を探していたのではありません。私たちが求めていたものは、やりがいのある苦労なのです。この国民の学習権・教育権を実現するという、困難ではあってもかけがえのない課題に、自らの研究を結合させたとき、はじめて私たちはゆるぎない〈学びがい〉をわがものとすることができるのではないでしようか。
国民の学習権・教育権を否定する政府の教育破壊がますます強められようとしている今、私たらは次のように宣言したいと思います。
〈私たちのゼミナール運動は、学生の学習権を実現する運動である。そして、この運動はすべての国民の学習権・教育権によって支えられ、それをより豊かに実現してゆく運動である。このように全国民の海の中に、自らの研究を位置づけたとき、ゆるぎない学びがいが私たちのものとなる。〉
これこそが、私たちの〈学びがい宣言〉なのです。
全国教育系学生ゼミナール中央機関紙
『未来の教師』第十号 一九七四年六月発行、より
【読みかえして】
A《友達がいて、仲間がいて、勉強があった》
B「学園に新しい風をゼミナールの風を!」
の二つの古い原稿を、読みかえしながら、僕は何度も、卓さんの声を思い出した。
Bの中の《神大教育では、かつて「学生に教科書の編集ができる力量をつける」ことが学部の教育目標として確認されていた時期があります。》を読むと、喫茶店で卓さんからこの話を聞き、熱心に二人で語り合ったことが鮮やかに蘇ってきた。
僕は、教師が自分で教科書を作るという発想に魅力を感じていた。その時、英二くん、これは、他の人々と力をあわせながら、という意味を含んでいるんだよ、と卓さんは語った。
こうしたゼミナール実行委員会(以下、ゼミ実と略記)の存在意義の自覚は、その後ゼミ
実機関誌『群緑』を生むに至った。
しかしながら、第16回近教ゼミ神戸大会で自覚された学内ゼミ実の重要性が、本格的に教
育学部生の間で検討されるためにはもう少し時間が必要であった。「目を輝かせて」大会に
参加した1年生が専門課程3年生になった1973(昭和48)年頃を待って、いよいよゼミ実
が本格的に機能し始めたからである。
こうして、1970年代を通して神戸大学教育学部のサークル・ゼミ活動に多大な影響を与え
ていったゼミ実機関誌が誕生していくのであった。このゼミ実機関誌の第l 回発行誌の編集
後記は、次のように述べている。⑸
ゼミナール運動の統一機関誌をつくることは、昨年(1973年─引用者)の春、準備会
段階からの課題でした。当時作成した年間活動計画によると、遅くとも2~3月には機
関誌を創刊することとなっていたが、事実は昨年秋以降ゼミナール運動の質的発展のた
めに、研究・理論機関誌の必要性が痛感されていたのでした。そして1月始め、事務局
会議において、全教ゼミまでに剣刊することが決定されました。このような過程を経て
本誌が刊行されたのですが、これは0号となっています。そのこころは、「本番一回前」
といったところです。実質的に本誌刊行の準備は休暇に入ってからはじまりました。し
たがって、多くのみなさんの意見をとり入れることができませんでしたし、運営委員会
で討議することも不可能でした。ですから、編集委員会体制も正式につくることができ
ませんでした。事務局としては、ゼミナール運動は、一方で機関誌が是非とも必要な段
階に達していると判断するとともに、他方でできるかぎり多くの学友の意見をとり入れ
て創刊する必要があると考え、今回は0号として刊行することにしたわけです。
1974(昭和49)年3月16日に、第0号(B5版縁色の厚紙表紙、頁数記入のない60頁を数
えるザラ紙の論文集の冊子)は発行された。ただ『ゼミナール実行委員会機関誌』と命名さ
れ、編集責任者名も機関誌編集委員会ではなく、1970(昭和45)年入学の藤本卓となってい
る。それは、「今後機関誌発刊についてゼミ実全体討議をもち、正式の編集委員会体制を設
けて、創刊へむかいたい」(60頁)からであった。正式な創刊号は1974(昭和49)年8月6
日に発行されているが、その誌名『群緑』の由来は、当時の神大ゼミ実の熱い思いを伝える。
新緑のころ、野に日ましに緑を濃くする、一群の木々をイメージして下さい。〈緑〉
は私たちの研究の清新さを、〈群〉は友情の力強さをあらわしています。緑があせるこ
となく、群落が広がりをますように…。読みは〈むれなすみどり〉とつけました。「グ
ンリョク」ではイメージが湧きにくいのですが、力強さのお好きな方は、そう読んで下
さってもけっこうです(『群緑』創刊号、1974年8月6日、88頁)
以後『群緑』は、第7号(1978年3月)まで刊行された。第0号以来一貫して、機関誌の
4項目の基本的目標は変わっていない。ゼミ実事務局『教育のことが生き生き語られる学
部づくりをめざして─77年度ゼミナール運動方針案』に、以下のとおり述べられている。
機関誌は、ゼミナール運動の集約の場として、ゼミナール運動の発展の踏み台として
意義づけられます。そして、『群緑』の発刊以来、次の4つの基本的目標役割が掲げら
れてきました。
1〈研究〉学生の自主的な研究活動の成果を発表する場とする。それを通じて、ゼ
ミ運動の研究水準を向上させる。
2〈理論〉自主ゼミ運動の基礎理論・運営技術を創造する場とする。それを通じて、
ゼミ運動の運動体としての質を向上させる。
3〈改革〉教員養成制度問題・大学改革問題に関する基礎的資料を提供する場とす
る。それを通じて、ゼミ運動の条件整備をすすめ、国民の学習権を保障
する大学をめざす
4〈交流〉各研究グループ・個人・教官・現場教師の交流の場とする。それを通じ
て、ゼミナール集団の連帯を強め、教育現場と結びついた大学ぐるみの
運動をめざす。
第0号と創刊号の『群緑』は、教育学研究者の「講演」、卒論や全教ゼミ・近教ゼミの研
究報告を含むサークルと個人の「研究論文」、卒業生を中心とする教育実践記録の「現場か
らの声」、教官の自己紹介と教育学部生への助言のための「教官プロフイール」、ゼミナール
の運営や運動に関する理論である「運動理論」、教育実習を経験した4年生の「実習記」、教
育系サークル・G・学科・ゼミ等の近況の活動を取りあげる交流のための「ゼミ・サークル
紹介」、教員養成を中心とする大学問題をとりあげる「改革」、個々人が自由に日頃感じたり
考えたことを交流する「エッセイ」、教育と教育学を中心とする「文献紹介」等々の欄が設
けられている。以下は、『ゼミナール実行委員会機関誌』第0号と『群緑』創刊号の目次で
ある。
第0号(1974年3月16日発行)
・講演「学生の学習権と国民の教育権(上)(東京大学大学院 土屋基規)」
・研究論文「国語教科書の文学作品(文学教育研究会))
・翻訳「グェン・カク・ビェン『ハノイ総合技術大学』(英語科22回生 渋谷恵子・井
上令子)」
・改革問題「国立大学の行財政問題」(教育研究会 藤尾孝)」
「新教員養成大設置の動向と私たち(自治会執行委員改革問題担当 細木善正)」
・現場からの様告「1ケタ十1ケタのタシザンの問題は全部で何題か(仙波元 神戸市
立葺合中学校)」
・エッセイ「雑感(22回生杉山G 本岡志東)」
「始末をつけねばならないもの (22回生 秋沢秀))
創刊号(1974年8月6日発行)
・講演「学生の学習権と国民の教育権(下)(東京大学大学院 土屋基規)」
・研究論文「15年戦争と教科書(歴史・歴史教育研究会)」
「子どもの現状─Kちゃんをめぐって(部落問題研究会 川端多津子)」
・教官プロフイール「若い世代に(1)〈特殊教育 伊藤隆二教官・国語 江頭肇教官・
体育 岸本肇教官・教育学 杉山明男教官〉
・文献紹介「兼子仁・永井憲一・平原春好『教育法と教育行政の理論(東京大学出版会、
1974年)』(教育学科教官 小島弘道))
・実習記「実習日誌(射添小学校2年担当 亀田清巳)」
「生活指導の必要性を感じるまで(附属住吉小学校6年担当 福本順子)」
・現場からの報告「新米教師の特権(岸本裕史 神戸市立平野小学校)」
・エッセイ「『国民のための大学』について思うこと(田路順子)」
「斎藤隆介『ベロ出しチヨンマ』を読んで(沼田敬子)」
・運動理論「ゼミナール運動覚え書き(I)(常任委員22回生 藤本卓)」
・ゼミ・サークルの紹介「私たちは今こんなことをしています」
英語教育研究会・風の子子供会・生活綴り方の学習会
歴史教育研究会・セツルメント障害児教育を考える会
算数・数学研究会
さらに、第7号までの全誌面をみると⑹、家永教科書裁判運動や新構想教員養成大学創設
の問題等リアルタイムな言果題に関するものから、大学の授業白書づくりによるカリキュラム
改善、教育実習、ゼミ・サークル運動理論等々の身近な学生の問題にわたって題材がとられ
ている。また、原稿執筆者の顔触れをみても、全国的な研究者・教育実践者や卒業生から、
各学科・Gの学部生・教育系サークル・ゼミのメンバーと多様である。創刊当時、東大院生
で全教ゼミ運動理論の指導者であった土屋基規も第5号では本学部教官として寄稿するなど、
教育学部教官の寄稿や協力もあった。
『群緑』刊行に対する反響も、第2号の「声」欄からうかがわれる。
内容が豊富でよかったな(社会科4年)。(中略)この機関誌おもしろいですね(教官)。
まあ、わりときれいにできてるな。けどガリの字はまだまだやな。現場にでたら、そん
なことがずいぶん大きい影響をもつで。(現場の先生)。(中略)歴教研のは、はずかし
て読まれへん。卓さんの(運動理論)は、これから学習会やっていくのに役だてよと思
てる(社会科2年)(神戸大学教育学部ゼミナール実行委員会『群緑』第2号、1974年12
月22日、123頁)
同年近教ゼミ奈良大会(参加者450名)の他大学参加者からは「そんなのだしているんで
すか。送ってください」との反響もあったほどである。
教育研究・ゼミの理論・大学改革・仲間との交流という先の4つの基本目標にそって編
集・発行された「群縁」は、ゼミナール運動の進展に大きく寄与しようとするものであった。
上記に引用した「卓さんの(運動論)」こと、当時『群緑』創刊にあたった中心人物常任委
員の藤本卓は論文「ゼミナール運動論的覚え書き(Ⅰ)」で次のように述べる。
これまでの運動は、経験主義の淵をはいずりまわることに終始するか、特定の個人に
依存し、ひきずられるか、といった場合が多かった。あるいはまた、ゼミナール運動の
独自性をとらえることができず、短格的な「政治」主義の道をとるか、逆に、目的のな
い「学問」至上主義の道をとるか、二つの道の間を揺れ動いてきた。これらはみな広範
な学友の参加と、質の高い研究の前進をさまたげてきた。ゼミナール運動は、今、自ら
の理論を求めている。四年間ですべての構成員が入替わる学生の運動の特殊な困難を考
えるならば、これはいっそう切実である。(中略)ゼミナール運動論は、私たちすべて
の集団的努力によってしか構築され得ないだろう(神戸大学教育学部ゼミナール実行委
員会『群緑』創刊号、1974年3月16日、79頁)。
藤本はこれまでのゼミナール運動自体に内在する問題として、短絡的な「政治」主義に走
ることと目的のない「学問至上義」に逃げること、の2点を指摘しているが、前者に関連
して、同氏は自身が旧教養部42クラス日本史学習会のゼミにおいて紡ぎだしていったテーゼ
を、重要なゼミナールの理念として説く。
学習会の中で、友人の「ナンデソウナルノカナア」「ワカレヘン」「マダ、ヤッパリワ
カラヘン」「マダ、ヤッパリワカラヘン」という質問に、わかっていたつもりのことが、
実はよくわかってはいないのだということを、何度も思い知らされたからです。(中略)
実は研究の質を高めるためには、「わからない」という発言が非常に大切なものだとい
うことに気づいていったのです。それに気づいたあと、「わからないことをわからない
と言う」ことは、「わからない」人の権利であるだけでなく、研究集団全体に対する義
務でもあるのだ、と話し合ってつくったのが先のテーゼです。〈わからないことを、わ
からないといわないのは、共に学ぶ仲間の学習権をも奪うことになる。〉「わからない」
「そうかなあ」「やっばりわからない」と知ったかぶりをする友をやっつける楽しみを、
集団研究の中でもっと味わおうではないですか。この楽しみを充分味わっておくことは、
現場で「切り捨て」授業をやらないためにも、とても大切なことと言えるでしょう(前
掲書、84頁、圏点は原文のまま)。
結論を短絡的に導くのではなく、自由に個人の疑間を出しあえるゼミの模索は、まさに
「政治」主義の対極に位置するものであろう。では、後者の目的のない「学問」至主主義の
ゼミの欠陥とは、なにか。目的のない学習や勉強が、必然的に義務感や何かのための手段と
なっていく弊害であろう。これまで受けてきた受験中心の教育にもかかわって、単位やよい
点数を取るため、教師という地位を確保するための手段として「学ぶ」のであれば、そのよ
うな「学び」から生きがいや学びがいが、子どもや人間の姿がみえるのであろうか。
藤本は、もともと生きがいや学びがいがあってこそ人間らしく生きられるのであり、それ
が「自己の仕事(勉強)の意味を問わない」状態にあることは、人間の一面化、孤立化、人
間の内面的空疎化などの人間疎外状況を意味するという真下信一の考えを引きながら、教師
をめざす学生たちに以下のように問いかけた。
このような現代の人間疎外の現象形態を(中略)これはそのまま、私たちの学園と私
たち自身にもあてはまるのではないか。ゼミ実準備会の発足にあたって呼びかけの詩
〈学友と呼ぼう〉が、〈学友と呼びかけることにとまどいを覚える〉とうたいはじめら
れたのは、それゆえであった(前掲書、80頁)。
そして、その回復のモメント─人間の全体的発達、人間の連帯や協業、自分自身をかけが
えのない人間であるとする人間的充実を体験すること─こそ、ゼミナール運動の場に備わっ
ていると述べていた。
『群緑』第2号(1974年12月22日)に掲載した「運動論的覚え書き(Ⅱ)」のなかで、自
ら出席した第19回近教ゼミ和歌山大会(1974年)の宿舎討論での発言を引きながら、ゼミナー
ル運動の場が人間回復のモメントとなり得た例を次のように示してた。
現場生活半年で自殺してしまった先輩の悲しみにふれながら、彼女はこう語りました。
―〈あの人〉は「子どもを教えることはむずかしい」と言って死んでしまった。たしか
に、現場での教育はますますむずかしくなっているとよく聞かされる。きっと私もそれ
に悩むだろう。けれど私は、教育がむずかしいのは教師の力量のなさだけが原因でない
ことを知っている。たとえば教科書一つをとってみても、どんなに不合理にむずかしく
させられているかを知っている。私はそれをゼミナール運動の中で学んできた。けれど
〈あの人〉は、それを知らなかった。すべてを自分の無力のせいにして死んでしまった。
それからもう一つ、もし〈あの人〉に悩みを相談する仲間がいたら、自殺なんかしなかっ
たろうと私は思う。今の教育現場では、教師どうしがほんとうに心から話しあえない、
とよく聞かされる。そんなことがなかったら、そして、〈あの人〉が仲間をつくってい
ける人だったら…。以前は私も、人をほんとうに信じることができなかったし、人前で
話すこともぜんぜんできなかった。けれど私はゼミナール運動の中で、人が信じられる
ということを知った。人と話すのがおもしろくてしかたがないようになってきた。だか
ら私は、来年現場に出てどんなに苦しくなっても、絶対に私は死んだりなんかしない。
何が教育をむずかしくさせているかを教えてくれ、仲間がたくさんいることを教えてく
れたゼミナール運動は、私の生命(いのち)をすくってくれた。この言葉は、私にとってなんにも
大げさではなくて、ほんとうなんです。─彼女はこう語ってくれました。この言葉の中
に、私たちは「ゼミナール運動とは何か」という問いの一つの答えを見い出すことができ
ます。観念的な空論ではなく、教育の現実に対するリアルな認識、そして教育の現実が
提起するするどい課題に応えるための集団学習、その学習の中で培われる友情。これら
はすべて、四年生大学で過ごすだけではとうてい私たちのものになりません。(中略)
私たちが、教育の現実の認識と、見通しと方法と、そして仲間との連帯を、わがものに
することができないのなら、私たち自身だけでなく、日本の子どもたちを精神的・肉体
的に殺すことになりかねません。私自身もまた、ゼミナール運動は、私たちと子どもた
ちの生命をすくう、といいたいと思います。(『群緑』第2号、99─100頁、ふりがなお
よび圏点は原文のまま)。
「落ちこぼれ」の体験や優越感と劣等感の狭間で呻吟する子どもたちに対して、教科指導
実践、仲間づくりや生活指導実践の場で人間として向き合える自己の形成を、ゼミナールの
運動は担おうとしたといえるだろう。
『群緑』が伝える当時のゼミナール運動は、教員養成制度改悪反対、カリキュラム改善な
ど、条件整備のための要求運動のみならず、「未来の教師」の「自己形成への文化運動の集団
的努力の方向をも地道に実践的・理論的にめざしていたといえよう。
その後も、『群緑』刊行を中心にしてゼミナール運動は引き継がれた。しかし、1975(昭
和50)年の第20回近教ゼミは神戸での開催が見送られた。当時の自治会執行部の近教ゼミに
対する不理解があったことおよび「トロツキスト暴力集団」と八鹿高校事件(1974年)の評価
をめぐる対立があったことが原因であった。
1977(昭和52)年には第22回近教ゼミが神戸の地で開催された。今回は夏にミニ近教ゼミを、
10月にはゼミ実恒例のゼミ合宿を摩耶山で、11月には学部祭の学内ゼミを行い、12月25-28
日の神戸大会を成功に導いた。
1970年代後半に開かれた近教ゼミ神戸大会『基調報告』は「ゼミ実、教育系サークル連合、
文化系サークル連合の確立と強化の問題では、神大のゼミ実や京教大の文化会などのすぐれ
た活動によく学び、まだ確立されていないところでは、自治会執行部が積極的な援助を行なっ
てすぐに確立し、サークル・ゼミの発展強化を促さなくてはならない」と述べるように、
1970年代は『群緑』を中心に神戸大学のゼミナール運動が充実していった時期であった。