このページでは主に藤本卓氏の友人、知人のみなさんからのたよりを紹介します。
№1 2020・6・9
編集工房が大変なことになっていますね!
編集工房、日々更新。内容も心震えるものばかり。
卓さんのまかれた種が、あちこちで着実に根付き、実っているのを目の当たりにできるのは幸いです。
昨秋、訪ねた時、卓さんの自宅から、真美子さんの運転する車で、大東文化大学から、丸木美術館まで
案内してもらったのですが、その途中でたくさん寄り道をして、いろいろ話を聞くことができました。
毎夏、大東文化大学から、ゼミ生を連れて、丸木美術館まで、「徒歩」で行ったとのこと。
かなりの距離があり、学生たちも最初は不満げだったそうですが、卓さんが年を取るにつれ、
「古稀に近い先生が歩いているのだから、がんばらねば」という気持ちになった学生が増えたとか、
とても楽しそうに語ってくれました。
途中に沈下橋のかかる川があり、去年の台風で大きな被害が出たところだと案内してくれました。
その川の広い河原で、学生たちとお弁当を食べたり、休憩をしたり、水遊びをしたり
したとのこと。
学生たちにも忘れられない思い出になったのではないかと思います。
それにしても、それにしても、大変な事業になりそうですね。
たくさん、手伝ってくれる若い人を募って、敏腕編集長にならないといけないですね。
中西英代
☆これは貰ったメールを、中西さんの許可を得て載せたもので、後半の内容は別件なので省略しています。
№2 2020・6・9
姫路の小谷です。藤本卓さんまだまだ若く、これからという時に本当に残念です。卓さんが卒業されてからは、そのご活躍を耳にするたび「頑張っておられるんだな。」と自分の教育活動と組合運動のステップアップの励みにしたものです。私は40数年間学校現場に勤めてきましたが、曲りなりにも職場で頼られる存在でいられたのも、大学時代の運動がベースにあったからだと思っています。あの頃に「学び運動する」集団があり、それに参加させてもらったことで、私が教員として生きていく上で大きな拠り所となり、頑張る力になったことは間違いありません。仲間に感謝です。
さて、私は6年前に退職し、再任用を5年間、臨時講師を1年2か月勤め、現在、姫路の公立小学校で新学習システムとして6年の算数を教えています。しんどくないと言えば嘘になりますが、体が元気なうちは勤め続けたいと思っています。教育と職場を少しでも良くしたいとの思いから、全教姫路の運動にも関わっています。35人学級実現や学指導要領に対置する実践の構築、など大袈裟に言えば、学校と教育、教職員の生活と権利を守ることが今こそ重要な時はないと考えて、微力ながら頑張っています。また機会があれば旧交を温めたいですね。
小谷幸司
№3 2020・6・24
藤本英二さま
6月19日はお世話になりました。
高山智津子文学と絵本研究所の
編集工房などを拝見しました。
ヤクオフで落札された不登校の巻で
藤田幸子は私の仮名です。
藤本さんが大東大に決まったとき、
二次会で藤本卓さんと三上和夫さんとご一緒した
夜など、いろいろな思いがわいてきます。
生活指導論にかけた一端を藤本卓さんの書斎の本を
見て、胸が苦しくなってきました。
いま私は、高校生活指導の編集長をしています。
藤本卓さんが本気に大事にしてくださった機関誌です。
何とか、次世代に続くようにと願って仕事をしています。
藤本英二さんがまとめてくださる
本からまたたくさん学ばせていただけたら嬉しいです。
書斎を拝見して、もっともっと卓さんと語りあい、学びたかったと
残念でなりません。
「どうしたら、先生みたいな文章が書けるのですか」と問いかけたら、
「脂汗をかきながら書いている」とおっしゃっていました。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
望月一枝
№4 2020・7・2
藤本英二さま
毎日、朝晩、編集工房を読むのが日課になっています。
埼玉から帰るや否や、前にも増してのご活躍。まぶしいようです。ほんとうにありがとうございます。
卓さんのゼミ生の方たちの手紙や、活動状況の報告などを読むにつけ、卓さんがそこに生きていることを感じます。アルバムの写真を見ながら、まだ亡くなったことを受け止められないでいます。
高校時代の卓さんについて書こうと思いながら、それはなかなか一筋縄では語れないことなので、断片的な思い出になると思いますが、辞書作りに参加するような気持で、少しずつ書いていきたいと思います。
ゼミ生の皆さんには、卓さん自ら「決して優等生ではなかった」と語っておられたそうですが、高校時代の卓さんは、屈折した、「超」のつく「問題児」(特に教師にとっては)だったと思います。多くの同級生たちにとっても、「大学教授」になった卓さんの姿を想像することはなかなか難しいかもしれません。
でも、不登校という言葉などなかった1967年~1968年ごろ、長期にわたって高校を休み、家に引きこもったり、秋田のむのたけじさんを訪ねる旅に出たり、東京で映画「若者たち」を観たり。また高校に復帰してからは、仲間を募って映画鑑賞会を開き、感想文集を作ったり、受験体制、原爆、ベトナム戦争など、社会的なことについても問題提起し、いっしょに考える仲間を作っていきました。詞集「たいまつ」の詞のひとつひとつを長い時間かけて話あったりもしました。
高校時代のそれらの活動・体験が、その後、大学の教員になって、悩んでいる学生たち一人一人に丁寧に向き合い、寄り添う姿勢の原点になっているのではないかと、しみじみ思い返しています。
私自身、引きこもり中の卓さん宅を訪ねて、自分の悩みの相談(親との軋轢)に乗ってもらったことがあります。その時の彼のアドバイスは、哲学的でよく「わからない」ものでしたが、わからないなりに、行く手に少し明かりを灯された気がしたものです。高校時代から三木清全集を読んでいたことを今頃になって知らされましたが、あの時の哲学用語を用いたアドバイスはそういうところから生まれてきたのだと納得しました。
これからも続々と貴重な証言や資料が届くと思います。
それらを整理収集するのは、ほんとうに大変な仕事と思います。クライマーズハイには十分気をつけてください。
英二さんの健康が一番です。卓さんもきっとオーバーペースを心配して、見守ってくれていると思います。
ユンケル一口分にもならなかったかもしれませんが、今晩はこれで失礼します。
中西英代
追伸 高校時代の友人から、「高校卒業後は、卓さんって呼ばれてたんやね」とメールが来て、気がつきました。
高校時代の呼び名は「藤本くん」でした。大学で英二さんと出会って、「卓さん」「英二さん」と呼ぶようになったのでした。思えば、英二さんのことを「面白い奴がいる」と紹介して、引き合わせてくれたのも、卓さんでした。あらためて感謝です。
№5 2020・7・14
藤本英二様
はじめてお便りさせていただきます。中西英代さんからのご案内でこのHPのことを知りました。毎日大きな関心をもって拝読させていただいています。
まずは私にとっても旧友であった藤本卓さんの業績、人となりの集約に真摯にかつ果敢に取り組まれておられる藤本英二様(以下英二様)の「思い」と「営為」に深く敬意を表します。
申し遅れましたが私は1970年経済学部入学。藤本卓さんとは教養部で70年から71年のはじめ頃まででしたか、短期間でしたが忘れ得ぬ接点がありました。英二様もご承知のとおり1970年というのは当時全国的に拡大した学園「闘争」の「戦後」期にあたります。神戸大学も各学部でのスト・封鎖から1969年のスト・封鎖解除の学生大会が難産の末に成立して授業が再開しています。スト中の講義日程の後ろ倒しで70年入学生への開講は5月の連休明けでした。「闘争」の余燼は各所に残っていました。藤本卓さん中西英代さんとはやや殺伐としたそんな教養部のなかで出会いました。当時、具体化しつつあった国立の教員養成専門大学の設置に反対する小集会開催などもその頃、一緒に取り組んだ活動の一つです。
いま思えばほんとうに僅かな間でしたが藤本卓さんから学んだことは私にとってとても大きなものでした。私は71年10月に紛争以降大甘になった進級の単位基準の恩恵を受けてなんとか六甲台に進学できました。藤本卓さんとはその後は没交渉となってほぼ50年が経ちました。彼が東大の大学院に進学したこと、さらに大東文化大で先生になっておられることなどは風の便りで聞こえてきましたが、交叉することもなくこれまで別の人生を過ごして来ました。
3月になってからたまたま同じように没交渉になっていた中西英代さんの朝の読書会のweb記事を発見。何十年ぶりかでメールで連絡をとりそこで藤本卓さんが亡くなられた直後であることを知りました。
英二様の編集にかかる藤本卓さんの業績集成の取り組みは、その問題意識・進め方ともに大変すばらしいと感じています。私の知らない教育者、研究者の藤本卓さんの息遣いが感じられます。やはり藤本卓さんの確かな「実践」が根底にあって英二様のそれへの深い理解と共感が編集内容を通じて藤本卓像の「復元」を可能にしている。そんな風に感じます。たった一人の奮闘でご苦労は大変だと思います。が、おそらく同質の問題意識を持続してこれにあたることができるのは英二様をおいて他にはおられないのでしょう。集大成なさるのを陰ながら応援させていただきます。
池田学
№6 2020・8・9
初めまして、私は藤本卓さんの高校時代の友人の山田ひろ子と申します。
中西さんからお便りを受け取ったその日から、ほぼ毎日編集工房・編集日誌を拝読しています。開設されてから2カ月余。藤本英二さんのご奮闘に心より敬意を表します。
高校時代の友人として何か協力できることはないかと、思い浮かんだ事を、中西さんにメールをしました。中西さんの記憶のほうがはるかに鮮明で、すでに編集工房にupされている通りです。私は藤本くん(高校時代の男子の呼び名がくんでした)と同じ演劇部に所属していましたので、演劇部に関する思い出や資料があれば協力できるのではと、同じ演劇部の友人に連絡しました。藤本くんが演出をしたアーサー・ミラーの「橋からの眺め」の台本やプログラム等が見つかることを期待していました。残念ながら私も友人たちの元にもありませんでした。50年の時の経過を実感した次第です。
何の協力も出来ず申し訳ありません。ただ、日々更新される藤本英二さんの日誌と、ゼミ生だった皆さんの便りから、藤本くんの取り組んでこられた研究論文と教育実践の内容が解き明かされていく様子を見守り応援していることをお伝えしたいと思っていました。教育学は全くの素人ですが、未知の分野は興味深く、楽しみながら工房を訪れています。(学ぶ)と(覚える)の論文は手強かったですが、藤本英二さんも触れられておられるように、最後の論文かと思われる、「憶える」と「覚える」の区分については読みやすく感じられました。元ゼミ生の皆さんの資料がこれからも掘り起こされ、届くことを期待しています。そして、大学教育実践家としての藤本くんの活動の全貌が明らかになることを願っています。
立秋を迎えましたが、まだまだ暑い日々が続いています。どうぞ、無理をなさらずご自愛ください。
山田(安井)ひろ子