『藤本卓教育論集』は、鳥影社から発行されます。1月中旬には全データを送付済み、1月末には一校が上がってくる予定です。刊行委員会に提出した原案は下に示した通りですが、検討の結果、未完の「断章〈教育のレトリック〉のために」(『高校生活指導』4回連載)も加えることになりました。それで420頁を超す分厚い本になります。
☆A5版(148mm×210mm)、上製本、380ページ、1ページ字数900字(50字×18行)
候補論文名/執筆時期/(900字換算)ページ/パイロット版何巻
第一部 (21世紀)[154]
⑴悦ばしき ”学び” 、か?/2008/30 /⑴巻
⑵”パストラル・ケア" 、その叢生と褪色/2009/24 ⑴巻
⑶〈教え〉と〈育て〉のメタ・カリキュラムに向けて/2010/31 ⑴巻
⑷フランス語に「学習」という言葉は存在するか?/2013/21 ⑴巻
⑸"懐かしい言葉" になり逝くか?/2017/26 ⑴巻
⑹「憶える」と「覚える」の区分について/2019/22 ⑴巻
第二部 (20世紀)[176]
〈制作〉と〈実践〉-その㈠-/1986/15 ⑵巻
〈制作〉と〈実践〉-その㈡-/1987/32 ⑵巻
〈制作〉と〈実践〉-その㈢-/1987/15 ⑵巻
生活指導実践は『学校』を問う/1989/14 ⑶巻
共同の世界に自治と集団の新生をみる/1990/20 ⑶巻
教育のレトリックの方へ/1995/50
〈世代の自治〉の再発見へ/1997/21 ⑷巻
教育と世代間の問題/2000/9 ⑷巻
論文合計[330]
☆⑴~⑷はパイロット版の巻数
☆「教育のレトリックの方へ」は『竹内常一 教育のしごと』第一巻解説
なお論文本体以外に次のようなものを加えると、総合計372ページになる。
目次4、はじめに4、解題10、著作一覧8、年譜4、付録・並行シェーマについて10、編集後記2 小計[42]
【考慮した点】
・残された資料のうち、エッセイ、インタビュー、討議などは省き、論文だけにしぼった。
・著作一覧にあげた97点のうち、論文集収録の候補となる論文は、竹内解説を含めて29点。今回提案する案(大学紀要6点+8点=14点)は、論文全体の2分の1程度になる。
・第一部として、大東文化大学の紀要に掲載したもの六編を集めた。(2008~2019)
・第二部として、『高校生活指導』に発表したもの六編、竹内常一『教育のしごと』の解説、『日本の科学者』発表の一編、の合計八篇を集めた。(1986~2000)
・第一部、第二部とも発表時期の順に並べてある。
・青木書店が行方不明(倒産?)のため『竹内常一 教育のしごと』が正規の販売ルートより消えるので、解説文である「教育のレトリックの方へ」(最も長文)をこちらに収録することを考えた。
・「日の丸・君が代」問題に関する論稿は、『公論よ起これ、「日の丸・君が代」』(太郎次郎社)があるので、省いた。
【論文の主題連関】
第一部について
①柳田國男から〈マナブ〉と〈オボエル〉という対照的な学習方式を導き出し、[⑴]
②城丸章夫に代表される戦後教育の教育構造論と柳田から導き出した学習方式を接合させて、「〈教育〉〈学習〉の並行シェーマ」を構想した。[⑶]
③この並行シェーマの一つポイントは、「生活指導」の位置づけであり、これが藤本卓のこだわった点である。
④「生活指導」概念と類似した英国の「パストラル・ケア」を検討し、[⑵]
⑤近年の竹内の発言に触発され、「生活指導」概念を擁護し、教育は〈大人と子どもの関係行為〉であるとし、城丸章夫の〈教育的働きかけの方法〉の重要性を説く。[⑸]
⑥教育学者O・ルーブルを読み解き、フランス語の「apprentissage」の検討を経て、フランス語の《見習い修行のパラドックス》から、柳田國男由来の新しい用語《習い覚えのパラドックス》を作りだした。[⑷]
⑦藤本は、柳田國男から〈マナブ〉と〈オボエル〉という対照的な学習方式を導き出したが、柳田國男が〈オボエル〉の漢字表記を「憶える」「覚える」と区別した事実から、実例に即して、漢字表記を検討した。[⑹](※論の部分的修正を考えたのではないか)
このように、六つの論文は、「柳田國男、城丸章夫、生活指導、大人と子どもの関係行為、教育的働きかけの方法、習い覚えのパラドックス」などが連関しながら、藤本独自の教育基礎論を形作っている。中でも「⑴悦ばしき ”学び” 、か?」と「⑶〈教え〉と〈育て〉のメタ・カリキュラムに向けて」は連続していて、この二つが六つの論稿全体の基軸を成している。
第二部について
①藤本卓は「高校生活指導」運動に深く関わって研究を続けてきたが、その関心は60年代の「集団づくり」論の再検討を経て、それとは違う形での生活指導論(藤本の造語である〈世代の自治〉論)の構築へと向かった。
②「〈制作〉と〈実践〉」(3回連載)は、「集団づくり」論には政治学における「社会制作」の考えがあるとした上で、西欧政治思想史の流れの中で「社会制作」の発想を捉え直したもの。今日の社会的変貌(「集団づくり」論が生まれた60年代とは違う80年代の日本社会)により、「制作」的な発想は限界をみせ、新たな発想が必要となる。そこで〈レトリック〉を新しい教育方法としてとりあげようとしている。
「〈制作〉と〈実践〉」はかなり迂回した論の運びで、難解なものと見えるが、第3回の冒頭で前二回のまとめがしてあり、それを読めば、論の全体像、射程が見えてくる。読みごたえのある論文であり、「教育のレトリックの方へ」(解説)につながっていく。
③60年代に「高校全入運動」があり、高校「準義務化」が実現した時、不登校、中退、学校適応過剰、校内暴力、いじめ、という問題が現れた。
「生活指導実践は『学校』を問う」は、「生活指導の学校論的把握」(学校教育の基本構造)という論点を検討し、竹内常一の論を読みひらき、「支配としての学校」のヒドゥン・カリキュラムの反転を目指そうとしている。(のちの藤本の造語を使えば、〈閉鎖系の訓練論〉ではなく〈開放系の訓練論〉の展開を目指している)。それは生徒のリアルな必要に渉りあう〈自治集団〉の形成である。藤本はそのモデルを〈協同組合〉にみている。教育における〈公的な争点(パプリック・イシュー)〉、〈私的紛糾(プライベート・トラブル)〉、に対して〈(コミューナル・マター)〉という観点を提示。
④「共同の世界に自治と集団の新生をみる」は③に続く論稿であり、より深化している。かつての「集団づくり」論は子ども・青年が自分たちのかかえる諸問題を自治活動によって解決するように導くことを課題としていた。しかし、この回路では子ども・青年のかかえる問題(トラブル)の芯をゆすることはできない。そこで着目したのが〈共〉の領野であり、〈公共的争点〉とは別の〈共同主題〉という考えである。なお、今回収録しないが、「「私的トラブルへの幽閉」を深く超える」(1987年、『生活指導』3回連載)も、ここにつながっている。
⑤「教育のレトリックの方へ」は『竹内常一 教育のしごと』第一巻の解説として書かれたものである。竹内常一の生活指導論を「訓練」概念を軸にして辿り直したもの。宮坂啓文の「学習法的生活指導論」に対して、竹内の唱えた「訓練論的生活指導論」の意義を明らかにした。(教育学史的論究)。
なお、このあとに書かれた「断章〈教育のレトリック〉のために⑴の①-久野収の着眼を起点として」(以下⑴の④まで)は、大きな構想の下に書き始められたが、未完に終わっているために『藤本卓教育論集』への収録は見送った。
⑥「〈世代の自治〉の再発見へ」は、『高校生活指導』誌上で、90年代を代表する論文として再録された。教育と〈世代〉の関係、「若者組」の教育原理(柳田國男)、開放系の訓練論、自治の基礎集団としての〈世代〉、など藤本が展開した重要な論点が凝縮されている。
⑦「教育と世代間の問題」は「〈世代の自治〉の再発見へ」を、別の角度から整理しなおしたもの。〈世代の自治〉という自分の造語の意図を語り、柳田國男─竹内常一の系譜との関係も語っている。
☆藤本は、80年代、教育現場の報告にふれ、いじめ、不登校などの問題に対して発言しているが、それはやがて、個々の問題の対症療法ではなく、学校そのものを変える必要があるという方向性を明確にし始める。学校を内部から変えるものとして「生活指導」があり、「世代の自治」が構想されたと思われる。
☆藤本は竹内常一の論稿に学びながら、竹内が提出した論点をさらに展開する形で、自分の論を組み立てている。(竹内常一を「読みひらく」。つまり、可能性の中心を読むというこのスタイルは、柳田國男に対しても、同じように適応されている。)
表紙のカバーデザインの見本。順番に最初の①表と②裏、次が絵を薄くした③表と④裏。
上は図書新聞に載った広告。2021年6月12日号
下は『教育』2021年7月号の表紙裏上半分に載った広告
上は東京新聞2021年6月17日朝刊一面下の広告