2020年6月から『藤本卓教育論集』の編集作業に取り掛かりました。その日々の出来事や試行錯誤をこの編集日誌に綴ってきました。結構な量になったので、1か月毎に折り畳んでおきます。右端の下向き < で開いて読んでください。
4月10日(木)
久しぶりに編集日誌を再開する。
2025年3月末に、神奈川大学の関口昌秀さんから退職記念論文(神奈川大学経営学部『国際経営論集』第69号 抜刷)をいただいた。「教育学における〈制作〉と〈実践〉のカテゴリーをめぐる問題」というタイトルで、これは藤本卓氏の教育論へのコメントになっているようで、文献として『藤本卓教育論集』も挙げられている。
アブストラクト(要旨)の一部を引用すると、
《教育学においてポイエーシス(制作)カテゴリーとプラクシス(実践)カテゴリーの問題は藤本卓により明確に提起された。……略……
藤本は「集団づくり」理論のなかにポイエーシスの学としての性格を見てそれを高く評価するとともに、そのままではプラクシスとしての性格が失われたままだと批判し、「集団づくり」論者の一人である竹内常一の中にあるレトリック論を評価した。レトリックはプラクシスにおける説得行為につながるからである。……略……》
こういう風に卓さんの論文が、別の研究者によって、引き継がれるのは、とても嬉しいことだ。
9月10日(土)
承前・第1巻『高校生活指導』掲載資料(208頁)、第2巻現代の教育課題、日の丸・君が代問題、ロンドン公立学校、他(152頁)、第3巻入手困難資料(136頁、A4版横書き)。
これをレターパックで郵送しようと、郵便局に封をせずに持って行き、レターパックライトで送れるかどうかを確認してもらう。OK。3冊あわせても、3cm内に収まった。
そこで、せっせと荷造り。うちの奥さんからレターパックライトを買い受けて、詰めていく。
うちの奥さんは大量に古い切手を持っていて、それをレターパックに交換してきて、僕に売りつけるのだ。「いつでも、いるだけいってね」と、愛想笑い。家庭内で小商いをしている。
9月8日(木)
昨日宅配便業者から、明日の午前中にお届けします、という連絡が来た。京都の製本工房に注文していた『藤本卓コレクション』全3巻、各30部。
朝から待っていたが、なかなか来ない。うちの奥さんをJR中山寺駅まで送って行くので、ポストの所に「12時15分までには帰ります」と貼り紙をして、急いで往復。11時52分には帰宅、往復26分だった。
で、12時30分に、「遅くなりました」と届けにきてくれた。寛大な気持ちで、ほこほこと受け取る。
早速、段ボール箱四つをあけて、確かめる。思っていた以上の出来上がり。うーん、なかなかいいではないか。(続く)
8月19日(金)
ついに、コレクション全3巻の編集(版下づくり)が完了!!
今回第3巻に「藤本卓著作一覧・収録場所一覧」という頁を作ったので、ええっとあの論文はどこにあるのかな、と探したい人は、この一覧を見れば、パイロット版、鳥影社版、コレクション版、のどこにあるか、一目瞭然。でもそんなに熱心に探す人いるかな。
夏原さんから戴いた講演テープ4種類は、CDに変換済み。但し、どれも3~4枚組で、枚数が多い。付録にCDをつけようかと思ったが、作業量が……。一番いいのは、テープ起こしして、印刷物にすることだが、これも作業量が……。というわけで。これらについてはとりあえず「知らぬふり」をして、もし問い合わせがあったら、対応することにする。もちろん、「私がテープ起こしやります、やらせてください」という人がいるのなら、やらせてあげてもいいのだけど。
8月11日(木)
9日に孫の一樹を送ってゆき、新横浜で娘にわたし、そのまま池袋へ。一泊し、10日はさいたま市東松山まで出かける。高坂駅で真美子さんと待ち合わせ、娘の里菜さんの運転で、卓さんの墓参りに出かける。大東文化大学の校舎の間の道を抜けるように走る。樹木葬と聞いて、きっと木陰に眠っているのだろうと想像していたが、全然違って、ひな壇状の所に、何人もの墓標が並んでいた。運営は曹洞宗のお寺のようで、上の方には少し大きめの石の仏像があった。
家に行き、真美子さんと「藤本卓コレクション」を作ることにして、作業中だという話をする。卓さんの遺した原稿で、著作一覧には載せた「世代の自治論に寄せられた批判について」(高生研、全国会員通信)がないか、中村清二さんに訊ねられたのだが、どこかにないか。二人で二階の書斎のあちこちを探してみた。真美子さんが、本棚にこんなものが重ねて置いてあったと、印刷物の束を見せてくれた。原稿というタイトルの封筒にいくつも入っている。見てみると、あこれは『教育論集』に入れた、あっこれは今度の「コレクション」に入れる、と分別していくと、見たことのないものが出てきた。
「誤植訂正版 世代の自治論に寄せられた批評について あるいはこれもまたひとつの『かかってこんかい!』その㈠」というB5版8頁の印刷物。これが探していたものとほぼ同じものではないか、と推定。
①サブタイトルが、めずらしく挑発的、というか「俗」っぽいというか、
➁その㈠とあるので、続きを考えていたのか?
参考までに書いておくと、この原稿は一・服部明氏に応える(1998年8月20日)、二・千葉律夫氏に応える(1998年9月10日)の2つのパートで出来ている。まさか、こうもどんぴしゃで見つかるとは!37度の灼熱の埼玉まで足をのばした甲斐があったというものだ。
そのあと、卓さんも好きだったというお蕎麦屋さんに三人で出かける。途中、電話があり、近くに住んでいて、在宅ワーク中の、息子迅くん夫婦も合流することになる。古民家を改造したお店は、お客が満員というわけではないが、店員さんは「これからなら、一時間待ってもらうことになりますが」それで囲炉裏端の席で、待っていると、迅くん夫婦到着。インドネシア人の奥さんはとても大きな眼の可愛い人で、表情豊かで、僕の話を聞いてよく笑っていた。卓さんが、気に入っていたというのも、わかる気がした。
そういう訳で、今回の東松山行は、ケータイを家に忘れてきて、公衆電話で連絡をとるとか、早めにホテルを出たら、東部東上線で人身事故があり、一時間半も、池袋駅で待機するというアクシデントもあったが、なかなか実り豊かな旅になった。
そうそう、卓さんの家の玄関にあった、「14ひきシリーズ」のねずみたちが、パノラマのように作ってある作品を見つけて、きいてみると、里菜さんが高校生の時に作ったものとだとか。実際の樹も使って、絵本のどおりの14ひきの樹の洞の中のおうちが再現されていて感心した。卓さんも手伝ったそうで、里菜さんも嬉しそうに話してくれた。ねずみもミニチュアで、はしごもあった。
7月23日(土)
『コレクション』を作るために、毎日コピーを切って貼り付ける作業をしている。一日、一つの記事に限定でやっているが、インタビュー記事など一つで16頁もあるので、結構大変。『藤本卓教育論集』のパイロット版も2、3,4巻は同じ作業をしていたが、あの頃は一日の仕事量がもっと多かった。集中力が落ちていて、老いを感じる、今日この頃。(という風に言っておくが、実は同時並行で5つの仕事をしている。そら集中力も分散するよなあ)
7月18日(月)
卓さん関係の仕事は終了と考えていたが、北海道の鈴木さんや大東文化大の中村さんが、論じてくれ始めたので、それならばと活動を再開することにした。押し入れには、国会図書館から取り寄せた資料がまだ沢山眠っている。それを引っ張り出して、並べなおし、いろいろ考えて、「藤本卓コレクション」を作るプランを立てた。全3巻で、インタビューも入れることにする。日の丸・君が代問題も世代の自治論も、滋賀高生研通信や群緑も、なにもかも入れる。まあ、これは研究者用の資料として作るのだから、20部も作ればいいかな。
6月29日(水)
大東文化大の中村さんから、「『学級集団づくり入門』第二版と新版の比較検討─主権と人権の視点から─」というのが著作一覧に載っているが、手元にありますか、という問い合わせがあった。
ええっと、どこにあったな、と押し入れの段ボール箱をいくつも引っ張り出して、探してみるが、ない、どこにもない。改めて著作一覧を見ると滋賀高生研通信が出典。『編集日誌』を見てみると、2021年5月28日に、滋賀の夏原常明さんから頂いた、と書いてある。そうそう、『教育論集』を刊行後に連絡がつき、資料を送ってくださったのだ。
どこかにあるはず、でも段ボール箱にしまっておいた、編集作業中のファイル10数冊の中にはない。絶対にどこかにあるはず。
作業机の上を整理して、目の前のファイルを次々に確かめると、発見。ファイルの名前が「講演・講義の記録」とある。名前のつけ方が悪い。改めて、「滋賀高生研・夏原常明氏より」と付け加えておいた。
4月22日(金)
昨日、学事出版から『思想としてのペタゴジー 普通教育・人間の教育・主権者教育を論じる』鈴木剛、という新刊本が送られてきた。誰だっけ?直接の知り合いではない。刊行委員会の名簿で確認してみると、東大での卓さんの知り合いの方だった。
1955年生まれ、東京大学大学院教育学研究科で年は卓さんより5つばかり若いが、同時期に研究室にいたようだ。その第5章「法の人」としての「子ども」と〈世代の自治〉、で村瀬学さんと卓さんとを重ねるようにして、論じていた。引用文献として『藤本卓教育論集』が挙げられていた。凄い!と思っていたら、今日の朝日新聞の朝刊に村瀬さんの「法で自分守れる」助走を、というインタビュー記事が載っていて、ちょうど鈴木さんの本で論じていることが語られていた。コインシデンスがここでも発生。
それにしても、本でこんな風に本格的に論じられるなんて、作った編集者としては、とても嬉しい。
4月10日(日)
藤本卓さんの三回忌に、同僚の方々が集まって、奥さんと墓参りに行き、家の庭でお茶を飲みながら、色々思い出話をしたようだ。
高校時代からの友人、中西さんから古い古い資料が届いた。『若者たち』の映画に一緒に行く会の呼びかけなど、貴重なものだが、プリントは変色し、今にも紙がポロポロと崩れそう。そっとコピーして急いで返却した。
書斎の押し入れに資料の段ボール箱を積み重ねて収納していたが、あまり積み上げられないので、空間がもったいない。いろいろ工夫したが、2階の電気こたつ(但し、電熱部分は外してある)を下ろしてきて、押し入れに入れてみたら、これが驚くほどぴったり。それで二段の棚が三段になったわけだ。せっせと積み替えて、段ボール箱に名前のシールを貼った。
卓さんに関する仕事は、一応終了として、これから『高校生と文学作品を読む』の出版に本格的に取り掛かる。原稿は完成、著作一覧も作った。あとがきをいろいろ書いている所だ。
3月17日(木)
『大学生を育てる』は2日かけて荷造りし、99冊発送したが、4冊宛先不明で返って来た。さてどうしたものか。宮田ひびき、増田果歩、安藤俊介、渡辺俊の4人の卒業生、知ってる人は連絡してあげてください。ここに連絡すれば冊子を送ってくれるよ、と。
昨日は、神戸まで行った。湊川神社の前にある瓦せんべい屋さん(145年の歴史のある)が閉店するという新聞記事を見て、よし買いに行こうと思い立ち出かけて行った。僕は小学生の頃、神戸市兵庫区に住んでいたので、湊川神社も瓦せんべいも、よく知っていた。浪人していた頃は、予備校帰りに、いつも神戸市立図書館へ行っていたから、神社の横の坂道を往復したものだ。
店に行くと、品物は売り切れ、次の入荷は14時半になるという。30分ほど、湊川神社のあたりを散策して時間をつぶす。修学旅行生らしいグループを見かける。
三宮のジュンク堂へ行き、川上未映子、吉田修一、阿部公彦、ディッケンズなど、欲しかった本を4冊ほど買う。
3月9日(水)
もうかれこれ10年近くやってきた「つかしんカルチャー」の文学講座、自分で決めて、やめることにした。今日が最終回。宝塚市立図書館の文学講座も今年でやめさせてもらうつもりだ。
でもこれからいろいろ原稿を書くつもりで、予定を立てたら、忙しい日々が続きそうだ。
京都の製本工房から、出荷しましたというメールが来た。宅急便の「時間指定なし」を、「午前中」に変更しようとしたら、荷物が10個になっていて、一つ一つ変更しなければならないので、ちょっと面倒だった。宅急便屋からも時間変更の確認メールが10ほど来て、今日はメールの場所が大変混雑した。12桁の番号をひとつひとつチェックしていくと、やっぱり一つ抜けていた。
明日は100個ほど、レターパックに詰めて、郵便局へ持って行く仕事が待っている。宛名・住所、差出人・住所、品物の3つのラベルも印刷して準備万端。ラベルのシールをはがすのが、意外と大変なんだよね。
3月5日(土)
『高校生活指導』213号が届いた。ここに短いBOOK GUIDE を書いたので、藤本卓の仕事のページの下に掲載しておきます。興味のある人は見てください。字数が少ないと、書くのが難しいんだよね。
3月1日(火)
昨日、南山大学から寄贈受入の返事が来て、今日投函。これで100校になった。在庫は17冊。思えば、長くつらい道のりだった(大げさか)。いろんな大学のHPを見て、なんだか日本中を歩きまわった気分になった。
去年の5月20日に、段ボール箱15、300冊が届いた時には、どうなることかと思ったが。まあ、なんとかなるものだ。一応、寄贈は、ここで休止して、様子を見ることに。
自分の原稿作成もやり始めた。
2月28日(月)
『大学生を育てる』の編集が終わり、ぼちぼち、いろんな整理にかかる。今日は、『藤本卓教育論集』の大学への寄贈を整理してみた。去年の8月から始めて、今日現在で99冊贈ったことが判明!!作業している時は、全部で何冊送ったか、自分でもなかなかわからなかった。大学の反応もいろいろで面白かった。丁寧な対応をしてくれる大学図書館は、好感度アップ。
在庫は18冊になった。
2月22日(火)
いつも頼んでいる京都の製本工房に原稿を送った。上巻は190ページ(うち6ページは写真口絵)、下巻は194ページ(うち6ページは写真口絵)。130部が二巻だから、260部が3月10日にうちに届く。
今回、初めてモノクロ・カラー混在の冊子にしたからか、製本工房へ送った注文メールの自動返信が来なくて(いつもはすぐ来るのに)、?となり、注文履歴を見ると、下巻の納品日が3月24日になっていて、びっくり。あわてて修正して再注文、気が付くと3月14日届きにしてしまったので、さらに再注文。これで大丈夫だろうと、もう一度注文履歴を見ると、上巻のカラーページが1ページになっていて、!!もうどこまで訂正しなければならぬのか。
なんやかやで、四つ注文したことになり、心配なので、別のお問い合わせのページからメールを送り、事情を説明。これでよかろう、と思い寝たのだが、朝見てみると注文の自動返信メールがやっぱり来ていないではないか。お問い合わせのページから送ったメールに対しては、ちゃんと返事が来ていたのに。もう何が何やらわからない状態で、これは直接、口で説明せねばと電話をかけると、出てくれない。
時間をおいて、再度電話するとつながった。このややこしい状態を電話で説明して、なんとか話はついたが、注文メールに書いておいた写真口絵のページの紙について、たずねると、写真のような用紙は使えないとのこと。それで、次善の策として表紙と同じ厚さの色上質を使うことにした。
やっぱり、最後は直接話すに限るなあ。
夕方、見てみたが、注文メールの自動返信はやっぱり来ていなかった。
大学への寄贈は、コツコツ続けている。今日は2件問い合わせて、一件返事が来たので、レターパックプラスで送る。在庫は23冊になった。
2月20日(日)
雑誌『教育』の3月号に、三重大の山田康彦さんの書評が載ったので、梅田の丸善・ジュンク堂で2冊購入。
『大学生を育てる』上下巻には、それぞれ6頁分の口絵写真を載せることにした。基本は1頁に2枚だが、沢山入れたいので9枚という頁もある。
卒業生の竹内綾恵美さんから提供された写真データが560枚あるので、そこからどう選ぶか、迷っている。2016年1月に開かれた「私ガッコのセンセになりません!!」という公開イベントの写真で、専門のカメラマンが撮ってくれたようだ。あれこれ考えて9種類ほど作ってみた。PDFの作り方をおぼえた。
卓さんの若い頃の写真も入れるか、と思いつき、神戸大学の頃の写真のネガフィルムをCDに焼いてもらい、そこから加工して1頁作った。古いネガフィルムは2時間ほどで、1枚約500円でCDにできた。デジタルデータにすれば、使い勝手が増して、とても便利。
「卓さんとぼく」という原稿を書きかけていたのだが、しばらくほっておいたら、どこに保存したかわからなくなってしまった。昨日、やっとファイルの在り場所を見つけて、開けてみたら、書きかけで45頁分あった。まあ、今回の『大学生を育てる』には収録できそうもないし、ブリコラージュ通信№12に入れることにする。
で、ブリコラージュ通信№12のフォルダーを開けてみると、書きかけの原稿がいくつも出て来た。「大江健三郎『取り替え子」』を読む」、「田辺聖子『花衣ぬぐやまつわる…』を読む」、の二つは骨格はできているし、原稿もかなり書いている。仕上げに入るべきなのだが、長いこと放置していたから、まず原稿を読み直すことから、やらなければ。
2月5日(土)
ニ冊目の本『大学生を育てる』はいよいよ最終盤。後、残っているのは、和賀さんへのインタビューの仕上げと編集後記だけになった。今回初めて、写真を口絵に入れることにして、今日は家で本や冊子の撮影もした。
上巻180ページ、下巻180ページ(ぐらい)の大作。校正をしようと読み始めたら、『こんばんは』報告書の文章を読んで泣きそうになった。
寄贈はコツコツ続け、在庫は34冊。
『ドン・キホーテ』は後編㈢第67章まできた。ワイド版岩波文庫は読みやすい。牛島信明さんの訳もいい。
1月26日(水)
2012年度の公開イベントについては、研究室に何も残っていないので、この年はお休みなのか、と思っていた。ところが意外な所から、ちゃんと実施していたことがわかった。
2021年3月17日に大東文化大学で「偲ぶ会」が開催された。コロナ禍の下、参加者は15名以内に制限され、その代わり卒業生たちのメッセージ動画と、ゼミの写真がスライドショーで紹介された。その後、司会の山中吾郎先生から、その偲ぶ会を録画したDVDをいただいた。
この冊子の編集も終盤に入った今日(2022年1月26日)、DVDから写真を切り出せないかなと思いながら、ゼミの写真のスライドショーを何度か見直していて、気がついた。集合写真の後ろに「センサーを」という文字が読めるのだ。どこかで眼にした言葉だ。あ、そうだ、と資料の段ボール箱をひっくり返してみると、あった。A4の紙にポスターの下書きが書いてあり、色も半分しか塗ってなくて、制作途中のもの。文字の一部は線で消してある。これは何だろうと思いながら、深くは追跡しなかったのだ。
スライドショーの中に出てきた一枚の写真は、この公開イベントの時のものなのだ。そのつもりでよく見てみると、藤本先生と並んで木更津社会館保育園の宮崎園長さんも写っているではないか!その隣の二人はたぶん卒業生でゲストの村山くんと礒部くんだろう。学生たち(全員で約20人)が手に持っているポスターや、横断幕の文字は、前列の人の陰になり、一部しか読めないが、「山っ子の」、「ヒミツ」、「お話会」、「センサー」、「藤本ゼミ公開イベント」などと判読できる。その後ろにはスクリーンも上から降りている。間違いない。
もう完全に気分は探偵だ。昨日『砂の器』を見かえした影響だろうか。今西刑事(丹波哲郎)は、伊勢まで行って、映画館で偶然1枚の写真に写っている和賀英良(加藤剛)を見つけるんだよね。
1月18日(火)
12月、1月とコツコツ寄贈の問い合わせと郵送を繰り返し、年末年始に公立大へ14校送り、ついに在庫が39冊になった。返事待ちがあるから、もう少し送り先が増えるかな。目標は在庫10冊。
卒業生の村田くんから講義ノートの写真データを送ってもらったのは、2020年の7月頃だった。なかなかそこまでたどり着けなくて、長い間、手をつけられずにきたが、ついに「講義ノートから」という原稿作りが完了。「生活指導論2008年度」「特別活動の研究2009年度」ができた。
さらに2004年度生活指導論講義DVDのノートも10回目までできた。あと2回を残すだけ。ここにきて、一気に作業がゴールに向けて加速してきているように思う。その分、自分の原稿は全く手つかずのまま。ブリコラージュ通信は、執筆休止状態のままだ。まあ、3月が一つの区切りになるだろう。
1月10日(日)
研究室で見つけた映画・演劇関係のチラシやパンフレットを整理していて、意外なことを発見。
中西和久の一人芝居『ピアノのはなし』について、ゼミ生が感想文集を作っていた。たぶん2008年の頃。それは冊子原稿にまとめた。
今回発見した資料は、2003年に大東文化大学創立80周年行事として『ピアノのはなし』を松山キャンパスでやっていることを示すものだった。見つけたのは、学生のための資料の印刷用版下で、「きけわだつみのこえ」や「天皇制国家の支配原理」(藤田省三)からの引用もあった。
つまり、大学文学部の行事として、松山キャンパスで公演をやり、その5年後にゼミ生たちを連れて再び見に行ったのだろうと推測される。
ちなみにピアニストは2003年は鍬聡子、2008年は佐々木洋子。
なんだか、発見した資料から推理していると、安楽椅子探偵(アームチェア・ディテクティブ)の気分になった。
1月5日(水)
二冊目の本『大学生を育てる─教育実践家としての藤本卓─』の編集作業は七合目辺りまで来た。今日計算したらプリントアウトしたものだけで246ページになった。まだいくつか追加すべきものがあるので、たぶん300ページを越えるのではないかと思う。これはこれまでに僕が作って来た冊子形式のものの中で最大のものになる。太すぎて背表紙が割れてしまうおそれがある。
そこで大きくプランを変更して、二分冊にすることにした。そうすると、どうしても名前が欲しくなる。上巻、下巻では味気ないし、水月の巻、浮舟の巻とでもするか、それとも……いかん、いかん編集日誌を書くとついつい、こっち方面に力が入るので、できるだけ書かずに編集に専念していたのに、
具体的にどんなものになるか、紹介したいけど、目次だけで3ページあるのです、とだけ言っておこう。晩御飯の用意もあることだし。
12月19日(日)
このままでは本が書庫に眠るだけと思い、新しい寄贈先を考えた。教員免許の取れる大学なら、教育学部がなくてもいい、ということにした。とりあえず公立で選んでみた。今、少しずつ連絡を取っているが、小樽商科大学、横浜市立大学、愛知県立大学、滋賀県立大学、広島市立大学、北九州市立大学などに寄贈完了。残りは47冊になった。来年3月までには、この残りを10冊程度にしたいものだ。
12月13日(月)
午前中は、生活指導論のビデオ、第2回目をまとめる。
午後は2011年度授業記録(ノート)をまとめる。ちょっと紹介。
例えば、5月23日](月)、木更津社会館保育園の話からこんな所へ
藤本先生「原風景(幼い頃の幸せな日々の風景)があるとない子の違いは?」
関「自分の人生に納得いって死ぬかどうか」
藤本先生「人生を肯定できるかどうかの違い!! ボクは奥さんが見つけられたことで人生に納得できた。生まれてきて良かった♡!! 自分の人生に悩み惑うときがある。それでも死なない保障になるのが原風景」
ゼミの時間でのろけているようだ。ゼミ生もあきれたことだろう。
ゼミの内容もさることながら、色々打ち合わせをしているのが、興味深い。まず、そこを紹介してみる。
【ミニシアターツアー】
7月11日(月)
藤本先生は、大田堯先生の映画「かすかな光へ」を紹介。
ゼミの活動としてミニシアターツアーを提案。打ちあわせて、8月9日に、4年生は午前から3本、3年生は午後から2本、観に行く。
”変わった映画館、文化館に行くことは人生の宝です!!“
今週のゼミ合宿は卒論強化検討会、実習報告会
7月25日(月)
藤本先生「まず午前に渋谷で『里山の学校』をみます。その後、神保町でみて、東中野でもう一本みます。この時のお金は、6000円くらいしちゃうと思うんです。お金のある人もない人も先生からお金を借りて月払いしてもらう。会計係決めて」
大越「大越がやります」
藤本先生「4年生は9:30に渋谷のハチ公前に集合。3年生は13:00に神保町に集合。神保町で古本屋めぐりとかあそびましょう。」
※ここで「先生からお金を借りて」と言っているのは、いわゆる《フジモトバンク》のこと。立て替え払いで、ゼミ生を映画や演劇を観に行っていた。
12月6日(日)
作業をしていてわかったことがある。今回の本作りは、基本的に、資料の発掘と整理、そしてその引用紹介なのだ。特に公開ゼミ(公開イベント)がどのようなものであったか、ポスター1枚しか残っていない年度もあれば、分厚い報告書が残っている年度もある。感想もいっぱいある。実行委員会の活動についての感想を中心に編集するつもりだが、誰のどの感想をどの程度引用するかの見極めが難しい。集まった資料を全部復刻してもいいのだけど、そうすると、昔の電話帳みたいになってしまう。
12月4日(土)
ニ冊目の本『大学生を育てる』は着々と原稿が出来ています。既に第1巻授業・講義編はほぼ完成。あとは12回分の「生活指導論」(90分×12回)DVDをどう紹介するか、1回分は出来上がり。第2巻のⅢ部、公開ゼミ編も大分できました。
今日は作業をしていて、ついに竹内常一先生を招いての公開イベントが何年に実施されたのか、つきとめました。何せ手元にあるのは、ポスター1枚だけ。2月11日(土)という日付しかなくて、これが2012年か、2017年か判断に迷っていたのです。今日ゆっくり、ポスターを紹介するために原稿に打ち直していたら、竹内先生の主な著書として『新・生活指導の理論」があげられていることに気づきました。この出版は2016年8月!だから、公開イベントが実施されたのは2017年2月10日(土)で間違いなし。ここからいろいろなことにつながっていくのですが、それは2冊目の本で詳しく触れます。
日誌は休み休みだけど、作業は休んでいません。粛々と原稿づくりに励んでいます。今日なんか、6時間以上パソコン、プリンターで作業して、疲れた。晩御飯を食べて、TVerで『最愛』の最新回を観た。
11月25日(木)
国公立の教育学部のある大学で、返事のあったところにはだいたい献本し終わった。私立でも大学院のある所には声をかけた。でも僕の家に、まだ60冊ほど在庫があるので、いろいろ考えて、さらに寄贈の問い合わせ先を拡大することにした。早速返事が来て、広島文教大学、聖徳大学、宮城学院女子大学に送った。
11月16日(火)
気が付くともう11月も半ば。作業がなかなか進まない。というか、今、同時に五つぐらいの作業を抱えている。
⑴大学生を育てるのパイロット版
第一巻 授業・講義編は枠組みはできた。今第二巻ゼミ編に入り、残っている公開ゼミのパンフレット、報告書、などの紹介をどうしようか検討中。
⑵宝塚図書館の講演会のやり残しを、架空の講演に仕立て上げる。講演会90分は短くで語り残したことがいっぱい。喋ってないことを、喋ったふりして、講義録を作っている。これはこれまで何度もやっているので、慣れたもの。問題は、いくらでも長くなってしまうこと。引用がいくらでもできるもんね、
⑶『高校生と文学作品を読む』という本を出版する。今週はこれにかかりっきり、8割方できた。構成も二転三転したけれど、ほぼ固まった。あとは結論部だけだ。ひょとしたら、これは売れる本になるかも。少なくとも150冊ぐらいは売れるはず。
⑷ブリコラージュ通信№12の作成(田辺聖子『花衣ぬぐやまつわる』を読む)
⑸まだ取り掛かっていないけれど、『現代文学評論』の本をまとめる。(今の予定では谷崎潤一郎、丸谷才一、金井美恵子で一冊)
去年卓さんの本の編集作業をして、自費出版の仕方もわかったので、自分の仕事でまとめていないものをまとめておこうと、思うようになった。モチベーションが転移したというか。残り時間も少なくなってきたので、残すものはきちんとまとめようという気になった。
10月25日(月)
二冊目の本『大学生を育てる─教育実践家としての藤本卓』の原稿作りに着手。
第一巻 授業・講義編、第二巻 ゼミ編、第三巻 教育実践家の肖像、という三巻構成で考えて、まず第一巻に取り掛かる。基礎演習については、和賀真純さんから貰った資料を使いながら、当時の学生の作文も一部引用して、文章化している。これはほぼクリア。次に生活指導論のシラバス・授業計画、参考文献一覧などの資料を、取り込み終え、さてこれをどう文章化するか思案中。
第三巻完成まで、これから長い作業になりそうだ。
10月20日(水)
昨日、某国立大学(特に名前は秘す)の図書館からメールが来た。8月に寄贈を受けてもらえるかどうかの問い合わせメールを送ったのだが、その時には返事がなかった。昨日のメールは、今からでも寄贈してもらえるだろうか、無理ならば購入するが、というもの。きっと誰かからリクエストがあり、寄贈の問い合わせを思い出したのだろう。早速本は郵送した。返事のなかった大学はあと14校ある。
この一か月で寄贈した大学がもう一つあるので、全部で50校に贈ったことになった。
9月29日(水)
8月の初めから、せっせと行ってきた大学図書館への寄贈も、ほぼ終わりになったので、まとめて報告をすると、
⑴寄贈をしたいのだか、受け入れてもらえるか、という問い合わせのメールを71件送りました。
⑵受け入れますという返事は全部で48件あり、そこには本を郵送しました。
⑶図書館のスペース等を理由に寄贈は受け入れませんという返事が7件。
⑷残り16件は、返事なし。
という結果でした。打率は6割7分6厘。
図書館によって対応が随分違って、本が届きましたという、お礼のメールや文書を送ってくださった所もあった。
具体的にどの大学が受け入れてくれたかは煩瑣になるので、省略する。Ciniiというサイトで検索をかければ、どの大学が所蔵しているかがわかります。但し、①登録に時間がかかり、まだ未登録の大学がある。②僕から寄贈していなくて、大学が購入し登録されているものもある。
まあ、おおざっぱに言えば、全国で50以上の大学には本が入ることになった。
問題は、うちの書庫にまだ60冊ほどあることだ。欲しい人は手を挙げてください。
9月10日(木)
今日、真美子さんからメールで、息子の迅くん夫妻が成田に無事到着したとの知らせを受けた。10日間はホテルに待機とか。でも良かった、良かった。
資料の整理は、現在ファイル5冊。
卒業生からの原稿は、村田隆くん、伊藤裕美さん、四辻瑛さん、竹内綾恵美さんの4人から届いている。伊藤さんは、追加分として2015年度公開ゼミについてという原稿も貰った。これらは全部、2冊目の本の頁に折り畳んでいます。
9月1日(水)
しばらく日誌を、意識的に休んでいた。書き出すとハイになるからだ。今日は卓さんの誕生日。予定通り、二冊目の本の作業を開始する。
と言っても、部屋の模様変えが主な仕事。段ボールの中味を確認し、ラベルを貼る。
これから、半年の計画で、編集作業をする。材料は山ほどある。問題は何を採り、何を捨てるかだ。DVD9時間分の講義や、講演4本(推定合計8時間)を全部収録しようとすれば、身体を壊す。映画上映会や講演会、公開ゼミの資料は横書きだけど、これを縦書きに直すのも大変。書き文字はたぶんOCRでは読み取れない。WORD化するのはかなりハード。難問が次々見えてしまう。さて、どうするか。
8月17日(火)
新型コロナ感染者はますます増えて、兵庫県にも緊急事態宣言が出ることになった。一体何度目だろう。
雨は降り続け、河川の氾濫や土砂崩れなど、災害が各地で起こっている。
そんな日本全体が危機的な状況に見舞われている中、大学への本の寄贈作業をコツコツやっている。メールは今日までに56校に送り、返事があり次第郵送している。32冊送った。今日は雨のやみ間を狙って、リュックに5冊詰めて、郵便局へ持って行った。帰りにはまた雨が強くなっていた。
8月7日(土)
けいたろうとおかあさんが遊びに来た。30数年前の木馬(編集日誌の一番下に写真あり)にも乗っていた。もともとこれは卓さんが作ってくれたもので、2歳のなっちゃん用にくれたもの。二人でピタゴラスイッチを見る。
グーグルスカラーを見ていて、こんなものを発見。「藤本卓教授追悼企画 子どもの自治的世界を保障する: 藤本卓の" 生活指導論" についての分析」大内梨菜 - 教育学会誌, 2020 - ci.nii.ac.jp。
早速、国会図書館に遠隔複写を申し込みました。大内さんは、卓さんの最後のゼミ生。
8月3日(水)全国の大学への寄贈を始める
今日から全国の教育系大学への寄贈を始める。明石の中西英代さんと群馬の山田ひろ子さんが作ってくれた図書館のリスト(住所・電話・メール・受付係・その他必要事項を網羅した貴重な書類)をもとに、朝から各図書館に、寄贈を受けてもらえるか、一つ一つ確認のメールを送った。午前中10大学、午後7大学に送り、3時現在で返事が6件、1件は委員会の審査待ち、5大学には、速攻ゆうパックプラスで郵送した。でも関東方面への便はオリンピックの影響で遅れそうだ、とか。
8月2日(月)別冊ブリコラージュ通信発注
熱い日中、耳鼻科の定期診察に行く。待っていると、高齢の男性がヨロヨロと入って来た。予約票を出したのだが、一日間違えていたらしい。「えー、そうか、今日じゃなかったのか」と椅子にへたりこんで、汗を拭くおじいさんに、受付の人が出て来て、「いいですよ、今日見ましょう」と言った。そばで見ていて、いやあ、凄いなあ、と感心した。臨機応変の、自然な対応だ、しっかりした受付さん、ちょっと見直した。
別冊ブリコラージュ通信『藤本卓教育論集』編集日誌をいつもの製本所に発注した。日誌だけで206頁、これ以上になると背表紙が割れる恐れがあるので、「卓さんとぼく」などは、収録を見送った。HPの日誌を削除したり加筆したり、註をつけたり、編集して、読みやすくなったはず。
7月24日(土)
横浜から、なっちゃん、かずき、げんきの三人が遊びに来る。猛暑の中、日ざしを避けて、昆陽池へ。げんちゃんは、せみの抜け殻を見つけるのが好きで、両手で抱えきれないほど集めた。二日続けてみんなでスイカを食べる。かずきとオセロをした。最初自分でもなんか変だな、と思ったら、挟み将棋と間違えていた。かずきも変だなと気づいていたらしいが、関西ではこうするのか、と一瞬思ったらしい。
7月11日(日) あれ、この名前、知ってる!
真美子さんから息子の迅くんが、7月には帰国する予定なんだけど、インドネシアもコロナの感染が急増していて、どうなることか心配している、という話を聞いていた。
ネットで、「出国に中国ワクチン必須を一転 インドネシアが規制緩和」という記事を見つけたので、読んでいくと、こんな一文に出くわし、びっくり!
《ジャワ島中部のジョクジャカルタのガジャマダ大学院生の藤本迅さん(35)は日本で就職先が決まり、7月下旬の帰国を予定していた。》という文で、以下彼の発言が載っている。
朝日新聞デジタル2021年7月11日8時15分 半田尚子さんの記事
8月1日から在外邦人対象の新型コロナワクチンの無料接種が始まるようで、迅くんの帰国はそれ以後ということになりそうだ。
7月8日(木)
本が出版され、カンパしてくれた方に本を送るという仕事も終わり、以前のような忙しさはなくなった。8月からは教育系の大学に寄贈、9月からは二冊目の本「大学生を育てる」の編集、と次の計画は立てているのだが、どうも身体(気持ちも)なまってしまうような気がして、『別冊ブリコラージュ通信』を作ることにする。(『ブリコラージュ通信№12』発行には少し時間がかかりそうなので)
別冊の目次は、第一部「編集日誌」(2020年6月~2021年5月)、第二部「卓さんとぼく」、第三部「藤本卓 アーカイブ」という感じで、小部数限定発行の予定。
うちの奥さんは、定年後も再雇用で週3日働いていたが、7月いっぱいで完全退職。7月6日が一応最終出社日だった。これでぼくもお弁当のおかず作りから解放される。
コロナワクチンの2回目の接種を5日に受けた。一応、発熱する心づもりでいたのだが、そんなこともなく、まあ元気。
6月25日(金)
鳥影社から6月17日までの配本リストが届いた。この日までに全国で175冊の注文があったようだ。細かく見てみると、いろいろ面白い。一番北はたぶん江別蔦屋書店、一番南はジュンク鹿児島かな。大学生協もある、修道大学生協、大阪府大生協、立命館生協、純心大学生協、東大生協柏店、松山大生協、愛媛大生協、富山大生協、関西大学生協、などなど。
東京新聞6月17日の朝刊に広告が載ったので、藤本卓教育論集のページの下に載せておきます。
6月24日(木) 大阪に行く⑵
23日に大阪市立中央図書館に行く。高速道路は使わずに、国道43号線を走ったが、下りるべき弁天町の手前で、二度間違えて下りてしまった。久しぶりに行くので、勘が鈍ったか。
ここの図書館には教科書センターの棚があるので、新しい高校国語の教科書を何冊か、パラパラと見てみた。新しい科目「言語文化」は、巷間話題になったほどの劇的な変化は見られず、なんかこれまでの教科書教材が沢山使われていた。いろいろ扱い方の工夫はあるようだが、まあ、こんなものだよなあ、と思う。文科省の役人は、いろいろ新しいことを提案して、功績(手柄)を作りたいのだろうが。振り回されるのはいつも現場の教員だ。一度、新しい教科書を全部読んでみてもいいなあ、と思うが、まあ、そんなことをしている暇はないか。
家に帰って残り物でお昼を食べていると、奥さんから今から帰る、お弁当は家で食べると連絡あり。
6月23日(水) 大阪に行く⑴
昨日、今日と2日連続で大阪に行く。
昨日は、まず卓さんの講演のカセットテープをCDにダビングしてもらうために、ダビングスタジオ大阪梅田店に行った。5分か10分毎にトラックを切ってくれと頼もうとしたら、一箇所100円と言われて、それはなしにした。だから80分一度に聞かなければならないかもしれない。まあ、修行の一種だなあ。
そこから歩いて、丸善ジュンク堂梅田店に行く。教育書の棚に三冊、重ねて並べられていて、思わず一冊買おうかと思ったが、よく考えたら、家にまだ100冊以上あるので、思いとどまった。そのかわり、川上弘美『東京日記6さよなら、ながいくん』、伊藤比呂美『ショローの女』、司馬遼太郎『草原の記』、松岡正剛『世界名作選Ⅱ方法文学』、チャールズ・ディケンズ『荒涼館1』、雑誌『ほんまに』の6点を購入。やはり、大きな本屋は品揃えが違う。
6月19日(土) 雑誌広告はこんな感じです
『教育』2021年7月号(旬報社、7月1日発行)の表紙裏に広告が載りました。「藤本卓教育論集」のページの一番下にコピー写真を掲載しておきます。これと同じものが、『季刊人間と教育』、『高校生活指導』にも載ります。
昨日時点で、全国のジュンク堂書店と丸善、あわせて13店舗に本が入りました。もっと増えるといいなあ。
6月14日(月) ワクチン接種
今日は一回目のワクチン接種をした。2か月に一度は血液検査で血を抜かれていて、そんな感じかと、ちょっと覚悟していたが、えっ、もうすんだんですか、というぐらい、一瞬だった。
Ciniiで検索してみると、4件ヒット。お茶の水女子大学にも入っていた。ここの図書館にはまだ送ってないので、誰かがリクエストしてくれたのだろう。たぶんこの人だろうと見当はついたが、ありがたいことだ。
6月13日(日)記録テープ一覧
これまで少しずつたまってきたカセットテープやビデオテープを一覧にしました。「教育者として」→「記録テープ一覧」のページにアップしたので、見てください。
今は高生研関係の集会での講演テープ(4種類)を聞いている。時々、あれっと思うことがある。例えば93年の「新たな自治像を描く」の中で、『十二人の怒れる男』と『12人の優しい日本人』(1991、中原俊監督、三谷幸喜脚本)について紹介しながら、大学生に比較させようかと思っている、と話している。僕も93年に猪名川高校で国語表現を担当した時、新しい単元(陪審員ゲーム)でこの『12人の優しい日本人』を使ったのだ。映画を見せて、次に大江健三郎の小説『不意の唖』を取り上げて、班で話し合いをさせた。
卓さんと僕では授業の目的が違うのだが、同じ映画に着目して教材化しようとしているのは果たして偶然か。それとも、いつかどこかで話題にしていたのかな(その可能性もある)。憶えていないなあ。
6月11日 本の広告が図書新聞に載ったよ
鳥影社が、広告が掲載されました、と「図書新聞」のコピーを送ってくれた。それで西宮のジュンク堂へ買いに行ったが、なかった。一応コピーを写真モードでスキャンしたものを「藤本卓教育論集」のページの最後にアップしておきました。
本屋に行ったので、新聞の書評欄で、これは面白そうと思った『あの人が好きって言うから……有名人の愛読書50冊読んでみた』(ブルボン小林つまり長嶋有)を探した。ありました。司馬遼太郎『ひとびとのあし音』、江藤淳『石原慎太郎・大江健三郎』とあわせて購入。
司馬遼太郎は来月つかしんで、大江健三郎は10月に宝塚市立図書館で取り上げる予定。
6月7日(月) 2001年のカセットテープと判明
滋賀県の夏原さんからいただいたカセットテープの中味を、順次確認している。日付の入っていない「〈判断力を育てる〉とはどういうことか」の冒頭では、宮崎駿と柳田國男について話している。『千と千尋の神隠し』云々とか、「うちの中3の息子が」云々ということから、これが2001年の講演だと判断した。
柳田國男の「マナブとオボエル」についても話していて、2008年の論稿に結実する要素が、もう既にこの辺りに出ている。
テープの後半は、カント云々という話が出て来るが、テープの音質が悪いし(20年前だし)、僕の聴力も落ちているし、うちのコンポも壊れかけだし、哲学の素養もないし、よく聞き取れなかった。(ようわからんかったと、ということですね。)
6月2日(水) 日誌更新は気分次第、出来事次第
初期の目的である卓さんの本が出来たので、この編集日誌も不定期更新にすることにした。次の山場は、全国の大学図書館への寄贈計画、そして2冊目の本の編集、どちらにしてもまあ8月後半かな。その間にも、手に入ったカセットテープ、ビデオテープなどの複製とか、仕事がないわけではないが、ぼちぼち自分の原稿書きも始めたいし。というわけで、明日からは気分次第、出来事次第で、日誌更新ということになります。
6月1日(火)返送されると困るなあ
お昼に郵便受けを見に玄関まで下りて、郵便物を取って上がってきたら、家の扉の横に小さな荷物。昨日ネットで注文した『大江健三郎全小説全解説』がもう届いた。
昼過ぎに、チャイムが鳴るので出てみると、郵便屋さん。レターパックプラスが返送されてきた。これで3件目。一つは単純な引っ越しで、実家に電話して、再発送。残り二つは届けた時にいなかったので、局で保管、期間内に連絡がないので返却するということ。レターパックプラスは速達扱いなので、ポストに入れておくとか、扉の所に置いておくことができないらしい。うーん、同じ本、大きさも値段もほぼ同じなのに、ネット通販と扱いが違うなあ。
5月31日(月) 大学図書館に寄贈、第一弾
卓さんは1992年から専任で大東文化大に勤め始めるのだが、それ以前にも、それ以後にも、別の大学で非常勤講師をしている。大東文化大も含めて八つの大学図書館に寄贈するために、いろいろHPを調べてみた。図書寄贈申込書とか、資料寄贈申込書とかが用意されている所もあれば、寄贈のキの字もない所もある。複数の図書館を持っている大学の場合、どこに送ればいいか、迷う。東京大学(ここにも送ったのだが)なんて、図書館が27もあるんだよ。
とにかく、今日八つの大学に郵送しました。
5月30日(日) カセットを9本いただく
先日、滋賀の夏原さんと電話で話した時に卓さんの講演テープがあるので差し上げましょうと言ってくださった。届いた箱を開けると、120分カセットテープが9本。4種類の内容である。
「新たな自治像を描く─私と公の間の「共」の世界とは─」1993年山形大会
「93全国ゼミナール講座A 」
「集団主義とは何であったか〈生活指導言論〉」1994・12・4 全国委員会
これだけ3本
「〈判断力を育てる〉とはどういうことか」日付なし
このうち「新たな自治像を描く」は「著作一覧」にも入れておいたものだ。逆に言えば、あとの3つを著作に組み入れるとすれば、101になり、三桁となった。
5月29日(土)卒業生の原稿が届く
2015年度卒業生の伊藤裕美さんから「永遠の恩師」という原稿が届いたので、「2冊目の本」のページに掲載しました。
伊藤さんの学年は、「私、ガッコのセンセになりません!!」という公開イベントをやっていて、卒業生の竹内綾恵美さん(1998年卒)、荻野俊貴くん(2012卒)をゲストに招いている。このイベントについては、プリントが2枚残っているだけなので、どんな内容なのか、ぜひ知りたかった。それで伊藤さんにこのイベントについての原稿も頼んだ。
少しずつ「2冊目の本」の内容が集まってくるようだ。
5月28日(金)滋賀高生研通信をいただく
滋賀の夏原常明さんから、滋賀高生研通信を二ついただく。一つは著作一覧にも載せていた「『学級集団づくり入門』第2版と新版の比較・検討─主権と人権の視点から─」、もう一つは「普通教育とはそもそも何か─実践的判断力を育てる未来の教育」(2000年2月近畿ブロック・ゼミでの記念講演に加筆したもの)。後者は著作一覧にはないもので、これで著作一覧は98点に訂正せねばならない。
5月27日(木) 予約と寄贈
伊丹市では、今日からコロナワクチンの接種予約(65歳以上)が始まるので、予約しようとパソコンを開けてみると、かかりつけのT先生の所はもう受付枠がなくなっている。すごい人気なんだ。それで、集団接種会場を探して、空いている日、空いている時間帯(残り一枠)の受付をしてもらおうと、クリックしたら、完了しました、と断られる。その次も同様。これはたぶん、ほぼ同時に申し込みした人がいるのだ、きっと。それで、残り二枠の所をクリック。予約とれました。6月14日(月)です。
雨の中、歯科の定期健診に行く。歯のレントゲンをとる。
午後、卓さんが勤めていた大学の図書館へ、本を寄贈するために、各大学のHPをあれこれ調べる。最初から「図書の寄贈について」というページがあり、「図書寄贈申込書」というのがちゃんと用意されている大学さえある。まあ、いろいろだけど。
5月26日(水) 残り150冊
20日に届いた300冊、いろいろ送って、残り150冊になった。
『神戸大学教育学部五十年史』を返すために、西宮市立図書館の北口図書館(アクタ東館4階)へ行き、次に1階のコープで豚ミンチを買い、それからアクタ西館にあるジュンク堂に寄る。大江健三郎『取り換え子(チェンジリング)』と、ハンナ・アーレント『人間の条件』を買う。前者は書き込み用、後者はたぶん積読用。
5月25日(火)『神戸大学教育学部五十年史』
5月14日の日誌に書いた『神戸大学教育学部五十年史』のゼミ実の箇所をOCRで読み取らせ、「記憶の中の肖像」の「神大ゼミ実での卓さん」のページに掲載しました。
執筆者は6年程後輩にあたる森田満夫さんだが、たぶん森田さんはその後の卓さんのことを知らないのだと思う。他人の目から僕らがやっていたゼミナール実行委員会の活動が描かれていて、不思議な気がした。藤本卓の名前が何度も出て来て、文章も引用されている。
数十年後、卓さんがゼミ生に公開ゼミや映画会、講演会などをやらせていることを知って読むと、感慨深いものがある。
5月24日(月) 宝塚に寄贈に行く
先日、宝塚市立中央図書館に出かけて行った。目的は三つ。
⑴「市民のための現代文学講座」のうち合わせ。
⑵『藤本卓教育論集』の寄贈。
⑶『未来の教師 教育系学生と全教ゼミナール運動』の借り出し。
まず期限の切れたカードを新しくする。担当の大畠さんを呼んでもらい、あらかじめ書庫から出してくれていた『未来の教師』を借り、次に講座の相談をする。コロナの状況が予想できないので、今年は一回だけ、時間も短めで(いつもは気が付くと2時間半くらいやってしまう)、テーマは、比較的とっつきやすいように、大江健三郎と伊丹十三でどうか。(二人は高校時代からの友人で、大江健三郎の奥さんは伊丹十三の妹)
次に、本を寄贈して、国立国会図書館のことや、表紙は娘さんが描いたとか、最後の解説は僕が書いたとか、ギリシア語、ドイツ語、フランス語、ロシア語が出て来て困ったという話を、自慢して喋る。
さあ帰ろうとすると、実は今年館長がかわったんです。かれこれ十年前から講座を始めたのだが、最初の担当永尾さんが転勤、新人の大畠さんが後を継ぎ、交代の年には二人一緒に担当してくれた。この4月、館長として戻って来た永尾さんと会って、久闊を叙した。女性の館長さんだ。嬉しかった。
5月23日(日)アマゾンでも買える
今日は久しぶりの快晴。散歩してても暑かった。昆陽池公園には、多くの人出。手を繋いで歩いて来る若いカップルを見て、あんなことしたことないなあと微笑ましくすれ違ったら、その後ろから手を繋いで歩いてくる年配のカップル!!二人ともしゃんとしていたので、介護で手をひいてるわけではなさそうだ。
昨日の夜、アマゾンで検索していたら、もう『藤本卓教育論集』が売られていた。やった。流通に乗ったぞ。持ってる人も、記念に注文してみてください。鳥影社のHPのトップページにも新刊書として、ちゃんと紹介されていた。ベストセラーになったら、真美子さんと儲けは山分けの約束をしている。何を買おうかな。(まあ、これで夢を買ってるようなものだけど)
5月22日(土) 時間との戦い
家に帰ると、まず宛名シール、送り主シールをプリントアウト、ハサミで切り離し、(赤)に貼ってゆく。次に、本、リーフレット、ハンカチをセットし、ビニール袋に入れて、(赤)に。
2回目の集荷は、4時半頃、時間との戦いになる。半分ほどセットし、それを6個ずつ、段ボール箱に入れ、上から紙をかぶせる。そして豪雨(あくまで個人の感想です)の中、片手で傘をさし片手で段ボールを持ち、車に運び込む。
註・後で量ってみると本は一冊800g、段ボール箱を片手で持つには、まあ6冊ぐらい。背中のリュックにも2冊入れた。
郵便局に運び込むと、局長さんが、手伝いましょう、と雨の中出て来てくれる。この日、30人分発送。
翌21日、朝から残り35人分を荷造りする。天気予報では、雨は午後にはやむとのこと。郵便局の集荷は確か12時半頃だったと思い、ぎりぎりまで雨のやみ間を待って、持っていくと、なんと集荷の赤い車がもう止まっているではないか。あわてて、窓口に持ち込んだが、車は出て行ってしまった。ちょっとぐらい待ってくれよ。でも、窓口は結構混んでいるし、一つ一つバーコードを読み取るには、時間がかかるわなあ。まあ仕方ないか。じゃあ、お願いしますと、帰る時、ポストに書いてある集荷時間を見ると、12時10分頃とあった。
ともあれ、これでカンパしてくれた人への郵送分は終了。赤いレターパックは速達扱いだから、今週中には全部届くだろう。(大東文化大学の現・元の職員の分は、埼玉の真美子さんに頼んである。)
5月21日(金) 赤い速達便
〈承前〉宛名シール・送り主シールを貼ったレターパックライト(青)をレターパックプラス(赤)と交換できますか?手数料をいただきますが、その際「ご依頼主様保管シール」を戻してください。なんだって、そんな手間なことが必要なのか。いったん剥がしたシール(追跡用番号付き)を一つ一つ、元に戻すって?!
一旦家に帰る。心を落ち着かせるために、昼食をとることにする。サッポロ一番は、さすがに昔懐かしい味なので食べやすいが、量が多い、カロリーも最近のに比べると高い、と言う話を奥さんにする。
なにかいい方法はないかと、インターネットで調べてみたが妙案なし。やっぱりレターパックプラス(赤)を買うしかなさそうだ、と思っていると、郵便局から電話がかかって来た。
さっきのシール(追跡番号付き)の話ですが、もどしてもらわなくてもそのままで構いません。わかりました、ともかくもう一度そちらに行きます。ということで、送ろうと準備した分の封をそっと剥がし本を抜き、まだ詰めてない青パック(宛名シール・送り主シールは貼ってしまった)も持って、雨の中、今日2度目の郵便局行き。
最後の悪あがきで、リーフレット、挨拶状、ハンカチを抜いて、本だけなら、どうか、試してもらう。やっぱり3cmの枠を通りません。じゃあ、仕方ないです、全部レターパックプラス(赤)と交換してください。
いろいろ窓口の人が計算しているのを待ちながら、そこにあったレターパックの比較紹介を見るともなしに見ていると、プラス(赤)は厚さ制限なしであると同時に速達扱いでもある、ということがわかった。雨がきつくなったようだ。
(明日に続く、次回完結予定)
5月20日(木) 『あしたのジョー』は名作だ
午前10時、佐川急便の屈強なお兄さんが二人で、段ボール箱15箱を運び込んでくれた(予想通り、一箱20冊だった)。
箱を開けて、一冊手に取るとずしりと重い。表紙も帯も、もちろん本文も、なかなかいい仕上がりだ。この1年間頑張った甲斐があった。やっぱり、パイロット版とは全然違うよなあ、本の重みも厚みも違う。468頁の仕上がりだぜ。ふふふ。
それで、本にリーフレットと挨拶文を挟み込み、ハンカチの包みと一緒にビニール袋へ。それをレターパックライトに入れて封をする。せっせと作業をし、とりあえず20ほど作り、雨の中、郵便局へ運んだ。すると、衝撃の事実が判明。3cmをオーバーしているので、扱えません!、って!!
レターパックライト(青)の厚さが3cm、4kgまでという制限があるのは、知っていたが、まさかの厚みオーバー。試合前の計量で針が越えてしまった、ボクサーの心境が……。押し込んだら、入るんちゃうん。でも、厚さを図る器具をどうしても通らない。
局長さんに、追加料金払ってもだめですかと聞くと、受け付けられません。レターパックプラス(赤)なら厚みの制限がないので、大丈夫です。いや、これ以外にも50ほど、全部宛名シールも送り主シール貼ってしまったんです。金よりも手間の問題なんだ、一刻も早く発送したいのに、これまでの準備はすべて徒労に終わるのか?どうする?どうなる?(明日に続く)
5月19日(水)臨戦態勢で、待ちぼうけ
朝から、パン屋にも関西スーパーにも行かず、本の到着に備えていたが、今日は一日まちぼうけだった。その代わり、埼玉からハンカチが届いた。娘の里菜さんが、ゆず、オリーブ、山椒、桃、桜桃など庭の樹々で染めたもの。本と一緒に送るのだが、一つ一つ和紙で丁寧に包んである。誰にどれが届くかわかりません。お楽しみに。
5月18日(火)『80日間世界一周』と『チキチキバンバン』の2本立て
やってくる300冊の本を収めるために、とりあえず書庫を整理して空間を作った。いろんなものの入った大きな箱を、2つの箱に分けようとして、中身を確かめると、メキシコ旅行の書類、結婚披露宴の案内状、学級通信の原稿、貰った詩集、「群緑」などに交じって日記帳が何冊かあった。
高校2、3年の日記をパラパラと見ていて、生徒会担当の恋野先生や宇野先生、中学以来の友達の板倉くんや高田くん、同級生の何人もの名前に交じって、ある女の子の名前が何度も出てくる。
タイムマシンがあったら、お前全然ダメやんか、あの子の気持ちもわかったれよと、昔の自分にアドバイスしてやりたい。まあ、聞く耳もたんやろけど。それにしても、受験生が12月29日に女の子と映画を観に行くか、それも『80日間世界一周』と『チキチキバンバン』の2本立て(5時間半)!!そんなことしてるから、浪人することになるんやんか。
5月17日(月)準備完了
天気予報によると今年は梅雨入りが早いらしい。今日は一日雨。午前中、『高校生活指導』212号用の原稿「藤本卓の仕事」(2100字)をメールで送る。それから、郵便局でレターパックを買いこみ、印刷しておいた宛名シールと送り主シールをせっせと貼る。八代亜紀を聞きながら、無念無想で作業する。家内制手工業というか内職している感じだ。三時過ぎには全部できた。
真美子さん、里菜さん、迅くんの文章をリーフレットにしたものも、編集工房のあいさつプリントも揃ってる。あとは出来上がった本が届くのを待つだけだ。
5月15日(土) 「本の舞台裏」
今朝の朝日新聞の「本の舞台裏」欄にこんな記事が載っていた。
《オノレ・ド・バルザックの『糸繰り女』が刊行された(鳥影社・1540円)。初邦訳。バルザックには珍しいおとぎ話で、魔女のような姿をした糸繰り名人の老婆から、眉目秀麗な息子がひどい仕打ちを受ける。翻訳は故・石井晴一さん。
バルザックの研究と翻訳で知られた石井さんは2013年、短編集『艶笑滑稽譚』の岩波文庫向けの手直しを終えて亡くなった。作業の合間に翻訳し、残したのが『糸繰り女』。未発表の翻訳稿を「せっかく翻訳したのにもったいない」と妻の滋子さんが本に仕上げ、自ら挿絵を描いた。
晴一さんの最晩年の訳稿は、表記の不統一や同じ語尾の繰り返しといった不備も目に付いた。滋子さんは知人の専門家の協力を得て修正を加え、約1年かけた完成させた。「(夫は)『やったじゃない』くらいのことは言ってくれるんじゃないかな』と滋子さん。」 (川村貴大)》
ううん、《最晩年の訳稿は、表記の不統一や同じ語尾の繰り返しといった不備も目に付いた》というあたり、めちゃくちゃ共感する。紀要原稿の註の不備にどれだけ私が苦労したか。しかも、これ鳥影社の話だぜ、みんな。川村さんがうちに取材に来たら、どんな話をしようかな。(似た話なのでパスされるか)
5月14日(金) お宝発見!
京都の池田さんから、神戸大学の同窓誌にも、出版の紹介を依頼してはというアドバイスを貰って、神戸大学教育学部同窓会のHPをのぞいてみた。すると『神戸大学教育学部五十年史』というのが出ていて、その目次を見ると、「教育系学生ゼミナール運動」という節がある。もしかすると、ゼミ実のことも出ているかもしれない。兵庫県図書館横断検索をかけ、西宮図書館が所蔵していることが判明。そこで、午前中、夙川まで出かけて行きました。以前にも行ったことはあったのだが、ここは結構行きにくい。道が狭くて、駐車場がなくて、たどり着くのに一苦労。
書庫から出してもらって、家に帰って、見てみると、これはお宝ではないか!「第2節・4・第16回近教ゼミ神戸大会からゼミ実機関誌『群緑』へ」ここに藤本卓の名前が何箇所もあり、『群緑』からの引用が一杯ある。しかも0号から7号までの目次も載っている。すごい。その註の⑸にはこんな記述がある。
《神戸大学教育学部ゼミナール実行委員会(編集責任藤本卓)『ゼミナール実行委員会機関誌』第0号、1974年3月16日、59-60頁。なお筆耕・製本作業にあたった「中路・加藤・松本・藤本(卓)・浜田・富田・馬場田・小山・前園・釜江・藤尾・多田・永田・岡本・沼田・藤本・紺矢・西村」の総勢18名の名が書かれている。以後の『群緑』の雛型になったのが0号である。ワープロのない当時、後期試験終了後から春休みにかけて編集し、原稿を清書し、印刷して、突貫工事的に仕上げている。当時のゼミナール実行委員会の実務作業の力量の高さがうかがえるだろう。》
実行委員の後ろから3番目の藤本が僕のこと。藤本(英二)としていてくれたよかったのに。
執筆者は森田満夫氏(現在は立教大学の先生)、森田さんのHPをのぞいてみると、3年前に還暦を迎えたとあるから、僕らよりも6年ほどあとの後輩ということになる。
5月12日(水)その2
今日はつかしんで文学講座。川端康成の「片腕」をやった。で、4月から事情があって受講生は2名になったが、今月は一人お休みで、一対一の講義になった。「片腕」は川端晩年の傑作として、「眠れる美女」と並んで語られることが多い。ちょうど谷崎晩年の「鍵」と「瘋癲老人日記」のように。
でも、「片腕」は昔読んだとき、あまりたいしたことがないと思い、最近読み直し、やっぱりたいしたことがないと思い、今回レジメを作るつもりで読み直して、初めて少しおもしろくなった。この小説を主人公に同化するようにして読むのではなく、突き放して、作品と距離をとり、何故作者はこんな風に書いているのか、なんでこんなに同じ言葉ばかり使うのか、語彙が少ない、固有名を使わない(谷崎なら、ナオミ、春琴、颯子とそれぞれ名前を持っているのに)、女しか出てこない(男は私しか出てこない)、娘/右腕、私/影、は分身、娘の腕と私の腕の付け替えは「性交」を意味している、などと「文句をつけながら分析的に読む」と結構楽しい。例えば、私が娘の右腕と一晩過ごしながら、何人の女を思い出しているか、それぞれどんな位置づけになっているか、今回はっきりわかりました。(三人でした)。授業でやりたいけど、高校生は引くやろなア。
帰ってきて、見てみるとサイトが直っていた。冤罪が晴れたのか。
5月12日(水)「安全ではないサイト」だと!
このHPにアクセスしようとしたら、突然、「安全ではないサイト」ですという警告が出て、アクセスできなくなった。何だこれは、誰のせいや、とあわてた。自分の所だけかと思い、息子のHPをのぞこうとしたら、そこも同じように「安全ではない」と出た。連絡をとると、「自分は何ともない、ウィンドウズのエッジを使っているのではないか、グーグルでやってみたら」とアドバイスされた。それでグーグルからなら、問題なくたどり着けた。
早速、ここを閲覧してくれている方が、「安全でないサイト」と出ていると、知らせてくれた。同じように見れなくなっている人がいるのではないかな。
どうしてこんなことになるのか、わからんなあ。
ただ、ガチャガチャ、触っているうちに挿入のボックスが出て来て、「折り畳み可能なテキスト」を作ることができた。
最終確認書を速達で出す(4月30日)
今日、北澤さんとメールと電話で、話を詰めて、「最終確認書」を速達で送った。これで本当に編集の仕事は終わり。GW明けから印刷・製本作業に入る。あとは本が届くのを待つだけだ。
というわけで、明日から5月20日まで、この編集日誌もお休みにします。実は、グーグルサイトで追加ページを作ろうとしても、うまくいかない。これまでこちょこちょ触っているうちに、折り畳み可能のページが選択できる所が開いていたのに、どこにいったんだろう。まあ、いざとなったら、このまま2021年4月のページを5月にも使い続ければ、何とかなるのだが、ちょっとゆっくりグーグルサイトの操作の研究もしてみたいし、とにかく、明日からしばらくお休みです。
危機一髪、ミス発見(4月29日)
雨の中、関西スーパーで食材を買って、家に帰ると、奥さんが今さっき鳥影社から電話があったよ、と言うので、電話してみた。実は昨日宅急便で送った六校は全部直っていたが、新たに二つミス(ウムラウト他、ドイツ語に関わる間違い)を見つけたので、あらかじめメールしておいたのだ。そのメールを見ての返事の電話だった。
今日は祝日なので、会社は休みだろうと思って、宅配便を明日午前指定にしたのに、北澤さんは出勤していた。二つのミスについては、修正し、そのページだけPDFで送る、これでよければ、校正は終了にして印刷に回したい、とのことだった。印刷は連休明けからで、二週間ほどかかるとのこと。
これで、本当に終わった!と感慨もひとしお。
晩御飯の仕込みをして、珈琲をいれ、書斎に戻り、改めて原稿の束をパラパラ、よく頑張ったものだ、とこの間の「激闘」を振り返りながら、最後の奥付の頁、著者紹介を見て、何か違和感を感じた。?「藤本卓 1951年兵庫県生まれ……」?卓さんは僕より学年が一つ上、僕は1952年生まれ、…だから1951年でいいよな、…?…まてよ、僕の生まれ月は2月、卓さんは9月、…あっ!年譜を確認「1950年9月1日生まれ」ではないか。
あわてて、電話したら、北澤さんはもう帰っていた。伝言を頼み、訂正してくれるようにメールもしておいた。
「危ないところであった」(by李徴)
赤い付箋と青い付箋(4月28日)
今日は一日雨なので、散歩もなしで家にいたら、四時過ぎに宅急便。六校原稿が届いた。開けてみると、五校に凄い数の付箋。僕は赤、北澤さんは青。どっちが多く付箋を貼るか、競争しているみたいだ。とても五校とは思えない。記念に写真を撮ったので、あとで『藤本卓教育論集』のページにアップしておきます。赤と青、どっちが多いと思いますか。
それで、連休前に届けたいので、大急ぎでチェックして、六時前に宅急便の集配所に持ち込んだ。これで30日には諏訪に届くはずだ。
廃線跡ハイキング(4月27日)
娘一家がGWに横浜から遊びにくる予定だったが、三度目の緊急事態宣言が出て、関西は変異株が猛威をふるっているし、医療崩壊状態にあるので、やめるようにすすめて、中止になった。僕は、武庫川沿いの「廃線跡ハイキング」も計画したんだけど、それはまた別の時に。
廃線跡は、宝塚良元校(夜間定時制)で、何度か遠足で行った。真っ暗なトンネルを、懐中電灯片手に、幾つも抜けていくのは、大人でも楽しかった。でもコースが4・7キロあるからゲンちゃんには無理かも、と言うと、ゲンちゃんが行ける頃にはお父さんの方が危ないんちゃう、と言われてしまった。
作った本をどうやって広めるか(4月26日)
『藤本卓教育論集』編集工房を立ち上げた時は、卓さんが残した論文の数もわからず、出版の費用も見当がつかず、出版社のあてもなく、協力者もなく、とにかくないない尽くしだった。目標はただ一つ、国立国会図書館に一冊収めることだった。
で、その目標は達成できそうだ。そうなると、ちょっと欲が出てくる。どうせなら、多くの人に手に取ってもらいたいではないか、諸君。というわけでどうやってこの本を広めていくかに、関心が移った。
先日、新聞の書評欄で取り上げてもらえばいい、という意見を聞いて、なるほど、そうするか、と思った。それでちょっとネットで調べて見た。新聞社は献本が来ると、まず記者が選び、それを100冊ぐらい並べて、書評委員に見てもらう。委員は手にとってみて、興味のあるものを持って帰って読むらしい。表紙、帯、目次、本文の数ページが、キャッチ―かどうかだな。
リーフレットのページの作り方(4月25日)
今回、カンパして下さった方に献本をする時、本だけ送るのも愛想がないので、特製のリーフレットを作って挟み込もうと思った。
それで今日は、ページの作り方を考えてみた。もし1枚の紙を使うなら、半分に折って、両面刷り4ページ仕立てにする。この時のページの打ち方は、表の左半分が1、裏の右が2、左が3、表の右が4となる。
これは、昔、兵庫文学教育の会で実践記録集を作っていた時の経験から、すぐわかる。働き始めた20代の頃、夏休みには何度か、神戸市兵庫区の平野小学校(井上先生の勤務校で、ここに岸本裕史先生もいた)に行き、職員室の輪転機を借りて何人か分をまとめて印刷したものだ。
それで、紙が2枚になったら、どうなるか、……。大丈夫、ちゃんとわかる。
試しに、今ある原稿を1枚4ページに流し込んで、うちのプリンターで両面刷りしてみたら、表と裏がひっくり返って印刷されていた!ううん、どうするかな。
ギリシアでは何を読むか(4月24日)
松岡正剛の『物語の函 世界名作選Ⅰ』の冒頭に、オデッセイアーが取り上げられている。オデッセイアーとイリアスは、高校生の時、国語の木南先生がしきりに薦めてくれたので、大学に入って読んだ。読めば、近代小説とは全然違うが面白かった。たぶん先生に薦めてもらわなければ、手に取ることもなかっただろう。高校時代のことも思い出しながら、松岡正剛の文章を読んだ。そして、一念発起、オデッセイアーを下敷きにしたジョイスの『ユリシーズ』に再挑戦。前は途中で挫折したが、今回は面白く読める。
同じギリシアでも、卓さんはアリストテレスをよく読んでいたようだが、ホメロスは読んだかな。
本田由紀のインタビューを読んだ(4月23日)
先日、西宮のジュンク堂で『季刊 人間と教育』を見つけて、購入。ここに広告をうつ予定。パラパラと見ると、本田由紀氏のインタビューが載っていたので、読んでみた。自由の森学園オンライン公開研究会でのものだとか。
『ニートって言うな』(2006年)という共著が話題になった頃、県主催の進路指導部長研修会で、本田由紀氏の話を聞いたことがある。話の切れがよくて、なかなかの研究者だと思った。今、東大大学院の教育学研究科の先生だとか。
インタビューの中の発言を紹介すると、
《…政策言語として「人間力」とか「生きる力」、あるいはそれが細分化されたものとして「コミュニケーシヨン能力」「問題発見・解決能力」などの「〇〇力」が重要なのだということが喧伝されたわけです。そして、教育現場もこれらを高める実践をしなければならない、というふうに領導されていく。従来は「狭い学力」だったものが、そこに加えて「人格と感情全体」「一刻一刻の振る舞い」までが評価・序列の対象に入ってくる。いわば「学力」と「人格」の二つの縦軸で競争を強いられるようになってきたのです。この状態が子供達をとても息苦しいものにさせていると思います。》
50年前、僕らは学力競争、能力主義に反対していたが、時代はもっと先に進んでいるのか、と思った。
椎名誠の文庫本二冊を買う(4月22日)
図書館の本(竹西寛子五冊と椎名誠一冊)を返却に、イオンモール昆陽に行く。二階に図書館の分室があって、時々使っている。四階の本屋で、さっき返した椎名誠の『おなかがすいたハラペコだ。』(四分の三は読んだ)と続編の『おなかがすいたハラペコだ。②おかわりもういっぱい』の文庫本二冊を買う。最近のエッセイだが、とても面白い。肩が凝った時に読むと、リラックス効果あり。
緊急事態宣言が出たら、ここも様子が一変するだろうなあと、思いながら建物の中を歩く。
午後、本の寄贈先をさがすため、グーグル・スカラーで「柳田國男 教育」を論文検索してみた。PDFで読めるものは論文を流し読み。なかなか、ぴったりの研究者には行きつかない。でも、知り合いの坂口京子さん(静岡大学)と村上呂里さん(琉球大学)が柳田國男について書いていたのを発見。村上さんは元高校教師で、竹内常一先生の所に内地留学に来ていた時に、出会ったことがある。卓さんとも面識があるはずだ。
評伝小説とは何かを考えていて(4月21日)
今日は、久しぶりに『花衣ぬぐやまつわる……』について原稿の続きを書く。これは田辺聖子の書いた「評伝小説」なのだが、いわゆる「評伝」(研究)とどう違うか、井上ひさしの「評伝劇」(『頭痛肩こり樋口一葉』など)とどう違うか、考えていて、ふと思い当たったことがある。
この一年、『教育論集』を作ろうとしていろんな人と知り合いになった。僕の知らない卓さんの高校時代、大学時代、大学院時代の友人たち。彼が教えたゼミ生たち、同僚たち。その人たちから聞いた話、エピソードの数々。残された論文。研究室で見つけた授業のプリント。こうした断片をあつめて、自分の中で、ある種の「評伝」を作ろうとしていたのだなと思った。そう思った時、《『花衣ぬぐやまつわる……』を読む》を新しい視点で論じれるかも、と思った。この一年の作業は、迂回路を通って、ブリコラージュ通信の原稿に活かすことができるかもしれない。そうなればいいのだが。
新型コロナワクチンの接種券が届いた(4月20日)
新型ワクチンの接種券が23日頃に届くって聞いていたが、今日届いた。それで予約しようと思って、伊丹市のHPの特設サイトへ行って、券番号とパスワードを打ち込んだら、入れない!なんだ、これ、またシステムが不十分なのかと思って、市のページをよく見てみたら、予約は5月から、とあった。でもなあ、今日届いた書類、プリントのどこにも予約は5月からなんて載ってないぞ。インターネットでHPにアクセスできない人は、どうするんだろう。
付箋だらけの、五校ゲラを郵送した。
あと60頁(4月19日)
昨日今日と、五校に取り組み、やっと400頁まで来た。あと60頁ほど。それにしても、こんなに付箋だらけになるとは!こんなことなら、三校、四校の時に、修正箇所だけチェックするのではなく、再校と同じように、全部読み直しておけばよかった。後悔先に立たず。
小さな見落としが一杯ある。 」 や )の脱落とか、「肉体文学」が「内体文学」になってるとか、「プ」が「ブ」になってるとか、「骨太」が「骨大」になってるとか、……。なんか「脳トレの間違い探し+視力検査」をやっているようだ。
五校校正のため車を走らせる(4月18日)
昨日届いた五校。改めて、しっかり気を入れて全文読み直すことにしたら、見つかる見つかる。こんなのでよいのか、というくらいだ。付箋が足りなくなって、奥さんに一つ貰った。こうなると、小さなことも気になる。例えば、
《出会いと相互応答をつうじて、ディスエンパワーされたものが自分(たち)のパワーを新しい形として取り戻すことを指導・援助する営み》(下線部の句点は、部分引用のゆえの誤読誘発を避けるために、引用者が付加した。)
という一節がある。でも「下線部の句点」って何のことや?ここには(元にした大学紀要にも)下線も句点もないやんか。
推理すると、これはどの時点かでは、「出会いと相互応答をつうじて、」に下線を引いていた(あるいは引くつもりでいた)けど、印刷段階では何らかの理由で消えたのだ(しかも読点「、」と句点「。」を勘違いした)。それで意味不明になっている。
この推理を証明するためには、どうしても引用元には読点がないことを確認する必要がある!
インターネットで在庫を確認して、西宮のジュンク堂へ車を走らせる。
竹内常一先生の『新・生活指導の理論』(税別2500円)、買いました。引用箇所の原文はと言えば
《出会いと相互応答をつうじてディスエンパワーされたものが自分(たち)のパワーを新しい形として取り戻すことを指導・援助する営み》
推理した通りだ。
やっぱり、卓さんはここに「、」(読点)を打ったのだ。意図はよくわかる。
竹内さんの原文では、「出会いと相互応答をつうじて」どうなったのか、二通りにとれる。「ディスエンパワーされた」のか、「取り戻す」のか。もちろん後者だ。それをはっきりさせるため(前者と誤読されないため)、引用する時「、」を打ったのだ。これにて一件落着。ちゃんと校正しました。
六校もあるなあ、これは……。
五校到着(4月17日)
四校を返してから、しばらく経つので、五校はこないのかなと思っていたら、今日届いた。僕が直した所以外で十箇所ほど修正箇所があったが、そのほとんどは、行を前後に動かすようなものだった。字のバランスを修正するものが一つあった(禁則解除とメモ)。細かく見てくれていると思って、パラパラとめくっていくと、小見出しで「思考」が「思者」になっているのを二つ発見。また見落としてた!あかん、これでは永遠に終わらない。
ストライダーを見た(4月16日)
昆陽池を散歩していると、いろいろ小さな出来事に出会う。今日は、ストライダー(ペダルのない自転車、足で蹴って動かす)に乗った3才ぐらいの男の子と若いお父さんを見かけた。男の子は得意そうにスピードを出して進んでいた。小石でも入ったのか、父親は立ち止まり、片足立ちで靴を脱ぎ始めた。それを知らずに、ずっと先までストライダーで疾走し、ふと振り返った男の子は、父親との距離に茫然となり大声で泣き出したのだ。右手で子どもを抱き、左手でストライダーを下げて、歩いていく父親のことを、子どもはきっと憶えてはいないだろうなあ。
散歩から帰り、『高校生活指導』に頼まれた「藤本卓の仕事(仮)」の原稿の続きを書く。2100字なんだが、短い文章ほど時間がかかるのだ。
大学図書館に寄贈するか?(4月15日)
本をどう広めていくかが次の課題だが、大学の図書館に寄贈するということも考えてみたが、さてどこに寄贈すればよかろう。
ネットで調べてみると、文科省の頁に教職大学院というのがあった。国立で47校、私立で7校、あわせて54校。でも、ここには東京大学、京都大学、神戸大学などがない。どんな分類になっているのか。素人にはわからんなあ。
竹西寛子を読んだ(4月14日)
今日はつかしんカルチャーで、竹西寛子の「蘭」を取り上げた。この短篇は高校の教科書にも載っていて、僕も読んだことはあった。地味な小説だなと思い、授業するのはパスした。今回、読み直し、これの入っている『兵隊宿』(ひさし少年を主人公にした九編の短篇集)も読んでみたら、思った以上に面白かった。少年がそれまで知らなかった世界の奥行に触れていく作品群は児童文学に近いものがあった。『兵隊宿』は中学一年で勤労動員に行く頃までしか書かれていないが、竹西寛子自身は16歳で原爆にあい、同級生たちを一瞬にうしなっている。長編の『管弦祭』など、広島で突然いなくなった友人たちへの追悼の思いで書かれた小説が多いようだ。現役教師の時に知ってたら、少し工夫して授業できたかもしれないなと思った。もう高校生相手に授業できないのが、ちょっと寂しい。月に一回程度でいいけど、出前授業のアルバイトないかな。
本の発送準備を始める(4月13日)
当初、献本の発送は鳥影社に委託しようかと考えていたが、思ったよりも費用がかかりそうなので、自前でやることにした。それで、今日はあてなシールの原稿を作った。元になる住所録からコピー&ペーストを繰り返し、枠から少し離して、切り取りやすくする。単純な作業だけど、根気がいる。休み休み、途中に散歩も入れて、とにかく一日でできた。
これをカット自由のラベル用紙に印刷して、一人分ずつはさみで切って、レターパックライトに貼り付ける。と、段取りを考えていて、ふと棚の上を見上げて、段ボール箱を見つけた。「書籍用封筒(久山社から)」と書いてある。そうや、これがあったんや。久山社が会社を閉じる時に、久保さんがいるようなら使ってくださいと、くれたものだ。箱を開けてみると、ちょうどレターパックライトと同じ大きさのものが50ほど出てきた。使えそうだ。
西宮のジュンク堂で(4月12日)
午前中、奥さんと二人で西宮のジュンク堂に出かける。雑誌の『季刊人間と教育』を探しにいったのだが、なかった。その代わり、『新装版 増補 自由学校の設計 きのくに子どもの村の生活と学習』を見つけた。これは、藤本ゼミで学習していた本。「きのくに子どもの村」のフィールドワークにゼミ生を何度も連れて行っていたはずだ。松岡正剛『物語の函』、橋本治『草薙の剣』と一緒に購入。
午後からは奥さんと昆陽池散歩。ちょっとはずれた桜の小道を歩く。八重桜、しだれ桜などこの小道には、多くの桜が植えられている。花水木も咲いていた。
講義を全部見ました(4月11日)
第11回、第12回を見た。いじめ問題を取り上げていて、なかなか面白かった。第11回は前半テレビ番組「子どもを怖がる子ども」を流していた。自分の耳が悪くなっているのと、あいまって、なかなかテレビ番組は聞き取れなかったが、卓さんがこれを学生に何故見せたかは、わかった。テレビの場面に触れながら「じゃんけん」ができることがどんな風に大事かを論じているあたりは、演劇論と教育論がクロスしていて、この一連の講義でも白眉。第12回の最後の、この講義のメッセージを語る所もなかなか良かった。僕が帯のキャッチコピーに使った「子どもは、大人に教育されるだけでは育たない」を卓さん自身が学生に向かって語っていて、そうやろ、やっぱりポイントはここだよねと、ちょっと嬉しくなった。
表紙カバーデザインはこんな感じになります(4月10日)
続いて、諏訪からレターパックが届く。表紙カバーデザインの校正が出来てきたのだ。このHPの『藤本卓教育論集』の頁の一番下に写真を載せました。四枚ある写真の一番目と二番目は濃いバージョン、三番目と四番目は薄いバージョン。
本には、表は薄い三番目、裏は濃い二番目を採用します。
ランドセルがピカピカに光っていた(4月9日)
今度のつかしんカルチャーでは竹西寛子の「蘭」を取り上げるので、昨日、図書館に『兵隊宿」他、竹西寛子の本を何冊か借りに行った。ちょうどお昼前だったので、車で走っていて、本当にピカピカのランドセルを背負った一年生を何人も見かけた。
鳥影社から「責了校」が届いた。えっ、もう終わったと思っていたのに、四校ですか。チェックしながら、パラパラと見ていて、一箇所あきらかな見落としを発見。さらに、字配りのアンバランスも発見。う~ん、見落としってあるよなあ。北澤さんにメールしたら、五校をおくるとのこと。このままいつまでも終わらないかも…カフカ的な不安がじんわりと。
卒業生からの原稿が届きました(4月8日)
昨日の晩、風呂上りにパソコンを開いてみたら、村田隆くんからメールが来ていた。そろそろゼミ生への手紙がついた頃だから、個人的にも原稿依頼をしようかと思っていたのに、彼の方からメールか来たので、ちょっとびっくり。添付ファイルを開けてみると、完成原稿「記憶の中の藤本先生」だった。
村田くんは、編集工房を立ち上げた初期の頃から、いろいろ資料を送ってくれたり、コメントのメールを添えてくれていて、とても助かっていた。
完成原稿を読むと、卓さんの声や姿、表情までが浮かんでくるだけでなく、村田くんが卓さんから何を受け止めたかがよくわかる。
なんだか、二冊目の本がもうできたような気になった。「二冊目の本『大学生を育てる』」のページに折り畳んで掲載しています。ぜひ読んでみてください。
授業の終わりは6時半(4月7日)
生活指導論の講義、第10回を見た。登校拒否・不登校についての話だった。講義の終わりあたりでいじめ問題に話が移った。「子ども・青年の自治権を本気に考える」の一部をプリントにして、渡していた。試験が近いせいか出席者の数が増えていたような気がする。時計を見たら、終わりは6時半だった。
あと2回だけど、どう終えるのかな。
『銀の匙』全巻読了(4月6日)
昨日書きかけていて、消してしまったことを書く。いや別に大したことではないのだが、横浜で『銀の匙』を最後まで読んだのだ。2月27日の日誌に詳しく書いたが、この北海道の農業高校を舞台にしたマンガは卓さんも推薦図書にあげていて、僕も離任式で触れたぐらい思い入れがある。ただ、途中で連載が中断、のちに再開、完結した。僕も最後のあたりは読んでなかった。娘の部屋にあったので、借りて、二晩で3巻を読み切った。娘は、こんなのもあるよ、こんなのはどう、といろいろお仕事系や部活系のマンガを薦めてくれたが、もうマンガの活字を読むのがつらいので、断った。
カズキからは西原理恵子の絵本『いけちゃんとぼく』を薦められた。
何故か、折り畳めなくなった(5日)
この日誌を書いていて、何故か、うまく動かなくなり、あちこちクリックしてると、一番下に移動して「このページは折り畳めなくなりました」という表示が出た。仕方がないので、文章をコピーして移そうとしたが、それも無理だった。
一旦、二日分の日誌を消去し、新しい折り畳みを作り、ネット上のページからコピーして、なんとか切り抜けた。これが月初めで良かった。3日と4日が逆になったが、あまり触ると、また変になるので、このままにしておく。あつものにこりてなますをふく、の気分。
マスク連日の箱買い(4月3日)
横浜へ3泊4日、留守番の手伝いに行った。新しい家は広くていいのだが、買い物が大変。1日目はバスでイトーヨーカドーへ、2日目は自転車でローゼンへ食材を買いに行く。1日目はカズキが、2日目は自分がマスクを忘れた。このご時世、マスクなしではスーパーにも入れない。結局マスクの箱を連日購入。娘にこの頃は1枚売りもあるよ、と言われたが、忘れた!と気が動顚、金に糸目はつけずに、箱で購入。そんな苦労の末、1日目はカレー、2日目はハンバーグを、二人で作る。夕方にはゲンちゃんが保育園から帰ってきて、三人でお風呂に入る。ゲンちゃんは水中メガネをして潜るのが好き。
新幹線の車窓から桜を眺めながら、伊丹に帰ると、刊行委員会からメールが届いていた。大学も新学期になるんだ。
2冊目の本作り(4月4日)
いよいよ2冊目の本作りを開始。プリンターが、何故か、なおったので、ゼミの卒業生あてに呼びかけ(原稿依頼)の手紙を印刷し、明日投函予定。
工房に新しいページを作り〈2冊目の本『大学生を育てる』〉という名前にした。ここに、呼びかけの手紙の内容も掲載したので、興味のある人は覗いてみてください。
これから半年ほどの仕事になるはずだ。
あとは投函するだけ(3月28日)
本の定価は3600円(税込3960円)で、刊行委員の方々の同意も得られた。念校のゲラをレターパック・ライト2個に入れて封をした。あとはポストに投函すればいいだけだ。
プリンターは機種を決めたが、購入は横浜から帰ってからにする。だから、ゼミ生への手紙はもう少しあとになる。まあ、急ぐ必要はあるまい。
31日から、横浜に3泊4日で出かけるので、明日からしばらく日誌はお休みです。
十時間寝た(3月27日)
昨日の夜は、睡眠導入剤を飲み、布団に入ってとにかく寝ることにつとめた。おかげで、10時間ほど眠れた。睡眠不足はひとまず解消。
『教育論集』の定価をいくらにするか、刊行委員の方の意見をきいてもらった。まあ、税込4000円以内になるかな。
昼から、北九州の3人を連れてうちの奥さんの実家に行く。ジュニアシートを西松屋で買って、3世代5人高速を走る。モノレールを何度も見かけた。そのあと、啓太郎がうちに泊まりに来たが、疲れ果てたのか、晩御飯の途中からダウンして、すぐに寝てしまった。
念校(三校)の校正終了(3月26日)
昨日の夜は、全然眠れなくて困った。体調が悪いのか、悩み事があるのか。何故眠れないのかに悩んで、ますます眠れなくなった。頭の中で、あいみょんの歌がリフレイン、なんとかそれを消そうとすると、吉田拓郎が出てくる。三時間だけ睡眠。飛行機でアメリカへ行くのに、海に墜落する夢を見て、これは夢だと思って、夢が覚めても、夢の中にいた。朝食の時に、原因がわかった。毎晩飲んでる睡眠導入剤を飲み忘れたのだった。ヤクがなければ、眠れない身体になってしまった。
朝十時、念校(三校)のゲラが届いたので、再校で訂正した所が直っているか確かめ、担当の北澤さんがチェックしてくれた箇所も確認した。終わったので、鳥影社に電話して、お礼を言い、今後のことを打ち合わせる。仕事とはいえ、こんなややこしい原稿、細かな注文に、よく伴走してくれたものだ。
プリンターがダウン(3月25日)
藤本ゼミ卒業生に向けた文書(A4で6枚、45人分)を印刷しているうちに、インクが切れた。急いで、インクを買いに行き、入れ替えたら、別の箇所のインクを感知できなくなり、動かなくなった。思えば、このプリンターは、よく活躍してくれた。印刷だけでなく、コピーや、OCRにも全力疾走で働いてくれた。ネットで調べると、修理するのと、新品を買うのと、そんなに変わらない。そもそも安い。こんなに安くていいのか。奥さんに話すと、インク代で儲けようとするやり方は相変わらずや、と言う。確かに、インク代はかかるよなあ。買ったばかりのインク無駄になったか。
表紙(カバー)の案が来る(3月24日)
鳥影社から表紙(カバー)の案が二つ来た。念校(三校)のゲラも今日発送したとの連絡があった。思っていたよりも一週間ほど早い。3月末から横浜に手伝い(留守番)に行く予定なのだが、それまでに校正できるかも。なんか担当の北澤さんと競争している感じだ。どっちが早く校正できるか。
昆陽池の桜並木は、ぼつぼつ花が咲き始めている。
藤本ゼミの名簿を作る(3月23日)
2冊目の本を作るために、まず今わかっている住所から、郵便物に貼るための住所・氏名シールを作ることにした。これが結構面倒なのだ。
エクセルで作られた住所録の一マスだけをコピーして、ワード用の画面に貼り付ける。「〒」マークや氏名のあとの「様」も必要。ほとんど手作業で、45人分やる。でも、この編集工房を始めた時には、卒業生の住所は8人分しかわかってなかったのだから、ありがたいと思わねば。そうは思っても、面倒臭いことに変わりなし。まあ、今日はここまで。続きはまた明日。
QRコードを作る(3月22日)
2冊目の本を作るには、藤本ゼミ卒業生の力がなくては、どうにもならない。そこで協力要請の手紙を作ることにして、やはりこの編集工房の存在を知らせなければと思ってパソコンで文面を考えていると、「今の若い子向けなら、QRコードを作った方が早いよ」とアドバイスを受けた。作ってみたら、すぐできた。でも、自分がスマホを持ってないから、これで本当に正しくこのHPにたどり着けるか不安だ。
なんだ、そうだったのか(3月21日)
偲ぶ会へ行く時に、新しいHPのアドレスを知らせようと、名刺に
https://sites.google.com/view/fujimo/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0 を印刷して持って行った。
今日北九州から帰って来た息子が言うことに、こんなに打つのは大変だし、もっと簡単にできるよ。えっ?
https://sites.google.com/view/fujimoでOKだって!
実際に任意のページのURLの欄に、そのURLを消して、このhttps://sites.google.com/view/fujimoを打ち込めば、いくつか候補が出てくるので、ふじもと編集工房を選べは、それでいい。やってみれば、到着できた。%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0 は、いらんかったのか。
大正新教育(3月20日)
講義DVDの7回目を見る。「池袋児童の村」小学校など、大正新教育について、話していた。板書を一杯している。知らない人物名も沢山。見終わってから、研究室で見つけた資料をめくってみると、「生活指導論補充ノート」、「学級」概念の変遷・略史、というプリントがあった。講義と重なる部分があった。
大正新教育をネットで調べてみると、文化学院の名前もあがっていた。文化学院の創設者、西村伊作は和歌山県出身で、彼の叔父が大逆事件の大石誠之助だ。ブリコラージュ通信№10(僕の出している個人誌)で中上健次について書いた時に、文化学院のことも目にはしていた。関心が交差する所だ。でも卓さんは中上健次なんか読まなかっただろうな。僕のお薦めは、『枯木灘』と『奇蹟』。
再校のゲラを郵送(3月19日)
東京への往復、新幹線の中でも校正したが意外と進まなかった。それで帰ってから、せっせと作業。最後の最後までギリシア語に悩まされた。17日(水)の午前中に、再校のゲラを郵送。今日、諏訪に届いたはず。二週間後には、三校のゲラと表紙、帯文が送られてきて、それをチエックしたら、作業はすべて完了する。なんだか寂しいような気がする。
偲ぶ会のDVDを貰った(3月18日)
大東文化大学の山中先生(偲ぶ会で司会をしていた)に、会で流した写真やビデオメッセージを貰えないかと頼んだのだが、早速DVDを送ってくれた。それで見てみたら、なんと偲ぶ会の全体もビデオ化して、一緒に焼いてくれていた。これはお宝だ。
会場では、ちゃんと聞き取れていなかった言葉もちゃんとわかる。お兄さんの話をもう一度聞きたいと思っていたので、真剣に聞いてみた。お兄さん6年生、お姉さん2年生、それで卓さんは1年生に入学、年の差がよくわかった。講義のDVDといい、偲ぶ会のDVDといい、貴重なものが次々と手に入っている。
大東文化大学の「偲ぶ会」に行ってきました(3月17日)
コロナの影響で、15人以内の会だったが、ビデオで多くの卒業生が登場し、話してくれたので、なんだか参加者が沢山いるような気がして、とてもよかった。見終わって、よし、もう一冊作ろうという気になった。研究者としての側面ではなく、教育者としての側面に光をあてて。
卓さんのお兄さんは、卓さんに似ていて、びっくり。
四歳の誕生日(3月11日)
今日はケイちゃんの誕生日。今月末には、一家三人、伊丹に帰って来るとの連絡あり。いつもはおかあさんの実家(同じ伊丹市内)に泊っていたのに、何故か、今回はうちに泊まりたいと言っているとか、うちの奥さんは大喜び。二段ベッド(もう30年以上の年代物、上段は今は物置)を棄てる前に、これで遊ばせたい(上段から魚釣りゲーム)と言っていたので、望みがかなうことになる。4月にはイケアに新しいベッドを買いに行くことになるかな。
13日(土)に大東文化大学に行くので、明日から3、4日、編集日誌はお休みします。(再校の追い込みもあるし)
いかなごの行列(3月10日)
つかしんの魚屋さんに行列ができていた。いかなご、1キロ、1980円だそうだ。春の風物詩だったが、値段がかなり上がっているみたいだ。
関井先生から、偲ぶ会の連絡が来た。式次第によると、参列者のあいさつでは、最後。これは緊張するな、きっと。
再校の⑶は、第一部6編がやっと終わった。意外な所で見落としがある。今日みつけたのは「その習い覚えを用意にするための諸手段…」これは「容易」。「直載なカウンターパート」これは「直截な」。「柳日の二分図式」は「柳田」。やっぱり、ちゃんと見ないといけない。
向田邦子「鮒」(3月9日)
明日は、つかしんカルチャーで向田邦子の短篇「鮒」を取り上げる。そのレジメを作ったが、あまりの上手さに感心した。1981年航空機事故で亡くなる直前、51歳の作品だ。
「耳が悪いのはパパでしょ。笑う声だってひとりだけ音程外れてるんだから」笑い声に音程があるというのが面白い。
「ツユ子は……喜び上手というか、小さなことでも心に沁みる喜びかたをした。」喜び上手というのはうまい表現だ。
小説を読む愉しみは、こんな小さな所にもあるんだよね。でもカルチャーの講座いつまで続けられるかな。コロナの影響で、全国の受講者数が激減してるらしいし……。
卓さんの「”懐かしい言葉”になり逝くか?─教育学〈術語〉としての「生活指導」の向後について─」の再校の影響が、日誌にも出てしまった。文学部なんてのも消滅寸前だし、……。
「時間割」の資料の使い道(3月8日)
講義5回目を見終える。90年代の小学校での学級崩壊問題について、話していた。以前に研究室の資料を整理していて、時間割らしきものがあるので、これは何に使ったのか、と思っていたが、講義を聞いてわかった。なるほどね。
学級崩壊に対する対応策として、ある小学校では、クラス全員が揃うのは1週間で2時間だけにし、あとは2学級を3展開(同時に3種類の内容)にしたそうだ。例えば体育なら希望種目(サッカー、バドミントン、体操)で分けるとか、算数なら能力別に分けるとか(分け方は4つある)。これだと、しょっちゅう、先生も変わり、授業のメンバーも変わる。古い「学級王国」的なあり方(担任がクラス全員を抱え込む)を変えて、教師が子どもの標的になることを避けたらしい。問題(教師に対する反抗、暴力等)は沈静化したが、親からは学校での子どもの居場所がないと反対の声が上がり、二年ほどで元に戻ったとか。単位制高校や大学のことも話題にしていた。そういえば大学で居場所を見つけるのって難しかったよな。
なかなか面白い話だった。そうか、あの資料はこういう話のためのものだったのか。資料だけでは、講義の実際はわからないなあと、実感した。
気分は名探偵(3月7日)
「⑶全文を無心で読む」という再校最終段階に入ったら、とたんに時間がかかることがわかった。
最初の論文「悦ばしき”学び”か?」の冒頭でいきなり躓いた。註の⑴が本文に二箇所あるのだ。この原稿は、柳田國男や矢吹省司の原文にもあたって、かなり丁寧に註をチェックし、訂正もした。⑴は二箇所のうちどちらかを削ろうと思いながら、柳田國男の原典が手元にないので、後回しにしようと思ってそのままにしていた(それを忘れていた)。でもまだ間に合う!図書館、日曜日は六時まで開いてる。今、午後四時半、明日は休館日。急いで車を飛ばし、書庫から本を出してもらい、借りて帰って、家で柳田の原文を読んでみた。解決しました。
卓さんが使ったのは1990年「ちくま文庫版」、図書館にあったのは2004年の全集。それでも推理した。註⑴が、本来想定していたのはどちらで、卓さんがあとから付け加えたのはどちらか。絶対これで間違いない。その訳は、……
「03.08.2021」?(3月6日)
「⑵一校のチェック箇所がなおっているかを確かめる」という作業に一日集中。思ったほど時間はかからず、気がつくと夕方には終わっていた。一番難しかったのは、フランス語で、それこそ「目に一丁字もない」(by石川淳・金井美恵子)者なので、単語をどこで切ればよいかもわからない。ネットで確かめて、ああ、これが前置詞なのね、という感じで、手探りで再校を進める。
インドネシアから贈られた二枚のチョコレート、奥さんが食べてみたいと言うので、賞味期限を確かめてどちらから食べるかを決めようとした。「03.08.2021」と「07.07.2021」。3月8日と言えば、もうぎりぎりやから、これから食べようと言うと、それは「2021年8月3日」という意味よ、とたしなめられた。「07.07」はゾロ目なので7月7日であることは、変わらないのだけど。
付箋箇所チェック完了!(3月5日)
昨日に引き続き、再校ゲラの付箋箇所をチェック。多く引っ掛かっていたのは、「留目」と「曖昧」。
「留目」は卓さんの原稿で何度も出てくるので、僕は何とも思わなかったが、一般の人の眼からはこれは「?」となるのだろう。辞書で引いても出てこないし、ネットで検索すると「留目(とどめ)」は地名なら、滋賀県東浅井郡湖北町にあるらしく、人名(姓)としては全国でおよそ590人(青森県に310人)いるらしい。
もちろん、卓さんは地名でも人名でもなく、目を留める、注目するという意味で使っている。これはまあ、そのままにしてもらう。
「曖昧」は何箇所も出てくるが、「曖味」になっていた。これはOCRがちゃんと読み取らなかったから、OCRが悪い。でも僕が一校で見落としたことも確か。「昧」と「味」、《老眼・近視・乱視》の眼では、判別が難しいんだよね。「曖昧」という漢字を知らなかったわけではない。念のため。
それでも、今日、十二の論文をチェックし、⑴の作業が終わった。めでたし、めでたし。
再校のゲラが届いた(3月4日)
再校のゲラが宅急便で届いた。ずしりと重い。見ると、付箋が一杯貼ってある。再校の手順を考える。⑴この付箋箇所をチェック、⑵一校のチェック箇所がなおっているかを確かめる、⑶全文を無心で読む。
で、とりあえず⑴の付箋の箇所を確認してみる。送り仮名、漢字使いについて、担当の北澤さんが結構細かくチェックしている。僕としては、卓さんの書いた原文重視の方針なのだが、念のために、辞書ではどうなっているかも調べてみた。最初、新明解国語辞典第五版を使っていたが、さらに広辞苑第二版も動員をかけ、それでも足りずに、古語林も書庫から引っ張り出してきた。
「並みの日本語読者としては……」という箇所、前二者では「並」しか見当たらず、らちがあかなかったが、古語林を引いて解決。古語なら「並み」という表記でOK!
そんな風にして、今日はとりあえず、第一部の六篇をやった。
What a coincidence! (なんという偶然の一致!)(3月3日)
偶然の一致というのはある。お昼にピンポンとなるので出てみると、郵便やさんがハンコを下さい、と荷物を届けてくれた。インドネシアからのチョコレートとコーヒーの贈り物だった。
お昼ご飯を食べてから、講義の第五回目を見てみたら、冒頭、切りだしナイフを手に、卓さんがこんなことをしゃべっている。
「うちの息子が高校3年生ですが、小学校の4年生だったかな、5年生だったかな、その頃にこの松山市内でナイフ事件があって、死傷者が出た。」
事件は中学校で起きたらしく、警察を通じて学校から、ナイフを持っている生徒は提出しなさい、という通達が来たようだ。その時に、「僕はおとうさんからこんな大きなナイフを貰ってるけど、出しません」と言いなさい、と息子に言ったとか。そんな通達を出す学校も学校だが、そんなことを小学生に言わせようとする父親も父親だ。困ったもんだ。
講義はここから、L.P.P(正統的周辺参加)の話になるのだが、ナイフが気になって、つながりがよくわからなかった。また明日見直してみよう。
希少価値について(3月2日)
この前、誕生日プレゼントを横浜に送ったのだが、箱のすきまにひなあられを入れておいたら、二人とも気に入ったらしい。ゲンちゃんはチョコレートのひなあられを選んで食べ、カズキは手のひら一杯分を一度にがぶっと食べるらしい。どちらもよくわかる。ネットで見ると、ひなあられは季節限定商品で、ひなチョコというのもあるが売り切れらしい。
今日は車検の日、車を預けて、一旦家に帰る。バスの待ち時間があり、時間つぶしに駅ビルの店を見てまわったら、とよすあられの店があった。こんな所にあったのか、と店内を見ると、なんと、ひなチョコの特売。買いました。でも、ひなチョコって、ひなあられの袋の中に数個入っているから嬉しいんだよね。袋全部ひなチョコでは、有難味がないかも。
『二十四の瞳』は『七人の侍』と同じ年に公開された(3月1日)
講義の第4回を見る。前回の続きで、大工西岡常一の話から「徒弟制の育て・覚えのシステム」について講じている。その次、学級崩壊の話になる。新聞を教材にしていて、確か資料の中にあったはずと思って段ボール箱の中を探す。ありました。1998年11月15日朝日新聞の記事。B4の裏表刷りは、縮小してあるので、見にくい。拡大ルーペを使いながら、記事を読み、講義を聞く。
途中『二十四の瞳』も話題にしているが、しゃべり一本。木下恵介監督、高峰秀子主演(1954年)は、その年のキネ旬1位。ちなみに同年の黒澤明監督『七人の侍』は3位だった。1987年に同じシナリオで、朝間義隆監督、田中裕子主演でリメイクされたが、木下作品には及ばなかった。(田中裕子は好きだけど)
授業の最後のあたりは学生もざわざわしていたので、「えっ、大学の授業も崩壊か」と心配したが、やがて鎮静化、ことなきを得た。やっぱり90分授業は長いよな。途中で映画の一場面でも見せて、ちょっと一息入れなければ。
今日の日誌は短い(2月28日)
奥さんの実家で法事に参列、久しぶりに正座したので、足がしびれた。
今日の日誌は大長編(2月27日)
およそ段ボール箱4つ分の資料の分類をした。講義、ゼミ、上映会・講演会、学生の指導案・卒論、などおおざっぱに分けて、これから整理、検討する予定だ。
シラバスも結構たまったので、クリアファイルに入れて整理・整頓。パラパラと眺めていると、荒川弘『銀の匙』の名前に目が留まった。「2013年度特別活動の研究」のシラバスに【参考文献・自由レポート課題】として13冊が挙げられていて、その最後にあったのだ。
『銀の匙』については言いたいことがあるので、自分の原稿を再録します。
四月には離任式があり、学校を去っていく人々はそこで一言挨拶をすることになっている。これで高校教師生活も最後だし、この宝塚良元で十年間も過ごしたのだから、何も言わずに去るというわけにもいかないだろうなあ、でもあれこれ昔話をしても、聞く方は退屈だろうし、言いたいことは、授業で言ってきたしなあ、……。何を話すか迷っていた。
《三月三十日に退職の辞令をもらい、三十一日から一週間余り、横浜に行ってきました。》
そう話し始めた。
妻が横浜に単身赴任していて、娘夫婦もそこから一時間ほどの所で暮らしていた。二月に娘が子どもを産んだばかりなので、子育ての手伝いのつもりで、料理、買物、洗濯、それから赤ん坊をあやしたりしていた。
娘の夫が帰ってくると、僕は自分の部屋にひっこみ、一人になる。その部屋の、娘の本棚に『銀の匙』があった。中勘助の小説ではない。マンガ大賞2012を取った荒川弘(あらかわひろむ、女性)の新作マンガ。『鋼の錬金術師』という人気マンガがあり、アニメ、映画化されているということくらいは知っていたが、読んだことも見たこともなかった。でも数日前、インターネットで『鋼の錬金術師』の作者がマンガ大賞2012を取ったというニュースを読んで、『銀の匙』ってどんな話だろうと興味を持っていた。ああ、これかと、手に取って読み始めてびっくり。おもしろい。
北海道の農業高校が舞台で、札幌の中学校から入学してきた八軒君が主人公。ほとんどが農家や酪農家出身、推薦入試で入学する生徒が多いのに、八軒君は一般入試で入ってきている。何故、彼がこの全寮制の学校に進学したかは最初「謎」だが、話が進むにつれて少しずつわかってくる。
なんとなく馬術部に入った八軒君は、校長先生から卒業後の進路をきかれて、「実は特に夢がなくて」と答える。同期の新入生たちが、実家の畜産業を継ぐとか、獣医になるとか、それぞれにしっかりとした将来の目標を持っているのに、八軒君には何も具体的な目標や夢がない。彼はそのことに少し劣等感を抱いていた。ところが、校長先生は「それは良い」とニッコリ笑い、「楽しみだね」と言う。ここを読んで僕は感動した。
伊丹に帰ってみると、先輩から手紙が届いていた。四月一日に清水真砂子さん(『ゲド戦記』の翻訳者)の講演があり、その筆記メモ・まとめを送ってくれたのだ。
その講演の中で、「今は問いと答えの間が短くなっている、それが心配だ」ということを教育学者の太田堯さんか早くも六十年代に述べている。現代はますますその傾向が強くなっている。長い間短大で勤めてきた清水さんは、新入生たちに毎年「わかり急がないで」と訴えていたとか。僕はここに、『銀の匙』で夢がなくてという八軒君に校長先生が「それは良い」とニッコリ笑う場面との符合を感じた。問いと答えの間にこそクリエイティブなものが生まれるのだ、と清水さんは語っている。
『銀の匙』を第二巻、第三巻と読み進んでいくと、「夢がなくて」ということの積極的な意味がだんだんわかってくる。
僕は定時制最後の六年間、進路指導部の仕事をしていた。早く将来の目標を決めろ、正社員をめざせ、と生徒を急がせていたなあ、まだまだ考えが狭かったなあ、と反省した。
『銀の匙』を読み、清水真砂子さんの講演を知り、「答えを急がない」ことの意味があらためて心にしみた。
《僕の最後の推薦図書は『銀の匙』です。これから『鋼の錬金術師』全巻読破に挑戦するつもりです。》
そんな風なことを、離任式の挨拶で話した。式のあと、トイレで、三年生になった生徒たちから、「先生の話聞いて泣いたわ」と声をかけられた。もちろん、それがジョークなのは口調からわかる。泣くわけない。それでも「『鋼の錬金術師』の映画はあかんで、原作のマンガの方が面白いで」と教えてくれた。授業中に携帯を触ったり、ゲームをしたり、最後まで叱っていた生徒たちだったけれど、今日の話は彼らに届いたなあと思った。
ブリコラージュ通信8号(2017年)より
離任式は2012年4月だった。だから僕も卓さんも、ほぼ同じ時期に、同じマンガに注目していて学生に推薦していたわけだ。卓さんはどういう点を評価してたのかな。
もちろん『鋼の錬金術師』全巻読破しました。傑作です。
2008年春合宿(2月26日)
真美子さんが自宅に残っていた授業関連の資料(段ボール1箱分)を送ってくれた。いろいろ入っているがシラバスだけでも
・2010年度生活指導論授業シラバス
・2013年度生活指導論・自由レポート課題指定文献一覧
・2014年度生活指導論授業シラバス
・2016年度生活指導論授業シラバス
・「生活指導論」精読用特別テキスト
などは初めて見るものだ。これで生活指導論については、かなりのシラバスが集まったことになる。
「生活指導論」精読用特別テキストというのは、Aアラン断章、B柳田國男断章からなるA4、4枚分のプリント。
他に特筆すべきは、「2008年度藤本ゼミナール春合宿in湯河原 城山学園訪問」という冊子だ。ゼミで児童養護施設を訪れていたようだ。と、ここまで書いて、まてよ、……。確か……。
卒業生とのメールのやりとりを手繰ってみて、見つけた!映画『こんばんは』の上映会の委員長の下山たみさんからのメールにこんな一節があった。
《…藤本先生は卒業後も私の就職先である児童養護施設に学生を連れてきてくれたり、ご自宅にお邪魔したり、結婚式のスピーチをしていただいたり、交流がありましたが、今年の年賀状の返信がなかったこと、気にかかっていました。…》
2007年3月卒業とあるから、まちがいない。2008年春合宿で訪問したのは下山さんの就職先だったんだ。そうか、こうつながるのか。
出版祝賀会でほら貝を聞いた(2月25日)
つい先日,新聞で宗教学者、評論家の鎌田東二氏(『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』2001年、岩波現代文庫が面白かった)が紹介されていた。
25年前、竹内常一さんの著作集の出版祝賀会に、卓さんが連れて行ってくれたことがあった。太郎次郎社の浅川満氏ともそこで顔を合わせた。その時にお祝いにと言って会場でほら貝を吹いた人物がいた。それが鎌田東二氏で、國學院大學での竹内先生の教え子なのだそうだ。竹内先生が、俺より有名になりやがって、と嬉しそうに言っていたのが印象的だった。
チョヘンってなんだ?(2月24日)
月一で、耳鼻科に通っているが、ここの先生は人気があり今日の予約番号は62だった。最近、助っ人の先生が来るようになり、今日はその若い男の先生にあたった。血圧検査、聴力検査の結果を見て、「チョヘンはありませんか?」と訊かれた。「?、?、チョヘン、……」たぶん「著変」だろうと、頭の中で変換して、はい、変わりないです、と答えたが、普通の言葉で話してもらいたいものだ。
帰ってから、卓さんの三回目の講義を見たら、矢吹省二が柳田國男を論じた文章の解説をしていて、「マナブとオボエル」、「話し言葉と書き言葉」のことに触れていた。「著変」って、絶対「医学生が大学で学んだ書き言葉」だ。カルテに書くための言葉だと思う。
ガッコで何を習ったの?可愛いおちびちゃん(2月23日)
現代はパソコンがあれば、いろんなことがすぐに検索できる。昨日話題にした What did you learn in school today? というのは、何か聞き覚えがあるなあと思って検索してみると、ドンピシャで、ヒット。元々アメリカのフォークソングで、日本では高石ともやが歌っていた。「ガッコで何をならったの、可愛いおちびちゃん~」という歌詞だった。ユーチューブでは、元のアメリカのフォークソングも見ることができた。
ユーチューブに接続したついでに、あいみょんの歌を何曲か聞いた。横浜アリーナ・コンサートでの「君はロックを聴かない」がすごかった。
講義第二回には、宮崎駿、中島みゆき登場(2月22日)
今日は第二回を最後まで見た。前半はinstructorとeducatorの違いについてで、後半はWhat did you learn in school today?をどう訳すか、だった。宮崎駿の対談の中の発言や中島みゆきの「命の別名」を素材にしながら話していた。
それにしても、この回の前半はビデオカメラが手持ちなのか、上下左右に画面が動き、まるで深作欣二監督の「仁義なき戦い」を見ているようだった。できるだけ画面を見ないようにして、話を聞いた。小津安二郎のようにとまでは言わないが、カメラの動きが少ない画面で見たいものだ。
「光とともに」って知ってますか(2月21日)
二回目の授業は、最初がちょっと切れていて、話は途中から始まった。どうやら、テレビドラマの話をしているらしい。「光とともに……自閉症児を抱えて」というマンガが原作。あとでネットで調べてみると、戸部けいこが、2001年から2010年まで連載。2004年4月から6月にかけてテレビ放映されたとか。篠原涼子、山口達也、高橋惠子らが出てたらしい。マンガもテレビも全然知らなかった。2004年と言えば、定時制高校に勤めていた頃だから、テレビドラマなんか見る暇もなかったなあ。
最初の講義を見てみた(2月20日)
卓さんの「生活指導論」の最初の講義を見てみた。授業全体のオリエンテーションの部分は、それほどでもなかったが、授業の本体部分はかなり面白かった。「1 よい教師は子供のプライヴァシーに介入しない?──インストラクターとエデュケイター」という章だったが、思わず手を挙げて発言したくなった。高山先生の城内小学校時代のエピソード(母親が蒸発した子どもの家に新任の男性教師と二人で出かけていき、大量の洗濯を何日もしに行く)を思い出し、『女教師 愛ひとすじに』(1982年、あゆみ出版)を引っ張り出してきて、その部分を読みかえした。卓さん、この話を大学生に紹介したってえな、と思った。
講義の記録DVDを入手(2月19日)
関井先生がコピーしてくれたDVDが届いたので、早速見てみた。カメラは固定ではなく操作している人物がいるようで、動きを追ったりアップしたりで、飽きずに見ることができる。まだチラチラと見ただけだが、二回目の講義の最後で中島みゆきの「命の別名」の話をしていた。
この件については、村田くんが送ってくれた講義ノートに関連して、既に7月12日の編集日誌に書いているのだが、僕だったら、絶対にCDデッキか何かを教室に持ち込んで、中島みゆきの歌を流すのに、卓さんはそんな工夫はしておらず、板書と喋りだけだ。サービス精神に欠けている。ここはぐっと盛り上げんといかん所やないか。この曲は「糸」とのカップリングでシングルとして発売されたとか、テレビドラマ「聖者の行進」の主題歌(「糸」も)として使われたとか、いっぱい脱線できるのに。長年のなみふく(中島みゆきファンクラブ)会員の僕としては、「授業のレトリック」について、ちょっと注文をつけたい所だ。
ワンタイムパスワードカードを交換に(2月18日)
インターネットバンキングを使ってると、ワンタイムパスワードカードの「バッテリー残量が少なくなっています」と、表示がでた。交換してもらうために銀行に行く。コロナですっかり様子が変わり、入口も一つ、行員さんの数も減り、待ってるお客さんも少なかった。事情を説明すると、インターネットでも受け付けます、郵送で新しいカードを送ります、と言われたが、「近々大金を振り込む必要があり、時間的にも急いでいる」(ほとんど嘘だけど)と、受付をしてもらった。ところが、待てども待てども、呼び出しがない。他の窓口は次々に処理されているのに。こんな時に、ノートとボールペン一本あれば、なんやかんや考えを書き留めて時間をつぶせるのだが、それがないので、無聊をかこつ。40分以上待って、待ちくたびれて、トイレにも行きたいので、近くのニトリへ行く。一合升があるか見て回ったが、二合計量カップしかなかった。銀行へ戻るとちょうど僕の番号が掲示板に。ぴったりだった。
手続きは五分ほどで終わった。貰ったカードが前のとそっくりだったので、これは新しいカードですか?と聞くと、「はい」と古いのを見せてくれた。どうやって電池を交換するのかなと思っていたんですと言ったら、優しく笑われた。電池交換はしないらしい。
慣れは禁物、集中、集中(2月17日)
散歩の途中、自転車二人乗りの中学生カップルを見かけた。男子は右手でスマホを操作しながら、ペダルをこいでいた。デートに集中せえよ、と思った。
鳥影社の担当北澤さんから、初校受け取りました、再校に入りますとのメール来る。先日のメールはデータの添付を忘れていたので、あわててファイル添付をして再度メールする。メールに集中!
オンラインで「偲ぶ会」が開催されます(2月16日)
昨日届いた「偲ぶ会」のプリントの内容をざっと紹介。
日時 2021年3月13日(土)14:00~15:30
会場 オンラインによる開催
https://zoom.us/j/93953262506 又は
ミーティングID:939 5326 2506(パスコードなし)
にアクセスしてください。(事前にzoomアプリをインストールがお勧め)
ということで、出欠は知らせなくてよいとのこと。時間になったらzoomミーティングにアクセスしてください。
こんなのでわかるかな。さらに知りたい方はメールください。
僕は要請があったので会場(15人限定)に行きます。スピーチは3分間。
することがなくなる、どころの話じゃない(2月15日)
午前中、郵便局へゲラを出しに行って、することがなくなる。そこで、ひさしぶりに煮込みハンバーグを作る。上手にできた。煮込みすぎないのが、大事なんだよね。などと思いながら、さて何をするかと考えていると、電話。大東文化大学の関井先生からで、しのぶ会の話だった。ZOOMでやるそうで、誰でも、見ることができるらしい。500人分の席があるとか。
関井先生のもう一つの話に、びっくり。卓さんの講義のビデオテープが16時間分残っていたというのだ。2004年の「生活指導論」の半年分、12回の授業を、本人が研究のために残していたらしい。
することがなくなる、どころの話じゃない。視るだけで16時間!!文字に起こして、もう一冊『藤本卓・大学講義録・特別活動の研究2004』なんてのを作るとしたら、どんだけ時間がかかることやら。やるとしたら、これはプロジェクトを組むか。
ぽかっと空白の時間が(2月14日)
昨日、今日と温かな日が続き、土日ということもあり、昆陽池は家族連れで一杯だった。レジャーテントがいくつも立っていた。
ゲラの校正、帯文、プロフィールの作成など、細かな仕事もすべて終わり、ぽかっと時間が空いた。二校のゲラが来るまで、何をしようか。やろうと思えば、やることはいくらでもあるのだけど、とりあえずは休憩、休憩。
写真をアップ(2月13日)
著者プロフィールに写真も載せようと思って、真美子さんに写真を送ってもらった。10年ほど前のものらしいが、学生に囲まれて、何やらプレゼントらしきものを手にしている。これを加工してもらって使おうと思っている。
実物がどんなものか、知りたい人は〈記憶の中の肖像〉の目次ページの下の方を覗いてみてください。
伊丹市立図書館へ行くと(2月12日)
最後の頁に載せる著者プロフィールにどんなことを書こうか、と考えていて、参考のために、いろんな本の著者プロフィールを見てみよう、と図書館へ出かけていった。すると、ギャラリーに「帯ワングランプリ」の応募作品が展示してあった。これは、本の帯を自分で作ってみるというコンクールで、手作りの字や絵から、応募者の中心は、小中学生かと思う。今までは横を素通りしていたのだが、ちょうど自分が帯文も考えている所なので、少し真面目に見てみた。「時をかける少女」や「モモ」などの帯もあった。
一応、僕が考えている帯文のキャッチコピーは「子どもは、大人に教育されるだけでは育たない。」(卓さんのことば)なのだけど、ううむ、小中学生に勝てるかな。
ゲラの校正ほぼ終了(2月11日)
あと、タイトル、小見出しなどの「位置、字体、サイズ」の統一をしないといけないが、ゲラの校正はほぼ終了した!!
六甲全山縦走で言えば、宝塚の塩尾寺まで来たようなものだ。あとは坂を下って、駅前まで下りていくだけ。でもここで安心して、勢いよく下りていくと、膝を痛める。実は下りの時こそ注意しないとだめなんだ。
晩御飯をロールキャベツ連続三日にして、頑張ったかいがあった。最後の今日は、餃子(冷凍だけど)をつけよう。
ベンチで宿題(2月10日)
昆陽池散歩は、その日の天候、体調、用事のありなしで、どの時間帯に行くか、気ままに決めている。今日は、午前中つかしんの講座があったので、散歩は夕方の四時過ぎになった。児童公園まで来ると、木のベンチを机がわりにして、しゃがみ込んで宿題をしている小学生四、五人を見かけた。こんな所でワークブックをやっている。不思議な光景だった。
ゲラは残り64頁になった。でも、小見出しの位置やフォントなど、全体の統一を考えるために、もう一回見直さなければならない。あと二日はかかるか、鉢巻が切れたら、三日いるかも。
昆陽池散歩もせずに、ひたすら校正に励む(2月9日)
「教育のレトリックの方へ─「竹内=生活指導論」への誘い」(50頁)を一日でやり遂げた。これはたぶん最長の論文。竹内常一さんの著作集の第1巻の解説文だ。タイトルはたぶん関廣野の「ハムレットの方へ」を踏まえているのじゃないかな。
これで350頁まで来た。あと114頁だ。ゴールは見えてきたが、鉢巻が何本切れたことやら、もうあと一本しか残ってない。大事に使わねば。
ラQを買いに昆陽のイオンへ(2月8日)
昨日は、奥さんの実家の片付けを手伝いに行ったので、あまり、校正が進まなかった。それで今日は取り返そうと思って頑張り、一日で四編校正した。
もうすぐ一樹の誕生日なので、リクエストされた「ラQ ボーナスセット」を買いに、昆陽のイオンに行った。売り場に二種類並んでいたので、困ったなあ、どっちがいいんだろう。どちらも入っている特別品は同じようなのだが違いがわからん。一度家に帰って、夜にでも改めて電話で聞いてみるか、と思いながら、箱を手に取りひっくり返すと、なんだ、これは!同じじゃないか。売り場では、表の方を上にして積み重ねたものと、裏の方を上にして積み重ねたものを、並べていたのだ。紛らわしいことこの上なし。
註、「ラQ」とは小さなプラスチックのピースを組み合わせて、いろんなもの(動物や何か)を作ることができる、レゴみたいな玩具。レゴよりも高度かな。
「Yの悲劇」だった(2月7日)
エラリー・クインの「Yの悲劇」は、殺人の計画者と実行者が違うという、面白い推理小説だった。昨日の話は、それを思わせる出来事だったのだ。
昨日書いた出来事の謎、青字の部分を書き足したのは、もちろん卓さんだった。この原稿が三回連載であったというのが、ポイント。
僕が「連載時の原稿に照らして」ゲラを校正したので、この謎が生まれた。実は、連載の第二回の最後にこんな追記があったのだ。
「本稿ーその㈠ー(本誌八六号)のうち、七七頁、註(25)の記述を次のように改める。(25) 例えば中内敏夫氏の所論。『近代日本教育思想史』国土社、『生活教育論争史の研究』日本標準、参照。また、中内編『教育学概論』有斐閣双書に所収の平野正久氏の論稿をも参照。」
僕はこの追記に従って、その㈠の原稿の電子データを直し、その㈡のこの追記部分は、電子データからは削除した。そして、そのことをきれいに忘れていたのだ。
これですべての謎はとけた。めでたし、めでたし。
何故こんなものが(2月6日)
校正は第二部に突入。最大の難所「〈制作〉と〈実践〉」(三回連載原稿)にさしかかった。第一回をえっちらおっちら作業をして、註までやってきて、目が点になった。
連載時の原稿に照らして校正しているのだが、そこにはこうある。
(25) 例えば中内敏夫氏の所論。中内編『教育学概論』有斐閣双書、参照。
ところが鳥影社からのゲラはこうだ。
(25) 例えば中内敏夫氏の所論。『近代日本教育思想史』国土社、『生活教育論争史の研究』日本標準、参照。また、中内編『教育学概論』有斐閣双書に所収の平野正久氏の論稿をも参照。
なんなんだ、これは!念のために、鳥影社に送ったデータを確かめてみると、データはこの通りだ。編集者が勝手に手を入れたわけではない。とすると犯人はデータを作った僕なのか。でも、こんな註を入れられるほどの知識は僕にはない。
一体何が起こっているのか。(次回に続く)
犯人は誰か、わかった人はメールください。
コピーはどこにいった!(2月5日)
ゲラの校正をしていて、一番頭を使うのは、註の扱いだ。大東文化大学の紀要原稿は、たぶんチェックする人がいないのだろう、註がきわめて杜撰だ。それを直すのに一苦労。時には、付け足しも必要になる。
それで、現物にあたるべく、アマゾンで矢吹省司の『オギャーと日本語』を注文。今日届いた。見たら、註2つ、同じ頁からの引用で、本を開いて、30秒で問題は解決。この本持ってたんじゃないかなと思いながら、そっと本棚に収める。
同じく、城丸章夫の『やさしい教育学』の引用頁を確かめたいのだが、大阪市立図書館でコピーしたものが、見当たらない。どこに置いたかな。コピーした日までわかっているのに、(編集日誌によると、9月26日)。
整理整頓は大事だよ、とみんなに言ってやろうと思っていたのに、自分に返って来た。うーん、詰めが甘い。
写真をアップしました(2月4日)
編集日誌の休み中も、HPのあちこちを直したり、細かな仕事をしていました。卓さんの古い友人中西さんが、一昨年の秋に東松山の藤本家を訪問、その時に撮った写真を、送ってくれました。
「記憶の中の肖像」〉「藤本卓」辞典のページに「巌殿山正法寺境内を歩く卓さん」「大東文化大学から、丸木美術館へ行く途中の川原 」の二枚をアップしています。
担当の北澤さんと電話(2月3日)
今日は鳥影社の担当北澤さんと電話で打ち合わせをした。本文やルビは申し分ない。きれいな字体で、ルビも注文通り、大きく読みやすい。
その上で、註のページの字数、行数を増やしてもらい、またアルファベットの字体(ちょっと細身なので、もう少しぽっちゃりに)を変更してもらうことにした。
なんだか、お化粧(メイク)の注文をしているようだった。眉毛を整えてください。眼もぱっちりにして。きりっと男前に。……
表紙のデザインが決まった(2月2日)
10日間ほど、編集日誌を休んでいたけど、その間にも、いろいろな出来事がありました。一番大きいのは、表紙のデザインが決まったこと。卓さんの娘さんが、とても素敵な絵(こぶしのつぼみと枝)を描いてくれたので、それを使うことにして、鳥影社に送った。どんな仕上がりになるか、今から楽しみです。
ゲラが届いた(2月1日)
昨日、鳥影社から本のゲラが届いた。なんと、なんと、全部で464ページ、しかも一ページ18行で予定していたのに、19行ではないか。
つまり、当初「50字☓18行☓380ページ」と見積もっていたのに、「50字☓19行☓464ページ」になってしまった。342000字(予定)が440800字(現実)に増えたわけだ。十万字も多い。申し訳ない。
今日はとりあえず、担当者の付箋の箇所と、図のチェックをした。これから10日ほどで、校正をすることになる。鉢巻が必要。
1月20日
この新しいHPは「検索」ではなかなかたどり着けません。
このHPのURLは
https://sites.google.com/view/fujimo/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0
でもこれををコピペして、ヤフーなどの検索に張り付けると、大変な数の候補が出て来て収拾がつかなくなります。
ではどうすればいいか。
どのページにも、そのページのURLを示している欄があります。
そのURLを消去して、そこに張り付けると(まあ乗っ取るようなものですが)、いくつか行先の候補が出てきます。そのうちの「ふじもと編集工房」をクリックすると、ここに行きつけます。
と、ここに書いても、もうここにきている人には役に立たないか。
仕事も一段落なので、鳥影社から一校がとどくまで(一月末まで)、編集日誌はお休みにします。
研究室でこんなもの発見(1月19日)
少し時間の余裕ができたので、研究室から持って帰った資料を整理しています。〈教育者として〈藤本ゼミ〈研究室で見つけたもの、という風にページを折り畳んで作りました。まだ途中ですけど、どんなものがあったか、ちょっと覗いてみてください。
その中に学生の感想文の束がありました。2019年6月ですから、卓さんが最後に講義をしていた年、「生活指導論」の授業で、卒業生の矢加部優氏(NPO法人グリーンウッド自然体験教育センター職員)を招いて話をしてもらったようで、その感想文です。
もう一つ「藤本ゼミ2013年夏合宿案」という資料も見つけたのですが、この年は「NPO法人グリーンウッド自然体験センター」(長野県下伊那郡泰阜村)を訪れたようで、合宿係の鈴木夏美さんと矢加部優氏とメールのやりとりの文面が掲載されていました。
この人物、てっきり女性かと思ったのですが、ネットでNPO法人グリーンウッドのHPを見てみると、職員紹介の写真が載っていて、男性でした。早見優かと思ったら、佐藤優だったわけです。
卓さんは合宿で、きのくに子どもの村、木更津社会館保育園、などに学生を連れて行っていますが、その系譜です。また、卒業生と現役のゼミ生とを出会わせる(先輩が後輩に語る)場を作る、という意味の例にもなります。
35人に文書郵送(1月18日)
「藤本卓教育論集刊行のお知らせとご協力のお願い」という文書を荒井先生が作ってくれた。前回の会議(zoomだぜ)で分担して、この文書を配布することに決まった。
それで、今日僕の分担(高校、大学の友人、その他)35人に郵送した。全体では170人を越える人に「お知らせとご協力のお願い」は届くことになる。
昨日の晩、横浜と交信。かずきはみかん箱に入ってロボットになっていた。げんちゃんは持ってるだけのウルトラマンと怪獣を見せてくれる。あ、それはバルタン星人、で意気投合、フォホ、フォホ、フォホ、……。
引っ越しはHPのことです!(1月17日)
今日は久しぶりに、高山智津子・文学と絵本研究所の所長の徳永さんに電話をした。研究所は2016年以降、開店休業で、HPを間借りして『藤本卓教育論集』編集工房のサイトを運営してきたのだが、今回ブロバイダーがサービスを停止するので、HPを引っ越ししますと報告し、どうすれば新しいHPへ行けるかを、電話で説明。実際にパソコンを開けてもらって、電話で指示。うまくたどりついた。そこまでは良かった。この新しいHPを「お気に入り」に入れておいてください、と言ったあたりから、迷路に踏み込んだ。「お気に入り」機能を使ったことのない徳永さんに説明するのが難しくて、何度もやり直し。結局、あとで娘さんに聞くということで、一応は終わった。
そのあと、「ところで、引っ越し先はどこですか?」「……??」「伊丹の近くですか?」「あの、……引っ越しって僕が引っ越しするんじゃないですよ、引っ越しはHPのことですよ」「あ、そうですか、そうですよね」「………」
間借りとか引っ越しとか言うのは、比喩なんだけど、もっと別の言い方のほうが良かったかなあ。
明日は1.17(1月16日)
夕方、昆陽池の散歩にでかける。スポーツ広場には数日前からテントが張られ、囲いが出来ている。震災の翌年から毎年、灯りを並べて追悼の行事が行われている。気のせいか、今年は規模が小さくなっているように思えた。26回か。
卓さんのしのぶ会は、延期されるようだ。コロナの感染拡大はこれまでにないほどなので、それも仕方ないだろう。
「特別活動の研究2013年度・補充ノート⑵」をアップした。「教育者として」の「講義のいろいろ」の頁に折り畳んで入れておいた。これは、「世代の自治」論のポイントをわかりやすく論じている。
根底にあるのは、「子どもは、大人に教育されるだけでは育たない」という教育観だ。
卓さんは《「自分たちの生活を自分たちで”仕切る"トレーニングの場として、「大人から相対的に独立した子どもの世界」を育み、かつての「子ども組」や「若者組」「娘組」の果たしていた人間形成的役割に近いものを再生させる可能性》を、教育の世界にさぐろうとしていたのだ。
あ、いかん、いかん。五代目パソコン+グーグルサイトだと、ストレスがなさすぎて、どんどん真面目な方向で論じてしまえる。
やっと資料の整理にとりかかる(1月15日)
出版社に原稿を渡し、オンライン会議で刊行委員会もやったので、仕事は一段落。そこで、研究室から持って帰った資料の整理を始めることにした。今日確認したのは、講義の授業計画・シラバス、試験問題など、その中でも2009年度の講義の補足メモ、2013年度の補充ノートというプリントは、かなり重要な資料だ。これは新しいページを作って紹介する予定です。
古いHPからの引っ越し作業もやっています。いろんな場所で講演したレジメが随分たまっていたので、それをせっせと動かしている。
各ページの写真もどれがいいか、風景や本棚など、手元の写真をいろいろ入れ替えて、試してます。「いいおもちゃやね」と奥さんに言われてしまった。
オンライン会議を初めてやった(1月14日)
いやあ、便利、便利。東京まで行かなくても、会議ができるんだ。はじめはうまくつながるか、半信半疑だったけど、ちゃんとつながった。刊行委員会で、いろいろ決まった。銀行口座もでき、お知らせのプリント、発送の分担、話しているうちに、もっと広めようという方向に、どんどんなっていった。
これで、当面の仕事は一段落。ここからは、次の構想(大学教育実践家としての卓さん)を実現するための計画を立てることにする。
半年ぶりの文学講座(1月13日)
今日から、つかしんカルチャーを半年ぶりに再開。遠藤周作「夫婦の一日」をやった。メンバー三人と再会。
古いHPから、ここへのリンクを、三か所から張ろうとしたのだが、なかなかうまくいかず、結局一か所だけからしか成功しない。悩ましい。ホームページビルダーも倒れる寸前。まあ、引っ越しの時期としてはちょうど良かったのかもしれない。
古いサイトでの最後の編集日誌(1月12日)
前のサイトの編集日誌は、今日で最後にして、明日以降はこちらで書くことにします。そのことを書いて、リンクを貼っりしていたら、うまくそのページが転送できなくて、難儀した。四代目パソコンはもう青息吐息、反応も遅い。でもなんとか、できたのではないかと思う。
こっちは、五代目パソコンだから、速い、速い。ストレスが全然違う。
今日は鳥影社の百瀬さんと電話で話して、データ(紙も電子も)を全部、宅配で送った。もうこれで、製本はスタートする。僕の仕事は終わったようなものだ。
1月14日(木)の刊行委員会は、オンライン会議になったので、東京には行きません。初めてZOOMを使うのだけど、うまく使えるかな。一応、北九州と結んで練習はしたんだけど。
出版社に渡す原稿のデータが出来た!!(1月11日)
論文18編も大変だったが、最後の最後、著作一覧で苦労した。元々これは大東文化大学の紀要は横書きで、パイロット版を作った時も、そのまま横書きにしていた。2巻、3巻、4巻は縦書き(というか、雑誌原稿のコピーを切り張りして作ったので、ほとんどの論文は縦書きなんだ。)それで最初のパイロット版も縦書きにしようと変換した。何が起こったか?例えば数字が典型的、横書きで算用数字使っていたのに、それを縦書きにするには横向いた算用数字を、縦向きの漢数字にしなければならない。これが面倒くさい。
今日はほとんどこの作業に没頭。
終わった。真っ白に燃え尽きたぜ。
新しいサイトを公開(1月10日)
グーグルサイトのHPを公開した。
したのはいいが、検索をかけても、なかなかたどり着けない。これは高山HPを作った時も、経験していることだ。一応公開されているかどうかを確かめてもらった。北九州と明石からはたどりつけたようだ。ふるい編集工房に掲示を出し、リンクもはっておいた。自分でやればたどり着くのだが、他の人がやって、ここに来れるのかな。
最後の追い込みで、ちょっと日誌は休みます(1月8日)
グーグルサイトにほぼ引っ越し完了。ここ数日のうちに「公開」します。しかし、いよいよ押し詰まってきたので、鳥影社に原稿データを渡すのが完了するまで、編集日誌は休みます。再開はたぶん十五日ごろになります。
はっと気づくと(1月7日)
午前中は、図や表を原稿のどの位置にいれるか、の指示書を作り、午後はHPの引っ越し作業をし、晩御飯を作り、仕事から帰ってくる奥さんを駅まで迎えに行き、夜は武井咲のTV『黒革の手帖』を見て、風呂に入り…はっと気づくと編集日誌をまだ書いてない!バソコンのスイッチを入れて、日誌を書くまでに、歯を磨き…、とにかく四代目は立ち上がりが遅い。早く、新しいサイトに五代目パソコンで編集日誌を書きたいものだ。
外回りの日にした(1月6日)
昨日は一日曇りだし、明日からは寒波がやってきそうなので、今日は外回りの日にした。パンネル中山寺で食パン一本(3斤)を買い、ビバホームでコピー用紙(A4、B5)、ビニール手袋、クリアファイルを買い、駅前へ廻りヤマダ電機で印刷インクを買い、百均でA4クリアケースと年賀状ホルダーを買い、関西スーパーで酢、昆布他食材を買い、ツタヤでレンタルDVDを見て回った(借りなかったけど)。図書館にも行ったが、館内整理日で何も借りれず、すごすごと帰った。
昼からは、データの手直し。パイロット版第一巻は横書きで作ったのが、ここにきて裏目に。縦書きに変換したら……。
夕食は肉団子甘酢あんかけ(1月5日)
今日は何人かとメールのやりとりをしたのだが、その中でわかったこと。ある雑誌で卓さんの本を取り上げるって!!六頁予定してるとか。まだ出来てもないのに、それはちょっとプレッシャー。発行を遅らせるわけにはいかない。
HPの引っ越しと原稿データ、二つの締切を抱えて、いよいよ時間がなくなってきた。
そういう訳で、晩は肉団子の甘酢あんかけを作った。(手慣れていて、まず失敗しないし、材料は買い置きしてあったので買物に行かなくていい。でも酢がギリギリだった)
2021年の抱負(1月4日)
今年は、奥さんと二人だけのお正月。こんなことは、結婚した年以来やね、と言われて約40年ぶりと気付く。啓太郎は北九州で3連凧を持って走り回り、一樹と元気は雪の北海道でそり遊びをしている。動画は便利。
さて、鳥影社とは出版の契約書を交わした。そこに今月中旬までに「完全な原稿」を「引き渡す」ことと書いてある。18の原稿は全部データ化完了。ちょっとした手直し(註番号が一番やっかいか。縦カッコの番号を一つずつ作らねばならぬ。横カッコなら、⑷⑸という風にすぐ出てくるのだが)あと、表紙のデザインと帯文を考えること。
ホームページの引っ越し準備もほぼ出来た。いつでも公開できるぞ。今度のHPは、⑴『藤本卓教育論集』編集工房、⑵藤本英二・文学研究室、⑶高山智津子・文学と絵本研究所の3つのサイトから出来ています。⑶はアーカイブ、⑴は稼働は5月頃まで、そして新しく設置する⑵で、これまでの仕事を整理し、自分の次の原稿書きの作業場にしていくつもり。(新年の抱負)
年末、年始のお休み(12月27日)
年末、年始一週間、編集日誌もお休みすることにしました。この日誌も書き出すと面白くなって結構時間がかかり、1時間かかることもあり、時々こんなことをしている場合じゃない、と反省したりしていました。鳥影社に渡すデータを整理したり、このサイトの引っ越し準備をしたり、明日は大掃除。いろいろやることはあるけれど、日誌はちょっとお休み。1月4日からの再開予定です。
勤勉な日々遂に完結(12月26日)
今日は、書斎の天井のクロスを貼って貰い、ガレージと階段の壁塗りをしてもらった。(これで年末の工事完了。)その間、台所で勤勉に作業を続ける。そして夜も残業をして、データ作りが、ついに完了。自分なりの予定では、年明けの7日ぐらいまでかかるはずだったが、勤勉な日々が続いたためか、仕事が終わってしまった。
鳥影社から「出版契約書」も届いた。条文が1条から29条まである。「二次的使用」についても書いてある。でも卓さんの教育論集が翻訳はともかく、演劇・映画・放送・録音・録画・電子媒体で二次的使用される心配はまああるまい。論文がアニメ化されて、大儲けということは間違ってもない。
「よもやよもや」のゴチック(12月25日)
「断章〈教育のレトリックのために〉その②」の本文も完了、絶好調と思っていた。が、註を読んで愕然。註⑶の後半に、こんなことが書いてあった。
《ちなみに、引用文中のゴチックや[ ]は、断りのない限り引用者により、表記を改めている。》
なんだって!「ゴチック」……。これはゴチックだったのか。ずっと「太字」だと思って太字変換していたのに。あ~……。そのつもりで見なおしてみると、確かに、これは「ゴチック」です。気づいたからには、直さねばなるまい。それにしても、ゴチック使い過ぎ!! 「〈制作〉と〈実践〉 その㈡」には30箇所ほども出てくる。
椅子が割れる音(12月24日)
「〈制作〉と〈実践〉」完了。ロシア語、ギリシア語もクリア。註番号、ルビ、太字、傍点・圏点を全部やった。本来なら、データ作りはここまでなのだが、もう一つ収録することにしたので、あと少しかかる。でも、この勤勉集中ペースなら、年内完了も可能かも。
台所で珈琲を入れて、ふうう、やればできるんだぜ、と椅子に腰を下ろしたら、「みしっ」と木の割れる音。椅子の座板が縦に真っ二つ。これも年代物だから寿命かな。それともここで勤勉に作業をしたせいか。知らず知らずに力が座板にかかっていたのか。
勤勉な日、2日目(12月23日)
防音工事二日目、今日も台所でデータ化に励む。「断章〈教育のレトリックのために〉その①」の本文が一日で終わった。
耳鼻科へ行く。数字は37になった。この所40台で推移していたから、ほんの少し良くなった。あいみょんの「スーパーガール」を繰り返し聞く。「知らなかったろ」の歌声が素晴らしい。
勤勉な一日(12月22日)
今日は小西さんたちが、書斎の防音工事をしてくれているので、パソコン、プリンターを台所に持ち出して作業をする。小西さんたちがずっと作業をやっているので、つられてこちらもずっと原稿のデータ化作業を休まずに続ける。気がつけば、「〈制作〉と〈実践〉その㈢」を1日でやってしまった(まだ少し残っているけど)。
ドイツ語もこなした。ウムラウトも打てる。エスツェットもこなした。その成果を披露しようと思って、ここでやってみたら、できない。ホームページビルダーはドイツ語できんのかな。ここはコピペで代用するけど、Wordならできるんだぜ。
ウムラウトの付いた3文字(Ä, Ö, Ü)
エスツェット(ß)
編集工房は梁山泊になるかな(12月21日)
書斎の窓ガラスに、「忘れないための心おぼえメモ」(圏点の打ち方、註番号の作り方、これからのスケジュール、やるべき作業、など)を貼っていたら、だんだん貼る場所がなくなってきた。
そのメモの一つに、60人以上の名前が書いてある。卓さんの友人・知人、連絡をくれたゼミの卒業生、大東文化大学の先生たち、アドバイスをもらった出版社の方、、……50年前から知っている人もいれば今年初めて出合った人もいる。
『水滸伝』というのは「水のほとりの物語」という意味らしい。昆陽池はすぐそばにあるし、108人集まったら、編集工房も「梁山泊」になるかな。
東京行・人生を俯瞰して鉄火巻・海苔巻を食べるの巻(12月20日)
17日、17時東京発の新幹線で帰途につく。車窓から都会のクリスマス・イルミネーションを俯瞰しながら、これからの予定を考える。
1月中旬に原稿をデータ化したものを出版社に渡すためには、かなりの作業が必要だ。サイトの引っ越しも1月28日までに完了させねば。原稿は初校、再校、三校と、4月中旬には校了。1月からはつかしんカルチャーの講義も始まる。2月には一樹、3月には啓太郎の誕生日もある。2月20日はしのぶ会。年賀状も大掃除も去年は喪中なのでパスしたけど、今年はそういうわけにもいくまい。床暖房の工事、部屋の防音工事もある。え、今年ももうあと2週間を切ってる!
あかん、どう考えても『ブリコラージュ通信№12』を作る暇はない。田辺聖子の『花衣ぬぐやまつわる……』を読む、の骨子は出来ているけど、原稿化するだけの時間がない。忘れていた、2月には自分の誕生日もくるやんか。大台(30ではない、念のため。還暦でもない、念のため)まであと一年か。卓さんと東京行の新幹線の車中で、井上俊夫の詩「豆腐」の使役表現について議論したのは確か30年ほど前だった、…
今、名古屋、人生を俯瞰している場合ではないと思い直し、おもむろに駅弁(鉄火巻と海苔巻セット)を食べる。
東京行・大海老天丼定食の巻(12月19日)
17日、朝から大学に行き、研究室の片づけに励む。ロッカーに山積みになったプリントを3~5枚残してあとはじゃんじゃん捨てていく。ダンボール箱3箱分になった。何を見つけたか、シラバスや試験問題、授業の資料、映画の紹介プリント、ゼミ生の住所録、などいろいろあった。探していた並行シェーマのプリントも出て来た。授業で配ってたんだ。「並行シェーマの三次元化」というプリントもあった。
昼一時半まで片付けて、手を二度洗い(真っ黒だった)、いつもの店「さがみ」へ行く。すいているだろうと思ったが、満席。待っていると座敷席でもいいですか、と声をかけてもらった。で、座敷を一人で占領し、大海老天丼定食を食べる。本当に大きな海老だった。海老は一尾だけだったけど、野菜のてんぷらがまわりをしっかり固めていたので、海老を一杯食べた気になった。
大学に戻ると門の所で学生が何人か守衛さんと話している。ふと見ると、「入構制限中」の札も出ている。第三波真っ只中。今日二度目の検温をして校舎に入る。消毒用アルコールの使い過ぎか、左手の甲が荒れてしまう。こんな状況で二月の「しのぶ会」は開催できるのだろうか。『藤本卓教育論集』の発行予定は、五月連休明け。真美子さんに「出版記念会と偲ぶ会を一緒にやるという手もある」と話す。
東京行・西遊記の巻(12月18日)
16日、新幹線の車窓から雪景色を眺めながら、東京へ向かう。
東武練馬へ直行、真美子さんと研究室の本の片づけについて話をする。事務の渡邉さんから、残った本について「古本募金」に提供して貰えないかという話が再度あったらしい。搬出の手間を考えて相澤書店に頼んだのだが、…、段ボールに本をつめて、研究室の前の資料室に置いておいたら、宅急便に連絡して着払いで送ってくれるらしい。事務も手伝いますから、ということなので、僕が反対することではない。相澤書店の搬出日には立ち会おうかと思っていたが、それがなくなる。売上は奨学金のたしになるようだ。その前に大学の先生に声をかけて、要る本は引き取ってもらう、という段どりになった。
14時から刊行委員会。今日は前田洋介氏も参加。大学側の刊行委員は全部で6人になるようだ。
出版を「鳥影社」に頼む。「断章〈教育のレトリック〉のために」も収録する。A5版、上製本、420頁。出版予定は5月連休明け。本のタイトルを『藤本卓教育論集 〈教育〉・〈学習〉・〈生活指導〉』とする。などを決めた。カンパの呼びかけ文を検討(振込の口座をどうするかは未定)。呼びかける対象についても、提案があった。
これで本の中身(構成も含めて)もタイトルも出版社も決まった。ゴールは見えた。問題は原稿をデータ化する作業。
自分で提案したとはいえ、「〈制作(ポイエーシス)〉と〈実践(プラクシス)〉」だけでも手こずっているのに、「断章〈教育のレトリック〉のために」が加わるんやで。相手は金角だけやと思ってたのに、銀角も出てくるとは。まさか、このあとに、羅刹女や牛魔王も控えてるんじゃなかろうな。
黙々と写経するだけでは足らず、夜中に山を走る修業もせないかんのか。そう言えば、来るときの新幹線発車間際に階段を駆け上って、車内でハアハアいったのは、その前触れか。(つづく)
Wordで圏点はこうして作る(12月15日)
「〈制作(ポイエーシス)〉と〈実践(プラクシス)〉」には、傍点だけでなく圏点(小さな白丸)が出てくる。これをどうするか、試行錯誤、苦労した。でも気がついた。これを傍点の一種と考えるからあかんのや。これはルビだと考えて、ちいさな○をルビとしてつければいいのだ!誰かに教えたいけど、誰も知りたがらないだろうな。今時、誰も圏点なんか使わんやろ。
明日から一泊二日で東京に行きます。日誌もお休み。
ふくろうの顔マネ(12月14日)
ちょっと早めのクリスマスプレゼントを贈ったので、一昨日、昨日とラインで北九州、横浜からお礼の連絡が来る。便利な時代だ。ケイちゃんは「おばあちゃんからのてがみ」がよめるようになっていて、うちの奥さんはそのあとも一人でケイちゃんの動画を繰り返し見たらしい。ゲンちゃんはペットショップでふくろうを見たそうで、ふくろうの顔マネをしてみせてくれる、似てる似てるとほめたら、手を広げてふくろうの形態模写をする。上手やなあとほめると、今度は片足立ちをするので、それはふくろうと違う、フラミンゴやろ、と奥さんと二人で大笑いした。
鳥影社に、40ページほど増えたら、値段はどうなるかを電話で訊ねた。印刷・製本代にはそれほど影響はなく、一番変わるのは組版代だそうだ。この増える原稿には図版はない、と言うと、何とか提案書の額で(増額なしで)やりましょうとのことだった。ついでに、実はギリシャ語の単語が2つ3つ出て来て困っているのだが、そちらでやってもらえるかと訊くと、ラテン語ならできるのですがね、とのこと。うーん、やっぱりギリシャ語なんか普通出てこないよなあ。調べてみますとのことだが、……。三木清の引用文の中の、このギリシャ語本当にいるのかな?
寒くならないうちに(12月13日)
今度の刊行委員会は、12月16日(水)だけど、週明けからぐっと寒くなるようでそれが心配。暖かい服装で出かけないといけない。ユニクロで新しい暖パンを買おうかと、見に行ったが、適当なのがない。サイズなおしはオンラインショップで、ってあるけど、それでは間に合わない。
夕方から寒くなりそうなので、温かいうちにと午後すぐに、散歩に出る。昆陽池公園の運動場では、子どもたちが、思い思いにラグビー、サッカー、ドッチボールなどをしている。芝生広場まで来ると、女の子たち10数人(小学校低学年から20前後まで)が整列して何かをやろうとしている。ベンチに座って眺めていると、ラジカセのリズミカルな曲にあわせて、踊り始めた。一曲半見てて、寒くなったので、散歩に戻った。あのダンスをやれば、身体も温まるだろうなあと思ったが、入れてもらう勇気はちょっとないなあ。
お母さんが、長い棒を振ると、シャボン玉が沢山できる。それをよちよち歩きの赤ちゃんが追いかける。こっちでは、見かけぬ何か台形のものを設置している高校生たち、どうやらバドミントン用のネットらしい。肩幅ぐらいの台を地面に置き、そこから斜めに細い支柱が出て、その間に網を張り渡している。
今日は日曜。まだ一時半だ。
最後の大物にとりかかる(12月12日)
どの論文を収録するか、は判断が難しい。この論文も入れて欲しいというリクエストがあり、何度かメールのやりとりをする。今日は、午前中、原稿用紙6枚分の返事を書いた。
お昼ご飯に三日目のカレーを、カレーうどんにして食べる。(昨日は茄子を追加した)
カレーで元気が出たような気がして、最後の大物「〈制作(ポイエーシス)〉と〈実践(プラクシス)〉」のOCR化に乗り出す。ルビや傍点、太字などは無視して、とにかく本文を再現。〈指向=Blickrichtung〉まで来て、躓き、どっと疲れて、今日はここまでにする。ドイツ語ぐらいでくじけていては、先が思いやられるが、初日から飛ばすと立ち上がれなくなる。何せ、この先にはギリシア語、ロシア語が待ち構えている。
昆陽池を散歩して気分転換。この間はクレーン車に乗って高い樹の枝を切り落していた。低い木は切るそばから、パッカー車に放り込んで処理していた。まあ、公園の散髪のようなものか。空も道も見通せて、すっきりはしたが、ちょっと寒々しい。このへんの加減が難しい。
ライバルは三浦友和(12月11日)
今日は、うちの奥さんの誕生日(年齢は秘密。山口百恵と同い年、ちなみに僕は三浦友和と同い年)リクエストに従ってスペイン料理を食べに行く。ランチBに300円を足して鹿肉を食べる。
「教育のレトリックの方へ」の註の校正をする。パソコンの画面では(拡大しても)見落としが多いので、プリントアウトしてやってみると、46箇所も間違いがあった。「頁」と「貞」とか、「宮」と「「官」とか、「著」と「者」とか、見間違うなあ。でも「主著」が「主者」では意味が通らんやろ。「二〇頁」が「二〇貞」ではわけがわからん。ちょっとは文脈というものを判断しろよ、OCR。
画像カルーセルを使う(12月10日)
サイトの引っ越し準備で、グーグルサイトの練習をしている。初めは「やっぱり使い慣れたホームページビルダーの方が……」などと未練を持っていたが、もう大丈夫。グーグルサイトに切り替えます。
練習していると、だんだん簡単さと便利さがわかってきた。北九州からのアドバイスが有効だったわけだ。
昨日は「画像カルーセル」というのを使ってみた。なんのことか、最初はわからなかったが、複数の画像を次々に送ってみることのできる仕掛けだった。インターネットでそんなのに出くわすことはあった。新聞や雑誌の記事の横に、写真画像5枚(見えているのは1枚だけだけど)、とかいうやつ。クリックすると次の画像になる。
この前撮りためた昆陽池の写真を使って実験。できた、できた。これなら「アルバム」も作れる。
それにしても、カルーセルって何や。カルーセル麻紀と関係あるのか。ネットで調べると「回転木馬」という意味とか。なるほどね。
問題は、今日またやってみようと思ったら、「画像カルーセル」のボタンがどこにあるのか、なかなか見つからず、迷ったことだ。「挿入」の下の方にあるんだよ。
修行僧の如き日々(12月9日)
東京から帰って「生活指導実践は『学校』を問う」をOCRを使って原稿化し、次に「共同の世界に自治と集団の新生をみる」にとりかかる。
これはカッコ、ルビの数が半端じゃない。
協同(ゲノッセンシャフト)、紛争(コンフリクト)、管理社会化(オーバーコントロール)、新しい社会運動(ニュー・ソーシャル・ムーブメント)、個人の社会化(ソーシャリゼーション)、下位制度的な(サブインイスティテューショナル)、生活様式(レーベンス・ヴァイゼ)、生活世界(レーベンス・ヴェルト)、……、ここでは( )に入れているが、これをルビ化しないとだめなんだ。
小型ルーペなしでは、字が読み取れない。しかも、「 」、( )、〈 〉、[ ]、” ”、を使い分けている(らしい)ので、OCRも眼を白黒させているようで、いちいち修正が必要。
もうほとんど修業僧の気分で、原稿化に励むが、10分やったら米をとぎ、15分やったら風呂を洗い、10分やったら郵便局に行き、15分やったら昆陽のイオンにカレーの材料を買いに行き、10分やったらかぼちゃサラダを作り、10分やったら洗濯物を取り入れ
……、と落ち着きなく気分を変えて作業を続ける。それでも「明けない夜はない」。3日がかりで完成。(まだ註が残っているが、そこはそれ、気分的には峠は越えた)
しかし、まだ゛「〈制作〉と〈実践〉」が残っている。あれは、こんなものじゃない!!(つづく、話ではなく作業が)
フィットはいくらか?(12月8日)、
東京から帰って、もう一週間がたった。早い。忙しい。帰った翌日には鳥影社から膨大な資料が届いた。本二冊、雑誌一冊、チラシ、新聞の書評のコピーが一杯、もちろん提案書もある。「A5版、上製本、380ページ、1000部」で、印刷・製本代、組版代・図版十数点、校正等編集費、カバーデザイン・バーコード一式、書店流通/倉庫代、消費税など、細かな費用が書いてある。合計は、僕の愛車フイット(カーナビやETCなんかはつけてない)の値段とほぼ同じ。心積もりよりも安い。
西田書店の日高さんと話していた時は、500部で話は進行していたが、1000部作って(鳥影社の百瀬さん曰はく「1000部作っても値段はそんなに変わらないです」)残ったらどうする?書店から帰ってきた時、誰が引き取る?
東京行・お土産編(12月7日)
小さな定時制高校(1学年1クラス、分校)で働いていた時、進路指導を担当したことがある。それまで、進路講演会にはハローワークの方を招いていたのだが、自分が担当になってからは、卒業生に来てもらうことにした。レストランの雇われ店長、有馬温泉の仲居、介護施設の職員、デパートの洋服売り場の店員、大阪王将の店員、などに来てもらい、全校生の前で僕がインタビューをするという行事が恒例となった。生徒も自分たちの先輩で、年齢も近く、知っている人が来ることもあり、話を熱心に聞いていた。
卓さんもよくゼミの卒業生を招いているようだ。(2015年の公開ゼミなんか、ちょっと変化球だけど、面白そう)現場の声を聞く、卒業生の力を借りる、こうしたやり方は似ているなあと思った。
さて、今回は一泊二日であわただしかったが、新しい展開もあり、来たかいがあった。次回の刊行委員会は12月16日。プリントの整理の続きはその時にすることにして、三時過ぎには大学をあとに、東京駅に向かう。慣れたのでスムーズに東京メトロで移動。
うちの奥さんから、お土産に「舟和の芋ようかん」を買って来てとリクエストされたので、東京駅構内を探して歩く。歩くこと20数分、見つからぬので、かわりに今東京駅で人気№2だという「cocoris」(サンドクッキー)を、並んで買う。ところが10mほど先の売店に「舟和の芋ようかん」が置いてあるのを見つけてしまった!昨晩ホテルから、「鳥影社」の連絡先を調べてくれと頼んだら、すぐに調べてくれた有能な秘書に「舟和の芋ようかん」も買うことにした
東京行・こんなもの発見編(12月6日)
今回、研究室で見つけたものを整理整頓すると、以下の通り。
・劇「ピアノのはなし」感想文集(2009年か?)…ゼミで観劇
・2009年度特別活動の研究・授業計画
・2011年度特別活動の研究・授業シラバス
・2013年度特別活動の研究・補充ノート
・2015年度藤本ゼミナール公開イベント「私ガッコのセンセになりません!!」
・2016年度生活指導論・定期試験問題
・2017年度映画上映会ポスター(2018年2月10日『校庭に東風吹いて』)
ゆっくり読んでみないといけないが、新しいこと、かなり重要なことがわかった。
⑴ゼミで劇を観に行き感想文集を作っている。
⑵2015年度の公開イベントは、教師にならなかった卒業生を招いている。この年の4年生は全員が教師にならない道を選択したそうだ。ゲストは竹内綾恵美さん(1998年卒、現コンサルティンググループマネージャー)、荻野俊貴さん(2012年卒、現警察官)の二人。この年以外にも、卒業生を授業や公開ゼミに招くということはよくやっていたようだ。
⑶映画上映会は『こんばんは』『里山っ子たち』『世界の果ての通学路』だけではなかった。ちなみに『校庭に東風吹いて』は場面緘黙症の子どもを描いた劇映画。沢口靖子が出ているらしい。
〈教育〉〈学習〉の並行シェーマ のプリントを1枚だけ見つけた。えんぴつ書きで「おぼえる」が 憶える、覚えるの二通りの漢字で表記されることをメモっている。これは最後の紀要論文につながるメモだ。いつのメモかは不明。(つづく)
東京行・整理整頓編(12月5日)
承前。相澤書店が作業をしている間に、(自費出版の相談をしようと)鳥影社に電話する。本社は諏訪市だが、東京・新宿にも営業所があるので、ちょっと会社を訪問しようと思ったのだ。ところが今はテレワーク中で、社員は自宅にいるとか。それで東京駅で会う段どりがつくかどうか、調整してもらったが、無理だった。そのかわり、電話で諏訪本社の百瀬さんと話す。慣れているのか、話がとんとん拍子で進み、向こうからは資料を送ってもらい、こちらからはパイロット版を送ることにした。
相澤書店が作業を終えて帰ってから、真美子さんと昼食に出た。前回と同じ店で、同じカツ丼セットを食べる。(次回は違うものにしよう。)いろいろ雑談。お互い「鬼滅の刃」を26話まで観終わったとわかる。使っている動画配信サービスは違うけど。
午後は研究室の片づけ。部屋の奥の、ロッカーの鍵が一つだけ見つからなくて、業者を呼ぶ話も出ていたが、鍵発見。図書館の人がロッカーの中の本(洋書)を回収にくる。僕は、ドアの近くのロッカー(鍵はかかってない)に入っているプリントの山を整理する。どれも5部だけ残して、あとは捨てることにする。プリントを見れば卓さんが講義で何を教材に使ったかがわかる。しかし、一言言わせて貰えば、ちゃんと原版をファイルしておけよ!僕なんか、最初の舞子高校以来、ずっと授業のプリントや試験問題はファイリングしてあるぞ。(まあ、もう使うことはないけれど)。NHKカルチャーセンター、宝塚図書館、つかしんカルチャーで配ったプリントもジャバラのファイルに入れてるぞ。本当にもう……。整理整頓が苦手だったのだろうなあ。一番手に入れたい「〈教育〉〈学習〉の並行シェーマ」のプリントは1枚しか出てこないし、もちろん原版は見つからない。などと、内心ぶつぶつとグチりながら、黙々とプリントの片付けを続ける。ロッカーの棚2段分、資料室の机に並べて作業したが、半分しかできなかった。プリントの入ったロッカーはもう一つあって、こちらは手つかず。だから……(つづく)
東京行・古書出張買取編(12月4日)
12月1日、再び板橋キャンパスへ。真美子さんと一緒に片付けをしながら、業者を待つ。出張買取専門の相澤書店に、研究室の本を査定してもらう。5000冊ほどあっても買ってもらえるものは少なく、とにかく:研究室の本を全部片付けてもらうという条件で手を打つ。値のつくものだけ今日引き取ってもらい、あとは来年の1月14日、21日に搬出。残った本を前にまあこれだけの本をこの部屋から運び出すだけでも、大仕事だから、それにお金を払うのだと思えば、あの額でも仕方ないか、と思う。
欠本のある全集、新しい訳の出た全集、そもそも教育関係の本には値がつかない。アリストテレス全集もプラトン全集も買ってもらえなかった。
僕の家の本なんか、全然値がつかないだろうなあ、と思う。
次の搬出日までに、学生さんや教員の方に、欲しい本があったら、持って行ってもらいたい、と真美子さんは言っていた。
(つづく)
東京行・池袋アイス編(12月3日)
承前。池袋から東武東上線で東武練馬へ。スクールバスで板橋キャンパスに到着。一応、17時から刊行委員会だったが、前の会議(教授会)が長びいていると連絡があり、事務の人が研究室を開けてくれた。本棚を撮影。
荒井先生、杉田先生と3人で話し合う。名称を『藤本卓教育論集』刊行委員会と決め、カンパを集めるための口座の開設、本の内容、出版社などについて話す。西田書店から聞いた話も伝える。出版時期は5月連休明けで。出版社については、大手はやめて(費用が掛かりすぎる)、中小出版社で自費出版を引き受けてくれる所(西田書店、鳥影社)を候補に話を詰めていくことに。
次回は12月16日(水)、口座開設の報告、名簿、呼びかけ文などについて。いよいよ、実現に向けて本格的に動き始めた。
帰りは、荒井先生、事務の渡邉さんと池袋までご一緒した。「緑育」についても聞き、何故緑なのかと訊ねたが、名前の由来はわからないとのこと、神戸大ゼミ実の機関誌「群緑」の話も出してみたら、渡邉さん曰く「うちのスクールカラーが緑だからじゃないですか」。そうか、卓さんが絡んでいるかと思っていたが、深読みやったかもしれん。
新潟からの学生がいることを訊ねたら、何カ所か地方で受験会場を設けていて、それとの関係か、新潟、長野、静岡からの学生が多いらしい。
池袋ではラーメン屋発見。カウンター席に、ブックエンドとプラスチック板で作った即席のしきりがあった。スープはまあま、チャーシューが厚切りすぎ、麺が太い(自分は細いのが好きなんだと自覚した)、まあ、今回は引き分けか。
コンビニで棒つきチョコアイスを買った。リュックにいれるほどでもないので、ジャンパーのポケットにつっこんで、隣の定宿ホテルへ入る。早くしないと溶けてしまう、さっさとチェックインしたいのに、地域クーポン券(1000円)をくれたり、アメニティグッズを選ばされたり、…溶けないか心配。部屋に入って食べようとすると、アイスがない。……急いでエレベーターで3階まで降りると、「この辺りにアイス忘れてませんでしたか」と訊ねるまでもなく、フロントの前に落ちていた。拾ったアイスを見せると、さっき受付をしてくれた女の子もにっこり。他にチェックインの客がいなくてよかった。(つづく)
東京行・神田神保町編
11月30日、新幹線で東京へ。午後一時半、神田神保町の西田書店を訪ねる。あらかじめパイロット版を送っておいたが、さすがに全部は読めませんでした、と言われて恐縮する。何編か読んでもらえただけでもありがたい。藤田省三とも知り合いらしく、卓さんは藤田省三さんと面識があるのかと聞かれたりした。(〈制作〉と〈実践〉に出てくるので)書籍販売には委託販売と注文販売の2つの方法があること、東販、日版に200部ずつ預けたとして、果たしてどれだけ売れるか。現在の返品率は40~50%。などいろいろ現状を教えてもらった。自分の所では注文販売のために、自社の本にはチラシを必ず入れているとか。約物(カッコやルビ)が多い原稿は、最初はつけずにWord化し、一校の時に指定をすればいいとか、いろいろアドバイスを貰った。話しを聞いていると、丁寧な本作り、本に対する愛情が感じられた。社長さんと女の社員さんの三人のアットホームな所だった。僕が伊丹から来たと知ると、社員の方から緑ヶ丘を知っているかと訊ねられた。なんでも知り合い(熊谷守一の親族)が緑ヶ丘に住んでいるらしい。歩いている姿を見れば「そっくり」だそうだ。そういえば、伊丹美術館で「熊谷守一展」をやっていた。そういうつながりだったのか。(僕は予告編しか見てないが、山崎勉と、樹木希林で『モリのいる場所』という映画がある。)
神田神保町から池袋へ向かう。(つづく)
新しいサイトで使うために撮影に出かける(11月29日)
グーグルサイトで画像を挿入する方法を、悠介に習ったので、ちょこちょこ練習していたが、よし写真を新しく撮ろうと思って、デジカメを持って昆陽池に出かけた。紅葉の季節はちょっと過ぎてしまった、何を撮ろうか。途中から太陽が出て来た、光と影をテーマに芸術写真を、なんて考えたが、所詮安物のデジカメ(しかも年代物)。高望みはやめて、樹の枝、階段、木の葉、花壇の花、柿の実、鯉、昆虫館、枯れた藤棚、竹林、切株、いろいろ意匠を凝らし、50枚ほど撮った。パソコンに移し、グーグルサイトで使ってみた。できた、できた。いやあ、完成が楽しみになってきた。サイトは、ぎりぎりまで作って、公開します。
明日から一泊二日で東京へ行くので、日誌はお休みです。
クラスとゼミの紹介発見(11月28日)
研究室から持ち出した資料を分類していて、2014年度『緑育』増刊号という小冊子を見つけた。この中に、各クラス(1、2年)と各ゼミ(3、4年)の紹介文があった。なかなか興味深いので一部引用してみる。
《2ーC藤本先生クラス ②基礎演習で学習している内容:前期はグループに分かれて群読の発表をしたり、「聾者の手話」「人工内耳」について障害について勉強をしたりしました。また後期には「特別支援教育」「大人になること」「子どもと平和」「子どもの成長と人間関係」というテーマで4つのグループに分かれて、「予告発表」「プレ発表」「本発表」と3回のプレゼンを行いました。》
《藤本ゼミ
ゼミ紹介:藤本ゼミでは熱い議論が飛び交います。意見と意見のぶつかり合いによって互いにより高め合い切磋琢磨するゼミです。そのため、ゼミでは自分の意見を言える人が多いです。議論の道が逸れたと思っていても、すべての道は学びの道につながる。実はつながっていない、関係ないと思っていても下地作りや本質的には同じ議論に藤本先生が導いてくださるので、安心して議論することができます。
ゼミで学習している内容、学んだこと:藤本ゼミではその年によって学習内容が異なりますが、主に「社会館保育園」や「きのくに子ども村学園」のような一般的な学校とは違う変わった教育をフィールドワーク、教材にして教育とは何かと議論を交わしながら学習します。
今年は社会館保育園に足を運び、園長の宮崎栄樹さんにインタビューしました。そこから教育の責任とは何かを始め虫の殺生という倫理的な題材や子どもの成長に何が必要なのかなどの熱い議論を交わしました。
そこから教育の責任は誰が持つものか、学校側?親?子ども?虫殺しは子どもの成長に欠かせないのか?子どもはどんな環境で一番成長するのか?等を学びました。》
この『緑育』というのは、「教育学会」の機関誌のようだが、神戸大学のゼミ実の機関誌『群緑』と関連があるのかな?そもそもこの「教育学会」というのが在校生、教員、院生、専攻科生、学科担当職員で構成されるようだが、一体何なのだろう?
要領がわかると、作業も早くなる(11月27日)
学校厚生会の配布物が届いたので、自転車で配って回る。三回目となると、道の行き方の要領もつかめてきた。これまでは、二日に分けて配ったが、今日は一日で全部、15軒回った。慣れだね。でも小1時間かかった。
グーグルサイトの使い方の練習をした。今日は、この編集日誌をコピーして、貼りつけてみた。できた、できた。これなら、引越も簡単にやれそうだ。
でも、建て増し建て増しの繰り返しで今日まで来たから、今このサイトはとてもややこしい構成になっている。すっきりした構成にするために、ちゃんとした設計図を作る必要があるなあ。
サイト内にリンクを張ることも試してみた。できた、できた。意外と簡単。リンク先に移動はできる。問題は元のページに戻れるかだ。行きっぱなしで、帰ってこれなければ、迷子になる。今日はここまでにして、また今度やろう。
アニメ「鬼滅の刃」は26話まで観てしまった。「無限列車」で何が起きるか、劇場版に続く、という終り方はずるいよなあ。そらどうしても観に行きたくなる。横浜で、一樹を誘って映画館へ行くか。
骨董品みたいな機器も動員して(11月26日)
見城慶和先生講演会のビデオテープ(2005年12月17日)を研究室で見つけた。これはミニDVテープ。これを再生できるビデオカメラを買ったのは、高山智津子先生が亡くなって間もない頃(2006年)だったと思う。その当時にも新品ではもう売ってなかったので、大阪なんばの電気街の中古屋へ買いに行った。高山先生は日本全国で絵本の読み聞かせの講演をしていて、その録画テープが沢山あったのだ。僕はそのビデオテープをせっせとDVDに焼いた。その時の機器が今役に立った。
ちなみに、このビデオカメラは、うちでは現役で、この間も啓太郎を撮ったところだ。
で、今日は見城先生の講演会のビデオテープから、卓さんが発言している場面を取り出して編集した。ミニDV・ビデオカメラ(2006年以前)+ビデオ・DVD(2010年製)+テレビの3つをつないで、ミニDVテープを再生し、DVDにダビングしたのだ。録画のタイミングなどは、手動で録画ボタンを押して…半分勘の世界だ。その原盤「5分35秒」バージョンを、さらに4代目パソコン(これもロートル)でダビングして、DVDを4枚作った。
もう半分骨董品みたいな機器を使って作ったのだから、少々出来が悪くても、偲ぶ会で流してもらおう。
東京行の予約(11月25日)
池袋の定宿にしているホテルを予約する。ここは11月にも泊まったホテル。もともと受験生向けのホテルのようで、室内が明るくベッドで本が読めるのが気に入って使っている。今回料金を見て、ちょっと呆れた。3000円を切っている!GO TO トラベル適用なんだって。いいのか、こんなに安くて。朝食付きだぜ。
新幹線の予約をしようと、見てみたら席はがらがら。三連休とはちょっと様子が違うようだ。東京に行きやすくなったので、文句いう筋合いではないけれど、大丈夫か、JR。
「教育のレトリックの方へ」のOCR作業を粛々とやっている。あと、28ページ。
電話の良さを再認識(11月24日)
自費出版のことについて、西田書店の日高さんと電話で話し、いろいろ教えてもらった。パイロット版4冊を送って、全体を見て貰うことにした。費用がどのくらいかかるかきくと、経験的な概算ですが、と具体的な数字を挙げてくれた。東京に行く時、神田神保町によって、会う約束もした。電話というのは便利なものだとつくづく思った。何より、相手の声、話し方から、どんな人か想像できるのがいい。メールのやりとりとは違う良さがある。
うちの奥さんは、けいちゃんの写真を2日で300枚撮ったらしい。フィルムの時代に考えられないことだ。
OCR作業、再開(11月23日)
大東文化大学の荒井先生から「刊行委員会」を11月30日に開きましょう、というメールがきた。2日連続で板橋キャンパスに行くことになる。
今日から、「教育のレトリックの方へ」のOCR化に取り掛かる。50ページほどあるから、ざっと5日はかかるか。分量が多いのはまだいい。問題は、傍点、圏点、太字、ルビ、カッコ(5種類以上)が乱れ飛ぶ「〈制作〉と〈実践〉」のOCR化だ。今確かめると、ロシア語、ギリシア語もある。たぶんこれが一番の難物だ。こんな鬼のような原稿とどう戦えばいいのだ。しばし呆然。
気をとりなおすために、動画配信で「鬼滅の刃」の続きを見る。20話まで見たのであと6話しか残ってない。大事に見ないと。
本の原案ができました(11月22日)
『藤本卓教育論集』の内容原案を作りました。
本のサイズやページ数などは、『竹内常一 教育のしごと』(青木書店)を雛型にして考えました。パイロット版の第1巻は全部収録、第2、3、4巻は約半分収録。エッセイ、書評、劇評などは省きました。いやあ、できた、できた(案だけ、だけど)。新しいページを作ってアップしておきますので、詳しくはそっちで確かめてください。
次の課題は出版社さがしです。
昆陽池を四人で散歩(11月21日)
啓太郎とおかあさんが遊びに来たので、奥さんと四人で昆陽池に行く。滑り台が好きみたいで、不安定な網の梯子道を何度も歩いていた。鯉を見に行ったり(亀はほとんどいなかった、もう冬眠か?)、川向うの公園まで行って、ブランコに乗ったり。なんやかんやで二キロは歩いたかな。途中、おんぶさせてもらったので、奥さんは喜んでいたが、今夜あたり、腰が痛いというのでは…。
4人が散歩中、けいちゃんのおとうさんは部屋にこもり、学会報告(リモート)。ちゃんとできたかな。
12月1日は東京にいます(11月20日)
研究室の本を出張買取してもらう算段をした。ざっと5000冊、いくらぐらいになるか、概算でいいから、と聞いたが、実際に本を見てみないとわかりませんとの答。運び出しにどのくらい時間がかかりますか、ときくと、2、3時間で2日。6tトラックを借りて、アルバイトを雇ってやれば、1日ですむけれど、その分お渡しできる金額がなくなりますので、とのこと。これは信用できると思い、一度研究室を見て貰うことにした。それで僕も立ち会うため、12月1日には大学に行きます。今年3度目の東京。第三波は少しはおさまっているかな。
「野性の勘」というものさ(11月19日)
今日は、半日かけて、『藤本卓教育論集』の原案を作った。収録する論文は14点。これは遺された論文全体の二分の一程度になる。第1部は大東文化大学の紀要掲載の6編(2008年~2019年)、第2部は『高校生活指導』掲載の6編と『日本の科学者』掲載の1編、そして「教育のレトリックの方へ」の合わせて8編(1986年~2000年)。これで330ページ(900字で)になり、目次、解題その他で42ページ、全部で372ページになる。
パイロット版(4巻)を作っておいたことが、あらかじめ候補論文をピックアップすることになり、今回の原案作りに役に立った。各巻一冊を検討用として、それに傍線を引いたり、書き込みをしたりしたが、これがなかなか便利。出版社と交渉する時にも、これが原稿見本にもなる。本編に収録できない論文やエッセイも、とりあえずパイロット版で読める。
深い考えもなしに作ったパイロット版だったが、結果的には大正解だった。これが教育実践者の「野性の勘」というものさ。ふ、ふ、ふ。
60人の名前(11月18日)
これまで、欲しいと思っていたものの一つに、藤本ゼミの卒業生名簿がある。今回入手したものを元にして、それを作ろうと作業を始めた。とりあえず、いつ頃の学生かを確認しながら名前だけあげていくと、60人ほどになった。これはたぶんゼミ生の三分の一くらいだろう。
藤本ゼミは小規模で、一学年6~8人程度なのだ。25年間ゼミを持ったとして、150人~200人。これぐらいは卒業生がいるはずだ。でも、僕が今コンタクトを取れているのは10人ほど。まだまだ先は遠いのだが、今回入手したものを元にしてゼミ生名簿を完成し、なんとか多くの卒業生と連絡をとりたい。
と書いていて、なにが既視感がある。そうか、卓さんの著作を探していた頃のあの感じか。できることから、一つずつ、手繰り寄せるようにして情報を集め、著作一覧を完成した(はず)。あれと同じだと思えば、まあ何とかなるか。
竹内先生が藤本ゼミ主催のお話し会に来ていた!(11月17日)
研究室で見つけたものは多すぎて、まだ整理できていないのだが、まずいろいろなゼミ生名簿、合宿資料、「玉子おむすびシェーマ」の作図資料、「こんばんは」上映会関連資料、「里山っ子たち」上映会関連資料、などなど。その中にビラ一枚だけだが、思いがけないものを見つけた。
「教育界20世紀超のレジェンド竹内先生とのお話し会 《教師たちのホントの”仕合せ”について》(仮)」というビラだ。2月11日(土)とあるので、何年かネットで調べる。可能性は2つ、2012年と2017年だ。
そのビラには、似顔絵つきでこんなコメントが載っていた。
竹内常一先生ってどんな方?教育学科の先生にインタビューしました!!
太田先生「本質的な”詩人”」、山中先生「30代以上なら”誰もが知っている"教育学者」、中村先生「教育界20世紀超の"レジェンド”」、藤本先生「”師匠”」
いやあ、良いものを見つけました。ゼミ生主催の「お話し会」(講演13時~15時、ゼミ生の質問を中心に15時45分~17時30分)に竹内先生を呼んでいたのか。それにしても長時間やなあ。これに出た卒業生にこの時の様子を聞きたいものだ。。
東京行⑥研究室の片づけを少しやる(11月16日)
東京行の三日目、10日(水)の話。池袋から東武東上線で東武練馬駅に行き、大東文化会館の所からスクールバスに乗る。
で、ここで11月12日の日誌(東京行②)につながる。
荒井先生は卓さんと40年来の知り合いだとか。『こんばんは』上映会をやったゼミ生のうち、何人かは次の年、卓さんがイギリスへ行ったので、4年時、杉田先生のゼミに入ったとか。卓さんが最後に出勤したのは、2月22日(20日かも?)で、教員と学生(だったと思う)の会があり、それに出席した。あいさつの声にハリがなく、会も途中で退席したそうだ。あとで真美子さんに聞くと入院は2週間したとか。パイロット版は教育学科の職員全員に配った方がよかろうということになり、(その方が遺稿集を出す時に呼びかけやすいし)、全4巻×25部を事務室あてに送ることにした。
研究室に入ってみたが、空調か何かの工事をしたそうで、机の上や下にあったものをつめこんだダンボールがいくつもあった。図書館から借り出していた本も、司書の人が3人回収にやってきて、事務室のメンバー3人も手伝い、沢山の本が運び出された。念のために写真を撮っておいた。大西忠治著作集、演劇教育実践シリーズ(20巻)、ギリシア文化史、大日本青少年団史、戸井田道三の本(全四巻)、遠山啓著作集(全五巻)、日本歴史民俗論集(全十巻)、ギリシア語辞典、村井実著作集(全八巻)、波多野完治全集(全十二巻)、フロイト著作集(11冊)、ウィトゲンシュタイン全集(全12冊)などなど。
そのあと、研究室のダンボールの中身を確認し、資料になりそうにものを取り出し、宅急便で送ることにした。処分するゴミもダンボール3箱、その他。とても1日では終わらない。コロナの関係で、今日は3時半までしかいられない。関口先生は、東松山キャンパスでも授業をしているから、家に運ぶものがあれば、言ってくださいと、真美子さんに話していた。
事務室の人は主査の渡邉さんをはじめ3人とも親切な方たちで、台車をかしてくれたり、生協まで連れて行ってくれたり、とても助かった。研究室の残った本はざっと計算して5000冊。これを出張買取してもらう時には、またお世話になるはずだ。
東京行⑤夜の池袋を彷徨う(11月15日)
東京行の二日目、9日(火)の話パート2。久保さん、北山さんと会って有意義な情報を得たあと、神田神保町へ向かう。今回の旅行の目的の一つに、「研究室の本の処分」をどうするかを探る、がある。古書の出張買取をしてくれる所をネットでいくつか見つけたので、神田へ行ってその店を実地検分しようと思ったのだ。二軒見たが、よくはわからなかった。訊ねようかと思ったが、一軒は80過ぎのおじいさんが二人、もう一軒はアルバイト(らしき)の兄ちゃん。またの機会にする。
今日の宿泊地、池袋に向かったが、駅の反対側に出て迷う。池袋駅周辺はJR、東武、西武、東京メトロが入り乱れて、たまにくる人間には迷路のようだ。
定宿のホテルに到着、歩き疲れて、しばしベッドで休憩。30分後、気を取り直してジュンク堂池袋店に行く。四階の教育書、思想書のフロアはさすがに充実していた。
さて、もう7時半、夕食は、なんとなくラーメンが食べたい気分なので、探して歩くがなかなか適当な店がない。珉珉があったけれど、表のメニューにラーメンはない。なんでかな、と見直していると、テイクアウトですかとお店のお姉さんに声をかけられる。餃子は食べてもよかったが、ラーメンを五目あんかけ焼きそばにかえることはできない。ラーメンの食べられる店を求めて、夜の池袋を彷徨い、ラブホテル街に迷い込みそうになった。ここは一人で歩く所ではない(よう知らんけど)。
激辛ラーメンの店はあったけど(行列ができていた)、普通のラーメンがいいのだ。やっと見つけたお店に入ると先客は一人。お店の人も一人。閑散としていた。出て来たのは、僕のイメージとはちょっと違う。家系ラーメン?マスクをかけたお店の人が何か言ったがよく聞き取れない。右耳が悪いのと、相手のマスクのせいかと思っていたが、出る時に外国人(東南アジアかな)だったと気づく。日本語がたどたどしいのだ。券売機があっても、あの人一人で切り盛りできるのかな。
ホテルに帰って確かめると、今日の歩数は17000歩。約10キロか、よく歩いた。
東京行④久山社の久保さん、太郎次郎社エディタスの北山さん(11月14日)
東京行の二日目、9日(火)の話。東京メトロで本郷3丁目へ行く。久山社の久保さんに会う。久山社は児童文学関係の一人出版社で、僕の本を5冊も出してくれた。久保さんは引退し、会社もなくなった
今回のことを話し、自費出版のことも聞いてみた。知り合いの西田書店(神田神保町)を教えてくれて、よければ紹介してくれるという。小さいけれど、いい本作りをしていて、時々新聞の書評欄でもとりあげられているとか。家に帰って調べてみると、山崎佳代子さん(『ベオグラード日記』で読売文学賞を受賞、僕は「夏の文学教室」で講演を聴いたことがある)の『戦争とこども』をこの西田書店が出している。他に鷲巣力編『加藤周一 称えることば※悼むことば』とか、井上ひさし・松山厳・伊田真木子『三人よれば楽しい読書』とかも。
久保さんおすすめの江戸前の天ぷら屋で昼食をご馳走になる。
そのあと、通りを下って10分足らず、太郎次郎社エディタスへ行き、社長の北山理子さんと会う。いろいろ出版の話を聞く。自力出版という道もあるが、ネックは印刷業者で飛び込みで行って引き受けてくれるかどうかが難しい。中小の出版社から自費出版という方法もある、但し費用のかかる所はやめた方がいい。今は、大手の出版社も自費出版をひきうけるようになっていて、岩波、小学館、講談社などもそのような所がある。(あとで、メールで詳しい情報を送ってくださった)。北山さんは自分の所で出すことは出来ないけれど、発売元になることはできると仰って下さったので、選択肢がまた一つ増えた。
青木書店のことを訊ねたら、神保町の会社を引き払ったとか。僕の『聞かしてぇ~な仕事の話 聞き書きの可能性』は正規のルートではもう手に入らないかも。『竹内常一 教育のしごと』(著作集)も同様で、卓さんの書いた第1巻の解説「教育のレトリックの方へ」(原稿用紙110枚の大作)を、こちらの『藤本卓教育論集』が引き取るのも一つの選択肢かも。
というわけで、久保さん、北山さんからいろいろ貴重な情報、アドバイスを貰えたので、とても有意義な本郷3丁目行となった。
東京行③藤本ゼミの卒業生と会う(11月13日)
今日は、僕の教え子の川西明子(旧姓阪口)さんから連絡があり、二人で昆陽池を散歩、その後、家でコーヒーを飲みながら歓談。いやあ、笑った、笑った。さっかんは、県立伊丹高校の卒業生で、映画研究部員、卒業後も僕の撮った8mm映画に出てくれた。50歳を越したけれど気持ちは25歳だとか。
さて、東京行の話。最初の8日(日)、東京で藤本ゼミの卒業生和賀真純さん(2015年卒)と会い、話を聞かせて貰った。和賀さんは、この編集工房を立ち上げてすぐに、資料10点を送ってくれ、編集工房辞典にもいくつも項目を寄せてくれた。電話でも話したことがあった。
録音したが、いくつも面白い話が聞けた。一つだけ教育実習の話を紹介する。卓さんは真面目に、ゼミ生の実習先を訪問して回っていたようで、新潟まで行ったりもしたとか。和賀さんの場合、千葉県だけど、東松山からは2時間以上かかり、卓さんはホテルをとって前泊。その訪問日、実習のまとめの授業をやるのに、授業が始まっても藤本先生は姿を見せない。和賀さんは授業をしながらも気が気でなかったようだが、藤本先生は20分ほどして、汗をふきふき現れたそうだ。道に迷って、歩きまわり、タクシーを見つけて飛び乗って駆けつけたのだ。もう、どこでも、同じようなことをしているなあ、と僕は呆れた。
和賀さんには、原稿を依頼しておいた。3月末が締切、快く引き受けてくれた。これで『大学教育実践家としての藤本卓』の実現に一歩近づいた。もちろんこの遅刻の話、そしてここでは書けないけれど、丸木美術館からの帰り、川遊びの時のエピソード(爆笑もの)も、忘れずに入れてくれるように頼んでおいた。
和賀さんは今年の春結婚し、今は星谷さんになっていた。新しい小学校で一年生の担任だ。
東京行始末②刊行委員会、偲ぶ会など、いろいろ動き始めた(11月12日)
10日、大東文化大学で、荒井明夫先生、杉田明宏先生、関井一夫先生、真美子さん、僕の五人で遺稿集をどうするかについて話し合った。結論から言えば、大学とは別に、独立した刊行委員会を立ち上げ、そこが卒業生、新旧職員、友人、知人に呼びかけて、カンパを募り、それを資金として本を作ることで合意。委員長は荒井先生にお願いし、僕も刊行委員会に入ることになった。『竹内常一 教育のしごと』を一つのモデルにして上製本(A5版、約380ページ)にする、3月18日を目途にしたい、流通ルートに乗せるなど、基本的には僕の意見・意向を尊重してくれた。詳しいことは改めて。
大学主催の偲ぶ会は、次のように決まったようです。2021年2月20日(土)14時~15時半、板橋キャンパス多目的ホール(80人定員)ということで、僕も参加することにしました。
東京行始末①ビデオテープ発見(11月11日)
何から報告しようかと思うくらい、沢山の出来事があった。
一度に書くと、長くなるので、何日かに分けて報告する。
10日、研究室で『こんばんは』上映会関係のダンボール箱を発見!中にビデオテープが五本あった。二本は「森監督と語る会①」「森監督と語る会②」と書いてあり、残り三本にはタイトルがない。研究室で見つけた役に立ちそうなものはとりあえず、宅急便で伊丹に送った。
今日は朝から、パイロット版の増刷依頼、原稿の送付、入金等で忙しかったが、宅急便が届いたので、昼からはビデオテ―プの内容確認をすることにした。
「森監督と語る会」は、卓さんの姿はちらっと一瞬うつるだけ、声もちらっとだけ。これではだめだ。偲ぶ会で使えない。
残りのテープは何かと見てみると三本とも「見城慶和先生講演会」の記録で、2巻目、3巻目にちゃんと卓さんの顔と声が残っていた。そんなに長くはないけれど、意見・感想を述べていて、そうそう、こんな話し方なんだよね、と納得。(本人に間違いなし。そりゃあ当たり前か)これなら偲ぶ会で紹介できる。いやあよかった、よかった。記録テープがあるはずと思っていたけれど、発掘できて、東京まで行った甲斐があったというものだ。
二泊三日東京行(11月7日)
明日から二泊三日、東京へ行くので、編集日誌はしばらくお休みします。
旅の荷物はできるだけ少なくし、リュック一つ。着替え、薬、カメラ、ボイスレコーダー、お土産で一杯になる。今読んでいる田辺聖子『ひねくれ一茶』、ハルノ宵子『猫だましい』、四方田犬彦『愚行の賦』も家に置いていくことにする。(どれも面白いので中断するのが惜しいけど、軽量、軽量)。
読書講演会に行く(11月6日)
木皿泉氏の第9回読書講演会を聴くために、宝塚市立図書館の隣のベガホールへ行く。372人の定員だが、今日は150人限定、入口で検温され、出る時には係の指示で順番に退場。元々、2月に予定されていたのが、2度延期され、やっと実施された。図書館から招待状を貰っていたので来賓席、中川智子宝塚市長の斜め後ろに坐る。
これまで、ここで柳田邦夫、村田喜代子、池澤夏樹、高橋源一郎、五木寛之、の話を聴いた。作家の肉声、肉体、聴衆との応答など、ライブならではのものがある。正面の巨大パイプオルガンも講演会の背景としてはとても素敵だ。
昨日触れた東京区分地図を買った頃は、日本近代文学館主催の『夏の文学教室』を聴くために東京に出かけ、そのついでに卓さんと会っていた。『夏の文学教室』も今年は中止だ。
40年前の地図はもう読めない(11月5日)
東京に行く準備をする。昔使っていた東京区分地図を出して来て、調べようと思ったが、「500円 1980年版」が目にとまった。40年前!開いてみると、活字が小さい。拡大鏡がないと読めない。それで見る気をなくし、インターネットで調べることにする。
久保さんの新しい事務所への行き方を調べるために地下鉄の路線図をプリントアウト。便利便利。東京駅から東京メトロの本郷三丁目まで一本で行ける、そしてここから太郎次郎社エディカスまでは歩いてすぐ。それで北山さんとメールのやりとりをして、御挨拶に伺うことにする。
時間があれば神田古書街にも寄ってみたいし、池袋のジュンク堂書店も覗いてみたいし、映画『罪の声』(脚本野木亜紀子)を観るというのもいいなあ。
でも、まあ、翌日の研究室探訪に備えて、疲れが出ないようにしないといけない。定年後、東京に泊まった時、二度も救急で病院に駈けこんだから、無理は禁物。
高山先生は一日に五回「読みきかせ」の講演をしたこともあったそうだが、晩年には「一日に仕事は一つだけ」とよく口にされていた。
電話、電話、電話(11月4日)
昨日、一樹、元気からお土産のリクエストを聞いたあと、三重の岡本くんに電話した。
卒業してから、忙しい毎日で、藤本卓くんとは一度ぐらいしか会ってなかった、会っていろいろ話せばよかった、とのこと。貰ったエッセイは、地区の校長会の会長をしていた時に、あいさつが苦手なので、その代わりにプリントにし、読んでおいてくれと渡したものらしい。
もし卓さんが岡本くんのこのエッセイを、読めばきっといろいろ意見や感想を述べたはず。窓ガラスが40枚も割られ、教室に入ろうとしない生徒が何人もいる、そんな荒れた中学、不登校、幼児期の親からの虐待、部落出身者に対する結婚差別、学歴意識の歪み、など多様な現実の厳しさの中でも、子どもたちの変化や成長、素晴らしさを見出して、我が事として喜んでいる(古典的な、あるいは本来的な)教師たちの姿がこのエッセイにはあった。
今日は、真美子さんと電話で、大東文化大学へ行く打ち合わせをする。東松山から板橋まで車で来るそうで、大学前のバス停で待ち合わせる。次に久山社の久保さんにも電話して、東京へ行くことを告げると、昼ごはんを一緒に食べましょうということになった。
レポート、エッセイ、そしてリクエスト(11月3日)
昨日、三重の岡本能彰くんから手紙を貰った。その中にこんな一節があった。
《編集工房を読んでいると藤本卓くんの様々な「人となり」が浮かび上がり、懐かしさと共に「彼にはこんな一面があったのか」と驚かされることもありました。大学時代はもう50年ほど前になりますが、今回のことで大学時代の様々な出来事を懐かしく思い出し、気持ちが若返りました。》
一緒におくってくれた「学力向上特別委員として学んだことやアドバイスしてきたこと」というレポートと、「心に残った子ども・教師・保護者」という32編のエッセイを読んで、神大ゼミナール委員会のことを改めて思い出した。数教研の岡本くんは、僻地の中学を振り出しに、野球部顧問として、学級担任として、学年主任として、校長として、こんなに柔らかく深くて厚みのある教師生活を送ったんだと、感銘を受けた。ここにもまた一人、ゼミ実の仲間、藤本卓の「同志」がいた。
と、いささか高揚した気分で書いていたら、今、奥さんがスマホを持って部屋に入って来た。横浜の一樹と元気から、お土産のリクエスト。デュエルマスターズのトレーディングカード、アース・グランナーのおもちゃの入った雑誌、???なっちゃんが補足解説してくれて、画面で実物を見せてくれたので、なんとかわかった。リクエストとあらば、買いに行かねばなるまい。
雨の日は手紙を書き…(11月2日)
今日は朝からずっと雨。午前中は、手紙を二通書き、午後は三重から届いた手紙とレポートを読む。
昨年亡くなった加藤典洋の『オレの東大物語』を読んでいると、大阪の釜ヶ崎の詩人東淵修さんの名前が出て来て、ちょっと驚いた。加藤典洋は1968年、東大に入って3年目、希望する仏文に進学するが、身体的拒否反応がおこり、留年することになる。友達のつてで、大阪まで流れてきて、東淵さんの経営する低額アパート(3畳一間月額3,000円)で暮らしていた時期があり、昼間は東淵さんの経営する喫茶『銀河』で、読書したり、原稿を書いていたらしい。
《本郷のあの取り澄ました光景よりも、釜ヶ崎の町並みのほうがオレには輝いて見えた。》
東京から恋人(のちの奥さん)が訪ねてきたり、学友会から、戻ってこいという連絡があって、大学に戻り、東大闘争、全共闘運動にかかわっていくのだが、まあ、それはおいておいて、加藤典洋は一時、国立国会図書館に勤めているので、なにか親しみを覚えていたが、東淵さんとも大家・店子だったとわかって、なおさらその感が強まった。
東淵修の「いちのへや」という詩は、アパートの1号室に暮らす貧しい母子を描いていて、『現代詩の授業』でも論じ、自主教材として何度も授業でやってきた。そんな関係で、生前東淵さんとは何度かお目にかかったことがある。主宰していた雑誌『銀河詩手帖』は、今も後継者の近藤さんが贈ってくださり、今日書いた手紙の一つは、そのお礼で、『オレの東大物語』のことも報告しておいた。
※Youtubeで「東淵修 新世界に生きて」というのがアップされています。
G0 TOキャンペーンとテイクアウト(11月1日)
11月8日から二泊三日の予定で、東京・横浜へ行きます。いつも使っているホテルを予約したら「GO TOキャンペーン」適用とかで安い、安い。別に適用してくれと言わなくても、最初からその設定になっている。うーん、こんなんでいいのかな。まあ、いいか。新幹線の予約も見たら、席はガラガラ。
今日は、母の命日(一周忌)なので、妹夫婦に来てもらい、一緒に昼食会をする。塚口の中華料理店でテイクアウトし、家で四人(平均年齢65)で食べる。セットメニューではなく、単品注文なので、量が分からずちょっと注文しすぎて、みんな満腹になる。甘い物は別腹、が口癖のうちの奥さんも、今日はさすがにケーキ(妹のお土産)に手を出さなかった。
いらないものをはずす(10月31日)
一時はどうなることかと思うほど四代目パソコン(Windows7)のパフォーマンスが悪かったが、一晩寝て、ディスクトップのいらないもの(スカイプとかその他)を捨て、ゴミ箱も空にし、Dドライブの一時ファイルも削除したら、少しはましになった。
昨日はいつも頼んでいる工務店の小西さんに来てもらい、床暖房、防音、ガレージの壁の塗り替えなどの相談をする。ガレージのアコーディオン門扉を取り外してもらう。この門扉はこの家を建てた時からついていたが、ほとんど閉めたことのないものだった。少しだけ広くなり、自転車の出し入れがしやすくなった。デフォルト(初期設定、標準設定)のまま30年、家も補修、改造、カスタマイズが必要だ。
ココマデカイテ(10月30日)
このホームページの利用期限はあと3ヶ月。今後どうするかついて、あれこれ考える。
まず、一番重要なのは、作業用のパソコンを四代目(ホームページビルダー11を入れている)から五代目に切り替えること。四代目はガタがきてて、反応が遅い、遅い。この編集日誌をアッフするのに、時間がかかりすぎる。
四代目(2012)はもう引退させる。とここまで書いて、入力モードの変換ができなくなり一旦シャットダウン。まあ、そんなに怒らんでもええやん、これからも大事にするからと、なだめなだめて、ここまで書いた。
年を越せるかな。
落ち着きなくあちこち回る(10月29日)
散髪に行く、イズミヤの中の本屋、ダイソー、ヤマダ電機をひやかす。関西スーパーでコーヒーの粉(特売日だった)、魚肉ソーセージ(昨日の「ガッテン!」の影響)他を買う、サンドラッグで台所洗剤他を買う。家に帰ると厚生会の配布物が届いていた。自転車で七軒に配って回る(残りは明日)。グーグルサイトをさわってホームページ作りの練習をする。レンタルサーバーの記事を見て回る。教育、哲学、思想関係の出版社のサイトを見て回る。
今日は落ち着きなく、あちこち回ってばかりで、「スキゾ」な一日だった。(使い方が強引か、ちょっと古いか)
シナリオ作りという方法(10月28日)
卒業生が提供してくれた資料を見なおしているのだが、『世界の果ての通学路』上映会関係で「公開ゼミ 当日スケジュール」「当日シナリオ」というのがある。最初見た時にちょっと違和感を感じた。発言者の名前と内容が細かく書いてあるのだ。これはなんだろう。
卓さんの履歴書に「教育上の能力/教育方法の実践例」という項目があり、その一つに2002年「完全シナリオとしての『学習指導案』作成の課題化』という例があげてあった。
《……半年の授業終了時の仕上げの作業として、一つの授業のすべての発言や活動(教師も児童・生徒も)を逐一想定した、いわば「完全収録版授業記録」の形を取る「学習指導案」を作成する、という課題を全受講生に課している。もちろんそれまでの授業内容にこの作業の手掛かりになる部分をいくつも組み込むわけだが、かなりハードルの高い課題である。しかし、多くの学生が意欲を持って取り組み、十分な達成感を得ているように思われる。》
そうか、この応用として公開ゼミ(映画上映会の後のディスカッション)のシナリオを作らせていたのか、と納得した。つまり、このシナリオを作るために、事前にゼミ生たちは映画に対する自分の意見をまとめ、それを出し会い、進行のどの段階で発言するかを打ち合わせていたわけだ。
昆陽池を散歩していて、雀たちが道に落ちた小さな黒い実をついばんでいるのに出くわした。その気で見ると木々には沢山の実がなっている。当然だが、樹の種類によって実の色、形、大きさが違い、落ちる時期も微妙に違う。しかし、秋が実りの時期であることは同じ。イチョウは今が真っ盛り、すべて黄葉だ。カエデは紅葉がちらほら。家に帰るとうちの南天も色づき始めていた。その気で見ないと、気づかないものだ。
もうすぐ母の一周忌(10月27日)
もうすぐ、母親の一周忌がくるので、押し入れにしまっていた遺品や書類を外に出して、仕分けする。介護関係の書類も、ひょっとしたら何かで必要になるかもと残しておいたが、この一年見直すこともなかったので、全部処分することにした。巡拝の白衣、菅笠、集印帳も、本人にとって大切なものだったかもしれないが、このまま保管していてもなあ。
編集工房の作業も、第一段階は終わったので、大東文化大へ行く11月10日まで、ちょっと休憩かな。
遠隔複写で集めた資料は59点(10月26日)
国会図書館から最後の遠隔複写が届く。『高校生活指導』№137に「若者世代の自治論・批判」という特集が組まれていて、卓さんの「世代の自治」論に対して、千葉律夫、浅野修一、田嶋一、柏木修の四氏が意見を述べている。まあ、これは参考資料として取り寄せたものだ。
6月に初めて申し込んでから、今日まで、全部で59点取り寄せたことになる。基本的な資料収集は完了。たぶん、藤本卓関連の資料については、日本で一番になったはずだ。何でも聞いて下さい、何でも貸し出しますよ、という気分だ。
午前中は、栗むきの続き。ひたすら、黙々と渋皮を二人でむく。で、今晩は栗ごはん。小さいものから入れたらしいが、40個入っていた。残りは冷凍。後2回分はある。
栗むきの夜(10月25日)
豊中の遠い親戚のおばさんからもらった栗の皮を、夕食後、奥さんと二人でむく。最初渋皮を担当していたが、指を切りそうで挫折。交替して鬼皮を担当。栗むきのハサミを使う。順調に一時間頑張るが、腰が痛くなり、そこで中断。
B5版『教育論集第1巻』の版下つくり完了。B5版は単純なサイズ変更ではなく、校正ミスも気がついた限り直したし、著作リストも最新になったし、追記も何カ所か加えた。だから、B5版の方がお薦めだ。でもA4版は編集工房が最初に作ったものだから、お宝としての価値があるかも。マニアならA4を欲しがるはずだ。
六甲全山縦走(3/12回目)三宮センター街は大賑わい(10月24日)
新長田からバスで奥妙法寺へ。前回の続きで、メインは高取山。ここは初心者向きで、一昨年は高校生の遠足とすれ違った。頂上付近の高取神社からは神戸の街はもちろん大阪湾も一望できる。今日は晴天で、案内図を見ると、あれが泉南、泉佐野、泉大津、あれが関空か。ふもとの長田高校のグランドも見える。100円望遠鏡の横のはりがみには→があって、三輪山、伊勢神宮と書いてあった。なんぼ晴れてても、望遠鏡でも、それは見えんやろ!!と心の中で突っ込んでしまった。
高取山から下りて、舗装された町中を神戸電鉄鵯越(ひよどりごえ)駅まで歩く。一昨年はここを甘く見て、ばててしまった。緩い傾斜の坂道がどこまでも続くのだ。経験者の知恵で、まだある、まだこの坂は続く、と唱えながら、ゆっくりしたペースでここを乗り切り、無人駅に着く。踏み切りを渡り、改札を通ろうとしたら、ここからは三宮にはいけません、という看板。反対側のホームだった。たしか、この前も間違った。おかしい。経験が全然生きてない。歩いてきた方向感覚からしたら、こっちが三宮のはずなのに、おかしい。
これは何か理由があるはずだ、と思い、電車に乗ってから、運転席の窓からじっと観察。謎が解けた。電車は駅を出てすぐにヘアピンカーブを曲がるようにおおきく方向転換していたのだ。何度もこの駅から乗ったことがあったのに、今までは、たいてい疲れ果てて車窓を眺める余裕もなかったから気づかなかった。
今日は体力に余裕があるので、三宮のジュンク堂へ行く。斎藤美奈子『中古典のすすめ』、磯崎憲一郎『日本蒙昧前史』、加藤典洋『俺の東大物語』、長嶋有『今も未来も変わらない』を買う。それにしても、大きな本屋に行くたびに、なんでにこんなに本があふれているのかと思う。卓さんの論文をまとめて本にしても、この本の海に、一滴のしずくを落すくらいではないか。教育哲学、教育基礎論なんて誰も読まんだろうしな。ベストセラーはちょっと望めんなあ。
三宮センター街はクリスマスイブかというくらいの人出で、マスクがなければ、完全に元にもどったかのような賑わいだった。
カルチャーセンターの講座再開決定(10月23日)
パイロット版第1巻のB5化の作業も5編終り、残りあと一つになった。このあと全4巻の増刷を考えているのだが、何部発注するか、決めかねている。欲しい人が申し出てくれればいいのだが。みんな遠慮しているのかな。誰に贈ればいいか、アドバイスがあれば、聞かせてください。
今日はつかしんカルチャーの受講者の方と連絡を取り、事務局とも交渉して、来年1月から「おもしろ文学講座」を再開することにした。この講座は2013年からずっと続けてきて、今回はじめて半年休講したことになる。始めた頃は、高校の授業で取り上げた作品をやったりしたが、この数年は『日本文学100年の名作』(全10巻、新潮文庫)をやっている。阿刀田高「干魚と漏電」からの再スタートになる。
11月10日に研究室へ(10月22日)
11月10日に大学の研究室に入れることになった。で、研究室はどこにある?僕は勝手に、家の近くの東松山キャンパスにあるものだとばかり思っていた。真美子さんに確かめてみると板橋キャンパスだった。東武東上線の東武練馬駅。ネットで調べると池袋から普通で16分。
卓さんとは池袋のジュンク堂で、よく待ち合わせたが、久しぶりに行ってみようか。
「予料」を現代語に訳してみる(10月21日)
《〈教え〉と〈育て〉のメタ・カリキュラムに向けて》(2010)の註(25)に、こんなことが書いてある。
《かつて筆者は、自ら「世代の自治論」と名づけた実践展望の素描において「子ども/若者を明確に大人と区別しつつ、同時に嘘でなく大人扱いする」という実在矛盾を〈訓練論的生活指導〉の指導原理とするように提唱したことがある。それはすでに、ここに述べた教育基礎論をほぼ予料しての試みであった。(拙稿「〈世代の自治〉の再発見へ」『高校生活指導』№135、1998年、青木書店、参照)》
「ここに述べた教育基礎論」というのは本文に出て来ているが、話が長くなるのでそれは省略。問題は「予料」だ。「予料」ってなんや?聞いたことないぞ。
インターネットで調べてみた。精選版日本国語大辞典によると
《先取りすること。予想すること。あらかじめ考えられること。予測。予知。予見。カント哲学で経験的認識に属するものを、先天的に認識すること。》
例文としてこんなのがあげられている。
《すべて運動自身が即ち力なる事を証するの日の既に近きにあるを予料するに於てをや》東洋学芸雑誌四七号(1885)
今年は2020年。135年前の文例しかないのか!しかも哲学、翻訳語!! もうちょっと易しい書き方ができなかったものか。
今から10年ほど前に〈世代の自治論〉ってのを論じてたんですが、その頃に、今ここに書いた教育基礎論の輪郭はだいたい頭に浮かんでたんですよ。だからそれなりに年季が入ってるんです、とか。
メクボールに消毒液を(10月20日)
今日は《〈教え〉と〈育て〉のメタ・カリキュラムに向けて》のB5版の版下作りをする。午前中に完了。
動画配信で『重版出来』を最終回まで観てしまい、明日からの楽しみがなくなる。
ローゲンマイヤーでパンを買うという大義名分をたてて駅前に行き、ついでにツタヤにより、『蜜蜂と遠雷』『屍人荘の殺人』『楽園』『記憶にございません』を借りる。DVD四本をリュックに入れながら、階段を上って、一階の関西スーパーで明日のための食材を買う。
スーパーに行って一番困るのは、ビニール袋の口をうまく開けられないことだ。年を取ると指紋が消えてしまい、紙でもビニールでも滑ってめくりにくくなる。指をなめるのは、ちょっと顰蹙を買いそうだし、よく置いてある「指ぬらし」用のスポンジは、ウィルス感染の怖れ大だ。困ったなあ、とふと見ると「これには消毒液を入れています」という貼り紙。中央のボールを回すと指に水がつく「紙めくり」が置いてある。そうか水の代わりに消毒液を入れておけば、安心か。なるほどねと感心し、家に帰って、あの小道具は何という名前か、ネットで検索。「メクボール」という商品だった。ネーミングセンスは中年だ。
まだ指紋の溝が深い、若者にはこんな悩みはわからないだろう。
書見台と寝床(10月19日)
編集工房辞典の書見台という項目。「長時間、机で本を読んでいると、前かがみになり猫背になるので、それをさけるため書見台(木製)を作り、これを使うようになったらしい。ほとんど、江戸の儒学者。」
僕は眠る前に布団に寝転んで読む。最近は『柳田國男全集』、『「戦時昭和」の作家たち 芥川賞と十五年戦争』、『鶴見俊輔伝』(黒川創)の三つを、気分次第で読んでいる。
鶴見俊輔は僕の好きな作家の一人で、たぶん影響も受けている。黒川創によると、鶴見俊輔は40代でこんなことばを書き残している。
《今ふりかえると、八月の草いきれ、あぶとはい(はえ)の羽音は、四十年ちかくも前と同じようにあらわれてくるが、それと一緒にあった感情は、もうない。書きのこされず、知られずにおわることがあるとして、それが人間にとって何か。自分にとって何か。》
《こんなことを考えることには、何の意味もないか。/私はそうは思わない。/存在の全体をどのようなものとして思いうかべるかが、わたしの生涯の意味を決定する。》
《昔の当の相手がいないとして、そのいない相手に向って指しつづける何かの試合として、自分の人生がある。》
《自分にとって自分とは何か?終りのない試合を続ける、かこいのはっきりしない場所のことだろう。》
時間が過ぎていく、年をとる、記憶が薄れていく、もうろくする、それを鶴見俊輔は意識し、このように考えたのだ。
身体の定期点検・メンテナンス(10月18日)
右足の親指がちょっとしびれるので、行きつけの接骨院へ行く。ここの先生は名医で、足の悪かった母親を30年近く毎週連れて行った。そのおかげで、何とか晩年まで歩けていた。僕も40代以後、ぎっくり腰になるたびに治してもらった。最近は半年に一度ぐらい見て貰う。定期点検というか、身体のメンテナンスと思っている。
数年前、左手の小指がしびれた時は、身体の歪みを指摘された。右肩が前に出ています。若い頃の剣道の癖が残っているのかも。今日は、左肩が前になっている、と言われた。自分では姿勢や身体の歪みは、なかなか自覚できないものだ。
昆陽池を散歩していると、片方の肩が極端に下がっている人を見かけることがある。ひとのことなら、わかるのだけどなあ。
文章にも癖がある。その人がよく使う語彙もある。「留目、トポス、論脈、~はどうだろう、ゆるがせにはできない、だとすれば」などを目にすると、ああ、卓さんの文章だなと思う。え、僕の文章の癖ですか。この編集日誌は、「……なあ、ああ、……かな、まあ、常体と敬体の混用、細かな数字や地名、品名の列挙、失敗やぼけの自己申告、テレビ、映画への言及」など、比較的ソフトな路線で書いています。ほかの人の眼からは、違う癖・歪みが見えるかもしれないけれど。
寒い夜は豚汁に限る(10月17日)
今日は外気温14度。11月末なみだ。雨も降って寒い。
第1巻をB5版にする作業を始めている。A4版130ページがB5版だと186ページになる。ちょっと太いが許容範囲か。
最初の「悦ばしき”学び”、か?」の校正をして、20箇所のミスを見つける。校正の成果があったと喜ぶべきか、こんなにもミスってたかと落ち込むべきか。
豚汁も3食目。ちゃんと工夫をして、飽きないようにしている。昨日の晩はお椀、今日の昼はうどん鉢、夜は丼鉢。明日はどうしたものか。まだ半分残っている。冷凍するわけにもいかんしなあ。
お礼のメールや電話続々(10月16日)
パイロット版が届いて、そのお礼のメールが届く。私のは「書籍」でした、私のは「本」でした、と日誌(10月14日)を読んでくれたことのわかるメールもあった。具体的に出版社名を挙げてくれる方や、「パストラル・ケア」の論文に英文の概要を付ければと提案してくれる方、ゼミの一年というのを読みたいとのべられる方、自主出版ならとコストの心配をしてくださる方、今回は結構意見や要望が多くて、編集工房としても手ごたえを感じている。大東文化大学の尾花先生からは電話をいただき、会議での卓さんの様子を少し知ることができたし、送るべき人も示唆してもらえた。重版出来、決定。
奥さんが両親を連れて松本へ旅に出かけたので、晩御飯を何にするか迷う。毎日同じものを食べるなら、おでん、豚汁、肉じゃがあたりが候補にあがる。このうち二つを選び、食材が重ならないように工夫して買物。さといも/じゃがいも、こんにゃく/糸こん、白ネギ/玉ねぎ、豚肉/牛肉(まあ似てるけど)。
前者中心で作ったら、二日や三日では食べきれないぐらいになった。一人分の食事の量は加減が難しい。明日の昼はこれにうどんを入れて食べるか。
フィルムも劣化する(10月15日)
うちの奥さんは、写真が好きで、アルバム作りを趣味にしている。フォトフレームに入れた子どもの写真が、紫外線にさらされたからか、色褪せて来た。奥さんはネガフィルムを探して、新しく写真を焼いたのだが、色が悪い。フィルムも30年経つと劣化するらしい。そこでアルバムに貼っていた写真をはがして、それをコピーしたようで、ほら、きれいな色で複製できた、と自慢していた。見てみると、コピーなのに、七五三で行った富松神社の拝殿の金具が鮮やかに光っていた。
劣化は、写真だけの話ではない。人間自身も、そして人間関係も(親子関係であれ、友人関係であれ)経年劣化する。復元・再生は無理としても、新しい自分、新しい関係を作りだすことは可能かもしれない。
真美子さんから連絡あり。卓さんの研究室に入ることができそうなので、11月には埼玉へ行くつもりです。
本と書籍(10月14日)
午前10時、製本工房からパイロット版第2巻が届く。ただちに発送作業にとりかかる。クロネコに東松山行のダンボール箱(3×11冊)を持って行く。帰ってきてから送り状をさらに5回書き直し、個人宛ての手紙も3通書く。送り状、第2巻、第3巻、第4巻をポリエチレンの袋に入れて、セロテープでとめ、レターパックライトに詰める。いつもは歩いて出しに行く郵便局に車で二往復(レターパックライトで3×30冊、郵便局のBOXで3×6冊)。終了は午後3時。今日は、てきぱきとよく働いた。
1度目、郵便局で、中味は何ですか、ときかれた。届け先の欄には印刷した宛名をのりづけし、依頼主の欄にははんこを押したのだが、品名という欄があることに気がつかなかった。よく見ると、「品名の記載が無い場合または内容品によっては、配達が遅れる場合があります」と書いてある。印刷物というか冊子なんですけど、と言うと、こちらで書いてかまいませんか、と親切な申し出。「ひとの親切を無にしてはいけない」。お願いしたのだが、見ると「書籍」と書き始めた。「書籍」を30回書いてもらうのはさすがに気が引け、「本」でいいですよと言ったら、心なしか、局員さんもほっとした表情だった。
「本」は5画、「書籍」は何画になるのかな。
大阪ガスから注意喚起のメール(10月13日)
郵便局にレターパックライトを買いに行き、発送の準備をする。中に入れる送り状を7回以上書き直す。
いつもお米を買っている、豊中の農家のおばさん(母の従姉のお嫁さん)が、栗を持って来てくれる。
夕方昆陽池を散歩して、家の前で歩数を確かめようと携帯を取り出すと、メールが来ている。60分以上ガス器具がつきっぱなしです、という注意喚起の文面で、えっ、揚げ物の準備をして家を出たけれど、まだ火は使ってないはず。あわてて玄関の鍵をあける。大丈夫、煙も油の匂いもない。台所は異常なし。
もう一度携帯を開けてメールを確かめると、10月12日15時の表示。昨日のメールじゃないか。1日ほったらかしで、気がつかなかったんだ。
携帯(ガラパゴス系)は、外出した時の電話としてと、家族間連絡用(ショートメール)としてしか使わないから、こんなことになる。あ、万歩計としても使ってます。
重版出来までの道のり(10月12日)
大学で同期だった永吉雅夫くんから『「戦時昭和」の作家たち 芥川賞と十五年戦争』(青弓社)という本を贈ってもらった。これまでも大学の紀要に連載したものを何度か贈ってもらっていた。いつかまとめて一冊の本にするのだろうと思っていたが、実現したわけだ。良かった、良かった。500ページを越す大部な学術書で定価4000円。今、学術書、専門書は売れないと言われていて、そもそも文学部の存在自体も怪しくなっている時代だからなあ。売れればいいのだが。
パイロット版第1巻はA4サイズだった。あとからの3冊に合わせてB5版にサイズ変更して増し刷りするため、作業を開始。、まあこれも一種の「重版出来(じゅうはんしゅったい)」か。今日は『重版出来』第3話を動画配信で観なおした。マンガ編集部の話だが、1話ごとに焦点をあてられる人物が変り、あきさせない。良く出来ている、面白い。観終わって、オダギリ・ジョーの気分で、B5の版下を作る。
六甲全山縦走(2回目/12回)(10月11日)
前回の終点、高倉台5丁目バス停へ行くために、山陽須磨駅からバスに乗る。乗るべきバスよりも3分早く出発するバスがあり、多くの人が並んでいた。高倉台経由妙法寺駅行とあるので、まあこれでも同じだろうと乗り込んだ。それが間違いだった。高倉台は広く、2つのバスの走るコースは微妙に違うのだ。(そりゃあ当たり前か)
バスがぐるぐる廻り、いくつもの停留所に停まる。高倉台8丁目、7丁目、6丁目、次は5丁目と思って降りる用意をしたら、次は啓明女学院前というアナウンス。このままでは高倉台を出て、妙法寺駅に行ってしまう。あわてて、バスを降りる。ちょうど反対側の停留所にバスが来たので、それに飛び乗り、一つ前の高倉台6丁目まで戻る。3分を惜しんだばかりに、とんだ失態。5丁目まで歩く。
今日のコース(高倉台~栂尾山~横尾山~妙法寺)には2つ難所がある。「全山縦走」の日には必ずここで渋滞が起こる。一つは高倉台からの400段を越える階段、もう一つは須磨アルプス・馬の背。
ゆっくりしたペースで50段ずつ登り、呼吸を整え、休憩し、水を飲み、飴をなめる。
六甲山にはいろんなタイプの登山者がいた。若い6人(ラーメンを食べていた)の男女もいれば、若くない20人近い男女(おにぎりを食べていた)もいた。若いカップルもいれば、若くないカップルもいた。3歳くらいと6歳くらいの兄弟を連れたお父さんもいた。降りたら餃子が食べたいと弟が言うと、お父さんはコロナだからやってないかもと言っていた。走っている人もいた。軽やかに登っていく70半ばの男性は、荷物も持たず、いかにも日課で裏山に散歩にきたといわんばかりの風情。
馬の背は道幅60cmぐらいで、両側は急峻、結構怖い。お母さんはさっさと一人で渡り、小学低学年くらいの女の子は岩に手をつきながら頑張って渡って来た。お父さんはそれを丁寧にフォローしている。女の子に負けないように狭い尾根を逆方向にこわごわ渡る。
今日歩いたのは6、7キロ、2時間40分だった。誰もいない妙法寺の境内で着替えて、奥妙法寺バス停からバスで新長田駅前までおりる。
阪神淡路大震災で長田は大火災に見舞われ、多くの家が焼けた。路の幅は広くなり駅もその周辺も新しい建物に変わっていたが、通りや商店街の位置など街の骨組みは変わってないように思えた。遅い昼飯に、ぼっかけ焼きそばを食べた。牛すじよりもこんにゃくがうまかった。駅前広場の鉄人28号を見に行くと、その前で琉球音楽祭が開かれていて、間をあけて並べられた椅子は全部埋まり、まわりで立ち見の人も多かった。ブルーシートをしいて宴会をしているグループもあり、季節はずれのお花見のような盛り上がりだった。高校生くらいのカップルがステージに背を向けて、鉄人の足元で楽しそうに笑っていた。二人の身長は鉄人のくるぶし程の高さだった。
4巻の編集後記に1箇所誤りを発見。一つ一つ、一文字を斜線で消す。
残された本をどうするか(10月10日)
台風14号は東にそれた。昆陽池の散歩道には小枝やどんぐりがいっぱい落ちていた。
真美子さんと電話で、パイロット版2、3、4巻の発送について相談し、あれこれ話す。
年度末までに大学の研究室を明け渡さなければならないが、大量の本をどうするかに困っているらしい。
《本が山積みになり、散らかり放題。「地震が来たら、確実に下敷きになるね。」と、ゼミ生たちは話していた。》という証言がある(編集工房辞典参照)。どれだけの量があるのだろう。
高山先生が亡くなった時、日和佐にあった夫妻の蔵書を、ある短大が全部引き取ってくれた。ところが数年後、司書さんが替わり、方針が変わり、学生に読まれそうもない本は処分されることになった。連絡を受けて、短大に出向き、お互いの事情を話し、いるだけの本は研究所が引き取り、あとは処分してもらうことになった。引き取るために、阪神高速で堺まで、三度往復した。
残された本をどうするかは、なかなかやっかいな問題だ。
気になって、インターネットで検索してみると、教育書の出張買取をしてくれる古書店がいくつかあり、6tとか50tとかの買取事例が紹介されていた。まあ、いくら卓さんでも50トンはないだろう。
雨冷えの一日、あちこち出歩く(10月9日)
午前10時、関西スーパー、ダイソー、サンドラッグへ行く。北九州へ送るのに、文法の本だけでは寂しいので、さかなつりゲームとどんぐりを入れて、宅急便に持って行く。
かかりつけの医院へいつもの薬を貰いに行く。ついでに、インフルエンザのワクチンを打って貰おうと思って、予約が必要か電話したら、いりませんとのこと。行ってみれば、客(患者)の姿はなし。閑散としている。先生曰はく、患者が減って倒産した病院も多い、薬にも有効期限があるし、人件費もいるし、……。病院で感染することを恐れている人が多いとか。
受付で体温を測ったら、35.8度。こんなものやと思っていたら、診察室で測り直し。先生の指導を受けて丁寧に測ると、36.7度だった。日本人の平熱平均は、36.8度らしい。資料のコピーを渡されて、いろいろ講義を受ける。データの信用性、手の指、足の指の温度の感じ方、43度の風呂に入ろうとすると……、秋になると何故食欲が増すか、太るのは腹からなのに痩せる時腹の肉が落ちにくいのは何故か、……、(先生、話しはどこまで行くんですか)……。普段から話好きの先生だが、患者が来ないので、いつも以上に話があちこちにとび多彩な内容だった。
昨日の残りのにゅうめんにごはんも投入して昼食。雨のやみ間を待ったが、やみそうにない。明石高校の演劇部の人がパイロット版(第1巻)を欲しいというので、荷造りして郵便局へ持って行く。ついでに、パイロット版2、3、4をまとめて出すにはいくらかかるか調べてもらう。冊子小包なら360円、レターパックライトなら370円、10円の差だった。ちなみに第1巻の場合は310円と370円、60円の差だった。
「パイロット版全4巻完成」という新しいページを作り、アップする。玄関のメニュー位置を変更。編集日誌を一番上にした。
雨冷えの一日、家に籠る(10月8日)
気温が低くなっている。伊丹の外気温は16度。台風も接近中。経験的に、こういう時は血圧が上がり、体調が悪くなる。今日は雨冷えの一日、買物にも行かず。晩御飯は冷蔵庫にあるものを使って作る。豚キムチ、だしまき卵、にゅうめん、サラダ、こんな所かな。そうそうシューマイも忘れずに出そう。
国会図書館からコピーが6点届く。1998年の所沢高校の問題を取り上げた「〈卒業式・入学式〉で問われるべきことはなにか」というシンポジウムや、「河上亮一『学校崩壊』を批判する」という対談などを読む。
夕方には、パイロット版第3巻、第4巻が宅急便で届く。注文より1日早い。第2巻は予定では10月14日着。三冊まとめて発送するつもりだ。
電子の手紙、手書きの手紙(10月7日)
承前(昨日の話の続き)、ヤマトが大気圏を出る前に、北九州から電子の手紙で「Word Pressは比較的イージーやけど、やめといた方が良い。」「googleサイトを使う方がベター。」とのアドバイスあり。そこで、午前中、googleのアカウントを取り、googleサイトに入って、あちこちさわってみた。
「捨てる本の中に現代日本語の文法の教科書があったら欲しい」との注文もあったので、午後は裏の別荘に向かう。徒歩30秒。教科書や便覧、『日本語概説』(岩波書店)ほか数冊を選ぶ。
本棚をがさごそ探していると、『リニューアル ひと』Vol6 2000(最終号)が三冊も出て来た。家に帰って(徒歩30秒)、三冊を見てみたら、一冊は竹内常一先生から、二冊は浅川満氏(太郎次郎社の社長さん)から贈呈されたものだった。
竹内先生の手紙には「おそらくこれが『ひと』の最終号となるでしょう。個人特集『禁忌の言葉・おかす』を同封します。月末に桜井書店から『教育を変える』を刊行して、それから入院治療となります。お元気で。」とあった。
浅川さんの手紙は、結構長文で、個人誌『ブリコラージュ通信2号 事件と文学の関係』を差し上げた関係で、こんな一節もあった。「この十数年、まったく小説や詩から遠ざかってしまった文学青年としては、やはりこうした目次には刺激を受けます。ちょうど最近では柳美里の作品をはじめから読んでみようと思っていたところですので、巻頭の「問題の所在」には触発されます。」
遺された言葉には亡くなった人を思い出させる力があり、手書きの文字にはその人の肉体を感じさせる力がある。
イスカンダルへ向う(10月6日)
今日もガレージの物置を整理。労演のパンフレット数十、国語関係のいただいた資料ダンボール箱一箱、高校同窓会の冊子数冊、どれもゆっくり読めばいろいろ有益なこともあろうが、たぶん読みなおさないだろう。来週の月曜日のために、せっせと紐で縛る。
なんだ、この袋はと開けてみると、メキシコツアーの資料、20代後半、これに参加したことで人生が変わったのだった。10代の日記帳、働き始めて3年目の学級通信、なんやかや、捨てるのをためらうものが半分近くある。大学時代のゼミナール実行委員会の機関誌『群緑』が5号まであった。(藤本卓著作一覧参照)。こんな所にあったのか。(この台詞も何度目のことやら。「これにて一件落着」とか「倍返しだ」のように思えてきた。)
エディオンへ行って、ホームページ作成の本を買った。時代はもう「ホームページビルダー」ではないようで、その関係の本は一冊も置いてなかった。
そこで『はじめての最新Word Press入門[決定版]』と『いちばんやさしいWord Pressの教本』の二冊を買った。前者には「初心者でも挫折しない」、後者には「はじめてでも、挫折しません」というコピーがついている。
蛍光カラーペンで大事な所、知らなかった所に線を引きながら読んでいるが、一ページの四分の一くらいは黄色くなっている。
2021年1月28日までにこのHPの引っ越し間に合うだろうか。放射能除去装置を取りにイスカンダルへ向かう『宇宙戦艦ヤマト』の乗組員のような気分になってきた。
100点まであと3つ(10月5日)
長い間、ガレージの物置用スチールラックに置いていた物を捨てることにした。量が一番多いのは、「国語表現一九九一年作品集 聞き書き・仕事の話をきく」で、B5、160ページの冊子が約100冊。同じような作品集は何度も作ったけれど、この年だけ作りすぎた。なかなか処分できず、約30年。もういいか、と思い、古紙再生ゴミとして出した。他に、生徒の感想文のコピーも、ファイル10冊分。他にこの際捨てるものはないか、と棚の奥のダンボールを開けてみると、……!!
ここにあったのか。『高校生活指導』のバックナンバーが18冊も出て来た。全部、卓さんの論文やインタビューなんかが掲載されているものだ。定年退職して、裏の別荘(トランクルーム)を整理した時、ここに移したのだった。
卓さんが亡くなってから、確かどこかにあったはずと、探したが見つからず、あれっ?処分したんだったかな、と思っていた。
確かめると、114号に「〈和の世界〉と〈イエ社会〉」という原稿がのっている。これは本人が作ったリストからも漏れていたもの。著作リストに加えて、これで97点。あと3つで100点になるぞ。
人と人のつながりはなかなかつかめない(10月4日)
卓さんが大東文化大学の専任講師になったのは1996年なのだが、ちょうどその頃から大学院の仲間5人が集まって研究会をしていたらしい。「新しい教育学を探究しようという会」は、10年ほど続いたとか。メンバーの一人が亡くなって、会は解散になったようだ。
実は、この編集工房を立ち上げて、卓さんの資料を探していた最初の頃、このメンバーのうち二人の原稿を見つけていた。
三重大学の山田康彦氏の「芸術概念の再審から芸術教育理論の転換へ⑴」の註に《藤本卓「〈制作〉と〈実践〉─その⑵》とあった。
神奈川大学の関口昌秀氏の「今日のわが国における大衆的青年期の主要な矛盾の性格についての試論」には藤本卓「現代の思春期葛藤と教育の課題」への言及があり、同じく「いわゆる「教育についての2つの規定」を読みひらく」には補注の形で藤本卓の「読みひらき」について触れてあった。
山田さん、関口さんが卓さんと一緒に10年間研究会をしていたメンバーなんだった。
人と人とのつながりは、他人にはなかなかつかめないものだ。山田さんのことは6月に東松山で真美子さんから聞いて知り、関口さんのことは9月に山田さんからのメールで知った。
六甲全山縦走(全12回ぐらいか)スタート(10月3日)
六甲全山縦走をやるか、と思い立つ。実は2018年3月から6月にかけて、六回に分けて、須磨浦公園から宝塚まで全53キロを歩いた。40代の頃はワンダーフォーゲル部の顧問をしていて、全山縦走は数回やったが、最近はとても一度に53キロの山歩きなどは無理なので、分けてやる事にしたのだ。去年は母親が寝たきりになり、山歩きの余裕はなかった。
気候がよくなったので、やるなら、今。念のため、距離を短くして、無理のないように計画。今日は須磨浦公園から鉢伏山、旗振山、鉄拐山から高倉台に下りてきた所までにした。距離にして4キロ弱。10時20分に出発して11時半にはゴール。汗びっしょり。こんなに汗をかいたのは、今年初めてだ。バスで妙法寺駅に行き、そこから三ノ宮へ。サンチカのトイレでびしょ濡れのシャツと下着を着替える。
「大学教育実践家としての藤本卓」という原稿を書き始めたが、「教科」と「教科外」に分けて考える必要があるので、資料を整理している所だ。村田隆くんが送ってくれた「特別活動の研究」の資料は、竹内常一「地域子ども集団の消滅と再生」(『竹内常一 教育のしごと 第2巻集団論』)のプリントで、村田くんの書き込みがしてあって、ああここで卓さんは補足の説明をしたのだなとわかる。「竹内常一から藤本卓が引き継いだもの」というのは研究テーマになるだろうなあ、僕はやらないけど。
何故今?ここはどこ?(10月2日)
東松山の真美子さんから「DAITO BUNKA」という新聞が送られてきた。2020年5月30日、大学入試センター発行とある。その中に尾花清名誉教授の「藤本卓教授の急逝を悼む」という文章が掲載されていた。新しいページを作ってそこに載せておいたので見てください。
先日、大学から送られてきたとのことだが、なんで今なのかな。パイロット版をさしあげたことと関係があるのかな。
学校厚生会に頼まれて、「厚生会だより」を配る仕事を引き受けた。前任者が亡くなられ、僕の所に問い合わせがあったのだ。1カ月に一度、近所に住んでいる元学校関係者の御宅に配って回るということで、うちもいれて16軒。一昨日7軒、今日8軒、自転車でまわった。すぐ近くでも通ったことのない道を、地図を頼りに家をさがして彷徨すること30分。見知らぬ町に迷い込んだようだった。
行き違いが二つ(10月1日)
昼前に何度かポストを見に行ったけど、何も来ていない。今日も来ないのかと、昼ごはんに三日目のカレーを食べる。食べ終わって見に行くと、国会図書館からコピーが届いていた。すぐにハサミとノリで作業をして、版下完成。製本工房に発注し、入金もすませる。よし、宅急便に出しに行くぞ。念のためにページを確認して、あっ!それまでに作っていた版下は、途中ページのカウントを間違えてしまい、弥縫策として「33-2」と「33-3」を作った。それを忘れていた。奥付のページは88なんだが、2ページ多くて、実は総ページ90。第2巻、第3巻、第4巻は結果的にどれも90ページ。
製本工房にメールで報告。50部作るのだが、2ページ増しで追加料金200円必要とか。銀行の振込手数料は220円だった。
伊丹図書館へ本を返しに行く。一階のギャラリーでは、写真展をやっているし、オープンスペースでは講演会もやっていた。すっかり元にもどったのかと、階段を登ろうとすると、今日は図書整理日のため二、三階には上がれません、だって。そろそろ自分の出している個人誌「ブリコラージュ通信№12」の原稿書きを始めようと、田辺聖子の全集を借りに来たのに。
10月の初めの日、ちょっとした行き違いが二つあった。
「大学での教育実践」の検討を始める(9月30日)
国会図書館から「9月28日12時35分に発送完了」のメールが来たので、いつもより早いではないか、今日ぐらい届くかと思っていたが、届かなかった。東京から2日では無理か。明日は届くかな。
明日から10月。そろそろ「大学教育実践家としての藤本卓」について検討を始める予定だ。ただ検討材料が足りない。大学の研究室(ゼミの部屋)に、資料があるはず。入れればいいのだが。
伊丹駅まで徒歩35分(9月29日)
今日は、カレーを作りながら、HPの引っ越し準備作業をした。一応、HPにアップしたものはほぼ全部プリントアウトした。手でさわれるというのは、やはり安心感がある。この編集日誌は、6万字以上、A4で72ページ分あった。原稿用紙で150枚か。
夕方、駅前の眼科へ定期健診にいった。散歩がわりに、家から昆陽池を斜めに突っ切り、市役所、裁判所の横を通り、阪急伊丹駅へ。約4000歩、2.4キロ、35分かかった。時速4キロちょっとか。
30代の終り、琵琶湖一周(190キロ)を3日でやろうとした時には、一日60キロ以上歩く必要があって、時速6キロをめざした。結果はどうなったかというと、2日目の午後3時頃にはヘロヘロで、ほとんど『復活の日』の草刈正雄状態、夜やっとたどりついた旅館の階段を這うように昇っていて、仲居さんが「どうしたんですか」と心配してくれたが、「いや、歩いて琵琶湖一周をしていて」と答えると、「まあ酔狂な」と笑われた。3日目、とてもこの日のうちにゴールは無理と判断。同行者と相談して、琵琶湖大橋を渡って、ゴールということにした。だから僕の中では、琵琶湖の下の方3分の1はないことになっている。
3日で150キロ歩いた、あれが自己最高。
どんぐりを皿に盛る(9月28日)
So-Netのサービスが打ち切りになり、HP消滅の危機に瀕している。(詳しくは9月1日)。母屋の高山智津子・文学と絵本研究所ごと立ち退きを迫られているようなものだ。
そこで、とりあえず引っ越し準備をすることにした。このHPにアップしているファイルのコピーを全部ポータルハードディスクに移し、ついでにプリントアウトして紙でも残す。やり始めると結構時間がかかる。一体どれだけファイルを作っていたことか。
引っ越し先が見つからないのに、引っ越し荷物をまとめて、ダンボール箱の山を作っている。
昨日も奥さんと二人、昆陽池でドングリを拾う。300個以上をビニール袋に入れて持っていたら、信号待ちしているおじさんに「それどうしますの?」と訊ねられた。「孫にやるんです」と奥さんが答えると、おじさんは「なるほどね」と納得して、交差点を自転車で渡っていった。
見知らぬ人とことばをかわすことも、最近はめっきり減ったように思う。ひさしぶりの体験だった。
孫にやるというのは、うそです。奥さんは全部大きな皿に盛って、玄関に飾っている。なんか幸せな気持ちになるらしい。
第3巻、第4巻発注(9月27日)
第3巻と第4巻を製本工房に発注した。どちらもB5サイズ、90ページ。出来上がりは10月9日。国会図書館から遠隔複写が届くのが10月6日頃、第2巻の仕上げはそれからなので、発注して、届くのが10月中旬。3冊まとめて、発送する予定だが、受け取った方は当惑するかも。
いや、そもそも第1巻だけでも、受け取った人は持て余しているのではなかろうか。それでも、最初の1冊は貴重なものをいただいてと喜んでくれたかも。しかし、そのあとまとめて3冊も届くと、「有難い」が「迷惑」に変わるかも。う~ん、ここが思案のしどころぞ(ハムレット)。
小型ルーペは優れもの(9月26日)
今日は、懸案事項を片付けるために、大阪市立図書館に出かけた。途中で、拡大鏡を忘れたことに気付き、家に引き返し、再度出発。
卓さんの「奴に逢ったら」という原稿の、コピーでは読み取れない所を、確かめに行ったのだ。『新日本文学』の復刻縮刷版を書庫から出してもらって、国会図書館のコピーではわからなかった三箇所を確認。「捩り」「用いて」「簡単」だった。他に傍点箇所三箇所をチエック。
復刻縮刷版というのは意外と鮮明で読みやすかった。ただ活字が小さい。拡大鏡を持って行って正解だった。この拡大鏡は折り畳めば掌に収まるサイズで、ライトもつくというすぐれもの。定時制時代、本当に小さい字を書く子がいて、いつも答案の採点に困って、購入したものだ。
城丸章夫さんの『やさしい教育学』は、ネットでも購入できるのだが、一度実物を見てみたかったので、これも出庫してもらい、「第2章教育実践について」をコピーをした。目次も入れて10ページ、100円だった。
行って帰って、三時間半の「半日仕事」になった。
レンタルDVDを4本借りた(9月25日)
今日は、自動車の定期点検に行った。一時間ほどかかるので、駅前のツタヤに行き、『初恋』、『ひとよ』、『ラストレター』、『宮本から君へ』の四本を借りる。ローゲンマイヤーでパンを買う。伊丹図書館へ行き、本を四冊返す。
パイロット版第4巻もできてしまった。総目次も付けることにした。これで、本格的な本作りの下準備はほぼ完了。
全4巻になります(9月24日)
パイロット版4の版下作りに突入。これで、パイロット版の全容が見えたので、発表します。
藤本卓教育論集 《〈教育〉〈学習〉の並行シェーマ》へと向かう六つの論稿》 発行済み
第2巻 〈制作〉と〈実践〉、そして〈教育のレトリック〉 あと10ページ(遠隔複写まち)
第3巻 〈現代社会論〉から〈教育実践論〉へ 版下完成(90ページ)
第4巻 〈世代の自治〉の再発見へ 版下38ページまでできた
劇評などのエッセイは、第4巻に入れることにしました。
著作リストを改定せねば(9月23日)
卓さんの遺した資料を使って、パイロット版3の解題を作っているのだが、『「この子はとりあえず私の子です」のふぃろそふぃあ』の概要がないなあと探していて、大変なことを発見。なんと、『高校生活指導』の資料5点を見落としていた。シンポジウム記録、小論文、対話、シンポジウムでのフロアー発言を補足する小論文、シンポジウム司会、シンポジウム討論、などだ。いわゆる論文ではないし、本人が「その他の文筆活動」に入れていたので、見落としてしまった。国会図書館との縁は切れそうにもない。遠隔複写を申し込むか。届くのは3週間後だ。
もうすぐゲンちゃんの誕生日。プレゼントを箱詰めするのだ。メインはウルトラマンのビニール人形なのだが、空いてる所にドングリだけでは寂しいので、耳鼻科へ行ったついでに、イズミヤへ行き、「鬼滅の刃」のお菓子を探したがなかった。そこで代わりに、百均へ行き「さかなつりゲーム」を二人分買う。
ドングリを拾う(9月22日)
すっかり秋になり、散歩するのもさわやかな気分。夕方、奥さんと昆陽池を歩く。ドングリを見つけて、二人で拾う。悠介が小学4年生の頃、よくドングリを拾ってきて、机のあちこちに入れていたそうだ。その頃は「ドングリ銀行」の人が昆陽池にいて、ドングリを持って行くと、花の苗木と交換してくれた。
パイロット版3が出来てしまった。あとは解題を作るだけ。このペースなら今週中に4も完成しそうだ。
教育実習の時期なんだ(9月21日)
北九州のケイタロウから、奥さんのスマホに連絡あり。グーチョチパーができるようになったというので、スマホ越しのジャンケンをした。
これまで編集工房に連絡をくれた方にパイロット版を送っているのだが、ぼちぼち返事が届いている。大東文化大の増田くんからは、「ゼミ生はこれから実習が始まる人が多いので頑張ります」というメールを貰った。そうか、教育実習の時期か、コロナの影響下にある学校での教育実習は、誰も経験したことがないから、大変だろうなあ。卓さんは指導教官として、小学校なんかにも訪問したんだろうなあ。
「日本語にモラルということばはあるのか!」の版下作り完了。あかん、このペースでいくと、パイロット版を同時に3冊発注することになりそうだ。こんなに作ってどうするんや。
母屋は元「日和佐・文学と絵本研究所」(9月20日)
今日は『「この子はとりあえず私の子です」のふぃろそふぃあ』(1991年)と「現代の思春期葛藤と教育の課題」(1985年)の版下作りをした。
「この子はとりあえず私の子です」は、干刈あがたの小説『黄色い髪』の中の一句で、この小説については卓さんから感想を聞かれたことがある。そんなに悪くはないけど、絶賛するほどではない、というのが僕の感想。だいたい、小説に関しては意見が一致して二人で意気投合ということはあまりなかった。卓さんは小説を哲学的に読もうとするからなあ。
「現代の思春期葛藤と教育の課題」の、最後で『劇闘日本の夏』(1984年)という高校演劇が話題にのぼるのだが、これを演じたのが徳島日和佐高校なのだ。この編集工房HPが間借りしているのが、高山智津子・文学と絵本研究所。そしてそもそもこの研究所は、高山先生が大阪から徳島日和佐に移住して、「日和佐・文学と絵本研究所」として開設されたのがスタートだ。世間は狭いというか。どこでどうつながるか、「因果は巡る糸車」。
阪神淡路大震災が起った1995年、研究所開設記念連続講座をやるために、地震でひっくり返っている自分の部屋の片づけもせずに、僕は日和佐まで五回通った。保育園の先生や小学校の先生、看護婦さんたちを相手に、『作品と読者が出会うとき……テクストのレトリック性と読みの倫理性』というテーマで、じゃりン子チエから窓ぎわのトットちゃん、伊豆の踊子、サラダ記念日、プロップ、バフチン、丸山圭三郎、スコールズなんかを語ったのだ。いやあ、我ながら若かったなあ。
10月、2冊同時に発行の予定(9月19日)
この四連休に、横浜から、カズキ、ゲンキを連れてなっちゃんが帰ってくる予定だったが、今週初めうちの奥さんが体調を崩したので、急遽中止にした。今日カズキからお見舞いの手紙(絵入り)が来た。幸い、奥さんは復調。
パイロット版2は、75ページ分完成。あとは、国会図書館からの郵送(10ページ分)をまつだけ。半月先になる。
パイロット版3は、基本的にOCRを使うので少し時間がかかるが、それでも20ページ分はできた。たぶん、同時に2冊発注することになるだろう。
この2冊は、B5版縦書き。
編集工房消滅の危機(9月18日)
シネマドラマ楽書き帳のページに映画『音のない世界で』を追加。これはパリの聾者たちの生活と発言とで織りなされたドキュメンタリー映画に対する評で、映画評としてもよくできている。
ところで、今日1通のメールが届いて、大変なことがわかった。So-NetがU-Page+のサービスを2021年1月28日で打ち切るというのだ。つまり、このHPが使えなくなるということだ。
これまでも、研究所のHPは当時使っていたプロバイダーがサービスをやめるというので、消滅の危機に瀕したことがある。その時はなんとか、元のページを保持したまま、プロバイダーを切り替えて、期限まで新旧二つのHPを維持していた。この時は業者の人が好意でページの引っ越し作業をやってくれたのだ。
さて、今回はどうしたものか。いっそこの機会に、研究所のHPを閉じて、僕個人のHPを作り、そこに編集工房を移転させるか。でも引っ越しが大変そう。うーん、悩ましい。こんな時に、こういう問題に詳しいお手伝いさんがいてくれるといいのだが。
1995年の大震災(9月17日)
パイロット版3用に、原稿をOCRで作ったので、新しいページにアップしておいた。『演劇と教育』の1995年4月号に掲載されたもので、こまつ座公演の『黙阿弥オペラ』の劇評だ。阪神淡路大震災直後の原稿なので、神戸という地名も出てくる。「真野」というのは長田の辺りなんだろう。
もう25年も前のことになるのか。隣の家はちょうどT字路に位置していたので、建物が地面毎動いて50cmほど前に飛び出た。僕の家の前には大きな家が建っていて、それが止めになったのか、家が前に飛び出すことはなかった。ただ、二階の僕の部屋は北と南のスチールラックが倒れて本が散乱。片づける気力がなかなかおきずに、長い間放置したままだった。
地震は一瞬、被害は眼に見える。新型コロナウィルスの感染は、目に見えず、長い時間の中、宙吊りにされている。
のりとはさみの出番(9月16日)
カミュの『ペスト』を50年ぶりに読みなおした。名作だと再認識した。終盤、ペスト終息が見え、街の封鎖が解除される頃、医者のリウーが、友人タルーを自宅で看取る場面が圧巻だった。
パイロット版1を作る時には、OCRが大活躍した。今度のパイロット版2は、作り方を変えるので、OCRの出番なし。七つの原稿の体裁がほぼ同じなのだ。のりとはさみで作る。もう20ページできた。
こういうアナログ作業の方が得意なんだよね。
パイロット版2、3同時スタート(9月15日)
宝塚図書館から木皿泉氏の読書講演会の案内状が届いた。新型コロナウィルスの影響で、二度延期されて、今回三度目の案内状だ。11月6日予定だが、開催できればいいのだが。
毎年、秋には、宝塚図書館で「市民のための文学講座」をやってきた。去年は、筒井康隆、金井美恵子、長嶋有の3人を、一昨年は井上ひさし、中上健次、川上未映子の3人を取り上げた。この準備が約半年かかり、結構ハードな秋の3ヶ月を毎年送って来た。今年どうするか、担当の方といろいろ相談して、現代詩で案を作ったが、結局、コロナ終息の見通しが立たないので、今年は中止になった。
それで、卓さんの本の作業に集中できた。来年どうなるかは、見通しが立たない。だから、やれるうちに、やれることはやっておこうと思う。というわけで、パイロット版2、3の作業をスタート。
藤本卓教育論集2は『〈制作〉と〈実践〉そして〈教育のレトリック〉』のタイトルで、卓さんの超難解論文を集める。『高校生活指導』にそれぞれ3回と4回連載されたものだ。最初の方の第1回を送ってもらったが、本人に「こんなん読む人おるの?」と訊くと、「熱心な読者が5人はいる」と言っていたが、あれは見栄を張っていたのではないだろうか。5人は多いと思う。
とにかく、誰が読まなくてもいい。パイロット版2は、難解路線で行く。
同時に、パイロット版3は、演劇評とか書評とかエッセイとか比較的短くて読みやすいものを集める予定。
卒論説明会(9月14日)
昨日、村田くんから送られてきたものの中に、卒論説明会の時に使われた資料があった。
《藤本卓
専門は教育哲学・教科外教育論。個別教科の内容論や指導方法論以外なら広く対応できます。特に、逸脱行動論や人格形成(訓育)論は、研究の中心分野です。従って少年犯罪、非行、体罰、社会参加等々を原理的に考察しようとするテーマの他、民俗学や社会哲学、演劇にかかわるテーマも歓迎します。》
そうか、前もって自分が指導できる卒論の範囲を学生に示しておくのか。演劇の卒論指導なんてやったのかな。
僕が学生の頃はこんなのなかったと思うけどなあ。まあ、国文学だから、大ざっぱな時代区分で、なんとなく、あの先生って決まってたのかな。いや、そもそも、先生に指導をされた記憶があまりない。自由だった、というか、ほったらかしだった、というか。
予期せぬ再会、予期せぬ運転停止(9月13日)
埼玉県上尾市から、昔の同僚関口さんが家族旅行で関西に来るというので、40年ぶりに会うことにした。最初の勤務校舞子高校で一緒だった秋定くんも呼んで3人で夕食。三ノ宮阪急(元そごう)の六階のイタリアンレストランで、イカと水菜とトマトのスパゲティを食べた。
別れて、阪急三宮駅のホームに上がると、岡本のあたりで人身事故が発生したので、現在神戸線は運転停止中のアナウンス。すぐにJRへ向かい、尼崎まで行き、そこから福知山線に乗り換えて塚口駅へ。車を阪急塚口駅の近くの駐車場に止めていたので、JR駅から阪急駅まで歩く。約5000歩。阪急塚口駅までやっと来たと思うと、眼の前の踏切を電車が普通に通っていく。なんだ、これは。すぐに復旧したのか!素早い対応と、自画自賛していたのに、もうちょっと待てば、迂回して無駄に歩くこともなかったのか。
昨日、宅急便で20冊、東松山に送った。今日の夕方には、届きましたというメールを真美子さんからもらった。明日は郵便局へ22冊持って行って、郵送予定。
コミケ中止の余波かな(9月12日)
昨日、京都の製本工房から、「発送しました」と連絡があった。注文は9月15日(火)到着だから、きっと集配所で留め置かれるだろうと思った(これまでそうだった)。集配所に直接受け取りに行こうかと考えていたら、午前中に荷物が届いた。ダンボールと別に原稿と冊子2部が別包みになっていた。あれと思って、冊数を数えるとダンボールには注文どおり50部ある。これはサービスなんだろう。こんなこと初めてだ。
今朝の新聞記事を見て、事情がなんとなく推察できた。新型コロナのせいで、コミケなどのイベントが中止になって、印刷業者が困っているらしい。僕のいつも頼んでいる所は、学校の作文集(遠足とか卒業文集とか)や、マンガ同人誌なんかも請け負っている。今年は学校行事もなく、コミケも中止で、きっと注文が少なくて大変なんだろう。
こんな時こそ、応援しなければ。パイロット版2、3、の企画を早めるか。
資料の封筒は10(9月11日)
卓さんが高校時代演劇部だったということはこの日誌でも紹介してきた。大学教師となってからも、『演劇と教育』という雑誌とかかわっている。『共同研究「演出家・俳優と教師の仕事』(1992年)という座談会では、斎藤喜博さんの『教師は芸術家だ』の中の「子どもをつくる」「子どもは教師の作品である」という発言を批判しながら、「教師の仕事は作品をつくる芸術家の仕事ではなく、コミュニケーション行為・対話行為・相互行為というタイプの仕事と考えた方がいいのではないか、と思うんです。」と述べている。(言葉の切り貼り帖に一部抜粋)
結構ええこと言うてるやん、と思いながら読んでいたのだが、この記事を著作リストに入れてなかったことに気付いた。
そこで、資料の点検をやり、改めて大きな封筒に分類することにした。封筒は10になった。
一つ一つの封筒に資料名を書き、中身を確認していくと、あるはずのものがない!『制度改革下のイギリス 実践現場のリアル』、これは確かに読んだ。井上ひさしの「御恩送り」について、僕も日誌に書いた。おかしい。もう一回、封筒を点検。国会図書館の申し込み履歴を確認すると、ない。え、国会図書館に遠隔複写を頼まなかったのか。念のため、HPの「論文一覧」を見てみると、こう書いてあった。「村田隆氏より写真データで入手」。早速メール添付ファイルを開けて印刷。やっぱり、紙はいいなあ。安心できる。最初に読んだ時にすぐ印刷しておけばよかったのだ。
日誌を読みなおすと、8月7日の所にもちゃんと「村田隆氏より写真データで入手」と書いてある。
日常生活では、買い忘れることのないように、ウスターソースとか、風呂の洗剤とか、ホワイトボードに書いておくんだが、時々、そのホワイトボードを見ることを忘れて買物に行き、帰ってから、ああとなることがある。書いたことで安心するんだろうなあ。でも書いておけば、自分が忘れたことに気付くことができる!
まあ、気分はガブリエル・ガルシア・マルケス『百年の孤独』。これを映画化したのが寺山修司の遺作『さらば箱舟』。物の名前を忘れる病にかかった山崎努が、家中のものに名札を張っていくというシーンがあった。
定時制でのことを思い出した(9月10日)
「座談会 学校はなぜ『荒れる』のか」(1988年10月)、「座談会 学校はなぜ『荒れる』のか⑷」(1989年7月)を読んだ。80年代末の東京、埼玉の底辺校の実情が語られているのだが、自分が定年前の10年間勤めていた定時制高校のことをいろいろと思い出した。授業が成立しないとか、留年生、中退者、が多く出るとか、就職先が見つからないとか、一つ一つの局面は結構ハードだったが、それでも担当としては出来る限り頑張ってきたし、やりがいはあった。しかし一番理不尽に思え、力及ばぬ思いがしたのは、行政による定時制高校の統廃合問題だった。僕の勤務先は、交通の便もよく生徒数も増えていたのに、結局行政の計画通り、潰されてしまった。組合の交渉の席、あるいは市議会の委員会で証言したりしたが、……。
もう現場を離れて8年半、今でも、近くの高校の学生が自転車で通学する姿を見ると、ああ、今は中間テスト期間か、などと思ってしまう。
インタビュー「現代を聴く」シリーズ(9月9日)
卓さんの仕事をたどっていくと、1988年4月から1990年5月の約二年間に『高校生活指導』誌上で、6回にわたり、「現代を聴く」というインタビューのシリーズを行なっている。今日は「仕事と生活を自ら発見する」(中高年雇用福祉事業団永戸祐三、菅野正純)、と「社会を刺し、時代を哄う現代演劇」(劇作家=演出家岡安伸治)を読んだ。
この他には、精神科医、HELPディレクター、天神崎ナショナルトラスト、社会学者などインタビューの相手は多彩な顔ぶれだ。
昔、竹内先生と卓さんのことについて話したことがある。彼は研究者としても優れているし、ジャーナリスティックな感覚もあるし、大学生の面倒見もよくて教師としての資質もある、と仰っていた。
まあ、教育学の研究以外、いろんな仕事をしていたわけだ。
座談会は読みやすかった(9月8日)
未完の大作を読んで疲れたので、今日は「生活指導と学校づくり」(1989年)という座談会を読んだ。アリストテレスもハンナ・アーレントも出てこない。
竹内常一先生や望月一枝さんも出席していて、六人中、半分は知っていることになる。これだと、顔が浮かんで読みやすい。あまり疲れなかった。
昨日は、京都の深谷先生から原稿依頼の電話あり。工房の作業が忙しいので断った。でも工房のHPの宣伝やら、カミュの『ペスト』(今、僕も40数年ぶりに再読中)の話やらなにやら、結構長電話になった。深谷先生の御宅は長い坂の上で、僕は行きはいつもタクシーだが、買物が大変だろうな、と思っていた。訊いてみると、今は電動手押し車を使って買物に行かれているそうだ。
今日は、中学・高校時代の友人からメールを貰った。体力低下でプールに行こうと思っているとか、一度熱中症にかかったとか。年を取ると、体力が落ちていく。僕も気持ちは40代なんだがなあ……。
未完の大作を、昼寝をはさんで、読んだ(9月7日)
台風10号の影響か、今日は天候が不安定だった。朝は日射しが熱いくらいで、このままいい天気になるのかと思っていたら、正午頃はどしゃぶり。郵便屋さんから受け取るために傘をさして出たのだが、それでもズボンの裾が濡れた。国会図書館から3つの封筒で15点遠隔複写物が届いた。予想よりも4日ほど早い。代金を郵便局に振り込みに行く時は、また日射しが出た。暑い。
こんなにいっぺんに読めんなあ、と思い、とりあえず岸本裕史先生の実践(『どの子も伸びる』)についての短いものを読んでみた。
岸本先生は大学生の頃から何度もお目にかかったことがある。難しい話をわかりやすく、立て板に水の話しぶりで、小学校の先生でこんな人がいるのかと、びっくりした。100マス計算がどうやって生まれたかの話も聞いたことがある。(子どもがこうすればいい、と教えてくれたそうだ)。
次に、「研究論文 断章 〈教育のレトリック〉のために」を読んだ。これは㈠の①から、㈠の④まで、四回連載。読んでいるとどうしても睡魔が襲ってくる。途中で、ちょっと昼寝をして、頭を回復させてから、ほとんど根性で、最後まで読んだ。気分は10マイルレースでゴール。
ところが、附記にこうある。
《本稿は、いまだ緒についたばかりの未完作である。しかし、紙面を迂遠な議論で独占するのは心苦しい。数回の休載ののち、再び読み続けていただけるとありがたい。》
自分でも「迂遠な議論」という自覚はあったんや。竹内常一から三木清、久野収、アリストテレス、ハンナ・アーレント、シェークスピア、北嶋美雪、バフチーンに行き着く。掲載誌は『高校生活指導』やで、読んでた人も、一体これどこへ行くんやろと思っていたことだろう。次は花田清輝を取り上げるつもりだったようだ。本人も広げた風呂敷のたたみ方に迷ったんだろうなあ。著作リストには、この続きはないみたい。
「いつまで経っても完成しない著作リスト」(9月6日)
昨日届いた資料を読む。中に『生活指導』1986年3月号掲載の劇評があった。山田太一脚本、木村光一演出の『教員室』について書いている。一部を「切り抜き帖」のページに掲載しておいた。
この劇は、僕も卓さんに薦められて尼崎のピッコロシアターで観たことがある。でもそんなに感心しなかった。卓さんは期待を込めて二度観て、でも不満が残ったようだ。《観終えての感想はといえばいささか複雑だ。確かに、「教育」を直接扱った芝居としては、文句なく水準を越えている。だがしかし、どこか食い足りない想いが残るのだ。この舞台は、ついに〈批評性〉を獲得しえなかったのではないかと。》
そんなん一回観たらわかるやろ!、とつっこみを入れたい。やっぱり、ひいきの脚本家・演出家やからかな。
で、この劇評を著作リストで探したら、落していた!今回届いた『生活指導』誌、4点をリストに入れてなかったことに気付く。そこでリストを訂正。数えてみたら90点になった(但し再掲もある)。なんか、「いつまで経っても完成しない著作リスト」、というのはまるでボルヘスの短編にありそうな不思議な世界だと感慨にふける。いや、単に、ずさんなだけやろ!というつっこみが入りそうだ。
魚の棚で、明石焼きを食べる(9月5日)
昔、舞子高校で一緒だった、画家の藤原洋次郎さんの展覧会が明石であるので、奥さんと二人、車で出かけた。魚の棚(市場)をぶらぶらして、明石焼き(たこ焼き)を食べてから、会場に向かう。藤原さんとはかれこれ45年の付き合いになる。最初の2つの本の表紙も描いてもらった。喫茶店で1時間近く喋る。
家に帰ると、ポストに国会図書館の郵便が届いていた。新しい資料9点入手。思っていたより早く到着。
今、案内チラシで確かめて、初めてわかったのだが、藤原さんは1948年生まれ、明石高校出身。卓さんが高校一年生の時に三年生だったことになる。多分二人に面識はなかったと思うが、美術部と演劇部なら、文化祭で接近遭遇していた可能性もあるかな。
執筆の背景(9月4日)
6月に東松山の卓さんの家に行った時に、知った話。
2017年10月10日に「竹内談話会」が持たれた。これは卓さんの研究ノート《”懐かしい言葉になり逝くか?─教育学〈術語〉としての「生活指導」の向後について》に基づいて、竹内先生の談話を聞く会として企画されたらしい。新井朋重さん、青木睦さん、中村清二さんとの共同インタビューで、そのための事前資料を卓さんは作っている。そのはじめの所にこんなことが書いてある。
《「生活指導」ということばはなつかしいことばとして残るだけでいいと私は思っている》という竹内先生の述懐に対して
《実はこの言葉をすでに以前にも「生活指導学会」に関わる発言として瞥見していたが、当時は自分としてはそれを take note するに留め、それへの応答の動きが何処からどの様に生ずるのかを注視してきた。しかし、判然とした動きは管見に入らぬまま時が過ぎ、今回、新著『新・生活指導の理論』の巻末でそれを再び眼にすることになり少々驚いた。また同時に、この言葉に応答を示さぬ「生活指導」関係者たちに強い落胆の思いを持たされた。と同時に、このタームの使用について、過去に何度かの揺れを経てきた己についても、忸怩たる思いで、「コノママには出来ぬ」と一種の決意を抱いて、この新著の出版記念研究会(昨年12月)に出席し、発言した。今回の研究ノート執筆は、その発言への社会的責任への履行として書かれている。》
と卓さんは書いている。つまり、紀要論文《”懐かしい言葉になり逝くか?》(2017年12月)の執筆の舞台裏はこんな風だったのだ。。
事前資料にはそのあと質問が6つ書かれていて、全部でA4・4枚にもなる。事前に打ち合わせもして竹内先生の御宅に伺ったらしい。で、結果はどうなったのかというと、竹内先生から、そんなことはもういいじゃないかと軽くいなされて、質問は一つしかできなかったようだ。
竹内常一先生の訃報(9月3日)
昨日、太郎次郎社エディタスの北山さんから電話で、竹内常一先生の訃報を知らされた。今朝の朝日新聞によると、「1日、老衰で死去、85歳。」とあった。教育学者であり生活指導運動の理論的なリーダーであった竹内先生は、卓さんの恩師であり先達といってよい存在だった。
今年5月の初め、夜に竹内先生から突然電話をいただいた。4月の末に僕の個人誌『ブリコラージュ通信№11』をお送りしたのだが、その巻末にこの工房のHPにも掲載している「卓さんを偲んで」をつけていたので、それを読んでくださってのことだった。あれを読むと、いかにも青春という感じだね、と感想を述べてくださった。
竹内先生から、ここ数年の卓さんの様子を聞くことができた。
しばらく疎遠になっていたのに、ある時期から、家に訪ねてくることが増え、竹内批判をしようと思っていると言うので、遠慮することはない自分も師である宮坂哲文を批判してきたのだから、と答えた、とか。また、70歳の定年までに著書をまとめようと思っていると相談してきたから、時期にこだわる必要はない出来た時にだせばいいんだ、と答えた、とか。
卓さんの就職について、國學院の話がつぶれ、大東文化大の話も一時流れそうになった話とか。宴席でいつもは、よく呑み、場をさらうようによく喋っていたのに、最後の頃は、元気がなかった、とか。大学の仕事が忙しかったようですと僕が話すと、認可をめぐって文科省との対応が大変だったのだろうと話してくださった。
40分ほど電話であれこれ話したのだが、話のはしばしから卓さんへの哀悼の気持ちが伝わってきた。
脚が弱ってしまって、外に出なくなったと仰っていた。東京の方へ出かけた折に、一度お訪ねします、と言ったけれど、果たせないままになってしまった。こんなに早くなくなられると思っていなかった。パイロット版をぜひ見ていただきたかったのに。
『竹内常一教育のしごと第1巻』の解説(藤本卓)の冒頭を、「言葉の切り貼り帖」に貼りつけておいた。竹内先生のポートレートとしてよく書けていると思う。
これは造語かな(9月2日)
遠隔複写がニ点届いたので読んでみた。高生研全国大会での基調討論の発題がわかりやすかったので、二カ所切り抜いて、「言葉の切り貼り帖」に貼りつけておいた。「世代の自治」も「開放系の訓練論」も「閉鎖系の訓練論」も造語だった。
僕のような素人には、教育学の世界で比較的知られている専門用語と卓さんが新しく作った造語との判別がつかない。こういうのは誰かのアドバイスがいるなあ。この間、討議を読んでいて、「正統的周辺参加」という言葉を他の人がさらっと口にしていたので、ああこれは造語ではないんだとわかった。《並行シェーマ》図にも書き込まれているこの言葉、造語かなと疑っていたのに。
素人はつらいな。
卓さんの引用の元の文を確かめようとして図書館で借りた柳田國男全集をめくっていて、こんな一節に出会った。
《文章は出来るだけふだんの物言ひに近よせるやうに、私などは心掛けて居るのだが、それも相応にむつかしいことであるのみならず、人によつてはわざと耳遠い、字引にもないやうな文字を並べて、深遠を粧ふ者もまだ無いとは言へない。それをこちらばかり大骨を折つて解らうとし、解らぬとただ自分が悪いのだと思つて自ら責め、又は解つたつもりか何かですまして居る者もあつた。》
「喜談日録」昭和21年11月13日の記事だ。卓さんがよく引用している記事の直前にあるのだから、彼も一度は読んだはずだと思うのだが。
昨日、《言葉の切り貼り帖》にのせた、《勝義における教育実践とはつまり、既存の〔制度としての〕「学校」の内部からの〈異化〉の行為なのだ》なんて、もうちょっとやさしいことばでいえばいいのに。「勝義」なんて、漢字変換できないぞ。調べたら、仏教用語!!
野木亜紀子が面白い(9月1日)
パイロット版のために、「《並行シェーマ》とは何か・序」という解説を書いたので、これを新しいページとしてアップした。記号や図式がうまく転送できないので、そのあたりは、ちょっとほんものと違うのだが、だいたいの主旨は伝わるだろう。
国会図書館には28点、遠隔複写を申請中。京都の製本工房からは、原稿が届いたのでこれからページ確認を始めるとの連絡あり。
この2つが手元にくる9月15日ごろから、どっと忙しくなるはずだ。今はちょっとした「なぎの時間」かもしれない。
娘のお薦めで見始めた金曜日のドラマ「MIU404」が面白い。脚本が抜群にいい。ドローンによる同時爆弾テロ発生と見えたものが、実は犯人が逃げる時間をかせぐための、情報操作によるフェイクであるとか、現代性があってエンタメ性もある。調べてみると、脚本は野木亜紀子。これまでに「重版出来」「逃げるは恥だが役に立つ」「アンナチュラル」などを書いている。この3作品も面白かった。
「なぎの時間」を使って、昨日はTVerで「アンナチュラル」の第1回を観なおしてみた。最初、恋人による毒物殺人が疑われていたが、中東由来のマーズ・ウィルス感染へと展開。PCR検査とか、院内感染とか、患者に対する誹謗・中傷とか、街行く人々のマスク姿とか、なんかもう、今日現在の姿を、2018年に見通していたかのような内容だった。前に観ていたのに、半分以上忘れていて、途中まで、「三角関係のもつれか、やっぱりこの恋人が毒殺犯か」、なんて思っていた。
紀要六編を更新したが、…(8月31日)
大学紀要六編をすべて、パイロット版を元にして更新した。かなりよくなったはず。でも、HPをインターネットで見ると、文字のフォントがうまく揃わない箇所が出ている。原因はわかっている。ルビの後数行に影響が出て小さなフォントになるのだ。
版下作りまでは大丈夫なのに、それをコピーしてホームページビルダーに貼りつけると、見た目は問題ないが、サーバーに転送したとたんこうなる。なんでかな。僕の知識では対応できない。
いや、そもそも卓さんの原稿はルビが多すぎるのだ。僕なんか、自分の原稿にルビをつけたことなんてないぞ。難しい漢字を使うくらいなら、ひらがなにするし、漢字の術語に外国語の音のルビをふったりしない。どうしてもそうしたければ、( )を使う。
まあ、流儀というか、作法というか、それが違うので、こんな時に困る。
柳生十兵衛(柳生新陰流)と林崎甚助(白土三平『忍者武芸帳』に出てくる抜刀術の使い手))ぐらい違う。いや、千葉周作(北辰一刀流)と近藤勇(天然理心流)ぐらい違うか。それとも、……。
言葉の切り貼り帖のページ新設(8月30日)
8時間以上寝たので、すっきり。さて今日は何をするか。
読むのを先送りしていた討論を一つ、二つと読んでいたら、突然、僕の名前が出て来て、びっくり。
これまで討論やインタビュー記事は相手がいることだから、なかなか全文引用は難しいなと考えていたが、そうか、ここだけちょっと切り抜けばいいのか、と思いついた。そこでさっそく、卓さんの発言を集めた、スクラップブックのようなページを新設。「言葉の切り貼り帖」とした。前後のつながりや相手の反応なんかは気にせずに、読めばいい。短いコラムもここに載せていけばいいかも。長くて難しい論文と違って、さっと読める。論文を読む時のちょっとしたヒントにもなる。
そのページを作ってから、久しぶりに伊丹の図書館へ行った。再開まもない頃と違って、人がもどってきていた。重い柳田國男全集を三巻、ほかに伊藤比呂美二冊、金井美恵子、山田風太郎、椎名誠、松浦寿輝、文學界3月号、と10点借りたら、リュックがいっぱい。家に帰って量ったら、6㎏あった。
紙の反古はちゃんとメモ用紙にする(8月29日)
今朝、いきつけの宅急便の配送所へ行き、パイロット版原稿の配達を頼んだ。これで、9月15日には完成品が手元に届く。著作一覧や解説もつけたため、予定を越えて全130ページになった。余分も見込んで50部発注した。
これで一仕事終わった、と感慨にふけり、見回すと部屋のあちこちに紙の反古が散乱している。そこで部屋の掃除をした。紙の反古はウラをメモ用紙として使っているのだが、二つのクリップボードが、もう限界というくらいパンパンになった。どれだけ印刷ミスしているのやら。丁寧にチェックをせずに、「とりあえず」と印刷するから、あとでミスを見つけて印刷しなおすことになるのだ。わかっているんだけど、……。奥付だけで、メモ用紙が5枚増えていた。
卓さんの著作一覧は、さらに追加もあって、85点になった。HPの著作一覧も更新した。
編集工房を始めた頃には、よくわかっていなかったのだが、『高校生活指導』26点、太郎次郎社(今は太郎次郎社エディタス)関連12点、の2つが群を抜いて多い。
楽屋ウラから(8月28日)
太郎次郎社エディタスの北山さんが送ってくれた(真美子さん経由のものもある)、『ひと』『別冊ひと』『ひとネットワーク』などのコピーが手元に届いた。読んでみて、狂喜乱舞、この所卓さんの「小難しい論文」ばかり読んでいたから、その反動か、めっちゃ面白い。
例えば、1993年3月号に《楽屋ウラから 『ひと』転換第一号ができるまで 編集委員会》という報告を卓さんが書いている。確か、卓さん、『ひと』の編集にも携わっていたことがあったよなあ、と思っていたが、それをはっきり裏付けるものだ。創刊二十周年をもって廃刊という方向も話題にされていた時、「見田宗介さんに編集代表を依頼してみては」と卓さんが提案し、社長の「浅川さんは、文字どおりその場で跳びあがり、即座に動き始め」たというのだ。その後、いろいろいきさつがあり、鳥山敏子さんが編集代表になるのだが、いや、そんなことがあったのか。この報告の載っている3月号の表紙を見れば、見田宗介、斎藤茂男、鳥山敏子、無着成恭、上野千鶴子、……すごい執筆陣が並んでいる。卓さんも編集に携わって知的な昂奮を味わっていたことだろう。僕なんか、見田宗介(真木悠介)の名前を見ただけで、昂奮する。どのくらい好きかというと、息子の名前に悠介とつけたぐらいなのだ。卓さんに、見田さんのサインを頼んだらよかった!
算段の平兵衛(8月27日)
耳鼻科の先生の「もう少し頑張ってみてください」で、逆に最近どうも働き過ぎではないかと反省し、今日はできるだけパソコンを触らないようにした。
たまたまつけたテレビで昔の月亭可朝の落語をやっていたので観た。「算段の平兵衛」という噺は、たぶん初めて聴いたと思うのだが、名前だけは知っていた。桂米朝さんが、やり手がなくて消滅していたのを復活させたネタだと聞いたことがあったのだ。
まあ今僕がやっている作業も、似たようなものかもしれない。このままだと散逸し、忘れられていくかもしれぬ論文を、なんとか残そうとしているのだから。目標は本にして国会図書館におさめること。
米朝さんは阪急武庫之荘駅の近くに住んでいたらしい。会ったことはないけれど、僕も武庫之荘の教職員住宅に住んでいた時期がある。勝手に、近しい人のように思っている。
はさみとノリで修正作業(8月26日)
今日は耳鼻科の日、予約は34番。ネットで今の診察状況を確認しながら、《並行シェーマ》図の版下作りをした。
HPに載せているのとは別の最新版(たぶん)プリントをコピーし、それを二分し、冒頭の見開き2ページに載せようと思った。ちょうど真ん中で切ろうとすると、下の方に三次元シェーマの図があって、邪魔をする。それで三次元図は切り分けて、別の位置に貼り直す。コピーを繰り返したためか、文字が読みにくい箇所がいくつかある。その文字をパソコンで打ち出して、プリンアウトし、はさみで丁寧に切って、ノリづけし、見にくい文字の上に貼る。なかなかいい。文字が苦もなく読めるではないか。一つできると、欲が出る。ここも直すか、と修正作業に没頭していて、はっと気づいて、確かめると今29番!あわてて、車を走らせ、病院に駈けこむと33番になっていた。
4月下旬に右耳が突然難聴になり、一時はキーンと耳鳴りがし、どうなることかと思ったが、少しずつだが、聴力は戻ってきているようだ。「もう少し、頑張ってみてください」と先生から言われたが、何を頑張ればいいのだろう。処方された漢方薬を飲むことぐらいしか、やることないのだが、……。
30年ほど前の話。灰谷健次郎の「ろくべえまってろよ」が小学校低学年の教科書に載っていた。うちの娘、なっちゃんが宿題で読むのを、毎日のように聞かされた。深い穴に落ちた子犬のろくべえに、子どもたちが上から「がんばれ、ろくべえ!」と声をかけるのだが、「ろくべえはなにをがんばればいいのでしょう」という所でいつも親子で「ほんまやなあ」と言い合って笑った。絶妙なつっこみだ!おかっぱ頭の娘の姿とともに、心に深く残った。
帰ってから、《並行シェーマ》図を完成させ、「あいさつ」と「あとがき」を作った。、作業中何度も「もう少し頑張ってみてください」という声が、右耳をよぎったような気がした。空耳か。
昨夏、高坂駅前で(8月25日)
中村清二さんから、藤本先生の研究に触れる短い論文を書きました、というメールをいただいたので、ネットで『教育』の9月号を注文したら、すぐに届いた。
「城丸教育学との出会い」という論文は、《”懐かしい言葉”となり逝くか?》に触れながら、城丸章夫さんの教育理論を論じていた。僕は教育学のことは何もわからぬ素人だが、引用されている城丸テーゼは、「門前の小僧習わぬ経を読む」、卓さんの論文で読んだことがある、知ってる、知ってると嬉しくなった。
《昨夏のひどく暑い日、高坂駅前のハンバーガー屋で、城丸理論の核心部分について述べたところ、藤本さんから「それは中村さんのオリジナルな読みだ」と任じてもらった…》という一文があって、ふむ、ふむ、それはマクドナルドに違いない、二人は何を注文したんだろうと、思った。年末の頃には食欲がなかったそうだが、この時は何か食べることができたのかな。ビッグマックは無理としても、フィレオフィッシュぐらい食べたかな?
北山さんから電話を貰い、散髪にも行く(8月24日)
パイロット版にも著作一覧を載せようと思い立ち、版下作りをしてみると、『ひとネットワーク』のものが3点抜けていることに気がついた。太郎次郎社(今は太郎次郎社エディタス)は『公論よ起これ!「日の丸・君が代」』や『あきらめない教師たちのリアル』を出してくれている出版社だから、そうだ、別枠にしようと思って、著作一覧を午前中かけて作り直した。出来たので、全部の点数を数えると82点あった。大東文化大学の資料の「84点」には、口頭・ポスター発表とか、「教育上の能力/教育方法の実践例」とかが含まれていた。それら9項目は、著作一覧には入らない。だから84-9=75になる。大学の資料(2013年まで)は75。ハンドメイドの著作一覧は82。82-75=7、なんや、7点は自力で見つけていたのか!
と悦に入っていたら、太郎次郎社エディタスの社長の北山理子さんから電話をいただいた。これまた、なんという偶然。実は国会図書館に『ひとネットワーク』を申請したのだが、所蔵してない号があるので、直接出版社からバックナンバーを購入しようと思い、先週メールを送ったのだ。
電話で、卓さんのことや編集工房のこれまで、これからの構想(論文集以外に教育実践家としての姿のわかる本とか、その2つをつなぐ本とか、いやあ三部作も考えていて…)など話したら、校正でもなんでも手伝いますと仰ってくださったので、ちょっと恐縮。気がつくと30分以上喋っていた。
電話を切ったあと、なんとなく気が大きくなって、丸亀製麺に行き、いかの天ぷらをトッピングしてうどんを食べ、その足で行きつけの散髪屋さんに行った。35度なら外出も可だ。
パイロット版の発行日は9月15日に決定!(8月23日)
今日は久しぶりに妹が垂水からやって来た。今は再任用で、週4日、小学1年生のクラスの補助にはいっているらしい。新型コロナウィルス対策で教室の窓を開けたまま、クーラーをかけているとか。電子黒板なども配備されて、若い先生は慣れるのが早いけど、年配の先生はなかなからしい。自分も現役だったらきっと使いこなすのに苦労しただろうとの感想をもらしていた。
タイトルは『パイロット版藤本卓教育論集 「〈教育〉〈学習〉の並行シェーマ」へ向かう六つの論考』、発行日は9月15日と決めて、表紙、目次、奥付を作った。各論文の解題は、前半三つは本人が書いた概要(8月20日に届いた書類の中にあった)を使うことにして、後半三つは新しく作る必要がある。あと、「並行シェーマ」の図を載せたいし、並行シェーマとは何かの解説もつけたい。うん?待てよ、いつが締切になる?京都の製本工房のHPで調べたら、9月1日15時までに入稿完了!版下原稿は宅急便で送るから、8月31日がリミットか。できるかな?
まあ、10日営業日コースならこうなるということで、いざとなれば4日営業日コースとかもある。そもそも9月15日という日付には何の意味もない。9月1日だったら、卓さんの誕生日で、藤本卓生誕70年となるのだが……。
授業「注文の多い料理店」の共同研究(8月22日)
今日は、著作一覧のページを全面的にリニューアルした。
《単行本の形にまとまっているもの》、《単行本の形にはなっていないもの》、《並行シェーマにつながる六つの論文》、《一般的には入手困難なサークルの通信等》に分けた。
我ながら、よく頑張った。天も感ずる所があったのか、急に風が吹きあれ大雨が降ってきた。今はどしゃぶり。これで少しは涼しくなるかな。
今回、この作業をやって、いくつも発見があったが、一つだけ紹介すると、卓さんが「注文の多い料理店」の授業の共同研究に参加しているのだ。うん?待てよと思って裏の別荘に行ってみると、あった、あった。『西郷竹彦授業記録集4 「注文の多い料理店」記録』(1988年刊、定価3300円)。西郷さんが福山市立大津野小学校五年生の教室で行った四日間、九時間の授業を八人の研究者が、一日毎に分析検討している。僕もすぐに買って読んだおぼえがある。
八人の研究者は柴田義松東大教授の授業内容研究室のメンバーと紹介されていて、卓さんの肩書は法政大学講師だ。柴田義松先生とはロシア語文献の翻訳つながりかと思っていたが、文学の授業研究にも混ぜてもらっていたのか。
大学生の頃、卓さんに西郷文芸学の本を紹介してもらった。小学校の先生のサークルに来ると聞いて、明石まで出かけて行った。アパートの小さな部屋で、詩の授業を受けた。比喩を語るその手際、あまりの鮮やかさに、驚いた。こんな風に文学を分析できるのなら、僕にも授業ができるかもと思った。それで、ゼミ実結成の最初の講演会に、西郷さんを招いたのだ。送り迎えのタクシーの中で話をさせてもらった。
僕は文芸研には加入しなかったけれど、西郷先生に対しては尊敬の念を持ちつづけ、全国大会には何度か参加した。2008年神戸の全体講演は井上ひさしさんで、この時は井上ひさしさんも西郷さんもまだ元気だった。2015年広島の全体講演は小出裕章さん(元京都大学原子炉実験所助教)だった。この時西郷さんは95歳、さすがに老いが感じられたが、短時間だが講演もされた。
2017年に97歳で亡くなるまで、西郷さんは日本中の教師たちに大きな影響を与え続けた。神戸で開かれた文芸研主催の「偲ぶ会」では、西郷さんの授業のビデオが上映された。小学生相手に、明るく元気に、明解に授業されていた。そのあと、娘さんが「スーホの白い馬」に出てくる馬頭琴を会場で演奏されたのが印象的だった。こんなに、力強く響きわたるのかと思った。モンゴルの草原を思い浮かべながら、帰路についた。
年譜を追加していて(8月21日)
昨日、年譜の追加をしていて、気がついたことがある。卓さんは2001年から2003年まで、神戸大学の非常勤講師をしている。この時期は、もう大東文化大学の助教授だったから、たぶん夏休み期間なんかに、神戸まで集中講義に来ていたのではないかな。そういえば、夜に阪急六甲で会ったような気がする。
集中講義というのは、二週間ほど毎日やるわけで、面白い講義なら聞いている方にも普段の授業とは別の充実感が生まれる。
自分が学生だった時、西郷信綱さんが神戸にやってきて『古事記』の講義をされたことがある。古代は全くの専門外だが、話の密度が高く興味深い内容で聞いていると、頭のあちこちが刺激されて、自分なりにあれこれ考えた。集中講義の最終日に質問を受け付けてくれたので、「貴」とか「賤」の根拠はどこにあるのかと訊ねたら、「自分はそれをうまく説明できない、よくわからない」との返事だった。それを聞いて、なんて凄い先生だろうと感心した。集中講義だけの付き合いの学生、それも素人の質問に対して、適当な所で答えたり、はぐらかしたりすることなく、「わからない」と言えるこの先生は信用できる、と思った。「わからない」の言葉の重さ、凄さを感じた。
卓さんは集中講義で何を話したんだろう。質問は受けたのかな。
論文を再現する作業をしながら、ここはちょっと訊ねたいと思う所もある。教育基礎論(教育哲学)の素人の質問にどう答えてくれるかな。
覚悟していた分、力が有り余ってしまった(8月20日)
最後の大学紀要《「憶える」と「覚える」の区分について》の版下作りは、昨日のことが頭にあり覚悟していたのに、午前中2時間ほどであっけなく終わってしまった。それで力を持て余していた。
娘が高校卒業まで使っていた年代ものの椅子、ガタガタで、長時間座っていると背中が痛くなるとうちの奥さんが言うので、37度の熱風の中、二人でニトリへ椅子を買いに行った。届くまでに半月かかるそうだ。それでも3週間の国会図書館よりは早いと思った
まだ力が余っている。そのまま伊丹駅前のイオンモールへ行く。カズキから「お楽しみ箱をまた送って」と頼まれていたのを思い出し、小さな缶ジュースやお菓子をいろいろ買う。
家に帰ると、大きな封筒が届いていた。卓さんの履歴書のコピーだった。大学の「お別れの会」担当の先生と連絡がとれて、入手できたものを、真美子さんが送ってくれたのだ。
さっそく著作をチェック。知らなかったものが40点以上ある。中には「滋賀高生研通信」に載った講演記録やシンポジウム記録なんてのもある。これどうやってアクセスすればいいんだろう。
とりあえず国会図書館に遠隔複写を申請しようと思ったが、40点以上も受け付けてくれるだろうかと、ふと心配になり、改めてHPで確認すると、「一度に申し込めるのは30点まで」だった。
今日は『生活指導』4点、『高校生活指導』4点、『演劇と教育』5点、を申請。8月13日の3点と合わせて、16点になる。届くのは椅子の後にだろう。
まだ力が有り余っているので、夕食後、夜の昆陽池を散歩。これから、「年譜」の追加、修正をすることにする。
夕食に餃子を作ったのだが…(8月19日)
2017年に何があったのだろう。確か翌年は一年間研究休暇をとっていたはず。
8月1日の編集日誌に、《”懐かしい言葉”となり逝くか?》(2017年12月)は「論文の調子が微妙に違う」と書いたが、微妙どころではない。明らかにおかしい。
例えば、註の中で《極めて遺憾なことではあるが、ここしばらくの私は、日常の大学職務にかまけて、今日の教育学の”最前線”をフォローできていない。》と述べていて、大学の仕事の忙しさがピークにきていたのか。論文の註に対するチェックも全然できていない。30ある註の番号ミスが6つもあった。きっと疲れていたのだろうなあ。
今日はこの論文一つの版下作りに、6時間以上を要した。本文と註を照合したり(これが大変)、三つ目のロシア語(自分が見落としていた)に気づいてあわてて再現したり、行末の 「 ” 」の処理がなかなかできなかったり、……さらに「研究の作法に悖る」って、卓さんが誰に対して何を怒っているのか、理解するのに時間がかかったり……。
完成した時にはすっかり疲れはて、夕食の餃子作りにも集中できず、全部包み終わってから、「あっ、ニンニク入れるの忘れた!」と気づくほどだった。
教訓:疲れは伝染する
久保さんから手紙を貰った(8月18日)
今日は《フランス語に「学習」という言葉は存在するか?》の版下を三時間で完成。
昨日、今日と、紀要原稿自体にあった、註の番号ミスを発見。我ながら、なかなかいい仕事をしている。大学から原稿のデータを貰えそうなのだが、「ふ、ふ、ふ、そのデータにはミスがありますよ」と指摘できるぞ。
真美子さんの話では、論文・著作の全件データも手に入るようなので、一安心。ちょっと論文さがしは休憩。
昔、僕が何冊か本を出してもらった久山社の久保昭男さんから、久しぶりに手紙が届いた。久保さんは一人で児童文学関係の出版社をやりながら、岡山の自分のむらの調査を続け、2015年にそれを『物語る「棚田」のむら』(農文協)という本にまとめられた。出版社をたたんでからも、依頼を受けて原稿を書き、それを送ってくれていた。今回の手紙によれば、指がしびれるようになり、字が書けなくなり、書けなくなると、考えごともまとまらない、ということで、手術を受けたそうだ。経過は順調で、リハビリの日々だとか。
原稿の校正のプロだから、誤字の訂正、註の番号チェックなどはお手のもの。僕が毎年送っている個人誌も、今回は校正ミスが多かったですね、とダメだしを受けて来た。この編集工房を、久保さんが見たら,藤本さん、あいかわらずミスが多いですね、と言われることだろう。間違いだらけでも、とにかく書いてみて(パソコンに打ち込んで)、書きながら考えをまとめているのですよ、と言えば、今ならきっと深く共感してくれるはずだ。
間違いさがしの日々(8月17日)
今日は、《〈教え〉と〈育て〉のメタ・カリキュラムに向けて》の版下を半日ほどで完成。我ながら驚くほどに、速い。ひょっとしたら、校正能力がアップしているのか。眠っていた野性の勘が覚醒したのか。
例えば《…〈教える〉ってこととく育てる〉ってことは、かなり違ったことですよね。…》という文章を一目見て、あっOCRが読み取り間違いしたんだな、と気付くようになった。
正しくは《…〈教える〉ってことと〈育てる〉ってことは、かなり違ったことですよね。…》です。
えっ、わかりませんか?
「く育てる〉」と「〈育てる〉」、つまり 「 く 」(ひらがな)と「 〈 」(山カッコ)の違いです。
これは自主的に能トレ(あるいは視力訓練)しているようなものか。連日37度の猛暑の過ごし方としては、外でのウォーキングよりはふさわしいかもしれない。
「音の世の穿難から足を洗わせる…」??(8月16日)
昨日は、一つ目の版下作りが半分しか進まず、このペースなら、六つ作るのに二週間ほどかかるぞ、と思っていた。
ところが、今日は気がついたら、二つ目の原稿の版下もできていた。コツがわかってきたのか、それとも、うたたねしてるうちに誰かが手伝ってくれたのか。
最初に作ったものは、読みなおしてみると、誤字、脱字が多かった。特に初めてOCRで作った《悦ばしき”学び”か?》なんてひどいものだった。
冒頭近くの、柳田國男の「民俗学を音の世の穿難から足を洗わせること、すなわちこれを現代科学の一つにしなければならぬ……」なんて言い回し、みんな、こんな意味不明の文章読んでなんともなかったのかな。気持ち悪くならなかったのかな。正しくは「民俗学を昔の世の穿鑿から足を洗わせること……」です。
きっと気づいているが、寛大な心で見守っていてくれているのだ、ということにしておこう。
編集工房のHPにアップしている論文はチェックが不完全です。六つとも出来上がったら、正しいものに入れ替えます。
人は、それを為しつつ当の技能を獲得する(8月15日)
大学紀要に掲載された六編を、まず一冊の冊子にしておこうと思っている。本格的な本にする前に、いわばパイロット版として試しに作ってみることにする。
それで、いつもお世話になっている京都の製本工房のHPで自動見積りを出してみた。目次・論文・あとがきなどで106ページ、20部作るとしたら、6600円。安い!一冊330円。最新の、少年ジャンプ(300円)よりはちょっと高いが、週刊文春(470円)よりはずっと安い。これなら全集だって作れるぞ(今の所予定はないけれど)。
それで、印刷用の版下作りを始めた。これが結構細かな作業になる。六つの原稿のレイアウト(文字数、行数など)が微妙に違うのだ。これまでは各論文ごとにレイアウトが違っても、HPにアップするだけなので、気にならなかったが、一冊にまとめるなら、それなりに統一感がいる。
行数はともかく、一行の文字数をそろえていくには、どうしたらいいのだろう。改行記号を一つずつ消して、詰めていくとしたら、……、どれだけ時間がかかることやら。
困った時のインターネット頼み、探してみると、「改行を一括削除」というのがあった。
《ホーム⇒置換⇒オプション⇒あいまい検索のチェックをはずして⇒特殊文字⇒段落記号⇒(「検索する文字列の欄」に段落記号を意味する記号が表示されるので)、「置換後の文字列の欄」を空欄にしたままで⇒すべて置換》
やった!改行が全部なくなった。ここから、原稿にあわせて、段落作りのために、一字下げをしていくと、出来上がる。
引用部分は、前後一行空けて、二字下げてと、決めて作業を始める。ここでも二字下げるのを一括でできるか、検索してみると、あった。インデントで「ぶら下げ」を使うのか。
なんか作業をするたびに賢くなっていくような気がする。
卓さんの論文の中に、フランスの教育学者O.ルブールの《人は、どのようにして技能を獲得するのであろうか?”為すこと”のなかで、である。》という言葉が引用されていて、これを実感する今日この頃。
でも、待てよ。50年前、合宿でカレーを作っていた時、りんごのむき方を教えてくれたのだが、「人間はりんごをむきながら、りんごをむくことのできる自分を作っているんだ」とか、言っていたな。基本的にはあれと同じか。
桜桃のはがきを貰った(8月14日)
猛暑の夏まっさかり、卓さんの娘さんから、きれいに染められたはがきが届いた。
濃淡のあるオレンジ色、このはがきにだけ現れた不思議なにじみ模様。
《先日父が育てた桜桃の枝葉で染め仕事をしました。
たき出している時からとても良い香りがして幸せな気持ちに包まれたようでした。
取り急ぎですが香りをお届けしたいと思いました。》
ビニールの袋から出してみると、ほのかな香りがした。これが桜桃なのか、と思った。
新しく3点申請(8月13日)
《「世代の自治」の再発見へ》を新しいページとしてアップした。この註の中で、卓さんが参加している討論(高校生活指導134号、1997年)と、彼が社会学者の庄司興吉氏に行なったインタビュー(同104号、1990年)の存在を発見。
あれだけ手こずった『日本の科学者』にもなんとかアクセスできたので、あわせて三点遠隔複写を申請して、三週間待つことになる。
国会図書館の複写係の人とはすっかり馴染みになった気分だ。大きな封筒の隅にえんぴつで記された「140円」(郵便料金)とかの文字にも、親しみをおぼえるようになってきた。(またお世話になります、よろしく)
読みにくいのは何故か(8月12日)
ある時期の卓さんは「世代の自治」という言葉をよく使っている。これは何なのか、わかったようで、よくわからないものの一つだった。最近届いた《「世代の自治」の再発見へ》(1998年)を読んで、少しわかった。こう書いている。
《…この〈世代の自治〉というターム(用語)自体にしてからが、「登校拒否・不登校問題」や「いじめ問題」をはじめとして、近年の子ども・青年にかかわる諸問題を世代間関係のもつれに絡む問題と捉え、あれこれと考え・語るなかでしだいに醸成してきた、筆者自前の造語です。》
造語だったのか。わかりにくかったはずや。
論文を復元している者の実感を話すと、卓さんの論文は決して読みやすくはない。
言葉づかいが古い! (「学匠」「留目」「道破する」)、
難しい!! (「特立テクスト指導」??)、
ひらがなで書けばいいのに、ルビつきで難しい漢字を!!! (「しかと」は「確と」、「ゆるがせにできない」は「忽せにできない」)
漢字の熟語に外国語音のルビ!!!! (「全体論的」に「ホーリスティック」、「学習」に「アブラーンドル」とルビ)
そして造語!!!!!
いかん、いかん、興奮すると血圧が上がる。
「世代の自治」という用語の由来や、彼が込めている思いがわかるので、この《「世代の自治」の再発見へ》という論文を、次にアップします。
教育学者の竹内常一氏、思想史家の関曠野氏、民俗学者の福田アジオ氏らの言葉が、「世代の自治」の裏にあったのです。
国会図書館に申請した17点はすべて到着(8月11日)
国会図書館から、「地域の現状と父母の取り組み─インナーシティに〈共同〉の甦りを」(1986年)、「生活指導実践は『学校』を問う』(1989年)、「日本語にモラルという言葉はあるか!」(1990年)、の三つが届いた。
「地域の現状と~~」は80年代初め、荒れていた荒川四中の学校立て直しに関するもので、鳥谷部美智子、能重真作両教諭への詳しい聴き取りを行なったもののようだ。
これで、遠隔複写を申請していた17点はすべて入手した。分かっていてアクセスできない論文は『日本の科学者』1点だけになった。(翻訳3点は今の所放置)。
大東文化大学のHPの教員紹介ページ(今はない)には論文・著作が84件掲載されていたはずで、つまり、あと40残っている。大学は新型コロナウィルス対策で、てんやわんやだろうから、まだ当分対応してもらえないだろうなあ、……。
一時編集にも関わっていた教育雑誌「ひと」にも何か書いていたはずと思い、あれこれ検索しているが、なかなかたどり着けない。太郎次郎社のHPから、「ひと」の特集一覧は手に入れたのだが、さてどこに卓さんは隠れているのやら。
フランス語なんて書いたことないのに……(8月10日)
《フランス語に「学習」という言葉は存在するか?》を新しいページとしてアップした。これで大学紀要に掲載した論文はコンプリートできた。
これを一番後に回したのは、大正解だった。他の論文の倍以上手間取った。この論文だけ引用文を斜体表記していて、OCRの読み取り率は2割程度、役に立たないどころか、足手まとい。それだけなら、斜体の引用部分だけ打ちなおせばいいのだが、フランス語がいくつも出てくる。フランス語はアクセント記号を表記するらしいが、それが全然わからない。インターネットで手引きを見つけて、プリントアウト。手もとに置いて、アルファベットをコツコツ打ち込んだ。
山田風太郎に『八犬伝』という作品がある。これは「南総里見八犬伝」の世界を描く「虚の世界」の章と、作者滝沢馬琴の世界を描く「実の世界」の章の組み合わせで出来ていて、滅法面白い。馬琴は、28年かけて完成させたのだが、最後の辺りは眼が見えなくなり(白内障)、字が書けなくなる。それを助けたのが、死んだ息子の嫁のお路だ。お路はカナは読めるが、漢字を知らない。盲目の老人が、文字の形を口で教えながら、口述筆記で『南総里見八犬伝』は完成した。このラストのエピソードを語る山田風太郎の筆致を知れば、彼が単なる娯楽作家などではないことがよくわかる。
《「八犬伝」の世界を、江戸草創期における「虚の江戸神話」とするならば、この怪異壮大な神話を生み出した盲目の老作家と女性アシスタントの超人的聖戦こそ、「実の江戸神話」ではあるまいか。/そして、お路自身も、この八ヵ月の苦闘で、江戸文学史に流星のような光芒をひいてその名を残すのである。》
小説が生みだすイメージが、我々を支えてくれることもある。卓さんの論文のフランス語を再現しながら、僕の頭に浮かんでいたのは、このお路の姿だった。
前橋からのたより(8月9日)
群馬県前橋市在住の山田(安井)ひろ子さんからメールをいただいた。
《私は藤本くん(高校時代の男子の呼び名がくんでした)と同じ演劇部に所属していましたので、演劇部に関する思い出や資料があれば協力できるのではと、同じ演劇部の友人に連絡しました。藤本くんが演出したアーサー・ミラーの「橋からの眺め」の台本やプログラム等が見つかることを期待していました。残念ながら私も友人たちの元にもありませんでした。50年の時の経過を実感した次第です。》(全文は「友人からのたより」のページに掲載)
編集工房の作業しながら、これを読んでくれる人なんているのだろうか、と思うことがある。 山田さんは、ほぼ毎日HPを見てくれて、論文も読んでくれているようで、こんな熱心な読者がいるのなら、よし、もう少し頑張ろうと思える。
大学紀要の残り一点《フランス語に「学習」という言葉は存在するか?》には、ほとほと手をやいている。OCRは斜体を読み取れないし、僕はフランス語がわからないし、……それでも9ページは終った、あと8ぺージ。
1985年のシンポジウムと2005年の映画『こんばんは』上映会(8月8日)
8月3日に国会図書館から届いた六編を順番に読んでいる。今は、《シンポジウム「「登校拒否」問題と学校教育》(日本教育学会)にとりかかっている所だ。
これは1985年4月3日、東京ふたき旅館で行われたもので、パネラーは、横湯園子、見城慶和、石渡延男、斎藤大仙、竹内常一、堀尾輝久の6人、卓さんは司会をしている。35歳の頃か、埼玉工大非常勤講師の肩書がある。
このシンポジウムは資料もあわせて2段組み50ページもある大部のもので、さすがに疲れるが、読んでいて、あれ?と思った。夜間中学から見た登校拒否という章で報告している見城さんって、あの映画『こんばんは』の見城先生と同一人物じゃないか。念のために確かめると、間違いない。この時、荒川区立第九中学校・夜間部に勤務して25年目になると語っている。
2005年に、藤本ゼミのメンバーが中心になって映画『こんばんは』(当時見城先生が嘱託教諭として勤務していた墨田区立文花中学校のドキュメンタリー)上映運動を行い、見城先生の講演会も実施しているのだが、この20年前に、卓さんと見城先生は、ふたき旅館で、パネラーと司会として出会っていたのだ。
卓さんはイギリスを再訪してたんだ(8月7日)
村田くんが、『制度改革下のイギリス 実践現場のリアル』(インタビュー記事、『現代と保育』2009年7月)の写真データを送ってくれた。卓さんが『あきらめない教師たちのリアル』を翻訳出版したあとに受けたインタビュー記事としては、『イギリス ロンドンの公立学校の底力』(『女性のひろば』2009年7月)があり、それはこのHPにもアップしたが、同時期にもう一つ別のものがあったのだ、ということがわかった。
この記事を読むと、2009年春にイギリスを再訪し、原著で存在感が大きいと思った保育士のローラさんに直接会って話を聞いたらしい。
《彼女に実際にお会いしてみて得心がいったのですが、ロンドンの裏町の学校を舞台にして、移民の人々同士の間で、時間を越えた──いわば”ご恩返し”(井上ひさし)の──助け合いが行われているのですね。つまり、ジョジョくんとその家族はアフリカ系の新来移民あるいは難民でしょう。そしてローラさんとその家族も、かつては英本国への新来者として、おそらくはさまざまな辛酸をなめてきたわけです。その苦労の中で他者の”恩義”を受けたこともあるでしょう。その移民の大先輩としてのカリビアンのローラさんが中心となって、他のマイノリティ・スタッフたちの力をまとめつつ、いま、最近やって来たばかりの移民の子どもたちの育ちを、ほとんど我がことのように支えようとしているのです。彼女のアケスケとも言える隔意(へだて)のなさは、そうした関係の上でのことであるように感じます。》
ここで言っている”ご恩返し”(井上ひさし)というのは、正しくは「御恩送り」のことだろう。僕が去年書いた「井上ひさしの劇世界─全芝居を俯瞰する」から、関連箇所を引用して、ちょっと脇からアシストする。
《「黙阿弥オペラ」では「二八そば」に集まる者たちが、捨て子のおせんちゃんが大きくなるまでの費用を「株」という形で出しあおうという話になります。「おせん株」の仲間の物語とも言えます。そしておせんちゃんは株仲間のお金で綿入れを買ってもらった雪の朝、古着屋の男の子が「お米が買えるね」と言うはずんだ声を聴く。おせんちゃんはこの時「御恩送り」になるんだわと思うのです。そしておせんちゃんは柳橋の芸者になり、フランスの万国博覧会へ手伝いに行き、オペラをやることになるという風に話は展開していきます。
このように、井上ひさしの劇には捨て子とそれを助ける人々の善意のモチーフが繰り返し出て来ます。言うまでもなく、カトリックの孤児院で育った自身の体験が反映されているわけです。そして「御恩送り」という考えが生まれて来ています。》
『黙阿弥オペラ』初演は1995年(こまつ座)。卓さんは、井上ひさしのこまつ座公演には、よく行っていたそうだから、きっと観ていたことだろう。
残っていた「ゼミ紹介」発見(8月6日)
昨日の夜、TVerでテレビドラマ『私の家政夫ナギサさん』を観ていて、多部未華子の着ているTシャツのロゴに眼が行った。キリル文字で「Я чайка (ヤー チャイカ)」と書いてある。これは「私はカモメ」という有名なことばだ。旧ソ連で最初の女性宇宙飛行士テレシコワさんが宇宙船から発した言葉で、1963年当時、小学生の僕も耳にした流行語。チェーホフの『カモメ』にも同じ台詞がある、とか。卓さんの論文を再現していて、ロシア語の「陶冶」と「訓育」にてこずったので、これに反応したのだろう。
大東文化大学のHPを散策していて、「授業ゼミ紹介」の中に、藤本ゼミが残っているのを発見。2013年4月26日の日付がある。その中に《本ゼミでは新しい公教育の在り方を探っていきます。たとえば、さまざまな個性的取り組みを行っている学校や保育園に伺い、その現状を実地調査する。そこでは、これまで頭で考えていた教育現場とは異なる現実を知ることができるでしょう。》という一節が出てくる。具体的には、きのくに子どもの村学園や木更津社会館保育園などへ行っていたわけだ。詳しくは「藤本ゼミの歩み」のページを見てください。ゼミの写真もあるよ。
ついでに書いておくと、《”懐かしい言葉”になり逝くか?》(2017年)の註の中に次のような記述があった。
《ちなみに、ここ十五年ほど、私の本学ゼミでは『きのくに子どもの村学園』(堀真一郎学園長)を学生たちの学習フィールドの一つに指定してきているが、同学園の各校では、縦に全年齢を貫く”プロジェクト”を生徒たちの基本的所属グループとして運営されてきている。》
ということは、子どもの村学園とのつきあいは、2002年頃からということになる。
「並行シェーマ」の一部解説にもなる、貴重な資料を入手(8月5日)
今朝、村田くんから「実家に行って何か使えそうな資料は残っていないかと探している途中です。おそらく講義の最後に配られたプリントが見つかりましたので、送信いたします。ご活用ください。」と連絡があり、「特別活動の研究2009年度 補足メモ」という資料が送られてきた。
これがびっくりするほど、重要な内容だった。
①人格性を育てるのは「自らの経験」か「他者からの感化作用」か?
②「生活指導」の定義について
③「レンジャー・イメージ」の〈教師─生徒〉関係とは?
④「生活指導」と「市民自治訓練」
という項目で、卓さんの教育論の鍵になる言葉が、簡潔にまとめられている。
《〈教育」〈学習〉の並行シェーマ》のページに追加の形でアップしました。この並行シェーマについては、いずれ解説を付けなければと思っていたが、ちょうどいいので、これで解説の一部を代行してもらおう。
たぶん今、「短い夏休み」期間なのだろうと思います。卒業生のみなさん、実家に帰る機会があったら、何か資料が残っていないか、ちょっと探してみてください。
「母屋」の写真が77枚消えた(8月4日)
飯島さんからの提供したもらった『こんばんは』上映会のメンバーの感想や、疑問点に対する回答は、《編集長とゲストが読む》のページの最後の所にアップしました。
昨日サーバーにアップしようとしたら、転送できない。サーバーの容量が不足しているようなのだ。基本の容量では足りないので、最初から追加はしてあるのだが、それでも50MBしかない。この編集工房は、元々の高山智津子・文学と絵本研究所のHPの上に、強引に建て増ししたようなものだから、大丈夫かな、と思ってはいた。母屋の研究所HPも結構ページ数が多く、写真も一杯載せていたのだ。
どうしようかと調べて、サーバーにある「未使用ファイル」を削除することにした。できるだけ古くて大きなファイルからせっせと削除していったのだが、その結果大変なことになってしまった。念のため見回りにいくと、母屋の方の写真が77枚消失していた。「未使用ファイル」って書いてあるから削除したのに、ページに載せている写真を消去するとは、なにごとや。
幸い、文章の方には影響はない。仕方ない、一つずつ復元するしかないか。僕のデジカメからの分は簡単だが、高山先生の写真はあらためてスキャンしてデータ化しなければならない。どこかにデータはなかったかとパソコンのあちこちを探したが、みつからない。おぼえてないなあ、あの時どうしたかなあ。
プロバイダーで確かめたら、今現在のディスクの使用量は34MBなので、結果的には16MB空きができたことになる。とりあえず、母屋の方には「いつか必ず迎えに来るからな」と言い聞かせて、そっとしておくことにする。
というわけで、とりあえずあと16MB分はこの編集工房で作業を続けられそうだ。めでたし、めでたし。(いや後始末が大変!!)
「いい歳したオジさんとサシ飲みというのがすごく新鮮だった」(8月3日)
少し前に、《編集長とゲストが読む─『学び欲がいっぱい『こんばんは』報告集2005》というページを作り、アップしたが、元実行委員長の飯嶋さん(2007年卒)がメンバーと連絡をとりあって、疑問点に対する回答や、メンバーの感想をまとめて送ってくれた。山下くんのノートの写真データも添付されていて、それをみれば、フィルム上映した場合の費用と、DVD上映した場合の費用の違いも、ちゃんと検討されていることがわかった。
これら資料の中で、一番印象的だったのは、山下楽くんの感想の一節だ。
《ゼミが始まってすぐ、一人ひとり先生と呑んだ。いい歳したオジさんとサシ飲みというのがすごく新鮮だった。でも最後は先生相手に語っていた。/教員になるためのコアを引き出してくれた気がする。》
卓さん、そんなことしてたのか。僕には真似のできないことだ。(僕はアルコール分解酵素がないので、酒は飲めないし、教えてたのは高校生だし。)
あれはいつのことだったか。斎藤先生(卓さんの卒論指導担当教官で、兵庫県民間教育研究協議会の会長)と三人で、神戸の元町で赤ちょうちんの飲み屋に入ったことがある。斎藤先生はどて焼きを注文して、これが好きなんですよ言いながら、鍋の内側の味噌を崩しながら食べるのだと教えてくれた。僕は、へぇ~、世の中にはこんな食べ物があるのか、と思った。
いかんいかん、懐旧の情にひたっている場合じゃない。
今日は、午前中、大学紀要の残り一点《フランス語に「学習」という言葉は存在するか?》をOCRに読み取らせる作業をしていたのだが、引用文に斜体を使っているので、そこが全然読み取れず、難儀して、一時中断。
次に、飯島さんのメールをプリントアウトして、これをどう紹介するか、考えていると、表に誰か来た。出てみると、郵便屋さんだった。「ポストに入らないので」と手渡しで大きな封筒の郵便物を渡してもらった。国会図書館からの論文コピーが、一度に六つも届いた!
8月に入り、急に忙しくなってきた。
「これは自信作なんですよ」と彼は言った(8月2日)
昨日、村田くん(2011年卒)から貰ったメールには、いくつも大事な情報があった。『あきらめない教師たちのリアル』を教材にしたりもしている。全文は「卒業生の声」に掲載してあります。
その中で特に印象的なのは、次の一節だ。
《……「<教育>と<学習>の並行シェーマ」について、確か藤本先生とちょっとお話しする機会があったのですが、そのときにたばこを口の端に抱え、ライターでたばこに火をつけようとしながら「これは自信作なんですよ。」と、微笑みながら言っていたのを思い出しました。》
そうか、やっぱり!! と思った。あの「並行シェーマ」(HPに載せているのは2007年版)は彼のオリジナルで、それなりに自負があったんだ。あの図に藤本教育基礎論の核心部分があると、僕が見当をつけたのは、間違いではなかった。
大学紀要六編(2008~2019)は、軽重はあるが、すべて「並行シェーマ」に関連づけて読むことができる。最後に残っている《フランス語に「学習」という言葉は存在するか?》を復元してアップできたら、本格的に「並行シェーマ」について検討することになるだろう。
その下準備として、どの論文が「図」のどこを論じているかがわかるように、色鉛筆で六色にマーキングをして、書斎の窓に貼ったら、なんとなく一仕事終ったような気になった。
論文の調子が微妙に違う(8月1日)
大学紀要全六編の五つ目として《”懐かしい言葉”となり逝くか?──教育学〈術語〉としての「生活指導」の向後について──》(2017年)をアップした。
これは元の原稿が二段組になっているので、OCRがうまく読み取ってくれるか、案じていたが、それは大丈夫だった。ただ、この二段組みを再現するのはちょっと自信がなかったので、一段でHPにアップした。そのために、恐ろしく縦に長いページになった。
この原稿は、これまでの卓さんの原稿に比べると、微妙に調子が違う。例えば本文中の竹内常一氏の引用文は「なつかしいことば」とあるのに、タイトルでは”懐かしい言葉”、章題では《2「なつかしい言葉」へのエレジー》となっていて、この表記のブレは、卓さんらしくない。
それだけではない。この論文は、これまでになく、自分のことを語っているのだ。例えば、大東文化大学での科目設定の経緯とか、学生が「生活指導論」をどう呼んでいたかとか、竹内さんとの関係とか、註ではゼミの取り組みについて記している。
これまでの論文では、竹内常一あるいは竹内と呼んでいたのが(それは互いに対等な学者として論じているということだろう)、この論文では「竹内さん」なのだ。
《いくつかの事情があって、私は、ここ暫く(いや、すでに10年を超えて、と言うべきか)、いわゆる「生活指導運動」の表通りの実践や研究の動きから距離をおいてきた。竹内さんの著作の熱心な読者であることも、ほぼ中断して時が経つ。今回の読書も、ある意味、求められての受動的なものだった。しかし、この末尾の一文は、私の意識を10年を超える過去に立ち戻らせた…。》
この末尾の一文というのは、竹内常一氏の『ケアと自治/学びと参加 新・生活指導の理論』の中の《……「生活指導」ということばはなつかしいことばとして残るだけでいいと私は思っている。》をさしている。卓さんは、このことばを《”生活指導”という用語への先取りされた”エレジー(挽歌)”》と評している。
つまり、この論文は、これまでの論文の学者らしい端正さ、厳格さが後景に退き、竹内常一氏に対する思いが前景に出て来ていて、いつもと調子が違うのだ。
イギリスみやげ(7月31日)
大学紀要全六編の四つ目として《”パストラル・ケア”、その叢生と褪色──英国公教育に”生活指導”の似姿を垣間見る》(2009年)をアップした。
卓さんは2006年4月から一年間、イギリスで暮らしている。どうやら、英国独自の教育概念・システムのパストラル・ケアというものの実態を調べに行ったようだ。パストラル・ケアについては、この論文に詳述してある。
註の中には、こんなことも書いてあった。
《筆者は2006年4月から2007年3月までロンドン大学教育研究院にvisiting fellowとして所属し、その間、公立小学校3校、公立中等学校2校、教会立中等学校1校、私立全寮制学校1校、公立特別支援学校1校を訪問調査する機会をもった。》
この訪問調査した学校の中に、卓さんがロンドンの本屋で見つけ、帰国後に翻訳出版した『あきらめない教師たちのリアル』のイーディス・ネヴィル小学校もあったわけだ。
まあ、イギリスで遊んでたわけではなさそうだ。
右の絵は、卓さんがイギリス土産としてくれたものだ。Charles Rennie Mackintosh(1868-1928)の作。ずっと僕の家の二階のトイレに飾っている。(実物にはフレームがある)
「タイニイアリス」が出てきた!(7月30日)
今年の四月から、動画配信サービスを利用し始めた。近所のレンタルビデオ店が二軒つぶれたことと、新型コロナウィルスの感染拡大の影響で映画館が閉まっていたことが、大きなきっかけだった。
七月は、大島渚監督の『少年』と、ブライアン・デ・パルマ監督の『スカーフェイス』(アル・パチーノ主演)を観た。どちらも観たいと長年思っていた作品で、映画の出来も大満足。次は何を観ようかと、あちこち探していたら、行定勲監督の新作『劇場』(原作・又吉直樹)があった。新聞でも紹介されていたなあ、よし、これを観ようと思って、見始めて、びっくり。スクリーンに「タイニイアリス」が映ったのだ!
7月26日にアップしたばかりの卓さんのエッセイ「奴に逢ったら」に、この新宿の小劇場の名前が出ていた!復刻縮刷版のコピーを虫眼鏡で苦労しながら読んだから、この名前をはっきりおぼえていた。たぶん、この作業をしていなかったら、映画で出て来ても、何も思わずにいたことだろう。
コインシデェンス(偶然の一致)というのはあるもんだ。
残り三つの紀要論文もアップするぞ!!(7月29日)
Webcat Plusで見つけた『学校の再生をめざして1 学校を問う』(1992年、東京大学出版会)を、ネットで注文して、手に入れた。登校拒否をめぐる報告(横湯園子)に対する討議(汐見稔幸、若狭蔵之助、佐伯胖、宮澤康人、藤本卓)に参加して、発言していた。この本、家にあったような気がして、裏の別荘まで行って探してみたが、見つからなかった。最近はこういうことがよくある。あったはずの本がなかったり、ないと思った本を買うとあとで出てきて同じ本が二冊なんてことになったりして……。
大学の紀要に掲載した六つの論文のうち、三つまでアップしたのだから、この勢いで残りもアップするか、と作業を始めた。実は、残りの三つは手強い。内容ではない、その表記だ。英語の単語がやたら出てきたり、フランス語の単語が出てきたり、二段組みになっていたり、OCRがうまく読み取ってくれるか、自信がない。それで、今日は英語に挑戦。まずまずかな。でも、うちのOCR、英語が少し苦手みたいで、単語のスペルチェックが欠かせない。これを手で打ちこむとなると、……。まあ寛大な心で、OCRの労をねぎらいながら、八代亜紀をバックグラウンド・ミュージックにして、作業をしている。
「最後の論文(たぶん)」をアップした(7月28日)
卓さんの著作・論文が84件以上ある、とわかったが、それでもたぶんこれが最後のまとまった論文だろうというのを、昨日の夜、アップした。
《「憶える」と「覚える」の区分について──”オボエル”という語の漢字交じり表記に関するメモランダム》という論文で、2019年9月発行の大東文化大学・教育学研究紀要(第10号)に掲載されている。亡くなる半年前のものだ。
柳田國男をとっかかりにして、戦後教育基礎論を再検討し、新しいシェーマ(図式)を構築するのが、ここ10年ほどの卓さんの教育哲学上の課題だったと思われる。
具体的には、先にアップした《悦ばしき”学び”か? 柳田國男による「マナブ」と「オボエル」の対照のトポスについて》から、《〈教え〉と〈育て〉のメタ・カリキュラムに向けて──戦後教育基礎論を”柳田國男”で賦活する》へと続くラインが研究の本筋ということになるだろう。
昨日アップした最後の論文は、「その本筋の議論の直球的続篇ではない」、「とりあえずのところ全くのトリヴィア(三叉路情報=雑報)記事」と本人もことわっているように、理論的な大きな展開があるわけではなくて、要するにメモなのだ。材料は「天声人語」、柳家小三治、飯嶋和一、「窓ぎわのトットちゃん」で、卓さんの書いたものとしては比較的読みやすい。
それでも『窓ぎわのトットちゃん』に触れながら、次のように書いている所は、卓さんの一番いい所が出ているように思う。
《「よろこび」もまた、自ら”体験”し、その”経験”が”習慣”となり、果ては”性格”をも形作るという、一種の”生き延びるための技”なのである。そうした”技(アート/スキル)”の獲得への願いをこそ、ここでの「覚える」という言葉(表記)は言い当てているのだ。》
「覚える」という言葉(表記)に対する、卓さんの深い思い入れがまっすぐに伝わってくる。
シェーマはこうして転送すればいい!!(7月27日)
「〈教え〉と〈育て〉のメタ・カリキュラムに向けて」のシェーマが上手く転送できなくて困っていたが、画期的な方法で解決できた。
まずシェーマ(図式)を、文章の一部としてではなく、写真として転送してみたらどうか、と考えた。そこでプリントのシェーマ部分をアップで撮ってみたが、僕の安いデジカメでは、くっきりとは写らない。どこかぼけてるなあ。そこで、次にコピー機でスキャンすればどうなる?と考えた。最初「文章をスキャン」モードを使ったら、OCRが作動してシェーマは変な具合になり、ダメ、ダメ。ならばと、「写真をスキャン」モードを試してみたら、なかなかいい。必要部分だけ、トリミングして、ホームページビルダーのページに貼りつけて、転送。出来ばえは、ページで確かめてください。ふん、やればできる。
このルートがダメだったら、こっちの道から登ればいい。なあに、こっちは素人だ。ありあわせの道具とありあわせの知識で、試行錯誤するのには、慣れてるさ。
復刻縮刷版はコピーで読むな(7月26日)
昨日アップした「奴に逢ったら」は、復元するのが大変だった。復刻縮刷版のコピーだから、ただでさえ文字が小さい。しかも何冊かを合本してあるので、真中がうまくコピーできなくて、小さい文字がさらに小さく曲がっている。拡大コピーを作って読み取ろうとしたが、インクで文字がにじんでいる。拡大鏡(探偵の持っているような大きな虫眼鏡)で読んでも、ぎりぎり読めるか読めないかだ。「摑まれたなら」の「摑」はもう黒い塊で、勘で読んでいるようなものだ。「繋がって」もあやしい。どうしても読めないものは、○、●、◎で示しておいた。いわゆる伏せ字ではない。政治的圧力がかかったわけでも、警察の取り締まりを恐れたわけでもない。単に読めないだけなのだ。老眼で近視で乱視、しかも左眼は黄斑上膜のおそれあり。もう復刻縮刷版は勘弁してほしい。
大阪市立図書館にも同じものがあるから(これも復刻縮刷版だけど)、そこで○、●、◎を確かめるか。虫眼鏡とマスクを忘れないようにしないと(自戒)。
ブレヒトと山田風太郎(7月25日)
6月28日に申請した遠隔複写3点がやっと届いた。その中で、「奴に逢ったら」という一番短くて、異色なものを復元して、新しいページとしてアップした。
これは「新日本文学」がブレヒトの特集を組んだ号に掲載されたエッセイだ。この中で卓さんは「生活綴り方的教育方法」の〈概念くだき〉とブレヒトの〈異化〉を重ねあわせて考えようとしている。1986年だから、35歳の頃の文章で、文中に出てくる「世仁下乃一座」の話は聞いたことがある。「ヨニゲノイチザ」という劇団があってね、……という声が耳に残っている。
東京に行った時、時間があるので何か観るべき演劇はないかと卓さんに訊ねたら、東京演劇アンサンブルの「ブレヒトの芝居小屋」というのがあると薦めてくれた。それで、広渡常敏演出の『幻燈辻馬車』を観に行った。原作は山田風太郎の明治物。明治維新、自由民権運動の中での変節、裏切り、など政治権力の問題を扱いながら、幽霊が宙吊りで登場したり、のちの明治一代女が出てきたり、老人たちが爆裂弾を届けるために馬車を走らせるラストまで、一気にみせてくれて、めっぽう面白かった(調べてみたら、福田善之脚本、1992年上演)。のちにNHKが劇場中継を流したのを録画しておいたのだが、必要があって、数年前に観なおしてみたが、全然古びてなかった。
シェーマがうまく転送できない(7月24日)
卓さんの「〈教え〉と〈育て〉のメタ・カリキュラムに向けて──戦後教育基礎論を”柳田國男”で賦活する」(2010年)を、新しいページとして作った。これは「悦ばしき”学び”か?」に直接、接続する重要な論文だ。これによって並行シェーマはほぼ輪郭を現したといえるだろう。
やったぜ、と思って転送すると、なんと図式がうまく移っていない。ワードで作って、プリントアウトしたらちゃんとできているのに、HPへの転送がうまくいかない。ううん、「めでたさも中くらいなり」やなあ。
Webcat Plusで二つ見つけた(7月22日)
卓さんの著作・論文が84件以上あることがわかったが、どうすればそれにアクセスできるか。これまではCiNiiや国会図書館の検索を使っていたが、他に何があるか。昔使っていたWebcat Plusを思い出して検索をかけてみた。2つ新しいのを見つけた。『発達と教育』(ゲ・エス・コスチューク著、1982年、明治図書、海外名著選106)で論文を翻訳している。もう一つは『学校の再生をめざして1 学校を問う』(1992年、東大出版)、これはどうも討論会に参加しているのではないかな。2つ新しいのを見つけても、まだまだ、どこかに論文が埋まっているはず。
明日から娘一家四人が横浜からやってくるので、ちょっと編集日誌はお休みします。
ロシア語の「陶冶」と「訓育」(7月21日)
「文字の間隔が広い…」のを何とかしようと、ネットでさがしているうちに、「東京大学文学部・大学院人文社会系スラブ語スラブ文学室」というサイトを見つけた。「ロシア語入力の設定(Windows7の場合」というページを読むと、キリル文字を打ち込む方法のあることがわかった。「キーボードまたは入力方法の変更」なんてのがあったのか。
それで即実行、キーボードがローマ字仕様からキリル文字仕様に変更できた。でも、当然のことながら、僕のパソコンのキーボードの表面にキリル文字は書いてない。「И」とか「Ф」とか「Ч」はどこにある?それだけでなく、「N み」のキーを打つと「T」が出てくる。
仕方なく新しいパソコン(Windows10)でスラブ文学室のページを見て、キーボードがどう変化しているかを確かめながら、古いパソコン(Windows7)で実際に打ち込んでいく、というややこしい作業をして、「陶冶」と「訓育」にあたるロシア語の単語を作った。
二つだけだよなあ、もう出てこんよな。祈るような気持ちで最後まで見てみたが、ロシア語はこの二つだけだった。註にフランス語があったが、とりあえず今は見なかったことにする。
記号の次はキリル文字か(7月20日)
国会図書館から「共同の世界に自治と集団の新生をみる──〈公〉でも〈私〉でもない〈共〉と〈協〉について──」(『高校生活指導』第104号、1990年)が届いた。註の中に知らなかった原稿の存在を発見。『インナーシティに〈共同〉の甦りを』(『生活指導』1986年1月号)と 「生活指導実践は『学校』を問う」(『高校生活指導』第99号、1989年)の2つだ。これも国会図書館に遠隔複写を申請。それにしても、著作・論文が84件以上はあるとわかったので、先はまだまだ遠い。
昨日は、記号の作り方(二股や砂時計)がわかって、図式が書けるようになった。できると楽しいので、先の方に出てくる図式を3つも4つも作った。
これで一安心と思っていたら、今度は文中にロシア語の単語が出てきた。昔、大学の第二外国語でやったから、なんとか読めるし、手でなら書ける。でもパソコンでキリル文字を打つなんて、したことがない。うちのパソコンはロシア語キーボードではない!とりあえず、ネットで検索。ローマ字をキリル文字に変換できるページを発見。このページの枠の中にローマ字を打ち込んで変換ボタンをクリックすると、キリル文字に変換してくれる。これをコピーして、今作っている原稿に張りつけると、なんとか、ロシア語の単語が現れた。だけど、文字の間隔が広い、……。
猫も深夜まで勉強していたのか(7月19日)
今日は新しいページを三つ作った。
卓さんの息子さんが、送ってくれたので、「家族の部屋から」と「藤本卓年譜」のページができた。
猫を可愛がっていたとは知らなかった。「父は、毎日深夜まで研究用の本を読んでおり、父が猫と並んで坐りながら本とにらめっこしている姿が自宅の日常風景でした。」とあった。猫も勉強に付き合っていたんだ。
著作・論文が84件もあったこともわかった。編集工房のつかんでいる倍ほどあるということだ!!
ちょっと軽く読めるものも入れておこうと思って、「イギリス公立学校の底力」というインタビュー記事を新しいページとしてアップした。
「藤本ゼミの歩み」というページを作った(7月18日)
予告通り、「藤本ゼミの歩み」という新しいページをアップした。大澤くんから送ってもらった資料もさっそく使わせてもらった。でもまだ空白部分の方が多いので、どんどん資料、情報をお寄せください。
「〈教え〉と〈育て〉のメタ・カリキュラムに向けて--戦後教育基礎論を"柳田國男"で賦活する」という論文は「悦ばしき”学び”か? 柳田國男における「マナブ」と「オボエル」の対照のトポスについて」に続く重要な論文なので、次にアップしようと思っている。
ところが、図式が出てきて、これを再現するのが難しい。二股記号とか、砂時計のような記号とか、なんとか近づいてきたのだが、文字と組み合わせるのが、まだできない。卓さんはどうやってここをクリアしたのかな。たぶんここだけ若い人に教えてもらったんだろうな。
ゼミの活動の歩みが少し見えてきた(7月17日)
大澤明浩くん(2011年卒)から、『里山っ子たち』上映会のパンフレットと報告集を送ってもらった。この上映会は2010年5月7日に行われ、150人あまりの参加があったようだ。活動報告もあるので、改めてよく読んでみる予定。
昨日の夜、中嶋あすかさん(2010年卒)からメールが届いた。「きのくに子どもの村学園」の見学に行ったメンバーの一人で、ゼミ長さんだ。卓さんがイギリスから帰ってきた年にたぶん2年生だったはず。帰国後の卓さんの関心が、フリースクールにあったのだろうと推測される。これまで「きのくに子どもの村学園」にいつ頃行ったのかはっきりしなかったのだが、どうやら、「こんばんは」⇒イギリス⇒「きのくに子どもの村学園」⇒「里山っ子たち」⇒「世界の果ての通学路」と続くらしいと見えてきた。(間にまだ僕の知らない活動があったかもしれないが)
それで「きのくに子どもの村学園」をネットで調べていたら、系列校として「南アルプス子どもの村小学校・中学校」というのがあるのがわかった。つまり、最後のゼミ合宿(アルバムのページ参照)は、ここの見学に行ったのではないか、と推理できる。現役生の証言を待つ。
まだ資料は少ないが、「藤本ゼミの歩み」という新しいページを作ろう。ここにいろんな証言や資料を集めていけば、きっと何年間にわたる「藤本ゼミ」の様子、いわば「藤本ゼミ」の歴史がわかってくるはずだ(期待大)。
1993年の論文もアップ(7月16日)
ヤフオクで落札した本に載っていた論文を、新しいページにアップした。1993年の論文だから、昨日アップした2008年の論文とは、言葉づかいがだいぶ違う。内容も、「登校拒否・不登校」をめぐってのもので、当時の現場の声も引用してあって、趣きが違う。
OCRはよく働いてくれるが、細かな所の校正が、ちょっと多くて、修正作業で疲れる。「一日、一作業」にするのなら、もっと楽なのがいいなぁ。明日は編集工房辞典の追加ぐらいにしておこう。
卓さんの論文が読めるページ(7月15日)
「悦ばしき”学び”か? 柳田國男における「マナブ」と「オボエル」の対照のトポスについて」の全文を掲載する新しいページを作った。
OCRで読み取らせて修正をするという作業は、一時ストップしていた。大学が「遺稿集」を作ってくれるのなら、僕が印刷用データを作ることもないか、と思ったからだ。それよりも、各論文の解題・解説を作ろうと思って、その作業を始めたが、これが難しい。論文を要約するだけで、時間がかかる。これなら卓さんの論文そのものを掲載した方が早いのではないか、と思い、急遽方針転換、途中まで作っていたのを、強引に完成させてアップした。
実は、途中でストップしていた理由の一つに、細かな記号がうまく使えない、というのもあった。註釈の番号(小さくして上部に配置)、とか長い横棒「──」とか自分が普段使わないものはよくわからなかった。しかし「要約の困難さ」を思い、解説作るより全文掲載の方が早い!と、いろいろネットで調べ、あちこちを触っているうちにできた。できれば、簡単なことだった。
この「悦ばしき”学び”か?」は2008年の大学紀要に掲載されたもので、「〈教育〉〈学習〉の並行シェーマ」への出発点に位置する論文だ。部分的には「授業ノート」にも出ていたので、卒業生にも馴染みがあるはずだ。
「並行シェーマ」の画像、転送成功!(7月14日)
やった。できた。「〈教育〉と〈学習〉の並行シェーマ」の画像を圧縮して、転送に成功。試行錯誤を繰り返した。これまでアップしてきた写真がどのくらいのサイズかを調べて、3MBを300KBぐらいにした。HPで見るとちょっと大きいが、細かな文字が読めないといけないので、ここで手をうった。達成感も300パーセント。ちょっと自慢したい。是非このページを見てください。隣りの人にも、こんな画像がアップされてるよ、と教えてね。
卓さんの大学一年時の友人池田さんからメールを貰った。1970年当時の情勢や大学の雰囲気がよくわかった。この年、僕は浪人生活を送りながら、大江健三郎を読んでいた。1971年、卓さんと出会ったのは、「国立大学授業料値上げ反対」のクラス討議の中でだった。
お宝はゼミ室にあり(7月13日)
村田くんに2010年の「里山っ子たち」の上映会について問い合わせたら、返事が返ってきた。やっぱりフィルム上映で、10万円はかかったようだ。当時作ったパンフレットもゼミ室に置いてきたとか。2005年のメンバーも「こんばんは」の資料はゼミ室に残してきたと言っていた。
ゼミ室をさがせば、ゼミの取り組みに関する「お宝」がいくつも発掘されそうだ。録音、録画テープもあるかも。廃棄されたら大変と思って、真美子さんに連絡すると、研究室は自分が片付けることになっているので大丈夫でしょう、とのこと。でも、ゼミ室と研究室は同じものなのかな。そのへんがよくわからない。自分が学生の頃、教官の研究室と学生のたまり場とは別だったけど。ともあれ、ゼミ室の発掘、発掘!!
村田くんからノートの画像24枚が(7月12日)
昨日は、村田隆くん(2011年卒)が以前に送ってくれた「〈教育〉と〈学習〉の並行シェーマ」の画像を新しいページに転送しようとして、どうしてもできずに困った。いろいろ調べて、HPのサーバーの容量を越えてしまうからだとわかった。画像は3MBあった。これを圧縮して小さくするにはどうすればよいか。今朝もフリーソフトをダウンロードしたりして、いろいろやってみたが、まだ解決できていない。
困ったなと思っていたら、その村田くんからメールが届いた。2008年の「生活指導論」のノートも見つかったのでと、画像を24枚送ってくれた。とりあえず全部プリントアウトして、読んでいくと、、中島みゆきの「命の別名」が出てきた。ほらやっぱり、と思った。「編集工房辞典」のナ行を見てください。僕はちゃんと、中島みゆきの項目で、この歌について書いていたでしょう。ノートには英語の歌詞もついている。言っておくけど、卓さんが英訳したのではない。中島みゆきのCDの歌詞カードにちゃんと英訳がついている。僕だったら、CDラジカセを教室に持って行って、授業で「命の別名」を流すけど、卓さんはそれはやらなかっただろうな、と思う。
村田くんのメールには、卓さんの「毎回の出席はとらない」というエピソードもあって、いかにも彼らしいと思った。全文は「卒業生の声」のページにアップしました。
『こんばんは》実行委員長からのメール(7月11日)
「編集長とゲストが読む」を読んで、飯嶋たみさんがメールをくれた。
《今でも6月の蒸し暑い時期になると所沢に行ったあの日を思い出します。
上映時間が迫る中、ゼミ長の私はとても焦っていました。それぞれ家にいる家族に調べてもらったり、私も実家の母に電話をしたり、必死でした。確か最後はタクシーに乗ったと思いますが、運転手さんもなかなか場所が分からず、着いた時にはすでに上映が始まっていました。しかし、せっかく来たのだからと上映終了後に私たちの為に見逃してしまった冒頭15分ほどでしょうか、再度上映してくれたのです。》
全文は「卒業生の声」にアップしました。卓さんは彼女たちに参考にと、、かなり前の先輩の「自主活動の報告書」を渡したらしい。これは一体何の活動報告書だったのか、報告書をさがせ!!
グーグル・スカラーを使ってみたら、11件新しい収穫があった。参考文献として卓さんの論文があげられていて、その中に知らなかったものがいくつもあったのだ。そこで、国会図書館に6点遠隔複写を申請した。
堀尾輝久さんの《「発達と教育」に関する課題研究及び研究委員会のあゆみ》をダウンロードできた。これはなかなか国会図書館からも入手できなかったものだ。これを読めば、80年代半ばに教育学会でどんな発表をしていたかがわかり、資料の位置関係がつかめた。
それだけではない。「芸術概念の再審から芸術教育理論の転換へ」という論文の参考資料として卓さんの「〈制作〉と〈実践〉-その二」があげられていて、何故?と不思議に思った。著者は三重大学の山田康彦氏、なんか見覚えがあると思って「編集工房なんでもメモ」ノートをめくってみると、ちゃんと書いてあった。東松山に行った時、真美子さんから、この人は大学院時代のお友達なんですといって、弔文を見せてもらっていたのだ。大学院時代、山田氏と二人で古代ギリシア哲学について語り合ったんだろうな。
2009年の「特別活動の研究」の授業計画(7月10日)
今日は村田隆くん(2011年卒)が送ってくれた、「特別活動の研究」のプリントと授業ノートを読んだ。
2009年の授業計画プリントの前書きに、こんな文言があった。
《公教育学校の教師はインストラクターであるばかりでなく、エデュケーターでもあることが求められるのだが、人が他人の人格性を育てることはどのようにして可能となり、またどこまでが許されるのか。》
卓さんの問題意識が鮮明に出ている所だ。
授業計画(シラバス)は新しいページを作ってアップした。
授業のノートを、どういう形で紹介すればいいか、思案中。このノートの中に、「〈教育〉と〈学習〉の並行シェーマ」についての言及もあれば、昨日触れた、「既知と未知」の問題」も出てくる。そして民俗学の領域から、子供組、若者組、中老組、年寄組が取り出されている。卓さんと話し合ったこともあり、個人的にはここが一番興味深かった。
《子供組主催のお祭りは子供達が大人のために(村のために)役割を果たすお祭りである。⇒今の社会は子供がやらなければならない役目が残っているか》
《今の教育論は「力をつけたら大人とみとめる」というスタイル⇒大人になるのがおくれる。昔の教育論は「力がなくても大人とみとめる」というスタイル⇒大人になるのがはやまる。》などの文言がノートにはある。。
2017年の「生活指導論」のシラバス(7月9日)
卓さんが大学でどんな授業をしていたか、東松山で発見した「2017年の生活指導論のシラバス」がヒントになる。それで新しいページを作ってアップした。授業の課題のための参考図書の一覧もある。シラバスをもっと集めなければ。担当教科で言えば、基礎演習とか、特別活動の研究とかの、シラバスをさがせ!!
わかってきたものが増えるにつれて、わからないものが増える。これは卓さんのよく言っていた、「既知と未知」の問題だ。
この編集工房を立ち上げた時には、卓さんが何の科目を担当しているのかも、知らなかったのに、少しずつわかってくると、だんだん調べるべきことが増えていく。「並行シェーマ」って?
2019年4月5日付の手紙と一緒に送られてきた「教育学科・オリエンテーション合宿・講演」のレジメ(2015年4月11日)の冒頭の所にもこんな文言が出てくる。
《大学では勉強すると「わかっていた(つもりの)ことまで判らなくなる??》
《そもそも「?」は〈既知〉と〈未知〉の境界線上に発生する! ということはつまり……〈既知〉が増えれば「?」が増える!》
この話は、大学時代に卓さんから聞いて、とても新鮮で、深く納得した。自分が最初に教壇に立った時にも、生徒にこれを話した(まあ受け売りですね)。しかし、50年前の話題を、まだ(あるいはまた)新入生にしているのかと、このレジメを見て思った。ずっと同じこと話してるのんちゃうんと、一回言うたろと思っていたのになあ。きっと、いやこれは……と反論してきたやろなあ。
フィッシング詐欺ってこれか!!(7月8日)
昨日、うかつにも、フィッシング詐欺にひっかかった。いろんな個人情報を打ち込んでしまったあとに、これはおかしいと思い、確かめるとやっぱり怪しい。急いで、対策をとった。パスワードも変更。すると同じ怪しいメールが午前0時、午前3時に届いている。それで、こっちの対策の効果があったんだとわかった。危ない所だった。でもこの対策のため、メールもこのHPも使えなくなるかもしれない。慌てた。そこで今日はブロバイダーのページから、支払方法を変更(1時間かかった)。事なきをえた。メールアドレスも変更するか。でも、そうすると影響が大きくなる。一応セキュリティソフトで全スキャン、結果、コンピューターの実害はなかった。
悪い事は重なるものだ。今日は国会図書館から「謝絶」のメールが届く。「高校生活指導」の遠隔複写を頼んでいたのに、号は正しいけど、巻を間違えた。それで改めて再申請した。
うっかりが続く日々。
真美子さんから、卓さんの納骨を済ませたという連絡を受けた。樹木葬にしたらしい。
僕の母親は去年11月に亡くなった。遺骨をどうするか、決めかねて(コロナウィルスのドタバタに紛れてということにしておくが)、この部屋の押し入れにまだ置いてある。忘れていたのに、思い出してしまった。こういうのを「寝た子を起こす」というのか。ちょっと違うか。
昨日は疲労困憊(7月7日)
昨日は、ゲストとの対談を完成させて、新しいページを作るのに朝から夕方までかかりっきりで、さすがに疲労困憊。もう日誌も簡単にしておこうと思ったが、その日誌も読み返す力がなく、文章としてちょっと変だった。辞典のページへの投稿も久しぶりにあったので、それもアップ。
今日は阿刀田高の「干魚と漏電」のレジメを作った。明日で、つかしんカルチャーはしばらくお休みさせてもらうことにしている。ただ、思っていたよりも、ここの作業が進んでいるので、来年の春には再開できるかも。
《編集長とゲストが読むー学び欲がいっぱい 『こんばんは』報告集》を、最後まで読んだ方は、おたよりください。なお希望者には「完読認定証」を差し上げます。この「完読認定証」は二枚集めると、「子どもの権利を生かす生活指導全書」全20冊(ビデオつき、但し15巻はない)と交換できます。
ゲストとの対談遂に完結(7月6日)
《学び欲がいっぱい 『こんばんは』報告集》をめぐっての、ゲストとの対談は遂に完成。「編集長とゲストが読む」という新しいページを作り、アップした。
A4なら28枚分ある。体力がないと読めないと思います。疲れた時、午後10時以後は、この新しいページを開けてはいけません。
写真を全公開(7月5日)
最近、一時に比べると、たよりが少なくなった。たよりがあちこちから来て、その返事や整理で大忙しだったあの頃がちょっと懐かしい。
国会図書館からの郵便もまだ来ないし……。そこで、ちょっと工房の手直しをすることにした。アルバムのページを増量したのだ。次々と写真が提供されたら、どうしようと、いらぬ心配をして、飯嶋さんから提供してもらった写真を半分以下に抑えていたが、全部公開することにした。その作業していたら、あれこんな所に卓さんが、「文花中学校」の看板を写した写真だと思ってたら、右隅に人影が写っているではないか。全部公開が正解だった。
《学び欲がいっぱい 『こんばんは』報告集》をめぐっての、ゲストとの対談は佳境に入った。まさか話がこんな風に転がるとは、最初予想していなかった。やっぱり、相棒との気楽な馬鹿話が生み出すものはある。A4で14枚までは清書できた。近日公開予定、乞うご期待。(昔、映画館で予告編の最後にはこう出ていたなあ。、中には、作品が結局公開されなかったものもあった。)
編集工房辞典の項目をいくつか増やした(7月4日)
辞典の項目をいくつか増やそうと思ったのだが、難しい用語は説明を考えるのに時間がかかる、専門的なことはちょっと手に余る。どうしようか、協力者を募るか、でもみんな忙しそうだしなあ。原稿料もでないし、…。困っていたら、とてもいい方法を思いついた。これなら、いくらでも項目を増やしていける。ひょっとしたら、10や20は余裕で増やせる。どうしたか?知りたい人は辞典のページを熟読してください。辞書づくりで、もう一つ思いついたことがある。それはこれまでに届いているゼミ生からのたよりを利用させてもらうことだ。
そして、あっそうかと気がついた。ゼミ生からのたよりの中に、いくつも卓さんの言葉があるから、それを集めて新しいページが作れるじゃないか。まあ辞書の応用として考えてもいいけれど。そもそも、この間、一連の作業をしながら、「どうすれば教育実践家藤本卓の姿を描くことができるか」を考えていて、ぼんやりと思い浮かべていた方法がある。それは言行録という方法だ。断片的な「先生は或る時こう語った」の集積。既に、ゼミ生からのたよりに、いくつもその材料があった。つまり、目指すべきは「論語」だった。
吉田拓郎の「元気です」が心にしみた(7月3日)
中西さんからの新しいたよりには、高校時代の卓さんのことが語られていて、そうだったのか、という思いがけないことが出てくる。
《…不登校という言葉などなかった1967年~1968年ごろ、長期にわたって高校を休み、家に引きこもったり、秋田のむのたけじさんを訪ねる旅に出たり……》全文は、「友人からのたより」のページを見てください。僕は、東京の劇団の所へ行ったけれど、高校ぐらいは出ておかないとと諭されて戻ったという話を卓さんから聞いたことがある。
今日は《学び欲がいっぱい 『こんばんは』報告集》の感想文を打ち込む作業をしながら、ずっと吉田拓郎を聞いていた。とりわけ「元気です」が心にしみた。無意識のうちに、上映会に取り組んでいる大東文化大学の学生たちに、この歌を重ねて聞いていたのだろう。
㈠誰もこっちを向いてはくれません/一年目の春立ち尽くす私/道行く人々は日々を追いかけ/今日一日でも確かであれと願う/わずかにのぞいた雨上がりの空を見て/笑顔を作って”どうですか?”と問いかける/色んな事があり愛さえ見失う/それでも誰かと触れあえば/そうだ元気ですよと答えよう
㈣自由でありたい心のままがいい/四年目の冬寒さを拒むまい/どれだけ歩いたか考えるよりも/しるべ無き明日に向かって進みたい/あなたの人生がいくつもの旅を経て/帰る日くれば笑って迎えたい/私も今また船出の時です/言葉を選んで渡すより/そうだ元気ですよと答えよう
今日は一日雨だったしなあ。気分はすっかり大学生だった。 《それでも私は私であるために/そうだ元気ですよと答えたい》
原稿総量推定1200枚(7月2日)
パソコンには電卓の機能がついていた。それに気づいたのが今朝。便利。昭和の電卓は、たとえソーラーパネルつきでも、もう出番なし。
サクサクと計算して、これまで集めた資料を計算すると、40万5600字、400字詰原稿用紙なら1014枚になる。まだ手に入っていないけど、存在のわかっている原稿を足すと、たぶん1200枚程度になる。わかっているので一番長いのが、「教育のレトリックの方へ『竹内=生活指導論』の誘い」110枚。
藤本ゼミの実態を知るために、まず手始めに、《学び欲がいっぱい 『こんばんは』報告集》を読んでいる。これは2005年のもの。映画上映会に取り組んだ最初が、夜間中学をえがいたこのドキュメンタリー映画(2004年公開)ではないか、と思っている。
今、この取り組みについてゲストと話しながら、検討しているが、なかなか進まない。でも卓さんの学生に対する働きかけやその意図を推理していくと、おもしろいし、実行委員の感想文が興味深くて、時間がたつのが早い。この対談が完成したら、新しいページを作り、載せる予定だ。これまでにない長編の読物になるはず。
字数計算表を作る(7月1日)
論文一覧のページの分類を少し手直しした。「学会誌」と「雑誌」に分けたのだ。
まだ未発見のものはあるが、だいたい全体の見当がついてきた。それで、論文の字数計算表を作ることにした。これが意外と根気のいる地味な作業だ。一行何文字で一ページ何行、それで何ページあるかを数える。
例えば、大学紀要に載せた「悦ばしき”学び”か?」なら、34×43×18で26316文字。これを400で割ると、65.8。つまり原稿用紙66枚分。大学紀要の体裁が全部同じなら、まだいいのだが、微妙に違う(これは発行している部署が違うからかもしれないが)。計算をするのに、電卓をたたいているが、年代ものなので(ひょっとしたら昭和?)、なかなかいう事をきかない。
電卓をなだめなだめ計算すると、大学の紀要に載せた六つの原稿だけで、384枚になった。本のサイズ、体裁にもよるが、これで十分一冊分ある。
まだ20点以上残っているけど、今日はここまで。これから、なすの揚げびたしを作る。
未来へのエールか、これは(6月30日)
大東文化大学の中村清二先生からメールをいただいた。「〈制作〉と〈実践〉」の資料も提供してくださった。おかげで一、二、三が揃った。読んでみたが、さすがに三回連載分となると長い。
昼前に読み終わると、真美子さんからメールが来ていた。昨日の編集日誌を読んで、『未来へ 原爆の図丸木美術館学芸員作業日誌 2011-2016』をダブっているのなら、買いたいと思っているので送ってほしいとのこと。惜しい、昨日すぐに手続きをして、返送してしまった。残念。
今日は、卓さんが大学卒業後、「群緑」3号に寄稿した「ゼミナール運動のための参考図書」をWordで打ちなおし、著作一覧のページから読めるようにアップした。ちょうどこの数日、映画『こんばんは』上映実行委員会の報告集(2005年)を読みながら、大学教育実践家としての藤本卓について、ゲストと対話していたので、卓さんの「ゼミナール運動のための参考図書」の終りのあたりのこんな言葉が、心の中で共振した。
《ノッペラボーで誰がやっても同じような運動ではなく、その活動を見ればそれを進めている人たち一人ひとりの顔がくっきりと思いうかぶような、みずみずしい運動を期待しています。》
これはまるで、 あらかじめ、自分の未来の教え子たちに向けて送られたエールのようにも思えた。
『こんばんは』の報告集を読めば、そのエールに学生たちが十分に応えていることがわかる。下山実行委員長を初めとした11人のメンバー、一人ひとりの顔がくっきりと浮かんでくる。
「ゼミナール運動論覚え書きⅡ」を打ち終えた(6月29日)
毎日少しずつ打ち込んでいた「ゼミナール運動論覚え書きⅡ」がやっと完成。著作一覧からリンクして読めるようにした。ふー。
一昨日紹介した丸木美術館の学芸員さんの本をアマゾンで注文したら、もう届いた。届いたのはいいが、封筒が重い、形も変、どうも二冊入っているようだ、開封してみると、やっぱり。なんでこんなことに。とりあえず調べてみると、注文番号が二つある。何故?二回注文したのかなあ?わからん。
調べてみると返品も受け付けてくれる、とのこと。一冊は返すことにした。不思議だ。
まあ、卓さんなら、絶対この本を買っただろう。学生に丸木美術館を紹介する時にも使えそうだ。パラパラとめくってみたが、学芸員さんの仕事って、大変そうだ。美術館で加藤登紀子のコンサートもやったらしい。広島、沖縄、パラオ、筑豊、長岡、ワシントンDC、ボストン、福島、……、日本だけでなく、世界各地を行ったり来たり。吉永小百合も東松山に来たとか。
名誉教授になったんだって(6月28日)
昨日は、大阪市立中央図書館へ行った。車で行くのは久しぶり。阪神高速の料金が1320円もした。よく乗っていた頃は700円、それがちょっと前に900円になり、高くなったと思っていたら、こんな値段になっていたとは。帰りは地道で帰ったが、かかった時間は行き40分、帰り45分。そんなに変わらなかった。
図書館は閑散。『学校が変わる、先生が変わる』(1991年)を書庫から出してもらって、卓さんの《「この子はとりあえず私の子です」のふぃろそふぃあ》をコピー。この本をぱらぱらと見ていると、知らなかった原稿があることがわかった。
今朝は、国立国会図書館にオンラインで潜入。気分は「攻殻機動隊」。遠隔複写を新たに5点申し込む。昨日は6月6日申し込みの残り3点が届き、だんだん数がふえ収拾がつかなくなりそうなので、集めた資料を分類して5つの袋にまとめた。
昼ごはんを食べて、パソコンを開くと、真美子さんからメールが届いていて、こんなお知らせが!
《卓さんが、名誉教授になったという証書が郵送されてきました。コロナで授賞式がないそうで。写真の前に供えましたが、本人はなんて言うでしょうね?》
何と言うかなあ、彼が言いそうなことを、僕は2パターン想像してしまった。みなさんはどう思いますか。でも、まあ良かった。
丸木美術館の学芸員さんの本が出た(6月27日)
今朝、毎日新聞を開くと、書評欄にこんな本が載っていた。『未来へ 原爆の図丸木美術館学芸員作業日誌 2011-2016』岡村幸宣著(新宿書房・2640円)、作家の堀江敏幸が紹介している。(堀江敏幸の小説で、短編集なら『雪沼とその周辺』、長編なら『なずな』がお薦めです。)
卓さんが大東文化大学の学生を連れて毎年、丸木美術館見学(ハイキング、川遊びも兼ねて?)に行っていた、という証言は多くの卒業生から聞いている。ちょうど2011年から2016年なら、絶対この学芸員の岡村さんにみんなは出会ったはずだ(ただ一人の学芸員だから)。ひょっとしたら、毎年やってくる大東文化大学の学生についても何か書いてあるかもしれない。この書評を転載しておきます。OCR使った(今回は読み取り率80パーセントか)。リンクをはったので、興味のある人はここをクリックしてください。
国立国会図書館からコピーが二つ届いた(6月26日)
6月6日に申請したもののうち二つが、やっと東京本館から送られてきた。コピー9枚だったが、1枚単価は23円(関西スーパーなら5円なのに)、発送事務手数料200円、消費税40円、送料140円、合計587円。
あとの三つは関西館から届く予定。一冊しか保管されてないものは東京から、東京・関西で各一冊保管されているものは関西館から、送られるらしい。
6月22日に申請した分は、いつ届くかな。
今日きた「ロンドン公立学校の底力」は『あきらめない教師たちのリアル』を翻訳・出版した後の、インタビュー記事だった。だから、いわゆる論文ではなくて、読みやすい。もう一つは青木章氏の論文。19日に藤本さんの弔問に来ていた青木さんから抜き刷りを貰ったので、結果的にはダブってしまった。お会いするまでに、読んでおこうと思ったが、こんなに時間がかかるとは、誤算だった。
20冊+ビデオ到着(6月25日)
落札した商品が届いた。今、ヤフオクは、遠隔複写サービスよりも早い。
でも、要るのは、この一冊だけなんだけどなあ。残りの19冊どうしよう、誰が貰ってくれませんか。
1993年発行の珍しい商品で、しかも誰もページをめくったあともない、新品同然の品物。
付属のビデオ「ふれあいの性」は未開封だった。このビデオだけでも要りませんか。あ、これは「子どもの権利を生かす生活指導全書」のおまけですから、念のため。
古い原稿を次々画像で入手(6月24日)
北九州にいる息子に『高校生活指導』のバックナンバーのコピーを頼んでいたのだが、スキャナーでは難しいのでと、画像として撮影したものを送ってくれた。
6月19日に卓さんの家で一緒になった望月さんからメールがきて、今『高校生活指導』の編集長をしているとか。それで未入手の号の発行年をたずねたら、すぐにその原稿をPDFで送ってくれた。読んでみた。内容はともかく、「……ぼくはそう思った。」という表現が新鮮。そうか、卓さんも「ぼく」なんて使っていた時期があったんや。最後の一文なんて、《「集団づくり」ではなくて「訓練論的生活指導」--今、変貌の進んだ社会のなかで改めてこの理論地平から自らの〈冒険旅行〉を始めたいとぼくは考える。》と結んである。1984年、36年前の論文だ。ことばづかいが若いなあ。
真美子さん(奥さん)からもメールが届いた。大東文化大学が、偲ぶ会と遺稿集を考えてくれているとか。でも新型コロナの影響で、企画のスタートはもう少しあとになるようだ。現役の子が、この編集工房のことを大学の先生にも伝えてくれたらしい。先生もここを覗いてくれるかな。
少しずつ協力者が増えてきている。これを読んでいるあなた、あなたもおたよりください。それが「モラルサポート」(最近この言葉を知った。今僕が欲しいのはこれだ)。《「編集日誌」毎日楽しみに読んでます》のひとことは、「ユンケル(卓さんは、疲れるとよく飲んでいたらしい)」以上の効果があります。
45年前の卒論(6月23日)
ヤフオクの出品者とコンタクトがとれて、代金も振り込んだので、「子どもの権利を生かす生活指導全書」全20冊は手に入ることになった。初めてのヤフーオークション体験。何でも買える、何でも売れる、かな。
今日は米田雅幸くんからメールが届いた。東京にいると聞いていたのだが、リタイアして奈良に戻ったらしい。近日中に「友人からのたより」に投稿してくれるはず。
「丸木美術館訪問レポート集」を読む。2年Eクラスの23人の感想が載っていた。その一部を辞書のページに転載する。ついでに辞書の項目を少し書く。所々ミスが見つかったので修正。
卓さんのお家に行った時に、息子さんがこんなものがあったんですと、見せてくれたのが、45年前の大学の卒論。
表紙に《卒業論文「全面発達」論の現代的課題ー序説ー 卒論指導教官・斉藤浩志教官 初等科22026 藤本卓》とあった。200字詰め原稿用紙で350枚だから、7万字やね。普通、卒論は提出したら、返してくれないはずだが、……。とはいえ、僕も自分の卒論を家に持っている。指導教官の猪野謙二先生に申し出ると、持って帰ってよしの許可が出た。預かってても誰も読まんよ、とのこと。ちょうど、猪野先生は退官の年だったから、鷹揚だったのか。
ちなみに、僕は最初の赴任校で斎藤浩志先生の娘さんに現代国語を教えた。縁というか、狭い世界というか。斎藤先生が亡くなった時、卓さんと二人でご自宅に弔問に行った。その道すがら、卓さんは緑内障で、最近、物が読みにくくて困っていると、こぼしていた。あれは何歳の頃だったかな。
20冊セットを落札(6月22日)
今日は国立国会図書館のオンラインサービスを利用して、卓さんの『高校生活指導』に発表した原稿を遠隔複写してもらうように手続きした。前回どうしても入れなかった所へなんなく入れた。だいぶ慣れてきた。でも6月6日に申し込んだ分がまだ届いていない。混んでるんだろうな。実在の国会図書館は、1日100人の入館制限があるらしい。
東松山でその存在を発見した藤本卓編の『登校拒否・不登校』という本、なんとか手に入れたいものだと、ネットで探していると、ヤフオクに出ていた。但し全書20冊+ビデオがセットになっていた。必要なのは一冊なのに、……。一晩悩んで、落札しました。値段は秘密。(20で割ると、100円強)でもヤフオクをやるのは初めてなので、まだ出品者とコンタクト取れてない。ちょっと心配。
アルバムのページを作った(6月21日)
現役生の増田くん提供の写真と、飯島たみさん提供の写真を載せるために新しいページ「アルバム」を作った。ホームページビルダー11がいうことをきかなくて苦労した。ポータブル・ハードディスクから写真を呼び出そうとしても知らぬ顔してる。しかたがないから、別の所に写真を移動させて、そこから呼び出した。さて、転送という段になると、増田くんの分しか送ってくれない。なんでや。そういえば、なんか面倒なことをパソコンがいうてたな。無視したけど、あれがいかんかったのか。3度失敗して、仕方なく、パソコンの言ってることをゆっくりと読む。ファイル(写真)の名前に半角英数字以外の文字がついていると、サーバーに送ってくれないのだ。せっかく丁寧に夏合宿とか、上映会とか説明をつけてくれているのに、ひとの親切の分からん奴やな!!その名前を消して、無味乾燥な名前に付けなおした。1、2、3、4……と、途中でこれではいかんと気付いた。半角やったね。1、2 、3、4、……これでいいですか。転送。遂に成功!!やれば゜できる。結局、地道な手作業が、大事なのやね。「注意」はわからないからといって無視してはいけない。
「高山智津子・文学と絵本研究所」の写真が消えたのは、これが理由だったのかな。今度、母屋も修理にいかねば。
こうしてアルバムのページができたから、どんどん写真を送ってください。
東松山、発見旅(6月20日)
東松山市へ一泊二日の旅。あまりにも大量の情報、発見。もうこれを書くだけでまる一日はかかりそう。
ひとつだけ紹介すると、ソフトバンクのCMのお父さん(白い犬)と卓さんたちが一緒に写っている写真があった!何故か。
もうひとつ紹介すると、藤本卓編の『登校拒否・不登校』という本が1993年に出版されていて、その第四章「登校拒否・不登校の問うていること」を執筆していたことが判明。著作一覧に追加しなければ。これ以外にも一杯発見。
6月18日に、現役四回生の増田雄一くんから、一番最近のゼミ合宿の写真を送ってもらった。この写真はプリントアウトして奥さんにもさしあげた。でもサントリー天然水南アルプス白洲工場になんで行ったのかな?
埼玉から帰ったら、写真のページを作ろうと思っていたら、帰ってくると飯島たみさんからメールが届いていた。添付ファイルに、映画「こんばんは」の上映会の取り組みの多くの写真や感想文集があった。
村田隆くんのメールも届いていた。村田くんのメールには2019年卓さんと再会した時の話があって、卒業生と先生との対話がとても感慨深い。添付ファイルには「特別活動の研究」の授業ノートが画像で。
とりあえず、プリントアウトできるものはプリントアウト。明日、新しく写真のページを作って、そこに写真を載せねば。
「ちょっと休みます」が、1日だけになってしまった。旅に出ても、全然休暇にはならず、かえって「クライマーズ・ハイ」は増すばかり。昨夜はホテルで、足がつるし、……。でも、真美子さんや息子くんと話して、卓さんのことで大笑いもしたし、娘さんから素敵なプレゼントももらったし、まあいい旅だった。何故笑ったか、プレゼントは何だったか、を語ると、この日誌が終わらなくなるから、また明日。
旅に出るので、編集日誌はちょっと休みます(6月18日)
明日は、埼玉の卓さんのお家へ行ってきます。埼玉高生研の方が弔問に行かれると聞いて、御一緒させてもらうことにしました。行こう、行こうと思いながら、なかなかチャンスがなかったので、一泊二日で出かけます。卓さんの書斎も見せてもらうことになっています。
というわけで、6月3日から毎日更新していたこの日誌もちょっとお休みです。
今日は、これまでの作業を振り返り、これからどうするかを、立ちどまって考えてみました。
考えていくうちに、構想がどんどん膨らんできて、自分でも、「これはいかん、クライマーズ・ハイに陥ってるんじゃないか」と思いました。
ですから、構想の内容の発表は、もう少し先にします。まずは、一服して、クールダウン。
写真を載せてみた(6月17日)
文字だけではちょっと寂しいので、本や資料の写真を入れてみた。著作一覧のページと教育実践家としての藤本卓のページを見てみてください。
ゼミや合宿の様子のわかる写真を提供してもらったら、載せていきます。
と、ここまで書いて、郵便受けまで行ってみると、小野雄一郎くんから手紙と資料が届いていた。
資料は「学びがいっぱい 『こんばんは』報告集」という2005年のものだ。この『こんばんは』が、自主映画会の取り組みの最初だったのだろうか。
これで2005年『こんばんは』、2010年『里山っ子たち』、2014年『世界の果ての学校』と三つの上映会があったことがわかり、一応資料も入手。
問題は、これらの資料を読みこみ、卓さんが大学生たちにどんな働きかけをし、彼ら彼女らがそれをどう受け止め、行動し、何を学んだか、を考えることだ。
「教育実践家としての藤本卓」については、本人が実践記録めいたものを何も書いていないので元ゼミ生からの証言や残された資料から、考えるしかない。
彼の遺した抽象的な「教育論文」が、大学での教育実践のどことつながるのか、その「謎」を解いていかなければいけない。
名探偵シャーロック・ホームズには、助手のワトソンがいた。謎解きの好きな相棒がほしいものだ。
国立国会図書館にもないものを復刻(6月16日)
ついに今朝、「ゼミナール運動論覚え書き」を打ち終えた。それで新しいページにアップし、「著作一覧」のページとリンクをはった。ふう、一仕事完了。20代前半の卓さんがどんなことを書いていたか、わかる。しかも、これは国立国会図書館にだってないはずだ、「お宝」かも。でも、これまだ「その二」があるんだよな。
卓さんの古い友人の中西さんが、吉崎くんのメールを読んで、胸が熱くなり、「編集工房」の存在を知らせるため、高校の同窓生たちに手紙を送ってくれたらしい。どんどん広まるといいなあ。編集長としても力が入る。
卓さんの声と姿が鮮やかに蘇えった(6月15日)
吉崎圭輔くんからのメールを読んで、卓さんの声が聞こえ、姿が目に浮かんだ。「私はまったくもって優等生ではなかったんですよ」とか、「この2年であなたに”私という毒”を撃ち続けていたんですよ。あとになれば、なるほど効いてくる遅効性の”毒”をね」とか「明治期の教育問題を取り上げてはどうか」と助言したとか、卓さんが語ったことばが具体的にわかった。希望者による高野山見学と宿坊体験付きの28年度冬合宿とか、「藤本ローン」とか、次々に卓さんにまつわる話が出て来てとてもおもしろかった。そして、「私にとって、私たちの先生が一番なのだ」という所で、泣いた。そういう思いを抱いてくれる卒業生が卓さんにはいたのだ、と知ることができただけでも、この編集工房を作って良かったと思った。
吉崎くんの長文のメール2通は「卒業生の声」のページに載せてあります。
ページを新設し、リンクをはる(6月14日)
『あきらめない教師たちのリアル』のあとがきの抜粋のページを作り、著作一覧のページとリンクさせた。このあとがきに〈教育の方法を教科外の視角から基礎論的に考察する」のが自分の研究者アイデンティティだという記述がある。
次に、谷川俊太郎の詩「あなたはそこに」の引用ページを作り、教育実践家としての藤本卓のページとリンクさせた。
この詩の最後の連はこうだ。
《ほんとうに出会った者に別れはこない/あなたはまだそこにいる/目をみはり私をみつめ 繰り返し私に語りかける/
あなたとの思い出が私を生かす/早すぎたあなたの死すら私を生かす/初めてあなたを見た日からこんなに時が過ぎた今も》
夕方、編集工房辞典のページを新設した。玄関とのリンクをはった。
今日はリンクをはってばかりだった。リンクは往復はらないと、元のページに帰ってこられなくなる。はり忘れがないか確かめているうちに、自分が迷子になりそうだった。
辞書作りの投稿がさっそく来た!(6月13日)
昨夜はNHKラジオ「高橋源一郎の飛ぶ教室」を聴いていて、本や建物や風景が記憶を呼び覚ますことがある、という話に深く頷いてしまった。
この編集工房の仕事をしていると、卓さんの文章がきっかけで、次々に僕も記憶が蘇えってくるのだ。
そのあと「〈教え〉と〈育て〉のメタ・カリキュラムに向けてー戦後教育基礎論を”柳田國男”で賦活する」を読む。眉間は大丈夫だったが、夜中に四度、目を覚ました。記憶が夜中に訊ねてきて、僕を起こしたのか?
今朝は「OCRはガリ版の文字を認識できるか」を実験してみた。全然やった。読み取り率45パーセント(個人推定)では役に立たない!結局手で打つしかない。怒りを抑えて、 「ゼミナール運動論覚え書き」の打ち込みと「悦ばしき”学び”か」の修正を、粛々と行う。道は遠い。
夕方メールを開けると、昨日書いた「辞書作り」の呼びかけにさっそくの応答があった。ひとつだけ紹介すると、
ゼミ合宿…年に2〜3回行っていた。その時の学習のテーマに応じて、行き先を決定。基本的にコテージで自炊。そして藤本先生は学生が作ったものを食べていた。最終日には観光地に行ったり、温泉に行ったりと割と自由。起床は普通だが、就寝は宵っ張りの先生に合わせてとても遅くなる。でも途中で諦めて寝ても怒られない。
こういうのが欲しかったんだ。いかにも卓さんらしい。自炊をさせながら、自分は食べるだけとか、宵っ張りとか、…。僕らが学生の頃の合宿の記憶が蘇えって来た。カレーライスを作った時、ジャガイモのむきかたを僕に教えてくれたっけ。両手を内側に回転させて…。
しかも「学習のテーマに応じて、行き先を決定」と書かれると、どんなテーマでどこへ行ったのか、という興味がわく、もっと知りたくなる。観光地、温泉が近くにあったのか。もちろん、「観光地、温泉」がメインじゃなかったんだろうが、やっぱりおまけも欲しいよな。
他の人もゼミ合宿についての思い出を、どんどん付け加えて行ってほしい。もちろんほかの項目も。
明日は「編集工房辞典」のページを新設せねば。
辞書作りを手伝って下さい(6月12日)
昨日の晩、卓さんの「悦ばしき”学び”か? 柳田國男による「マナブ」と「オボエル」の対照のトポスについて」(A4で17枚)を読みなおした。今朝起きると、眉間が痛かった。難しくて、つい眉間に力が入りすぎたんや、きっと。
朝は、まずガリ版刷りの「ゼミナール運動論覚え書き」をパソコンに打ち込む。指を痛めそうなので、1日一ページ程度にしている。
次に大東文化大の紀要に載った卓さんの論文(眉間が凝ったあの「悦ばしき”学び”か」)をOCRで読み取らせ、その修正をする。修正が済んだら、このHPに載せる予定。
ところで、OCRってどういう訳になるかをインターネットで調べてみると、
「OCR(Optical Character Recognition/Reader、オーシーアール、光学的文字認識)とは、手書きや印刷された文字を、イメージスキャナやデジタルカメラによって読みとり、コンピュータが利用できるデジタルの文字コードに変換する技術です。」と書いてある。
何だって! 手書きの文字も読み取れるのか!せっせとWordで打っていたのに。明日やってみよう、本当に手書きの文字も読み取れるのか?
昼からは「著作一覧」のページに、新しく見つけた「〈学校の再生〉と生活指導実践ー三十三次全国教研のレポートを読む」(1984年)を付け加える。
これは僕のもっている古い「海燕の会」のファイルの中にあった。灯台下暗し、とはこのことだ。
付け加えようと思ってホームページビルダーを開けてそのページを呼び出すと、何かわけのわからんことになっていた。文字が重なっていたりして、混乱の極み。直そうと思って触ると、混乱は混沌へ。もう見なかったことにして、ページを閉じようかと思ったが、ぐっと踏み止まって、一つ一つ直していった。
雨のやみ間を見計らって、昆陽池の散歩に出る。池の周囲を歩きながら、こう考えた。この編集工房のページには、訪れてくれた人には、わからない言葉が沢山あるのではないか。例えば、今日の分でも、「ガリ版」はともかく「海燕の会」はわからないはず。これを解決するためには、辞書がいる!!
そこで「編集工房辞典」を新しく作ることにした。辞書の形で、卓さんの人物像をスケッチできるかもしれない。卒業生や知人・友人もこの辞書に向けて、短い文なら、送ってくれるかもしれない。
そこで、項目を考えていくつか例文を作ってみた。
・藤本英二……この編集工房の編集長。研究会の席で、初対面の人に「私の腹違いの弟です」と冗談まじりに紹介されたこともある。
・フジモン……大東文化大の学生たちは、こう呼んでいたらしい。
・中島みゆき……長年のファンである僕(なみふく会員)に、実は私も隠れファンなのだと告白してきたことがある。そして「命の別名」について熱く語っていた。《知らない言葉を覚えるたびに/僕らは大人に近くなる/けれど最後まで覚えられない/言葉もきっとある/……》この冒頭だけでも「大人」「覚える」などのキーワードが入っている。ここから「藤本卓教育論」が始まったのか。
今僕のメモには、こんな項目があげてある。
家出、イギリス、池袋ジュンク堂書店、大イチョウ、映画上映会、演劇、『おはよう』、『里山っ子たち』、公開ゼミ、ゼミ合宿、大学教育実践家、タバコ、遅刻、『どぶ川学級』、長電話、ビフカツ、丸木美術館、群緑、……
一人であげられる項目には限りがある。間違いもあるかも。少しでもいいので、「藤本卓さんを理解するための辞書作り」を手伝って下さい。こんな項目入れたらどうですか、とか、こうなおしたらどうですか、というお便り、メールを待ってます。
学生時代の論文を著作一覧のページに付け加える(6月11日)
岩本くんの要望に応えて卓さんが大学生の頃に書いた「ゼミナール運動論覚え書き」などを著作一覧のページに加えた。現在、僕の手元にあるものにマークをつけておいた。
「群緑(むれなすみどり)1号」の編集委員として土井真美子、野原正美、馬場田裕康、藤本卓の四人の名前があがっている。多くの実行委員の紹介文が載っているが、この四人についてはこう書いてあった。
〈土井真美子〉 この機関誌の編集をうけもつ。両面刷りのために編集には大変苦労を重ね、多くのアイデアを創出。ぽっかりあいた空白ページも詩などを入れてごまかす。彼女に原稿依頼やガリ切りの手伝いを頼まれてことわる男性なし。乞御期待。
〈野原正美〉 編集部の小使いさん。数少ない3年生のため、こき使われて、縦横無尽の働き。なつかしき我が家がありながら、市内の友人のところをとまり歩くという幅広い活動家。
〈藤本卓〉 機関誌編集長、とは名ばかり。他人に仕事をまかせるのが上手。しかし、影の実力者とは、誰も気がつくまい。あれ?みんな知ってるの。
〈馬場田裕康〉 編集部のやっかい者。ダジャレの名人。機関誌の内容が堅すぎて不満顔。くずれた顔が一層くずれる。製本の追い込み段階に入って、突然姿をくらます。またまた無駄なあがきを……。
「教育実践家としての藤本卓」というページを新設(6月10日)
朝起きてメールを開けると、岩本くんから大学時代の機関誌「群緑」のPDFファイルが届いていた。やっぱり「ゼミナール運動覚え書き⑵」は存在していた。とりあえず⑴からデータ化するために、パソコンで打ち込んでいる。
今日は月に一回のつかしんカルチャーの講義の日、「色川武大」の短編「善人ハム」の話をした。新型コロナウィルスの影響で、3ヶ月ぶり。受講生3人も元気だった。今回、亡くなった友人のために本を作ろうと思っているという話をして、しばらく講座をお休みにしたいと言うと、再開されるまで待ってます、と言って下さり、連絡先の交換をした。今年は宝塚市立図書館の講座も中止になったので、これでこの編集工房の仕事に専念できる。
家に帰ると、和賀真純さんから手紙と資料が届いていた。手紙は「卒業生の声」のページに、資料のタイトルと和賀さんのメモは、「教育実践家としての藤本卓」というページを新設して、そこに載せた。夜 和賀さんと長電話した。そして今この編集日誌を書いている。定年退職してから、今が一番忙しいかも。
「友人からのたより」のページスタート(6月9日)
卓さんの若い頃の友人からのたよりを紹介するためのページを開設。中西英代さんは明石高校時代からの友人です。
岩本賢治くんからは大学時代の仲間の連絡先の情報をもらいました。さっそく、3人に「報告の手紙」を送りました。岩本くんから、「卓さんの著作目録に、ゼミ実時の「ゼミナール運動論」も入れてほしい気がします」という提案があったので、資料の提供を頼みました。僕の手元にあった「群緑 創刊号」に「ゼミナール運動論覚え書き」というのが載っていたので、これを復刻して、この編集工房に近々載せます(予告)。表紙にゼミナール運動覚え書き⑴とあったから、たぶん⑵もあるんだろう。
「大学教育実践家」としての卓さん(6月8日)
今朝起きてメールを開くと、飯島たみさんからメールが来ていた。2005年にゼミで映画『こんばんは』の自主上映会をしたとか。ゼミメンバーに連絡をとってくれたようで、6人それぞれできることで協力してくれるという。
礒部くんのメールの中で「大学教授というより大学教育実践家」ということばがあって感動したが、飯島さんのメールを読むと「大学教育実践家」としての姿がより一層浮かんできた。
予定していた「卒業生からの声」というページの名前を「卒業生の声」とちょっと変更した上で、実際に来たメールをそのまま紹介することにした。そのページを見て貰えば、僕の感じたことが直接に伝わると思う。
映画『こんばんは』は、卓さんから紹介されて、新開地まで観に行った。ちょうど夜間定時制高校に勤めていた頃なので、すごくよく響いた。そのことも思い出した。この編集工房を作っていく中で、卓さんとの会話が次々と蘇ってくる。
大東文化大学の卒業生から次々と連絡が(6月7日)
昨日、有泉孝一郎氏と和賀真純氏、今日礒部光泰氏からメールを貰った。
(どうも「氏」とつけるとよそよそしいので、これからは60歳以下は、「くん」「さん」をつけることにします)
有泉くんには手紙を送ってはいなかったんだけど、一つ下の和賀さんが連絡してくれたとか。
和賀さんは家中探し回り、沢山の資料を見つけたので手紙と一緒に郵送してくれるとか。
礒部くんは「木更津社会館保育園」の園長さんへのロングインタビュー(A4で30枚)を添付ファイルで送ってくれた。これは映画『里山っ子たち』の上映会の前に、礒部くん、櫻田遼くん、平田奈美さんの3人が、2010年3月18日、保育園まで出かけて行っておこなったものらしい。
この『里山っ子たち』の上映会の話を知って、50年前卓さんの提案で映画『どぶ川学級』の上映会を、学内でやったことを思い出した。僕は自分が観てない映画を他人に薦めるのは嫌だった。そのことを卓さんに話したら、中之島公会堂で上映会があるので、観て来てくれないか、という話になった。そこで中之島まで出かけて行った。この映画は、僕にとって忘れられない一本になった。今年の1月、行きつけのレンタルビデオ店が閉店になるので、この店においてあってずっと気になっていた『どぶ川学級』を閉店直前に借り、半世紀ぶりに観かえしてみた。教師になろうと思った頃の初志を思い出させてくれた。今度卓さんに会ったら、その話をしようと思っていたのに、2カ月後に彼はいなくなってしまった。
元ゼミナール実行委員の仲間に報告の手紙を送る(6月6日)
午前中は、国立国会図書館オンラインに入って、遠隔複写サービスで卓さんの古い原稿を送ってもらうように手続きをした。昨日手間取ったのがうそのようで、今日は楽にできた。慣れて来て要領がわかってくると、、どんどん早くなる。候補として七つ選んだが、うち二つは遠隔複写の対象外で、見たければ、やはり直接図書館へ出かけて行かなければダメのようだ。
問題は、『高校生活指導』に載った論文の検索で、ここはまだクリアできてない。まあ、ぼちぼちやるさ。昨日より今日は一歩前に進めた。
午後は元ゼミ実のメンバーに報告の手紙を18通送った。この編集工房の各ページを元に、少し手直して「報告風の手紙」に仕立てあげていると、結構、時間がかかった。A4四枚(裏表刷り)をプリンターで打ち出しながら、封筒に宛名を貼りつけて、裏に僕の住所のハンコ押しをやり、……という作業をしていると、兵庫文学教育の会で大会案内を郵送するために、大量の封筒作業をしていたことを思い出した。一九八〇年代の話だ。封筒をずらして、四つ五つ並べ、封に糊づけするというやり方は、手がおぼえていた。まあこれが「昔取った杵柄」ってやつか。
国立国会図書館へ入ってきた(6月5日)
卓さんの古い論文を手に入れるために、国立国会図書館を利用しようと考えた。インターネットで蔵書検索してみたら、結構あることがわかった。利用者登録申請を出しておいたのだが、昨日「利用者登録証」が送られてきた。何かカードのようなものかと思ったら、利用者IDなどの記入されたA4のプリントだった。初期パスワード票というのもA4のプリントで、自分でパスワードは変更してください、と書いてある。
国立国会図書館オンラインという所に入ったが、さすがに建物が大きくて、部屋が多くて、行きたい所になかなか行き着けない。何度もぐるぐるまわっていて、「おのぼりさん」丸出し。それでもなんとか、パスワードの変更はできた。
よし、これで遠隔複写サービスを使えるぞ、と勇んで、卓さんの論文を集めて、それを申し込もうとして、また迷ってしまい、試行数回、なかなかうまくできない。「まあ今日はここまでにしといたろか」と、勝負は明日に持ち越した。
大東文化大学の卒業生に手紙を送る(6月4日)
卓さんが大学でどんな先生だったのか、を知るために、証言依頼の手紙を8通出した。もっとたくさんの卒業生に声をかけることになるだろうなぁ。
必要ならばインタビュー・聞き書きの形をとるか。そうなるとかなりエネルギーがいる。最近体力が落ちてるからなあ。テープ起こしするにもしても、右耳は難聴がなおらないし。
そのあと、実際に残された論文を本にするまでの工程を考えた。数え上げてみてあまりの課題の多さ、壁の高さにちょっと立ちくらみがしそうだった、
これは僕みたいな素人が一人ではできないなあ。個人誌の「ブリコラージュ通信」をつくるのとはわけが違う。週に四日は晩御飯もつくらならんしなあ。
助っ人、手伝い、ボランティア、仲間が必要や、「七人の侍」とか「オーシャンズ11」とか「十三人の刺客(片岡知恵蔵版)」を思い浮かべて、まあ、なんとかなるか、と前むきに考えることにした。
編集工房を建てる (2020年6月3日)
卓さんの本を作るためには、どうすればいいか、いろいろ考えてみた。
2006年に高山智津子先生が亡くなったあと、2007年に研究所のホームページを作り、そこに先生の著作一覧、講演記録、年譜などをまとめて載せていき、同時にしのぶ会など研究所の活動も記録していった。このホームページをもとにして、4年後の2011年に『ありがとう、高山智津子先生』という本を作った。
もちろん同じやり方が踏襲できるわけではないが、卓さんの資料をまとめるための「作業の場所」」として、新しくホームページを作ろうと思った。
さて、どうやってホームページを作るか。
研究所のHPを作る時は、ホームページビルダー11を使って、手さぐりで時間をかけてなんとかした。でもこの時に使っていたパソコン(四代目、Windows7)は今も研究所のHPの更新に使っているが、遅い。
五代目(Windows10)には、ホームページビルダーが入ってない。新しいのを入れるか。今はバージョンが22になっている。新しいのを理解して使いこなせるかな。新しくブロバイダーと契約したり、何やかやで、一カ月以上はかかりそうだった。妻に話すと、今どきはホームページビルダー使う人少ないよ、もっと便利なのがあるよ、と言われた。そこまでスタート地点を下げると、二カ月はかかる。
便利な機能なんか、そんなに必要ないんだよ、写真のせたり、デザインに凝ったりするつもりはないし、文章が載せられたらいい、と喋っていて、あっ、と気がついた。そうか、今ある研究所のHPを使えばええんや。このHPはもともと全部僕が作っているのやし、僕個人の日誌「藤本通信」もここに載せている。
そういうわけで、「高山智津子・文学と絵本研究所」のHPの「屋上にバラックを建てる」ことにした。
ありあわせのものでなんとか工夫して物を作っていく。ブリコラージュの方法が、思いがけなく、今回も役に立った。
このバラックの名前を何とするか。製作工房、制作工房、製本工房、いくつか考えて実際のページを作り始めた。そしたら、自分でも間違えてしまって、あるページでは製作工房、別のページでは製本工房、これではあかん。音が似てるから間違うんや。そこで、音のまちがいの怖れのない「編集工房」にした。
とにかく走り出してみることだ。
12月13日(月)
午前中は、生活指導論のビデオ、第2回目をまとめる。
午後は2011年度授業記録(ノート)をまとめる。ちょっと紹介。
例えば、5月23日](月)、木更津社会館保育園の話からこんな所へ
藤本先生「原風景(幼い頃の幸せな日々の風景)があるとない子の違いは?」
関「自分の人生に納得いって死ぬかどうか」
藤本先生「人生を肯定できるかどうかの違い!! ボクは奥さんが見つけられたことで人生に納得できた。生まれてきて良かった♡!! 自分の人生に悩み惑うときがある。それでも死なない保障になるのが原風景」
ゼミの時間でのろけているようだ。ゼミ生もあきれたことだろう。
ゼミの内容もさることながら、色々打ち合わせをしているのが、興味深い。まず、そこを紹介してみる。
【ミニシアターツアー】
7月11日(月)
藤本先生は、大田堯先生の映画「かすかな光へ」を紹介。
ゼミの活動としてミニシアターツアーを提案。打ちあわせて、8月9日に、4年生は午前から3本、3年生は午後から2本、観に行く。
”変わった映画館、文化館に行くことは人生の宝です!!“
今週のゼミ合宿は卒論強化検討会、実習報告会
7月25日(月)
藤本先生「まず午前に渋谷で『里山の学校』をみます。その後、神保町でみて、東中野でもう一本みます。この時のお金は、6000円くらいしちゃうと思うんです。お金のある人もない人も先生からお金を借りて月払いしてもらう。会計係決めて」
大越「大越がやります」
藤本先生「4年生は9:30に渋谷のハチ公前に集合。3年生は13:00に神保町に集合。神保町で古本屋めぐりとかあそびましょう。」
※ここで「先生からお金を借りて」と言っているのは、いわゆる《フジモトバンク》のこと。立て替え払いで、ゼミ生を映画や演劇を観に行っていた。
12月6日(日)
作業をしていてわかったことがある。今回の本作りは、基本的に、資料の発掘と整理、そしてその引用紹介なのだ。特に公開ゼミ(公開イベント)がどのようなものであったか、ポスター1枚しか残っていない年度もあれば、分厚い報告書が残っている年度もある。感想もいっぱいある。実行委員会の活動についての感想を中心に編集するつもりだが、誰のどの感想をどの程度引用するかの見極めが難しい。集まった資料を全部復刻してもいいのだけど、そうすると、昔の電話帳みたいになってしまう。
12月4日(土)
ニ冊目の本『大学生を育てる』は着々と原稿が出来ています。既に第1巻授業・講義編はほぼ完成。あとは12回分の「生活指導論」(90分×12回)DVDをどう紹介するか、1回分は出来上がり。第2巻のⅢ部、公開ゼミ編も大分できました。
今日は作業をしていて、ついに竹内常一先生を招いての公開イベントが何年に実施されたのか、つきとめました。何せ手元にあるのは、ポスター1枚だけ。2月11日(土)という日付しかなくて、これが2012年か、2017年か判断に迷っていたのです。今日ゆっくり、ポスターを紹介するために原稿に打ち直していたら、竹内先生の主な著書として『新・生活指導の理論」があげられていることに気づきました。この出版は2016年8月!だから、公開イベントが実施されたのは2017年2月10日(土)で間違いなし。ここからいろいろなことにつながっていくのですが、それは2冊目の本で詳しく触れます。
日誌は休み休みだけど、作業は休んでいません。粛々と原稿づくりに励んでいます。今日なんか、6時間以上パソコン、プリンターで作業して、疲れた。晩御飯を食べて、TVerで『最愛』の最新回を観た。
11月25日(木)
国公立の教育学部のある大学で、返事のあったところにはだいたい献本し終わった。私立でも大学院のある所には声をかけた。でも僕の家に、まだ60冊ほど在庫があるので、いろいろ考えて、さらに寄贈の問い合わせ先を拡大することにした。早速返事が来て、広島文教大学、聖徳大学、宮城学院女子大学に送った。
11月16日(火)
気が付くともう11月も半ば。作業がなかなか進まない。というか、今、同時に五つぐらいの作業を抱えている。
⑴大学生を育てるのパイロット版
第一巻 授業・講義編は枠組みはできた。今第二巻ゼミ編に入り、残っている公開ゼミのパンフレット、報告書、などの紹介をどうしようか検討中。
⑵宝塚図書館の講演会のやり残しを、架空の講演に仕立て上げる。講演会90分は短くで語り残したことがいっぱい。喋ってないことを、喋ったふりして、講義録を作っている。これはこれまで何度もやっているので、慣れたもの。問題は、いくらでも長くなってしまうこと。引用がいくらでもできるもんね、
⑶『高校生と文学作品を読む』という本を出版する。今週はこれにかかりっきり、8割方できた。構成も二転三転したけれど、ほぼ固まった。あとは結論部だけだ。ひょとしたら、これは売れる本になるかも。少なくとも150冊ぐらいは売れるはず。
⑷ブリコラージュ通信№12の作成(田辺聖子『花衣ぬぐやまつわる』を読む)
⑸まだ取り掛かっていないけれど、『現代文学評論』の本をまとめる。(今の予定では谷崎潤一郎、丸谷才一、金井美恵子で一冊)
去年卓さんの本の編集作業をして、自費出版の仕方もわかったので、自分の仕事でまとめていないものをまとめておこうと、思うようになった。モチベーションが転移したというか。残り時間も少なくなってきたので、残すものはきちんとまとめようという気になった。
10月25日(月)
二冊目の本『大学生を育てる─教育実践家としての藤本卓』の原稿作りに着手。
第一巻 授業・講義編、第二巻 ゼミ編、第三巻 教育実践家の肖像、という三巻構成で考えて、まず第一巻に取り掛かる。基礎演習については、和賀真純さんから貰った資料を使いながら、当時の学生の作文も一部引用して、文章化している。これはほぼクリア。次に生活指導論のシラバス・授業計画、参考文献一覧などの資料を、取り込み終え、さてこれをどう文章化するか思案中。
第三巻完成まで、これから長い作業になりそうだ。
10月20日(水)
昨日、某国立大学(特に名前は秘す)の図書館からメールが来た。8月に寄贈を受けてもらえるかどうかの問い合わせメールを送ったのだが、その時には返事がなかった。昨日のメールは、今からでも寄贈してもらえるだろうか、無理ならば購入するが、というもの。きっと誰かからリクエストがあり、寄贈の問い合わせを思い出したのだろう。早速本は郵送した。返事のなかった大学はあと14校ある。
この一か月で寄贈した大学がもう一つあるので、全部で50校に贈ったことになった。
9月29日(水)
8月の初めから、せっせと行ってきた大学図書館への寄贈も、ほぼ終わりになったので、まとめて報告をすると、
⑴寄贈をしたいのだか、受け入れてもらえるか、という問い合わせのメールを71件送りました。
⑵受け入れますという返事は全部で48件あり、そこには本を郵送しました。
⑶図書館のスペース等を理由に寄贈は受け入れませんという返事が7件。
⑷残り16件は、返事なし。
という結果でした。打率は6割7分6厘。
図書館によって対応が随分違って、本が届きましたという、お礼のメールや文書を送ってくださった所もあった。
具体的にどの大学が受け入れてくれたかは煩瑣になるので、省略する。Ciniiというサイトで検索をかければ、どの大学が所蔵しているかがわかります。但し、①登録に時間がかかり、まだ未登録の大学がある。②僕から寄贈していなくて、大学が購入し登録されているものもある。
まあ、おおざっぱに言えば、全国で50以上の大学には本が入ることになった。
問題は、うちの書庫にまだ60冊ほどあることだ。欲しい人は手を挙げてください。
9月10日(木)
今日、真美子さんからメールで、息子の迅くん夫妻が成田に無事到着したとの知らせを受けた。10日間はホテルに待機とか。でも良かった、良かった。
資料の整理は、現在ファイル5冊。
卒業生からの原稿は、村田隆くん、伊藤裕美さん、四辻瑛さん、竹内綾恵美さんの4人から届いている。伊藤さんは、追加分として2015年度公開ゼミについてという原稿も貰った。これらは全部、2冊目の本の頁に折り畳んでいます。
9月1日(水)
しばらく日誌を、意識的に休んでいた。書き出すとハイになるからだ。今日は卓さんの誕生日。予定通り、二冊目の本の作業を開始する。
と言っても、部屋の模様変えが主な仕事。段ボールの中味を確認し、ラベルを貼る。
これから、半年の計画で、編集作業をする。材料は山ほどある。問題は何を採り、何を捨てるかだ。DVD9時間分の講義や、講演4本(推定合計8時間)を全部収録しようとすれば、身体を壊す。映画上映会や講演会、公開ゼミの資料は横書きだけど、これを縦書きに直すのも大変。書き文字はたぶんOCRでは読み取れない。WORD化するのはかなりハード。難問が次々見えてしまう。さて、どうするか。
8月17日(火)
新型コロナ感染者はますます増えて、兵庫県にも緊急事態宣言が出ることになった。一体何度目だろう。
雨は降り続け、河川の氾濫や土砂崩れなど、災害が各地で起こっている。
そんな日本全体が危機的な状況に見舞われている中、大学への本の寄贈作業をコツコツやっている。メールは今日までに56校に送り、返事があり次第郵送している。32冊送った。今日は雨のやみ間を狙って、リュックに5冊詰めて、郵便局へ持って行った。帰りにはまた雨が強くなっていた。
8月7日(土)
けいたろうとおかあさんが遊びに来た。30数年前の木馬(編集日誌の一番下に写真あり)にも乗っていた。もともとこれは卓さんが作ってくれたもので、2歳のなっちゃん用にくれたもの。二人でピタゴラスイッチを見る。
グーグルスカラーを見ていて、こんなものを発見。「藤本卓教授追悼企画 子どもの自治的世界を保障する: 藤本卓の" 生活指導論" についての分析」大内梨菜 - 教育学会誌, 2020 - ci.nii.ac.jp。
早速、国会図書館に遠隔複写を申し込みました。大内さんは、卓さんの最後のゼミ生。
8月3日(水)全国の大学への寄贈を始める
今日から全国の教育系大学への寄贈を始める。明石の中西英代さんと群馬の山田ひろ子さんが作ってくれた図書館のリスト(住所・電話・メール・受付係・その他必要事項を網羅した貴重な書類)をもとに、朝から各図書館に、寄贈を受けてもらえるか、一つ一つ確認のメールを送った。午前中10大学、午後7大学に送り、3時現在で返事が6件、1件は委員会の審査待ち、5大学には、速攻ゆうパックプラスで郵送した。でも関東方面への便はオリンピックの影響で遅れそうだ、とか。
8月2日(月)別冊ブリコラージュ通信発注
熱い日中、耳鼻科の定期診察に行く。待っていると、高齢の男性がヨロヨロと入って来た。予約票を出したのだが、一日間違えていたらしい。「えー、そうか、今日じゃなかったのか」と椅子にへたりこんで、汗を拭くおじいさんに、受付の人が出て来て、「いいですよ、今日見ましょう」と言った。そばで見ていて、いやあ、凄いなあ、と感心した。臨機応変の、自然な対応だ、しっかりした受付さん、ちょっと見直した。
別冊ブリコラージュ通信『藤本卓教育論集』編集日誌をいつもの製本所に発注した。日誌だけで206頁、これ以上になると背表紙が割れる恐れがあるので、「卓さんとぼく」などは、収録を見送った。HPの日誌を削除したり加筆したり、註をつけたり、編集して、読みやすくなったはず。
7月24日(土)
横浜から、なっちゃん、かずき、げんきの三人が遊びに来る。猛暑の中、日ざしを避けて、昆陽池へ。げんちゃんは、せみの抜け殻を見つけるのが好きで、両手で抱えきれないほど集めた。二日続けてみんなでスイカを食べる。かずきとオセロをした。最初自分でもなんか変だな、と思ったら、挟み将棋と間違えていた。かずきも変だなと気づいていたらしいが、関西ではこうするのか、と一瞬思ったらしい。
7月11日(日) あれ、この名前、知ってる!
真美子さんから息子の迅くんが、7月には帰国する予定なんだけど、インドネシアもコロナの感染が急増していて、どうなることか心配している、という話を聞いていた。
ネットで、「出国に中国ワクチン必須を一転 インドネシアが規制緩和」という記事を見つけたので、読んでいくと、こんな一文に出くわし、びっくり!
《ジャワ島中部のジョクジャカルタのガジャマダ大学院生の藤本迅さん(35)は日本で就職先が決まり、7月下旬の帰国を予定していた。》という文で、以下彼の発言が載っている。
朝日新聞デジタル2021年7月11日8時15分 半田尚子さんの記事
8月1日から在外邦人対象の新型コロナワクチンの無料接種が始まるようで、迅くんの帰国はそれ以後ということになりそうだ。
7月8日(木)
本が出版され、カンパしてくれた方に本を送るという仕事も終わり、以前のような忙しさはなくなった。8月からは教育系の大学に寄贈、9月からは二冊目の本「大学生を育てる」の編集、と次の計画は立てているのだが、どうも身体(気持ちも)なまってしまうような気がして、『別冊ブリコラージュ通信』を作ることにする。(『ブリコラージュ通信№12』発行には少し時間がかかりそうなので)
別冊の目次は、第一部「編集日誌」(2020年6月~2021年5月)、第二部「卓さんとぼく」、第三部「藤本卓 アーカイブ」という感じで、小部数限定発行の予定。
うちの奥さんは、定年後も再雇用で週3日働いていたが、7月いっぱいで完全退職。7月6日が一応最終出社日だった。これでぼくもお弁当のおかず作りから解放される。
コロナワクチンの2回目の接種を5日に受けた。一応、発熱する心づもりでいたのだが、そんなこともなく、まあ元気。