藤本ゼミ卒業生の皆様へ
─2冊目の本(『教育者としての藤本卓(仮題)』)を作ります─
2021年3月21日
ふじもと編集工房・藤本英二
【1冊目の本『藤本卓教育論集』は2021年5月出版予定】
ちょうど一年前、2020年3月18日、大東文化大学の藤本卓氏は癌のために69歳で急逝しました。50年前に大学で出会って以来の友人として、私は彼の遺した多く論文を編纂して一冊の論文集を作ろうと思い、6月に『藤本卓教育論集』編集工房というHPを立ち上げ、作業を進めてきました。ここに何人かの藤本ゼミ卒業生も追悼の文章を寄せてくれ、資料提供にも協力してくれました。
入手可能な論文を収集し、10月に4冊のパイロット版(冊子)を作りました。
11月に、大東文化大学の先生方も加わった刊行委員会が出来、知人・友人・同僚・卒業生など多くの方に募金の協力を呼びかけました。
諏訪市に本社のある鳥影社に出版を依頼し、現在最終校正の段階です。表紙のカバーデザインは、長女の藤本里菜さんです。
このような経緯で、2021年5月、『藤本卓教育論集─〈教育〉〈学習〉〈生活指導〉─』(収録論文18編、466頁)が出版されます。彼の学者としての業績は、この一冊によって明らかになると思っています。
【2冊目の本で、教育者としての面を】
しかし、藤本卓氏には教育学研究者としての側面だけでなく、教育者としての側面があったと思います。そしてそれは、彼の教育論とも深いつながりがあったはずです。
2021年3月13日に大学で開かれた「藤本卓先生を偲ぶ会」に参加し、藤本ゼミのスライドやビデオメッセージを見て、彼の教育者としての姿を残すために、もう一冊本を作ろうと思いました。ただ、遺された論文を編集するのとは、全く違う難しさがあります。藤本ゼミ卒業生の協力、証言がなければ教育者としての彼(大学の先生として学生と接していた藤本卓氏)の姿を知ることはできません。
藤本ゼミの卒業生約120名のうち、連絡先が判明していて、この手紙を送るは45名です。連絡先のわかる方に、この手紙を広めてもらえれば、ありがたいです。
1冊目は学術書・専門書として作りました。これは大きな書店の棚に並び、ネットでも注文できます。2冊目は、本の性格からして、正式に出版社から出すことは、かなり難しいと思います。それでも、藤本卓氏の知人、友人、卒業生に読んでもらうための本(私家版)なら作れるので、とりあえず冊子(パイロット版)の形で作ります。
【現在手元にある資料から考えた3つの柱】
具体的にどんな内容の本にするかですが、これまで編集工房に提供された資料(提供者:礒部光泰氏、村田隆氏、和賀真純氏、下山たみ氏、小野雄一郎氏、大澤明浩氏、ほかに情報提供者あり)や、研究室から回収してきた資料をもとに、こんな風に考えました。
⑴講義や授業を紹介・復元する(藤本先生はどんな講義・授業をしていたのか)
〔入手済み資料〕
・「はせがわくんきらいや」感想文集、
「あなたに合う教育方法」(フリースクール班OMIYAGE)+「発表を聞いてorして今思うこと」、
文集「あなたが大人になったと感じた時」、
丸木美術館訪問レポート集、他
・「生活指導論」「特別活動の研究」のノート
・本人作成のシラバス、授業で配布したプリント
・2004年生活指導論DVD(12回×90分)
…文章化すると相当な分量になり、これだけで一冊の本ができます。
⑵藤本ゼミの活動を紹介・復元する
〔入手済み資料〕
・学び欲がいっぱい 『こんばんは』報告集 2005
・夜なのに明るい学校 映画『こんばんは』感想文集 2005
・「森監督と語る会」ビデオ 2005
・「見城慶和先生講演会」ビデオ 2005
・『里山っ子たち』パンフレット、報告集 2010
・宮崎園長先生ロングインタビュー!! バリアを排除するのではなくどう乗り越えるか2010
・子どもがつくるTHE学校―堀信一郎さんとお話をする会―
「きのくに子どもの村小学校についてのまとめ」2014
・『世界の果ての通学路』2014関連
①パンフレット~問い直せ!〈夢〉と〈学校〉~
映画『世界の果ての通学路』を観て、語り交わす会
②公開ゼミ当日タイムスケジュール+当日シナリオ(全員発言!!)
③『世界の果ての通学路』の感想文集
・藤本ゼミ授業記録2011.5~(ノート)
・ゼミ合宿
・公開ゼミ、映画上映会、講演会
「校庭に東風吹いて」上映会、
「私ガッコのセンセになりません」
「竹内先生とのお話会」
「あたりまえってあたりまえ??自由学校と一般学校のクロスオーバー」2013
など
☆教育学会とのかかわり
⑶ゼミ生の語る「藤本卓先生」……これが2冊目の本の中心になると思います。
【原稿を募集します】
・「原稿を書きます」「協力します」「自分たちの代のまとめをやります」「編集を手伝います」
「ビデオテープ起こしできます」「名簿作りをしてネットワークを作ります」「とにかく何かやります」「こんな資料があります」という方は、手紙でもメールでも、編集工房あてに連絡をください。
原稿は個人で書いてもらっても、何人かで分担(共同執筆)してもらっても構いません。何人かで分担執筆するには、誰か中心になる人が必要でしょう。誘い合わせて、調整して執筆してください。例えば「こんな風な原稿を」募集。
(A)「藤本先生を偲んで」「藤本先生の思い出」「藤本先生はこう言った」「藤本先生と私」などの内容で、タイトル、分量は自由(長くても短くても可)。できるだけ具体的なエピソード、場所、物、言葉が書かれている方が読者にはよく伝わるはずです。
これまでに工房に寄せられたメール、偲ぶ会でのあいさつ、メビデオメッセージ、チャット欄の書き込みなどを「そのまま」、あるいは「書き直し」て、送ってくれても構いません。
(B)「藤本卓」辞典の項目として投稿。
編集工房では、「藤本卓」辞典を作りかけています。ここに付け加える形の原稿を。
例えば
ゼミ室……①本が山積みになり、散らかり放題。「地震が来たら、確実に下敷きになるね。」と、ゼミ生たちは話していた。不思議なことに居心地が良かった。藤本先生の温かさがあったからこそなのかな?②ダンボール箱につめられた「映画上映会の報告集」などが、置かれているはず。お宝の山ともいえる。③(正式には研究室)手前に書棚があり、中央に机と椅子、書棚で仕切った奥に先生のスペースがありました。守衛室でカギを借りれば自由に出入りできました。とのこと。
タバコ……藤本先生といったらタバコ。ゼミ室よりも喫煙所にいる確率の方が高かったかも知れない。喫煙所で課題の話をした学生も多い。
フジモン……大東文化大学の学生たちは、こう呼んでいた。
アイスキャンディ……学生を連れて丸木美術館まで歩いていくのが恒例の行事だった。大学からざっと5~6kmはある。夏場にアップダウンのある坂道をよく学生は歩いたものだ。毎年、奥さんが川原まで、アイスキャンディを差し入れに来ていた。一度だけ冬にやったことがあり、その時は豚まんが差し入れられた。
(C)自分たちの代が、特に力を入れた活動を、今振り返ってみての原稿。例えば、
2005『こんばんは』、2010『里山っ子たち』、2012『堀真一郎さんとお話をする会』
2014『世界の果ての通学路』など
※残っている報告集、感想文集などを再編集して、コメントを付け加えるというやり方も可。(研究室で見つけた資料複数部数あります)
(D)日々のゼミ、あるいは合宿ゼミ、公開ゼミなどを、今振り返ってみての原稿。
8月末までに原稿を集めて、9月中に編集、10月に印刷、発行というのが、とりあえずの予定です。原稿の締め切りは、8月末ですが、出来上がり次第送って下さい。手書きでも、ワードなどでも可。適宜、編集工房のHPに掲載します。
藤本ゼミ卒業生の皆さん、忙しい日々を送られていると思いますが、できる範囲でかまいませんので、ご協力をよろしくお願いします。
兵庫県伊丹市松ヶ丘1丁目155-8 藤本英二
電話 072-782-9015
メール eiji1952@kd6.so-net.ne.jp
参考
【「ふじもと編集工房」の見つけ方】
2020年6月から運営していた、『藤本卓教育論集』編集工房というサイトは、ブロバイダーのソネットが1月末でサービスを停止して、使えなくなりました。そこで、新しく、グーグルサイトで「ふじもと編集工房」を作り、そこに移行しました。今後も、ここを拠点として情報を集約、発信していくつもりです。ただ、単純な検索ではなかなか見つかりません。
このHPを見つけるには次のような方法があります。
⑴この「ふじもと編集工房」のURLは
https://sites.google.com/view/fujimo です。
どのページにも、そのページのURLを示している欄があります。
そのURLを消去して、そこに張り付けると(まあ乗っ取るようなものですが)、いくつか行先の候補が出てきます。そのうちの「ふじもと編集工房」をクリックすると、ここに行きつけます。
⑵難しければ、メールをください。返信メールを送りますので、そこのURLをクリックしてください。
⑶QRコードも作りました。ウェブサイト閲覧で、それを使ってもらっても可、です。このプリントの最後に載せています。
【現在のHPの内容】
新しい「ふじもと編集工房」は、三つのサイトから出来ています。
⑴『藤本卓教育論集』編集工房…これまでここを拠点にしてきました。
⑵藤本英二・文学研究室…将来、ここで仕事をする予定。今は未整理。
⑶高山智津子・文学と絵本研究所…アーカイブです。
⑴『藤本卓教育論集』編集工房には、次のような内容を掲載しています。
編集日誌…ほぼ毎日更新。
『藤本卓教育論集』
研究者として
藤本卓著作一覧
論文等アーカイブ
パイロット版全4巻
教育者として
藤本ゼミ
講義のあれこれ
映画上開会・公開ゼミ
記憶の中の肖像
友人から
卒業生から
家族から
ことばの切り貼り帖
「藤本卓」辞典
神大ゼミ実での卓さん
1冊目は、『藤本卓教育論集』と「研究者として」を中心に作りました。
2冊目は、「教育者として」と「記憶の中の肖像」を中心に作る予定です。
連絡先
兵庫県伊丹市松ヶ丘1丁目155-8 藤本英二
電話 072-782-9015
メール eiji1952@kd6.so-net.ne.jp
「ふじもと編集工房」のURLは
https://sites.google.com/view/fujimo
QRコードは折り畳みページの外にあります。
上のQRコードは「ふじもと編集工房」のものです。折り畳みページには写真を入れられないので、、ページの外に出しました。
記憶の中の藤本先生
2011年卒 藤本ゼミ・元ゼミ長 村田隆
(1)ゼミの思い出
大学構内の教室を借りての自主上映会「里山っ子たち」の実施など、ゼミの思い出はたくさんあります。そして、藤本先生とはゼミを通してたくさんお話をさせていただき、そのことは今でも昨日のことのように思い出されます。
ゼミでの思い出は、きのくに子どもの村学園や木更津社会館保育園等の勉強をしたことです。公教育しか知らない私にとっては良い意味で既成概念を壊されて「本当にこれでいいのか」と考えられる姿勢が身についた貴重な勉強時間でした。
ゼミでは上映会の実施以外にも、いくつかの書籍を使用して学習をしていました。その中の一冊が藤本先生が翻訳された「あきらめない教師たちのリアル」です。一章ずつ分担を決めて、A4・1枚程度にレポートを書くというものです。レポートについては指定された項目がありました。①主な登場人物、②内容要約、③日本との相違点と類似点、④日英比較に関わる質問事項の4つです。今思えば、藤本先生がイギリスに行った時の経験を私たちに教えてくれていた貴重な時間だったのだなと思います。
そのほかは「虫眼とアニ眼」という本も取り上げて勉強をしていました。トトロを見つけた時のメイちゃんの目が本当にいいですよねと仰っていました。
講義で使っていた「<教育>と<学習>の平行シェーマ」について、確か藤本先生とゼミ室でお話しする機会があったのですが、ライターでたばこに火をつけようとしながら「これは自信作なんですよ。」と、微笑みながら言っていたのを覚えています。
他にもゼミ室で、藤本先生が演劇が好きだという話をされていたのを覚えています。たまに演劇のチラシもゼミ生に配っていました。俳優座の2009年公演、加藤剛さん主演の「コルチャック」のチラシが手元に残っていました。
(2)当時の記憶
当時、藤本先生は授業の評価について厳しいという評判でした。私は単位を落とさないように心して受講しなければならないなと思っていましたが、それを裏付けるようなことがありました。
当時は、授業の最後に出席カードという色がついた小さな紙に、直筆で学籍番号と名前を書いて提出をしなければなりませんでした。多くの大学の先生は、さぼらないようにと毎回出席カードの色を変えたり、名前を出して返事をさせたりしていた先生もいたようです。しかし、藤本先生は毎回授業での出席を取りませんでした。(たまに出席をとっていましたが…)確か最初のオリエンテーションで「授業に出ていればテストもできる。さぼっている人はテストの結果でわかるから毎回の出席はとらない。」と仰っていたような気がします。逆に考えれば、さぼっていると単位を落とすぞということと、頑張って授業を受けなければ出席していないのと同じだということを暗に伝えたかったのではないかなと思います。これを聞いた私は、やはり心して受講しなければならないなと思いました。しかし、別にそんなに身構えることもなく、授業の内容は私自身とても興味があったものばかりでとても面白かったです。編集日誌にもありましたが、授業で勉強していれば知識は増える(既知)が、今まで知る必要がないと思われる領域も知る必要が出てくる(未知)から、なおさらおもしろいし、勉強すればするほど分からないことが増えるということを仰っていたような気がします。
(3)真剣に向き合ってくれた藤本先生
私が藤本ゼミを選んだ理由は、勉強の内容が面白かったということが1番の理由です。しかし、実は藤本先生の授業で良い成績が取れなかったことが悔しくて見返してやろうという思いもありました。2年生のときの生活指導論の成績はCでした。納得できなかった私は、自分にはないものを藤本先生から色々と吸収させてもらって、もっとレベルアップしてやろうという思いがあったのです。
そんな負けず嫌いな私を見透かすがごとく、藤本先生はとにかく正論を私にぶつけてきました。ゼミ長として相談することが多かったのですが、私はぐうの音も出ないほど、完膚なきまで言い負かされることが多かったです。そしてそれは私の負けず嫌いに火をつけ、ゼミにおいての活動力の源にもなっていました。
小学校の教員になってから当時を思い返してみると、藤本先生は私の特徴を捉えてくださり、上手く声かけをしてくれていたのだなと思います。
また、藤本先生はとにかく学生のためになることを第一に考えてくれていました。私は当時、中学校の国語の教員を目指していました。卒論をどうするか迷っていたとき、藤本先生に相談したところ、「あなたは中学校の教員になることを見据えて、たくさん本を読んだほうがいい。国語の教員になる上でこれは読んだほうがいいという本を教えるから、その本を読みなさい。」とアドバイスをいただきました。卒論ではなくゼミ論に切り替えて、教えていただいた本を読み、教材研究をして授業で使うならこう使いたいという内容をまとめました。
(4)久々の再開
私事ではありますが、2019年8月に大東文化大学に教員免許更新講習に行きました。よいきっかけだと思い、その時に藤本先生と連絡をとり、更新講習の期間にお会いすることができました。そのときに、さすが藤本先生だなと思ったことは、この言葉を聞いた時でした。
「今は大学関係の仕事で忙しくて、なかなか本来の研究が進んでいない。しかし、定年を迎えたらようやく自分の好きな勉強ができる。」
この言葉を聞いた時には、生涯現役の先生なのだなと強く思いました。定年後でも、研究を進めようとする姿勢に私も胸が熱くなりました。他にも、私が大学時代に勉強したことは現場ではなかなか使うことができていないとお話したところ、大学では学生たちに批判する目を養ってほしい、本当にこれでいいのか?と考える姿勢を持ってほしいとお話されていて、その姿勢が身に付いていれば大学での勉強には意味があると仰っていました。また、大学教員として最後に何か一つ大きなイベントを企画・実施したいと仰っていました。内容についてはまだ決まっていなかったらしく、大学生と現役の教員が話せる場を設定するという大まかな内容を聞きました。そのイベントで現役教員が必要になった時には声をかけるからよろしくと言われ、もちろん協力しますと返答してお別れしたのが最後でした。
最後に、昔、藤本先生に冗談交じりに「君は小学校の教員っぽくないよねぇ」と言われたことがありました。前述した私の気性を知ってのことでしょうが、実はこの言葉に対しても見返してやろうと思っています。藤本先生、先生の言葉には負けません!
永遠の恩師
2015年度卒業生 伊藤裕美
藤本先生との出会いは、大学2年次の必修科目である基礎演習の授業でした。基礎演習とは、大東文化大学教育学科の1,2年次にクラス単位で受ける、教育学を学ぶ上で基礎となる学習をする以外に、ホームルームのような役割も持つ授業です。この授業の担当の先生は、まるで「クラスの担任」のように、1年を通して深く学生と関わりあいました。
1年の頃から藤本先生の噂は何となく耳に入っていました。とても癖のある先生という噂が…。2年次の担当が藤本先生と知ったときは、どんな授業になるのだろうか…と、大変緊張していましたし、何だか怖いなぁ…とも思っていました。
しかし、授業が始まってすぐに、私は藤本先生の授業にドハマりしました。授業が始まってすぐの頃にみんなで音読した、大変インパクトのある詩集「はせがわくんきらいや」。そのときからすぅーっと、藤本先生の世界に引き込まれていたように思います。
2年の後期、ゼミを決める際に、私は4~5人の先生方のゼミを見学させて頂きました。どの先生も素晴らしい先生で、先輩方も楽しそうに活動していて、でも何だか決め手に欠ける…、そのような中で最後に見学させて頂いたのが、藤本先生のゼミでした。そのときに直感に近い感覚で、「あ!ここのゼミに入りたい!」と思いました。これまで見学させて頂いたゼミは、先生も先輩方も笑顔で、和気藹々とした雰囲気のゼミばかりでしたが、藤本ゼミは藤本先生を中心に、先輩方が真剣に議論をしていて、それまで見学させて頂いたゼミと比べて、ピンと張り詰めた雰囲気がありました。でも何故か惹かれる、楽しそう、私も参加してみたい…という思いが湧き上がってきました。またしても私は藤本先生の世界に引き込まれていたのですね。
正直な話、藤本先生は万人に好かれるタイプの先生ではなかったと思います。特に女子学生からは。同じクラスの友人に、「私、藤本ゼミに入る!」と言ったときも、「えーーー本当に?」「すごいね」などといった反応をされることが多かったです。ですが、やはり私と同じように藤本先生の世界にハマってしまう学生もいて、藤本ゼミを第一希望とする学生は、おそらく毎年一定数いたのではないかなと思います。
藤本先生は厳しそう、藤本先生はちょっと苦手…、そういった声を友人たちの間で度々聞いていましたし、藤本ゼミに入ったと言うと、あの藤本先生の…とても厳しいゼミに入っている、なんて思われたこともありました。確かに藤本先生は厳しさを持った方でした。基礎演習の授業では学生に対して厳しいことをおっしゃることもありましたし、定例会では鋭く物申している先生の姿を毎年のように見ていました。先生が担当する「生活指導論」や「特別活動の研究」なども、哲学的な内容が多く、先生のおっしゃることを聞いてすぐに自分のものにすることは難しい内容だったため、とっつきにくいと感じる学生も多かったと思います。そのため先生に苦手意識を持つ学生も一定数いた印象でした。
ですが、先生は厳しさ以上に、学生一人一人に対して愛情を持った先生であったと私は思います。学問に対しても、「人」に対しても、徹底的に追究しようとする先生の人柄が、先生のことをあまりよく知らない学生にとっては、「厳しい先生」に見えてしまっていたのかな…と思います。先生の不器用な性格が尚更、そう思わせてしまっていたのかもしれません。本当は学生とおしゃべりすることが大好きで、少しお茶目な一面もあって、大切な奥様のことを嬉しそうに話す先生の姿を知ってしまうと、「藤本先生、優しいよ!基礎演習もゼミも楽しいよ!」と、声を大にして言いたくなりましたが。ゼミも、他の先生のゼミと比べて特別厳しいと思ったことはありません。ただ、やるときはやる、少しでも気になる部分や引っ掛かる部分は徹底的に追究しようとする姿勢は、藤本ゼミが他のゼミに負けない長所だったかなと思います。
そんな藤本先生に惹かれた人たちが集まる藤本ゼミ生は、個性豊かな集団だったと思います。各々自分の意見や考えをしっかりと持ちながらも、他の学生の考えにも耳を傾け、共感することができる学生たちが集まっていたと思います。生まれ育ち、性格、将来の夢、みんなバラバラな学生の集まりでしたが、人見知りだった私も何故だか、ゼミ生同士で集まり、話し合いをしていたときは、何となく居心地が良かったことを覚えています。
私は教育学科にいながら、教師を目指していませんでした。高校生だった頃、当時よくテレビに教育学者の尾木直樹先生がコメンテーターとして出演していた影響もあり、教育学って面白そうだな、と思っていましたが、それは社会学面白そうだな、心理学面白そうだな、と同じくらいの感覚でした。大学で学ぶことに対する憧れはありましたが、将来の夢は特に無かったので、とりあえず理系科目は苦手だから文系、数学が苦手だから経済学は向いてなさそう、であれば文学部で細かく専攻に分かれている学部なら、興味のあることを中心に幅広く学べそう、という理由で、文学部の教育学専攻や社会学専攻などを中心に受験していました。大東文化大学は第5希望くらいで、とりあえず自宅から通いやすいから滑り止めとして受けておこう、くらいの思いしかなく、オープンキャンパスにも行かず、実はカリキュラムすらあまり見ていませんでした。入学後、大半の学生が教師を目指していることを知り、私は場違いなところに来てしまったのか…と初めて気が付きました。
私は父が教師であったこともあり、常に忙しそうで家庭を顧みない父の影響と、教師という仕事の責任の重さに耐えられる自信がなかったことから、教育学科へ進んでも教師になりたいとは思えませんでした。なので教職も取らず、語学やら教養科目やら、興味のある科目を片っ端から受けてみているような時間割を作っていました。藤本先生にとっては、そんな私が教育学科の学生としては珍しく、また心配だったのかもしれません。「将来どうするの?」「教育学を学んで、将来に活かせそう?」といったことを度々聞かれました。当時の私は、大学で学んだこととは全く関係のない仕事に就くというのもよく聞く話で、むしろ文系の学生の大半がそうであると思っていたので、どの学科にいようが進路選択は自由なはずなのに、どうして先生はこんなに私のことを探ろうとするのだろう…と思っていました。
今となって改めて実感することですが、藤本先生は誰よりも、学生に寄り添おうとしてくださった先生でした。今までの人生を振り返ってみても、こんなに学生一人一人の人生に、真摯に向き合い、寄り添い、導こうとしてくださった先生は、私にとっては藤本先生しかいませんでした。
藤本先生は人を見抜く力が大変鋭い方でした。私が教師を目指していなかった理由の根底に父の存在があったこと、両親との関係に悩みを抱えていたこと、自分に自信が無いことも教師を目指さない理由の一つであることを、全て見抜かれていました。自分でさえ、はっきりと気がついていなかったことも、先生は気がついていたように思います。
大学を卒業して社会人になり、今までたくさんの壁にぶつかってきました。
新卒で就職した会社では、新卒の社員は皆、営業職からスタートする決まりがあり、私も営業を担当することになりました。ですが、一人っ子で闘争心が無く、のんびり育ってしまったせいか、やはり他者と競い合いながら利益を上げる営業という仕事には、大変苦戦させられました。また、男性比率の高い職場だったこともあり、体力の面でも男性との差を感じさせられました。
藤本先生は利益主義である民間企業に就こうとしている私に対し、あまりいい顔をしていなかったように感じますが、おそらく競うことが苦手な私の性格からして、苦労することが目に見えていらっしゃったのでしょうね…。当時は、なぜ私にばかり、民間企業の悪口のようなことを言うのだろう、日本の人口の過半数は企業勤めの会社員なのに…なんて思っていましたが。
ですが、仕事をする中で唯一「書く作業」だけは得意でした。営業職として、マーケティングの内容をレポートにまとめる機会が多々ありましたが、それだけは毎回褒められていました。
私は「書くこと」が好きです。なぜ「書くこと」が好きなのか…、それも、藤本先生が私のゼミ論文や卒業論文を褒めてくださったことが、大きなきっかけになったと思います。
これまでの人生を振り返ると、私は何をするにも不器用で、失敗を繰り返してばかりな人生でした。幼いころ、母は一人っ子の私に退屈させまいと思ったのか、たくさんの習い事をさせてもらいました。ですがその中で本当に好きでやっていたことは無く、たくさんお金をかけてもらったのに特技と言えるものが作れなかったことは、私の長年のコンプレックスでした。中学時代はスポーツが苦手という理由から、消去法で強豪の吹奏楽部に入部したものの、厳しい練習についていけず、体調を崩し、結局退部。高校は某女子大学の系列校に通っていましたが、これまでのコンプレックスを克服したいという思いから、系列の女子大の推薦を蹴って一般受験しましたが、これまた玉砕。今でこそ、大切な友人や尊敬する恩師に出会えた大東文化大学を誇りに思いますが、当時は第5希望くらいだったものですから、大変落ち込んでいました。
特技も何もなく、自分に自信が無く、コンプレックスの塊だった学生時代、そのような中で気づくことができた「書くこと」という武器。それに気づかせてくださった藤本先生の「人を見抜く力」の凄さを、今改めて感じています。
私は大学を卒業して2年ほど経った頃に結婚し、2018年11月に第一子を出産しました。
息子は本当に本当にかわいいです。しかし育児をしていく中で、これまたたくさんの壁にぶつかります。育児にはたくさんの選択があります。早期教育の賛否、乳幼児期から共働き(保育園)か家庭保育(幼稚園)か、公立の学校で育てるのか、より子どもに合った環境を選択するのか、など。もちろん各家庭の方針や経済状況によって選択は様々です。また情報化社会である令和の時代の育児は、不確かな情報が無限にある中で、自分なりの軸と方針を持ち、情報の取捨選択をしながら育児をしなければなりません。私は教育学科で学び、たくさん議論し、考えてきた経験の甲斐もあり、不確かな情報に惑わされることなく、自分なりの軸を持って育児はできています。ですが時折藤本先生に、「こんな時、先生はどうお考えになりますか?」などと聞いてみたくなったりもします。教育学に精通する先生が、どのような考えなのか聞いてみたい、という好奇心からですが。
いつかは子どもを連れて、また母校である大東文化大学に行きたいな、藤本先生に会いに行きたいな、と思っていましたが、叶わなかったことは大変残念です。
ですが、藤本先生は私の心の中に、「永遠の恩師」として残り続けると思います。どうか今後も、私たちのことを見守って頂けたら幸いです。
現在28歳で、2016年卒の代のゼミ長でした。
藤本先生には本当にお世話になり、
いまだに亡くなったことが信じられないのですが
「教育者としての仕事」の記録に役立てばという思いで
メールを打っております。
藤本先生は大学2年生のクラス担任だったこともあり
3・4年のゼミも含めると3年間とてもお世話になりました。
色々お話ししたいことがあるのですが
私の自己紹介を先にさせていただきます。
大東文化大学への入学は第一志望の埼玉大学に落ちたため決めました。
高校の友人は東大や早慶に行く人が多い中でなんだかとても学歴コンプレックスを
抱えたまま入学したのをよく覚えています。
しかし、藤本先生に出会えたことで私の人生は大きく変わりました。
あれほど熱心に指導してくださる先生に出会えたことは
私の中で、大きな財産です。
大学卒業後は明治安田生命に営業として入社しましたが半年で退職、
その後税理士を目指し、税理士法人へ3年間勤務、
結婚し子どもが産まれ(まもなく2歳です)育休中に
貿易やコンサルティングの会社を立ち上げ、
今は小さい規模ではありますが年商数億円程度の法人を2つ経営しています。
いずれはシングルマザー・ファザーの貧困世帯に衣食住の提供や
カンボジアに孤児院と学校を建てて継続的な支援ができるようになれたらな、
と思っています。
大学時代の藤本先生との思い出は多々あるのですが
特段記憶に残っていることとして2点、お話したいと思います。
まず1つ目は成績の不服申し立てを手伝ってくださったことです。
上記のように少しの学歴コンプレックスを抱えながら
大学時代を過ごした私はせめて、勉強だけは頑張ろうと
首席で卒業することを目指して色々な学業を楽しんでいました。
卒業式の日に藤本先生に「40年の教員人生の中で見たこともないほどいい成績だ。だけどアルバイトをしすぎて
首席になるための単位が足りていなかったよ。残念だったけどあなたらしいね。」と言われました。
ずっとこの大学に入学したことが正解だったのか、悩んでいた私にとっては
卒業証書よりもうれしく、価値のある言葉でした。
この先生に出会えてよかった、この大学に入ってよかったと心から思えた瞬間だったからです。
藤本先生のことだからきっと私がそう思うことまで予想して、
かけていただいた言葉だったのかなとさえ思ってしまいます。
本題ですが大学3年生の時に受けていた保育の授業で「B」という評価をもらいました。
大学2年生までSとAという評価しかなかった私は
なぜ真面目に授業を受けていたのに、遅刻や欠席が多い生徒よりも
評価が低いのかと不服申し立てをしたのですが取り合ってもらえず
何かの機会に藤本先生に話をしたところ
「徹底的に解決すべき」と荒井明夫先生にまで話を上げていただき半年ほどかけて
私の友人などからも話を聞いてくだり、評価の妥当性を確認した上で
教育学科の大きな問題として取り上げてくださりました。
当時のメールが残っていましたので、載せます。
>
> 2016/02/16 16:06、Fujimoto Takashi <fujimoto@ic.daito.ac.jp> のメッセージ:
>
>> 羽中田さん
>>
>> 成績評価の件、困りましたね。このままにはできません。
>> 厳格な公式の場での「証言」を求めているわけではありません。私と電話で、あるいは学科事務室で話しをするだけで、当事者の先生にはその学生の名前は伝えませんし、発言内容について公的な責任が問われることなどありません。ですから、その旨説明して、もう一度頼むか、誰か他の人(複数)を頼んでください。
>> もちろん、すでにこちらで他の人の話も聞いていますが、あなたがあなたのことを理解したうえで話しをしてくれる人を頼めないとなると、その点で、あなたの主張は極めて根拠薄弱なものとして受け取られることになります。
>>
>> この件、今日ないし明日、もう一度電話をください。
>>
>> 教育学科主任 藤本 卓
この一件を通して、藤本先生の教育に対する公平さというのか
適当な言葉が見つからないのですが、情熱というのか
そういったものも感じました。
が、一番今の自分の軸にもなっている
「おかしいと思ったことをそのままにしない、自分に嘘をつかない」ということを
教えていただいた経験でもありました。
どちらかというと八方美人だった私は藤本先生に出会っていなかったら
自分の気持ちを押し殺して生きていくような人生になっていたと思います。
しかし、「変えられないと思ったことでも自分の努力や毅然とアプローチすることで
何もしないよりは遥かにいい結果が得られる」ということを教えてもらえたので
何をするにも疑問を持って、”疑問”で終わらせないような自分に変わるきっかけになりました。
もう一つ思い出に残っていることは、困った時に助けてくださった電話です。
ゼミ長だったこともあり、藤本先生と電話をする機会が多かったのですが
Fujimoto Takashi <fujimoto@ic.daito.ac.jp>
2015年12月6日(日) 20:03
To 自分
羽中田さん
卒論の仕上げ作業、どんな具合ですか?
迷って困っていることなどあれば、電話をください。夜中12時までOKです。
いずれにしても挫けずに!
藤本 卓
こんな形で、困ったなあどうしようかな、と思った時
全てを知っているかのように、いつもメールをくださりました。
実際に電話をかけてみると
夜中12時どころか2時まで続く時もありました。
授業の時のキリッとした雰囲気とは違って
昔のことや、先生が今どんなことを過ごして研究をしているかなど
藤本先生の、先生以外の部分をたくさん知ることができました。
時にはこんなヒヤヒヤするようなメールも・・・。笑
公開ゼミの準備が全く進んでいなかった時に電話をくださいと言われた時のメールです。
なお、今年の準備は、これまでにないお粗末さで、心配な状態です。直前、当日で取り戻してください。
木曜には、私は、2時くらいから大学に行っています。
藤本 卓
どんなお叱りを受けるのか、ドキドキしながら電話をかけると
予想とは正反対に「忙しい中頑張っているね」と声をかけてくださったり
本当に最後まで掴めない人でした。
(全部自分の心を読み取られているような気がしていつも藤本先生と
お話しするときは丸裸の気分です。笑)
ゼミでは、先輩も含め一人一人が
自分のトラウマと向き合ったり普通の先生なら
扱いにくいだろうと思うようなことに、真剣に向き合ってくださりました。
そのためゼミの時間は自分の心と向き合う時間がとても多く
自然と涙が出るようなこともたくさんありました。
私は教育学部に入ったのは先生を目指していたからなのですが
教育学部に入ったからといって必ずしも先生にならなくていい、
教育の形は色々ある、と
教えてくださったのも藤本先生です。
まとまりのない文章になってしまいましたが
大学生という貴重な4年間を藤本先生のもとで過ごすことができて
本当に幸せだったなと思います。
四辻 瑛
タイトル:未定
■序にして跋-1996-
また春が近づき、卒業の季節がやって来ました。本当に疾い、と感じます。そして、自分の大学卒業の頃のことを思い出します。「あの頃は、たった一年の間にでも“人生”が変わってしまう程だった。一年前の自分の姿は遥かにかすみ、一年後の自分のことなど想像もつかない、そんなだったな・・・」
みなさんは、どうですか?
さて、今年のゼミ論集ですが、全員が提出期限に遅れました。なんということですか。ですが、必ずしもそれを悪くは考えていません。「本当は、もう少しキチンと書きたかったというふうな“心残り”をどの人からも感じられたからです。いくらか本気で取り組んでくれたんだな、と思っています。
一人ひとりのテーマに、それぞれ“その人らしさ”を感じさせるものがあるのが、何よりです。ただ、それをあと一歩、普遍性のある問題関心につなぎ深める、という点なるとこちらの責任も感じないではいられません。その意味でも、一年間は疾かった。もっともっと一人ひとりと話し込む必要があったと反省しています。
ただ、ゼミというのは、教員と学生の個別の関係を集めただけのものではないとすれば、学生同士の相互刺激ももっとほしいとも考えます。その点、幸か不幸か、来年度は学生数が極端に少なくなるようですが、ゼミとしては、もっともっと手応えのあるものにしてゆきたいと思っています。今年のゼミ論は、そう思わせてくれる所までは迫ってきています。
卒業するみなさん
あなたたちの人生は、まだ、始まってすらいないのかもしれません。自分の力で、自分の“人生”を始めてください。勇気をもって。
大東文化大学 文学部 教育学科 藤本ゼミナール「1996年度藤本ゼミ論文集」より
■東北の春
1994年の春、福島から上京した私にとって東京の春はもう初夏のように感じられた。
大学の一号館教室で行われた「教育原理」の最初の授業だったと思う。青々とした木々を窓越しに眺めながら藤本先生はこう語った。「春ですね・・・」と。
これに私は、「先生、これは春ではないです、初夏です」と異論を唱えた。すると、藤本先生は時折見せる少し間合いを取った口調で「僕は兵庫県の明石の出身だから、春のように感じるけど、あなたの故郷の春は違うのだろうか」と若干の苦笑いを含みながら応えてくれた。私は一体何が気に入らなかったのか「春はこんなんじゃないです。もっと新緑が萌黄色で光がやわらかで。日々少しずつ少しずつ暖かくなってくる。それが東北の春です」と、口をとがらせたままだった。
何を隠そう藤本先生との最初の会話がこれだった。一般的には当たり障りのない季節の話題に食ってかかるヘンテコな学生がいると思っただろう。この時のエピソードはそれからだいぶ経ったある日につながっていた。
■たった一人のゼミ志望
教育学科の必修科目になっていた「教育原理」は大学で最も好きな授業だった。しかしながら、やや難しい内容でもあり、藤本先生が課す半期ごとのテストは、授業にただ安穏と出席している学生にはヘビーだっただろう。しっかりとした理解と自分なりの見解が求められる論文式のテストでは、直筆のノートのみ持ち込み可であったが誰かがまとめたであろうコピーはNGだった。さらに、授業の出席回数が良くても、テストの結果が悪ければ容赦なく低い評価を下した。これに反感を持つ学生も少なくなく、私の学年で藤本ゼミを志願したのは、200名ほどいた学生の中で、私、ただ一人であった。
どちらかというと硬派な教授に分類されていたであろう藤本先生もこれには気を使って、私に次のような提案をしてきた。「私のゼミを志望してくれてありがとう。しかしながら、あなた以外には志望する人がいません。ゼミというのは学び合う学生がいることもとても重要です。もし、あなたが教育の環境として望ましくないと思うのであれば、別の先生のゼミへ変更して構いませんよ」と。私は、この提案は少し意外だった。自分が学びたい分野を研究している教授のゼミを専攻することが第一の目的であり、熟考させられる藤本先生の授業スタイルにも満足していたからだ。そこで「私は一人でも全く構いません。むしろ出席だけして教室の後部席に陣取りただ無駄話をして過ごしているようなやる気のない学生と一緒じゃない方がいいです。先生さえ宜しければゼミを開講してください」と嘆願した。すると藤本先生は、ゼミは4年生もいるので、実際のゼミは私一人ではないということ、そして先生としても本人が良いのであれば、何も問題はないということだった。
ゼミの教材は『ふじたあさやの体験的脚本創作法』(晩成書房1995/4)であった。高校演劇を割と真剣にやっていた私にとって、このことは藤本ゼミを志望する後押しになった。脚本の書き方をまとめたハウツー的な書物が、いったい教育学にどう関係するのか非常に興味深かった。
■藤本ゼミ
そうこうして、めでたく藤本ゼミ生として迎えていただいたのだった。ちなみに転部してきた3年生が藤本ゼミを志望していたため、同学年のゼミ生は2名であった。
冒頭の「序にして跋」は大学3年の時のゼミ論集で藤本先生に寄せていただいた文章である。この文章からも藤本先生の教育哲学や教育者としての姿勢が伺い知れるだろう。学生が主体的にどれだけその課題に取り組んだのか、そして、それはその個人の「らしさ」に基づいた洞察や思考の結果であるかを重要視されていた。また一方でそこまで迫る内容へ導くことが教育者という立場・役割の中で十分であったかを自分に問う内容でもあった。
藤本先生の教育哲学を知る手がかりとして、必修科目「教育原理」の補助教材として採用された『黄色い髪』(朝日文庫 1989/9)がある。
この小説の主人公は中学二年生の女の子とその母親である。女の子はイジメがきっかけで学校に行かなくなり、『都会の夜』に出るようになる。母親は、どうして娘がそうなったのか、その答えを知るために『都会の夜』へ向かい、そこにいる少年少女たちとふれあい、やがて、娘を理解していくというものである。その中で「たとえ自分の子どもであっても所有物として扱ってはならない」という一文がある。藤本先生が授業の中で、たとえ実の親であっても、紛れもなくお腹を痛め細胞分裂して生まれてきた我が子であっても、“子どもは借り物である”というスタンスを繰り返し解説していた記憶がある。この距離感というか、教師とて、同じというのが藤本先生の教育者としての一貫した主張であるように思う。
藤本先生は、どこか近寄りがたい雰囲気を醸しつつ、本質的な議論や洞察にはとことん付き合ってくれた。一般論からかけ離れたような突飛な意見もいい意味で面白がってくれたし、それを単なる個性ではなく、その思考や視点が生まれる原点にリーチするよう働きかけてくれていた。一定の距離を保ちながら。
当然だが、ゼミは仲良しサークルではない。特に藤本先生は下手な同調や同情を嫌い、まずは現状を疑えと言っていたように思う。既成概念にとらわれないよう、短絡的な思考で止まらぬよう、常に揺さぶりをかけてくれた。
私は、大学教授という存在を藤本先生以外ほぼ知らない。他にもお世話になった先生もたくさんいたし、今の仕事上で親しくなった大学教授もいる。しかし、私にとって大学の教授、または教育者としてのロールモデルは藤本先生なのだ。
■教員にはならない
卒業後、私は教師の道を歩まなかった。これは入学当時から決めていたことだった。純粋に教育学を専攻したのであって、教員になるための職業訓練校や資格取得のための学校として大学を活用するつもりはなかった。とはいいつつも小学校の教員免許を取得するために単位を取り、教育実習も行った。1カ月に及ぶ教育実習の様子は実習日誌と受入れ先の担任の先生が評価する評価表から知ることが出来た。日誌と評価表を見た藤本先生から「本当の先生になってはどうですか」と言われたことがある。私が教員になるつもりは更々ないことは藤本先生も十分に理解していた。それでも先生は「少しでもやる気が出てきたら本気で考えてみては?自立した先生になれるよ」と続けた。このやりとりは当時の私の日記に記録されてあり、ついでに“あんなに藤本先生が褒めたことはなかった”と付け加えている。あまり藤本先生は簡単に人を褒めたりするタイプではなかったが、本当に良かったこと、真実に触れた時には手放しで喜び、その価値を伝えてくれる先生だったと思う。
■ハレの日に
ついでに、教育者としての藤本先生とは少し離れるが、こんなエピソードもある。大学を卒業したばかりの1998年3月28日のことだ。ブレヒトの芝居小屋に連れていってもらった。その帰り、先生は卒業お祝いといってお寿司をご馳走してくださった。その際の会話で恋愛の話になり、先生が「あなたに声を掛けてくる男はたくさんいると思うけど、少しつきあってみて、それでも(あなたを)いいという人は大物だよ」と。この言葉には正直、微妙だった。手に負えないおてんば娘というだけでなく、ちょっと偏屈なやっかいな娘というニュアンスを感じたからだ。しかし、この言葉も今なら妙にしっくりくる。
卒業後も先生とはかなり長い間、年賀状や手紙を送るなどして交流を保っていた。社会人になってから先生のお宅へ他のゼミ生と訪ねたこともあった。
私は30歳になる2004年5月に結婚することになった。主人もまた福島出身者であり、お互いの地元・福島で挙式をすることにした。私はいつからか、結婚式をするならば5月初旬と決めていた。現実にそれがやって来た時に、迷わず藤本先生に招待状を出した。これには2つの理由があった。先生に東北の春を見せたかった。私が、先生に初めて食ってかかった東北の春の話。先生にやわらかな新緑の東北を見せたかった。そして、もう一つは、卒業のはなむけとでもいおうか、主人があの言葉の通りの人か見てもらいたかったのだ。この2つの理由から、あまたお誘いを受けるお立場であることを理解しつつも、福島へ招致したのだった。披露宴で藤本先生にスピーチをお願いしたところ、私との打ち合わせはなかったが、あの時のエピソードを交え、「東北の春」とはこういうものかと感じたこと、さらに主人に対してはさすがの大物、スマートでナイスガイであると賛辞を述べてくださった。
■母校での再会
そして、時は流れ、2016年1月、藤本先生に再会する機会に恵まれた。教育学科の公開ゼミナール「私、がっこうの先生になりません」にゲストスピーカーとして参加した時のことだ。参加依頼の手紙は当時の現役ゼミ生からだったが、そこには藤本先生からゲストスピーカーとして私を推薦されたとあった。
卒業から18年、久しぶりの大東会館は改装され、街並みも変わり、懐かしいというよりは初めて訪れるような感覚であった。当時、藤本ゼミ生の4年生は全員、教員にはならない選択をしていた。このことがどうも本人たちを苦しめていたようだった。私が大学生だった時も大半は教員志望であったが、それでも1割程度はそうでない人がいた。また、教員養成課程ではなく、あくまでも文学部を貫いている点も、幅というのか余白のような部分があり、さほど彼らのような息苦しさはなかった。
ところが、私が学生だった時よりも時代は一層、安定志向になり、教員志望は以前よりも増え、大学サイドも教員輩出数は気になるところだったのだろう。その数字をあげることに以前よりも躍起になっているようだった。そのような中で肩身の狭い想いをしていた彼らが思い切ったテーマで公開ゼミを開催するというのだから、この依頼には2つ返事で回答した。
私は、教員になるためだけの狭義の教育学には全く関心がなかった。教員でなくても教育にかかわることは多分にある。実際にマーケティングのコンサルタントとして、企業の課題解決の仕組みを提案し、業務設計を行い、その運用を定着させるためのトレーニングを日常的に行っていた私にとって、教育学を学んでいたことは有利だっただろう。一般企業では育成といういい方もされるが、学校教育とは違った様々な教育が施されている。今でも外部講師として企業の教育の現場に携わっているが、私が大学で学んだことは大いに活用している。
■一生の学び
教育実習を終えて「本当の先生になってはどうか」と言っていただいたことは、素直に嬉しかったし、今でも先生からいただいた最高の褒め言葉として大事に、大事にとってある。
結局のところ、人を育てることの魅力ややりがい、そしてその重要性を感じながら学校という場以外で教師的側面を多分に発揮していることを藤本先生は既に理解していたのだと思う。そしてそれを、少なからず喜んでくれている気がしてならない。
今日も、ホワイトボードを背に、熱弁ふるってきましたよ、藤本先生!
私の教師的側面を見い出し、育ててくださったことへの感謝と、教育者として1つのあるべき姿を示してくださった藤本先生に心から敬意を表します。
2021年9月1日
インサイドセールス コンサルタント
竹内 綾恵美(1998年卒)
2015年度公開ゼミについて
伊藤 裕美
2015年度公開ゼミについて
伊藤 裕美
藤本ゼミでは毎年「公開ゼミ」というイベントを行っていました。公開ゼミとは、教育学に関連する何らかのテーマを年度ごとに決め、ゲストをお招きしてお話を伺ったり、ゼミ生を中心に他のゼミの学生や先生方も交えて討論する企画です。公開ゼミには藤本ゼミOBOGの先輩方、来年度より藤本ゼミに加入する予定の教育学科の2年生、さらには教育学科の先生方、他のゼミに加入している学生も、学年を問わず見学、参加が可能で、ゼミで研究していることをゼミの内部にとどまらず、多くの人に発信できる貴重な機会でした。同時に、現役の藤本ゼミ生以外の、たくさんの学生や先生方の意見を聞くことができる、貴重な機会でもありました。
私たち2015年度卒業生が企画した公開ゼミのテーマは、例年とは少し雰囲気が違ったものでした。私たちの2つ上の学年の先輩方は、自由教育で知られる「きのくに子どもの村学園」について取り上げ、実際にこの学園を卒業した方をゲストにお招きして討論会を行っていました。1つ上の学年の先輩方は、映画「世界の果ての通学路」の上映会を行い、上映後、映画についての討論会を行いました。私も最初は、先輩方と同じような、「子どもの教育に関すること」をテーマとするものだと思っていましたが、実際にテーマとして決まったのは「教育学科から教師以外の道へ進むこと」でした。
私たち2015年度卒業生は偶然にも、全員が大学卒業後、学校の先生以外の進路を選ぶこととなりました。理由はそれぞれで、私のようにもともと教師を志望していなかった学生もいれば、教育学科で学ぶうちに学校教育の在り方や教師の仕事内容に疑問を持ち、まずは他の業種を経験して社会人経験を積んでから教師になりたいと考える学生や、学校ではなく児童福祉施設などで子どもと関わりたいと考える学生もいました。
どのような経緯でこの公開ゼミのテーマが決まったのか、実は私ははっきりと覚えていないのです…。おそらくですが、テーマを決めたのは藤本先生だったと思います。(違ったらすみません)。教師を目指す学生が過半数を占める大東文化大学の教育学科で、藤本先生が受け持つゼミ生全員が教師にならなかったのは、珍しいことだったのかもしれません。特に藤本ゼミは、厳しいイメージを抱かれやすい藤本先生の人柄もあり、真面目な学生が集まりやすいことから、教師を目指す学生が多かったのではないかと思います。実際、1つ上の先輩方の過半数は教師になっています。また、学生の立場だった私には確実なことは言えませんが、もしかしたら教育学科の先生方の間で、教員採用試験の現役合格実績を気にする雰囲気もあったのかな…と、定かではありませんが感じました。私立大学ですので、やはり教員採用試験の合格実績は学生を集める重要なポイントとなるかと思います。実際に、教員採用試験の合格実績が良いという理由で、複数の合格校の中から大東文化大学を選んだという友人もいましたし、ゼミを選ぶ際も、「あの先生のゼミは教採合格率が高いらしい」などと、学生たちの中で噂が流れており、その噂をもとにゼミを決める学生もいたくらいです。はなから教師を目指していなかった私は、藤本先生に少し申し訳ないことをしたかな?と、そのとき初めて思いましたが…。
ただ、これは私の勝手な想像ですが、藤本先生はゼミ生を誰も教師にできなかった悔しさもある中で、あえて私たちの代のゼミ生にこのテーマで公開ゼミを開かせて、「教員採用試験の合格実績が全て」という状況に一石を投じたい、という思いもあったのではないかな?と思います。私たちの代のゼミ生の中には、教育学科からは上位2名しかもらうことができない奨励金をもらっていた、大変成績優秀な学生がいました。そんな優秀な学生をゼミ生として抱えていた藤本先生だからこそ、「教育学科で教師にならない人=教師諦め組」という固定観念を壊そうとしていたのかもしれません。
教師以外の道へ進んだ藤本ゼミの卒業生をゲストに招こうと提案してくださったのも、確か藤本先生だったと思います。先生は公開ゼミ開催にあたって、1998年卒、コンサルティンググループのマネージャーをされている竹内綾恵美さんと、2012年卒、大学卒業後に警察官になられた荻野俊貴さんの2名の先輩を紹介してくださり、私たちゼミ生がコンタクトを取って、来て頂けることになりました。そのときに私が感じたのは、藤本先生は10年以上前に卒業された先輩のことも大変よく覚えており、そして気にかけていらっしゃるということです。公開ゼミだけでなく、ゼミ合宿でも、宿泊先の近くに住んでいた先輩をお招きすることもありました。このような場面からも、学生時代に深く関わった教え子のことを、ずっと忘れずに大切にしていて、学生想いな先生の人柄が垣間見えたのです。
2015年度公開ゼミについての原稿の依頼を頂いたとき、実は当時の記憶がかなり曖昧だったので、当時の資料が無いか探してみたら、イベントのパンフレットと「公開ゼミ参加者事後感想」が見つかりました。この「事後感想」は、公開ゼミに参加してくださった他のゼミの学生や、今後藤本ゼミに入る予定の後輩たちの感想をまとめたものです。パンフレットに記載された日付を見ると、開催日時は2016年1月29日、金曜日の夕方に設定されていました。大学がちょうど春休みに入る時期だったと思います。他のゼミの学生や、ゲストの方々、社会人となったOBOGの先輩方にも来て頂きやすいよう、金曜日の夕方に設定していたのかなと思います。会場となっていた大東文化会館についてはよく覚えています。東武練馬駅を出てすぐのところにある、大学までのバス乗り場の前にある建物で、綺麗な建物でありながら、実は私は建物の使用用途を実はよく分かっていませんでした。いつもはバスに乗るために建物内を通り抜けるだけだったので、会館内のホールには公開ゼミで初めて入ったような気がします。前年度と前々年度は確か、板橋校舎の開いている教室を会場としていましたが、なぜ私たちの代は大東文化会館にしたのか、これも覚えていません…。ただ、2015年度はテーマ的にも現役の学生の意見を大切にしたいため、学科内の学生を多く招き、他のゼミの学生や後輩たちが積極的に発言しやすい雰囲気を作りたい、という思いがあったように思います。あの空間を選んだのはその狙いからだったかな…?と思います。(記憶が曖昧なのでもしかしたら違うかもしれません)。
パンフレットを改めて読み返すと、ゼミ生がなぜ教師以外の道へ進んだのかを書いたエッセイも書かれており、今読むと少し気恥ずかしい気持ちにもなります。当時、ゼミ生のみんなが自分の進路に対して思っていたことについて、社会人になって5年が経過した今、どのような変化があるのか、それとも変化が無いのかは分かりません。ただ、私自身は学生時代から、「教師という職業」や「教育学科卒業後の進路」に対して思うことは、実は今もほとんど変わっていません。
私はもともと教育学科だからみんな教師になるという考えはおかしい、と思っていたので、せっかくやるからには自分がなぜ教師を目指さないのか、必ずしも教師を目指す必要は無いということを、思い切って伝えよう!と意気込みつつも、例年とは雰囲気が全く違う内容に、公開ゼミ前は不安を感じていました。ゼミ生の私情ばかりの話になってしまわないかとも思いましたし、前例のないテーマだったからこそ、来てくださる学生や先生方の反応のイメージがつかめず、このテーマで本当に良いのだろうかと公開ゼミの開催直前までは思っていました。
しかし、そのような私の不安は良い意味で裏切られたように思います。大学卒業後の直近の進路という、学生にとって大変身近な内容をテーマに設定したため、来てくださった皆さんは私が思っていた以上に、公開ゼミに参加したことで色々と考えてくださっていたようです。公開ゼミに来てくださった学生の進路や夢も一人一人異なり、教師以外の道を考えたことが無かった学生、教師以外の道も視野に入れている学生、教師になることに迷いが出てきている学生など様々で、一人一人違った思い、考えを持ってこの公開ゼミに参加してくださっていたと思います。「公開ゼミ参加者事後感想」を読むと、参加者一人一人がそれぞれ異なる視点から感想を書いてくださっていたことが読み取れます。「教育学科=教師だと思っていたけど、教師以外の選択肢があってもいいんだと思えた。」「教育学科にいながら教師にならない人に対して疑問を感じていたけど、教師にならない人の考えも知ることができ、もっと広い視野で物事を見ようと思った。」「今回の話を聞いて、自分が本当にやりたいことを改めて考えてみたら、やはり教師になりたいという思いが強くなった。」など、様々な感想が寄せられました。公開ゼミに参加してスッキリした気持ちになった学生もいれば、モヤモヤした気持ちが残ったままだった学生もいたかもしれません。一人一人、置かれている状況や進路に対する思い、そして公開ゼミに参加して感じたことは違うけれど、一人一人の心に、スッキリでもモヤモヤでも、何らかの印象を残すことはできたのではないかなと思います。
ただ、準備、練習不足でスムーズに会を進行できなかった場面があり、終わった直後の藤本先生の表情は、確かあまり良い表情をしていなかったような気がします。ですが終了後に参加者の事後感想の読み合わせをしていたときは、定かな記憶ではありませんが、いつも通りの藤本先生に戻っていた気がします。学生の感想を読んで、思うことがあったのでしょうか…。
教育学科は学内の他の学科とは、少し雰囲気の違う学科だったと思います。別の原稿のほうにも書かせて頂きましたが、私は恥ずかしながら、大東文化大学の教育学科のカリキュラムをきちんと見ずに入学してしまったのです。もともとは上位私立大学の文学部にある教育学専攻や社会学専攻を狙っていたので、国立大学の教育学部のような教員養成系はまったく想定しておらず、大東文化大学も、「文学部教育学科」だし、教職を取らなくても卒業できるみたいだし、教師を目指す人ばかりではないだろう…、ただ他の大学ではあまり見かけない「音楽」の授業とかもあって楽しそうかな~、という気持ちで受験しました。入学して蓋を開けてみたら、教師を目指している学生ばかりで大変驚きました。大東文化大学を第一志望としていた学生はもちろん、私と同じように他大学に落ちてきた学生もいましたが、大半が国立大学の教育学部や早稲田大学、文教大学の教育学部など、いわゆる教員養成系を狙っていた学生ばかりでした。
また、これは私だけかもしれませんが、高校生の頃に想像していた「大学生像」と、教育学科の雰囲気はかなり違いました。高校生だった当時、大学生ってとても自由な日々を送っていて、週に何回かの必修科目以外は好きな科目を取って好きなことを学び、同じ学科の人ともあまり顔を合わせなくて、友達作りはサークルがメイン、ランチとサークル以外は単独行動で、先生も学生もあまり他人に干渉しなくて、進路もバラバラで…という感じの学生生活を、恥ずかしながら想像していました。他の学科であれば、もしかしたらそのような雰囲気だったかもしれません。ですが入学後すぐに、教育学科は私の想像とは全く違う雰囲気の場所であることを知りました。教育学科は基礎演習をはじめ、クラス単位の授業が多く、入学してすぐに同じクラスのメンバーは顔馴染みとなりました。入学後1週間くらいの間、先輩方が新入生の時間割作成を手伝ってくださる時間を学科独自に設けており、最初の土日にはオリエンテーション合宿がありました。さらに定例会やコンサート、大合宿、球技大会など、学科独自で行っているイベントがたくさんあり、学科内の委員会活動が盛んで、同期だけでなく先輩後輩とのつながりも強い学科でした。委員会活動が活発だったことから、学内のサークルに加入している学生は少なく、他学科の学生との交流より学科内での交流を重視している雰囲気でした。
実は私は入学当初、そのような教育学科の雰囲気が苦手でした。学科の雰囲気が高校生活の延長のように感じてしまい、想像していた大学生らしさをあまり感じられなかったからです。時間割の作成に先輩方がついて親身に教えてくださったことも、オリエンテーション合宿を開催してくださったことも、大変失礼ながら、「大学生にもなって、そこまでしてくれなくていいのに…」と、当時は思っていました。大学受験に失敗した直後で不貞腐れていた時期だったということもありますが。さらに教職を取っていなかったことから、数多くある教職の必修科目をごっそり履修していなかったこともあり、学科内の友人が少なく、あまり馴染めていませんでした。
私は学科の委員会には入らず、音楽が趣味の全学部の学生が集まるアコースティックギターサークルに加入していました。入学してすぐの頃、4年生の先輩が就活帰りに部室に立ち寄り、スーツ姿のままギターを弾く姿を見て、あぁ私も3年後はこうなっているのかな?と漠然と思っていました。入学当時から漠然と民間企業に就活をする未来を描いていたのです。
他学科に友人ができると、やはり教育学科は特別な雰囲気であることがより分かります。ですが学科内で仲が良いからこそ、よき仲間としてもよきライバルとしても、同じ夢に向かって頑張れる雰囲気ができるのかなと思います。ただ、それが結果として良くも悪くも、教育学科だからみんな教師を目指す、という雰囲気にもなってしまっていた点もあると思います。実際に「公開ゼミ参加者事後感想」の中にも「教育学科にいるのに教師になりたくないと思っていることに罪悪感を感じたり、自分は何か欠けているのではないかと思うことがこれまであった」といった声がちらほらと見られました。多くの学生が同じ方向を向いている中で、違う方向を向こうとするのは、勇気が必要だったり、罪悪感を感じたりすることもあるのかもしれません。実際に私も、他学科の学生が、大学で学んでいることにとらわれず、自由に就職活動をしていることがうらやましくもありました。私は教育学科にいるというだけで、教師を目指してるの?と何度も言われましたし、就活をしていると言うと、教師を諦めて仕方なく就職しているように思われることもあったので…。藤本先生からも度々、本当にその道で良いのか、ということは問われていましたね。正直「進路くらい自由に決めさせて!」なんて内心思っていましたが。ただ今思えば、別の原稿にも書かせて頂きましたが、他人と競うことが苦手な性格の私が、利益主義である民間企業に就職することを心配していたのかもしれませんが。
これは私がサークルで他学科とのつながりがあったからこそ思っていることかもしれませんが、当時の公開ゼミのパンフレットにも書いた思いがあります。「法律学科の学生が皆、弁護士や検察官になるわけではない。司法試験を受ける学生はごくわずか、そして合格できるのはさらにごくわずかな上位層だけで、大半の学生は民間企業に就職活動している。英語学科の学生が、必ずしも英語を必要とする仕事についているわけではない。日本文学を学ぶ学生は何になるだろう?国語の教師や学芸員、出版社勤務、さらには小説家といった道もあるかもしれないが、大半は民間企業に就職している。大学で学んだことを仕事にしている人の方が少数派ではないか。であれば、教育学科にいたとしても、教師以外の進路があっても良いのではないか。」というのが、入学当初から変わらない私の考えでした。それは大学を卒業した今も変わりません。OGとして私が後輩たちに伝えたいことは、「教師以外の道を目指すとしても、罪悪感や劣等感は持たないで!」ということです。こんなことを言ったら怒られてしまうかもしれませんが…。でも、自分の人生は自分で責任を持ち、周りの意見に流されずに決めるべきであると思います。
上記の例とは異なり、医学部の学生は大半が医師を目指しますね。すなわち医学部は「医師を養成するための学部」という役割があると同じく、教育学科は「教師を養成するための学科」という役割があることももちろん分かります。特に国立大学の教育学部は、教員養成の役割を強く持っていると思います。しかし私は4年間、大東文化大学の教育学科で学んできて、「教師になるための授業ばかり」と思ったことはありませんでした。「教科教育法」など、教師の仕事を具体的にイメージさせられる実践的な授業もありましたが、それだけではありません。教育史、心理学、社会学、少年犯罪、家庭問題、地域社会、社会福祉など、様々な角度から「教育」についてアプローチをしていく授業があり、教師を目指していなくても、「面白い」「知っていてよかった」「考えさせられた」と感じた授業がたくさんありました。ゼミという視点から見ても、教育学科はたくさんの先生方のゼミが開講されていましたが、教科教育の研究など、実際に教師になったときのことを想定した実践的な活動をしているゼミは、一部の先生のゼミだけだったように思います。私が藤本ゼミ以外に見学させて頂いたゼミには、児童館のボランティアを通じて地域の子どもたちとの交流に力を入れているゼミ、グローバルな問題や社会学的な視点から「教育の在り方」を追求しているゼミ、民族音楽を研究しているゼミ、絵本の研究や制作をしているゼミなど、本当に様々な活動をしているゼミがありました。もちろん履修する選択科目やゼミの選び方によっては、教師になるための実践的な授業を中心とした時間割にすることもできると思います。ただ、教育学科としての本来の目的が「教員養成」だとしたら、教職課程も必修にするでしょうし、もっと実践的な内容の授業やゼミを増やすと思いますし、座学よりも実践を重視し、教育実習も4年の1か月と言わず、もっと早い時期から複数回実習を重ね、より教師としての力をつけてから社会に出すやり方だって考えられます。大東文化大学の教育学科がそうではないのは、あくまで「様々な角度から教育について学び、教員を目指す学生のサポート“も”する」学科だからであると、私は誠に勝手ながら思っています。
公開ゼミのパンフレットの最終頁に「学科としての教育方針」という資料を載せています。「学部 認証評価報告書」に掲載されていた内容をそのまま引用させて頂いたものです。私は当時、パンフレットの作成も担当しており、藤本先生から、「最終頁にはこれを掲載しなさい」と言われて、先生の指示通りに引用してきた記憶がうっすらとあります。「学部 認証評価報告書」をどこから見つけてきたのかは覚えていませんが…。ただ、ここに書かれている内容を読み返しても、大東文化大学の教育学科の方針に対する私の認識は、あながち間違いでもないのかな?と、誠に勝手ながら思っています。
「事後感想」の中に、とあるメモ書きを見つけました。「せまい教員養成所の中で良い教師は育つのか」。おそらく「事後感想」の読み合わせをしていたときに出た発言だと思いますが、これが藤本先生の意見なのか、ゼミ生から出た意見なのかは、はっきりと覚えていません。ただ、社会人経験を経て一児の母となった今、このメモ書きにどこか共感してしまう自分がいます。我が子がもう少し大きくなり、学校へ通い始めた時、どんな先生に出会って欲しいかと考えたとき、大変勝手ながら私が思うのは「教育畑で育った先生」よりも、「人生経験が豊富で視野が広く、子どもたちをワクワクさせられる話の引き出しがたくさんあり、それを子どもたちに伝えてくれる先生」が理想だなと思ったのです。そんな先生いるのか…?とも思いますが、自分の子どもの頃を振り返ってみて思いつくのは、高校時代にお世話になった前職がツアーコンダクターの先生です。正直、「教科の教え方」という点では、あまり上手な先生ではありませんでした。しかし、今まで訪れた様々な国のこと、文化のこと、外国人の友人や恋人の話など、楽しい話をたくさんしてくださり、「こんな世界もあるんだ」「こんな仕事もあるんだ」「こんな生き方もアリなんだ」と思わされることばかりで、世間知らずだった私の視野を広げてくださった先生でした。余談ですが、ネイティブで鍛えられた英語の発音はどの先生よりも綺麗でしたね。
その先生との出会いや、公開ゼミ当時のことを振り返ってみて思うことは、子どもたちにとって、学校以外の居場所や社会、生き方を教えてくれる大人の存在は、特に今の時代には必要なのではないかと思うのです。ただ闇雲に教科の教え方についての研究ばかりしていた先生よりも、教師以外の仕事の経験があったり、留学やワーキングホリデーなどで海外で生活した経験があったり、学業や部活動だけでなく、アルバイトやボランティア活動にも夢中になっていた経験がある先生に出会ってもらいたいです。もし息子がそんな先生に出会えて、色んなお話を聞くことができたならば、大変幸運で恵まれたことだと思います。
「先生」とは「先を生きる」と書きますね。つまり、学校の「先生」は子どもたちにとって、ただ勉強を教えてくれる人というだけではなく、「人生の先輩」でもあると思っています。「人生の先輩」であるからこそ、人生経験が豊富で色んな話題の引き出しがあり、子どもたちに未来の自分たちの姿をイメージさせてくれる、そんな人であってほしいと、誠に勝手ながら思います。
今は親が子どもに「手に職」をつけることを望む時代だという話を時々聞きます。そのため、医学部や看護学部、薬学部などの医療系の学部の人気が高まっているようですね。「目標もなく遊ぶだけなら大学には行かせない」「資格を取らないなら大学へ行かせる意味は無い」という親側の意見を聞くこともあります。(教職課程を投げた経験のある私には耳の痛い話です)。ただ、私自身は息子にはあまり「手に職」は望んでいません。「手に職」は、一度その道に進んでしまうと、もしその道に迷いが出たときに、他の道に進むことが難しくなってしまうリスクもあると思うからです。もちろん、好きなことを仕事にするのは素敵なことですし、本人の意思が固いなら応援したいですが、どちらかというと、たくさん迷っても良いから、色んな職業、社会、文化、考え方を知り、視野を広く持ち、より柔軟な生き方、考え方ができるようになって欲しいと私は思っています。
私は今のところ、教師以外の道へ進んだことに後悔はしていません。民間企業に就職し、競うことが苦手な私が営業職を担当したりと、大変な思いをすることは多々ありましたが、新卒という若くて体力もある時期に、営業という仕事を経験できたことで、度胸も付き、さまざまな考えや価値観を吸収でき、人として大きく成長できたように思います。変化の速い業界に身を置いていたため、世の中の流れに常にアンテナを張れるようにもなりましたし、営業の為に様々なエリアを歩き回っていたためか、地理にもかなり詳しくなりました。
また、ある程度の期間会社に在籍し、社会経験を積めば、ライフステージに合わせて働き方を変えていけることも、民間企業に就職したメリットだったと思います。第一子を妊娠してから営業の仕事が体力的、精神的にきつくなり、部署を異動させてもらい、体力的な負担が少ない事務の仕事をさせてもらっていました。私は出産を機に退職してしまいましたが、もし復帰していたら、子どもが小さいうちは時短勤務も可能でした。独身時代こそ、体力の限界までバリバリ働きたいと思うこともありましたが、家庭を持った今思うのは、家族を最優先にできる働き方をしたいということです。今はじっくり子どもの成長を見守りつつ、ゆくゆくは再び社会に出て、徐々に家庭より社会に身を置く時間を増やしていきたいと思っています。子どもが大きくなって、お金の流れや将来の夢などを意識する年頃になった頃に、親として、家庭以外で社会の一員として働く背中を見せてあげたいという思いがあります。
もし教師になっていたら、上記のような理想は私には叶えられなかったと思います。もちろん教師の仕事と家庭の時間を両立させている方もたくさんいらっしゃると思いますが、体力がなく不器用な私が、日中は子どもたちと駆け回り、子どもたちが帰った後も膨大な量の仕事がある教師という職業を、様々なライフステージを経て定年まで勤め上げる自分の姿は、どうしても想像できないのです。
かといって、教育学科を選んだことに対する後悔もありません。教育学科の雰囲気に苦手意識を持っていたこともありましたが、3年になって板橋校舎に移り、ゼミが始まり、サークルの仲間より教育学科の友人といることが増えてきて、私は徐々に教育学科の良さが分かってきました。やはり教師を目指している学生が多いこともあり、コミュニケーション能力が高く社交的で、心が広い人が多いです。自分には持っていない長所を持っている学生がたくさんいて、毎日が刺激的でした。友人だけでなく、良い先生方にも恵まれました。たくさん向き合って頂き、熱心に指導してくださった藤本先生はもちろんのこと、どの先生の講義も面白いものばかりで、印象に残っている講義がたくさんあります。学校へ行くことができない発展途上国の子どもたちの生活や、日本の都市部で加熱する行き過ぎた早期教育など、様々な角度から、教育に関する衝撃的な事実を教えて頂いた「教育学概論」。いじめや少年犯罪など、子どもたちの「心の闇」について考えさせられた「現代子ども論」。プロの声楽家の先生にご指導頂いた「音楽」。「家庭問題」について考え改めてさせられた、「学校地域福祉論」。心理学的な観点から「人と話すこと、意思を伝えること」について考えさせられた「コミュニケーション論」など、今でも印象に残っている講義が多く、知っていてよかったと思える知識や、じっくり考えてみて良かったと思える経験がたくさんあります。もちろん、藤本先生にご指導頂いた「基礎演習」とゼミも、とっても楽しかったです!
学生だった当時、藤本先生に「教師にならなくて、教育学科で学んだことは将来に活かせそうか?」と問われたことが何度かあり、そのときに私は「将来家庭を持って、子どもを育てるときが来たとしたら、教育学科で学んできて良かったと思える気がします」と答えました。そしてその考えは、家庭を持った今でも変わっていません。先生、やはり教育学科で学んできて良かったですよ!
情報化社会となった令和の時代の育児は、不確かな情報が無限にある中で子育てをしなければなりません。不確かな情報に惑わされないためには、自分なりの育児の「軸」を持たなければなりません。そして現代は「親の不安」に付け込んだ教育産業がたくさんあります。「赤ちゃんのうちから英語をやらせないと大きくなってから大変」「幼児期から塾に通わせないと勉強についていけなくなっちゃう」「小学校でプログラミングが必修化されるからプログラミング教室を探さなくちゃ」…など、自分なりの軸を持っていないと、情報に惑わされ、結局は産業の餌食となり、子どもに窮屈な思いをさせてしまう可能性もあります。子どもにとって本当に必要なことは何なのかを見失ってしまうからです。私は教育学科、そして藤本ゼミで学んだことで、こうした不確かな情報に惑わされず、一歩立ち止まって、本当に必要なものなのかどうか、考える癖がついたように思います。もし教育学科で学んできていなかったら、私はきっと、情報に惑わされてばかりの母親になっていたと思います。ですが「教育学概論」で観た、行き過ぎた早期教育の映像を思い出すと、子を持つ親が、子育ての「軸」を持つことがいかに大切かを、改めて感じさせられるのです。
来年、息子が幼稚園に入園します。つい先日、とある幼稚園の入園説明会に参加した際、園長先生が「不便益」のお話をされていました。その幼稚園では、便利で快適な世の中に生まれてきた子どもたちに、あえて「不便」を経験させる、不便をデザインし、幼児期に育てるべき「非認知能力」を意識して育てていく、という教育方針のもと、幼稚園を運営しているそうです。藤本ゼミで研究した「木更津社会館保育園」の里山教育の方針と似ていますね。藤本先生が度々おっしゃっていた「バリアフルな教育」とは、まさにこのことなのだと感じました。入園説明会で園長先生は、「私たちが大事にしてきた、乳幼児期に育てるべき”非認知能力“の重要性が、最近ようやく世間でも注目されるようになってきた」とおっしゃっていました。ですが私は学生の頃から、藤本先生のもとで「非認知能力の重要性」を学んでいたのだと、改めて感じさせられましたし、やはり教育学科で学んできてよかったと感じさせられた瞬間でもありました。
結びに、私情ばかりの内容となってしまい、申し訳ございません。本当は公開ゼミ当日のことなどをもっと掘り下げて書きたかったのですが、もう気が付けば5年以上前のことになりますので、記憶が薄れ気味ではありました。ただ、当時のパンフレットを改めて読み返してみて、学生だった当時思っていたこと、感じていたことを思い返してみました。そして、大学を卒業して社会人になって5年が経ち、一児の母となった今、大東文化大学の教育学科で過ごした日々を振り返り、思ったこと、感じたことを書かせて頂きました。