僕は兵庫県立高校で37年間、国語の教師として働いてきました。その年月を国語の授業を中心にふりかえってみます。
「授業をつくる・京都講演版」は京都の土曜日の会で話した内容を思い出しながら、まとめたものです。それを分割したのがO~Vです。別の原稿だと思ってアップしましたが、どうやら同じもののようです。
【はじめに】
今日は、藤本です。兵庫県の県立高校に37年間勤め、この三月末に定年退職しました。クラス担任、生徒会担当、総務部、進路指導部、いろんな仕事をしてきましたし、部活動の顧問としても剣道部、映画研究部、ワンダーフォーゲル部などで楽しい経験もさせてもらいました。それでも、この37年間の仕事の中心はやはり国語の授業でした。今日は、自分が国語の教師として何を考え、どんなことをやってきたかをお話ししたいと思います。
二月の末、すべての授業が終わり、学年末考査に入った日、僕より若い、中堅の数学の伊崎先生からこんな風に声をかけられました。
「藤本先生、退職をあと1カ月に控えると、どんな気持ちがするものなんですか」
職員室の隅には、僕たち二人だけ。たぶん伊崎先生は、深い意味で尋ねたのではないと思う。でも、僕にとって、その問いは「漠然と感じていたものをことばにするきっかけ」、自覚の契機になりました。
「何を見ても、何を読んでも、これまでとは違う。今までなら、面白い本や映画に出会ったら、これを授業に使いたい、どうしたら教材化できるかなと考えていた。新聞やニュースで珍しい事件、興味深い記事を見つけたら、教室であの子らに紹介したい、こんな風に話したいとすぐ思っていた。でも、もうこれからは、そんなことができない。教師を辞めるということは、自分が興味や関心を持ったことを、高校生に語る機会がなくなるということだ。そう考えるとちょっと寂しい気がする。」
そんな風に答えたのですが、それから数カ月、この自分の答えを何度も反芻することになりました。
【離任式の挨拶】
四月には離任式があり、学校を去っていく人々はそこで一言挨拶をすることになっています。これで高校教師生活も最後だし、この宝塚良元で十年間も過ごしたのだから、何も言わずに去るというわけにもいかないだろうなあ、でもあれこれ昔話をしても、聞く方は退屈だろうし、言いたいことは、授業で言ってきたしなあ、……。何を話すか迷っていました。
三月三十日に退職の辞令をもらい、三十一日から一週間余り、横浜に行ってきました。女房が横浜に単身赴任していて、娘夫婦もそこから一時間ほどの所で暮らしているのです。二月に娘が子どもを産んだばかりなので、子育ての手伝いのつもりで、料理、買物、洗濯、それから赤ん坊をあやしたりしていました。
亭主が帰ってくると、僕は自分の部屋にひっこみ、一人になります。その部屋の、娘の本棚に『銀の匙』がありました。ご存知ですか。中勘助の小説じゃないですよ。マンガ大賞2012を取った荒川弘の新作マンガです。『鋼の錬金術師』という人気マンガがあり、アニメ、映画化されているということくらいは知っていたのですが、読んだことも見たこともなかった。でも数日前、インターネットで『鋼の錬金術師』の作者がマンガ大賞2012を取ったというニュースを読んで、『銀の匙』ってどんな話だろうと興味を持っていました。ああ、これかと、手に取って読み始めてびっくり。おもしろい。
北海道の農業高校が舞台で、札幌の中学校から入学してきた八軒君が主人公です。ほとんどが農家や酪農家出身、推薦入試で入学する生徒が多いのに、八軒君は一般入試で入ってきている。何故、彼がこの全寮制の学校に進学したかは最初「謎」ですが、話が進むにつれて少しずつわかってきます。
なんとなく馬術部に入った八軒君は、校長先生から卒業後の進路をきかれて、「実は特に夢がなくて」と答えます。同期の新入生たちが、実家の畜産業を継ぐとか、獣医になるとか、それぞれにしっかりとした将来の目標を持っているのに、八軒君には何も具体的な目標や夢がない。彼はそのことに少し劣等感を抱いていた。ところが、校長先生は「それは良い」とニッコリ笑うのです。「楽しみだね」と言う。ここを読んで僕は感動しました。
伊丹に帰ってみると、友人から手紙が届いていました。四月に清水真砂子さん(『ゲド戦記』の翻訳者)の講演があり、その筆記メモ・まとめを送ってくれたのです。
その講演の中で、「今は問いと答えの間が短くなっている、それが心配だ」ということを教育学者の太田堯さんか早くも六十年代に述べている。現代はますますその傾向が強くなっている。長い間短大で勤めてきた清水さんは、新入生たちに毎年「わかり急がないで」と訴えていたそうです。僕はここに、『銀の匙』で夢がなくてという八軒君に校長先生が「それは良い」とニッコリ笑う場面との符合を感じました。問いと答えの間にこそクリエイティブなものが生まれるのだ、と清水さんは語っていました。
『銀の匙』第二巻、第三巻と読み進んでいくと、「夢がなくて」ということの積極的な意味がだんだんわかってきます。
僕は定時制最後の六年間、進路指導部の仕事もしていました。早く将来の目標を決めろ、正社員をめざせ、と生徒を急がせていたなあ、まだまだ考えが狭かったと反省しています。
『銀の匙』を読み、清水真砂子さんの講演を聞き、「答えを急がない」ことの意味があらためて心にしみました。
僕の最後の推薦図書は『銀の匙』です。これから『鋼の錬金術師』全巻読破に挑戦するつもりです。
そんな風なことを、離任式の挨拶で話しました。式のあと、トイレで生徒から、「先生の話聞いて泣いたわ」と声をかけられました。もちろん、それが軽いジョークなのは口調からわかります。泣くわけない。それでも「『鋼の錬金術師』の映画はあかんで、原作のマンガの方が面白いで」と教えてくれました。授業中に携帯を触ったり、ゲームをしたり、最後まで叱っていた生徒たちでしたが、今日の話は彼らに届いたなあと、思いました。
Ⅰ 仕事を始める前
自分が国語の授業でやってきたことを、一度振り返ってみたいと思っていたので、「土曜日の会で報告しないか」というお話を深谷先生から頂いたときは、とても嬉しかったです。特に、若い人に話したいです、という希望通り、今日は若い先生や学生さんが来てくださったので、話にも力が入ります。詳しく話せば、何日もかかるのですが、できるだけポイントを絞り込みながら、全体的な歩みが伝わるように語ります。
国語教師としての自分の歩みに入る前に、「前史」というべきものを、まずお話しておいた方がよかろうかと思います。
【木南先生について】
ぼくは四国松山の生まれで、小さい頃に神戸に移ってきて小学校卒業まで兵庫区に住んでいました。中学から、神戸市の西の端、垂水区に転住。高校は近くの県立星陵高校に行きました。高校一年で、木南先生という若い先生に現代国語を教わりました。その頃二十代だったと思います。木南先生は、この「土曜日の会」とも縁があったということを、大石先生の文章で知り、驚きました。
木南先生は、教室にチョークを一本しか持ってこない。黒板には一とか二とか番号しか書かない。それで先生が出す質問を、僕たちはノートに自分で書き、まず自分で解答を書く。それから、先生が順番に解答を生徒に聞いていく。その子が考え出したいい答え、個性的な答えだと、「渋い」と言ってほめてくれる。そんな授業でした。
僕はこの木南先生の授業に大きな影響を受けたと思います。「番号を打つ」ということは、問題を焦点化しているわけです。今授業ではこのことを問題にしているのだ、ということが生徒にもよくわかる。
中学高校と、何人もの国語の先生に出会いました。話の上手な先生、ユーモラスな語り口調で笑いの連続という先生、誠実さ、篤実さが伝わってくる先生、いろいろなタイプの先生がいた。上品で美しい若い女の先生の授業などは、もう教室に座っているだけで、先生の声を聞いているだけで、幸せでした。
でも、往々にして、話を聞いていて、あれ何の話だったかな、とわからなくなることがある。木南先生の質問に番号を打つというのは、授業に切れ目を入れていくというやり方で、この「黒板に番号しか書かない、という授業」から、僕は大きな影響を受けたと思います。このやり方なら、興に乗って無駄話や脱線話をしても、また元の本題、本筋に戻ることができる。生徒にも、その授業の進行の道筋が見える。
「質問という形で授業の柱を立て、それに番号を打つという方法」を、僕は自分の授業の基本にしてきました。僕自身は、番号しか書かない木南先生とは違い、黒板一杯に生徒の答えや、僕の説明を書き、ひどい場合には一時間の授業で、黒板の端から端まで二往復するくらい書いていく。書きまくると言ってもいいかもしれません。チョークも何本も使います。だから、黒板に数字、番号しか書かない木南先生の授業とは、黒板だけ見ればまるで違う、むしろ両極のように見えるかもしれない。でも僕自身の気持ちとしては、木南先生から学んだことをやっている、先生のスタイルを踏襲しているつもりです。
授業とは直接関係のない話で、今でも覚えていることがあります。神戸の中心的な繁華街は、今は三宮ですが、ずっと昔はもう少し西の、新開地でした。僕が小学生の頃まで、父親は炭屋・氷屋をしていて、その小さな店が新開地にありました。毎週土曜日の夜には福原の映画館、三番館へ通ったものでした。木南先生の雑談の中で、土曜日になると友達とオールナイトの映画を見に行く、まず一つ目の映画館で二本立てを見て、立ち食いうどん・そばを食って、次の映画館に入る、高倉健の網走番外地や仁侠映画、そんな話を聞きました。新開地という地名も僕の胸に響いたのかもしれませんが、この話はとても魅力的でした。なんて大人はいいんだ、早く大人になりたい、と思いました。
【高校紛争の余波の中で】
これは授業とは直接関係のないことですが、教師の道を歩むうえで、僕にとっては大切なことがありました。
僕は1967年に高校に入学しました。60年代末は学生運動の昂揚期でした。全国の大学で大学紛争が起こり、69年の東大入試は実施されませんでした。いわゆる全共闘世代の、ちょうどあとの世代になります。僕は1年浪人して71年に大学に入りましたが、既に大学紛争は峠を越えていて、学生運動は過激化し、よど号ハイジャック事件、連合赤軍事件、浅間山荘事件とともに、一気に終焉を迎えました。
ですから、僕は直接の当事者ではなかったけれど、高校生の時に同時代のこととして全共闘運動や学生運動を見ていました。
それで、僕にとって大切なことというのは、こんなことです。実は僕は、中学、高校と生徒会活動をやっていて、高校二年生の時には生徒会長をしていました。そして、僕等の高校の「高校紛争」の中心テーマは、靴の自由化、頭髪の自由化でした。その当時、男子は坊主頭で、長髪は禁止でした。靴も運動靴以外は禁止です。僕は自分でいうのも変ですが、その頃まではまじめな学生で、学校の指導にはきちんと従うというタイプの生徒でした。ですから、まあ、保守的な生徒会長だったわけです。どちらかといえば、そうした自由化の要求をおさえる側に立っていた。
ところが、3年生の時に、一部の生徒が実力行使に出た。髪を伸ばし始めた。そして、忘れもしませんが、一学期の終業式で、教頭が「生徒手帳の規則、何条を削除します」と言うのです。突然のこの一方的な通知に、僕は頭に来ました。それで、HRの時間教室に入らず、職員室で教頭や生徒指導担当の教師を捕まえて食ってかかった。今まで、民主主義はプロセスが大事だと教えられて、それに従って僕は生徒会の活動もやってきたのに、今度のやり方は生徒にとっては、寝耳に水、どこに話し合いのプロセスがあったんだ。と怒りまくりました。もちろん、教員の間ではちゃんと職員会議があって、もう指導しきれないということで、自由化に踏み切ったのでしょう。でも少なくとも、一般生徒の側からすれば、これは突然の変更でした。
そして、2学期に入ると、みんな髪を伸ばし始めている。今まで、高校生は高校生らしくと言って、自由化に反対していた連中まで、ながされていく。なんなんだこれは、という感じでした。
僕は教師に裏切られた気がしましたし、同じ同級生たちにも裏切られた気がしました。それで、僕は意地でも髪を伸ばすものかと思い、卒業するまで丸坊主を通しました。卒業式の時に、丸坊主だったのは僕一人だったと思います。
このことは、ささいなことですが、僕にとっては自分の価値観が崩れる大きな出来事でした。そうか、教師の言っていることはいつも正しいなんてことはないのか、その時の状況、状況で発言を変えて行くのか、と思いました。それまで、教師は絶対だと思っていたからこそ、反動が大きかったのだと思います。
高校二年生の頃まで、非常に真面目な優等生で、大人の権威を信じていた素直な生徒でしたが、高校紛争の余波の中で、「真面目」であることの意味を問い直すきっかけをつかんだと思います。今、僕はもっぱら、「真面目はダメだ」と言っていますが、その発端はこの辺りにあったのです。ただ、小さい頃から身についてしまった、真面目さというのはなかなか脱却するのが難しいのですが。
【浪人時代】
僕は大学受験に失敗して、一年間浪人生活を送りました。今からふりかえれば、この一年の猶予期間が、自分にとって大きな経験になりました。
高校の三年の辺りから真面目であることに疑いを持つようになりましたが、浪人することで挫折、あせり、不安感、つらさを知った。ちょうどこの前後から、父親は家に帰らなくなり、結局僕が大学に進む頃に両親の離婚が成立するのです。
高校紛争の余波としての自分の価値観の崩れ、大学受験の失敗、両親の離婚、とまあ今から振り返れば、思春期の後期になって、思い屈することが連続して起こる。まあ屈折もしますよね。でも、屈折も知らずに、文学部なんかに行ってたら、どうなってたんでしょうね。
僕は、早い時期から文学部に進もうと考えていましたが、「これをやりたい」という決定的なものがなかったのです。浪人時代に大江健三郎に出会い、ああこの人のことをやりたいと思いました。
大江健三郎の名前は、高校時代に聞いたことがあります。一つは社研の連中が口にするのを耳にした。社研は自由化の動きの一つの核で、生徒会の保守派である僕とは、いわば反対の立ち位置にいたのです。ある時、社研の一人が、文芸部の女の子に、「おまえら、文学、文学っていっても、古い作家しか読んでないだろう。大江健三郎なんて、読んでないだろう」と言っているのを、近くで聞きました。僕も、読んでない。でも、名前は知っていたのです。僕は本屋に行くのが好きで、ほとんど毎日のように垂水の駅の近くの文進堂に通っていた。すると、店内で新刊宣伝のテープが流れている。大江健三郎の『万延元年のフットボール』です。いつ行っても流れているので、自然に名前を覚えてしまいました。『万延元年のフットボール』って、変なタイトルだなと思いました。
で、浪人している時、神戸の方の予備校に通っていて、午前中は授業を受けて、午後は図書館などへ行って自習する。図書館で、そうだ大江健三郎ってどんな作品を書いているのだろうと思いついて、手にしました。たぶん最初の短編集『死者の奢り』から入ったと思いますが、次々に手にし、その当時出ていたものは小説だけでなく、エッセイも全部読んだ。そこから、自分の展望が開けたのです。ドストエフスキーを読みました。ヒロシマの記録フィルムがアメリカから帰ってきたので、上映会にも出かけ、そのフィルムに衝撃を受けました。高校の日本史では、ほとんど昭和入口ぐらいまでしかならっていなかったのです。10.21反戦デモにも初めて個人で参加しました。
進学先を決めかねて、高校の先生に相談に行った時に、大江健三郎のことを勉強したいと言うと、それなら神戸大学に猪野謙二という先生がいるから、ちょうどいいだろうと勧められました。どんな人なのだろうと思っていると、ちょうど王子図書館で猪野先生の講演会があるというポスターが貼ってあった。で、それに参加してみて、ああこの先生に習いたいと思いました。
そんな、こんなで、僕にとって、浪人生活は自分の内面や行動範囲を拡張していく時期になりました。
【大学で】
一年浪人して、大学に入りました。
大学での一番大きなことは、教育学部の自主ゼミナール運動に関わったことです。僕自身は文学部でしたが、教育学部の友人に誘われて、この自主ゼミ運動に参加し、その活動の中で教育についていろいろ考えるきっかけをつかみました。文学教育だけでなく、数教協、歴教協、仮説実験授業、全生研ほかさまざまな民間教育研究団体を知り、その研究の一端にふれることができました。
近教ゼミというのは近畿教育系学生ゼミナールといいますが、友人から「小学校が中心だから藤本くんには興味ないかもしれないけど」と誘われて、初めて参加したのは、奈良教育大学が会場のときでした。
ここの文学教育の分科会は参加者が十人ほどで、木下順二の『かにむかし』と西郷竹彦の『さるかに』の比較をやりました。和歌山大学や仏教大学の学生たちが西郷再話を推すのに対して、僕は木下版を推すというなりゆきになり、結構徹底的な分析、討論をやりました。結局どちらも自分達の推す作品の優位を譲りませんでしたが、話し合う中で、何故その作品をいいと思っているかが、自分でもはっきりと自覚できるようになっていました。この経験は、僕にとって文学教育実践の一つの原点になりました。小学生が読むような文学作品でも、こんなにいろいろな角度から検討できる、他人の意見を聞くことが自分の理解を深めてくれる。
分科会が終わった時、司会をしていた京都教育大学四年生の女性(くまちゃん)が、わざわざ僕に挨拶にきてくれました。「あなたのおかげで分科会の討議がとても深まりました、ありがとう」と、手を出すのです。僕は高校の三年の頃から、少し屈折をおぼえ、その当時も「明るく向日的」というのとは縁遠いところにいたのですが、女性からこんな風に素直に握手を求められたのは、一種のカルチャーショックでした。「京都の全国大会でまたお会いしましょう」と言われて、「はい」と答えていました。
京都教育大学で開かれた全教ゼミを契機に、大学に文学教育のサークルを作り、現場の教師の小さな研究会や兵庫県の集会や全国集会に参加するようになりました。
そうした経験の中で大きなことが二つありました。
一つは、西郷竹彦さんの文芸学と出会ったことです。その頃明石の小学校の先生たちのサークルに定期的に来ていると聞いて、出かけていきました。そこで西郷先生から詩の授業の手ほどきを受けたのですが、驚きました。西郷さんの視点論や比喩論を知って、目からうろこが落ちるというか、文学をこんな風に語ることができるのかとびっくりしました。
もう一つは、尼崎の小学校の教師のサークル兵庫文学教育の会、なかでも高山智津子先生と出会ったことです。僕は大学生の頃から現在まで、兵庫文学教育の会、日和佐・文学と絵本研究所などを通じて、高山智津子先生(元小学校教師、子どもの本研究家、読みきかせを全国に広めた)の薫陶を受けてきた。小学校、保育園の先生の授業実践、読みきかせ実践から間接的な影響を受けているはずです。
Ⅱ 舞子高校時代 1975年~
【舞子高校に赴任する】
最初の勤務校は、新設二年目の舞子高校でした。僕は剣道部の顧問になり、五年間、放課後は毎日生徒を相手に剣道の練習をしていました。赴任した頃は、体育館もできあがっておらず、近くの空き地が道場代わりでした。年齢が近いということもあり、夏休みには遠足に行ったり、正月には僕の家で新年会をしたり、なかば友達のように付き合ってくれました。
教職員組合はなく、半年後に五人で分会を結成しました。僕も二年間くらい支部執行委員として毎週一度は元町まで出ていきました。学校全体に若い先生が多くて、学年団の平均年齢は三十に達してなかったのではと思います。僕は酒が飲めませんが、一緒に飲みに行ったり、映画を見に行ったり、麻雀を教えてもらったり、今の忙しく余裕のない教育現場と比べれば、のんびりとした一面が残っていて、教師同士の放課後のつきあいも結構ありました。ですから、新米の僕も、比較的自由に授業をやることができた。
僕は最初から、五人ずつ机を寄せて班を作り、相談させたり、討議させたり、班学習の真似事をやりました。小学校みたいとか言いながら、生徒も楽しそうでした。
【自主教材を使う】
授業をする時、最初に考えるべきことは、「何を教材にするか」です。この学校にも決められた教科書、明治書院だったかな、それはありましたが、定期考査は各担当者で作ることができた。つまり、何を教材として選ぶか、比較的自由がきいた。それで、教科書を使いながら、時々は投げ込み教材を使った。山本茂実の「あゝ野麦峠」、石牟礼道子の「苦海浄土」、木下順二の「女工哀史」(これは放送劇です)などを、自主教材として授業しました。この当時、僕も、労働運動や公害問題などに関心を持っていた。もちろん、社会問題を語るための材料として作品を使うのではありません。ノンフィクションも広い意味で文学作品ですが、これらの作品の文学性がどこにあるのかを探ろうとした。「何が」ではなく、「どう」描かれているか、授業ではむしろ文体論的な分析をこころがけていました。
【詩を詩集として授業する】
僕は、大学生の頃まで詩に対する興味はあまりありませんでした。詩集を読むなんてタイプではない。どちらかといえば散文的な人間です。小さい頃から詩に触れてこなかったし、学校教育の中で印象的な詩、自分の好みにあう詩に出会ってこなかった。先ほど話した西郷竹彦さんの講義を聞き、詩や詩の授業に関心を持ち、詩のアンソロジーを読むようになった。大学のゼミナール実行委員会の活動の一つとして、西郷さんの講演会を企画したこともあります。西郷さんから事前に四十編近い詩が資料として送られてきました。それを印刷・製本してテキストにしたのですが、この「詩の授業」という講演は、詩を文芸学的に論じた、斬新でエネルギッシュな話でした。
三十七年間を振り返ってみれば、僕の授業実践の柱の一つはいつのまにか「詩の授業」になっていました。九三年には三省堂から『現代詩の授業』を出版しました。
その詩の授業実践の第一歩は、舞子高校から始まっています。大学時代に、戦後詩のアンソロジーで、田村隆一、鮎川信夫ら「荒地」の詩人を知りました。なかでも黒田三郎が好きになり詩集を読むようになった。詩の授業をやるなら、自主教材として、黒田三郎をやりたいと思いました。
ほとんどの教科書は、今でも数人の詩人の詩を、一人一編ずつ並べているだけです。僕は、読者が「詩集」や詩のアンソロジーを読むように、数編の詩をまとめて授業しようと考えました。
黒田三郎の詩集「小さなユリと」(全十二編)を授業しました。十二編の詩を一編一編丁寧にやれば、かなりな時間がかかる。そこで、詩集全体を音読したうえで、どの詩が好きか、どの詩を授業でやりたいかを生徒に訊いて、授業を組み立てることにした。クラスごとに、取り上げる詩が違うことになります。でも、どのクラスでも同じことをする必要はない。クラスによって、生徒の反応によって、授業は違ってもいいよな、そう思いました。
【授業にゲストを招く】
教科書に石川淳の「アルプスの少女」という短編小説がありました。これはヨハンナ・シュピリの有名な「アルプスの少女」の後日談という体裁で書かれた短編で、クララを主人公にした寓意性の強いパロディ作品です。一読して、なかなか洒落てるなあと気に入ったのですが、これをきちんと、生真面目にやったのではつまらない。たとえば、アルムじいさんが溶けて水の滴になるなんていう不思議なことがおこるのですが、「この寓意は……」と教師が一方的に説明しても、面白くない。それで、一通り授業した最後のあたりで、二人の同僚、石川先生と太田垣先生に来てもらい、この作品をどう読むか、生徒の前で対談してもらいました。二人は自分の解釈を好き勝手に話すので、生徒は「どっちの先生の言っていることがほんまなん?」と僕に訊ねてくる。僕は澄ました顔で、「石川先生はああ読むし、太田垣先生はこう読むということで、どちらが正しいというのではない。大事なのは君がどう読むかや」と答えます。
石川憲治先生は、その当時たぶん三十前後。星陵高校の講師をしていた頃に僕の妹が習ったらしいし、僕も教育実習中に国語科準備室で話をしたことがあった。そんなつながりもあって、石川先生は新米の僕に「俺の授業見においでよ」とか「ちょっと、生協までたこ焼き買いに行くから一緒に行こうぜ」とか、いろいろ声をかけてくれました。学校のすぐそばのマンションに、結婚したばかりの綺麗な奥さんと住んでいて、僕は夕飯をご馳走になったこともあります。漢文が専門で、授業でOHP(オーバーヘッドプロジェクター)を使っていました。まず白文の本文を映し出し、その上に返り点や送り仮名などを書いたものを重ねて映し出す、という風でした。僕自身はOHPを使うことはありませんでしたが、その授業の光景は眼に残っています。七十年代なかばですから、まだビデオもパソコンもプロジェクターもない頃の話です。
ほかの先生に来てもらうというやり方は、ホームルームでもやりました。舞子高校では毎日昼にショート・ホームルームがあったのですが、連絡事項を伝えるだけではつまらないので、生徒に三分間スピーチをさせたり、僕が何か話したり。でもだんだんマンネリになり、ネタもつきて、その時、そうだ、クラス担任を持っていない先生に来てもらおうと思いつきました。何人かの先生にお願いしたら、快く引き受けてくださり、短い時間でしたが、真剣に話してくださいました。たとえば、自分は実は広島で被爆したのだが、とその体験を語ってくださった年配の先生もいました。それまでその先生からそんな話は聞いたこともなかったので、教室の後にいた僕も驚きました。たぶん授業でもその話はされてなかったのだろうと思います。養護教諭の先生は、前任校の卒業生が看護婦になりたいと相談にきて自分の志望を実現させるためにどのように努力したか、という話をしてくださいました。
こうして、舞子高校で「教室にゲストを招く」という方法を始めたのですが、これは他の高校へ移ってからも様々なやり方で活用しました。
漱石の「こころ」を授業した時には、一通り授業をしたあとで、若い女の先生、結婚したばかりの川口先生に来てもらいました。僕は生徒に「「こころ」について何を聞いてもいいよ、何か質問ない?」と訊ねて、生徒からの質問を川口先生につなぎ、答えてもらう。その時間は、僕はマイクを持って聴衆の間を移動する司会者のようなものでした。
また、科学的な分野の評論をやっていたときには、理科の先生にきてもらい、熱の発生と放散、体積と表面積との関係などを熊の世界分布を例に話してもらいました。言語によって世界の切り取り方が違うということを話題にするときは、英語の先生に来てもらい、僕と二人並んで対談形式で授業をしました。
「聞き書き・仕事の話をきく」という国語表現の授業を組み立てたときには、ゲストを招き、生徒代表がみんなの見ている前でインタビューするという時間を組み込むことを考えました。これは、伊丹、猪名川、川西明峰と高校が変わっても、同じようにやり続けました。最初は同僚(元雑誌編集者、登山家など)に、ある時期から卒業生に来てもらうという風に変わってゆきました。
宝塚良元校では、進路指導の一環、進路講話の時間に卒業生に来てもらい、在校生たちの前で僕がゲストの卒業生に仕事の話を聞くというスタイルをとりました。ダイニングバーの店長、有馬温泉の仲居、ファッション関係の店員、老人ホームのヘルパー、大阪王将の店員、など具体的な仕事の現場の話が聞けました。
このように、初任校の舞子高校から最後の宝塚良元校まで、「ゲストを招く」というやり方を、授業でも授業外でも、いろいろ試みてきた。
何かを生徒を教えること、それを通じて生徒を育てることが教師の仕事ですが、たとえば「教える」ということにも、いろいろな側面がありいろいろな方法がある。僕は映画が好きなので、その世界とのアナロジーでいえば、映画にはブロデューサーとディレクターとがいる。ディレクターというのは監督で、直接役者に演技の注文をつけたり、カメラや照明などのスタッフに指示を出したりする。プロデューサーは一般には製作者といわれますが、企画の作成から資金の調達、宣伝、興行の方法など全般的な指揮をする。スタジオジブリでいえば、宮崎駿が監督で、鈴木敏夫がプロデューサーです。授業にゲストを招くというのは、教師が授業のディレクターとしてではなく、授業のプロデューサーとしてふるまうということです。
Ⅲ 県立伊丹高校時代 1980年~
【県立伊丹高校に転勤する】
舞子高校で五年間勤務し、その後、1980年に県立伊丹高校にかわりました。その前の年、1979年の夏休みにメキシコで約一ヶ月暮しました。この時知り合ってつきあいだした彼女(今の女房)の家が高槻にあり、デイトに時間がかかって仕方がない。垂水、高槻間は一時間半以上かかる。そんな理由で、阪神間への移動を希望したら、大阪空港のすぐそば、兵庫県の東の端にある県立伊丹高校から声がかかった。この学校のことは何も知らなかったのですが、古くからある伝統校で自由な気風が残っていました。制服はないし、県伊祭という学園祭は体育祭と文化祭を連続で四日間行うのです。
ここで九年間クラス担任をし、そのあと四年間生徒指導部でもっぱら生徒会担当をしました。
剣道部だけでなく、できたばかりの映画研究部の顧問も引き受け、高校生と一緒に8mm映画を作っていました。
【大江健三郎「不意の唖」を授業する】
僕が県立伊丹高校の授業でまず第一番に思い出すのは、大江健三郎の初期の短編「不意の唖」の授業です。自分のノートを見返してみると81年に「三度目の授業」と書いているので、舞子高校時代からやっていたはずです。でも、県立伊丹高校での授業が強烈だったので、なんとなく県立伊丹で始めたように思っていました。
この話は、戦後間もない頃に進駐軍が村にやってきて、通訳の靴がなくなるというささいな出来事から、部落長が外国兵に射殺され、その夜、村人たちが通訳を川に沈めて殺すという話です。ほとんどは、部落長の息子である少年の目にそって描かれています。
81年に、この授業をしていて、思いがけないことが起こりました。生徒の中から自然発生的に議論が巻き起こったのです。
少年が通訳を川まで誘い出し、村の大人たちが通訳を川の中に沈めて殺す。この場面で村人たちは誰も何も話さない。少年の家までやってきて、じっと少年を見つめるだけ、でも母親も少年もこれから何が起きようとしているのか察知する。すべては無言の中で行われていく。通訳のところまで一人で行った少年も何も言わず、通訳は自分に都合のよいように考えて少年について行き、殺されてしまう。
生徒から、村人たちは通訳殺しを相談したのだろうかという疑問が出されました。どう思う、とみんなに返しますと、一人また一人と自分の意見を言い出す。相談はなかった、いやこの小説には書いてないけど相談はあったはずだ、ほかの意見に対する反論、新たな疑問などが次々生まれ、あるクラスではまるまる一時間討議が続きました。こんなことは僕も初めての経験でした。
「村人たちは通訳殺しを相談したのだろうか」という質問は、僕の授業案の中にはありませんでした。僕は、相談もせずにこのような行動をとっていることこそが、村落共同体の特徴なのだと思っていました。ここに高校生がひっかかると考えていなかった。でも、彼等の議論を聞いているうちに、こここそがこの作品の深い部分に降りていく入り口だったのだと気づきました。そしてあらためて「不意の唖」を読み直し自分の読みを再検討していきました。僕が、この作品をどのように読み込み、その後どのように授業を展開していったかについては、資料の「高校生と「不意の唖」を読む」をご覧ください。
実は、先日も大人向けの文学講座で「不意の唖」を取り上げましたが、前半の一時間、次々と参加者から意見・感想が出ました。年配の方々が自分の体験や読書経験をふまえて、さまざまな角度から話してくださいました。十代で進駐軍を見たときの体験や現代のアフガニスタンの話も出てくる。少年が負ったであろう心の傷を案じる人、通訳の存在に反感を述べる人、……「不意の唖」には、読者が自分の思いを語りたくなる何かがある、極めて優れた作品だと思います。僕は参加者の感想や意見を次々に黒板に書きながら、久しぶりにわくわくどきどき興奮しました。
三十年以上前に自分で教材としてとりあげ、その後舞子、県立伊丹、猪名川、川西明峰と、違う高校で何度も授業してきましたが、定年直前、最後に大人向けの文学講座でとりあげて、自分にとって生涯ベスト5に入るような授業・講義になった。この教材を手放さずに授業し続けてきてよかったと思いました。
これは初期の大江健三郎を代表する短編といっていい。文庫本で16ページですから、授業で扱えない長さではない。でも「不意の唖」というタイトルにひっかかって、教科書会社はこれからもこの作品を教科書に採らないだろうと思います。教科書の自主規制といいますか、漱石の「夢十夜」でも、第一夜や第六夜は採ることはあっても、最もおもしろくて、現代の高校生もホラーとして興味を持つ「第三夜」は採ることはない。「おし」とか「めくら」という言葉にひっかかり、忌避され、教科書から排除される。問題があります。
「不意の唖」を、ほかの人が授業したという話は聞いたことがありません。
【池谷信三郎「忠僕」】
「不意の唖」と並んで、これは僕が教材として見出したといえる小説として池谷信三郎の「忠僕」があります。85年に、初めて授業しました。
池谷信三郎は1900年生まれ、1933年に亡くなっています。今ではほとんど忘れられた作家で、日本文学全集の短編集などの巻に「橋」という短編が一つ載せられているくらいの、いわばマイナーな作家です。「忠僕」は1926年に発表された短編で、僕は大西巨人編『日本掌編小説秀作選』(二巻本、光文社カッパブックス)で見つけました。一読してなかなか洒落た作品だと思いました。
伊豆の温泉宿が舞台です。若主人の嘉吉は親父が死んだので、東京の大学を辞めて、温泉宿を継ぐことになる。苦労知らず、人がいいので、小作人は山葵を横流し、叔父は儲け話をもちかけては金を無心する。先代からの奉公人久助はそれを苦々しく思っている。久助は酌婦のおしまに会いたくなって、なかば無意識に、朋輩の金を盗んで、飲んでしまう。主人の嘉吉は、久助を諄々と諭し、彼の信頼を回復させてやるために、孟宗竹の荷を運びその代金と、店の金三百円をあわせて、三島の銀行に預けてくることを命じる。
ここまでが三章。読者の関心は、果たして久助は主人のいいつけを守り、無事に戻ってくるか。この一点にかかってきます。
でも、普通の授業のように、「まず全体を通読して」というやり方では、つまり結末を知ってしまってから、改めてこの作品を分析・吟味するという悠長なやり方では、この作品の魅力・緊張感は活かせない。読みの鮮度が落ちてしまう。最初に読むときの驚きや新鮮さを活かしながら授業するには、どうしたらいいか。そこで結末を予想させることにしました。
まず三章までを音読し、この小説には結末の第四章があるのだけど、それはどんなものだと思うと問いかけて、各自に第四章を書かせます。授業では生徒が作った第四章をすべて紹介したうえで、最後に池谷信三郎の原作第四章を読む。
そのとき二つだけヒントを与えました。
一、題名は「忠僕」である。
二、一二三章を受けての四章である。
生徒はいろいろに予想しました。中で一番短くて受けたのは、「久助の行方は誰も知らない。」というもの、直前に芥川の「羅生門」をやったのですが、そのラスト「下人の行方は誰も知らない」のパロディで、みんな大笑いでした。久助は無事に役目を果たして帰ってくるというものから、金を持って逃げてしまうものまで、おしまや嘉吉の叔父が出てきたり、久助が殺されて金を奪われてしまったり、とにかく生徒は自分流に展開を考えます。
この予想を読むと、その子が三章までをどうとらえたか、どの部分を大事と考えているかがわかります。同時にその子の広い意味での価値観が伝わってきます。
この授業については、『読みきかせに始まる』に詳しくまとめてあります。池谷信三郎の原文も、『新選池谷信三郎集』(改造社。一九三〇年)にあたって、訂正したものを掲載しています。
「忠僕」については、何人もの方から大学などで同じように授業をしてみた、学生の反応もよかったという話を聞きます。これは教科書に採用される可能性があるかもしれない。でも、僕のように四章を予想させるという授業展開は難しくなる。教科書を「一部袋とじ」にでもしなければ無理でしょうが、そんなことすれば、逆に何があるのかと生徒は授業の前に勝手に開けてしまうでしょうね。
【国語表現の試み】
80年代に国語表現という科目が新しくできました。僕が最初にやったのは84年。教科書も使いながら、思いつくこともあれこれ試していました。この時に手ごたえがあったのは、辞書づくりと広告分析でした。三年後の87年に、もう一度国語表現を担当することになり、今度は教科書を使わず、一年間のすべてを自主単元で組み立ててやってみた。「辞書作り、広告分析、物語分析、物語創作、聞き書き、自分史」の六つの単元です。詳しくは『ことばさがしの旅』上下(高校出版、1988年)にまとめてあります。これが僕の出した最初の本です。
国語表現は猪名川、川西明峰でも実践を重ね、特に「聞き書き」については、理論的な考察を加えて、いくつかの雑誌に何度か書きました。「擬似直接話法」とか「対話の三極構造」とかで、一人語りの聞き書きの問題・構造を解いてみました。
最後の定時制高校に転勤した年に、『聞かしてぇ~な 仕事の話 聞き書きの可能性』(青木書店、2002年)が出版されました。この本で、聞き書きについては一区切りつきました。
国語表現や聞き書きに興味のある方は、これらをお読みください。
【詩の授業】
現代詩の授業については、数十編を教材として詩の単元を組み立てるということを試みました。86年一年生対象に十二時間・三十五編、91年に三年生対象に十一時間・四十二編。この二度の授業をまとめたものが、『現代詩の授業』(93年、三省堂)です。86年の段階では、詩の分析というか「読みの方法」に関心がありましたが、やがてそれは教室での高校生の反応をどう活かすか「場の力」に関心が移行していきました。その先のことは、川西明峰高校のところでお話します。
【筑摩書房・現代文全教材を】
筑摩書房の「現代文」は、極めて格調の高い、正統的、本格的な国語教科書でした。
浅田先生が、この筑摩現代文を一年間で全部やったという話を耳にして驚きました。普通、現代文の教科書は、全部やるだけの時間がないので、いくつかピックアップしながら使うものです。僕も、教科書を丸ごと一冊やり終えた経験はなかったし、やろうと思ったこともなかった。むしろ、自分にとって興味のもてる面白そうな教材だけを選び、あとは自社教材を織り交ぜていくというやり方を続けてきた。
浅田先生は、木南先生の大学時代からの友人で、『教師が街に出てゆく時 松葉杖の歌』(筑摩書房、1984年)という著書は僕も読みました。幼い頃に事故で片脚を切断、松葉杖で教壇に立っている。映画好きで、木南先生が新開地で一緒にオールナイトの映画を観ていたのは、この浅田先生ではないかと僕は勝手に思っています。大学で教わった猪野謙二先生が久しぶりに神戸に来られて、卒業生たちが先生を囲む会がありました。その席で木南先生と並んだ浅田先生に会ったぐらいで、個人的に話したことはありません。でもなんとなく敬意を持っていた。その浅田先生が筑摩現代文を一年間で全部やったと聞いて、よし僕もやってみようと思いました。
今、僕の手元にある筑摩書房の「高等学校用 現代文 改訂版」(昭和60年3月31日改定検定済、編集委員猪野健二、桑名靖治、鈴木醇爾、分銅惇作)を見直してみて、そのラインナップに改めて驚きます。
【新しき詩歌の時(島崎藤村)、白壁(島崎藤村)、海潮音(上田敏訳)、食うべき詩(石川啄木)、現代日本の開化(夏目漱石)、元始、女性は太陽であった(平塚らいてう)、舞姫(森鴎外)、根付の国(高村光太郎)、犬吠岬旅情のうた(佐藤春夫)、短歌一家言(斉藤茂吉)、案内者(寺田寅彦)、武者小路兄へ(有島武郎)、十一月三日午後の事(志賀直哉)、蝿(横光利一)、なめとこ山の熊(宮沢賢治)、ギリシア的抒情詩(西脇順三郎)、わがひとに与うる哀歌(伊東静雄)、現代俳句(山本健吉)、無常ということ(小林秀雄)、人生論ノート(三木清)、断腸亭日乗(永井荷風)、富岳百景(太宰治)、弾を浴びた島(山之口獏)、そこにひとつの席が(黒田三郎)、「である」ことと「する」こと(丸山真男)、我が青年論(高橋和巳)、体験を伝えるということ(日高六郎)、もう一編人間に(石牟礼道子)、占領下のパリ(サルトル、小林正訳)、桜島(梅崎春生)】
日本近代文学史がたどれるような、かなり高度で充実した教科書です。個々の作品には個人的な好みもあるし、教材を選びながら授業をする場合には、僕はたぶんこれはやらないだろうなと思う作品もある。しかし、このラインナップは凄い。これだけ内容の濃い教科書を週三時間、ざっと百時間ほどでやりきるには、普通のやり方、通常のペースではとても無理です。そこで僕は二つのことを考えました。一つには、その作品を読みこんで自分なりに作品の核心部分をつかみ、授業のポイントを絞り込むことです。この作品ではここだけ押さえればいいと割り切ることにする。二つには、板書に書く手間を省くために、必要に応じてプリントを作る。(あとで話すつもりでずが、プリント授業は定時制でもずっとやってきました。)
こうした方針を立てて、87年度、三年生に授業をしました。これは本当にハードな授業でした。僕もきつかったけど、授業を受けた生徒の方も大変だったでしょう。なんとかゴールできたときには、達成感があり、自信もつきました。一度はやってみたかった、やれば自分の体力も、限界も見えてくる。まあ、六甲全山縦走のようなものです。六甲全山縦走は四十代で四回ほどやりましたが、教科書の全教材踏破は、この87年一回だけでした。自分にとっては得がたい経験になりました。
【「読書の記録」を作る】
このように、87年という年は、国語表現、現代文ともに自分としては新しいことに挑戦した年で、やっていて手ごたえもありました。三十代半ば、授業に自分の工夫が活かせるようになって、とてもおもしろかった頃です。
この年にもう一つ新しいことをやりました。ちょうどこの頃、兵庫県では教員の共同研究が奨励されていて、どうやら「研究費」も出るらしいというので、それならと国語科も手を上げて、読書指導に活かせる「読書ノート」を作ろうということになりました。
自分が高校生の頃、どんな本を読めばいいか、わかりませんでした。そのとき、図書館が出していた推薦図書の冊子がとても参考になったことを覚えています。ある時期、初心者には、適当な読書案内というものは確かに必要だと思います。
舞子高校の頃は、自分一人で推薦図書を選び、プリントを作って生徒に配っていました。でもそれは個人の好みが強く出たものでした。個人ではなく、国語科全員で読書の指針になるようなものを作ろうと考え、一年かけて作ったのがこの「読書記録」という冊子です。
「Ⅰ課題図書50選、Ⅱ推薦図書、Ⅲ私の読んだ本、Ⅳ読書の記録、Ⅴ原稿用紙の使い方」という構成で、課題図書については簡単な紹介文を、分担して書きました。また国語科全員が本や読書についての短いエッセイを書き、それを冊子のあちこちに散らしています。僕はここに「ドストエフスキー」というエッセイを載せました。
☆参考☆
ドストエフスキー
藤本英二
高校生の頃、ぼくはある女の子に淡い憧れを抱いていました。ある日、偶然町で出会ったことがあります。彼女は一冊の分厚い本を大事そうにかかえていました。「その本は、何?」と尋ねると、「『罪と罰』、むずかしいから、あんまり読めてないけど」と彼女は恥ずかしそうに答えました。
人と本との出合いは、そんなたわいもないことがきっかけになることもあります。浪人をしている時、ぼくはふとこのことを思い出して、『罪と罰』を手にしたのです。それからしばらくは、憑かれたようにドストエフスキーを読みました。『白痴』のナスターシャ・フィリポヴナ、『悪霊』のスタヴローギンに最も魅力を感じました。
「私は、冬になると毎年『カラマーゾフの兄弟』を読みかえすの」という目もさめるような美少女と大学で知り合いになりました。会うたびに、何時間も(恋を囁くのではなく)、ドストエフスキーを論じあっていたのですから、野暮の骨頂と言うべきなのでしょうが、ドストエフスキーにそれだけの魔力があったことも確かです。
気がつけばもう何年もドストエフスキーの作品を手にしていないのですが、つい昨日読み終えたばかりのような思いもあります。それだけ深く胸に刻印されたのだとも言えるでしょうが、青春期が思い出の中で美化されていくように、ドストエフスキーもぼくの心の中で不当に神格化されているのかも知れません。
☆☆☆☆
時間がかかったのは、ⅠとⅡでした。各自が持ち寄り何を課題図書にするか、何を推薦図書にするかを検討しました。いったん出来上がれば、あとはそれを土台に改訂していけばいいので楽なのですが、やはり最初は時間がかかりました。
「研究費」がつくというので喜んでいたら、使い方にいろいろ制限があり、飲み食いなどにはもちろん使えず、結局文房具を買うくらいしか使いみちがありませんでした。僕は万年筆のカートリッジインクを大量にもらいました。
定期考査の時期には、日帰りで有馬温泉に出かけ、部屋を借りて会議を行いあとは温泉につかったり、最後の打ち合わせ、仕上げの会議では京都に一泊して祇園の近くを散策し、古風な喫茶店に入って珈琲を飲んだり、とても楽しかったことを覚えています。この頃国語科の先生方は仲が良くて、年の瀬には京都へ歌舞伎の顔見世を観に行ったり、大阪へ文楽を観に行ったりもしました。
【県立伊丹高校で十三年過ごす】
県立伊丹高校は古い伝統校で、この当時総合選抜制学区、四割を成績順、六割を学区優先でとっていました。ですから生徒の学力に幅があり、いろんなタイプの生徒が混在していて個性的な子も多くて、教師として接していても、刺激的でおもしろかった。生徒会活動も活発で、特に文化祭・体育祭は盛んでした。HRではもちつきをしたり、校庭の落ち葉を集めてきて焼き芋をしたり、牧歌的な雰囲気がありました。
教師も多くが組合員で、青年部の活動も活発でした。GWには家族連れで何台も車を連ねて名神高速を北へ走り滋賀県まで山菜狩りに出かけたり、文化祭では職員劇をやったり、自主的な公開授業や研究会もやりました。
そんな風に居心地のいい高校でしたので、僕も十三年間ここで過ごしました。
Ⅳ 猪名川高校時代 1993年~
【強制配転で猪名川へ】
猪名川高校に強制配転されたのは、全く思いがけないことでした。校長から来年度入学生の学年副主任をしてもらえないかといわれ、4月の新入生合宿の下見に行くだんどりまでしていました。それが終業式の日に突然、転勤の内示が出た。どうやら、管理職も直前まで知らされていなかったらしい。県立伊丹高校では、僕以外にも何人もが一度に「計画交流」で動かされた年です。
この時、上の娘は小学四年、下の息子はまだ三歳でした。女房は民間企業で働いていて、大阪から帰ってくるのはたいてい8時過ぎ。それで、上の娘のときから、保育園の送り迎えはずっと僕の仕事です。猪名川高校は、伊丹市から北へ、川西市を越えた向う、川辺郡猪名川町にあり、車で一時間ほどかかります。勤務時間終了と同時に学校を出ても、保育園の閉まる六時までに戻ってくることは無理。組合を窓口にして県教委とかけあいましたが、彼等がいったん出した内示を撤回するはずもない。
あんまり腹が立ったので、抗議の意思表示をしようと思った。で、頭を丸めようかと思うんだけどと、女房に話すと、一も二もなく、「それはいいわ。今の若い子なら、きっとわかってくれる。オリンピックでも審判に抗議して、チーム全員スキンヘッドにした国があったやん。『エイリアン3』のシガニー・ウィーバーかって、丸坊主で闘っててかっこええやん。今流行やで」と賛成する。よし、髪切ろうと決めて、散髪屋へいった。いつもの店ではちょっと恥ずかしいので、行ったことのない店に飛び込み、丸刈にしてと頼みました。「何かあったんですか?」と店の人も心配してくれる。「ええ、ちょっと」と答えて椅子に座っていると、店の人は電気バリカンを手に、「本当にいいんですね」と念押し。で、丸坊主にした。
その夜、車で北伊丹の駅まで女房を迎えに行ったら、顔を見るなり、「あなた、その頭なに」と言う。「なにって、君も勧めたやないか」「まさか本当にするとは思わなかった。あなたが迷ってるみたいやから、ちょっと後から押したげようと思っただけなのに。まさか本当にするとは」と笑っています。
それで、離任式では、全校生徒の前で、坊主頭にした理由、強制配転のことを話し、これからは息子悠介の送り迎えを最優先にするつもりだ、と話しました。行った先の猪名川高校では、授業の最初に、まずその話をし、「髪形も一つの意思表示なのだ」と語りました。
ある日、食堂で昼飯を食っていると突然目の前にどかっとお尻が現われた。男子生徒がテーブルに腰かけて、話しかけてくる。「ふじもっちゃん、食堂なん?」「うん、そう」「愛妻弁当じゃないんや」こいつ、俺にあやをつけにきたのかと内心身構えていますと、「ふじもっちゃんには頑張って欲しいわ。俺らみんな応援してるんやで、署名でもなんでもするから、言うて」と言うのです。ふっと頭を見る、彼の髪はまっ黄色、「髪形も一つの意思表示なのだ」といったのが妙に受けたのかな、と思いました。
そんなわけで、猪名川高校では、保育園に間に合うように、職員会議の途中でも、抜けて帰りました。一人学校から出て行くのは、ちょっと気がひけるのですが、まだ練習中の運動部の女子たちが、よく手をふってくれました。朝夕、人気の少ない小暗い猪名川渓谷を、車を走らせながら、カーステレオで「森田童子」なんか流していると、本当に暗い気分に浸れるものです。渓流をはさんだ向うの野原にぽつんと一本柿の木が立っていて、冬になるとびっくりするくらい大量の実がなり、その柿の実の色がとても鮮やかだったことを覚えています。秋に田んぼの中の道を走ると、あぜ道ぞいに曼珠沙華が並んで咲いていたのも印象的でした。
【選択現代文を初めて担当する】
そういうわけで、猪名川高校での三年間は行動に制約がかかって、ちょっと鬱屈気味でしたが、同僚は親切にいろいろと声をかけてくれ、仕事の上でも何かと配慮してくれるので、学校の居心地はそれほど悪くはありませんでした。
国語科準備室は職員室から離れていて、別の棟の3階にありました。使い勝手が悪く、教科書が放り込まれているだけで倉庫がわりの国語科準備室をせっせと片付けて、そこを自分の勉強部屋のようにして、教材研究や原稿書きをしていました。
90年頃からから使い始めた、最初のパソコンはデスクトップ型でとても重くて、小型のテレビみたいでした。それを毎日車の後ろに積み込んで学校へいき、準備室まで運び上げ、また帰りには運びおろすということを繰り返していました。デスクトップの意味がわからなかったのと同じですね。
猪名川高校には「選択現代文」という科目がありました。選択クラス、担当者は一人、教科書がないので、一年間全部好きな教材で授業ができる。僕にとっては、願ってもないような科目です。
しかし、自由であるというのは、実は大変なエネルギーを要求されます。決まった教科書がないので、一から自分で教材を探さなくてはならない。
話はさかのぼりますが、大学生の頃、友人からこんなことを聞いたことがあります。神戸大学教育学部の教官たちが、「どんな力を学生につけたいと考えているか」。それは、自分たちで教科書を作ることのできる学力だ。自分たちでというのは「自分ひとりで」ということではなく、ほかのみんなと協力しながら、という意味です。学生の頃にそれを聞いて、印象深かった。いつか自分も自分の望むような教科書を作りたいなあと思いました。
教科書に対して、若い頃は、反発の方が強かった。同じような定番教材ばかりで、新しい教材、面白い教材が少ない。原文を勝手に削除・改変している。などいろいろ不満があった。でも、何年も教科書を見てくると、教科書会社は複数あり、同じ科目でも十数種類の教科書があり、十把一からげには論じられない、意欲的な取り組みや新しい工夫をして頑張っている編集者もいるということが理解できるようになった。
県立伊丹高校の国語科では、教科書選定の時期には、全員で教科書を比較検討して、来年度の教科書を決めていました。僕もこの時期、いろいろな教科書をよく読みました。そうすると、教科書会社の特色、色、匂いというものがわかってきた。古臭いもの、保守的なものから、新しいもの、実験的なもの、革新的なものまでいろいろある。そして、自分が知らなかった作家や作品と教科書で出会うということができました。若い先生は一度すべての国語教科書に目を通してみると、とてもいい勉強になると思います。
で、猪名川高校で選択現代文を担当して、自分で一年間の教材を自由に選べるようになって、いわば「自分の教科書」を作る機会を得たのですが、まだまだ自分のストックが少ないことに気づきました。次に何をやろうか、直前まで迷っていて、いつも追いかけられている感じでした。
参考までに、この時どんなものを教材に作ったかといいますと。
《柴田元幸『生半可な学者』、上野千鶴子『私探しゲーム』、坪内稔典『俳句 口承と片言』、井上ひさし『ニホン語日記』、見田宗介「狂気としての近代」、池谷信三郎「忠僕」、筒井康隆「北極王」、寺山修司「日本童謡詩集」、五木寛之「現代に冒険は可能か」、他。1995年》
それなりに自分の好みが出ているとは思います。でも、次に何をやるかに追われて、いつも息切れがしているようで、一年間を見通していろんな教材をバランスよく配置するといった余裕はありませんでした。
このときの経験が実を結ぶのは、次の川西明峰高校で選択現代文を担当したときでした。そのことについてはあとで詳しくお話したいと思います。
【筒井康隆「北極王」について】
全員対象の普通の現代文もやっていました。三省堂の『現代文』を使っていて、ここに筒井康隆の「北極王」という短編が載っていた。筒井康隆は好きな作家の一人ですが、一九九〇年頃に発表されたこの新しい短編は知らなかった。
小学生の夏休みの作文という体裁で書かれています。北極王から招待状がきたので一人で北極まで行き、北極王と北極王の奥さんに会って帰ってきたという内容ですが、これがなかなか一筋縄ではいかない。ちょっとひねった作りになっています。感想を書かせますと、生徒たちは、様々な反応をみせます。これを夢あるいは、ファンタジーととらえる子もいれば、「見せ消ち」(下に何が書いてあるかわかるように、傍線で消して訂正するやり方)の手法にこだわっている子もいる。北極までの旅の描き方がバランスを欠いていたり、全く同じ表現が繰り返されていたりする不自然さに気づく子もいる。生徒の感想を紹介し、この作文の正体は何かを、具体的な表現に即して、丁寧に探っていきました。
すると、これが主人公・書き手の宇野和博君の書いた「うその作文」だということが次第に見えてきます。
《筒井康隆は「小学生の作文」自体から、まず一生懸命うそを書いている小学生の姿を立ち上がらせ、そのうそのつき方の「つたなさ」を通じてこの和博君の幼さを表現すると同時に、読者に向かってこの作文がうそであることを告げている。》というのが僕の理解です。
この短編には、小説を考える上で重要な要素がいろいろ入っている。作者と語り手、指示表出と自己表出、ばれるようにつくうそ、メタ記号として働くコノテーション、メタフィクションなどなど、虚構とかフィクションを文芸学的にとらえるためのキーになる要素がちりばめられています。もちろん、高校生にそんな文芸学的な概念を教えること自体は必要ではない。でも授業をするものとしては、その点を押さえておくことは、作品の面白さを生徒に伝えるために大切なことだと思います。
大人向けの文学講座では、「子どものうそ」をどうとらえるか、というテーマで話しました。「北極王」だけを読むのでなく、その横に、柳田國男の「ウソと子供」やマンガ「じゃりン子チエ」を置くと、話が立体的になり、文学における虚構、フィクションの意義という所まで話を広げることができます。
詳しい授業報告、講座の内容は『読むこと書くこと 大人への回路』(久山社、2001年)にまとめてあります。
【『サラダ記念日』野球ゲーム全五十首を授業する】
俵万智の『サラダ記念日』が世に出たのは1987年5月。僕が持っているのは、同年6月十一刷のものです。マスコミで評判になってすぐに読みました。授業でとりあげたいと思いながら、なかなかその機会がありませんでした。
猪名川高校で、初めて『サラダ記念日』をやろうと決めて、「野球ゲーム」全五十首を自主教材にしました。これは元々、短歌雑誌に五十首まとめて掲載されたもの。この五十首をそのままやろうと思った。歌集の中から何首か選んで授業するのでは、『サラダ記念日』の歌集としての魅力は掬い取れないと考えたからです。
「野球ゲーム」は五十首で一つの恋愛物語を作っています。これは高校生の共感を得るだろうと思いましたが、予想以上に『サラダ記念日』は彼ら彼女らの心をとらえました。感想を読むと、その興奮ぶりが伝わってきます。
「野球ゲーム」については僕なりの発見がありました。三十番目の歌が《「30までブラブラするよ」という君のいかなる風景なのか私は》なのです。俵万智は、絶対意図的にこの歌をこの位置においたと思いました。俵万智の卒論は和歌の並べ方なので、歌をどう並べるかについては、意識的なはずです。三十番目に《「30までブラブラするよ」……》という歌を配置している。でもたぶん、これはほとんど誰も気づいてないだろう。普通、歌集を読むときに、これは何番目の歌かなんて、誰も気にしない。もちろん歌集に番号なんてついていない。僕は自分のプリントに手書きで番号を打ってみて、初めて気づきました。
それで、生徒には「たぶん日本中でこのことに気づいているのは僕だけだと思うけど」と前置きして話しました。すると、生徒が「そんなら、二首目、見てみ」って言うんです。
《卵二つ真剣勝負で茹でているネーブルにおう日曜の朝》
おお、そうであったか。その子に教えられました。
川西明峰高校で、「猪名川高校の生徒はこんな風に教えてくれたんだけど」と紹介すると、また生徒から声がかかりました。「先生、二十四番目もそうじゃないですか」。
《愛ひとつ受けとめかねて帰る道 長針短針重なる時刻》
一瞬、生徒が何を言っているのか理解できずに「?」。もう一度見て、「長針短針重なる時刻」、夜中の十二時、あっ二十四時か、と一拍おいてわかりました。もうこれで僕の仮説は完璧になりました。絶対に俵万智は、意図的にこれらの歌を並べた、密かな遊び心の表れです。
この『サラダ記念日』の授業実践については、『読みきかせに始まる 絵本から『サラダ記念日』まで』(久山社、二〇〇四年)にまとめてあります。
【国語表現について】
転勤した93年、猪名川高校でも国語表現を担当しました。基本ベースは『ことばさがしの旅』と同じなのですが、新しい単元も作ってみたいと思い、「陪審員ゲーム」というのを考えました。討議、討論、話し合いについて、ディベートとは違う形でやってみたかった。
それで、中原俊監督の『12人の優しい日本人』という映画、もとは三谷幸喜の劇ですが、それを見せたあとで、大江健三郎の「不意の唖」を読み、班で話し合うという流れを考えたのですが、これは失敗しました。
映画は興味を持って観ていましたし、「不意の唖」という小説に対する反応も悪くはない。それで気をよくした。何を話しあうかのポイントもちゃんと設定した。でも、いざ討議となると、みんななかなか口を開こうとせず、授業は空転してしまいました。
「聞き書き」実践は、県立伊丹高校で四回、猪名川高校で一回やりました。最初の年の作品は、『ことばさがしの旅』下巻に収録しましたが、それ以降も面白い聞き書き作品が沢山ありました。高校出版から申し出があり、僕が編集し『高校生がききこんだ関西人のお仕事』(1994年『月刊高校生』特別編集号)を出版しました。これは教育実践の本ではなく、「仕事の本」です。聞き書きの内容が面白いので、朝日、毎日、読売、産経、神戸の新聞各紙がとりあげ、結構評判になった。朝日放送の「おはようパーソナリティ道上洋三です」という番組にも呼ばれて、僕は生まれて初めてラジオに出演しました。テレビ局から取材の打診もあったのですが、その時、94年は国語表現を担当していなかったので、結局テレビ取材は実現しませんでした。
一番丁寧な対応は、神戸新聞でした。まず授業の紹介記事が出て、そのあと生徒の作品を短縮した形で、毎週一回掲載という企画になりました。その連載「仕事の風景」は1995年1月から始まりました。その直後、1月17日に阪神淡路大震災が発生したのです。神戸新聞は社屋が倒壊しながらも、地元の新聞社として震災の記事を書き続けました。連載は中断を余儀なくされましたが、半年後に再開しました。
Ⅳ 川西明峰高校時代 1996年~
【川西明峰高校へ移動する】
猪名川高校で三年間過ごし、川西明峰高校へ移動し、通勤時間は半分ほどになりました。久しぶりにクラス担任になり三年間、その後学年副主任として三年間、合計六年間をこの川西明峰高校で過ごしました。二年目からワンダーフォーゲル部の顧問になり、夏には北アルプスに出かけたり、秋には六甲全山縦走を行ったりしました。
川西明峰高校で試みた授業を、選択現代文と国語表現の二つの科目に即して簡単にお話します。
【選択現代文一年間の試み】
猪名川高校でも担当しましたが、選択現代文は教科書がないので、自分で教材を選ぶことができます。川西明峰高校でも何度か担当しましたが、99年の一年間の授業内容を表にしたものがあります。
学期
作品名
授業の形態
1
導入・文化としてのことば
講義
①筒井康隆「北極王」
②黒井千次「子供のいる駅」
質問をしながらの対話形式の授業
③原作と映画を比較する
芥川龍之介「藪の中」と黒澤明「羅生門」
小説を分析し、映画を見、比較検討したレポートを作らせる。
④池谷信三郎「忠僕」
小説の結末を予想させ、創作させる。
2
⑤現代詩の朗読
高村光太郎、室生犀星、石垣りん、谷川俊太郎、東淵修、吉増剛造、町田康、茨木のり子、道浦母都子(都はるみ)、吉永小百合「原爆詩の朗読」
詩のボクシング(ねじめ正一・谷川俊太郎)
詩の朗読のテープ、CD、ビデオなどを鑑賞し、最後に「詩の朗読」というエッセイを書かせる。
⑥与謝野晶子「みだれ髪」と俵万智「チョコレート語訳」を比較する
⑦寺山修司「燃ゆる頬」(全)
各自にレポートを作らせ、その違いを整理しながら、講評を加えていく。
⑧村上龍「料理小説集」(フィジーのアイスクリーム)
⑨村上春樹「螢」
⑩村上春樹「アンダーグランド」(明石志津子)
⑪村上龍「寂しい国の殺人」
感想を聞き、質問をしながらの対話形式の授業。最後に四つの中から一つ選んで小論文を作らせる。
3
⑫見田宗介「狂気としての近代」
質問をしながらの対話形式の授業。
別の年には、もう少し評論やエッセイをとりあげたりもしているのですが、今ふりかえると、この年は小説と詩歌、文学作品に偏りがちだったようです。
【映画と原作の比較】
一学期は短編小説を四つ、「北極王」「忠僕」については猪名川高校の所でお話したものです。「子供のいる駅」は一首の寓話、ショートショートです。これらはこれまでに扱ったことがありました。
③について、少し補足します。
僕は映画が好きで、あるとき調べてみたら、1979年から2004年までの25年間、映画館で合計1147本観ていました。年平均46本です。
映画を授業に取り入れる機会は、これまでなかなかなかったのですが、川西明峰高校でそれをやり始めました。具体的には、「伊豆の踊子」や「羅生門」(原作は「藪の中」)などの映画と原作の比較です。
この表は99年のものですが、③映画と原作の比較は「羅生門」をやりました。まず芥川龍之介の「藪の中」を一通り読み、内容を確認したうえで、黒澤明の映画『羅生門』を見せ、生徒各自にレポートさせるという授業です。ご存知かとも思いますが、黒澤明の映画は前半2/3は芥川の小説にそってつくられていますが、後半の1/3は完全にオリジナルです。元の脚本は橋本忍が書き、それに黒澤が手を入れています。生徒も原作と違う点に興味を持ったようで、なかなか力作のレポートがいくつも出ました。レポートは印刷して全員に配布、僕の方からレポートのよいところを中心に講評しました。
【「比較することで読む」という方法】
僕はどうすれば、高校生たちが自分で文学作品を読むことができるようになるのか、そのことを考えてきました。教師が一方的に自分の読み方や解釈を講義するというのではない、高校生が自分の力で読むことの喜びに出会える、そんな授業のやり方を探してきたと思います。
高校生は、既に、ある程度作品を読む力を身につけています。ですからその力に依拠しながら、彼等自身の読みを生み出すように授業することができるはずです。そのために、僕は「比較する」という方法を意識的に取り入れてきました。
「映画と原作を比較する」というのもその一つですが、それだけではありません。
古典の授業では、「源氏物語の冒頭の現代語訳を比較する」ということもやりました。多くの場合、単語の意味を調べさせ、文法的な説明をし、生徒に現代語訳させてみる、あるいは教師が現代語訳をする。そんな授業を僕もしましたが、どうも堅苦しくて窮屈でした。現代語訳が一義的に決まるような錯覚を生み出す。そこで、与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、瀬戸内寂聴は、どう訳しているか、原文と複数の現代語訳を比較するという授業を考えました。比較してみると、それぞれの訳の特徴もよくわかります。与謝野晶子は敬語表現を細かく訳すことなんかにこだわってなくて、わかりやすい。
「比較することで読む」という方法は、短歌でもやりました。
表の⑥を見てください。ちょうどこの頃、俵万智が『チョコレート語訳 みだれ髪』を出版し話題になっていました。それを使って、与謝野晶子「みだれ髪」と俵万智「チョコレート語訳」を比較する授業をやったのです。
例えば有名な《やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君》を俵万智は《燃える肌を抱くこともなく人生を語り続けて寂しくないの》と現代語訳しています。この二つを比較してみると、いろいろと違いが見えてくる。「やは肌のあつき血汐」と「燃える肌」では、前者の方がよりエロチックだと感じますし、「ふれる」と「抱く」ではニュアンスが異なります。「道を説く」と「人生を語る」では話の中身が違うよなあ、と思います。
あるいは《髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ》を《たっぷりと湯に浮く髪のやわらかき乙女ごころは誰にも見せぬ》と訳している。前者が髪を洗っている(風呂に入っているのではなく)のに対して、後者はバスタブに全身浸っているようにイメージできます。「髪をとく」と「こころを秘めてはなたない」は照応していますが、チョコレート語訳ではその照応がないので、「乙女ごころは誰にも見せぬ」が表現としては弱くなっている。
与謝野晶子の歌を理解するために、俵万智の現代語訳は役に立つかもしれないけれど、二つの歌の世界は明らかに別のものです。与謝野晶子の世界の方がエロチックだと思います。織り込まれているイメージも、与謝野晶子の方が、連関性を持ち複雑です。いくつか例を話して比較の仕方を示唆しながら、生徒自身に比較させレポートを作らせる、そんな授業です。
教科書では短歌は一人一首ないし二首という採り方がほとんどですが、筑摩書房の教科書は「みだれ髪」から十数首抜粋して、一つの見識を示していると思います。僕は、それをベースに使わせてもらい、対応する俵万智の歌を並べて教材にしました。
【短歌を歌集の中の歌として読む】
俵万智の『サラダ記念日』は猪名川高校でやり始めて、川西明峰高校、宝塚良元校でもやり続けました。全員対象の現代文でやることが多かったです。「野球ゲーム」全五十首でやった年もあれば、「八月の朝」全五十首でやった年もあります。
同じように短歌をまとめてやるという授業は、寺山修司の『空には本』の「燃ゆる頬」でもやってきました。表⑦の所です。この99年の選択現代文でも扱っています。これはもともと、三省堂の現代文の教科書にこのかたち、「燃ゆる頬」全二十六首が掲載されていて、ああこれはいいと思いました。
先にお話したように、『サラダ記念日』の場合は、一編の物語として短歌集を読んでいこうとしました。俵万智もそのように、ストーリーが形成されていくように五十首を並べています。
寺山修司の『燃ゆる頬』の場合は、単一のストーリーにそって歌が並べられているわけではない。それでどのような「図」が見えてくるか、をさぐるという風に授業しました。具体的には、父、母、友、少女、少年などということばに注目して、そのことばの出てくる歌を並べて関連づけてみる。例えば、
わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む
わが鼻を照らす高さに兵たりし亡父の流灯かかげてゆけり
耳の大きな一兵卒の亡き父よ春の怒涛を聞きすましいむ
かぶと虫の糸張るつかのまよみがえる父の瞼は二重なりしや
という風に「父」ということばの出てくる歌が、二十六首の中に四つ散らばって配置されている。まずそれらをつないで眺めてみると、連関しあって「父の図」が浮かんでくる。それは、例えば、「わが通る……」一首だけを示されての読後感とは決定的に違うわけです。また、この四首には、鼻、耳、瞼という風に父と自分のつながりが肉体の部分において意識されていることもわかると思います。
短歌を一首だけとりあげて授業するというやり方も、もちろんあっていいでしょうが、それは往々にして、教える者と教えられる者との間に知識量の差を当然のこととして前提している。歌の背景、歌人の人生、などを抜きにして、その歌だけで授業するのならともかく、結局はその歌の背後にあるものを「教え込む」ことがしばしば授業の中心になってしまう。それは短歌を歌として享受するのとは別のこと、知識の授業になってしまう。
もちろん、教師と生徒が作品を間に挟んで全く対等に向き合うということは、ありえない。当然知識量も違うし、そもそもその教材を教室に持ち込むという段階で、力関係は決定的なわけです。それでもできるだけ、一方的な知識注入ではない授業をしたい、生徒自身の読みを引き出したいと思えば、教師は生徒への作品提示の仕方を工夫すべきです。
そういう意味で、若い頃に僕が教えられたのは、筑摩書房の教科書です。斉藤茂吉の「死にたまふ母」を十数首まとめて並べている。ああこれなら、短歌の素養のない僕にも少しは授業できるかもしれないと思いました。
僕は「死にたまふ母」『サラダ記念日』「燃ゆる頬」などを授業してきましたが、それは、短歌を一首だけ切り離して授業するのではない、短歌をあるまとまとったものとして、一連のものとして読もうという試みだったといえます。
【現代詩の授業】
93年に『現代詩の授業』をまとめてからも、三年に一度くらい、の割合で詩の授業は続けてきました。取り扱う詩作品は、少しずつ入れ替えています。川西明峰高校では他の先生と共同で、詩を持ち寄って、教材づくりをしました。
現代詩に対するぼく自身の関心は、「読みの方法」「場の力」「魂の声」という風に移っていきました。そして川西明峰高校にいた頃は「詩から聞こえてくる声」という問題に移り、それはさらに「詩の朗読」へと関心が向かいました。
表の⑤を見てください。高村光太郎や室生犀星の朗読テープ、あるいは石垣りん、谷川俊太郎、ねじめ正一、町田康の朗読のビデオを生徒に紹介しながら、授業をやりました。生徒は町田康の「こぶうどん」の朗読なんかすごく好きなんですね。
それから、「詩のボクシング」も最近は盛んになって、地方予選なんかもあるようですが、これは初期の頃、第二回でしたか、ねじめ正一と谷川俊太郎の試合があった。三分間十ラウンド、交互に朗読する。途中で、先攻後攻が変るんですけどね。小林克也が実況アナウンサー、高橋源一郎が解説者、遊び心に満ちた番組でした。そのビデオを生徒に見せて各自に採点させました。谷川俊太郎もねじめ正一も朗読をよくやってきた詩人で、読み方も個性的です。
【吉増剛造の朗読】
僕が朗読の問題に大きな関心を持つきっかけになったのは、ある朗読会で、吉増剛造の朗読に出会ったことです。吉増剛造の朗読は、それまで知っていたどのような朗読とも異質なもので、僕は驚きました。「石狩シーツ」という詩は六百行を超す長編詩で、読めば三〇分ほどかかる。この朗読CDを買って、家で聞いてみました。本当に驚きました。その読み方が尋常ではない。アナウンサーや俳優の流暢で耳に心地よい朗読などとは全く違う。ゆっくり囁くように始まったかと思うと、突然吃音かと思うような、声の溜めと破裂がありすさまじい勢いでことばが迸る。しかもそのことばの意味の流れ、つながり、連関がたどれない。でも音だけは強烈に耳に残る。「ス」なら「ス」という音を、今初めて聞いたというような驚きでした。あまりのわからなさにショックを受けました。でも何か心惹かれるものがある。ここには何かがある、と感じました。それで、毎晩寝る前にこの朗読CDを聴き続けた。一年くらい聴いていたと思います。途中で寝てしまうことも何度かありましたが、やがて少しずつ少しずつ、イメージが浮かび、意味の連関がたどれるようになりました。
ちょうど、娘が中学生から高校生の頃で、自分の部屋が欲しいといい始め、僕の部屋を狙っていました。それで、娘が部屋に入ってくるとこの「石狩シーツ」をかける。「お父さん、これ何。何か怪しい宗教と違うん」と気味悪がって部屋から出て行く。娘を追い払うまじないがわりに利用したりしました。それくらい、この朗読は常識的な耳には異様ものと響きます。娘は高校で演劇部の手伝いのようなことをしていて、演劇部で朗読の練習をするから参考にと、僕の所からこのCDを持っていった。どうやった、と尋ねますと、「何を聴かすんや!」とみんなから怒られた、と笑っていました。
【現代文学の最前線へ】
現代文学の最前線の作品を取り上げたいと思い、村上春樹と村上龍の小説とエッセイを選びました。表の⑧から⑪です。
⑧村上龍「料理小説集」(フィジーのアイスクリーム)
⑨村上春樹「螢」
⑩村上春樹「アンダーグランド」(明石志津子)
⑪村上龍「寂しい国の殺人」
⑨「螢」は長編小説『ノルウェイの森』の原型というべき作品で、授業がきっかけで『ノルウェイの森』を読んだ生徒も何人かいます。⑩「アンダーグランド」はオウム真理教の地下鉄サリン事件の被害者に対するインタビュー、⑪は神戸の酒鬼薔薇聖斗事件に対する言及があるエッセイです。同時代に起こった大きな事件を文学者がどう受け止めたか、を高校生に紹介したかったのです。
選択現代文の最後にやったのは⑫見田宗介の「狂気としての近代」です。これは一首の時間論なのですが、我々がどういう社会の中で生きているかをとらえるヒントになればと思ってやりました。
【写真とことばの物語・国語表現の新しい展開】
次に国語表現の話をします。
猪名川高校で「陪審員ゲーム」をやって失敗したあと、川西明峰高校で国語表現の新しい単元を作りました。「写真とことばの物語」と名づけました。2001年の実践報告は「ブリコラージュ通信3号」に詳しくまとめてあります。今、その骨子だけを紹介します。
これは、一言でいえば、《写真を利用した物語作り》ということになります。『ことばさがしの旅』の時に、「おはなしづくり」に失敗して以来、どうすれば物語づくりができるか、気にかけていました。
これはちょっと横道にそれますが、数年前に東京で報告したときに中井浩一さんから、「藤本さんの一人語りにこだわった聞き書き実践は、藤本さんなりの物語作りではないですか」と言われて、虚をつかれた思いがしたことがあります。僕自身は、「おはなしづくり」の失敗を、モノローグのことばをどうダイアロークのことばにひらいていくか、という軸で考えていた。でも確かに、聞き書き実践は「おはなしづくり」を新しい題材で展開したものだと考えられないこともない。自分にとって死角になっていました。
それはともかく、新しい単元を組んでみようとして、写真を利用すれば何かできるのではと思いました。教科書にも「写真にキャプションをつけてみよう」などという問題などがあった。それで98年に久しぶり国語表現を担当したとき、写真を何枚か組み合わせ、ことばをつけて物語を作るという授業をやってみた。ある程度手ごたえがあったので、次に担当した01年には、あれこれ丁寧に手順を踏んで、全力投球で授業に取り組んでみました。これは久々にうまくいった実践です。自分としても、この「写真とことばの物語」は「広告分析」と「おはなしづくり」という自分の先行実践の交点に位置づけられると自覚できました。
授業の骨子については、レジメをごらんください。
導入 ①雑誌の裏表紙広告「C is Beautiful .」
② 二つの新聞写真「杉山、2回戦敗退」
①はフジフィルムの「トレビ100C」という商品の広告を例にとり、写真(海辺に立つ水着の女性の後姿)と言葉が組み合わされると、どのような効果が生まれるか、ということを話しました。
②ではことばは同じでも、使われている写真が違うと、見ている者の印象が全く変るということの例として、「杉山愛、二回戦敗退」という記事を使って、説明しました。
レッスン1
「アサヒカメラ」から5枚の写真を選び、A3サイズに拡大したものを用意。生徒にそれらの写真にキャプションをつけさせる。
レッスン2
レッスン1の5枚の写真の中から、2枚を選ばせる。それを組み合わせ、ことばを加えて、お話を作らせる。
レッスン3
写真雑誌を何冊か用意した。その中から、生徒に自分の好きな写真を2枚切り抜き、台紙に貼りつけ、キャプションをつけて作品を作らせる。
※みんなの作品を見て、各自5点を選び、選評を書く。
ここまでが、導入と練習です。そして、このあと次のような二つの課題を課しました。
課題一 「私の好きなもの」
二枚の写真とキャプションでつくる。一枚目は人物写真、二枚目はその人の好きなものの写真という組み合わせで。この課題ではフィクションは不可。本当にその人の好きなものを撮ること。
課題二 「写真とことばの物語」
写真とことばを組み合わせて、十二ページの本を作ること。写真は最低でも十二枚必要になる。写真は古いものや雑誌の写真を使ってもよいが、基本的には新しく自分で撮る。クリアファイルを用意するので、台紙に写真を貼りことばを書き、本文ページをつくり、ファイルに入れていく。それ以外に表紙、まえがき、あとがき、裏表紙を加えて、全部で十六ページの本として完成させること。
ポイント①写真とことばの組み合わせから生まれるものをいかすこと
②十二ページのバランス・構成を考えること
③おもしろい作品を作ること(平凡さとひとりよがりをさけて、驚き・共感を)
※感想と優秀作3点を投票
課題1はそれほど、変った作品は出ませんでした。課題2だけでも良かったかなと思います。そして授業の最後に、《「写真とことばの物語」を終えて》という作文(二千字)を書かせました。
授業をふりかえってみれば、次のようなことが言えます。
最初の3つのレッスンでは、全員のキャプションや作品を紹介し、各自で採点・投票させて「ベスト作品」を選んでいきました。これは一種ゲーム的な要素もあり、和気藹々の雰囲気の中で楽しくやれた。そうすることで、他人の表現の面白さ、自分の表現の拙さ(ひとりよがり)に気づいていったように思います。このような、ゆるやかな相互批評が無理なく行なえたことが、今回の授業の成功の一因です。
また、レッスンの材料として写真雑誌を使ったことが大きな力を発揮したと思います。
自由に立ち歩き、写真や作品を見てまわるという場面が何度かあったが、これは僕自身にも新鮮な時間でした。最後は図書室を借りて各自がみんなの作品を見てまわり、それに対して感想を書くということをやったのですが、生徒たちは僕が予想した以上に熱心に他の子の作品を眺め、丁寧に感想を書くので、結果的に二時間かかりました。ゆったりとしかも充実した時間でした。
僕自身、毎時間生徒がどんな作品を作ってくるかが楽しみで、授業が刻々と生成していくという感覚を味わうことができました。「授業は教材と教師の解説だけで成り立つものでなく、生徒の作品や感想などが次々に織り込まれて出来上がっていくものなのだ」ということを改めて再確認できた授業になりました。
Ⅴ 川西高校宝塚良元校時代 2002年~2012年
【夜間定時制へ】
長い間、昼間の高校で働いてきて、僕はだんだん仕事に倦んできたのだと思います。働き出した頃と比べて、明らかに忙しくなってきている。その忙しさも、僕にはあまり意味のあるものと思えない。コンピューターがどんどん職場に入ってきて、成績処理はもちろん、通知簿さえコンピューターで打ち出すという。僕は、通知簿は一人一人手書きでコメントを書いてきたが、そんなこともう今は必要ないとされ始める。そうした情報処理の流れについていけない感じもありました。
特色ある学校づくりという方針が県から降りてくると、自分の学校の特色を打ち出そうと会議ばかりが繰り返される。あるいは総合学習の時間が導入されることになり、それをどうするか、が論じられる。内発的な忙しさではない、外発的な忙しさに学校全体が振り回されている、と思いました。
進路指導という名の下に、補習が隠然と職員に強要される。いわゆる「受験教育」には若い頃から反発を持っていましたが、学校全体は「受験教育」「補習」の方向にどんどん押し流されているように感じました。
そうした思いもあり、夜間定時制への転勤を希望しました。
【カルチャーショックを受けて】
川西高校宝塚良元校は阪急小林駅から徒歩5分の所にあります。1学年1学級規模、全校生徒あわせても100人ほどの小さな学校です。先生も10人ちょっとです。
皆さん方の中にも、ひょっとしたら、夜間定時制の高校生は昼間は工場か何かで働いていて、夜は勉強している「苦学生」という、昔のイメージを持っている人がいるかもしれません。今は全然違います。まず、アルバイトをしている生徒は5割から6割程度ですが、正規雇用の生徒は一人もいません。中学時代不登校を経験している子が多く、僕が担任した子で、中学に1日もいかなかったという子がいました。対人関係のとり方が下手でコミュニケーションが苦手な子が多い。父親と死別、離別して、母子家庭の子が多く、あるいは母親が再婚し、義理の父親と一緒に暮らしている子もいる。父子家庭の子もいます。生活保護を受けている家庭、奨学金を貰っている子、今はその制度かなくなりましたが授業料免除、など全体的に経済的に貧しいです。ブラジル、中国などの外国籍の生徒もいます。年齢も、大半は中学からすぐに高校に入学していますが、別の高校を退学して転入、編入してくる子も少なくない。中には二十歳を超してから、あらためて入学してくる。退職して、六十を過ぎてから高校の門をくぐったという方もいます。そういう風に複雑な生活環境、成育歴を持っている生徒が多いのです。
最初の年は、様子もわからず苦労しました。特に、三年生などでは授業が成立しない。ゲーム、携帯、ヘッドホン、マンガを注意してまわっても、もぐらたたきみたいで、全然ダメです。授業をしていても聴いているのは二人か三人だけで、みんな好き勝手に他のことをしている。「おまえら、ええかげんせいよ」と声を荒らげ、怒鳴り上げたことも何度もありました。
授業だけではない。例えば休み時間のたびに外へ出て行く。まあ小さな学校で、休める空間、隠れる場所がないということもありますが、タバコを吸いに出て行く。教師は休み時間や放課後、周辺を吸い殻拾いに回る。
生徒は先生のことも呼び捨てで、職員室に「○○おるか」と入ってくる。昼間の学校では、教師に対する敬意は、内心どう思っているかはともかく、それなりに敬意は払うものだと生徒も教師も思っていた。「先生」として立ててくれた、それが当たり前だったのに、そういう前提がガラガラと崩れていく。生徒からうざい、きもい、死ね、などということばが当たり前のように出てくる。僕も何度も生徒とぶつかりました。
そんなこんなで、カルチャーショックを受けて、思いだすと腹が立ち、寝られない日々が続き、医者から睡眠薬をもらうこともありました。
ただ、昼間の学校へ戻ろうとは思いませんでした。どうしたら、この学校でやっていけるかを、少しでも探ろうとしました。
【定時制での授業】
定時制での授業は、いくつか特徴、利点があります。
⑴少人数であること。1年生の場合、新入生は定員の40人を割ることがありますが、留年生が10人程度出るので、あわせると40人を越えます。丁寧な指導の必要ということもあり、2クラスに分けています。ですから20数人のクラス。生徒全員のことがわかります。ただ1時間目などは教室に3人しかいないということもありました。
⑵大学受験を念頭におかなくてよい。全体的に学力は低く、中には九九やABCがおぼつかない者もいる。小学校の漢字をマスターしていない。いわゆるLD、学習障害が疑われる者もいる。進路指導の問題は難しいのですが、大学進学希望者はその年に一人か二人という程度です。
⑶教材編成が自由にできる。一応教科書はありますが、それに縛られず、プリントで授業をするのが慣例になっていました。
⑷暗いのでプロジェクターを使える。授業は夕方の5時半から始まります。昼間の学校では、ビデオなどを見せようとすると特別な教室、視聴覚教室などに移動しなければいけません。でも夜間定時制では、その必要がない。教室の蛍光灯を消せば、ビデオ上映ができます。あとで詳しくお話しますが、僕はこの十年間で視聴覚教材を頻繁に使うようになりました。教室にビデオ・プロジェクター・スピーカーなどを運び込みセットする、最後の頃は五十インチの液晶テレビが配備されましたから、ゴロゴロとそれを移動させる。パソコンでユーチューブの動画を使ったこともあります。
少人数、大学進学の縛りがない、教材編成の自由、視聴覚機器の使用のしやすさ、などの利点を活かしながら授業づくりを進めました。
【教材の価値について】
ここでちょっと、教材の価値とは何かということに触れておきたいと思います。教材編成の自由があるということは、自分で教材を選ぶことができる。これが僕にとって生命線でした。
神戸大学の教育学部の教官たちが学生たちにつけたい学力として「教科書をつくる力」という目標を掲げたという話を最初にしました。僕ははっきり口にしたことはなかったけれど、内心自分なりに教科書を作りたいと思い続けていたのだ、と今なら結論付けることができます。ただ、これは特に定時制にきて、見方が少し変りました。一時、漱石や鴎外が教科書から消えると騒がれ、その反動として「理想の教科書」などということが言われ、雑誌などで特集が組まれたことがありました。でも、それを読んでいて気がついたことがあります。「理想の教科書」というのは「誰にとって理想なのか」ということです。その点が問われていない、見落とされているということです。「理想の教科書」と言いながら、その論者の好みが開陳されているだけなのです。教科書の読者である高校生のことが視野に入っていない、具体的な現代の高校生、さらに個別の高校生が視野に入っていない。
僕は「理想の教科書」などというものを語ること自体「机上の空論」、「学者の暇つぶし」にすぎないと思います。現場の教師にとっては、問題は「今自分が教えている目の前の生徒にとってふさわしい教材は何か」という設定になるはずです。
同じ一つの作品をやっても、ある学校でうまくいっても、別の学校ではうまくいかないということがある。同じ学校でも、ある年と別の年では生徒の反応が違う。そもそも同じ教室内でも、ある生徒にとっては面白いと思える教材が、隣の生徒の興味をひかないということもある。
僕は選択現代文で、一時間に二つないし三つのエッセイを読ませて、自分が興味を持ったエッセイについて自由に論述せよという授業をやったことがあります。
何を教材として選ぶか、これを考える場合、三つのことを問わなければなりません。教材の価値は、この三つのものの掛け算で出てくる、そう言えるのではないかと思います。
a 教材の文化的・歴史的な価値
b 生徒にとっての価値(どんな生徒に語るか)
c 教師自身の価値観・メッセージ
a「教材の文化的・歴史的な価値」というのは一番わかりやすいでしょう。いわゆる古典的な教材、これまで実践が繰り返されて、一定の評価が確立しているような教材の持っている価値です。漱石の「こころ」とか中島敦の「山月記」とか、古文なら「源氏物語」「枕草子」「徒然草」とかには、文化的・歴史的な価値が大きいと多くの人が認めるでしょう。
b「生徒にとっての価値」とは別の角度から言えば「どんな生徒に語るか」という問題です。僕は大学生の時に、猪野謙二先生に紹介していただいて、東京まで、日本文学協会の荒木繁先生を訪ねたことがあります。そのとき荒木先生は鴎外の「舞姫」もいわゆる進学校の生徒と底辺校の生徒では受け止め方が違うということを話してくださいました。底辺校の生徒は、だからエリートは信用できないというように主人公を突き放して、批判的に見る。しかし、エリート校の生徒は、太田豊太郎を我がこととして受け止めるというのです。つまり、文化的・歴史的価値があると考えられる作品でも、生徒にとって持つ価値は異なるということです。
c「教師自身の価値観・メッセージ」というのは、自分が定年退職を前にして強く意識した点です。たぶん、これまでもそれなりに自分の価値観・メッセージを作品を通して伝えたかったのだと思いますが、退職するという時期に直面して、これだけはこの子たちに伝えておきたいという思いが強くなりました。
教材をいかに理解し、いかに授業するか、ということの前に、我々には考えるべきことがある。それは、そもそも「何を教材にするか」という問題です。多くの実践記録・実践報告は、何を教材にするかという問題を、スルーしているのではないか、そう感じることがあります。何故その教材なのかを自分に問うことをせずに、作品論を展開したり、授業の方法だけを論じたりしている。そんな傾向が強い。「定番教材」といういい方、僕は好きではないけれど、「定番教材」に甘んじている。
さっき述べました、三つの価値、「教材の文化的・歴史的な価値」「生徒にとっての価値」「教師自身の価値観・メッセージ」それぞれの軸がある。そういう三次元の空間の中で、この教材がどこに位置するか、を考えなければならないと思います。教材のベクトルといってもいいし、三つの価値の掛け算といってもいいけれど、教材の価値は複合的なものです。それを測ることです。
何を教材として選ぶかということが「授業をつくる」上で、最初の、そしておそらく最大の問題だと思うのです。
【教材づくりの材料をさがす】
夜間定時制で授業をするために、最初は教科書を使っていましたが、あまり使えるものがないと思うようになりました。
そこで、自分で教材づくりをするための材料をさがすことにしました。
まず、これまでの全日制での授業実践の中で、定時制でも使えるものを探しました。自分の手持ちの財産の活用ということになります。『サラダ記念日』や東淵修の詩「いちのへや」などがそれにあたります。
二つ目は、いろんな教科書からもらいました。実際にやりながら、これなら興味を持って話を聞いてくれる、授業ができるというものを少しずつストックしていきました。いくつかご紹介しますと。
・辻まこと「拾う」筑摩書房
・沢木耕太郎「鉄塔を登る男」明治書院他
・宮沢章夫「わざわざ書く」教育出版
・あわやのぶこ「空飛ぶ魔法のほうき」大修館
・永井愛「男言葉と女言葉」教育出版
・玉手英夫「クマに会ったらどうするか」尚学図書
・竹西寛子「神秘」右文書院
・佐藤雅彦「中身あてクイズ」三省堂他
三つ目は研究会に参加して、材料のヒントを見つけるということがありました。具体的には、日本文学協会の夏の国語教育研究集会で、村上春樹「バースディ・ガール」が中学の教科書に読物教材として入ったということを知りました。僕は村上春樹の小説は好きで、ほとんど読んでいたのですが、この短編の存在は知りませんでした。村上春樹は翻訳家としても活躍しています。村上春樹翻訳ライブラリーというシリーズがでているほどです。その中に、『バースディ・ストーリー』という短編アンソロジーがあります。「バースディ・ガール」はそのアンソロジーの最後に収めるために村上春樹が書き下ろした短編で、この翻訳ライブラリーでしか読めない。そんな事情があり、気づいていませんでした。一読して、おもしろい、授業でやりたいと思いました。07年1月以来、何度か「バースディ・ガール」をやってきました。少し長めの教材になりますが、生徒も興味を持って読んでいました。
四つ目は、自分の関心に基づいて、新しい教材、単元を組み立てるというものです。これは自分のふだんの読書などから、思いつくわけです。例えば、
安藤百福「カップヌードル」(モノ誕生「いまの生活」晶文社)、「文学にあらわれた夢」(万葉集から村上春樹まで)、
吉野弘「亥(い)短調」+絵本「十二支のはじまり」(岩崎京子/二俣英五郎)07年1月
鈴木敏夫「仕事道楽 スタジオジブリの現場」08年9月
などがそれにあたります。今お話しましたのは、教材の材料をどこから探すかですが、今度は同じことを、角度を変えて、どんなテーマのものを探していたかを、ざっとお話します。
【生徒の現状に即した教材、興味をひく教材】
宝塚良元校の生徒の六割ほどは、アルバイトをしています。その多くは、コンビニ、マクドナルド、ミスタードーナツ、ガソリンスタンドなどです。教材として、①「働くこと」を考えるきっかけになるものを扱いたいと思いました。沢木耕太郎「鉄塔を登る男」、安藤百福「カップヌードル」などです。ほかにも「地下足袋」、「スペシャリストになりたまえ」がこれにあたります。
さきほど述べましたように、家庭環境が複雑で、片親の家が多い。生徒自身も若くして親になる場合が多い。在校中に妊娠している生徒が複数いた時もあります。卒業してすぐに出産というケースもありました。十代で結婚し、すぐに別れるという子もいます。とにかく、セックス、妊娠、結婚などに対して、敷居が低い。そういう中で、②「家族・親子をみつめる」というテーマを扱いたいと思いました。落合美恵子の《「家族の世紀」を超えて》、東淵修の詩「いちのへや」、吉野弘の詩「I was born」、データを読む(パラサイトシングルを扱っています)などを取り上げました。
三つ目に、不登校・いじめの問題を経験して、コミュニケーションの苦手な生徒が多いので、③「コミュニケーションとは」ということを考える教材を探しました。鷲田清一「聴くという行為」、鈴木敏夫「仕事道楽」、永井愛「男言葉と女言葉」などです。
四つ目は、定時制に限りませんが、柔軟な物の見方、広い考え方への導きになるようなもの。④「物の見方、考え方を新たにする」というテーマで、佐藤雅彦「中身あてクイズ」、竹西寛子「神秘」などがそれにあたるかと思います。
五つ目は、古典です。定時制の生徒は、大きくくくれば「低学力」ですし、大学進学を考えてない。だから古典なんかやる必要がないという考え方があります。それより漢字の勉強をさせた方がいいという。僕は、それは違うだろうと思います。定時制の生徒はこれから先、もう古典に触れる機会がないかもしれないからこそ、高校で古典を教えるべきだ、そう思いました。但し、いわゆる文法学習などはやっているだけの時間もないし、さほど意味もない。それで僕は⑤「古典作品をやさしく」紹介するという途をとりました。具体的には、一年では、暦のことを教え、徒然草の「友とするにわろきもの七つあり」という段と「高名の木登り」の段をやります。
二年では、三浦佑之訳「口語訳古事記」を使って「古事記の世界」を紹介します。具体的には、イザナキの黄泉の国訪問、スサノヲとアマテラス、ヤマタノヲロチ、オホクニヌシなどです。三年では、六条御息所を中心に「源氏物語の世界」を。漢文では「史記の世界」。近代文学の古典ということなら、宮澤賢治の「注文の多い料理店」、夏目漱石の「夢十夜(第三夜)」をやります。
最後に六つ目になりますが、新しい作品もやりたい。⑥「最新作品を楽しく」というテーマです。鈴木敏夫「仕事道楽 スタジオジブリの現場」(2008年)、村上春樹「バースディ・ガール」などがそれにあたります。
【どんな方法で授業するか】
どんな方法で授業するかという、問題に移ります。
まず、これは定時制に限らず、これまでどの学校でもやってきたことです。
《① 教師の一方的な講義(知識や自分の解釈のおしつけ)ではなく、生徒の反応・応答・対話を求めて(教材を間にはさんで生徒と話をする)、授業展開を組み立てる。》
生徒との応答を軸にして授業をしていくのは、生徒の反応に大きく依拠します。ですから、授業がうまくはずまないこともありますし、その日その時の生徒の反応にうまく対応できるか、どうか、なかなか難しい。でも生きた生徒を相手にしているのだから、思いがけない反応にも出会えるし、自分もその教室でどう言えば伝わるかを、模索しながら話すことになる。ライブ感が命です。
二つ目は、定時制、というか宝塚良元校独特のことになるかもしれません。ここに転勤した時に、こんな説明を受けました。
この学校では生徒にノートを持たせてない。その代わり全員にファイルを渡し、プリントで授業をしている。最初はとまどいましたが、今ではすっかりこのやり方になれました。そして、この授業で使うプリントをどう作るかが、授業づくりの上で重要な位置を占めるようになりました。
《② 誰もが授業が理解でき、見返すことのできる授業書(プリント)を作る。(深い内容を易しく語るためにはどうすればいいか)問いを絞り込み、やさしく砕く。(本質的な問い、具体的な問いへ)》
僕のプリントは、たいがい「原文、漢字、語句の意味、設問」という組み合わせでできています。 小さな工夫ですが、漢字の学習では、四倍角の大きさの活字を使っています。これは年配の方には小さな文字が見にくいということもありますし、画数の多い漢字はたとえば10・5ポイントではつぶれてしまうからです。ですから、進出の漢字については、大きな活字で表示しています。
この授業のプリントは少しずつ改訂していますが、見返してみると、初期の頃は設問が漠然としてたり、細かなことにこだわっていたり、そんなことに気づくと修正しています。最初は、あれもこれも訊こうとするのですが、次第に何を授業で取り上げるか、どう設問すればいいかが、はっきりしてきます。
三つ目は、この十年、定時制高校で授業してきて、一番工夫した点です。
《③ 教材を支える補助教材を選ぶ。(板書と説明だけでなく)》
45分の授業を生徒は五コマ受けるというのは、昼間アルバイトをしている子にとっては大変なことです。
45分間、教師のことばによる説明、板書だけどやりきろうとすれば無理が出る。緩急をつけながら、違うテンポ、違う局面を組み合わせながら授業するべきだと思います。
僕の経験からいえば、15分くらいの授業のユニットを3つ組み合わせるのがいいのではないかな。もちろん厳密なものではありませんが。
【視聴覚教材を使う】
で実際にはどんな工夫をしたかと言いますと、まず徹底的に視聴覚教材を使いました。
例えば、朗読テープ・CD。宮澤賢治の「注文の多い料理店」なら長岡輝子、夏目漱石の「夢十夜」なら鈴木瑞穂の朗読テープ・CDを、使いました。もちろん、僕も教室で音読するのですが、CDラジカセを持ち込んでいくと、生徒も何を聴くのと、ちょっと興味を持つ。長岡輝子の朗読は東北訛りのものですので、特に面白い。それから、「I was born」なら吉野弘の朗読テープを、「いちのへや」なら東淵修の朗読テープやDVDを使いました。作者自身がどんな声で、どんなリズムやイントネーションで読んでいるのか、というのは大人でも興味を持つと思います。
それ以上によくやったのは、ビデオ・DVDの利用です。宝塚良元へ来たばかりの頃は、ビデオ・プロジェクター・スピーカー・パソコンなどを教室に持ち込んでいました。配線やなんかが結構ややこしくて、時間がかかりました。数年前に、不況対策か何かで、全校に五〇インチの液晶テレビが複数台導入されました。金の無駄遣いや、そんなん誰が欲しいというたんや、などと文句を言っていましたが、実際に入ってくると、情報処理の先生は別にして、一番利用しているのは国語科の僕でした。
例えば、沢木耕太郎の『彼らの流儀』という本に、「鉄塔を登る男」という一編があり、複数の教科書会社がこの話をとっています。東京タワーの一番上でチカチカしている赤いランプ、航空障害灯を年に一度交換に行く男の聞き書きという体裁の文章です。この話がとても面白い。僕はどの学年でも、授業で取り上げています。ただ東京タワーのてっぺんがどうなっているのか、一応説明はされているが、具体的なイメージとして思い描くのは難しい。そこで何か補助になるものはと探していて、NHKの『プロジェクトX』の一編「恋人たちの東京タワー」を見つけました。ちょうど最終局面で、巨大なクレーンで一番てっぺんのアンテナを釣り上げて行くシーンがある。そして組みあがった所も出てくる。これを見せればいい。時間に余裕のある時は、この「恋人たちの東京タワー」を二回ぐらいにわけて全部見せますし、時間のない時は、何箇所か抜粋して見せる。そんな風にしてきました。
また、安藤百福の「カップヌードル」、これはカップヌードルがどうして生まれたか、商品化までの試行錯誤を社長の安藤さんが書いたもので、面白いものです。これはけっこう分量もあるので、どこを採り、どこを削るか、何度か試しながらやりました。僕の開発した教材です。この授業をする時には、『プロジェクトX』の「魔法のラーメン」を見せます。そして、教室にカップヌードルを持ち込んで、カッターで実際に、カップを縦に切って見せる。これは、麺をカップの中に宙づりにして固定させている、という記述が本当かどうかを、実証してみるわけです。カップを切ったあと、生徒はたいてい、そのカップヌードルの中身どうするの、と聞いてくるので、今夜の夜食にすると答えるようにしています。
「古事記」をやっている時は、東映動画『わんぱく王子の大蛇退治』を見せます。漢文で史記の「鴻門の会」をやる時は、『そのとき歴史が動いた』の「項羽と劉邦」を使います。
「源氏物語」なら、瀬戸内寂聴の「源氏物語の女性たち」という連続十二回の講義の、六条御息所の回を使います。ちょうど源氏千年紀ということでNHKが「私の源氏物語」というスペシャル番組を作りました。ご覧になりましたか。源氏物語が、「あさきゆめみし」を初め、いくつもマンガになっているとか、ケータイ小説にもなっているという辺りを生徒にも見せました。
「注文の多い料理店」の時、長岡輝子の朗読を聴かせたという話はさっきしましたが、授業の最後では、アニメ「注文の多い料理店」を見せます。これは音楽や音はあるけれど、セリフがない、なかなか芸術的な仕上がりの作品です。
「夢十夜」は「第三夜」(自分の子どもがめくらになっていて、それを捨てに行こうとする話)を、授業でやったあと、「第六夜」(護国寺で運慶が仁王を彫っているので見物に行く話)をまず文章で紹介し、映画『ユメ十夜』の第六夜を見せます。この『ユメ十夜』は十人の監督が一話ずつ監督したオムニバス映画で、出来にばらつきがある。この中で松尾スズキが監督した第六夜が洒落ていて、僕は一番好きです。で、こんな風に映画化したものがあるんだけど、と紹介して見せます。漱石の原作のセリフなどは結構活かしながら、地の文にあたる所は、パソコンで文章を打っていたりする。いかにも、ネット社会の文体に変換されている。あるいは、登場人物のセリフは日本語だけど、英語字幕が付されているとか。運慶が、ゴーグルを付けて、ストリートダンター風の格好で出てきて、踊り始める。そのダンスがなかなか魅力的です。主人公・語り手は阿部サダヲだと思いますが、エンドロールでは別の名前になっています。とにかく、漱石の原作のなぞり方と現代的な翻案の飛躍ぶりが素晴らしい。古典作品の映画化の一つのあり方を示唆していると思います。これを見た生徒は、「先生、これめっちゃ面白い」と絶賛する子と、「訳わからん」と投げだす子がいます。
このほか、教室でユーチューブを見せたりもしました。竹西寛子の「神秘」では、ヒラメやカレイの目の異動が話題になるのですが、そのついででヒラメの捕食行動(海底の砂地に隠れていて突如飛び出す)なんてビデオがアップされていたので、使いました。寺山修司の「日本童謡詩集」では、寺山修司の写真、カルメン・マキの「時には母のない子のように」、「田園に死す」の予告編、ジャイアント馬場のプロレスシーンなどを見せました。
【実物も持ち込む】
視聴覚教材だけでなく、実物を持ち込むこともあります。カップヌードルの話はさっきしましたが、それ以外でも、「神秘」では冷凍のカレイを買ってきて、見せた。生まれたときは普通の魚と同じような形なのに、目が異動して、左ヒラメ、右カレイになる。で、実際のカレイを見てみて、目が右に移動したということを実感させた。
「地下足袋」という教材の場合は、地下足袋を買ってきて、こんなものだと示す。(これは授業のあと、使うこともなくも処理に困ってしまいましたが)
【一年間の授業】
一年間の授業の組み立てがどうなっているか、2008年の2年生の場合、次のようになります。
教科書は教育出版の国語表現Ⅱ。この教科書教材をA、他の教科書教材をB、独自に作った教材をCと表示しています。
2008年度・2年国語表現Ⅱ(3単位)
学期
教材
作者
備考
1
中間
鉄塔を登る男
沢木耕太郎
B明治他+DVD
聴くという行為
鷲田清一
A教出
中身あてクイズ
佐藤雅彦
B三省堂、『プチ哲学』
1
期末
「家族の世紀」を超えて
落合美恵子
A教出
いちのへや、にいのへや
東淵修
C+朗読テーブ+DVD
I was born
吉野弘
B第一他+朗読テーブ
2
中間
仕事道楽
鈴木敏夫
C+DVD+インターネット
地下足袋
小泉和子
A教出+実物
カップヌードル
『モノ誕生いまの生活』
安藤百福
C+カップラーメン縦切断実演+DVD
2
期末
データを読む
A教出 パラサイトシングル
古事記の世界
C+DVD
注文の多い料理店
宮沢賢治
B桐原+朗読テープ+DVD
3
男言葉と女言葉
永井愛
B
神秘
竹西寛子
B右文+カレイ実物
バースディ・ガール
村上春樹
C
『バースディ・ストーリーズ』
【教材をつくる】
今日は、「授業をつくる」というタイトルで37年間を駈け足で振り返ろうとしてきました。そろそろゴール近くまで来ましたが、どうしても話が骨組みだけになって、うまく伝わらなかったかもしれません。それで、いくつか少し丁寧に話しておきます。
まず冒頭で伊崎先生から「定年を控えてどんな気がするか」と問われて、どんな風に答えたかを話しました。
僕は「授業をつくる」というのは、「教材をさがす」ということから始まると思います。でもそれは、こんな教材はどこかにないか、という風に、それこそ目をさらにしてあちこち「探す」というのとはちょっとニュアンスが違う。もっとゆったりしているというか、待っていると偶然向こうの方から飛び込んでくる、そんな感じを持っています。具体的に二つお話しします。
ある年の正月、何気なく新聞を見ていたら、毎日新聞の余録(コラム)に、吉野弘の詩の引用があった。それは「亥短調」という詩で、ちょうどこの年がイノシシ年なので、それを引用しながら文章を書いていた。後半の部分、経済云々は僕にはどうでも良かった。が、「亥短調」は面白いと思った。それで、詩集を引っ張り出して探しました。ありました。「漢字喜遊曲」というシリーズの一編で、僕も昔読んだはずです。でもその時は、ああこんな詩もあるんだくらいで通り過ぎた。ところが、今年はちょうどイノシシ年、よしこれを紹介しようと思いました。これには、実は別の要因も働いていた。定時制の漢字の指導と、古典の基礎の指導が関係していたのです。
まず、古典については、徒然草、古事記、源氏物語を紹介する程度なのですが、それでも基礎的な事項として「暦」のことは触れます。十干十二支、それが例えば年号に使われること(丙午、壬申の乱、戊辰戦争、辛亥革命、甲子園など)、また十二支が方位(巽の方角とか)や時刻(午前、午後、丑三つなど)に利用されることなどです。そうした一連の中で「十二支のはじまり」という絵本をプロジェクターで投射しながら、読み聞かせします。そして、十二支を確認、「子、丑、寅、卯、……」。それは普通の動物の漢字なら「鼠、牛、虎、兎、……」になることの確認。そういうことを必ず一年生の一学期末くらいにやってきた。だから、いくぶんか「亥」に対する思いもあった。
もう一点、何故僕が吉野弘の「亥短調」を教材にしたいと思ったかという理由がある。それは定時制に来てからの僕の漢字指導と関連があります。昼間の学校に勤務している時には、漢字指導なんてそんなに丁寧にやっていませんでした。新しい漢字は生徒も自分で覚えていく。ところが、定時制では、小学六年程度の漢字もおぼつかない子が何人もいる。どうしようかと考えました。やみくもに練習、練習というのも芸がない。それで小学校の漢字指導の本をいくつか読んでみました。その中で最も参考になったのは、宮下久夫『分ければ見つかる知ってる漢字』(太郎次郎社、2000年)でした。これは白川静さんの研究成果を、漢字指導に生かそうとしたもので、とても啓蒙されました。その中で一番利用したのは、形声文字は「音記号」と「意味記号」にわけることができる、ということです。例えば、「園、遠、猿」という漢字の共通部分が「えん」という音記号で、それ以外が「意味記号」(部首)です。僕はこれを利用して漢字練習ブリントを作りましたし、授業で新しい漢字について教える時も、そのことを意識して話しました。
ですから、吉野弘の「亥短調」はこの漢字学習法をそのまま適応していると言えるのです。もう一度あらためて、漢字の成り立ちを意識化させることができる。
亥(い)短調 吉野弘
刻(時)の中の亥
あと戻りしない光陰の猪
咳の中の亥
口からほとばしる突風性飛沫、無粋な!
孩(がい・幼児)の中の猪
子供を衝き動かしている、大人への成長願望
駭(がい・驚き)――
猪突、馬との鉢合わせ
該――亥語辞典によれば
亥の性質にして他にも該当すること、例せば
「人語の雑食性」・外国語より流行語、隠語
廓語にいたるまで、健啖にして該博
核の中の亥
物の核心に亥がひそむ
細胞核には遺伝子をになう猪
原子核には原子力をになう猪
いずれも今は人に飼いならされているけれど
いつまで、おとなしくしていることか
この詩に出てくる「刻、咳、孩、駭、該、核」という漢字には亥(猪)が含まれています。さっきの言い方でいえば、音記号「亥」と、意味記号(部首)でできている漢字ばかりです。猪という動物の猪突猛進性、雑食性、とそれぞれの漢字の意味とを考査させて、機知にとんだことばを生みだしている。一種の言葉遊びの歌で、なかなか洒落た詩だと思います。僕はこの詩の最後の連がどんな意味なのかを生徒に問いました。もちろん遺伝子組み換えの危険性、原子力の危険性を示唆したもので生徒もわかっていましたが、2011年3月11日以後、福島の原発事故を経験した(その終息の見通しもつかない)日本では、この詩はもう、洒落た詩だねと、余裕を持って眺めることができなくなりました。
この詩を授業したのは、2007年(亥年)の一月です。あの時はベストなタイミングだったと思いましたが、残念なことにこの詩は十二年に一度しか使えません。
【仕事道楽について】
教材が向こうから飛び込んでくるという経験をもう一つお話します。鈴木敏夫『仕事道楽 スタジオジブリの現場』(2008年7月、岩波新書)です。
僕は、スタジオジブリのアニメは、ある年代から国民的な基礎教養になっていると思っています。宮崎駿の『風の谷のナウシカ』が劇場公開されたのが1984年、ざっと30年前です。僕はほとんど何の予備知識もなしに、劇場で見て、そのあまりの素晴らしい出来栄えに驚きました。それ以後、宮崎駿は『となりのトトロ』『天空の城ラピュタ』『魔女の宅急便』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』などの傑作を作り続け、これらはテレビでも繰り返し放映されてきました。ですから30歳より若い世代で、スタジオジブリ、宮崎駿のアニメを一本も見たことがないという人は、たぶんいないのではないでしょうか。
スタジオジブリの中心には、二人の監督と一人のプロデューサーがいます。二人の監督というのは、宮崎駿と高畑勲です。この二人は東映動画からの同志で、高畑勲が先輩になります。高畑勲の作品には『火垂るの墓』『おもいでポロポロ』『平成狸合戦ポンポコ』などがあります。ジブリのもう一つの顔、もう一つの系譜です。ジブリのプロデューサーが鈴木敏夫です。
この『仕事道楽』が出たのは2008年7月、帯に「いつも現在進行形。面白いのは目の前のこと。今はポニョ」というコピーがついています。新作の『崖の上のポニョ』公開直前でした。一読して、これを教材にしようと思い、9月になって二学期最初の授業として、とりあげました。
「これは7月に出たばかりの本なんやけど、きっとここ数年のうちに中学か高校の教科書に採られるはず、それぐらい面白いし、優れた内容の作品です。これを日本で一番最初に授業するのは僕で、日本で一番最初に授業を受けるのは君達や」と大風呂敷を広げて、授業に入りました。
新書一冊全部を教材にはできません。どこを採るか選択しないといけない。で僕は、《第4章「企画は半径3メートル以内にいっぱい転がっている」-宮崎駿の映画作法―》から、「なにげない会話から発想を得る」「これでサツキは不良にならないよね?」「トトロをめぐる記憶」の三つの節を採りました。(参考資料を見てください)
「なにげない会話から発想を得る」は『千と千尋の神隠し』のモチーフが、鈴木さんが宮崎さんになにげなく話した、キャバクラ好きの青年の話から生まれているというエピソードです。その青年はこう言った。
「キャバクラで働く女の子はどちらかといえば引っ込み思案の子が多く、お金をもらうために男の人を接待しているうちに、苦手だった他人とのコミュニケーションができるようになる。お金を払っている男のほうも同じようなところがあって、つまりキャバクラはコミュニケーションを学ぶ場だ」
話した鈴木さんはすぐに忘れてしまったのに、宮崎駿はこの話を面白いと思い、作品のモチーフにした。とんでもない世界に放り込まれ、まわりとつきあうためにコミュニケーション能力を成長させていく千尋と、思いの伝え方がわからず暴れてしまうカオナシは、実は裏返しの関係だというのです。
このエピソードは、「キャバクラ」ということばにひっかかって、たぶん教科書会社は採らないだろうと思うんです。でも僕にはこのエピソードはとても興味深いし、生徒の関心も引き付けることができるはずです。まあ、うちの生徒の中には、お姉ちゃんがキャバクラで働いてるという子もいますし、「キャバクラ」なんてことば自体にはあまり抵抗がない。
「これでサツキは不良にならないよね?」は『となりのトトロ』の姉サツキをめぐるエピソードです。絵コンテの段階で、鈴木さんはしっかり者でなんでも完璧にやっているサツキを不自然だと思って、「こんな子がほんとうにいるわけがないじゃないですか。」「こんなことを子どものうちから全部やってたら、サツキは大きくなったとき不良になりますよ」と言ったら、宮崎駿が本気で怒った。宮崎駿は子どもの頃お母さんが病気がちで自分が兄弟みんなのご飯を作ったりしていた。それで理想化したサツキを作り出した。鈴木敏夫と宮崎駿はサツキの描き方をめぐって対立する、ケンカするんですね。ところが、ある日、「鈴木さん、見て」と言って、絵コンテを見せる。お母さんが死ぬんじゃないかと心配してサツキが泣くシーンです。「お、ここで泣くんですね」と言うと「泣かせた」と言う。「鈴木さん、これでサツキは不良にならないよね」「なりません」と言うと宮崎駿が「よかった」と喜ぶ、という話です。
「トトロをめぐる記憶」は、『となりのトトロ』が出来て行く過程のエピソード。最初は冒頭からトトロが登場して大活躍する案になっていたが、鈴木さんが「ふつうはまんなかで登場ですよ」ということばで、まんなかに出すことになった話とか、宮崎駿が高畑勲の『火垂るの墓』を意識して、「おれも文芸をやる」と言いだし、ネコバスやコマに乗って空を飛ぶシーンを削りそうになり、鈴木さんは困ったけれど、高畑の「もったいないじゃないですか」という一言で、元の案に戻ったというエピソードです。
これらのエピソードはどれもとても面白いものです。『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』の舞台裏、創作のエピソードは、高校生にとっても興味深いだろうと思います。我々は「完成した作品」を観ているわけですが、作っていく過程では、作品は極めて流動性が高いものだということがこうしたエピソードを読むと、よくわかります。そして、監督とプロデューサーの関係、宮崎駿と鈴木敏夫の関係も面白い。天才的な監督が、現場で絶対的な力をふるうというより、鈴木さんの一言で宮崎さんがコロコロ作品を変えていく、プロデューサーが監督の作品創造の媒介になっていることがよくわかります。何よりも、宮崎駿という人物が、子どもっぽくて、純粋で、とても魅力的です。
僕はこれらのエピソードは授業をする側としても、いろいろに発展させていける、膨らませていけると思ったのです。コミュニケーション一つをとっても、思いの伝え方がわからず暴れてしまうカオナシというのは他人事ではないはずです。
あるいは、「良い子であること」の問題性について語ることもできます。授業では、何故鈴木さんは「こんなことを子どものうちから全部やってたら、サツキは大きくなったとき不良になりますよ」と行ったのだろう、という設問を出しました。生徒は自分に引き寄せて、自分のことばで答えてくれます。例えば、こんな所に高校生との対話のとば口があると思うのです。
生徒にとっても、この文章を読むことで、自分たちがよく知っているよく馴染んでいるジブリの作品が、これまでとはちょっと違って見えてくるはずですし、いろいろなことを考えていくきっかけになるはずです。
授業の時には、必ず『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』のビデオの一部を見せます。廊下から、若い女の先生がずっとのぞいていたこともありました。やっぱりジブリ好きなんですね。
ユーチューブに接続して鈴木敏夫がテレビに出演している場面を見せたこともあります。自分一人では設定が難しいので、若い先生に頼んで、教室でもインターネットに接続できるように設定してもらい、パソコン・大型液晶モニターでユーチューブが見れるようにしました。
川西明峰時代には、教育の世界で進行していく「情報化の流れ」に居心地の悪い思いをしましたが、宝塚良元に来てからは、情報機器に対する対し方が少し変わりました。学校で自分用のパソコンが一台貰えたので、恐る恐る触ってみて、結構面白いなあと思って、自分でも家用にパソコンを買いました。今は二代目です。そろそろ三代目に買い替えようかと思っている所です。
授業でも、工夫次第で情報機器の利用の仕方があると気付き、自分流ですが、コンピューターを活用できるようになりました。(研究所のHPを作りたくて、ひと夏「ホームページビルダー」を読んで、自力でなんとかホームページを作れるまでになりました。人間やればできるものです。)
【最後の授業をどうしたか】
高校で37年間国語を教えてきて、「最後の授業」をどうしたかという話をしたいと思います。
まず、一年生ですが、今年は二クラスを二人で担当し、半年でクラスを交代して授業をしました。それでA組は二学期の中間以降担当したのですが、三学期は「仕事道楽」を中心にして、本当の「最後の日」には、東淵修の詩「いちのへや」を、授業で紹介しました。
東淵修さんの「いちのへや」については、『現代詩の授業』の中で詳しく書いていますので、興味のある方はそちらをごらんください。 ここでは、実際に授業で紹介した東淵さんの朗読のDVDを見ていただこうと思います。
(朗読DVD)
いち の へや 東淵修
おい ぼうず なんで こないなばんに ひとりぼっちで いてんねや/なにいうてんねや おっちゃん ぼく ひとりぼっちと ちゃうねんでえ
そないいうたかて ぼうず ひとりしか いてへんやんかいな/おっちゃさびしいことないか
ん ようみいな ぼくの ひざのうえ みてみいな
どれどれ みせてみいや/ほら みてみいや ねこが いてるやろがな
ふん ふん ほんまに いてるがな かわいらしいねこやな/ぼく ばんになったら いつも こいつと いっしょやねんで
しやけんど そのねこと ふたりだけやったら さびしいことないか/そらあ さびしいけんど しゃあないねん
なんで しゃあないねんな おかあちゃん どないしたんや まいばん まいばん/そないなこといいな おっちゃん おれへんもん しゃあないやん
まいばん まいばん ぼうず おいて でていって しゃあない おかあちゃんやな/おかあちゃん おこる おっちゃん ぼく きらいや もう こんといてんか
そうか そうか かんにんやでえ おかあちゃんのわるぐち いうてなあ/まあ ええわ かんにん したるわ
ぼうず かしこうに そのねことあそんでるんやでえ
いち の へや で 照る月も 二〇ワットの蛍光灯も
みんな みんな ぼうずに 笑いかけていた
白い顔をした ぼうずの おかあちゃんを
ジャンジャン街のうらどおりで みかけたとき
なんにも いわずに 通りすごし
いっぱいのみやの ノレン を くぐり
水っぱなの塩っからいものをのどに味わいながら
街の光が消えるまで のみつづけた
この「いちのへや」は、この十年間で、僕にとって一番大事な教材の一つになりました。夜間定時制に来て、三年生の授業がなかなか成立せず、困っていた時に、珍しく生徒が関心を持ったのがこの「いち の へや」でした。その時の生徒が卒業後にやってきて話しているうちに、この「いちのへや」のことは覚えていると言ってくれました。たぶん自分たちの世界と繋がる何かを感じ取ったのだと思います。
僕は現代詩のアンソロジーを読んでいて、この詩を見つけて、授業に取り入れました。東淵さんが大阪在住ということもあり、『現代詩の授業』を差し上げると、東淵さんが主宰・編集されている『銀河詩手帖』や朗読のテープを送ってくださいました。それで、昼間の学校でも、その朗読テープを授業で使っていました。宝塚良元に移ってから、ある時インターネットで「銀河詩の家」のホームページを見つけました。そこに東淵さんの朗読のDVDを販売しているという記事があり、手に入れたいと思い、通天閣の近くまで訪ねて行きました。あのネット見たのですが、と購入を申し入れたら、僕のことを覚えていてくださって、「それもろてもらい」といって、DVDはただでくださいました。僕は宝塚良元ではどの学年でも、この「いちのへや」(時間の余裕のある時には「にいのへや」も)を紹介してきました。それで、一年生の「最後の授業」で、この詩を紹介することにしたのです。
二年生の最後の授業について、お話しします。二年生は二クラスとも入学以来ずっと僕が担当していて、自分が宝塚良元でやってきた大事な教材を、二年間でかなり圧縮して、やってきました。それで今年の三学期には、夏目漱石の「夢十夜(第三夜)」、落合美恵子「「家族の世紀」を超えて」をやり、最後の一時間は長谷川集平を中心に絵本の紹介をしました。
「夢十夜」はいつもなら三年生でやるのですが、もうこれでこの子たちと授業する機会もないので、やっておこうと思いました。映画『ユメ十夜』の第六夜も見せました。
「「家族の世紀」を超えて」は、二年生の教科書に載っているもので、毎年必ずやっていました。かなり難しい教材で、たぶん昼間の学校で授業するとしても、補足すべきことが多くて、そう簡単には扱えないと思うのですが、家族をどう考えるべきかという重要なヒントがあるので、この間頑張ってやってきました。
今年の二年生は落ち着きがなく、集中力に欠けて、この教材をじっくりやるのは難しいかもしれない、それで今年は見送ろうかと思ってきたのですが、最後の最後に、やっぱりこれはやりたいと思い直しました。この「「家族の世紀」を超えて」は一種の家族論ですが、「家族」を相対的にとらえる視点を提供してくれます。我々は家族を絶対的に善きものとしてとらえがちです。しかし落合さんは、家族が社会の基礎単位として現れたのは、たかだか二十世紀になってからのことだと言うのです。僕なりに敷衍しますと、日本の場合、江戸時代までは階層によって家族の形態が違う、一人で何人もの「妻」を持つ大名もいれば、生涯結婚もできずに終わる百姓の二男、三男もいる。落合さんによれば、結婚生活も短期間で終了することが多い。キリスト教の縛り(離婚の禁止)がないので離婚に対する抵抗感がなかったし、生別、死別で、結婚生活が二十年も続くということの方がむしろ少なかった。こうした指摘は、「結婚」「家族」を絶対的な価値であるかのように信奉しまいがちな我々に広い視野を与えてくれます。ある時期、夫と妻と二人の子ども、夫は外で仕事、妻は内で家事というのが「家族」の標準形のように考えられ、それにそって社会制度が設計されてきました。しかし、80年代以降、急速に家族の形が変化してきた。それはむしろ自然なことなのだと落合さんは言います。人生には、結婚をしない、結婚しても子どもをもたない、あるいはいったん結婚しても離婚する、などいろいろな選択肢がある。現在、東京の所帯の平均家族数は二人を切ったという報道を最近目にしましたが、つまりこれは一人暮らしの老人もふくまれますが、独身者が増えてきているということです。「「家族の世紀」を超えて」には、ライフスタイル中立性という言葉が出てきます。これはどのような人生のあり方を選んでも、社会的な処遇は平等であるべきだという考え方で、僕はこのことばを知って自分の視野が広がった思いがしました。
僕が高校を卒業する頃に両親は離婚しました。就職や結婚の際に片親だということが問題になるのではないかと母親は案じたようですが、僕は離婚に同意しました。
最初に言いましたように、宝塚良元校では、これは夜間定時制高校全体にいえるかもしれませんが、母子家庭の子が多いのです。経済的な貧しさもそれに起因しているはずです。そして生徒は直接口にすることはありませんが、やはりそのことになんらかのコンプレックス、引け目を感じているのではないかと思います。だからこそ、家族が社会の基礎単位となったのは、二十世紀に入ってからのことだ、という落合さんの考えは是非紹介したかったのです。
最後の一時間は絵本を紹介しました。その中心は長谷川集平です。
長谷川集平は『はせがわくんきらいや』という絵本でデビューしました。これは「森永砒素ミルク事件」の被害者であるはせがわくん(自分自身)を友達の目から描いたものです。単に、社会的な事件を取り上げたからでなく、独特のタッチの絵、見事な画面構成、ユーモラスな語り口などがあいまって、絵本そのものとしての魅力があって、当時評判になりました。版元を変えながらも現在も出版されています。戦後の日本絵本史に残る傑作です。最初の勤務先の舞子高校の文化祭で、クラスの生徒がこの絵本の読み聞かせを演じたことがありました。高校生にも響くものがあったのでしょう。
長谷川集平は、映画監督浦山桐郎の甥っ子なんです。そういう関係もあり、映画に関するエッセイも書いていて、僕は関心を持っていました。絵本に関する理論的な本、『絵本つくりトレーニング』『絵本つくりサブミッション』なども書いています。
『トリゴラス』『トリゴラスの逆襲』『パイルドライバー』などの魅力的な作品もあります。
(ここで『トリゴラス』『トリゴラスの逆襲』『パイルドライバー』などを読みきかせ)
ビデオカメラとプロジェクターを使って、絵本をスクリーンに映し出し、『トリゴラス』『トリゴラスの逆襲』『パイルドライバー』なども読みきかせをしました。
そして、一番最後に紹介したのが、長谷川集平の『小さなよっつの雪だるま』です。この作品は2011年11年に出版されています。これまでの彼の作品に比べたら、極めて素直でストレートなメッセージの伝わってくるものです。一言で言えば、「家族の解体と再生」と言えると思います。僕はこの作品を読んで、まず最初に胸にジーンときました。長崎に住む、父・母姉・そして妹(私)の四人家族の話です。長崎に珍しく雪がふり、ちいさなよっつの雪だるまをつくった。クリスマスの思い出から一転、父が入院し死亡、就職して姉は五島へ、自分は京都の専門学校に通う。そのようにして一家はバラバラになる。京都で知り合った彼と結婚する。ある雪の日、誰かが作ったちいさなよっつの雪だるまをみつける。そして、生まれた子どもをつれて入院している母を見舞いに長崎へ。彼女は子どもに絵本を描こうと思うという話です。
四つの雪だるまが、「父母と二人のこども」をあらわしているのは間違いありません。僕はこの絵本を優れたものだと思いながら、この絵本だけを、生徒に提示することは、できないと感じました。家族賛美の絵本として、受け止められる恐れがあります。この絵本は東北大震災・津波で家族を失った人々に対する、真摯な祈りを込めた作品で(長谷川集平はカトリックの信者です)、単純な家族賛美の本ではないはずだと思います。それでも、この『小さなよっつの雪だるま』だけを読めば、やっぱり家族って大切だよなあ、という安易な感想になだれ込みかねないでしょう。
僕は、この『小さなよっつの雪だるま』を、最後の授業で紹介しながら、その横に落合美恵子の「「家族の世紀」を超えて」を置きたいと思いました。それでその時間の最後に「「家族の世紀」を超えて」で作者が述べていた、「ライフスタイル中立性」についてもう一度語りました。結婚しているかとか、子どもがいるかとか、そんなことによって個人の社会的な処遇が変わってはいけない、という落合さんの考えをもう一度、この絵本の横に並べました。
教室で、ある一つの作品を単独で優れた作品として賛美して読むのでなく、その作品とは別の価値観を持つ作品、別の視野が広がるような作品を並べて読む。その二つが、ある緊張関係を持つ。その中で生徒自身が自分で価値判断ができるような可能性を開いておく。それが大切なことだと思います。
我々教師は、多かれ少なかれ、なんらかの形で自分の価値観を生徒に伝えたいと思って授業をしているはずです。しかし、ここが微妙なところですが、教師が一方的に自分の価値観を生徒に吹き込むというのは、一種のイデオロギー教育で、それは結局のところ生徒自身の力にはならないのではないでしょうか。教師が自分の価値観を持ちながら、それを一方的に押し付けるのではなく、生徒自身が自分の力で自分の価値観を培っていくことができるような回路をちゃんと用意しておく、そんな工夫や配慮が、授業では必要だと思います。
まだまだ、話したいことはあるのですが、ひとまずこの辺りで終わりたいと思います。どうも長時間、お聞き下さいまして、ありがとうございました。
(完)
追記 この原稿は、京都の「土曜日の会」での報告を元にしていますが、テープ起こしではなくて、思い出しながらの復元なので、省略、追加があり、実際の話とは随分違うものになったと思います。また、この原稿そのものが走り書きで、一般の方に読んでもらうには、まだまだ丁寧な、説明や推敲が必要かもしれません。
【はじめに】
今日は、藤本です。兵庫県の県立高校に37年間勤め、この三月末に定年退職しました。クラス担任、生徒会担当、総務部、進路指導部、いろんな仕事をしてきましたし、部活動の顧問としても剣道部、映画研究部、ワンダーフォーゲル部などで楽しい経験もさせてもらいました。それでも、この37年間の仕事の中心はやはり国語の授業でした。今日は、自分が国語の教師として何を考え、どんなことをやってきたかをお話ししたいと思います。
二月の末、すべての授業が終わり、学年末考査に入った日、僕より若い、中堅の数学の伊崎先生からこんな風に声をかけられました。
「藤本先生、退職をあと1カ月に控えると、どんな気持ちがするものなんですか」
職員室の隅には、僕たち二人だけ。たぶん伊崎先生は、深い意味で尋ねたのではないと思う。でも、僕にとって、その問いは「漠然と感じていたものをことばにするきっかけ」、自覚の契機になりました。
「何を見ても、何を読んでも、これまでとは違う。今までなら、面白い本や映画に出会ったら、これを授業に使いたい、どうしたら教材化できるかなと考えていた。新聞やニュースで珍しい事件、興味深い記事を見つけたら、教室であの子らに紹介したい、こんな風に話したいとすぐ思っていた。でも、もうこれからは、そんなことができない。教師を辞めるということは、自分が興味や関心を持ったことを、高校生に語る機会がなくなるということだ。そう考えるとちょっと寂しい気がする。」
そんな風に答えたのですが、それから数カ月、この自分の答えを何度も反芻することになりました。
【離任式の挨拶】
四月には離任式があり、学校を去っていく人々はそこで一言挨拶をすることになっています。これで高校教師生活も最後だし、この宝塚良元で十年間も過ごしたのだから、何も言わずに去るというわけにもいかないだろうなあ、でもあれこれ昔話をしても、聞く方は退屈だろうし、言いたいことは、授業で言ってきたしなあ、……。何を話すか迷っていました。
三月三十日に退職の辞令をもらい、三十一日から一週間余り、横浜に行ってきました。女房が横浜に単身赴任していて、娘夫婦もそこから一時間ほどの所で暮らしているのです。二月に娘が子どもを産んだばかりなので、子育ての手伝いのつもりで、料理、買物、洗濯、それから赤ん坊をあやしたりしていました。
亭主が帰ってくると、僕は自分の部屋にひっこみ、一人になります。その部屋の、娘の本棚に『銀の匙』がありました。ご存知ですか。中勘助の小説じゃないですよ。マンガ大賞2012を取った荒川弘の新作マンガです。『鋼の錬金術師』という人気マンガがあり、アニメ、映画化されているということくらいは知っていたのですが、読んだことも見たこともなかった。でも数日前、インターネットで『鋼の錬金術師』の作者がマンガ大賞2012を取ったというニュースを読んで、『銀の匙』ってどんな話だろうと興味を持っていました。ああ、これかと、手に取って読み始めてびっくり。おもしろい。
北海道の農業高校が舞台で、札幌の中学校から入学してきた八軒君が主人公です。ほとんどが農家や酪農家出身、推薦入試で入学する生徒が多いのに、八軒君は一般入試で入ってきている。何故、彼がこの全寮制の学校に進学したかは最初「謎」ですが、話が進むにつれて少しずつわかってきます。
なんとなく馬術部に入った八軒君は、校長先生から卒業後の進路をきかれて、「実は特に夢がなくて」と答えます。同期の新入生たちが、実家の畜産業を継ぐとか、獣医になるとか、それぞれにしっかりとした将来の目標を持っているのに、八軒君には何も具体的な目標や夢がない。彼はそのことに少し劣等感を抱いていた。ところが、校長先生は「それは良い」とニッコリ笑うのです。「楽しみだね」と言う。ここを読んで僕は感動しました。
伊丹に帰ってみると、友人から手紙が届いていました。四月に清水真砂子さん(『ゲド戦記』の翻訳者)の講演があり、その筆記メモ・まとめを送ってくれたのです。
その講演の中で、「今は問いと答えの間が短くなっている、それが心配だ」ということを教育学者の太田堯さんか早くも六十年代に述べている。現代はますますその傾向が強くなっている。長い間短大で勤めてきた清水さんは、新入生たちに毎年「わかり急がないで」と訴えていたそうです。僕はここに、『銀の匙』で夢がなくてという八軒君に校長先生が「それは良い」とニッコリ笑う場面との符合を感じました。問いと答えの間にこそクリエイティブなものが生まれるのだ、と清水さんは語っていました。
『銀の匙』第二巻、第三巻と読み進んでいくと、「夢がなくて」ということの積極的な意味がだんだんわかってきます。
僕は定時制最後の六年間、進路指導部の仕事もしていました。早く将来の目標を決めろ、正社員をめざせ、と生徒を急がせていたなあ、まだまだ考えが狭かったと反省しています。
『銀の匙』を読み、清水真砂子さんの講演を聞き、「答えを急がない」ことの意味があらためて心にしみました。
僕の最後の推薦図書は『銀の匙』です。これから『鋼の錬金術師』全巻読破に挑戦するつもりです。
そんな風なことを、離任式の挨拶で話しました。式のあと、トイレで生徒から、「先生の話聞いて泣いたわ」と声をかけられました。もちろん、それが軽いジョークなのは口調からわかります。泣くわけない。それでも「『鋼の錬金術師』の映画はあかんで、原作のマンガの方が面白いで」と教えてくれました。授業中に携帯を触ったり、ゲームをしたり、最後まで叱っていた生徒たちでしたが、今日の話は彼らに届いたなあと、思いました。
Ⅰ 仕事を始める前
自分が国語の授業でやってきたことを、一度振り返ってみたいと思っていたので、「土曜日の会で報告しないか」というお話を深谷先生から頂いたときは、とても嬉しかったです。特に、若い人に話したいです、という希望通り、今日は若い先生や学生さんが来てくださったので、話にも力が入ります。詳しく話せば、何日もかかるのですが、できるだけポイントを絞り込みながら、全体的な歩みが伝わるように語ります。
国語教師としての自分の歩みに入る前に、「前史」というべきものを、まずお話しておいた方がよかろうかと思います。
【木南先生について】
ぼくは四国松山の生まれで、小さい頃に神戸に移ってきて小学校卒業まで兵庫区に住んでいました。中学から、神戸市の西の端、垂水区に転住。高校は近くの県立星陵高校に行きました。高校一年で、木南先生という若い先生に現代国語を教わりました。その頃二十代だったと思います。木南先生は、この「土曜日の会」とも縁があったということを、大石先生の文章で知り、驚きました。
木南先生は、教室にチョークを一本しか持ってこない。黒板には一とか二とか番号しか書かない。それで先生が出す質問を、僕たちはノートに自分で書き、まず自分で解答を書く。それから、先生が順番に解答を生徒に聞いていく。その子が考え出したいい答え、個性的な答えだと、「渋い」と言ってほめてくれる。そんな授業でした。
僕はこの木南先生の授業に大きな影響を受けたと思います。「番号を打つ」ということは、問題を焦点化しているわけです。今授業ではこのことを問題にしているのだ、ということが生徒にもよくわかる。
中学高校と、何人もの国語の先生に出会いました。話の上手な先生、ユーモラスな語り口調で笑いの連続という先生、誠実さ、篤実さが伝わってくる先生、いろいろなタイプの先生がいた。上品で美しい若い女の先生の授業などは、もう教室に座っているだけで、先生の声を聞いているだけで、幸せでした。
でも、往々にして、話を聞いていて、あれ何の話だったかな、とわからなくなることがある。木南先生の質問に番号を打つというのは、授業に切れ目を入れていくというやり方で、この「黒板に番号しか書かない、という授業」から、僕は大きな影響を受けたと思います。このやり方なら、興に乗って無駄話や脱線話をしても、また元の本題、本筋に戻ることができる。生徒にも、その授業の進行の道筋が見える。
「質問という形で授業の柱を立て、それに番号を打つという方法」を、僕は自分の授業の基本にしてきました。僕自身は、番号しか書かない木南先生とは違い、黒板一杯に生徒の答えや、僕の説明を書き、ひどい場合には一時間の授業で、黒板の端から端まで二往復するくらい書いていく。書きまくると言ってもいいかもしれません。チョークも何本も使います。だから、黒板に数字、番号しか書かない木南先生の授業とは、黒板だけ見ればまるで違う、むしろ両極のように見えるかもしれない。でも僕自身の気持ちとしては、木南先生から学んだことをやっている、先生のスタイルを踏襲しているつもりです。
授業とは直接関係のない話で、今でも覚えていることがあります。神戸の中心的な繁華街は、今は三宮ですが、ずっと昔はもう少し西の、新開地でした。僕が小学生の頃まで、父親は炭屋・氷屋をしていて、その小さな店が新開地にありました。毎週土曜日の夜には福原の映画館、三番館へ通ったものでした。木南先生の雑談の中で、土曜日になると友達とオールナイトの映画を見に行く、まず一つ目の映画館で二本立てを見て、立ち食いうどん・そばを食って、次の映画館に入る、高倉健の網走番外地や仁侠映画、そんな話を聞きました。新開地という地名も僕の胸に響いたのかもしれませんが、この話はとても魅力的でした。なんて大人はいいんだ、早く大人になりたい、と思いました。
【高校紛争の余波の中で】
これは授業とは直接関係のないことですが、教師の道を歩むうえで、僕にとっては大切なことがありました。
僕は1967年に高校に入学しました。60年代末は学生運動の昂揚期でした。全国の大学で大学紛争が起こり、69年の東大入試は実施されませんでした。いわゆる全共闘世代の、ちょうどあとの世代になります。僕は1年浪人して71年に大学に入りましたが、既に大学紛争は峠を越えていて、学生運動は過激化し、よど号ハイジャック事件、連合赤軍事件、浅間山荘事件とともに、一気に終焉を迎えました。
ですから、僕は直接の当事者ではなかったけれど、高校生の時に同時代のこととして全共闘運動や学生運動を見ていました。
それで、僕にとって大切なことというのは、こんなことです。実は僕は、中学、高校と生徒会活動をやっていて、高校二年生の時には生徒会長をしていました。そして、僕等の高校の「高校紛争」の中心テーマは、靴の自由化、頭髪の自由化でした。その当時、男子は坊主頭で、長髪は禁止でした。靴も運動靴以外は禁止です。僕は自分でいうのも変ですが、その頃まではまじめな学生で、学校の指導にはきちんと従うというタイプの生徒でした。ですから、まあ、保守的な生徒会長だったわけです。どちらかといえば、そうした自由化の要求をおさえる側に立っていた。
ところが、3年生の時に、一部の生徒が実力行使に出た。髪を伸ばし始めた。そして、忘れもしませんが、一学期の終業式で、教頭が「生徒手帳の規則、何条を削除します」と言うのです。突然のこの一方的な通知に、僕は頭に来ました。それで、HRの時間教室に入らず、職員室で教頭や生徒指導担当の教師を捕まえて食ってかかった。今まで、民主主義はプロセスが大事だと教えられて、それに従って僕は生徒会の活動もやってきたのに、今度のやり方は生徒にとっては、寝耳に水、どこに話し合いのプロセスがあったんだ。と怒りまくりました。もちろん、教員の間ではちゃんと職員会議があって、もう指導しきれないということで、自由化に踏み切ったのでしょう。でも少なくとも、一般生徒の側からすれば、これは突然の変更でした。
そして、2学期に入ると、みんな髪を伸ばし始めている。今まで、高校生は高校生らしくと言って、自由化に反対していた連中まで、ながされていく。なんなんだこれは、という感じでした。
僕は教師に裏切られた気がしましたし、同じ同級生たちにも裏切られた気がしました。それで、僕は意地でも髪を伸ばすものかと思い、卒業するまで丸坊主を通しました。卒業式の時に、丸坊主だったのは僕一人だったと思います。
このことは、ささいなことですが、僕にとっては自分の価値観が崩れる大きな出来事でした。そうか、教師の言っていることはいつも正しいなんてことはないのか、その時の状況、状況で発言を変えて行くのか、と思いました。それまで、教師は絶対だと思っていたからこそ、反動が大きかったのだと思います。
高校二年生の頃まで、非常に真面目な優等生で、大人の権威を信じていた素直な生徒でしたが、高校紛争の余波の中で、「真面目」であることの意味を問い直すきっかけをつかんだと思います。今、僕はもっぱら、「真面目はダメだ」と言っていますが、その発端はこの辺りにあったのです。ただ、小さい頃から身についてしまった、真面目さというのはなかなか脱却するのが難しいのですが。
【浪人時代】
僕は大学受験に失敗して、一年間浪人生活を送りました。今からふりかえれば、この一年の猶予期間が、自分にとって大きな経験になりました。
高校の三年の辺りから真面目であることに疑いを持つようになりましたが、浪人することで挫折、あせり、不安感、つらさを知った。ちょうどこの前後から、父親は家に帰らなくなり、結局僕が大学に進む頃に両親の離婚が成立するのです。
高校紛争の余波としての自分の価値観の崩れ、大学受験の失敗、両親の離婚、とまあ今から振り返れば、思春期の後期になって、思い屈することが連続して起こる。まあ屈折もしますよね。でも、屈折も知らずに、文学部なんかに行ってたら、どうなってたんでしょうね。
僕は、早い時期から文学部に進もうと考えていましたが、「これをやりたい」という決定的なものがなかったのです。浪人時代に大江健三郎に出会い、ああこの人のことをやりたいと思いました。
大江健三郎の名前は、高校時代に聞いたことがあります。一つは社研の連中が口にするのを耳にした。社研は自由化の動きの一つの核で、生徒会の保守派である僕とは、いわば反対の立ち位置にいたのです。ある時、社研の一人が、文芸部の女の子に、「おまえら、文学、文学っていっても、古い作家しか読んでないだろう。大江健三郎なんて、読んでないだろう」と言っているのを、近くで聞きました。僕も、読んでない。でも、名前は知っていたのです。僕は本屋に行くのが好きで、ほとんど毎日のように垂水の駅の近くの文進堂に通っていた。すると、店内で新刊宣伝のテープが流れている。大江健三郎の『万延元年のフットボール』です。いつ行っても流れているので、自然に名前を覚えてしまいました。『万延元年のフットボール』って、変なタイトルだなと思いました。
で、浪人している時、神戸の方の予備校に通っていて、午前中は授業を受けて、午後は図書館などへ行って自習する。図書館で、そうだ大江健三郎ってどんな作品を書いているのだろうと思いついて、手にしました。たぶん最初の短編集『死者の奢り』から入ったと思いますが、次々に手にし、その当時出ていたものは小説だけでなく、エッセイも全部読んだ。そこから、自分の展望が開けたのです。ドストエフスキーを読みました。ヒロシマの記録フィルムがアメリカから帰ってきたので、上映会にも出かけ、そのフィルムに衝撃を受けました。高校の日本史では、ほとんど昭和入口ぐらいまでしかならっていなかったのです。10.21反戦デモにも初めて個人で参加しました。
進学先を決めかねて、高校の先生に相談に行った時に、大江健三郎のことを勉強したいと言うと、それなら神戸大学に猪野謙二という先生がいるから、ちょうどいいだろうと勧められました。どんな人なのだろうと思っていると、ちょうど王子図書館で猪野先生の講演会があるというポスターが貼ってあった。で、それに参加してみて、ああこの先生に習いたいと思いました。
そんな、こんなで、僕にとって、浪人生活は自分の内面や行動範囲を拡張していく時期になりました。
【大学で】
一年浪人して、大学に入りました。
大学での一番大きなことは、教育学部の自主ゼミナール運動に関わったことです。僕自身は文学部でしたが、教育学部の友人に誘われて、この自主ゼミ運動に参加し、その活動の中で教育についていろいろ考えるきっかけをつかみました。文学教育だけでなく、数教協、歴教協、仮説実験授業、全生研ほかさまざまな民間教育研究団体を知り、その研究の一端にふれることができました。
近教ゼミというのは近畿教育系学生ゼミナールといいますが、友人から「小学校が中心だから藤本くんには興味ないかもしれないけど」と誘われて、初めて参加したのは、奈良教育大学が会場のときでした。
ここの文学教育の分科会は参加者が十人ほどで、木下順二の『かにむかし』と西郷竹彦の『さるかに』の比較をやりました。和歌山大学や仏教大学の学生たちが西郷再話を推すのに対して、僕は木下版を推すというなりゆきになり、結構徹底的な分析、討論をやりました。結局どちらも自分達の推す作品の優位を譲りませんでしたが、話し合う中で、何故その作品をいいと思っているかが、自分でもはっきりと自覚できるようになっていました。この経験は、僕にとって文学教育実践の一つの原点になりました。小学生が読むような文学作品でも、こんなにいろいろな角度から検討できる、他人の意見を聞くことが自分の理解を深めてくれる。
分科会が終わった時、司会をしていた京都教育大学四年生の女性(くまちゃん)が、わざわざ僕に挨拶にきてくれました。「あなたのおかげで分科会の討議がとても深まりました、ありがとう」と、手を出すのです。僕は高校の三年の頃から、少し屈折をおぼえ、その当時も「明るく向日的」というのとは縁遠いところにいたのですが、女性からこんな風に素直に握手を求められたのは、一種のカルチャーショックでした。「京都の全国大会でまたお会いしましょう」と言われて、「はい」と答えていました。
京都教育大学で開かれた全教ゼミを契機に、大学に文学教育のサークルを作り、現場の教師の小さな研究会や兵庫県の集会や全国集会に参加するようになりました。
そうした経験の中で大きなことが二つありました。
一つは、西郷竹彦さんの文芸学と出会ったことです。その頃明石の小学校の先生たちのサークルに定期的に来ていると聞いて、出かけていきました。そこで西郷先生から詩の授業の手ほどきを受けたのですが、驚きました。西郷さんの視点論や比喩論を知って、目からうろこが落ちるというか、文学をこんな風に語ることができるのかとびっくりしました。
もう一つは、尼崎の小学校の教師のサークル兵庫文学教育の会、なかでも高山智津子先生と出会ったことです。僕は大学生の頃から現在まで、兵庫文学教育の会、日和佐・文学と絵本研究所などを通じて、高山智津子先生(元小学校教師、子どもの本研究家、読みきかせを全国に広めた)の薫陶を受けてきた。小学校、保育園の先生の授業実践、読みきかせ実践から間接的な影響を受けているはずです。
Ⅱ 舞子高校時代 1975年~
【舞子高校に赴任する】
最初の勤務校は、新設二年目の舞子高校でした。僕は剣道部の顧問になり、五年間、放課後は毎日生徒を相手に剣道の練習をしていました。赴任した頃は、体育館もできあがっておらず、近くの空き地が道場代わりでした。年齢が近いということもあり、夏休みには遠足に行ったり、正月には僕の家で新年会をしたり、なかば友達のように付き合ってくれました。
教職員組合はなく、半年後に五人で分会を結成しました。僕も二年間くらい支部執行委員として毎週一度は元町まで出ていきました。学校全体に若い先生が多くて、学年団の平均年齢は三十に達してなかったのではと思います。僕は酒が飲めませんが、一緒に飲みに行ったり、映画を見に行ったり、麻雀を教えてもらったり、今の忙しく余裕のない教育現場と比べれば、のんびりとした一面が残っていて、教師同士の放課後のつきあいも結構ありました。ですから、新米の僕も、比較的自由に授業をやることができた。
僕は最初から、五人ずつ机を寄せて班を作り、相談させたり、討議させたり、班学習の真似事をやりました。小学校みたいとか言いながら、生徒も楽しそうでした。
【自主教材を使う】
授業をする時、最初に考えるべきことは、「何を教材にするか」です。この学校にも決められた教科書、明治書院だったかな、それはありましたが、定期考査は各担当者で作ることができた。つまり、何を教材として選ぶか、比較的自由がきいた。それで、教科書を使いながら、時々は投げ込み教材を使った。山本茂実の「あゝ野麦峠」、石牟礼道子の「苦海浄土」、木下順二の「女工哀史」(これは放送劇です)などを、自主教材として授業しました。この当時、僕も、労働運動や公害問題などに関心を持っていた。もちろん、社会問題を語るための材料として作品を使うのではありません。ノンフィクションも広い意味で文学作品ですが、これらの作品の文学性がどこにあるのかを探ろうとした。「何が」ではなく、「どう」描かれているか、授業ではむしろ文体論的な分析をこころがけていました。
【詩を詩集として授業する】
僕は、大学生の頃まで詩に対する興味はあまりありませんでした。詩集を読むなんてタイプではない。どちらかといえば散文的な人間です。小さい頃から詩に触れてこなかったし、学校教育の中で印象的な詩、自分の好みにあう詩に出会ってこなかった。先ほど話した西郷竹彦さんの講義を聞き、詩や詩の授業に関心を持ち、詩のアンソロジーを読むようになった。大学のゼミナール実行委員会の活動の一つとして、西郷さんの講演会を企画したこともあります。西郷さんから事前に四十編近い詩が資料として送られてきました。それを印刷・製本してテキストにしたのですが、この「詩の授業」という講演は、詩を文芸学的に論じた、斬新でエネルギッシュな話でした。
三十七年間を振り返ってみれば、僕の授業実践の柱の一つはいつのまにか「詩の授業」になっていました。九三年には三省堂から『現代詩の授業』を出版しました。
その詩の授業実践の第一歩は、舞子高校から始まっています。大学時代に、戦後詩のアンソロジーで、田村隆一、鮎川信夫ら「荒地」の詩人を知りました。なかでも黒田三郎が好きになり詩集を読むようになった。詩の授業をやるなら、自主教材として、黒田三郎をやりたいと思いました。
ほとんどの教科書は、今でも数人の詩人の詩を、一人一編ずつ並べているだけです。僕は、読者が「詩集」や詩のアンソロジーを読むように、数編の詩をまとめて授業しようと考えました。
黒田三郎の詩集「小さなユリと」(全十二編)を授業しました。十二編の詩を一編一編丁寧にやれば、かなりな時間がかかる。そこで、詩集全体を音読したうえで、どの詩が好きか、どの詩を授業でやりたいかを生徒に訊いて、授業を組み立てることにした。クラスごとに、取り上げる詩が違うことになります。でも、どのクラスでも同じことをする必要はない。クラスによって、生徒の反応によって、授業は違ってもいいよな、そう思いました。
【授業にゲストを招く】
教科書に石川淳の「アルプスの少女」という短編小説がありました。これはヨハンナ・シュピリの有名な「アルプスの少女」の後日談という体裁で書かれた短編で、クララを主人公にした寓意性の強いパロディ作品です。一読して、なかなか洒落てるなあと気に入ったのですが、これをきちんと、生真面目にやったのではつまらない。たとえば、アルムじいさんが溶けて水の滴になるなんていう不思議なことがおこるのですが、「この寓意は……」と教師が一方的に説明しても、面白くない。それで、一通り授業した最後のあたりで、二人の同僚、石川先生と太田垣先生に来てもらい、この作品をどう読むか、生徒の前で対談してもらいました。二人は自分の解釈を好き勝手に話すので、生徒は「どっちの先生の言っていることがほんまなん?」と僕に訊ねてくる。僕は澄ました顔で、「石川先生はああ読むし、太田垣先生はこう読むということで、どちらが正しいというのではない。大事なのは君がどう読むかや」と答えます。
石川憲治先生は、その当時たぶん三十前後。星陵高校の講師をしていた頃に僕の妹が習ったらしいし、僕も教育実習中に国語科準備室で話をしたことがあった。そんなつながりもあって、石川先生は新米の僕に「俺の授業見においでよ」とか「ちょっと、生協までたこ焼き買いに行くから一緒に行こうぜ」とか、いろいろ声をかけてくれました。学校のすぐそばのマンションに、結婚したばかりの綺麗な奥さんと住んでいて、僕は夕飯をご馳走になったこともあります。漢文が専門で、授業でOHP(オーバーヘッドプロジェクター)を使っていました。まず白文の本文を映し出し、その上に返り点や送り仮名などを書いたものを重ねて映し出す、という風でした。僕自身はOHPを使うことはありませんでしたが、その授業の光景は眼に残っています。七十年代なかばですから、まだビデオもパソコンもプロジェクターもない頃の話です。
ほかの先生に来てもらうというやり方は、ホームルームでもやりました。舞子高校では毎日昼にショート・ホームルームがあったのですが、連絡事項を伝えるだけではつまらないので、生徒に三分間スピーチをさせたり、僕が何か話したり。でもだんだんマンネリになり、ネタもつきて、その時、そうだ、クラス担任を持っていない先生に来てもらおうと思いつきました。何人かの先生にお願いしたら、快く引き受けてくださり、短い時間でしたが、真剣に話してくださいました。たとえば、自分は実は広島で被爆したのだが、とその体験を語ってくださった年配の先生もいました。それまでその先生からそんな話は聞いたこともなかったので、教室の後にいた僕も驚きました。たぶん授業でもその話はされてなかったのだろうと思います。養護教諭の先生は、前任校の卒業生が看護婦になりたいと相談にきて自分の志望を実現させるためにどのように努力したか、という話をしてくださいました。
こうして、舞子高校で「教室にゲストを招く」という方法を始めたのですが、これは他の高校へ移ってからも様々なやり方で活用しました。
漱石の「こころ」を授業した時には、一通り授業をしたあとで、若い女の先生、結婚したばかりの川口先生に来てもらいました。僕は生徒に「「こころ」について何を聞いてもいいよ、何か質問ない?」と訊ねて、生徒からの質問を川口先生につなぎ、答えてもらう。その時間は、僕はマイクを持って聴衆の間を移動する司会者のようなものでした。
また、科学的な分野の評論をやっていたときには、理科の先生にきてもらい、熱の発生と放散、体積と表面積との関係などを熊の世界分布を例に話してもらいました。言語によって世界の切り取り方が違うということを話題にするときは、英語の先生に来てもらい、僕と二人並んで対談形式で授業をしました。
「聞き書き・仕事の話をきく」という国語表現の授業を組み立てたときには、ゲストを招き、生徒代表がみんなの見ている前でインタビューするという時間を組み込むことを考えました。これは、伊丹、猪名川、川西明峰と高校が変わっても、同じようにやり続けました。最初は同僚(元雑誌編集者、登山家など)に、ある時期から卒業生に来てもらうという風に変わってゆきました。
宝塚良元校では、進路指導の一環、進路講話の時間に卒業生に来てもらい、在校生たちの前で僕がゲストの卒業生に仕事の話を聞くというスタイルをとりました。ダイニングバーの店長、有馬温泉の仲居、ファッション関係の店員、老人ホームのヘルパー、大阪王将の店員、など具体的な仕事の現場の話が聞けました。
このように、初任校の舞子高校から最後の宝塚良元校まで、「ゲストを招く」というやり方を、授業でも授業外でも、いろいろ試みてきた。
何かを生徒を教えること、それを通じて生徒を育てることが教師の仕事ですが、たとえば「教える」ということにも、いろいろな側面がありいろいろな方法がある。僕は映画が好きなので、その世界とのアナロジーでいえば、映画にはブロデューサーとディレクターとがいる。ディレクターというのは監督で、直接役者に演技の注文をつけたり、カメラや照明などのスタッフに指示を出したりする。プロデューサーは一般には製作者といわれますが、企画の作成から資金の調達、宣伝、興行の方法など全般的な指揮をする。スタジオジブリでいえば、宮崎駿が監督で、鈴木敏夫がプロデューサーです。授業にゲストを招くというのは、教師が授業のディレクターとしてではなく、授業のプロデューサーとしてふるまうということです。
Ⅲ 県立伊丹高校時代 1980年~
【県立伊丹高校に転勤する】
舞子高校で五年間勤務し、その後、1980年に県立伊丹高校にかわりました。その前の年、1979年の夏休みにメキシコで約一ヶ月暮しました。この時知り合ってつきあいだした彼女(今の女房)の家が高槻にあり、デイトに時間がかかって仕方がない。垂水、高槻間は一時間半以上かかる。そんな理由で、阪神間への移動を希望したら、大阪空港のすぐそば、兵庫県の東の端にある県立伊丹高校から声がかかった。この学校のことは何も知らなかったのですが、古くからある伝統校で自由な気風が残っていました。制服はないし、県伊祭という学園祭は体育祭と文化祭を連続で四日間行うのです。
ここで九年間クラス担任をし、そのあと四年間生徒指導部でもっぱら生徒会担当をしました。
剣道部だけでなく、できたばかりの映画研究部の顧問も引き受け、高校生と一緒に8mm映画を作っていました。
【大江健三郎「不意の唖」を授業する】
僕が県立伊丹高校の授業でまず第一番に思い出すのは、大江健三郎の初期の短編「不意の唖」の授業です。自分のノートを見返してみると81年に「三度目の授業」と書いているので、舞子高校時代からやっていたはずです。でも、県立伊丹高校での授業が強烈だったので、なんとなく県立伊丹で始めたように思っていました。
この話は、戦後間もない頃に進駐軍が村にやってきて、通訳の靴がなくなるというささいな出来事から、部落長が外国兵に射殺され、その夜、村人たちが通訳を川に沈めて殺すという話です。ほとんどは、部落長の息子である少年の目にそって描かれています。
81年に、この授業をしていて、思いがけないことが起こりました。生徒の中から自然発生的に議論が巻き起こったのです。
少年が通訳を川まで誘い出し、村の大人たちが通訳を川の中に沈めて殺す。この場面で村人たちは誰も何も話さない。少年の家までやってきて、じっと少年を見つめるだけ、でも母親も少年もこれから何が起きようとしているのか察知する。すべては無言の中で行われていく。通訳のところまで一人で行った少年も何も言わず、通訳は自分に都合のよいように考えて少年について行き、殺されてしまう。
生徒から、村人たちは通訳殺しを相談したのだろうかという疑問が出されました。どう思う、とみんなに返しますと、一人また一人と自分の意見を言い出す。相談はなかった、いやこの小説には書いてないけど相談はあったはずだ、ほかの意見に対する反論、新たな疑問などが次々生まれ、あるクラスではまるまる一時間討議が続きました。こんなことは僕も初めての経験でした。
「村人たちは通訳殺しを相談したのだろうか」という質問は、僕の授業案の中にはありませんでした。僕は、相談もせずにこのような行動をとっていることこそが、村落共同体の特徴なのだと思っていました。ここに高校生がひっかかると考えていなかった。でも、彼等の議論を聞いているうちに、こここそがこの作品の深い部分に降りていく入り口だったのだと気づきました。そしてあらためて「不意の唖」を読み直し自分の読みを再検討していきました。僕が、この作品をどのように読み込み、その後どのように授業を展開していったかについては、資料の「高校生と「不意の唖」を読む」をご覧ください。
実は、先日も大人向けの文学講座で「不意の唖」を取り上げましたが、前半の一時間、次々と参加者から意見・感想が出ました。年配の方々が自分の体験や読書経験をふまえて、さまざまな角度から話してくださいました。十代で進駐軍を見たときの体験や現代のアフガニスタンの話も出てくる。少年が負ったであろう心の傷を案じる人、通訳の存在に反感を述べる人、……「不意の唖」には、読者が自分の思いを語りたくなる何かがある、極めて優れた作品だと思います。僕は参加者の感想や意見を次々に黒板に書きながら、久しぶりにわくわくどきどき興奮しました。
三十年以上前に自分で教材としてとりあげ、その後舞子、県立伊丹、猪名川、川西明峰と、違う高校で何度も授業してきましたが、定年直前、最後に大人向けの文学講座でとりあげて、自分にとって生涯ベスト5に入るような授業・講義になった。この教材を手放さずに授業し続けてきてよかったと思いました。
これは初期の大江健三郎を代表する短編といっていい。文庫本で16ページですから、授業で扱えない長さではない。でも「不意の唖」というタイトルにひっかかって、教科書会社はこれからもこの作品を教科書に採らないだろうと思います。教科書の自主規制といいますか、漱石の「夢十夜」でも、第一夜や第六夜は採ることはあっても、最もおもしろくて、現代の高校生もホラーとして興味を持つ「第三夜」は採ることはない。「おし」とか「めくら」という言葉にひっかかり、忌避され、教科書から排除される。問題があります。
「不意の唖」を、ほかの人が授業したという話は聞いたことがありません。
【池谷信三郎「忠僕」】
「不意の唖」と並んで、これは僕が教材として見出したといえる小説として池谷信三郎の「忠僕」があります。85年に、初めて授業しました。
池谷信三郎は1900年生まれ、1933年に亡くなっています。今ではほとんど忘れられた作家で、日本文学全集の短編集などの巻に「橋」という短編が一つ載せられているくらいの、いわばマイナーな作家です。「忠僕」は1926年に発表された短編で、僕は大西巨人編『日本掌編小説秀作選』(二巻本、光文社カッパブックス)で見つけました。一読してなかなか洒落た作品だと思いました。
伊豆の温泉宿が舞台です。若主人の嘉吉は親父が死んだので、東京の大学を辞めて、温泉宿を継ぐことになる。苦労知らず、人がいいので、小作人は山葵を横流し、叔父は儲け話をもちかけては金を無心する。先代からの奉公人久助はそれを苦々しく思っている。久助は酌婦のおしまに会いたくなって、なかば無意識に、朋輩の金を盗んで、飲んでしまう。主人の嘉吉は、久助を諄々と諭し、彼の信頼を回復させてやるために、孟宗竹の荷を運びその代金と、店の金三百円をあわせて、三島の銀行に預けてくることを命じる。
ここまでが三章。読者の関心は、果たして久助は主人のいいつけを守り、無事に戻ってくるか。この一点にかかってきます。
でも、普通の授業のように、「まず全体を通読して」というやり方では、つまり結末を知ってしまってから、改めてこの作品を分析・吟味するという悠長なやり方では、この作品の魅力・緊張感は活かせない。読みの鮮度が落ちてしまう。最初に読むときの驚きや新鮮さを活かしながら授業するには、どうしたらいいか。そこで結末を予想させることにしました。
まず三章までを音読し、この小説には結末の第四章があるのだけど、それはどんなものだと思うと問いかけて、各自に第四章を書かせます。授業では生徒が作った第四章をすべて紹介したうえで、最後に池谷信三郎の原作第四章を読む。
そのとき二つだけヒントを与えました。
一、題名は「忠僕」である。
二、一二三章を受けての四章である。
生徒はいろいろに予想しました。中で一番短くて受けたのは、「久助の行方は誰も知らない。」というもの、直前に芥川の「羅生門」をやったのですが、そのラスト「下人の行方は誰も知らない」のパロディで、みんな大笑いでした。久助は無事に役目を果たして帰ってくるというものから、金を持って逃げてしまうものまで、おしまや嘉吉の叔父が出てきたり、久助が殺されて金を奪われてしまったり、とにかく生徒は自分流に展開を考えます。
この予想を読むと、その子が三章までをどうとらえたか、どの部分を大事と考えているかがわかります。同時にその子の広い意味での価値観が伝わってきます。
この授業については、『読みきかせに始まる』に詳しくまとめてあります。池谷信三郎の原文も、『新選池谷信三郎集』(改造社。一九三〇年)にあたって、訂正したものを掲載しています。
「忠僕」については、何人もの方から大学などで同じように授業をしてみた、学生の反応もよかったという話を聞きます。これは教科書に採用される可能性があるかもしれない。でも、僕のように四章を予想させるという授業展開は難しくなる。教科書を「一部袋とじ」にでもしなければ無理でしょうが、そんなことすれば、逆に何があるのかと生徒は授業の前に勝手に開けてしまうでしょうね。
【国語表現の試み】
80年代に国語表現という科目が新しくできました。僕が最初にやったのは84年。教科書も使いながら、思いつくこともあれこれ試していました。この時に手ごたえがあったのは、辞書づくりと広告分析でした。三年後の87年に、もう一度国語表現を担当することになり、今度は教科書を使わず、一年間のすべてを自主単元で組み立ててやってみた。「辞書作り、広告分析、物語分析、物語創作、聞き書き、自分史」の六つの単元です。詳しくは『ことばさがしの旅』上下(高校出版、1988年)にまとめてあります。これが僕の出した最初の本です。
国語表現は猪名川、川西明峰でも実践を重ね、特に「聞き書き」については、理論的な考察を加えて、いくつかの雑誌に何度か書きました。「擬似直接話法」とか「対話の三極構造」とかで、一人語りの聞き書きの問題・構造を解いてみました。
最後の定時制高校に転勤した年に、『聞かしてぇ~な 仕事の話 聞き書きの可能性』(青木書店、2002年)が出版されました。この本で、聞き書きについては一区切りつきました。
国語表現や聞き書きに興味のある方は、これらをお読みください。
【詩の授業】
現代詩の授業については、数十編を教材として詩の単元を組み立てるということを試みました。86年一年生対象に十二時間・三十五編、91年に三年生対象に十一時間・四十二編。この二度の授業をまとめたものが、『現代詩の授業』(93年、三省堂)です。86年の段階では、詩の分析というか「読みの方法」に関心がありましたが、やがてそれは教室での高校生の反応をどう活かすか「場の力」に関心が移行していきました。その先のことは、川西明峰高校のところでお話します。
【筑摩書房・現代文全教材を】
筑摩書房の「現代文」は、極めて格調の高い、正統的、本格的な国語教科書でした。
浅田先生が、この筑摩現代文を一年間で全部やったという話を耳にして驚きました。普通、現代文の教科書は、全部やるだけの時間がないので、いくつかピックアップしながら使うものです。僕も、教科書を丸ごと一冊やり終えた経験はなかったし、やろうと思ったこともなかった。むしろ、自分にとって興味のもてる面白そうな教材だけを選び、あとは自社教材を織り交ぜていくというやり方を続けてきた。
浅田先生は、木南先生の大学時代からの友人で、『教師が街に出てゆく時 松葉杖の歌』(筑摩書房、1984年)という著書は僕も読みました。幼い頃に事故で片脚を切断、松葉杖で教壇に立っている。映画好きで、木南先生が新開地で一緒にオールナイトの映画を観ていたのは、この浅田先生ではないかと僕は勝手に思っています。大学で教わった猪野謙二先生が久しぶりに神戸に来られて、卒業生たちが先生を囲む会がありました。その席で木南先生と並んだ浅田先生に会ったぐらいで、個人的に話したことはありません。でもなんとなく敬意を持っていた。その浅田先生が筑摩現代文を一年間で全部やったと聞いて、よし僕もやってみようと思いました。
今、僕の手元にある筑摩書房の「高等学校用 現代文 改訂版」(昭和60年3月31日改定検定済、編集委員猪野健二、桑名靖治、鈴木醇爾、分銅惇作)を見直してみて、そのラインナップに改めて驚きます。
【新しき詩歌の時(島崎藤村)、白壁(島崎藤村)、海潮音(上田敏訳)、食うべき詩(石川啄木)、現代日本の開化(夏目漱石)、元始、女性は太陽であった(平塚らいてう)、舞姫(森鴎外)、根付の国(高村光太郎)、犬吠岬旅情のうた(佐藤春夫)、短歌一家言(斉藤茂吉)、案内者(寺田寅彦)、武者小路兄へ(有島武郎)、十一月三日午後の事(志賀直哉)、蝿(横光利一)、なめとこ山の熊(宮沢賢治)、ギリシア的抒情詩(西脇順三郎)、わがひとに与うる哀歌(伊東静雄)、現代俳句(山本健吉)、無常ということ(小林秀雄)、人生論ノート(三木清)、断腸亭日乗(永井荷風)、富岳百景(太宰治)、弾を浴びた島(山之口獏)、そこにひとつの席が(黒田三郎)、「である」ことと「する」こと(丸山真男)、我が青年論(高橋和巳)、体験を伝えるということ(日高六郎)、もう一編人間に(石牟礼道子)、占領下のパリ(サルトル、小林正訳)、桜島(梅崎春生)】
日本近代文学史がたどれるような、かなり高度で充実した教科書です。個々の作品には個人的な好みもあるし、教材を選びながら授業をする場合には、僕はたぶんこれはやらないだろうなと思う作品もある。しかし、このラインナップは凄い。これだけ内容の濃い教科書を週三時間、ざっと百時間ほどでやりきるには、普通のやり方、通常のペースではとても無理です。そこで僕は二つのことを考えました。一つには、その作品を読みこんで自分なりに作品の核心部分をつかみ、授業のポイントを絞り込むことです。この作品ではここだけ押さえればいいと割り切ることにする。二つには、板書に書く手間を省くために、必要に応じてプリントを作る。(あとで話すつもりでずが、プリント授業は定時制でもずっとやってきました。)
こうした方針を立てて、87年度、三年生に授業をしました。これは本当にハードな授業でした。僕もきつかったけど、授業を受けた生徒の方も大変だったでしょう。なんとかゴールできたときには、達成感があり、自信もつきました。一度はやってみたかった、やれば自分の体力も、限界も見えてくる。まあ、六甲全山縦走のようなものです。六甲全山縦走は四十代で四回ほどやりましたが、教科書の全教材踏破は、この87年一回だけでした。自分にとっては得がたい経験になりました。
【「読書の記録」を作る】
このように、87年という年は、国語表現、現代文ともに自分としては新しいことに挑戦した年で、やっていて手ごたえもありました。三十代半ば、授業に自分の工夫が活かせるようになって、とてもおもしろかった頃です。
この年にもう一つ新しいことをやりました。ちょうどこの頃、兵庫県では教員の共同研究が奨励されていて、どうやら「研究費」も出るらしいというので、それならと国語科も手を上げて、読書指導に活かせる「読書ノート」を作ろうということになりました。
自分が高校生の頃、どんな本を読めばいいか、わかりませんでした。そのとき、図書館が出していた推薦図書の冊子がとても参考になったことを覚えています。ある時期、初心者には、適当な読書案内というものは確かに必要だと思います。
舞子高校の頃は、自分一人で推薦図書を選び、プリントを作って生徒に配っていました。でもそれは個人の好みが強く出たものでした。個人ではなく、国語科全員で読書の指針になるようなものを作ろうと考え、一年かけて作ったのがこの「読書記録」という冊子です。
「Ⅰ課題図書50選、Ⅱ推薦図書、Ⅲ私の読んだ本、Ⅳ読書の記録、Ⅴ原稿用紙の使い方」という構成で、課題図書については簡単な紹介文を、分担して書きました。また国語科全員が本や読書についての短いエッセイを書き、それを冊子のあちこちに散らしています。僕はここに「ドストエフスキー」というエッセイを載せました。
☆参考☆
ドストエフスキー
藤本英二
高校生の頃、ぼくはある女の子に淡い憧れを抱いていました。ある日、偶然町で出会ったことがあります。彼女は一冊の分厚い本を大事そうにかかえていました。「その本は、何?」と尋ねると、「『罪と罰』、むずかしいから、あんまり読めてないけど」と彼女は恥ずかしそうに答えました。
人と本との出合いは、そんなたわいもないことがきっかけになることもあります。浪人をしている時、ぼくはふとこのことを思い出して、『罪と罰』を手にしたのです。それからしばらくは、憑かれたようにドストエフスキーを読みました。『白痴』のナスターシャ・フィリポヴナ、『悪霊』のスタヴローギンに最も魅力を感じました。
「私は、冬になると毎年『カラマーゾフの兄弟』を読みかえすの」という目もさめるような美少女と大学で知り合いになりました。会うたびに、何時間も(恋を囁くのではなく)、ドストエフスキーを論じあっていたのですから、野暮の骨頂と言うべきなのでしょうが、ドストエフスキーにそれだけの魔力があったことも確かです。
気がつけばもう何年もドストエフスキーの作品を手にしていないのですが、つい昨日読み終えたばかりのような思いもあります。それだけ深く胸に刻印されたのだとも言えるでしょうが、青春期が思い出の中で美化されていくように、ドストエフスキーもぼくの心の中で不当に神格化されているのかも知れません。
☆☆☆☆
時間がかかったのは、ⅠとⅡでした。各自が持ち寄り何を課題図書にするか、何を推薦図書にするかを検討しました。いったん出来上がれば、あとはそれを土台に改訂していけばいいので楽なのですが、やはり最初は時間がかかりました。
「研究費」がつくというので喜んでいたら、使い方にいろいろ制限があり、飲み食いなどにはもちろん使えず、結局文房具を買うくらいしか使いみちがありませんでした。僕は万年筆のカートリッジインクを大量にもらいました。
定期考査の時期には、日帰りで有馬温泉に出かけ、部屋を借りて会議を行いあとは温泉につかったり、最後の打ち合わせ、仕上げの会議では京都に一泊して祇園の近くを散策し、古風な喫茶店に入って珈琲を飲んだり、とても楽しかったことを覚えています。この頃国語科の先生方は仲が良くて、年の瀬には京都へ歌舞伎の顔見世を観に行ったり、大阪へ文楽を観に行ったりもしました。
【県立伊丹高校で十三年過ごす】
県立伊丹高校は古い伝統校で、この当時総合選抜制学区、四割を成績順、六割を学区優先でとっていました。ですから生徒の学力に幅があり、いろんなタイプの生徒が混在していて個性的な子も多くて、教師として接していても、刺激的でおもしろかった。生徒会活動も活発で、特に文化祭・体育祭は盛んでした。HRではもちつきをしたり、校庭の落ち葉を集めてきて焼き芋をしたり、牧歌的な雰囲気がありました。
教師も多くが組合員で、青年部の活動も活発でした。GWには家族連れで何台も車を連ねて名神高速を北へ走り滋賀県まで山菜狩りに出かけたり、文化祭では職員劇をやったり、自主的な公開授業や研究会もやりました。
そんな風に居心地のいい高校でしたので、僕も十三年間ここで過ごしました。
Ⅳ 猪名川高校時代 1993年~
【強制配転で猪名川へ】
猪名川高校に強制配転されたのは、全く思いがけないことでした。校長から来年度入学生の学年副主任をしてもらえないかといわれ、4月の新入生合宿の下見に行くだんどりまでしていました。それが終業式の日に突然、転勤の内示が出た。どうやら、管理職も直前まで知らされていなかったらしい。県立伊丹高校では、僕以外にも何人もが一度に「計画交流」で動かされた年です。
この時、上の娘は小学四年、下の息子はまだ三歳でした。女房は民間企業で働いていて、大阪から帰ってくるのはたいてい8時過ぎ。それで、上の娘のときから、保育園の送り迎えはずっと僕の仕事です。猪名川高校は、伊丹市から北へ、川西市を越えた向う、川辺郡猪名川町にあり、車で一時間ほどかかります。勤務時間終了と同時に学校を出ても、保育園の閉まる六時までに戻ってくることは無理。組合を窓口にして県教委とかけあいましたが、彼等がいったん出した内示を撤回するはずもない。
あんまり腹が立ったので、抗議の意思表示をしようと思った。で、頭を丸めようかと思うんだけどと、女房に話すと、一も二もなく、「それはいいわ。今の若い子なら、きっとわかってくれる。オリンピックでも審判に抗議して、チーム全員スキンヘッドにした国があったやん。『エイリアン3』のシガニー・ウィーバーかって、丸坊主で闘っててかっこええやん。今流行やで」と賛成する。よし、髪切ろうと決めて、散髪屋へいった。いつもの店ではちょっと恥ずかしいので、行ったことのない店に飛び込み、丸刈にしてと頼みました。「何かあったんですか?」と店の人も心配してくれる。「ええ、ちょっと」と答えて椅子に座っていると、店の人は電気バリカンを手に、「本当にいいんですね」と念押し。で、丸坊主にした。
その夜、車で北伊丹の駅まで女房を迎えに行ったら、顔を見るなり、「あなた、その頭なに」と言う。「なにって、君も勧めたやないか」「まさか本当にするとは思わなかった。あなたが迷ってるみたいやから、ちょっと後から押したげようと思っただけなのに。まさか本当にするとは」と笑っています。
それで、離任式では、全校生徒の前で、坊主頭にした理由、強制配転のことを話し、これからは息子悠介の送り迎えを最優先にするつもりだ、と話しました。行った先の猪名川高校では、授業の最初に、まずその話をし、「髪形も一つの意思表示なのだ」と語りました。
ある日、食堂で昼飯を食っていると突然目の前にどかっとお尻が現われた。男子生徒がテーブルに腰かけて、話しかけてくる。「ふじもっちゃん、食堂なん?」「うん、そう」「愛妻弁当じゃないんや」こいつ、俺にあやをつけにきたのかと内心身構えていますと、「ふじもっちゃんには頑張って欲しいわ。俺らみんな応援してるんやで、署名でもなんでもするから、言うて」と言うのです。ふっと頭を見る、彼の髪はまっ黄色、「髪形も一つの意思表示なのだ」といったのが妙に受けたのかな、と思いました。
そんなわけで、猪名川高校では、保育園に間に合うように、職員会議の途中でも、抜けて帰りました。一人学校から出て行くのは、ちょっと気がひけるのですが、まだ練習中の運動部の女子たちが、よく手をふってくれました。朝夕、人気の少ない小暗い猪名川渓谷を、車を走らせながら、カーステレオで「森田童子」なんか流していると、本当に暗い気分に浸れるものです。渓流をはさんだ向うの野原にぽつんと一本柿の木が立っていて、冬になるとびっくりするくらい大量の実がなり、その柿の実の色がとても鮮やかだったことを覚えています。秋に田んぼの中の道を走ると、あぜ道ぞいに曼珠沙華が並んで咲いていたのも印象的でした。
【選択現代文を初めて担当する】
そういうわけで、猪名川高校での三年間は行動に制約がかかって、ちょっと鬱屈気味でしたが、同僚は親切にいろいろと声をかけてくれ、仕事の上でも何かと配慮してくれるので、学校の居心地はそれほど悪くはありませんでした。
国語科準備室は職員室から離れていて、別の棟の3階にありました。使い勝手が悪く、教科書が放り込まれているだけで倉庫がわりの国語科準備室をせっせと片付けて、そこを自分の勉強部屋のようにして、教材研究や原稿書きをしていました。
90年頃からから使い始めた、最初のパソコンはデスクトップ型でとても重くて、小型のテレビみたいでした。それを毎日車の後ろに積み込んで学校へいき、準備室まで運び上げ、また帰りには運びおろすということを繰り返していました。デスクトップの意味がわからなかったのと同じですね。
猪名川高校には「選択現代文」という科目がありました。選択クラス、担当者は一人、教科書がないので、一年間全部好きな教材で授業ができる。僕にとっては、願ってもないような科目です。
しかし、自由であるというのは、実は大変なエネルギーを要求されます。決まった教科書がないので、一から自分で教材を探さなくてはならない。
話はさかのぼりますが、大学生の頃、友人からこんなことを聞いたことがあります。神戸大学教育学部の教官たちが、「どんな力を学生につけたいと考えているか」。それは、自分たちで教科書を作ることのできる学力だ。自分たちでというのは「自分ひとりで」ということではなく、ほかのみんなと協力しながら、という意味です。学生の頃にそれを聞いて、印象深かった。いつか自分も自分の望むような教科書を作りたいなあと思いました。
教科書に対して、若い頃は、反発の方が強かった。同じような定番教材ばかりで、新しい教材、面白い教材が少ない。原文を勝手に削除・改変している。などいろいろ不満があった。でも、何年も教科書を見てくると、教科書会社は複数あり、同じ科目でも十数種類の教科書があり、十把一からげには論じられない、意欲的な取り組みや新しい工夫をして頑張っている編集者もいるということが理解できるようになった。
県立伊丹高校の国語科では、教科書選定の時期には、全員で教科書を比較検討して、来年度の教科書を決めていました。僕もこの時期、いろいろな教科書をよく読みました。そうすると、教科書会社の特色、色、匂いというものがわかってきた。古臭いもの、保守的なものから、新しいもの、実験的なもの、革新的なものまでいろいろある。そして、自分が知らなかった作家や作品と教科書で出会うということができました。若い先生は一度すべての国語教科書に目を通してみると、とてもいい勉強になると思います。
で、猪名川高校で選択現代文を担当して、自分で一年間の教材を自由に選べるようになって、いわば「自分の教科書」を作る機会を得たのですが、まだまだ自分のストックが少ないことに気づきました。次に何をやろうか、直前まで迷っていて、いつも追いかけられている感じでした。
参考までに、この時どんなものを教材に作ったかといいますと。
《柴田元幸『生半可な学者』、上野千鶴子『私探しゲーム』、坪内稔典『俳句 口承と片言』、井上ひさし『ニホン語日記』、見田宗介「狂気としての近代」、池谷信三郎「忠僕」、筒井康隆「北極王」、寺山修司「日本童謡詩集」、五木寛之「現代に冒険は可能か」、他。1995年》
それなりに自分の好みが出ているとは思います。でも、次に何をやるかに追われて、いつも息切れがしているようで、一年間を見通していろんな教材をバランスよく配置するといった余裕はありませんでした。
このときの経験が実を結ぶのは、次の川西明峰高校で選択現代文を担当したときでした。そのことについてはあとで詳しくお話したいと思います。
【筒井康隆「北極王」について】
全員対象の普通の現代文もやっていました。三省堂の『現代文』を使っていて、ここに筒井康隆の「北極王」という短編が載っていた。筒井康隆は好きな作家の一人ですが、一九九〇年頃に発表されたこの新しい短編は知らなかった。
小学生の夏休みの作文という体裁で書かれています。北極王から招待状がきたので一人で北極まで行き、北極王と北極王の奥さんに会って帰ってきたという内容ですが、これがなかなか一筋縄ではいかない。ちょっとひねった作りになっています。感想を書かせますと、生徒たちは、様々な反応をみせます。これを夢あるいは、ファンタジーととらえる子もいれば、「見せ消ち」(下に何が書いてあるかわかるように、傍線で消して訂正するやり方)の手法にこだわっている子もいる。北極までの旅の描き方がバランスを欠いていたり、全く同じ表現が繰り返されていたりする不自然さに気づく子もいる。生徒の感想を紹介し、この作文の正体は何かを、具体的な表現に即して、丁寧に探っていきました。
すると、これが主人公・書き手の宇野和博君の書いた「うその作文」だということが次第に見えてきます。
《筒井康隆は「小学生の作文」自体から、まず一生懸命うそを書いている小学生の姿を立ち上がらせ、そのうそのつき方の「つたなさ」を通じてこの和博君の幼さを表現すると同時に、読者に向かってこの作文がうそであることを告げている。》というのが僕の理解です。
この短編には、小説を考える上で重要な要素がいろいろ入っている。作者と語り手、指示表出と自己表出、ばれるようにつくうそ、メタ記号として働くコノテーション、メタフィクションなどなど、虚構とかフィクションを文芸学的にとらえるためのキーになる要素がちりばめられています。もちろん、高校生にそんな文芸学的な概念を教えること自体は必要ではない。でも授業をするものとしては、その点を押さえておくことは、作品の面白さを生徒に伝えるために大切なことだと思います。
大人向けの文学講座では、「子どものうそ」をどうとらえるか、というテーマで話しました。「北極王」だけを読むのでなく、その横に、柳田國男の「ウソと子供」やマンガ「じゃりン子チエ」を置くと、話が立体的になり、文学における虚構、フィクションの意義という所まで話を広げることができます。
詳しい授業報告、講座の内容は『読むこと書くこと 大人への回路』(久山社、2001年)にまとめてあります。
【『サラダ記念日』野球ゲーム全五十首を授業する】
俵万智の『サラダ記念日』が世に出たのは1987年5月。僕が持っているのは、同年6月十一刷のものです。マスコミで評判になってすぐに読みました。授業でとりあげたいと思いながら、なかなかその機会がありませんでした。
猪名川高校で、初めて『サラダ記念日』をやろうと決めて、「野球ゲーム」全五十首を自主教材にしました。これは元々、短歌雑誌に五十首まとめて掲載されたもの。この五十首をそのままやろうと思った。歌集の中から何首か選んで授業するのでは、『サラダ記念日』の歌集としての魅力は掬い取れないと考えたからです。
「野球ゲーム」は五十首で一つの恋愛物語を作っています。これは高校生の共感を得るだろうと思いましたが、予想以上に『サラダ記念日』は彼ら彼女らの心をとらえました。感想を読むと、その興奮ぶりが伝わってきます。
「野球ゲーム」については僕なりの発見がありました。三十番目の歌が《「30までブラブラするよ」という君のいかなる風景なのか私は》なのです。俵万智は、絶対意図的にこの歌をこの位置においたと思いました。俵万智の卒論は和歌の並べ方なので、歌をどう並べるかについては、意識的なはずです。三十番目に《「30までブラブラするよ」……》という歌を配置している。でもたぶん、これはほとんど誰も気づいてないだろう。普通、歌集を読むときに、これは何番目の歌かなんて、誰も気にしない。もちろん歌集に番号なんてついていない。僕は自分のプリントに手書きで番号を打ってみて、初めて気づきました。
それで、生徒には「たぶん日本中でこのことに気づいているのは僕だけだと思うけど」と前置きして話しました。すると、生徒が「そんなら、二首目、見てみ」って言うんです。
《卵二つ真剣勝負で茹でているネーブルにおう日曜の朝》
おお、そうであったか。その子に教えられました。
川西明峰高校で、「猪名川高校の生徒はこんな風に教えてくれたんだけど」と紹介すると、また生徒から声がかかりました。「先生、二十四番目もそうじゃないですか」。
《愛ひとつ受けとめかねて帰る道 長針短針重なる時刻》
一瞬、生徒が何を言っているのか理解できずに「?」。もう一度見て、「長針短針重なる時刻」、夜中の十二時、あっ二十四時か、と一拍おいてわかりました。もうこれで僕の仮説は完璧になりました。絶対に俵万智は、意図的にこれらの歌を並べた、密かな遊び心の表れです。
この『サラダ記念日』の授業実践については、『読みきかせに始まる 絵本から『サラダ記念日』まで』(久山社、二〇〇四年)にまとめてあります。
【国語表現について】
転勤した93年、猪名川高校でも国語表現を担当しました。基本ベースは『ことばさがしの旅』と同じなのですが、新しい単元も作ってみたいと思い、「陪審員ゲーム」というのを考えました。討議、討論、話し合いについて、ディベートとは違う形でやってみたかった。
それで、中原俊監督の『12人の優しい日本人』という映画、もとは三谷幸喜の劇ですが、それを見せたあとで、大江健三郎の「不意の唖」を読み、班で話し合うという流れを考えたのですが、これは失敗しました。
映画は興味を持って観ていましたし、「不意の唖」という小説に対する反応も悪くはない。それで気をよくした。何を話しあうかのポイントもちゃんと設定した。でも、いざ討議となると、みんななかなか口を開こうとせず、授業は空転してしまいました。
「聞き書き」実践は、県立伊丹高校で四回、猪名川高校で一回やりました。最初の年の作品は、『ことばさがしの旅』下巻に収録しましたが、それ以降も面白い聞き書き作品が沢山ありました。高校出版から申し出があり、僕が編集し『高校生がききこんだ関西人のお仕事』(1994年『月刊高校生』特別編集号)を出版しました。これは教育実践の本ではなく、「仕事の本」です。聞き書きの内容が面白いので、朝日、毎日、読売、産経、神戸の新聞各紙がとりあげ、結構評判になった。朝日放送の「おはようパーソナリティ道上洋三です」という番組にも呼ばれて、僕は生まれて初めてラジオに出演しました。テレビ局から取材の打診もあったのですが、その時、94年は国語表現を担当していなかったので、結局テレビ取材は実現しませんでした。
一番丁寧な対応は、神戸新聞でした。まず授業の紹介記事が出て、そのあと生徒の作品を短縮した形で、毎週一回掲載という企画になりました。その連載「仕事の風景」は1995年1月から始まりました。その直後、1月17日に阪神淡路大震災が発生したのです。神戸新聞は社屋が倒壊しながらも、地元の新聞社として震災の記事を書き続けました。連載は中断を余儀なくされましたが、半年後に再開しました。
Ⅳ 川西明峰高校時代 1996年~
【川西明峰高校へ移動する】
猪名川高校で三年間過ごし、川西明峰高校へ移動し、通勤時間は半分ほどになりました。久しぶりにクラス担任になり三年間、その後学年副主任として三年間、合計六年間をこの川西明峰高校で過ごしました。二年目からワンダーフォーゲル部の顧問になり、夏には北アルプスに出かけたり、秋には六甲全山縦走を行ったりしました。
川西明峰高校で試みた授業を、選択現代文と国語表現の二つの科目に即して簡単にお話します。
【選択現代文一年間の試み】
猪名川高校でも担当しましたが、選択現代文は教科書がないので、自分で教材を選ぶことができます。川西明峰高校でも何度か担当しましたが、99年の一年間の授業内容を表にしたものがあります。
学期
作品名
授業の形態
1
導入・文化としてのことば
講義
①筒井康隆「北極王」
②黒井千次「子供のいる駅」
質問をしながらの対話形式の授業
③原作と映画を比較する
芥川龍之介「藪の中」と黒澤明「羅生門」
小説を分析し、映画を見、比較検討したレポートを作らせる。
④池谷信三郎「忠僕」
小説の結末を予想させ、創作させる。
2
⑤現代詩の朗読
高村光太郎、室生犀星、石垣りん、谷川俊太郎、東淵修、吉増剛造、町田康、茨木のり子、道浦母都子(都はるみ)、吉永小百合「原爆詩の朗読」
詩のボクシング(ねじめ正一・谷川俊太郎)
詩の朗読のテープ、CD、ビデオなどを鑑賞し、最後に「詩の朗読」というエッセイを書かせる。
⑥与謝野晶子「みだれ髪」と俵万智「チョコレート語訳」を比較する
⑦寺山修司「燃ゆる頬」(全)
各自にレポートを作らせ、その違いを整理しながら、講評を加えていく。
⑧村上龍「料理小説集」(フィジーのアイスクリーム)
⑨村上春樹「螢」
⑩村上春樹「アンダーグランド」(明石志津子)
⑪村上龍「寂しい国の殺人」
感想を聞き、質問をしながらの対話形式の授業。最後に四つの中から一つ選んで小論文を作らせる。
3
⑫見田宗介「狂気としての近代」
質問をしながらの対話形式の授業。
別の年には、もう少し評論やエッセイをとりあげたりもしているのですが、今ふりかえると、この年は小説と詩歌、文学作品に偏りがちだったようです。
【映画と原作の比較】
一学期は短編小説を四つ、「北極王」「忠僕」については猪名川高校の所でお話したものです。「子供のいる駅」は一首の寓話、ショートショートです。これらはこれまでに扱ったことがありました。
③について、少し補足します。
僕は映画が好きで、あるとき調べてみたら、1979年から2004年までの25年間、映画館で合計1147本観ていました。年平均46本です。
映画を授業に取り入れる機会は、これまでなかなかなかったのですが、川西明峰高校でそれをやり始めました。具体的には、「伊豆の踊子」や「羅生門」(原作は「藪の中」)などの映画と原作の比較です。
この表は99年のものですが、③映画と原作の比較は「羅生門」をやりました。まず芥川龍之介の「藪の中」を一通り読み、内容を確認したうえで、黒澤明の映画『羅生門』を見せ、生徒各自にレポートさせるという授業です。ご存知かとも思いますが、黒澤明の映画は前半2/3は芥川の小説にそってつくられていますが、後半の1/3は完全にオリジナルです。元の脚本は橋本忍が書き、それに黒澤が手を入れています。生徒も原作と違う点に興味を持ったようで、なかなか力作のレポートがいくつも出ました。レポートは印刷して全員に配布、僕の方からレポートのよいところを中心に講評しました。
【「比較することで読む」という方法】
僕はどうすれば、高校生たちが自分で文学作品を読むことができるようになるのか、そのことを考えてきました。教師が一方的に自分の読み方や解釈を講義するというのではない、高校生が自分の力で読むことの喜びに出会える、そんな授業のやり方を探してきたと思います。
高校生は、既に、ある程度作品を読む力を身につけています。ですからその力に依拠しながら、彼等自身の読みを生み出すように授業することができるはずです。そのために、僕は「比較する」という方法を意識的に取り入れてきました。
「映画と原作を比較する」というのもその一つですが、それだけではありません。
古典の授業では、「源氏物語の冒頭の現代語訳を比較する」ということもやりました。多くの場合、単語の意味を調べさせ、文法的な説明をし、生徒に現代語訳させてみる、あるいは教師が現代語訳をする。そんな授業を僕もしましたが、どうも堅苦しくて窮屈でした。現代語訳が一義的に決まるような錯覚を生み出す。そこで、与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、瀬戸内寂聴は、どう訳しているか、原文と複数の現代語訳を比較するという授業を考えました。比較してみると、それぞれの訳の特徴もよくわかります。与謝野晶子は敬語表現を細かく訳すことなんかにこだわってなくて、わかりやすい。
「比較することで読む」という方法は、短歌でもやりました。
表の⑥を見てください。ちょうどこの頃、俵万智が『チョコレート語訳 みだれ髪』を出版し話題になっていました。それを使って、与謝野晶子「みだれ髪」と俵万智「チョコレート語訳」を比較する授業をやったのです。
例えば有名な《やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君》を俵万智は《燃える肌を抱くこともなく人生を語り続けて寂しくないの》と現代語訳しています。この二つを比較してみると、いろいろと違いが見えてくる。「やは肌のあつき血汐」と「燃える肌」では、前者の方がよりエロチックだと感じますし、「ふれる」と「抱く」ではニュアンスが異なります。「道を説く」と「人生を語る」では話の中身が違うよなあ、と思います。
あるいは《髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ》を《たっぷりと湯に浮く髪のやわらかき乙女ごころは誰にも見せぬ》と訳している。前者が髪を洗っている(風呂に入っているのではなく)のに対して、後者はバスタブに全身浸っているようにイメージできます。「髪をとく」と「こころを秘めてはなたない」は照応していますが、チョコレート語訳ではその照応がないので、「乙女ごころは誰にも見せぬ」が表現としては弱くなっている。
与謝野晶子の歌を理解するために、俵万智の現代語訳は役に立つかもしれないけれど、二つの歌の世界は明らかに別のものです。与謝野晶子の世界の方がエロチックだと思います。織り込まれているイメージも、与謝野晶子の方が、連関性を持ち複雑です。いくつか例を話して比較の仕方を示唆しながら、生徒自身に比較させレポートを作らせる、そんな授業です。
教科書では短歌は一人一首ないし二首という採り方がほとんどですが、筑摩書房の教科書は「みだれ髪」から十数首抜粋して、一つの見識を示していると思います。僕は、それをベースに使わせてもらい、対応する俵万智の歌を並べて教材にしました。
【短歌を歌集の中の歌として読む】
俵万智の『サラダ記念日』は猪名川高校でやり始めて、川西明峰高校、宝塚良元校でもやり続けました。全員対象の現代文でやることが多かったです。「野球ゲーム」全五十首でやった年もあれば、「八月の朝」全五十首でやった年もあります。
同じように短歌をまとめてやるという授業は、寺山修司の『空には本』の「燃ゆる頬」でもやってきました。表⑦の所です。この99年の選択現代文でも扱っています。これはもともと、三省堂の現代文の教科書にこのかたち、「燃ゆる頬」全二十六首が掲載されていて、ああこれはいいと思いました。
先にお話したように、『サラダ記念日』の場合は、一編の物語として短歌集を読んでいこうとしました。俵万智もそのように、ストーリーが形成されていくように五十首を並べています。
寺山修司の『燃ゆる頬』の場合は、単一のストーリーにそって歌が並べられているわけではない。それでどのような「図」が見えてくるか、をさぐるという風に授業しました。具体的には、父、母、友、少女、少年などということばに注目して、そのことばの出てくる歌を並べて関連づけてみる。例えば、
わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む
わが鼻を照らす高さに兵たりし亡父の流灯かかげてゆけり
耳の大きな一兵卒の亡き父よ春の怒涛を聞きすましいむ
かぶと虫の糸張るつかのまよみがえる父の瞼は二重なりしや
という風に「父」ということばの出てくる歌が、二十六首の中に四つ散らばって配置されている。まずそれらをつないで眺めてみると、連関しあって「父の図」が浮かんでくる。それは、例えば、「わが通る……」一首だけを示されての読後感とは決定的に違うわけです。また、この四首には、鼻、耳、瞼という風に父と自分のつながりが肉体の部分において意識されていることもわかると思います。
短歌を一首だけとりあげて授業するというやり方も、もちろんあっていいでしょうが、それは往々にして、教える者と教えられる者との間に知識量の差を当然のこととして前提している。歌の背景、歌人の人生、などを抜きにして、その歌だけで授業するのならともかく、結局はその歌の背後にあるものを「教え込む」ことがしばしば授業の中心になってしまう。それは短歌を歌として享受するのとは別のこと、知識の授業になってしまう。
もちろん、教師と生徒が作品を間に挟んで全く対等に向き合うということは、ありえない。当然知識量も違うし、そもそもその教材を教室に持ち込むという段階で、力関係は決定的なわけです。それでもできるだけ、一方的な知識注入ではない授業をしたい、生徒自身の読みを引き出したいと思えば、教師は生徒への作品提示の仕方を工夫すべきです。
そういう意味で、若い頃に僕が教えられたのは、筑摩書房の教科書です。斉藤茂吉の「死にたまふ母」を十数首まとめて並べている。ああこれなら、短歌の素養のない僕にも少しは授業できるかもしれないと思いました。
僕は「死にたまふ母」『サラダ記念日』「燃ゆる頬」などを授業してきましたが、それは、短歌を一首だけ切り離して授業するのではない、短歌をあるまとまとったものとして、一連のものとして読もうという試みだったといえます。
【現代詩の授業】
93年に『現代詩の授業』をまとめてからも、三年に一度くらい、の割合で詩の授業は続けてきました。取り扱う詩作品は、少しずつ入れ替えています。川西明峰高校では他の先生と共同で、詩を持ち寄って、教材づくりをしました。
現代詩に対するぼく自身の関心は、「読みの方法」「場の力」「魂の声」という風に移っていきました。そして川西明峰高校にいた頃は「詩から聞こえてくる声」という問題に移り、それはさらに「詩の朗読」へと関心が向かいました。
表の⑤を見てください。高村光太郎や室生犀星の朗読テープ、あるいは石垣りん、谷川俊太郎、ねじめ正一、町田康の朗読のビデオを生徒に紹介しながら、授業をやりました。生徒は町田康の「こぶうどん」の朗読なんかすごく好きなんですね。
それから、「詩のボクシング」も最近は盛んになって、地方予選なんかもあるようですが、これは初期の頃、第二回でしたか、ねじめ正一と谷川俊太郎の試合があった。三分間十ラウンド、交互に朗読する。途中で、先攻後攻が変るんですけどね。小林克也が実況アナウンサー、高橋源一郎が解説者、遊び心に満ちた番組でした。そのビデオを生徒に見せて各自に採点させました。谷川俊太郎もねじめ正一も朗読をよくやってきた詩人で、読み方も個性的です。
【吉増剛造の朗読】
僕が朗読の問題に大きな関心を持つきっかけになったのは、ある朗読会で、吉増剛造の朗読に出会ったことです。吉増剛造の朗読は、それまで知っていたどのような朗読とも異質なもので、僕は驚きました。「石狩シーツ」という詩は六百行を超す長編詩で、読めば三〇分ほどかかる。この朗読CDを買って、家で聞いてみました。本当に驚きました。その読み方が尋常ではない。アナウンサーや俳優の流暢で耳に心地よい朗読などとは全く違う。ゆっくり囁くように始まったかと思うと、突然吃音かと思うような、声の溜めと破裂がありすさまじい勢いでことばが迸る。しかもそのことばの意味の流れ、つながり、連関がたどれない。でも音だけは強烈に耳に残る。「ス」なら「ス」という音を、今初めて聞いたというような驚きでした。あまりのわからなさにショックを受けました。でも何か心惹かれるものがある。ここには何かがある、と感じました。それで、毎晩寝る前にこの朗読CDを聴き続けた。一年くらい聴いていたと思います。途中で寝てしまうことも何度かありましたが、やがて少しずつ少しずつ、イメージが浮かび、意味の連関がたどれるようになりました。
ちょうど、娘が中学生から高校生の頃で、自分の部屋が欲しいといい始め、僕の部屋を狙っていました。それで、娘が部屋に入ってくるとこの「石狩シーツ」をかける。「お父さん、これ何。何か怪しい宗教と違うん」と気味悪がって部屋から出て行く。娘を追い払うまじないがわりに利用したりしました。それくらい、この朗読は常識的な耳には異様ものと響きます。娘は高校で演劇部の手伝いのようなことをしていて、演劇部で朗読の練習をするから参考にと、僕の所からこのCDを持っていった。どうやった、と尋ねますと、「何を聴かすんや!」とみんなから怒られた、と笑っていました。
【現代文学の最前線へ】
現代文学の最前線の作品を取り上げたいと思い、村上春樹と村上龍の小説とエッセイを選びました。表の⑧から⑪です。
⑧村上龍「料理小説集」(フィジーのアイスクリーム)
⑨村上春樹「螢」
⑩村上春樹「アンダーグランド」(明石志津子)
⑪村上龍「寂しい国の殺人」
⑨「螢」は長編小説『ノルウェイの森』の原型というべき作品で、授業がきっかけで『ノルウェイの森』を読んだ生徒も何人かいます。⑩「アンダーグランド」はオウム真理教の地下鉄サリン事件の被害者に対するインタビュー、⑪は神戸の酒鬼薔薇聖斗事件に対する言及があるエッセイです。同時代に起こった大きな事件を文学者がどう受け止めたか、を高校生に紹介したかったのです。
選択現代文の最後にやったのは⑫見田宗介の「狂気としての近代」です。これは一首の時間論なのですが、我々がどういう社会の中で生きているかをとらえるヒントになればと思ってやりました。
【写真とことばの物語・国語表現の新しい展開】
次に国語表現の話をします。
猪名川高校で「陪審員ゲーム」をやって失敗したあと、川西明峰高校で国語表現の新しい単元を作りました。「写真とことばの物語」と名づけました。2001年の実践報告は「ブリコラージュ通信3号」に詳しくまとめてあります。今、その骨子だけを紹介します。
これは、一言でいえば、《写真を利用した物語作り》ということになります。『ことばさがしの旅』の時に、「おはなしづくり」に失敗して以来、どうすれば物語づくりができるか、気にかけていました。
これはちょっと横道にそれますが、数年前に東京で報告したときに中井浩一さんから、「藤本さんの一人語りにこだわった聞き書き実践は、藤本さんなりの物語作りではないですか」と言われて、虚をつかれた思いがしたことがあります。僕自身は、「おはなしづくり」の失敗を、モノローグのことばをどうダイアロークのことばにひらいていくか、という軸で考えていた。でも確かに、聞き書き実践は「おはなしづくり」を新しい題材で展開したものだと考えられないこともない。自分にとって死角になっていました。
それはともかく、新しい単元を組んでみようとして、写真を利用すれば何かできるのではと思いました。教科書にも「写真にキャプションをつけてみよう」などという問題などがあった。それで98年に久しぶり国語表現を担当したとき、写真を何枚か組み合わせ、ことばをつけて物語を作るという授業をやってみた。ある程度手ごたえがあったので、次に担当した01年には、あれこれ丁寧に手順を踏んで、全力投球で授業に取り組んでみました。これは久々にうまくいった実践です。自分としても、この「写真とことばの物語」は「広告分析」と「おはなしづくり」という自分の先行実践の交点に位置づけられると自覚できました。
授業の骨子については、レジメをごらんください。
導入 ①雑誌の裏表紙広告「C is Beautiful .」
② 二つの新聞写真「杉山、2回戦敗退」
①はフジフィルムの「トレビ100C」という商品の広告を例にとり、写真(海辺に立つ水着の女性の後姿)と言葉が組み合わされると、どのような効果が生まれるか、ということを話しました。
②ではことばは同じでも、使われている写真が違うと、見ている者の印象が全く変るということの例として、「杉山愛、二回戦敗退」という記事を使って、説明しました。
レッスン1
「アサヒカメラ」から5枚の写真を選び、A3サイズに拡大したものを用意。生徒にそれらの写真にキャプションをつけさせる。
レッスン2
レッスン1の5枚の写真の中から、2枚を選ばせる。それを組み合わせ、ことばを加えて、お話を作らせる。
レッスン3
写真雑誌を何冊か用意した。その中から、生徒に自分の好きな写真を2枚切り抜き、台紙に貼りつけ、キャプションをつけて作品を作らせる。
※みんなの作品を見て、各自5点を選び、選評を書く。
ここまでが、導入と練習です。そして、このあと次のような二つの課題を課しました。
課題一 「私の好きなもの」
二枚の写真とキャプションでつくる。一枚目は人物写真、二枚目はその人の好きなものの写真という組み合わせで。この課題ではフィクションは不可。本当にその人の好きなものを撮ること。
課題二 「写真とことばの物語」
写真とことばを組み合わせて、十二ページの本を作ること。写真は最低でも十二枚必要になる。写真は古いものや雑誌の写真を使ってもよいが、基本的には新しく自分で撮る。クリアファイルを用意するので、台紙に写真を貼りことばを書き、本文ページをつくり、ファイルに入れていく。それ以外に表紙、まえがき、あとがき、裏表紙を加えて、全部で十六ページの本として完成させること。
ポイント①写真とことばの組み合わせから生まれるものをいかすこと
②十二ページのバランス・構成を考えること
③おもしろい作品を作ること(平凡さとひとりよがりをさけて、驚き・共感を)
※感想と優秀作3点を投票
課題1はそれほど、変った作品は出ませんでした。課題2だけでも良かったかなと思います。そして授業の最後に、《「写真とことばの物語」を終えて》という作文(二千字)を書かせました。
授業をふりかえってみれば、次のようなことが言えます。
最初の3つのレッスンでは、全員のキャプションや作品を紹介し、各自で採点・投票させて「ベスト作品」を選んでいきました。これは一種ゲーム的な要素もあり、和気藹々の雰囲気の中で楽しくやれた。そうすることで、他人の表現の面白さ、自分の表現の拙さ(ひとりよがり)に気づいていったように思います。このような、ゆるやかな相互批評が無理なく行なえたことが、今回の授業の成功の一因です。
また、レッスンの材料として写真雑誌を使ったことが大きな力を発揮したと思います。
自由に立ち歩き、写真や作品を見てまわるという場面が何度かあったが、これは僕自身にも新鮮な時間でした。最後は図書室を借りて各自がみんなの作品を見てまわり、それに対して感想を書くということをやったのですが、生徒たちは僕が予想した以上に熱心に他の子の作品を眺め、丁寧に感想を書くので、結果的に二時間かかりました。ゆったりとしかも充実した時間でした。
僕自身、毎時間生徒がどんな作品を作ってくるかが楽しみで、授業が刻々と生成していくという感覚を味わうことができました。「授業は教材と教師の解説だけで成り立つものでなく、生徒の作品や感想などが次々に織り込まれて出来上がっていくものなのだ」ということを改めて再確認できた授業になりました。
Ⅴ 川西高校宝塚良元校時代 2002年~2012年
【夜間定時制へ】
長い間、昼間の高校で働いてきて、僕はだんだん仕事に倦んできたのだと思います。働き出した頃と比べて、明らかに忙しくなってきている。その忙しさも、僕にはあまり意味のあるものと思えない。コンピューターがどんどん職場に入ってきて、成績処理はもちろん、通知簿さえコンピューターで打ち出すという。僕は、通知簿は一人一人手書きでコメントを書いてきたが、そんなこともう今は必要ないとされ始める。そうした情報処理の流れについていけない感じもありました。
特色ある学校づくりという方針が県から降りてくると、自分の学校の特色を打ち出そうと会議ばかりが繰り返される。あるいは総合学習の時間が導入されることになり、それをどうするか、が論じられる。内発的な忙しさではない、外発的な忙しさに学校全体が振り回されている、と思いました。
進路指導という名の下に、補習が隠然と職員に強要される。いわゆる「受験教育」には若い頃から反発を持っていましたが、学校全体は「受験教育」「補習」の方向にどんどん押し流されているように感じました。
そうした思いもあり、夜間定時制への転勤を希望しました。
【カルチャーショックを受けて】
川西高校宝塚良元校は阪急小林駅から徒歩5分の所にあります。1学年1学級規模、全校生徒あわせても100人ほどの小さな学校です。先生も10人ちょっとです。
皆さん方の中にも、ひょっとしたら、夜間定時制の高校生は昼間は工場か何かで働いていて、夜は勉強している「苦学生」という、昔のイメージを持っている人がいるかもしれません。今は全然違います。まず、アルバイトをしている生徒は5割から6割程度ですが、正規雇用の生徒は一人もいません。中学時代不登校を経験している子が多く、僕が担任した子で、中学に1日もいかなかったという子がいました。対人関係のとり方が下手でコミュニケーションが苦手な子が多い。父親と死別、離別して、母子家庭の子が多く、あるいは母親が再婚し、義理の父親と一緒に暮らしている子もいる。父子家庭の子もいます。生活保護を受けている家庭、奨学金を貰っている子、今はその制度かなくなりましたが授業料免除、など全体的に経済的に貧しいです。ブラジル、中国などの外国籍の生徒もいます。年齢も、大半は中学からすぐに高校に入学していますが、別の高校を退学して転入、編入してくる子も少なくない。中には二十歳を超してから、あらためて入学してくる。退職して、六十を過ぎてから高校の門をくぐったという方もいます。そういう風に複雑な生活環境、成育歴を持っている生徒が多いのです。
最初の年は、様子もわからず苦労しました。特に、三年生などでは授業が成立しない。ゲーム、携帯、ヘッドホン、マンガを注意してまわっても、もぐらたたきみたいで、全然ダメです。授業をしていても聴いているのは二人か三人だけで、みんな好き勝手に他のことをしている。「おまえら、ええかげんせいよ」と声を荒らげ、怒鳴り上げたことも何度もありました。
授業だけではない。例えば休み時間のたびに外へ出て行く。まあ小さな学校で、休める空間、隠れる場所がないということもありますが、タバコを吸いに出て行く。教師は休み時間や放課後、周辺を吸い殻拾いに回る。
生徒は先生のことも呼び捨てで、職員室に「○○おるか」と入ってくる。昼間の学校では、教師に対する敬意は、内心どう思っているかはともかく、それなりに敬意は払うものだと生徒も教師も思っていた。「先生」として立ててくれた、それが当たり前だったのに、そういう前提がガラガラと崩れていく。生徒からうざい、きもい、死ね、などということばが当たり前のように出てくる。僕も何度も生徒とぶつかりました。
そんなこんなで、カルチャーショックを受けて、思いだすと腹が立ち、寝られない日々が続き、医者から睡眠薬をもらうこともありました。
ただ、昼間の学校へ戻ろうとは思いませんでした。どうしたら、この学校でやっていけるかを、少しでも探ろうとしました。
【定時制での授業】
定時制での授業は、いくつか特徴、利点があります。
⑴少人数であること。1年生の場合、新入生は定員の40人を割ることがありますが、留年生が10人程度出るので、あわせると40人を越えます。丁寧な指導の必要ということもあり、2クラスに分けています。ですから20数人のクラス。生徒全員のことがわかります。ただ1時間目などは教室に3人しかいないということもありました。
⑵大学受験を念頭におかなくてよい。全体的に学力は低く、中には九九やABCがおぼつかない者もいる。小学校の漢字をマスターしていない。いわゆるLD、学習障害が疑われる者もいる。進路指導の問題は難しいのですが、大学進学希望者はその年に一人か二人という程度です。
⑶教材編成が自由にできる。一応教科書はありますが、それに縛られず、プリントで授業をするのが慣例になっていました。
⑷暗いのでプロジェクターを使える。授業は夕方の5時半から始まります。昼間の学校では、ビデオなどを見せようとすると特別な教室、視聴覚教室などに移動しなければいけません。でも夜間定時制では、その必要がない。教室の蛍光灯を消せば、ビデオ上映ができます。あとで詳しくお話しますが、僕はこの十年間で視聴覚教材を頻繁に使うようになりました。教室にビデオ・プロジェクター・スピーカーなどを運び込みセットする、最後の頃は五十インチの液晶テレビが配備されましたから、ゴロゴロとそれを移動させる。パソコンでユーチューブの動画を使ったこともあります。
少人数、大学進学の縛りがない、教材編成の自由、視聴覚機器の使用のしやすさ、などの利点を活かしながら授業づくりを進めました。
【教材の価値について】
ここでちょっと、教材の価値とは何かということに触れておきたいと思います。教材編成の自由があるということは、自分で教材を選ぶことができる。これが僕にとって生命線でした。
神戸大学の教育学部の教官たちが学生たちにつけたい学力として「教科書をつくる力」という目標を掲げたという話を最初にしました。僕ははっきり口にしたことはなかったけれど、内心自分なりに教科書を作りたいと思い続けていたのだ、と今なら結論付けることができます。ただ、これは特に定時制にきて、見方が少し変りました。一時、漱石や鴎外が教科書から消えると騒がれ、その反動として「理想の教科書」などということが言われ、雑誌などで特集が組まれたことがありました。でも、それを読んでいて気がついたことがあります。「理想の教科書」というのは「誰にとって理想なのか」ということです。その点が問われていない、見落とされているということです。「理想の教科書」と言いながら、その論者の好みが開陳されているだけなのです。教科書の読者である高校生のことが視野に入っていない、具体的な現代の高校生、さらに個別の高校生が視野に入っていない。
僕は「理想の教科書」などというものを語ること自体「机上の空論」、「学者の暇つぶし」にすぎないと思います。現場の教師にとっては、問題は「今自分が教えている目の前の生徒にとってふさわしい教材は何か」という設定になるはずです。
同じ一つの作品をやっても、ある学校でうまくいっても、別の学校ではうまくいかないということがある。同じ学校でも、ある年と別の年では生徒の反応が違う。そもそも同じ教室内でも、ある生徒にとっては面白いと思える教材が、隣の生徒の興味をひかないということもある。
僕は選択現代文で、一時間に二つないし三つのエッセイを読ませて、自分が興味を持ったエッセイについて自由に論述せよという授業をやったことがあります。
何を教材として選ぶか、これを考える場合、三つのことを問わなければなりません。教材の価値は、この三つのものの掛け算で出てくる、そう言えるのではないかと思います。
a 教材の文化的・歴史的な価値
b 生徒にとっての価値(どんな生徒に語るか)
c 教師自身の価値観・メッセージ
a「教材の文化的・歴史的な価値」というのは一番わかりやすいでしょう。いわゆる古典的な教材、これまで実践が繰り返されて、一定の評価が確立しているような教材の持っている価値です。漱石の「こころ」とか中島敦の「山月記」とか、古文なら「源氏物語」「枕草子」「徒然草」とかには、文化的・歴史的な価値が大きいと多くの人が認めるでしょう。
b「生徒にとっての価値」とは別の角度から言えば「どんな生徒に語るか」という問題です。僕は大学生の時に、猪野謙二先生に紹介していただいて、東京まで、日本文学協会の荒木繁先生を訪ねたことがあります。そのとき荒木先生は鴎外の「舞姫」もいわゆる進学校の生徒と底辺校の生徒では受け止め方が違うということを話してくださいました。底辺校の生徒は、だからエリートは信用できないというように主人公を突き放して、批判的に見る。しかし、エリート校の生徒は、太田豊太郎を我がこととして受け止めるというのです。つまり、文化的・歴史的価値があると考えられる作品でも、生徒にとって持つ価値は異なるということです。
c「教師自身の価値観・メッセージ」というのは、自分が定年退職を前にして強く意識した点です。たぶん、これまでもそれなりに自分の価値観・メッセージを作品を通して伝えたかったのだと思いますが、退職するという時期に直面して、これだけはこの子たちに伝えておきたいという思いが強くなりました。
教材をいかに理解し、いかに授業するか、ということの前に、我々には考えるべきことがある。それは、そもそも「何を教材にするか」という問題です。多くの実践記録・実践報告は、何を教材にするかという問題を、スルーしているのではないか、そう感じることがあります。何故その教材なのかを自分に問うことをせずに、作品論を展開したり、授業の方法だけを論じたりしている。そんな傾向が強い。「定番教材」といういい方、僕は好きではないけれど、「定番教材」に甘んじている。
さっき述べました、三つの価値、「教材の文化的・歴史的な価値」「生徒にとっての価値」「教師自身の価値観・メッセージ」それぞれの軸がある。そういう三次元の空間の中で、この教材がどこに位置するか、を考えなければならないと思います。教材のベクトルといってもいいし、三つの価値の掛け算といってもいいけれど、教材の価値は複合的なものです。それを測ることです。
何を教材として選ぶかということが「授業をつくる」上で、最初の、そしておそらく最大の問題だと思うのです。
【教材づくりの材料をさがす】
夜間定時制で授業をするために、最初は教科書を使っていましたが、あまり使えるものがないと思うようになりました。
そこで、自分で教材づくりをするための材料をさがすことにしました。
まず、これまでの全日制での授業実践の中で、定時制でも使えるものを探しました。自分の手持ちの財産の活用ということになります。『サラダ記念日』や東淵修の詩「いちのへや」などがそれにあたります。
二つ目は、いろんな教科書からもらいました。実際にやりながら、これなら興味を持って話を聞いてくれる、授業ができるというものを少しずつストックしていきました。いくつかご紹介しますと。
・辻まこと「拾う」筑摩書房
・沢木耕太郎「鉄塔を登る男」明治書院他
・宮沢章夫「わざわざ書く」教育出版
・あわやのぶこ「空飛ぶ魔法のほうき」大修館
・永井愛「男言葉と女言葉」教育出版
・玉手英夫「クマに会ったらどうするか」尚学図書
・竹西寛子「神秘」右文書院
・佐藤雅彦「中身あてクイズ」三省堂他
三つ目は研究会に参加して、材料のヒントを見つけるということがありました。具体的には、日本文学協会の夏の国語教育研究集会で、村上春樹「バースディ・ガール」が中学の教科書に読物教材として入ったということを知りました。僕は村上春樹の小説は好きで、ほとんど読んでいたのですが、この短編の存在は知りませんでした。村上春樹は翻訳家としても活躍しています。村上春樹翻訳ライブラリーというシリーズがでているほどです。その中に、『バースディ・ストーリー』という短編アンソロジーがあります。「バースディ・ガール」はそのアンソロジーの最後に収めるために村上春樹が書き下ろした短編で、この翻訳ライブラリーでしか読めない。そんな事情があり、気づいていませんでした。一読して、おもしろい、授業でやりたいと思いました。07年1月以来、何度か「バースディ・ガール」をやってきました。少し長めの教材になりますが、生徒も興味を持って読んでいました。
四つ目は、自分の関心に基づいて、新しい教材、単元を組み立てるというものです。これは自分のふだんの読書などから、思いつくわけです。例えば、
安藤百福「カップヌードル」(モノ誕生「いまの生活」晶文社)、「文学にあらわれた夢」(万葉集から村上春樹まで)、
吉野弘「亥(い)短調」+絵本「十二支のはじまり」(岩崎京子/二俣英五郎)07年1月
鈴木敏夫「仕事道楽 スタジオジブリの現場」08年9月
などがそれにあたります。今お話しましたのは、教材の材料をどこから探すかですが、今度は同じことを、角度を変えて、どんなテーマのものを探していたかを、ざっとお話します。
【生徒の現状に即した教材、興味をひく教材】
宝塚良元校の生徒の六割ほどは、アルバイトをしています。その多くは、コンビニ、マクドナルド、ミスタードーナツ、ガソリンスタンドなどです。教材として、①「働くこと」を考えるきっかけになるものを扱いたいと思いました。沢木耕太郎「鉄塔を登る男」、安藤百福「カップヌードル」などです。ほかにも「地下足袋」、「スペシャリストになりたまえ」がこれにあたります。
さきほど述べましたように、家庭環境が複雑で、片親の家が多い。生徒自身も若くして親になる場合が多い。在校中に妊娠している生徒が複数いた時もあります。卒業してすぐに出産というケースもありました。十代で結婚し、すぐに別れるという子もいます。とにかく、セックス、妊娠、結婚などに対して、敷居が低い。そういう中で、②「家族・親子をみつめる」というテーマを扱いたいと思いました。落合美恵子の《「家族の世紀」を超えて》、東淵修の詩「いちのへや」、吉野弘の詩「I was born」、データを読む(パラサイトシングルを扱っています)などを取り上げました。
三つ目に、不登校・いじめの問題を経験して、コミュニケーションの苦手な生徒が多いので、③「コミュニケーションとは」ということを考える教材を探しました。鷲田清一「聴くという行為」、鈴木敏夫「仕事道楽」、永井愛「男言葉と女言葉」などです。
四つ目は、定時制に限りませんが、柔軟な物の見方、広い考え方への導きになるようなもの。④「物の見方、考え方を新たにする」というテーマで、佐藤雅彦「中身あてクイズ」、竹西寛子「神秘」などがそれにあたるかと思います。
五つ目は、古典です。定時制の生徒は、大きくくくれば「低学力」ですし、大学進学を考えてない。だから古典なんかやる必要がないという考え方があります。それより漢字の勉強をさせた方がいいという。僕は、それは違うだろうと思います。定時制の生徒はこれから先、もう古典に触れる機会がないかもしれないからこそ、高校で古典を教えるべきだ、そう思いました。但し、いわゆる文法学習などはやっているだけの時間もないし、さほど意味もない。それで僕は⑤「古典作品をやさしく」紹介するという途をとりました。具体的には、一年では、暦のことを教え、徒然草の「友とするにわろきもの七つあり」という段と「高名の木登り」の段をやります。
二年では、三浦佑之訳「口語訳古事記」を使って「古事記の世界」を紹介します。具体的には、イザナキの黄泉の国訪問、スサノヲとアマテラス、ヤマタノヲロチ、オホクニヌシなどです。三年では、六条御息所を中心に「源氏物語の世界」を。漢文では「史記の世界」。近代文学の古典ということなら、宮澤賢治の「注文の多い料理店」、夏目漱石の「夢十夜(第三夜)」をやります。
最後に六つ目になりますが、新しい作品もやりたい。⑥「最新作品を楽しく」というテーマです。鈴木敏夫「仕事道楽 スタジオジブリの現場」(2008年)、村上春樹「バースディ・ガール」などがそれにあたります。
【どんな方法で授業するか】
どんな方法で授業するかという、問題に移ります。
まず、これは定時制に限らず、これまでどの学校でもやってきたことです。
《① 教師の一方的な講義(知識や自分の解釈のおしつけ)ではなく、生徒の反応・応答・対話を求めて(教材を間にはさんで生徒と話をする)、授業展開を組み立てる。》
生徒との応答を軸にして授業をしていくのは、生徒の反応に大きく依拠します。ですから、授業がうまくはずまないこともありますし、その日その時の生徒の反応にうまく対応できるか、どうか、なかなか難しい。でも生きた生徒を相手にしているのだから、思いがけない反応にも出会えるし、自分もその教室でどう言えば伝わるかを、模索しながら話すことになる。ライブ感が命です。
二つ目は、定時制、というか宝塚良元校独特のことになるかもしれません。ここに転勤した時に、こんな説明を受けました。
この学校では生徒にノートを持たせてない。その代わり全員にファイルを渡し、プリントで授業をしている。最初はとまどいましたが、今ではすっかりこのやり方になれました。そして、この授業で使うプリントをどう作るかが、授業づくりの上で重要な位置を占めるようになりました。
《② 誰もが授業が理解でき、見返すことのできる授業書(プリント)を作る。(深い内容を易しく語るためにはどうすればいいか)問いを絞り込み、やさしく砕く。(本質的な問い、具体的な問いへ)》
僕のプリントは、たいがい「原文、漢字、語句の意味、設問」という組み合わせでできています。 小さな工夫ですが、漢字の学習では、四倍角の大きさの活字を使っています。これは年配の方には小さな文字が見にくいということもありますし、画数の多い漢字はたとえば10・5ポイントではつぶれてしまうからです。ですから、進出の漢字については、大きな活字で表示しています。
この授業のプリントは少しずつ改訂していますが、見返してみると、初期の頃は設問が漠然としてたり、細かなことにこだわっていたり、そんなことに気づくと修正しています。最初は、あれもこれも訊こうとするのですが、次第に何を授業で取り上げるか、どう設問すればいいかが、はっきりしてきます。
三つ目は、この十年、定時制高校で授業してきて、一番工夫した点です。
《③ 教材を支える補助教材を選ぶ。(板書と説明だけでなく)》
45分の授業を生徒は五コマ受けるというのは、昼間アルバイトをしている子にとっては大変なことです。
45分間、教師のことばによる説明、板書だけどやりきろうとすれば無理が出る。緩急をつけながら、違うテンポ、違う局面を組み合わせながら授業するべきだと思います。
僕の経験からいえば、15分くらいの授業のユニットを3つ組み合わせるのがいいのではないかな。もちろん厳密なものではありませんが。
【視聴覚教材を使う】
で実際にはどんな工夫をしたかと言いますと、まず徹底的に視聴覚教材を使いました。
例えば、朗読テープ・CD。宮澤賢治の「注文の多い料理店」なら長岡輝子、夏目漱石の「夢十夜」なら鈴木瑞穂の朗読テープ・CDを、使いました。もちろん、僕も教室で音読するのですが、CDラジカセを持ち込んでいくと、生徒も何を聴くのと、ちょっと興味を持つ。長岡輝子の朗読は東北訛りのものですので、特に面白い。それから、「I was born」なら吉野弘の朗読テープを、「いちのへや」なら東淵修の朗読テープやDVDを使いました。作者自身がどんな声で、どんなリズムやイントネーションで読んでいるのか、というのは大人でも興味を持つと思います。
それ以上によくやったのは、ビデオ・DVDの利用です。宝塚良元へ来たばかりの頃は、ビデオ・プロジェクター・スピーカー・パソコンなどを教室に持ち込んでいました。配線やなんかが結構ややこしくて、時間がかかりました。数年前に、不況対策か何かで、全校に五〇インチの液晶テレビが複数台導入されました。金の無駄遣いや、そんなん誰が欲しいというたんや、などと文句を言っていましたが、実際に入ってくると、情報処理の先生は別にして、一番利用しているのは国語科の僕でした。
例えば、沢木耕太郎の『彼らの流儀』という本に、「鉄塔を登る男」という一編があり、複数の教科書会社がこの話をとっています。東京タワーの一番上でチカチカしている赤いランプ、航空障害灯を年に一度交換に行く男の聞き書きという体裁の文章です。この話がとても面白い。僕はどの学年でも、授業で取り上げています。ただ東京タワーのてっぺんがどうなっているのか、一応説明はされているが、具体的なイメージとして思い描くのは難しい。そこで何か補助になるものはと探していて、NHKの『プロジェクトX』の一編「恋人たちの東京タワー」を見つけました。ちょうど最終局面で、巨大なクレーンで一番てっぺんのアンテナを釣り上げて行くシーンがある。そして組みあがった所も出てくる。これを見せればいい。時間に余裕のある時は、この「恋人たちの東京タワー」を二回ぐらいにわけて全部見せますし、時間のない時は、何箇所か抜粋して見せる。そんな風にしてきました。
また、安藤百福の「カップヌードル」、これはカップヌードルがどうして生まれたか、商品化までの試行錯誤を社長の安藤さんが書いたもので、面白いものです。これはけっこう分量もあるので、どこを採り、どこを削るか、何度か試しながらやりました。僕の開発した教材です。この授業をする時には、『プロジェクトX』の「魔法のラーメン」を見せます。そして、教室にカップヌードルを持ち込んで、カッターで実際に、カップを縦に切って見せる。これは、麺をカップの中に宙づりにして固定させている、という記述が本当かどうかを、実証してみるわけです。カップを切ったあと、生徒はたいてい、そのカップヌードルの中身どうするの、と聞いてくるので、今夜の夜食にすると答えるようにしています。
「古事記」をやっている時は、東映動画『わんぱく王子の大蛇退治』を見せます。漢文で史記の「鴻門の会」をやる時は、『そのとき歴史が動いた』の「項羽と劉邦」を使います。
「源氏物語」なら、瀬戸内寂聴の「源氏物語の女性たち」という連続十二回の講義の、六条御息所の回を使います。ちょうど源氏千年紀ということでNHKが「私の源氏物語」というスペシャル番組を作りました。ご覧になりましたか。源氏物語が、「あさきゆめみし」を初め、いくつもマンガになっているとか、ケータイ小説にもなっているという辺りを生徒にも見せました。
「注文の多い料理店」の時、長岡輝子の朗読を聴かせたという話はさっきしましたが、授業の最後では、アニメ「注文の多い料理店」を見せます。これは音楽や音はあるけれど、セリフがない、なかなか芸術的な仕上がりの作品です。
「夢十夜」は「第三夜」(自分の子どもがめくらになっていて、それを捨てに行こうとする話)を、授業でやったあと、「第六夜」(護国寺で運慶が仁王を彫っているので見物に行く話)をまず文章で紹介し、映画『ユメ十夜』の第六夜を見せます。この『ユメ十夜』は十人の監督が一話ずつ監督したオムニバス映画で、出来にばらつきがある。この中で松尾スズキが監督した第六夜が洒落ていて、僕は一番好きです。で、こんな風に映画化したものがあるんだけど、と紹介して見せます。漱石の原作のセリフなどは結構活かしながら、地の文にあたる所は、パソコンで文章を打っていたりする。いかにも、ネット社会の文体に変換されている。あるいは、登場人物のセリフは日本語だけど、英語字幕が付されているとか。運慶が、ゴーグルを付けて、ストリートダンター風の格好で出てきて、踊り始める。そのダンスがなかなか魅力的です。主人公・語り手は阿部サダヲだと思いますが、エンドロールでは別の名前になっています。とにかく、漱石の原作のなぞり方と現代的な翻案の飛躍ぶりが素晴らしい。古典作品の映画化の一つのあり方を示唆していると思います。これを見た生徒は、「先生、これめっちゃ面白い」と絶賛する子と、「訳わからん」と投げだす子がいます。
このほか、教室でユーチューブを見せたりもしました。竹西寛子の「神秘」では、ヒラメやカレイの目の異動が話題になるのですが、そのついででヒラメの捕食行動(海底の砂地に隠れていて突如飛び出す)なんてビデオがアップされていたので、使いました。寺山修司の「日本童謡詩集」では、寺山修司の写真、カルメン・マキの「時には母のない子のように」、「田園に死す」の予告編、ジャイアント馬場のプロレスシーンなどを見せました。
【実物も持ち込む】
視聴覚教材だけでなく、実物を持ち込むこともあります。カップヌードルの話はさっきしましたが、それ以外でも、「神秘」では冷凍のカレイを買ってきて、見せた。生まれたときは普通の魚と同じような形なのに、目が異動して、左ヒラメ、右カレイになる。で、実際のカレイを見てみて、目が右に移動したということを実感させた。
「地下足袋」という教材の場合は、地下足袋を買ってきて、こんなものだと示す。(これは授業のあと、使うこともなくも処理に困ってしまいましたが)
【一年間の授業】
一年間の授業の組み立てがどうなっているか、2008年の2年生の場合、次のようになります。
教科書は教育出版の国語表現Ⅱ。この教科書教材をA、他の教科書教材をB、独自に作った教材をCと表示しています。
2008年度・2年国語表現Ⅱ(3単位)
学期
教材
作者
備考
1
中間
鉄塔を登る男
沢木耕太郎
B明治他+DVD
聴くという行為
鷲田清一
A教出
中身あてクイズ
佐藤雅彦
B三省堂、『プチ哲学』
1
期末
「家族の世紀」を超えて
落合美恵子
A教出
いちのへや、にいのへや
東淵修
C+朗読テーブ+DVD
I was born
吉野弘
B第一他+朗読テーブ
2
中間
仕事道楽
鈴木敏夫
C+DVD+インターネット
地下足袋
小泉和子
A教出+実物
カップヌードル
『モノ誕生いまの生活』
安藤百福
C+カップラーメン縦切断実演+DVD
2
期末
データを読む
A教出 パラサイトシングル
古事記の世界
C+DVD
注文の多い料理店
宮沢賢治
B桐原+朗読テープ+DVD
3
男言葉と女言葉
永井愛
B
神秘
竹西寛子
B右文+カレイ実物
バースディ・ガール
村上春樹
C
『バースディ・ストーリーズ』
【教材をつくる】
今日は、「授業をつくる」というタイトルで37年間を駈け足で振り返ろうとしてきました。そろそろゴール近くまで来ましたが、どうしても話が骨組みだけになって、うまく伝わらなかったかもしれません。それで、いくつか少し丁寧に話しておきます。
まず冒頭で伊崎先生から「定年を控えてどんな気がするか」と問われて、どんな風に答えたかを話しました。
僕は「授業をつくる」というのは、「教材をさがす」ということから始まると思います。でもそれは、こんな教材はどこかにないか、という風に、それこそ目をさらにしてあちこち「探す」というのとはちょっとニュアンスが違う。もっとゆったりしているというか、待っていると偶然向こうの方から飛び込んでくる、そんな感じを持っています。具体的に二つお話しします。
ある年の正月、何気なく新聞を見ていたら、毎日新聞の余録(コラム)に、吉野弘の詩の引用があった。それは「亥短調」という詩で、ちょうどこの年がイノシシ年なので、それを引用しながら文章を書いていた。後半の部分、経済云々は僕にはどうでも良かった。が、「亥短調」は面白いと思った。それで、詩集を引っ張り出して探しました。ありました。「漢字喜遊曲」というシリーズの一編で、僕も昔読んだはずです。でもその時は、ああこんな詩もあるんだくらいで通り過ぎた。ところが、今年はちょうどイノシシ年、よしこれを紹介しようと思いました。これには、実は別の要因も働いていた。定時制の漢字の指導と、古典の基礎の指導が関係していたのです。
まず、古典については、徒然草、古事記、源氏物語を紹介する程度なのですが、それでも基礎的な事項として「暦」のことは触れます。十干十二支、それが例えば年号に使われること(丙午、壬申の乱、戊辰戦争、辛亥革命、甲子園など)、また十二支が方位(巽の方角とか)や時刻(午前、午後、丑三つなど)に利用されることなどです。そうした一連の中で「十二支のはじまり」という絵本をプロジェクターで投射しながら、読み聞かせします。そして、十二支を確認、「子、丑、寅、卯、……」。それは普通の動物の漢字なら「鼠、牛、虎、兎、……」になることの確認。そういうことを必ず一年生の一学期末くらいにやってきた。だから、いくぶんか「亥」に対する思いもあった。
もう一点、何故僕が吉野弘の「亥短調」を教材にしたいと思ったかという理由がある。それは定時制に来てからの僕の漢字指導と関連があります。昼間の学校に勤務している時には、漢字指導なんてそんなに丁寧にやっていませんでした。新しい漢字は生徒も自分で覚えていく。ところが、定時制では、小学六年程度の漢字もおぼつかない子が何人もいる。どうしようかと考えました。やみくもに練習、練習というのも芸がない。それで小学校の漢字指導の本をいくつか読んでみました。その中で最も参考になったのは、宮下久夫『分ければ見つかる知ってる漢字』(太郎次郎社、2000年)でした。これは白川静さんの研究成果を、漢字指導に生かそうとしたもので、とても啓蒙されました。その中で一番利用したのは、形声文字は「音記号」と「意味記号」にわけることができる、ということです。例えば、「園、遠、猿」という漢字の共通部分が「えん」という音記号で、それ以外が「意味記号」(部首)です。僕はこれを利用して漢字練習ブリントを作りましたし、授業で新しい漢字について教える時も、そのことを意識して話しました。
ですから、吉野弘の「亥短調」はこの漢字学習法をそのまま適応していると言えるのです。もう一度あらためて、漢字の成り立ちを意識化させることができる。
亥(い)短調 吉野弘
刻(時)の中の亥
あと戻りしない光陰の猪
咳の中の亥
口からほとばしる突風性飛沫、無粋な!
孩(がい・幼児)の中の猪
子供を衝き動かしている、大人への成長願望
駭(がい・驚き)――
猪突、馬との鉢合わせ
該――亥語辞典によれば
亥の性質にして他にも該当すること、例せば
「人語の雑食性」・外国語より流行語、隠語
廓語にいたるまで、健啖にして該博
核の中の亥
物の核心に亥がひそむ
細胞核には遺伝子をになう猪
原子核には原子力をになう猪
いずれも今は人に飼いならされているけれど
いつまで、おとなしくしていることか
この詩に出てくる「刻、咳、孩、駭、該、核」という漢字には亥(猪)が含まれています。さっきの言い方でいえば、音記号「亥」と、意味記号(部首)でできている漢字ばかりです。猪という動物の猪突猛進性、雑食性、とそれぞれの漢字の意味とを考査させて、機知にとんだことばを生みだしている。一種の言葉遊びの歌で、なかなか洒落た詩だと思います。僕はこの詩の最後の連がどんな意味なのかを生徒に問いました。もちろん遺伝子組み換えの危険性、原子力の危険性を示唆したもので生徒もわかっていましたが、2011年3月11日以後、福島の原発事故を経験した(その終息の見通しもつかない)日本では、この詩はもう、洒落た詩だねと、余裕を持って眺めることができなくなりました。
この詩を授業したのは、2007年(亥年)の一月です。あの時はベストなタイミングだったと思いましたが、残念なことにこの詩は十二年に一度しか使えません。
【仕事道楽について】
教材が向こうから飛び込んでくるという経験をもう一つお話します。鈴木敏夫『仕事道楽 スタジオジブリの現場』(2008年7月、岩波新書)です。
僕は、スタジオジブリのアニメは、ある年代から国民的な基礎教養になっていると思っています。宮崎駿の『風の谷のナウシカ』が劇場公開されたのが1984年、ざっと30年前です。僕はほとんど何の予備知識もなしに、劇場で見て、そのあまりの素晴らしい出来栄えに驚きました。それ以後、宮崎駿は『となりのトトロ』『天空の城ラピュタ』『魔女の宅急便』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』などの傑作を作り続け、これらはテレビでも繰り返し放映されてきました。ですから30歳より若い世代で、スタジオジブリ、宮崎駿のアニメを一本も見たことがないという人は、たぶんいないのではないでしょうか。
スタジオジブリの中心には、二人の監督と一人のプロデューサーがいます。二人の監督というのは、宮崎駿と高畑勲です。この二人は東映動画からの同志で、高畑勲が先輩になります。高畑勲の作品には『火垂るの墓』『おもいでポロポロ』『平成狸合戦ポンポコ』などがあります。ジブリのもう一つの顔、もう一つの系譜です。ジブリのプロデューサーが鈴木敏夫です。
この『仕事道楽』が出たのは2008年7月、帯に「いつも現在進行形。面白いのは目の前のこと。今はポニョ」というコピーがついています。新作の『崖の上のポニョ』公開直前でした。一読して、これを教材にしようと思い、9月になって二学期最初の授業として、とりあげました。
「これは7月に出たばかりの本なんやけど、きっとここ数年のうちに中学か高校の教科書に採られるはず、それぐらい面白いし、優れた内容の作品です。これを日本で一番最初に授業するのは僕で、日本で一番最初に授業を受けるのは君達や」と大風呂敷を広げて、授業に入りました。
新書一冊全部を教材にはできません。どこを採るか選択しないといけない。で僕は、《第4章「企画は半径3メートル以内にいっぱい転がっている」-宮崎駿の映画作法―》から、「なにげない会話から発想を得る」「これでサツキは不良にならないよね?」「トトロをめぐる記憶」の三つの節を採りました。(参考資料を見てください)
「なにげない会話から発想を得る」は『千と千尋の神隠し』のモチーフが、鈴木さんが宮崎さんになにげなく話した、キャバクラ好きの青年の話から生まれているというエピソードです。その青年はこう言った。
「キャバクラで働く女の子はどちらかといえば引っ込み思案の子が多く、お金をもらうために男の人を接待しているうちに、苦手だった他人とのコミュニケーションができるようになる。お金を払っている男のほうも同じようなところがあって、つまりキャバクラはコミュニケーションを学ぶ場だ」
話した鈴木さんはすぐに忘れてしまったのに、宮崎駿はこの話を面白いと思い、作品のモチーフにした。とんでもない世界に放り込まれ、まわりとつきあうためにコミュニケーション能力を成長させていく千尋と、思いの伝え方がわからず暴れてしまうカオナシは、実は裏返しの関係だというのです。
このエピソードは、「キャバクラ」ということばにひっかかって、たぶん教科書会社は採らないだろうと思うんです。でも僕にはこのエピソードはとても興味深いし、生徒の関心も引き付けることができるはずです。まあ、うちの生徒の中には、お姉ちゃんがキャバクラで働いてるという子もいますし、「キャバクラ」なんてことば自体にはあまり抵抗がない。
「これでサツキは不良にならないよね?」は『となりのトトロ』の姉サツキをめぐるエピソードです。絵コンテの段階で、鈴木さんはしっかり者でなんでも完璧にやっているサツキを不自然だと思って、「こんな子がほんとうにいるわけがないじゃないですか。」「こんなことを子どものうちから全部やってたら、サツキは大きくなったとき不良になりますよ」と言ったら、宮崎駿が本気で怒った。宮崎駿は子どもの頃お母さんが病気がちで自分が兄弟みんなのご飯を作ったりしていた。それで理想化したサツキを作り出した。鈴木敏夫と宮崎駿はサツキの描き方をめぐって対立する、ケンカするんですね。ところが、ある日、「鈴木さん、見て」と言って、絵コンテを見せる。お母さんが死ぬんじゃないかと心配してサツキが泣くシーンです。「お、ここで泣くんですね」と言うと「泣かせた」と言う。「鈴木さん、これでサツキは不良にならないよね」「なりません」と言うと宮崎駿が「よかった」と喜ぶ、という話です。
「トトロをめぐる記憶」は、『となりのトトロ』が出来て行く過程のエピソード。最初は冒頭からトトロが登場して大活躍する案になっていたが、鈴木さんが「ふつうはまんなかで登場ですよ」ということばで、まんなかに出すことになった話とか、宮崎駿が高畑勲の『火垂るの墓』を意識して、「おれも文芸をやる」と言いだし、ネコバスやコマに乗って空を飛ぶシーンを削りそうになり、鈴木さんは困ったけれど、高畑の「もったいないじゃないですか」という一言で、元の案に戻ったというエピソードです。
これらのエピソードはどれもとても面白いものです。『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』の舞台裏、創作のエピソードは、高校生にとっても興味深いだろうと思います。我々は「完成した作品」を観ているわけですが、作っていく過程では、作品は極めて流動性が高いものだということがこうしたエピソードを読むと、よくわかります。そして、監督とプロデューサーの関係、宮崎駿と鈴木敏夫の関係も面白い。天才的な監督が、現場で絶対的な力をふるうというより、鈴木さんの一言で宮崎さんがコロコロ作品を変えていく、プロデューサーが監督の作品創造の媒介になっていることがよくわかります。何よりも、宮崎駿という人物が、子どもっぽくて、純粋で、とても魅力的です。
僕はこれらのエピソードは授業をする側としても、いろいろに発展させていける、膨らませていけると思ったのです。コミュニケーション一つをとっても、思いの伝え方がわからず暴れてしまうカオナシというのは他人事ではないはずです。
あるいは、「良い子であること」の問題性について語ることもできます。授業では、何故鈴木さんは「こんなことを子どものうちから全部やってたら、サツキは大きくなったとき不良になりますよ」と行ったのだろう、という設問を出しました。生徒は自分に引き寄せて、自分のことばで答えてくれます。例えば、こんな所に高校生との対話のとば口があると思うのです。
生徒にとっても、この文章を読むことで、自分たちがよく知っているよく馴染んでいるジブリの作品が、これまでとはちょっと違って見えてくるはずですし、いろいろなことを考えていくきっかけになるはずです。
授業の時には、必ず『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』のビデオの一部を見せます。廊下から、若い女の先生がずっとのぞいていたこともありました。やっぱりジブリ好きなんですね。
ユーチューブに接続して鈴木敏夫がテレビに出演している場面を見せたこともあります。自分一人では設定が難しいので、若い先生に頼んで、教室でもインターネットに接続できるように設定してもらい、パソコン・大型液晶モニターでユーチューブが見れるようにしました。
川西明峰時代には、教育の世界で進行していく「情報化の流れ」に居心地の悪い思いをしましたが、宝塚良元に来てからは、情報機器に対する対し方が少し変わりました。学校で自分用のパソコンが一台貰えたので、恐る恐る触ってみて、結構面白いなあと思って、自分でも家用にパソコンを買いました。今は二代目です。そろそろ三代目に買い替えようかと思っている所です。
授業でも、工夫次第で情報機器の利用の仕方があると気付き、自分流ですが、コンピューターを活用できるようになりました。(研究所のHPを作りたくて、ひと夏「ホームページビルダー」を読んで、自力でなんとかホームページを作れるまでになりました。人間やればできるものです。)
【最後の授業をどうしたか】
高校で37年間国語を教えてきて、「最後の授業」をどうしたかという話をしたいと思います。
まず、一年生ですが、今年は二クラスを二人で担当し、半年でクラスを交代して授業をしました。それでA組は二学期の中間以降担当したのですが、三学期は「仕事道楽」を中心にして、本当の「最後の日」には、東淵修の詩「いちのへや」を、授業で紹介しました。
東淵修さんの「いちのへや」については、『現代詩の授業』の中で詳しく書いていますので、興味のある方はそちらをごらんください。 ここでは、実際に授業で紹介した東淵さんの朗読のDVDを見ていただこうと思います。
(朗読DVD)
いち の へや 東淵修
おい ぼうず なんで こないなばんに ひとりぼっちで いてんねや/なにいうてんねや おっちゃん ぼく ひとりぼっちと ちゃうねんでえ
そないいうたかて ぼうず ひとりしか いてへんやんかいな/おっちゃさびしいことないか
ん ようみいな ぼくの ひざのうえ みてみいな
どれどれ みせてみいや/ほら みてみいや ねこが いてるやろがな
ふん ふん ほんまに いてるがな かわいらしいねこやな/ぼく ばんになったら いつも こいつと いっしょやねんで
しやけんど そのねこと ふたりだけやったら さびしいことないか/そらあ さびしいけんど しゃあないねん
なんで しゃあないねんな おかあちゃん どないしたんや まいばん まいばん/そないなこといいな おっちゃん おれへんもん しゃあないやん
まいばん まいばん ぼうず おいて でていって しゃあない おかあちゃんやな/おかあちゃん おこる おっちゃん ぼく きらいや もう こんといてんか
そうか そうか かんにんやでえ おかあちゃんのわるぐち いうてなあ/まあ ええわ かんにん したるわ
ぼうず かしこうに そのねことあそんでるんやでえ
いち の へや で 照る月も 二〇ワットの蛍光灯も
みんな みんな ぼうずに 笑いかけていた
白い顔をした ぼうずの おかあちゃんを
ジャンジャン街のうらどおりで みかけたとき
なんにも いわずに 通りすごし
いっぱいのみやの ノレン を くぐり
水っぱなの塩っからいものをのどに味わいながら
街の光が消えるまで のみつづけた
この「いちのへや」は、この十年間で、僕にとって一番大事な教材の一つになりました。夜間定時制に来て、三年生の授業がなかなか成立せず、困っていた時に、珍しく生徒が関心を持ったのがこの「いち の へや」でした。その時の生徒が卒業後にやってきて話しているうちに、この「いちのへや」のことは覚えていると言ってくれました。たぶん自分たちの世界と繋がる何かを感じ取ったのだと思います。
僕は現代詩のアンソロジーを読んでいて、この詩を見つけて、授業に取り入れました。東淵さんが大阪在住ということもあり、『現代詩の授業』を差し上げると、東淵さんが主宰・編集されている『銀河詩手帖』や朗読のテープを送ってくださいました。それで、昼間の学校でも、その朗読テープを授業で使っていました。宝塚良元に移ってから、ある時インターネットで「銀河詩の家」のホームページを見つけました。そこに東淵さんの朗読のDVDを販売しているという記事があり、手に入れたいと思い、通天閣の近くまで訪ねて行きました。あのネット見たのですが、と購入を申し入れたら、僕のことを覚えていてくださって、「それもろてもらい」といって、DVDはただでくださいました。僕は宝塚良元ではどの学年でも、この「いちのへや」(時間の余裕のある時には「にいのへや」も)を紹介してきました。それで、一年生の「最後の授業」で、この詩を紹介することにしたのです。
二年生の最後の授業について、お話しします。二年生は二クラスとも入学以来ずっと僕が担当していて、自分が宝塚良元でやってきた大事な教材を、二年間でかなり圧縮して、やってきました。それで今年の三学期には、夏目漱石の「夢十夜(第三夜)」、落合美恵子「「家族の世紀」を超えて」をやり、最後の一時間は長谷川集平を中心に絵本の紹介をしました。
「夢十夜」はいつもなら三年生でやるのですが、もうこれでこの子たちと授業する機会もないので、やっておこうと思いました。映画『ユメ十夜』の第六夜も見せました。
「「家族の世紀」を超えて」は、二年生の教科書に載っているもので、毎年必ずやっていました。かなり難しい教材で、たぶん昼間の学校で授業するとしても、補足すべきことが多くて、そう簡単には扱えないと思うのですが、家族をどう考えるべきかという重要なヒントがあるので、この間頑張ってやってきました。
今年の二年生は落ち着きがなく、集中力に欠けて、この教材をじっくりやるのは難しいかもしれない、それで今年は見送ろうかと思ってきたのですが、最後の最後に、やっぱりこれはやりたいと思い直しました。この「「家族の世紀」を超えて」は一種の家族論ですが、「家族」を相対的にとらえる視点を提供してくれます。我々は家族を絶対的に善きものとしてとらえがちです。しかし落合さんは、家族が社会の基礎単位として現れたのは、たかだか二十世紀になってからのことだと言うのです。僕なりに敷衍しますと、日本の場合、江戸時代までは階層によって家族の形態が違う、一人で何人もの「妻」を持つ大名もいれば、生涯結婚もできずに終わる百姓の二男、三男もいる。落合さんによれば、結婚生活も短期間で終了することが多い。キリスト教の縛り(離婚の禁止)がないので離婚に対する抵抗感がなかったし、生別、死別で、結婚生活が二十年も続くということの方がむしろ少なかった。こうした指摘は、「結婚」「家族」を絶対的な価値であるかのように信奉しまいがちな我々に広い視野を与えてくれます。ある時期、夫と妻と二人の子ども、夫は外で仕事、妻は内で家事というのが「家族」の標準形のように考えられ、それにそって社会制度が設計されてきました。しかし、80年代以降、急速に家族の形が変化してきた。それはむしろ自然なことなのだと落合さんは言います。人生には、結婚をしない、結婚しても子どもをもたない、あるいはいったん結婚しても離婚する、などいろいろな選択肢がある。現在、東京の所帯の平均家族数は二人を切ったという報道を最近目にしましたが、つまりこれは一人暮らしの老人もふくまれますが、独身者が増えてきているということです。「「家族の世紀」を超えて」には、ライフスタイル中立性という言葉が出てきます。これはどのような人生のあり方を選んでも、社会的な処遇は平等であるべきだという考え方で、僕はこのことばを知って自分の視野が広がった思いがしました。
僕が高校を卒業する頃に両親は離婚しました。就職や結婚の際に片親だということが問題になるのではないかと母親は案じたようですが、僕は離婚に同意しました。
最初に言いましたように、宝塚良元校では、これは夜間定時制高校全体にいえるかもしれませんが、母子家庭の子が多いのです。経済的な貧しさもそれに起因しているはずです。そして生徒は直接口にすることはありませんが、やはりそのことになんらかのコンプレックス、引け目を感じているのではないかと思います。だからこそ、家族が社会の基礎単位となったのは、二十世紀に入ってからのことだ、という落合さんの考えは是非紹介したかったのです。
最後の一時間は絵本を紹介しました。その中心は長谷川集平です。
長谷川集平は『はせがわくんきらいや』という絵本でデビューしました。これは「森永砒素ミルク事件」の被害者であるはせがわくん(自分自身)を友達の目から描いたものです。単に、社会的な事件を取り上げたからでなく、独特のタッチの絵、見事な画面構成、ユーモラスな語り口などがあいまって、絵本そのものとしての魅力があって、当時評判になりました。版元を変えながらも現在も出版されています。戦後の日本絵本史に残る傑作です。最初の勤務先の舞子高校の文化祭で、クラスの生徒がこの絵本の読み聞かせを演じたことがありました。高校生にも響くものがあったのでしょう。
長谷川集平は、映画監督浦山桐郎の甥っ子なんです。そういう関係もあり、映画に関するエッセイも書いていて、僕は関心を持っていました。絵本に関する理論的な本、『絵本つくりトレーニング』『絵本つくりサブミッション』なども書いています。
『トリゴラス』『トリゴラスの逆襲』『パイルドライバー』などの魅力的な作品もあります。
(ここで『トリゴラス』『トリゴラスの逆襲』『パイルドライバー』などを読みきかせ)
ビデオカメラとプロジェクターを使って、絵本をスクリーンに映し出し、『トリゴラス』『トリゴラスの逆襲』『パイルドライバー』なども読みきかせをしました。
そして、一番最後に紹介したのが、長谷川集平の『小さなよっつの雪だるま』です。この作品は2011年11年に出版されています。これまでの彼の作品に比べたら、極めて素直でストレートなメッセージの伝わってくるものです。一言で言えば、「家族の解体と再生」と言えると思います。僕はこの作品を読んで、まず最初に胸にジーンときました。長崎に住む、父・母姉・そして妹(私)の四人家族の話です。長崎に珍しく雪がふり、ちいさなよっつの雪だるまをつくった。クリスマスの思い出から一転、父が入院し死亡、就職して姉は五島へ、自分は京都の専門学校に通う。そのようにして一家はバラバラになる。京都で知り合った彼と結婚する。ある雪の日、誰かが作ったちいさなよっつの雪だるまをみつける。そして、生まれた子どもをつれて入院している母を見舞いに長崎へ。彼女は子どもに絵本を描こうと思うという話です。
四つの雪だるまが、「父母と二人のこども」をあらわしているのは間違いありません。僕はこの絵本を優れたものだと思いながら、この絵本だけを、生徒に提示することは、できないと感じました。家族賛美の絵本として、受け止められる恐れがあります。この絵本は東北大震災・津波で家族を失った人々に対する、真摯な祈りを込めた作品で(長谷川集平はカトリックの信者です)、単純な家族賛美の本ではないはずだと思います。それでも、この『小さなよっつの雪だるま』だけを読めば、やっぱり家族って大切だよなあ、という安易な感想になだれ込みかねないでしょう。
僕は、この『小さなよっつの雪だるま』を、最後の授業で紹介しながら、その横に落合美恵子の「「家族の世紀」を超えて」を置きたいと思いました。それでその時間の最後に「「家族の世紀」を超えて」で作者が述べていた、「ライフスタイル中立性」についてもう一度語りました。結婚しているかとか、子どもがいるかとか、そんなことによって個人の社会的な処遇が変わってはいけない、という落合さんの考えをもう一度、この絵本の横に並べました。
教室で、ある一つの作品を単独で優れた作品として賛美して読むのでなく、その作品とは別の価値観を持つ作品、別の視野が広がるような作品を並べて読む。その二つが、ある緊張関係を持つ。その中で生徒自身が自分で価値判断ができるような可能性を開いておく。それが大切なことだと思います。
我々教師は、多かれ少なかれ、なんらかの形で自分の価値観を生徒に伝えたいと思って授業をしているはずです。しかし、ここが微妙なところですが、教師が一方的に自分の価値観を生徒に吹き込むというのは、一種のイデオロギー教育で、それは結局のところ生徒自身の力にはならないのではないでしょうか。教師が自分の価値観を持ちながら、それを一方的に押し付けるのではなく、生徒自身が自分の力で自分の価値観を培っていくことができるような回路をちゃんと用意しておく、そんな工夫や配慮が、授業では必要だと思います。
まだまだ、話したいことはあるのですが、ひとまずこの辺りで終わりたいと思います。どうも長時間、お聞き下さいまして、ありがとうございました。
(完)
追記 この原稿は、京都の「土曜日の会」での報告を元にしていますが、テープ起こしではなくて、思い出しながらの復元なので、省略、追加があり、実際の話とは随分違うものになったと思います。また、この原稿そのものが走り書きで、一般の方に読んでもらうには、まだまだ丁寧な、説明や推敲が必要かもしれません。