このページは卓さんが、討議、インタビューなどの場で発言したことばを、そこだけ切り貼りして集めた、一種のスクラップブックです。
⑴「わかち、つたえ」と「パーソナルな(属人的な)知識」 1993
《ところで、「科学教育とは何か」を考えるについても、戦後の民間教育運動あるいは教育実践の研究のなかで重要な論点となってきたものをふまえておきたいと思うのですが……。
なかでも「わかち、つたえ」という論点は、ここで落とすわけにはいかないでしょう。戦後の教育学のなかでは、「近代科学の成立が知を“わかち,つたえ”可能なものにした」と言われてきた筋があるわけです。この“わかち,つたえ”、とは,つまり、知識・技術を、それが現実に運用される場から解き放って、万人に対して、計画的に伝達するということですね。そして、それが可能になる前提には、近代科学技術による「前近代の手わざ文化」の解体があるわけです。
一方、その「前近代の手わざ文化」の世界での知のあり方は、「パーソナルな知識」と特徴づけられていました。強いて訳すなら「属人的な知識」ということになりますが、身体に付属している知、人格にめりこんでいる知というわけです。ちなみに、最近、精神科医の中井久夫さんがこの「パーソナル」を「一身具現的」と訳されているのを見かけましたが、このほうがわかりやすいですね。「パーソナルな知識」とは、己一身が身体でもって体現している知です。これは、知識と技とが融合した知のあり方ですよね。ですから、「かん」や「こつ」として存在し、伝授されるものであったとされます。
この「かん」や「こつ」の伝授と科学的知識の「わかち、つたえ」は、原理的に異なったことがらであるわけです。で、戦後の教育学は、 そうした「わかち、つたえ」の成立に、文化の普及と継承とにおける民主主義の可能性を見てきたと思うのですが、…(略)…。》
※討論「科学する」って、なんだ 科学の授業を検討する(佐伯胖、平林浩、藤本、鳥山敏子、編集部)、『別冊ひと』1993年9月号に収録。
⑵僕の友人、兵庫県の国語教師、藤本英二 1992
《「現代社会」とある意味で似た高校の科目に「国語表現」というのがありますが、その「国語表現」でも大津さんと似た実践をしている人が出てきています。インタビュー、ディスカッシヨン、ロールプレイ、ニュース分析、コマーシャル分析などを実践するんですね。例えば、僕の友人で『ことばさがしの旅』(高校出版)という本を出している兵庫県の高校教師、藤本英二さんですが、彼は、「国語」の授業としてそれをやろうとしているのだとよく言うんですね。彼の場合は、鎌田慧さん編の『仕事』(晶文社)という聞き書き集を教材にして、その文章そのものを読ませる指導をして、さまざまな職業の人にインタビューをさせ、それを聞き書きの形に書き直させることをやっています。似たことを社会科の先生がやったり、進路指導と絡む形でやる場合があって、そういう場合と自分の仕事はどこが違うかをいつも意識させられると言います。言葉の意識や言葉の力がどれだけ育っているかをもっと明示的に出さないと、自分の仕事は国語科の仕事として主張できないと言っているんですね。それを思い出しながらうかがうのですが、大津さんの場合、これは社会科なんだと言えるものは何だと考えられていますか。》
※「学校から社会を見る(報告・大津和子)」をめぐっての討論(大津和子、汐見稔幸、藤田英典、藤本卓、佐藤学、佐伯胖、浦野東洋一、刈宿俊文)、『学校の再生をめざして 3 現代社会と学校』(東京大学出版会1992年2月)に収録。
☆『仕事』とあるのは、正しくは『日本人の仕事』です。(編集工房記)
⑶死者─生者─未生者のともにある意味宇宙コスモス 1998
《 学びの窓
まだ 生まれないこども
誰かの こども
朝になると 笑ってる
朝になると 窓の外で
谷川俊太郎「見えないこども」(一九六三年)
SERI-TOURU TAKEMITU POP SONGS,COCY-78624から
断章をめぐって 藤本卓 Fujimoto Takashi
まったく身勝手な連想かもしれないが、故武満徹の旋律にのせられ石川セリによって唄われるこのポエムが、このところ体のなかで、たとえば、 つぎのような情景と共振して響いている。二百五十年前の西アフリカ、とある村、とある夜、最愛の祖母を亡くして落ちこむ少年に、その父が語りかけている……。
〈オモロは、どの村にも三つのグループの人がいると説いた。第一のグループは現に目の前で歩きまわり、物を食べ、眠り、働いている人たち。第二のグループはご先祖さまたちで、ヤイサおばあさんは今度その中に入ったのである。「そんなら三番目は──いったいどんな人?」とクンタは尋ねた。「三番目はこれから生まれてくる人たちだよ」とオモロは答えた。〉(A・ヘイリー『ルーツ』、安岡章太郎・松田銑訳、現代教養文庫)
こうした意味感覚(センス)をどこかに落っことしてきてしまっていたことに、 いま気づきつつあるのか。かつては私たちも、〈未生(みしょう)の者〉ということばをもっていた。死者―生者―未生者のともに在る意味宇宙(コスモス)への希求なしに叫ばれる「少子化対策」など、いったい何でありうるか。》
※『ひとネットワーク』3、(太郎次郎社、1998年9月)巻頭コラム
⑷教育実践とは「学校」の内部からの〈異化〉の行為 1984
《ぼくが何より恐れることは、既存の「学校」が何ら問われることなく、「登校拒否」生徒の「治療」が行われたり、「隔離」が行われたりすることだ。ぼくは、「登校拒否」生徒を専門的に受け入れている現場での、文字どおり血の出るような苦闘を知らないわけではない。そして、そのような専門施設の必要を否定することはできないと考える。しかし、「登校拒否児用学級(学校)」のようなものを、安易に増加させるようなことがあってはならない。それは、既存の「学校」を支配と差別の機関として容認することにつながるだろう。近年、「学校状況そのものの悪さ」(教師の理不尽で非人間的な応接のしかた、子ども間のいじめなど)が、「登校拒否」の増加の一因となっていると指摘(横湯園子氏)されていることを思うにつけ、ぼくは、「学校」を問い直すことない「登校拒否」への取りくみに疑いをもたずにはおれないのだ。……(略)……
以上、今年の全国教研のレポートを読みながら、生活指導実践にかかわるいくつかの問題について感想を述べてきた。そして、今、筆をおこうとしてふり返ってみると、結局ぼくは、ただ一つのことをくり返し語っていたのだという気がする。すなわち、勝義における教育実践とはつまり、既存の〔制度としての〕「学校」の内部からの〈異化〉の行為なのだ、と。》
※『みんけん研究つうしん』№132 国民教育研究所 1984・5・15
⑸若者組の教育原理 1997
《大人の介人を抑制するような子どもたち同士の人間関係を考えるとき、そのままで我々がモデルにするものではないのですが、子ども世界と若者世界を独自につくっていたものとして、かつての共同体の子ども組・若者組があるただしこの若者組については、細かく具体的に研究すればするほど、地域によっても時代によっても様々な意味合いと、様々な実態をもっていてひとくくりにはできません。しかしかつての若者組の実像が全面的に明らかにならないと何も考えられないわけではなくて、柳田国男を中心につくられた若者組のイージであっても、それがリアリティを持っているのであれば、そこから今の我々を照らし返すことは十分できるだろう。
基本的には、子ども達・若者達は大人に教育されることのみによっては育たないことをつかんだ上でつくられた、前近代の庶民の教育組織であったと言ってよい。若者組は一五歳で組入りすることが多いわけで、これは満年齢で一三か一四ですが、 これは元服式の時期とも重なる。ここに面白い問題があるんです。元服がすむと一人前の大人であるわけですね。ところが若者組は何のためにつくられているかといぅと一人前の村人を育てるためにつくられた組織です。なんでこれから本格的に一人前に育てるべき村の若者達を、その教育機関に入るときに元服させてしまぅのか。私はこの間ずっと疑間に思ってきたのです。ところが今回の準備をしている中で、なんだそうかとわかりまして、わかった上で調べるとそのことを指摘した研究者がすでにいた。ここに一つの「教育原理」が取り出せる。要するに若者組というのは君たちはもう一人前だと宣言した上で、まだ能力的に未熟さを残した若者達を、早く一人前になるよう励ます仕組みを持っていた。これは実は訓練論的生活指導論が根底においてぃる考え方と重なる考え方だったということに気がつきました。「子ども・青年を明確に大人と区別しつつ、同時に嘘でなく大人扱いする」若者組の構造というのはそういう性質を持っているのですね。この矛盾の中にこそ教育の命が宿っているという、こういう発想というのは我々の生活指導運動の中で一番貴重なものではないかと思います。》
※高生研第35回神奈川大会基調討論の記録、「子ども・青年の自治権を本気に考える」の発題、『高校生活指導』1997年秋号
⑹開放系の訓練論と閉鎖系の訓練論 1997
《言葉の問題について一言つけ加えます。開放系の訓練論と閉鎖系の訓練論というのは私の造語です。訓練論の中には我々がとうてい賛成しがたい訓練論もある。それを区別するときに民主的か非民主的かと言うことで区別する、これを否定する気はありませんが、ただもうちょっと構造的にとらえたいと思うのです。自分の願いの立場性で訓練論を区分けするんじゃなくて、訓練論の内部の構造で区別したい。そこで民主的と非民主的伝統的訓練論と言うのに替えて開放系と閉鎖系という言葉を使いたいと言うことなのですね。開放系閉鎖系というのは、その訓練の場である集団が開放的であるか閉鎖的であるか、及びその目標が開放的であるか閉鎖的であるか、昔の若者組というのはむしろ閉鎖的な集団の上に成り立つ訓練論である。だからそれをそのまま生かすことなんてできないというのが我々の立場
ですし、訓練の目標という点でも訓練する前に既定の目標というのがあって、その通りの訓練結果を達成するというのが閉鎖系の訓練論であり、若者組の場合もそうです。ですからその点でも若者組の訓練はそのままでは否定されるべきです。それに対して開放系の訓練論は実は訓練の中で初め自覚されていた目標が乗り越えられるということを構造的に含んでいる。こう考えています。》
※⑸と同じく、高生研第35回神奈川大会基調討論の記録、「子ども・青年の自治権を本気に考える」の発題、『高校生活指導』1997年秋号
⑺竹内常一先生のポートレート(「教育のレトリックの方へ」の冒頭部分)
《はじめに
五十年前、そう、日本の敗戦の年、竹内常一は十歳であった。
以来半世紀、竹内は、この国の教育(論)のいわば最前線に立ち続けてきている。いつまでもなく、最初の十年余りは生徒・学生として、そしてその後の四十年近くを教師および教育理論家として……。
もちろん、同世代の中には、戦時・戦後の経験にてらして、その後の自分の生き方や仕事のあり様を自ら択び続けてきた教師や教育研究者も少なくないだろう。ただ、たとえば著者四十歳の筆になる「幻のコミューンとOff Limits」(本巻序章)を一読してみるだけでも、竹内にあってはいかにそれが真一文字につながっていることか、あらためて強い印象を受けずにはすまされまい。竹内の場合の特徴は、生徒としての経験が、いわばそのまま相似形のかたちで教育理論家としての仕事のなかに引き継がれてきているということだ。
さる年、夏の研究集会の会場、ホテルの廊下を肩をゆすって歩く氏のうしろ姿を遠く見て、ある教師の言うには、「竹内さん、やってるな、(昔できなかった?)ガキ大将!」──もちろん、敬愛あふるる半畳であった。たしかに、戦時・戦後の小学生として、また中学生としてやり残したことを、その後の竹内は、生涯の仕事として実現しようとしてきたようにさえ見える。旧くは、「煮えたぎる湯」のように騒々しい国民学校の運動場をまえにして、「そこに足を突っ込んだら溶けてしまうかに思われ」て立ちすくんでいた幼い日を、登校拒否・不登校の子どもたち・若者たちに心を寄せる今日の日に重ねることもできるだろう。また、“裏番”として「授業などはそっちのけにして、自治活動に熱中し、新制中学校をつくるのに余念がなかった」紅顔の少年の影を、後の「生活指導運動」の敏腕の理論的指導者の姿にダブらせることも可能である。そしてさらに、復活した権威主義と舶来の啓蒙主義のなか、はやくも色褪せてゆく“制度としての教育”に「呼吸困難」な状態におちこんでいった高校時代。だがそのときにはすでに、現在の竹内にまでそのまままっすぐ続く志向が始まっていた。つまり、自らの身体に刻み込まれた戦後民主主義(いわゆる「戦後民主主義」でなく、″焼け跡民主主義″とでも言うほうが相応しいが)の初心を貫くこと、あの闇市の街のぬけるような青空のもとにかいま見た「幻のコミューン」(新制中学校)を奪い返すこと、後に竹内が、その中心的な仕事として展開した「訓練論的生活指導論」とは、敗戦直後の少年の日々の学校創造体験を、教育に携わるべき大人の視圏から追考察したものだとすら言ってもよい。また、いまだ多くは語られていないが、学生時代のさまざまな活動体験が、その後の理論生活の細部にまで直接濃い影を引いているだろうことも、想像に難くない.
まさに、間然するところなき歩みである。》
※《教育のレトリックの方へ──「竹内=生活指導論」の誘い》、『竹内常一 教育のしごと第1巻生活指導論』(青木書店、1995年)
⑻書き言葉文化と話し言葉文化をつなぐものとしての演劇
《……話し言葉の文化と書き言葉の文化、タイプの別な文化が存在している。もともとは話し言葉の文化があって、その上に書き言葉の文化が成り立つわけですが、哲学(ロジック)というのは書き言葉の文化を代表するもの、他方、話し言葉の文化を代表するものとしてレトリックがある、とも言えるわけです。
学校教育は書き言葉の文化の牙城であり普及基地といいますか、すべての子どもに書き言葉の力をつけるということで、それはそれで大事な意味を持っている。ですが、書き言葉が話し言葉の文化と切れたものとして、与えられるという形になっているところを、演劇教育というのはつくりかえる……。話し言葉の文化と書き言葉をつなぎ直す。それが広い意味の教育に期待されているものだろうと、そんな関心で考えています。芸術ではなくて政治(レトリック)だと言ってみたりすることの、おおもとのところで、書き言葉文化を話し言葉文化と結びつけ直すことを考えているわけです。
書き言葉は、誰に対して何のために話しているのかにかかわらず「客観的真理」を、万人に向けて公示するという性質をもっています。それに対して話し言葉というのは、いつもその時、その場で誰かに対してその心を動かそうとして使われるものですよね。言葉の本来のあり方はそういうものだ、文化というのもそもそもそうであるはずで、日常生活で普通の人間が生きていくのとかけ離れた文化のあり方になったのは、書き言葉文化と話し言葉文化の断絶というのが根っこにある。そこをつなぎ直す仕事として、すべてを演劇的に見ようという、そんなことに関心を持っている。……》
「共同研究 どう広げるか──演劇教育」(『演劇と教育』1996年№482)
⑼『教員室』をめぐって
《さて、その山田太一作の『教員室』だが、 一昨年、NHK福岡局制作のテレビドラマとして放映されたものを観た読者は、きっと少なくないことだろう。それが今回、作者自身によって改作され、木村光一演出のもとに舞台にかけられたわけだ。ぼくは、下北沢の本多劇場と一ツ橋の日本教育会館とで二度この芝居を観た。その話からはじめよう。
なんでも中国での〈勉強〉という言葉の古い意味には、「容易には得がたい娯しみを勉め強いて求める」というのがあるそうだが、さしづめ演劇はぼくにとってそのような〈娯しみ〉だ。とはいえ、同じ芝居を二度観るのは普通のことではもちろんない。山田太一と木村光一、この二人の仕事を、今この時期にしっかりとわが眼に収めておきたかったのだ。
たとえば昨年の春から初夏にかけて、週に一度の『教育学』の講義を、ぼくは毎回、山田作のテレビドラマ『ふぞろいの林檎たちⅡ』の進行につれて一頻りしゃべることではじめていた。ぼくもまた、「世間でいう四流大学の学生たちをこれほどいとおしんで描いたドラマをほかに知らない」(島田豊『田箱心と現代』創刊号)。いや、「いとおしむ」という言葉は、むしろ山田氏の拒否するところだ。「なんとか、自分を含めた小市民を罵倒できないか」――この激越もまた氏の持前なのだ(木村氏との対談「素晴らしい平几さはあるか」後掲木村著に収録)。ぼくら日本人の生活と意識に潜む危機と頽廃を、ほとんど日常そのものといえるレベルでの微細な裂け日から撃つ一連の山田作品は、時代への〈批評〉的肉薄と広範な〈共感〉の覚醒との接合が今もなお可能であることを示し続け、ぼくを励ます。そんな山田氏が、「校内暴力」に取材したドラマを、しかも自ら手を入れて舞台にのせるという。ぼくとしては観ぬわけにはゆくまい。》
「時代にかかげる〈鏡〉の角度─『教員室』をめぐって」『生活指導』1985年4月号
⑽教師は芸術家?
斉藤喜博さんの『教師は芸術家だ』(一九五九年)という文章を読んで今回あらためて疑間に感じたのは、芸術家としての仕事を具体的に言うときに、「子どもをつくる」「子ど
もは教師の作品である」という表現をされていることです。はたして、教師は教育の中で作品をつくるという意味で芸術家なんだろうか。
…(略)…
実は、教師の仕事は作品を作る芸術家の仕事ではなく、コミュニケーション行為・対話行為・相互行為というタイプの仕事と考えた方がいいのではないか、と思うんです。
演出家や俳優の仕事についても、完成された作品をつくる芸術家というよりも、直接の観客と交流する演劇人という側面がこのかん強く出てきたように思うんです。制作者としての芸術家ではなく、対話的に相互行為的なタイプの活動をやる仕事。その点で斉藤さんの文章に疑間を感じたんです。
…(略)…
学生に、教師とはどういう仕事かという時、他の仕事と類推させることをやるんです。たとえば説教者(宗教家)、芸人、その延長で演出家や俳優があり、編集者の仕事との類
推もあります。あるいは組織者としての政治家とかね。
もう少し事柄に即して、教育実践イメージを挙げてみると、
①栽培のイメージ……助成イメージ
②職人技芸のイメージ
a純粋芸術(アート)
b工学・生産技術的(テクニーク)
③軍師のイメージ……戦略戦術イメージ
④演劇のイメージ……相互行為・対話のイメージ
と整理できるように思うんですね。
…(略)…
演劇的に教育実践をイメージして議論を進める時には、芸術家のイメージと区別する必要がある。演劇も演劇自体が作り変えられてきた筋を考えれば、作品制作のイメージで考えることには疑間がある。しかしこれまでかなり優れた教育の仕事をされた方でも、作品を制作する芸術家イメージを中心に発想されていた。しかし教育は、もう少し広い意味で人間と人間の間の関係をつくる仕事、作品制作(ポイエーシス)とは違う固有の意味での実践(プラクシス)ではないでしょうか。そういう行為として演劇―教育を押し出していきたい。
共同研究「演出家・俳優と教師の仕事」『演劇と教育』1992年7月号