ここでは、藤本卓の論文やエッセイがじかに読めるように採録しています。
「新日本文学」41(9)、1986年
奴に逢ったら────藤本卓
噂が流れている。どうも本当のことらしい。あるいは以前にもこういう事があったのかどうか、ぼくには定かではないのだが、なんと、近頃あちこちにあのブレヒトが出没しているらしいのだ。
他の街のことは知らないが、この東京では確かなことのようだ。おおかた亡霊か何かなんだと思うのだけれど、最近も、奴に付きまとわれて弱りぬいていると岡安伸治が書いていた(俳優座『セッアンの善人』公演パンフレット)。なんでも、彼の場合、六本木界隈の路上でいきなり奴に出くわしたりするらしい。へたに口でもきこうものなら天皇在位六〇年の写真集とかをつき出しながら「こりゃなんですか」から始まって、「天皇って」「在位って」「赤子って」……と、例の「子どものようなナゼナゼごっこ」で、こっちがヒステリー寸前になるまで責め立てたりするのだそうだ。
いや、ちょっと待て。そういえば、ぼくにも思い当たることがなくはない。新宿のタイニイ・アリスだったか、渋谷のジャンジャンだったかとにかく岡安たち〈世仁下よにげ乃一座〉の芝居のさいちゅう、斜め後ろ二、三列離れたあたりで、声こそ出してはいなかったが、それでも身を捩り膝を叩いて大騒ぎしていたのは、きっと奴だ。舞台の進行に大歓びだったのか、それとも……。とにかく、〈世仁下乃一座〉の芝居がかかっている小屋にブレヒトがひょっこり顔を出す──これははっきりいって嘘じゃない。
ところで、岡安などは奴を見かけたら完璧に無視することに決めているらしい。もちろん付き合うとえらい目にあわされるからだが、まだ一度もつかまったことのないぼくなんか、ちょっとそれを心待ちにしているケがなくはない。それに、話すきかいがもてるのなら、いろいろ訊ねてみたいことがこっちにだってあるのだ。
ひとつは、高校演劇の紋田正博(徳島・日和佐高校)の仕事のことだ。奴のことだからもう知っているかもしれない。もしまだなら、さそって一緒に観てみたいものだ。
それから、ずっと気になっているあのことも。じつは、おそまきながら近頃ぼくは、教育にかかわる自分の仕事のなかに、ブレヒトのことも意識しながら〈異化〉の着想を持ち込むことを試みはじめている。とりわけ、「その辺にざらにある事実」としての〈異化効果〉に関する奴の論述など、ぼくらの仕事にとってもおおいに刺激的だ。(『今日の世界は演劇によって再現できるか』千田訳・白水社)。たとえば、発達心理学の畑でぼくらに馴染みの『……デハナクテ……ダ』の論理──奴によればこれなども「異化効果を用いたもっとも簡単な文章」をなすという。そのほか「どこにでもころがっている」例をつぎつぎ挙げてみせ、これでかの深淵な〈異化〉が異化されたワケダと舌を出すのが奴のやり口なのだ。
ただ、この部分などを読みながら繰り返しぼくの気にかかるのは、かつて国分一太郎らが唱え、いわゆる「生活綴り方的教育方法」の一焦点となった〈概念くだき〉のことだ。最近は出会うことがめっきり減ったこの言葉だが、もう一度こだわって、決着をつけておく必要があるのではないか。〈概念くだき〉と〈異化〉──ぼくの予想ではこれら二つの思想方法は二、三度ねじれて繋っているあるいは繋ってはいるが大きくねじれてだ。そしてそのねじれの具合が摑まれたなら、そのむこうにこの国の近年の社会変貌の深部の様相も連動して捉えることはできないか。
奴に声をかけられたとき、この問題、さてどこからどんなふうに訊ねてやろうか。
(ふじもとたかし)
「新日本文学」41(9)、1986年
女性のひろば 2009年7月号 インタビュー
大東文化大学准教授 藤本卓さんに聞く
「イーディス・ネヴィル小学校」とは
ロンドンのカムデン区にあるコミュニティ学校(地域の公立校)で、 3~
11歳の250人の児童の教育をおこなっている。英国の義務教育は5歳から始
まるが、公的な就学前教育を求める父母の要求に押されて4歳児を受け入れ
るレセプション・クラス、さらにブレア政権時代に|よ、それに先立つ3歳児
向けナーサリー(保育学級)も併設されてきた。全校生徒の5分の4の家庭
が英語以外の言語を話しており、 3分の2が給食費保障の受給資格(世帯の
年収約200万円以下)を与えられている貧しい移民地区(主にバングラデシ
ュ系)の学校である。
「全英で7人に1人の子どもは英語が第2言語」(英紙「デイリ
ーメール」本年3月18日付)──イギリスの首都ロンドンのインナ
ーシティにあるイーディス・ネヴィル小学校などではそうした子ど
もが8割を超えます。最近出版されたこの学校のルポ『あきらめな
い教師たちのリアル』(太郎次郎社エディタス)について、著者で
教育ジャーナリストのウェンディ・ウォラスさんは、「貧困・不遇・排斥・流
離・文化衝突―現代の英国を冒している社会的難問のすべてをその小さな
四壁の内に抱えこみながら、それでもなお元気に前向きな場所でありつづ
けている、ある学校の話です」とその内容を紹介しています。みずからも
同校を訪問し、翻訳した教育研究者・藤本卓さんに、この本と学校からどんな示唆を受け取ったのか聞きました。
日常の姿に惹かれて
教師や学校スタッフと子どもたちの日常の様子がいきいきと描か
れている、ということがこの本に惹かれた何よりの理由です。単純
で一面的な礼賛や批判でなく、イギリスの学校のありのままの姿に
つぶさに触れることができるのです。
しかも、そのイギリスの学校の今日の現実には、意外なほど日本
の学校の現在と通じるところがあります。出版直後この本を読ん
で、「著者・ウォラスさんは私が勤めていたことがある東京・足立
区を取材してこの本を書いたのではないかとさえ思った」という感
想を寄せてくださった元教師の方もありました。もちろん、日本の
学校とは意外なまでに違う、という点もまたあるわけですが…。
いずれにしても、教育の実際にかかわっているさまざまな立場の
人々に読んでいただいて、同じ時代の苦労のなかで、それでもメゲ
ずに生きている仲間の姿を海の向こうにも見つけてはしい、と考え
て訳しました。
地域の親が学校にいっぱい!
イーディス・ネヴィル校に通う子どもたちの第1言語は、累積す
れば30言語に及ぶといいます。今回、確認しただけでもベンガル語
やソマリ語など9つの言語が話されていました。
ですから、入学したばかりのころは、英語が話せない子どもがた
くさんいます。生活の場も狭く閉じられています。すぐ近くを流れ
るテムズ川さえ見たことがない子どもや、家のすぐ近くに大きな駅
があるのに、電車に乗ったことのない子どももいます。インナーシ
ティ(大都市中心部に取り残された荒廃地域)は、“北の世界”の
ど真ん中にある“南の世界”なのです。
こうした子どもたちを教育していくうえで大きな役割を果たして
いるのが、バイリンガル・アシスタントやクラスルーム・アシスタ
ントたちでした。その多くは、もともと専門家として養成された
人々ではなく、地元の住民(元保護者)たちで──以前にイギリス
に移民し、ここで公教育を受けてきた人たちです。
新しい移民の人たちにとって、イギリスで暮らしていくためのサ
ポートは欠かせません。その親たちが一番相談しやすいのが学校な
ので、学校への期待は非常に高いのです。子どもたちが学校で充実
した日々を送ることはまた、親たちに、イギリスで生きていくため
の見通しを与えるわけです。
校長のショーン・オリーガンさんは、学校の外でもしょっちゅう
住民に呼び止められ、さまざまな相談にのっています。そして、ア
シスタントのほかにも、清掃員や調理員など、在校生や事業生の親
族たちがこの学校でたくさん働いていますが、校長は「学校の運営
に親や地域住民が直接かかわることがとても重要だ」と考えている
のです。
問われる日本の学校の近未来
イーディス・ネヴィル校では校内で、とくに幼年期、それぞれの
母語の自由な使用を大切にしています。新しい移民の子どもたちに
とって、第2言語である英語の習得のためにも、むしろしっかりと
した母語の習得が不可欠だからです。また、それぞれの民族のアイ
デンティティーも尊重して、異文化の共存の途をさぐる実験を毎日
やっている、とさえいえると思いました。この学校では、白人英国
人がマイノリティなのです。
日本でも近年、日系ブラジル人や南アジアの人々など、たくさん
の外国人が新たに住むようになりました。しかし、まだまだ全体と
して移民の受け入れ数は世界の先進国のなかでは異常なぐらい低い
のが実情です。しかも、多くの小学校では、日本語を話せない子ど
もは学校になじめず、十分な援助が得られないなど、さまざまな問
題も生じています。
もちろん、イギリスにも問題は山積しているのですが、近未来の
日本の学校が先進国としての責任を教育面でどう果たしていくのか
を考えるうえで、参考になることが実にたくさんあると思いまし
た。
学校給食の惨状と「朝食クラブ」
ところで、しばらく前、私が英国の教育現実に強い関心をもつよ
うになった具体的なきっかけは、「朝食クラブ」の存在でした。朝、
食事もとらずに登校する子どもたちに朝食を提供しようと、とくに
貧しい地域の学校スタッフたちのボランタリーな取り組みとして、
90年代の終わりに始まったものです。
あの「サッチャー教育改革」以来、イギリスの学校給食が惨憺た
る状態になっていることはよく知られています。民営化された給食
は外食産業の利潤追求の場と化して、栄養面からも食文化面からも
荒れ果ててしまったのです。ウォラスさんの本のなかでも子どもた
ちは、「どうしてこんなドッグ・フードみたいなものが出せるの」
と業者に抗議しています。
ですから、最初は、「まともな昼食も出せなくなっているのに、
なんで朝食まで?」と思いましたが、必要に迫られて現場の誰かが
始めたことが広がっていき、しだいに社会制度として公認される
国でもあるのですね。
もつとも、イギリスでもこの朝食給食の動きには「親の無責任を
助長する」といった反感もありますし、むしろこれこそ宣伝の好機
という食品(シリアル)業界の動きもあったりします。しかも、それ
をいちばん必要としている子たちは、この「朝食クラブ」にさえ来な
いという悩みも抱えています。
ただ、私もイーディス・ネヴィル校の「朝食クラブ」に1日だけ
参加させてもらったのですが、質素ながら、とても暖かな家庭的雰
囲気で、子どもたちのようすも和やかでした。
とくにこのあたりなど、教師のみなさんだけでなく、給食職員の
方たちやひろく保護者のみなさんにもぜひ読んでいただきたいと思
っています。
親の85%が「学テ」に反対
教師たちを悩ましているのが算数・英語・科学の全国一斉学カテ
スト(ナショナル・テスト)です。校長は、「自分の学校は学力
テスト工場になんかしたくない」と言っていますが、私が参観した
ときも、とくに試験前の春の学期などには、6年生の子どもたち
は、ほんとうに“静粛”に試験勉強に励んで(励まされて)いまし
た。社会的に不利な立場にあるイーディス・ネヴィル校の子どもた
ちにとって、学力テストでしっかりとした成積をあげることは、自
分たちを社会に認めさせる大事な途でもある、と教師たちも考えて
いるようです。
イギリスではこの間、義務教育の終了まで4回、全国一斉学カテ
ストが実施されてきました。テストの結果が教育省から発表される
と、 マスコミが各種のランキングの形にしてセンセーシヨナルに報
じます。これがリーグ・テープル(学校別成績番付)で、政府は、
「親が子どもの学校を選択するのに役立つ」と正当化してきまし
た。その結果、イギリスの子どもたちはいま世界でも一番、テスト
のストレスにさらされ続けているのです。
しかし、学カテストのシステムは、これまでもさまざまな問題を
起こすたびに議論され、変更されてきました。たとえば05年には7
歳時のテストの実施方法が大幅に緩和され、昨年10月には、14歳時
の学カテストが廃止されました。
11歳時の学カテストについても、私は近く大きな変化があると
思います。ごく最近も全国校長協会のアンケートに8割5分の規が
「学カテストは廃止して教師自身の手による学力評価に切り替える
べきだ」と答えていることが報じられる(TES、本年2月6日
号)など、大きな社会問題になり続けているからです。教員組合は
言うにおよばず、全国校長協会でも抜本的な見直しが必要だとして
いるのです。
日本はイギリスをまねて全国一斉学カテストを導入しましたが、
そもそもイギリスはかつての日本の「学テ」をまねたわけで、その
イギリスさえもはや大幅な見直しを進めている段階でそれをまた日
本が「再導入」するなど愚の骨頂でしょう。まねするのなら、この
“見直しの議論と努力”にこそ学ぶべきです。
教育政策を批判する校長ら
この学カテストやその背景となる全国共通教育課程(ナショナ
ル・カリキュラム)とともに、校長や教師たちに日々重圧をかけ続
けて、ウォラスさんのルポでも“隠れた副主人公”どなっている
ものに、教育水準監査院によるインスペクシヨン(監査)がありま
す。学校等の教育関係機関を視察・評価し、その結果を監査報告
書として大々的に公表する制度で、極端に低い評価を受けた学校
は“閉鎖”を命じられることさえあります。
ところが、この学校に限らず英国の学校に接して私が一番驚いた
のは、校長をはじめ教師たちが、時の政府の教育政策を強い言葉で
公然と批判してもいたことでした。教育委員会にあたる地方当局
にたいしてもそうなのです。もちろん、イーディス・ネヴィル校な
どは、監査報告でも文句のつけようのない実績をあげているからと
もいえますが…。その一方、こうした学校のスタツフたちは、学校
経営・教育実践のリーダーとして校長をとても頼りにしています。
イギリスの校長は、教育行政機関から各校へ派遣されるのではな
く、地域の学校理事会が選ぶのです。具体的な予算や教師の編成、
カリキュラムの細部の運営は、理事会と学校に任されています。す
ぐれた学校では、同じ志を共有する教師たちが協力して教育に携わ
っている、という印象を強く受けました。
しかし、全体としては教師不足の状態が続いており、校長が不在
のままの学校さえあって、英語圏の各国から教師を招いているのが
実情です。教師の仕事はきつく、責任があまりにも重いと感じられ
ているのです。それでも、この学校のスタッフたちは、とりわけて
貧しく困難の多いこの地域の学校での仕事に、“教育者としての手
ごたえ″“を感じているのがよくわかりました。
イギリス政府はこの間ずっと、何でもかでも市場と競争に委ねる
新自由主義路線をとってきています。それでも、さすがに労働党政
権に変わってからは、「シュア・スタート施策」など貧困地域での
子育て支援への財政投入を増やしてきました。それはそれでまた全
階層をまきこむ競争・管理の政策でもあると私などは考えるのです
が、各地域では、この学校のように、上からの中央統制的な競争誘
導を、現場で“共同主義”の方向に切り替えるという努力が地道に
続けられているのです。
政府の言いなりになるのではなく、子どもたちの現状に合わせ
て、教師たちがその学校に一番いい方法を自分たちで考えてやって
ゆく「日本と比べると、“学校現場の自律性”は今も遥かに高く、
それがスタッフ全体の元気をかろうじて支えるもとともなっている
と感じました。そして、ウォラスさんも本書の前書で言っていると
おり、子どもたちの抜き差しならない必要に日々こたえる努力のな
かで、この学校のスタッフたちは、幼い人たちへの“人としての
ケア“をしっかりと基盤に据えた”本物の教育“を探り当てようと
している、と思わされたのです。
昼休みの時間など、表通りの喧騒から離れ、大英図書館の脇を抜
けて、イーディス・ネヴィル校に近づくと、子どもたちの笑い声が
はじけるのが聞こえてきます。
女性のひろば 2009年7月号
☆(写真、写真説明も)とあるが、ここHPでは省略
『黙阿弥オペラ』 1995年4月号(『演劇と教育』)
『音のない世界で』1995年8月号(『演劇と教育』)
シネマドラマ楽書き帳
作=井上ひさし/演出栗山民也/シアターコクーン
『黙阿弥オペラ』こまつ座
藤本卓
なぜか、と訝る人がいるかもしれない。
けれど、舞台は“神戸”に向けて吹き抜けた。芝居をつくる側が、それを意識していたかどうか、確かめて言うのではない。が、 つい先だってのあの大震災を生き抜こうとしている街と人々の姿が、舞台の向こうにたしかに見えた。
ようやっと(マタシテモ!)幕を開けた井上遅筆常の新作『黙阿輛オペラ』を観ながら、そう感じていた。
『三人吉三』や『白浪五人男』の歌舞伎作者・河竹黙阿欄(一八一六~九三)を、井上ひさしが描いてみせたのだ。「な―に御一新てえのは、ありゃ大がかりな御家騒動じゃねえのかい」などと言い放ったともいう、この「江戸演劇の大問屋」その人を舞台の上に引っぱりあげることは、作者積年の宿題のひとつであったとのこと。佳作である。
板の上を演者たちが元気印で泳いでいる。役者であることの幸福を、いま、堪能しつくそうとしているようだ。そして、それを観ている側も、十分に幸福な時を過ごした。
何よりも、井上戯曲のあの「ことばの海」である。しかも今度の作は、描かれているのが芝居者を志にした世界だ。登場人物どうしが、当時大評判の『切られの与三』(瀬川如皐)なんぞのひとくさりを奪いあって唸ってみせる場――などは当然ながら、いわば、どの役のどの台詞もが、まるで“芝居の科自”めいて響くのだ。――とは、また妙な言い条だろうが、人物たちはみな、江戸は芝居小屋と深縁の下町言語宇宙のただなかで、そのつどそのつど、いずれ人気芝居の名科白を、拝借したり、改作したりでしゃべくっている、とさえ言えるふうなのだ。
たとえば、開幕冒頭、新七(後の黙阿爾=辻萬長)が、うだつの上がらぬ狂言作者稼業に嫌気のさしての身投げ沙汰を、同じ身投げ志願(笊売り五郎蔵=角野卓造)と引きとめ合い、二人ながらに転げ込んだ「仁八そば」の小見世で、その女主人(とら=梅沢昌代)に諫められる、というくだり――
とら おめえさんのはね、能ある者は身を苦しめるってやつさ。[……]いってみりゃ贅沢な苦しみなんだよ。[……]身投げなんてものはね、なんの能もないが一生懸命生きているのに、だんだん詰まる痩世帯、結句、貧乏ゆすりさえできねえほど追いつめられた連中がするものなんだよ。
五郎蔵 作者だなあ、ばあさんも、もっと云ってやれ。
この間の手こそまさに図星。もっとも、かくいう五郎蔵本人の身の上話たるや、「忘れもしねえ半月前の、初雪ちらつく寒い晩……」と始まる、それこそ声涙ともに大下しの世話狂言そのものなのだ。女房には先立たれ、商売は左前、幼子を養女に出したなれの果て、あろうことかその四歳の娘から施された胡麻煎餅を道連れに“超・主観的親子心中“に及ぼうとする始末……。
そう、かつて人々は、こんなふうに話していた。戦後、兵庫生まれの筆者のまわりにもまだ、言ってみれば“譬じいさん“や”諺おばさん“が暮らしていた。彼らのことばも、絵のようであり、芝居のようだった。行き交うことばたちに誘われて、まったくの勝手ごとながら、幼い日を通した"神戸“と舞台とが重なりはじめていたらしい。
で、新七だが、今では用済みとなったあの胡麻煎餅のお相伴に与って、誓いをたてる。
「これはこの世の銭地獄を眺める遠眼鏡だ。そばに置いて狂言の筋立てを考えますよ」――こうして「世間という名の銭地獄」を暴く白浪作者が誕生するという按配になる。
ただ、ここに井上は、新七の思いを支え続けるだろう仕掛けを、もうひとつ持ちこんでいる。この見世に、偶然のごとく、はたまた必然のごとく集う連中(他に、喰いつめ浪人及川孝之進=溝口舜亮、喰い逃げ未遂の噺家円八=松熊信義、五郎蔵の牢子分の久次=大高洋夫)は、店に置き去りにされた娘(おせん=島田歌穂)を、それぞれの志を持ち寄って育てあげるのだ。名づけて「おせん株仲間」。とら婆さんの言うには「なにをするのにも株をこさえて仲間を組むのが当今の流行」だそうな。そして、この株仲間の精神は「御恩送り」にあるという。
この「おせん株仲間」の寄り合いが、後々の芝居の枠になっていくのだが、御一新のあと、「第ナントカ国立銀行」への成りあがり騒動の顛末など、われとわが身(日本近代)を見るようで、苦笑・失笑・爆笑ものだった。そしてそれは、新七が粗製「演劇改良」に翻弄される時代でもあったのだ。仲間らの話すことばさえ行政人造語に搦めとられもするなかで、新七は黙阿輛になっていく。
けれど、あの「御恩送り」の心根は枯れ果てたわけではない。空騒ぎのなか何もかも失って、挙句にまた一人の捨て子が拾われる。彼らはまた、その子のために、新しい株仲間を組むだろう。この捨て子を光り輝かせて見せた演出は、心にしみるものだった。
そうだ、“神戸”には今、いくつもいくつもの「おせん株仲間」が生まれている。この芝居、神戸のたとえば真野のあたりで上演されている光景を、思い浮かべてみたりする。
『演劇と教育』1995年4月号
シネマドラマ楽書き帳
ろう者のコミュニティーの発見
監督=ニコラ・フィリベール 92年・フランス
『音のない世界で』
静かにも深い九十九分だった。
ニコラ・フィリベールの『音のない世界で』は、ほとんど“小さな奇蹟“である。
フィリベールは、 一九五一年生まれ、フランスのドキュメンタリー・フィルム作家。すでに、各国の映画祭で数多くの受賞経験をもつとのことだが、日本でその作品が劇場公開
されるのは、今回が初めてという。
パリの聾ろう者たちのさまざまな生活と発言とから織りなされたこのドキュメントは、映像作品としての試行の清新さにおいても、また、ろう者たち自身の手話や表情をとおして語られるメッセージの真正さにおいても、私たちの感受性センスを深く確かに更新する力をもっている。
スクリーンは、のっけから“手話での詩の四重奏“を映し出す。聞こえるのは、演者らの息づかいと衣ずれだけ。聴者=非聾者である私は、もどかしさとともに、いきなりモチーフの核に直面し、耳をこらし、眼をすます。
続くプロットでは、ろう者たちが手話で自らを語るインタビューや日常のスナップ、それぞれに愛らしい子どもたちの学ぶろう学級の日々など、すべて自然光・自然音のもとに
映し撮られた場面が交錯する。
極めつけは、プーラン先生だ。──生後まもなく聴覚を失い、ろう学校を出たあと靴修理工や冶金工として生きてきたジャン=クロード・プーラン。すでに初老のいきに入ろうとする今、手話の教師として、またろう者の劇団の中心メンバーとして、まさに“表現者“の生を開花させている。
読みとる術すべをもたない私も、プーラン氏の手話には魅せられた。優しく、機知に富み、圧倒的に雄弁エロクウァントであることが、充分に察せられる。彼は、フィリベール監督にとっても手話の師であるという。十年余りまえ、監督がかよった夜の手話講座での、二人の出会いに、この映画の原点がある。
で、その仕事の骨法に関わってだが、フィリベールの自ら語るところ、ドキュメンタリーの撮り手として彼が何よりも惹かれるのは、「撮られる対象と撮る側の関係」であり、また「その関係の中で何かが創られていくこと」なのだという、彼のフィルムは、撮る側にとってだけでなく、撮られる側の人々にとっても、それ自体において意味あるものでなければならない。
確かにそうだ。『音のない出界で』の場合も、ろうの人々からの支持のレスポンスが際きわやかである。ここに映し出されているのは、「つくられたろう者像」ではない。彼ら彼女らは、「ここに私(私たち)がいる」と感ずることができるようなのだ。
なぜ、それが可能となったのか、ナレーションがないという点が、そのもっとも見やすい解き口だろう。そもそもこの映画には、説明的な部分はほとんど存在しない。フィリベールは、彼自身いうとおり、あたかも、「処女地を旅する」ようにして、ろう者たちの生きる場を探索する。しかも、その旅の現地ヘと私たち受け手をも誘い出す。で、そこにフィリベールが、そして私たちが発見するのは、自前の文化をもった一つのコミュニティー(“ろう者の郷くに“というのがこの映画の原題)である。聴者である私は、途中いく度かエピソードの脈絡を見失いかけたが、いわば感覚遮断に似たその経験もまた、あの発見のために欠かせないことであったのだ。
この映画に訓おしえられたことは数多いが、なかでも「ろう者は大人になれないの」と思い惑っていたという少女の発言は、教育にかかわる者として忘れるわけにはゆかない。
「家族で聞こえないのは私だけ、子どもの頃は話せないのがとっても辛かった。学校へ行くと、友だちは聞こえない。でも、先生たち大人は皆、聞こえるの。(……)とっても不思議だった。大人は皆耳が聞こえることが。(……)ろう者の大人に会いたかった」
なんということか、口話主義による、おそらくは「科学的」なろう教育が、幼い彼女を成人のろう者から切り離すことになってしまっていたのだ。彼女にとって、大人のろう者の発見は、自前のコミュニティーの獲得に通じている。文化における普遍と特殊、マイノリティーの文化的自立、という今日の教育の基本問題の一つが、ここにも露頭しているのだ。自分たちの進めているのは、フランス語と手話の「バイリンガル運動」だと語るプーラン氏の言葉に、深く説得される。
また、いまひとつ――これもフィリベールに学んだのだが――見過ごすことができないのは、一九世紀末、ろう教育界から手話を追放しようと企てた人々の立てた論拠である。
いわく、「身振りの“官能的”性質は良識に抗う」──よくもあ、言ってくれたものではある。かつて、わが日本の文相・岡田良平氏が学校劇を禁止しようとした際(大正13年)の口吻を思い起こさせる。もっとも、評価の軸を逆転するなら、この理屈、ぴたりと的を射ていると言えなくはない。手話と学校劇は同じ受難の姉妹であったのだ。
『演劇と教育』1995年8月号
高校生活指導 135号(1998年冬号)
続 子ども・青年の自治権を本気に考える
〈世代の自治〉の再発見へ
常任委員・大東文化大学 藤本卓
前説を承けて
本誌前々号(一九九七年夏号)に掲載した「高生研大
会・基調討論発題」論稿において、わたしの提示した論旨
の軸線は、おおよそ次のようなものでした。⑴
「もしも子ども集団不在の状況が恒常化するのだとし
たら、もう子どもは人間になれないかもしれない」──
かつて生活指導の運動のなかから竹内常一氏によって発
せられたこの問題指摘を、四半世紀の後、 いよいよもっ
て本気に受けとめなおさなければならない地点に、今日
わたしたちは立っている。⑵
そして、それはすなわち、「子どもたち・若者たちは、
大人によって『教育』されることのみによっては育たな
い」という「生活指導運動の初心」を、 いまあらためて
自覚的につかみなおすことがわたしたちに求められてい
る、ということを意味している。言い換えるなら、〈民
主的訓練論/開放系の訓練論〉の今日的な展開が、必要
とされているということなのだ。
この志向を実践的に措きなおすなら、「彼ら/彼女ら
[子ども・青年]を明確に大人と区別しつつ、同時に、
嘘でなく大人扱いする」という生きた矛盾を、まさに原
則として、わたしたちの仕事の全局面に貫き通す、とい
うことになろう。そしてそのとき、わたしたちの眼前に
は、(世代の自治〉というテーマが正面の追究課題とし
て浮上してくる。
ただ、このように論じ進める際、前稿では、本論にさき
だつ前提の記述に比重がおかれた結果、「発題」としては
いかにも舌足らずに語り残したままになっている部分がい
くつもありました。それらを補いながら、今度はむしろ理
路を逆にたどる仕方で、考察と主張をさらに展開してみる
ことを試みたいと思います。
教育と〈世代)の問題
さて、今回のわたしの主張の眼目は、詰まるところ〈世
代の自治〉という発想を基底に据えなおすことによって、
教育における「子ども・青年の自治権」の意味を、あらた
めて捉えかえし、強く推しだそうとするところにありま
す。そうすることで、子どもたち・若者たちの生活世界に
対する「大人社会の手による侵襲」に歯止めをかける地点
へと本気で進み出たい、と思うのです。⑶
とはいえ、この〈世代の自治〉というターム(用語)自
体にしてからが、「登校拒否・不登校」問題や「いじめ」
問題をはじめとして、近年の子ども・青年にかかわる諸間
題を世代間関係のもつれに絡む問題と捉え、あれこれと考
え・語るなかでしだいに醸成してきた、筆者自身の造語
です。⑷ ここは何より、まずもって、この自前の用語/概念
そのものに少々こだわっておく必要がありそうです。
全体の文脈からも明らかなとおり、ここにいう「世代」
は、一社会内部の年齢階梯(ライフ・ステージ)のそれぞ
れの段階にある人々のまとまり、を指しています。ただ、
教育の営みとはもともと、この意味での「世代」の境界を
越えての関係行為の一つであるわけですから、教育を語る
者が「世代」の問題に触れるのは至極当然のこととも言え
るでしょう。ですが、ここでわたしは、もう少し強い意味
でこの〈世代〉を問題にしたいのです。というのはつま
り、たとえば思想史家・関曠野氏の次のような説き方に現
れているような意味においてです。
「……世代間の文化の継承は、ここ[人間社会]では
動物の場合のように本能的・自動的な、スムーズなもの
ではありえない。それは必然的に新旧世代間の対立や相
剋をはらんだ緊張にみちた文化の継承である。というの
も世代間の信頼と統一に同時に緊張と相剋の要素があっ
てはじめて、世代間の文化の選択的な継承が可能とな
り、この選択的な継承があってこそ、人間はつねに変動
する歴史的世界に対応してみずからの行動を再検討し修
正することができるからである。そしてこの世代交代の
過程をつうじての再学習ということがなければ、本能的
基礎をもたない人間の社会は失敗を重ねて自減してしま
う。物わかりのよい大人と素直で従順な子どもから成る
社会は、崩壊の危険にさらされている。
教育とは基本的には、こうした人間社会に固有の、世
代交代を契機とする学習過程のことだといえよう。……
まさにこの教育の過程の意識化という点で、 ルソーは人
類の教育思想の一大転回点をなしている。」⑹
圏点を付したアフオリズム(警句)からも窺えるとお
り、これは、決してありきたりの平板な認識をなぞるだけ
の議論ではありません。人間の社会の存続そのものの、い
わば絶対条件として「世代間の緊張をはらんだ統一」が必
須なのだというのです。そこでは、「新旧世代間の対立や
相剋」は、あらずもがなの障碍といったものではありませ
ん。それどころか、むしろそれは、歴史的世界を常に新た
に生みなおし続けるための可能性の条件をなす、とされて
いるのです。⑺
しかし──ここからは関氏の所論を離れてゆくのですが
──、そうした世代更新を不可欠の契機とする再学習の過
程が、つまり文化の選択的な継承の過程が、実りあるもの
として成立し続けてゆくためには、さらにその前提とな
る、ある条件、あるいは “仕掛け” といったものが必要な
のではないでしょうか。わたしの観るところそれは、〈世
代〉を「集団」、あるいは「団体」として自覚的に捉える、
そして、事実としてもそのように過する、という構造
です。⑻とりわけそれは後続世代(子ども世代、若者世代)
にとって、きわめて重要な事柄なのだと考えます。なぜな
ら、先行世代(大入世代)の側とは、とりもなおさず、当
該社会の、その時点における本体をなす世代として、自覚
的である場合はむろんのこと、たとえ無自覚的であるにせ
よ、また、自覚に反する結果においてのことにせよ、ほと
んど常になんらかの「組織された社会力」として後続世代
に相対しているわけです。「制度としての学校」や「制度
としての家族」、さらには、「制度としての知」や「制度と
しての感性」……といったふうに思い浮かべてみれば、わ
たしたちには充分でしょう。
もしも、これに対するに、後続世代の子どもたち・若者
たちが本質において、”弧” としてのみその生の過程をすご
させられているとしたら、すなわち、自分たちの「組織さ
れた社会力」(集団性)をなんら持ち得ないでいるとした
ら、彼ら/彼女らは〈世代〉として実質のある「信頼と緊
張」の関係を先行世代との間に生みだすことはできない、
と思われます。ですが、実のところまさにそうした事態こ
そ、私化(市場化)と行政化という趨勢が絡みあいながら
ともどもに、日々生活圏の自律性への侵潤の度を深め、わ
たしたちの生を砂粒化(原子化アトマイズ)してゆくなかでの、現今
の〈大人―子ども〉関係の姿なのではないでしょうか。
「若者組」の教育原理
つまり、再び関氏の言葉を借りて言うなら、(広義の)
教育とは「歴史の一体性を問う世代間の共同作業」である
わけですが、むしろわたしたちの社会は、その「共同作
業」の遂行のための重要な前提構造を融解させてしまって
いるのではないか、と疑うのです。「いじめ」にせよ「少
年犯罪」にせよ、子どもたち。若者たちをめぐる”問題”
とされている現今の諸事象のもつれ具合の底にあるのは、
まさにこの世代間関係の結晶化構造の溶融という問題なの
ではないでしょうか。⑼ 四半世紀前の竹内氏が、「……もう
子どもは人間になれないかもしれない」などと、あれほど
に強い言葉をつかって示した危倶も、決して大仰な杞憂で
はなくここにつながっているのだ、と考えます。わたした
ちは「子ども集団不在の状況」を、なんとしてもこのまま
「恒常化」させてしまってはならないと思うのです。
そして、そう考えるとき、伝統社会の〈年齢階梯制〉の
意義が、確かに意識しなおされてくるではありませんか。
もちろん、あらためて言うまでもないことですが、プレ
近代の「子供組」や「若者組」をことさらに美化したり、
実体としてその復興を図ろう、などというのではありませ
ん。そうした年齢階梯システムそのものは、社会の近代化
の過程で、ことの必然として滅びていったわけですし、疑
いもなく滅ぼすべきものであったのだとすら、確かに思い
ます。わけても居住や職業など人生航路にかかわる自己決
定権について考えるなら、それらの欠如のうえに成り立つ
ていた「若者組」制度を、現代に生きるわたしたちがその
まま認めることなどありえません。また、そこに臆面もな
く存在していたジェンダーの差別についても同様です。⑽に
もかかわらず、わたしがここで「若者組」を持ち出すのは
(そして、竹内氏がかつて「子供組」を持ち出していたの
も)、あくまでも現在を問い糾すための “合わせ鏡” の役
割をそこに期待してのことなのです。わたしたちが失って
しまったもの、忘れ去ってしまった過去のなかには、じつ
は、わたしたちが気付くべくして、いまだ気付きえていな
い未来の影もまた埋もれていたのではないか、と考えるの
です。
先にわたしが、「若者組」の組入り年齢のはらむ “齟齬”
──数え十五歳での「組入り」と「成年」の重なり──の
問題に特に留目したのも、そうした観点からのことでし
た。一人前の村人に育て上げる課程がいよいよ本格的に始
まろうとするときに(組入り儀礼)、まえもって ”一人前”
の資格を共同体として与え(成年儀札)、その後は事実と
しても確かに一人前に過するというのは、形式的には矛盾
していると言うほかありません。これをわたしはこれまで
ずっと、もっぱら近代主義的に解釈してきました。つま
り、社会機能の複雑化につれて、生理的・労働技能的・社
交的・政治的など人々の成熟の諸局面の間にズレが生じて
きた結果として、慣例に縛られた「形式的資格付与」と複
雑化した新たな社会的現実の要求する「実質的訓練」との
間に、そうした順序の逆転(齟齬)が表而化するに至った
のだ、と理解してきたのです。ですが、むしろそこには、
かつての共同体に生きた人々の、 いわば暗黙知としての一
つの “教育原理” をこそポジティヴに読みひらくべきだっ
たのではないでしょうか。
いま一度、民俗学者・福田アジオ氏の指摘を、別の箇所
から引いておきましょう。
「十五歳で若い衆[若者組]に加入したからといって
すぐに本人の労働量が大きくなるわけではないし、また
判断力が飛躍的に高まるわけではない。未だ年若い未熟
な存在である。しかし、そのような人物を・立派な大人と
して扱い、[労役交換の場面において]計算するときに
は対等な一人と見做すことが果たした教育的効果は大き
かった。毎日、若い衆として集まり、そこで真の一人前
になる訓練を受けて次第に実質的な一人前に成長した。
しかし、そのときに、既に一人前として扱って貰ってい
るという事実が本人たちの励みとなった。そして、一人
前の完成は、 ムラを構成する一軒の家の世帯主になるこ
とであった。」⑾
この “教育原理” こそは、まさに〈訓練論〉の一つのプ
ロトタイプである、と今わたしは考えるのです。「彼ら/
彼女らを明確に大人と区別しつつ、同時に、嘘でなく大人
扱いする」──未来にむけて継承すべきものとしての〈訓
練論〉の要諦のそのまた核心を、わたしはこの矛盾を肇ん
だ一句に凝縮して把握したいと思うのですが──この〈訓
練論〉の原理が、そこ(つまり福田氏の提示する「若者
組」像)には確かに一つの具象化をみている、とすること
ができるではありませんか。しかも「若者組」は、もっぱ
ら将来の準備にだけ目的を特化させたという意味での “教
育組織” ではありません。そもそもそれは、共同体(村
落)全体の年々の生活にとって欠かすことのできない正規
の社会的役割のいくつかを、その時その場で実際に責任を
もって果たすべく組織された一機関でもありました。つま
りそこには、社会への〈参与〉の本気の一形式が、そのま
ま〈訓練〉の形式でもある、という教育の一つの姿があっ
たと言えるように思うのです。
〈訓練論〉──閉鎖系と開放系と
しかし、このように論じ及ぶためには、 いま少し〈訓練
論〉というタームそのものについて語っておかなければな
りません。
ここで用いているところの「訓練論」とは、何よりもま
ず、教育におけるある種の政治的配慮としての教化主義や
啓蒙主義の立場──あるいは、より限定を加えていうなら
“能力成熟前提主義” とでも評すべき立場──に対置され
る教育姿勢をさしています。すなわち、思いきって単純化
して述べるなら、人事(倫理や政治などの人間事象)につ
いて、それらの立場が「何事にせよ分かるようになってこ
そ、初めてそれを行うことを許す」という姿勢をとるのに
対して、「訓練論」は、「何事であれ、それを自ら行うこと
(参与)のなかでしか、そもそも判るようにはならない」
という構えをとるのです。したがって、「訓練論」を
「徳ヴァーチュー(品性)はその徳ヴァーチュー(品性)の実践のなかでしか身につ
かない」と捉える教育姿勢ということもできるでしょう。
いやしかし、これでは少々きれいごとに過ぎるかもしれま
せん。同じ標語を、まったくもって権威主義的な “訓練/
調教” にも用いることができなくはないのですから……。
だからこそ、生活指導運動は「伝統的訓練」と「民主的訓
練」とを区別してきたのでした。
わたしたちは、この区別でいうなら、むろんのこと「民
主的訓練論」を自らの仕事の方向として追求します。で、
しかし、あの「若者組」の「訓練」はどうなのでしょう。
そう、それを全体として「民主的」と呼ぶわけには到底ゆ
きません。当然ながらそれは「伝統的訓練」の一種に含ま
れるべきものです。けれどもしかし、上にも見たとおり
「若者組」における世代間関係としての「訓練」の本質は、
決して紛まがいものではありません。その一方で、「伝統的訓
練」という用語が、もっぱら訓練の頽落型──すなわち、
先行世代からしての外形的な行動統制や内面にも及ぶ翼賛
的な一致やを追求する「管理主義的訓練」あるいは「団体
主義(ファッショ)的訓練」といったもの──を指して用
いられてきた経緯を考えるなら、「若者組」の訓練を「伝
統的訓練」とだけ呼んで済ませることにも大きな問題が残
ります。そこでわたしとしては、ここに「閉鎖系の訓練
論」─「開放系の訓練論」という区分の観点を新たに導入し
たいと思うのです。
この「閉鎖系」─「開放系」という対照は、なによりも、
それぞれの「訓練」の構造の差異にかかわるものです。
「訓練」の基体となる場(集団)の性格が閉じられたもの
であり、またその「訓練」の目標(人間像)が定常的なも
のである場合、それを「閉鎖系の訓練」と名づけ、他方、
「訓練」が開かれた場(アソシェーショナルな集団)にお
いて、目標そのものの問い返し(人間像の探索)自体をも
積極的に位置づけて進められるような場合を指して「開放
系の訓練」と呼ぼう、と思うのです。ここで誤解をされる
と困るのですが、言い換えるなら、両者は構造上の違いを
もちながらも、ともに「訓練(論)として真性(オーセ
ンティック)なものでありうる、とわたしは考えます。 つ
まり、「若者組」の訓練は、「閉鎖系」に属すものであると
いう点では、確かに今わたしたちが希求するものではあり
ません。しかし同時にそれが、真性の訓練機能をもつもの
であったという点では、未来に向けてわたしたちを大いに
刺激するものでもある、と言いたいのです。
そして、「若者組」の〈訓練〉が紛いものでなく機能し
た、その条件となっていたところのものこそ、まさしく
〈世代の自治〉とでも表現されるべき慣行/観念であった
ろう、とわたしは考えます。すなわち、ある限定のもとに
おいてのことではあれ、本気で若者たちを成人と対等な一
人前の存在として遇しつつ、大人世代の介人を抑制して若
者世代に自治の領分を保障し、なお共同体の生活にとって
不可欠な正規の役割──いわば公共的任務(責任)──を
部分的に委託するという関係構造こそが、若者たちを真性
の意味において〈訓練〉したのだ、と考えるのです。大田
尭氏の近年の言い回しを借りるなら、彼ら若者たち──さ
らに拡張して、子どもたち―──が、自分たちの社会のその
時その場において決して “失業” してはおらず、誇りうる
“出番” をもっていた、という事実こそ何よりも重要だっ
たということになるでしょう。⒂
そうだとすれば、わたしたちの正面の課題は、「開放系
の訓練を可能にするような〈世代の自治〉の新たな在り方
を探究する」、あるいは「世代の自治が含意する真性の訓
練を〈開放系の訓練〉として実現する途を探究する」と
いったふうに角度づけされることになるのではないでしょ
うか。
〈世代〉──自治のもう一つの基盤集団
とはいえ、それらが容易な課題でないことは明らかで
す。さまざまな意味でそれは、反時代的な、ほとんど無効
の企てのようにさえ見えるかもしれません。ですが、そう
見える理由が、じつは時流に乗せられてのわたしたちの側
の “視野狭窄” にありはしないか、まずは疑ってみるべき
ではないかとわたしは考えます。
そもそも、現代に生きるわたしたちには、〈世代(年齢
階梯)を一つの「集団」──あるいは、さらに強く「団
体」──として捉える、という先にも触れた視点そのもの
が極めて稀薄なものになってしまっています。もちろん、
一方でわたしたちは「発達段階」という、ある種リジッド
な(堅い)観念も持ち合わせているのですが、それはやは
り個々人の経験する心身機能の変移のひとコマひとコマを
指すものとして用いられる場合がもっぱらで、全体社会を
構成する一つの部分社会として、ひいてはそれ自身として
実体性(主体性)をもつ「集団」として、把握されること
はまずありません。おおかたの場合「世代」は、人生途上
のいわば “色調” の移ろいをともにする同年代の人々の集
合として曖味にイメージされている、とでも言えばよいで
しょうか。
しかし、〈自治〉とは本来、深く〈集団(団体))にかか
わるところの事柄/概念です。したがって、〈世代の自治〉
という発想は、自治の基盤となる集団として〈世代〉その
ものを遇するということを、そもそもその含意の中心にお
いているのです。わたしたちにとってこれは、むしろもう
ほとんど “新奇な観念ノベルティー“のように思えるかもしれません。
わたしの見るところ、近代社会が「自治の基盤(主体)
となる集団」として意識しているのは、ほぼ「住民団体」
と「職能団体」とに限られるようです。つまり、 いわゆる
「地方自治」や「専門職の自治」やを問題にする場合の、
それぞれの基盤集団です。ですが、じつはもう一つ「年齢
集団(世代)」もまた、プレ近代にあっては、ある種の
「自治」の基盤集団であると捉えられていた、と見ること
ができるのです。それが、身分制だけに解消されない「前
近代の社会構成原理」の一種としての「年齢階梯制」の意
味するところだったのだ、と言うべきでしょう。だとすれ
ば、わたしたちは、それを知らなかったのではなくて、む
しろ忘れ去ってしまっていたのだと言ったほうがよいわけ
です。したがって、わたしたちの課題は、この忘れられた
「自治のもう一つの基盤集団」の記憶を回復しつつ、しか
し、異なった社会構造のなかで、その実現可能性をあらた
めて “発明” しなおす、ということになるでしょう。
もっとも、これではなお、あまりにも迂遠な課題提起に
聞こえるでしょうか。いや、決してそうではありません。
だいたい、わたしたちは「高校生にも──そして、さら
に限定的にせよ中学生や小学生にも──自治権がある」と
本気に考えてきているでしょうか。あらためて問われるこ
とになると思うのです。そしてもし、この問いに肯定の答
えをするとすれば、そのときわたしたちは、いったい何に
その根拠をおくのでしょうか。これが伝統的な大学生の自
治権であるなら、それを一種の「職能の自治」にまで遡っ
て根拠づけることもできるでしょう。そもそも大学とは、
ヨーロッパ中世の学生ギルドに淵源するものであったわけ
ですから……。ですが、これは特殊なプロフェッション
(ある種のエリート)のもつ自治権の援用にほかなりませ
ん。それを、そのまま高校生に──ましてや中学生や小学
生に──当てはめることなどできません。いや、大学生で
すら、すでに久しい大衆化状況を考えると、その適用には
まったく無理があると言わざるをえないのです。
あるいはまた、高校生の──そして、中学生や小学生の
──自治を、いわば「住民の自治」の類縁物とする捉え方
もあるでしょう。しかし、この見方からだけでは、生徒た
ちの自治的活動を “教育” として認めるということはあっ
たとしても、自治権をまさしく権利として認めるというこ
とは実際上ありえません。あるいは、たとえそこで未成年
である生徒に権利が認められることがあったとしても、そ
れは主権者としての抱括的権利ではなく、せいぜい一時的
な施設利用者としての権利に限られてしまうでしょう。
つまり、学校生徒の自治権について、成人社会のいわゆ
る「職能の自治」や「住民の自治」を水で割り、そこから
のミニチュアを類推するだけでは、それを真性の〈権利〉
として捉えることはできないということです。しかし、高
校生の──そして、中学生・小学生──の自治権の根底に
〈世代の自治〉の権利が横たわっている、とすればどうで
しょう。〈世代の自治〉の権利は、それぞれの年齢集団
(世代)に副有のもの──いわば、集団としての “自然権”
──であるわけです。つまり、それは決して成人社会の権
利からの類推物ではないということです。
「自治権の基底性」を本気に受けとめる
どうやらここに来てわたしたちは、再び、かつての竹内
氏の言葉を本気になって読みなおしてみるべき地点に立っ
たようです。これまでもくりかえし言及してきた、あの
「……もう子どもは人間になれないかもしれない」という
件にすぐ先立つ一節です。
「すでにみてきたように、遊び・けんか・制裁・なか
まはずれ・協同などを包む自治的な子ども集団の発生と
発展は、子どもの発達のうちにその根拠をもっていた。
このことは、子どもはおとな社会が承認するしないにか
かわらず、発達する権利とともに自治する権利をもって
いることを意味している。教科書裁判の杉本判決は、子
どもの発達権を保障するものとして子どもの学習権を強
調したが、それよりも基底的なものとして子どもの『自
治権』が承認されなければならない。」⒄
どうでしょうか。〈学習権よりも基底的なものとしての
子ども集団の自治権〉──わたしの見るところ、この主張
は、曖昧な賛成によって、むしろその意義の鋭さが減殺さ
れてきました。まだしも、今もってなお一つの ”偏った見
解” あるいは “個性的な少数意見” でしかない、とこそ受
け取るべきなのかもしれません。この四半世紀の間、子ど
もの「学習権」は曲がりなりにも社会的認知を受けるよう
になってきました。しかし、それと並ぶ仕方で、つまり本
来的な権利問題として、子どもの「自治権」が語られるこ
とはほとんどなかった、と言うべきではないでしょうか。
竹内氏自身によってもまた、これ以上に立ち入った追尋は
必ずしもなされてこなかったように思われます。〈世代の
自治〉という言葉に集約することで今わたしが捉えかえし
たいと考えるのは、「子ども・青年の自治権」をまさに彼
ら/彼女らに固有の権利として担保するこの思想なので
す。つまり、〈学習権よりも基底的なものとしての子ども
集団の自治権〉という把握を、文字どおりの意味におい
て、真剣に受けとめようというのです。
いま、それを高校生について、言うなら、彼ら/彼女らは
学校生徒である以前に、青年としての固有の〈世代の自
治〉の権利をもった存在として立ち現れる、ということに
なるでしょう。すなわち、高校生の〈生徒自治〉の権利の
さらにその基底に、いわば〈若者自治〉の権利こそが据え
られるべきだ、ということです。そして、この〈世代の自
治〉の世界は、決して “教育” としての自治(的)活動に
回収され尽くすものでなく、あくまでも固有の権利として
の性格を主張するものであることが承認されなければなら
ないのです。
もちろん、〈世代の自治〉の世界は、本来的に「学校」
の外(以前)の存在です。「いやそればかりでなく、かつて
竹内氏も論じたように、むしろ「学校」(近代国家の教育
機関)こそが、この世紀を・とおして〈世代の自治〉の世界
を──そして、それを包む民衆の自律的生活世界を、──壊
してきた、その中心的エージェントであり続けてきたので
した。ですが、その破壊工作が、じつは当の「学校」が曲
がりなりにも教育機関であり続けるための地盤そのものを
掘り崩すものでもあったのです。制度の惰性はなお無視で
きないとしても、事態はすでに臨界点にまで達していると
見るべきでしょう。むしろこれからは「学校」が変わるほ
かないのです。
どう変わるべきなのでしょう。そのすべてを見通すこと
などできません。しかし、すでにわたしたちはある判断を
前提としています。⒆ つまりそれは、今や学校を〈世代の自
治〉の主要な舞台の一つ──唯一ではないが中心的な結接
点──に編みあげなおすほかはない、という判断です。
〈世代の自治〉の再発見は全社会的な課題です。とはいえ、
「学校」を内から間うことなしに、それはありえません.
わたしたちとしては、〈学習権よりも基底的なものとして
の子ども集団の自治権〉を承認する学校の在り方、〈生徒
自治の基底にある若者自治〉を正当に尊重する高校(中等
学校)の在り方、を模索する途を選ぼうというのです。お
そらくそれは、実践から発しつつ、局所的な学校システム
の改変はもとより、学制全体の改革をすら突き抜け、学校
を位置づける社会と文化の教育構造総体の見直しにまで刺
さりこむような課題になるでしょう.)それはほとんど「学
校」を非学校化する企て、と言うべきかもしれません。⒇ そ
うした、いわば ”制度を踏破す” 課題を一方に鮮明に意
識し続けつつ、しかしまずもって、いま/ここから手掛け
るべき仕事を挙げるとすれば、それはおおよそ次のような
解き口に着眼するということになるのではないでしょう
か。
日常実践から教育構造までを貫いて
まず、〈世代の自治(若者自治)〉に裏打ちされた〈生徒
自治〉という重層構造に現実的にアプローチしてゆく途と
して、たとえば、ある学校の「生徒」であることと、その
学校の生徒会の「会員」であることとの区別を際立たせる
ような手だてを強めてゆく試みがあげられます。また、生
徒たち自身にも「教育としての自治」と「権利としての自
治」の区別を実践的に知る機会を保障してゆくことが考え
られてよいでしょう。もちろんこの両者の区別は、単純に
場面によって振り分けてすむようなものではありません
が、直接に大人の側からする “教育” の踏み込めない領分
というものの限界設定が、意識的に探られなければならな
いと思います。
そしてその反面では、管理・経営システムとしての教職
員集団のなかで、(養護教諭や教育相談職員ばかりでなく)
生徒会顧問やホームルーム担任などの占めるべき位置につ
いても、細心の検討が求められることになるでしょう。シ
ステムとしての評価権や処罰権から(一時的/部分的に)
“解放” された教育職員という存在を、考えてみる必要が
あると思われるのです。
また、さらにそれらの試みを、さまざまな方向から進め
られつつある「学校協議会」や「学校評議会」の形成の実
践へとつなげることが、わけても重要です。学校運営への
生徒の参与(参加)は、「制度としての学校」を「実践と
しての学校(生きられる学校)」へとつくりかえ、「高校生
活」と呼ぶに値するものを生徒たちの手に奪還させるため
の重要なステップになるでしょう。そもそも、管理・経営
過程の仕事の限定的な生徒委託(教育課程のゼロ領域)こ
そは、制度としての学校教育のヒドゥン・カリキュラムを
反転させる可能性を含みもつものとして、〈訓練論〉的な
生活指導実践のもっとも基本的な水脈の一つでもあったの
でした。(21)
ちなみに、「学校協議会」などを組織する際、親たちだ
けでなく年長青年たちにも、若年生徒の利害代表の役割を
果たす権利と責任とを意識的に付与するような、新たな方
式を構想するべきではないでしょうか。それは、 “子ども
の保護者は親(あるいは、国親パレンス・パトリエ )とのみする考え方
に、留保の補助線を入れることを意味するでしょう。(22)そし
てまた、これまでにも試みられてきた「異年齢集団の教育
力」を生かす仕事に重なるだけでなく、それをさらに拡張
し、より本格的な社会的役割を、まずは年長青年から課し
てゆくという方向へと発展させることもできる、と思われ
るからです。そうした発想は、たとえば「ピア・メディ
エーション」のような形で、本論の出発点であった「いじ
め」問題や「登校拒否」問題への取り組みなどに生かされ
てよいでしょう。(23)
あるいはまた、本格的な社会的役割を若者たちに課すと
いう点に関連しては、学校の外へ出てのボランティア活動
などについても、それぞれの場合に応じて、生徒会その他
の自律的集団に、その活動運営への規制力を保障する方向
も検討されて然るべきです。ボランティア活動を “徴兵”
的・偽善的な奉仕活動でなく、真の社会参与(参加)の機
会にするためには、その活動にかかわる社会的発言権や決
定権が、何らかの形で承認されていなければなりません。
考えてみれば、子どもたち・若者たちに深くかかわる事
柄について、直接、彼ら/彼女ら自身の発言権を認めると
いうことは、 一般にも充分に理由のあることです。(24)この点
は、わたしたちの仕事と「子どもの権利条約」の実質化を
進める運動とのもっとも重なりあう場面でしょう。(25)さら
に、近年、この国の民主主義を活性化するうえで重要な課
題となっているテーマに「住民の直接投票」があります
が、「世代集団」もまた同様の直接投票の機会が与えられ
てよいのではないでしょうか。ある種の事柄については、
「年長未成年者集団による拒否権投票」のようなものが制
度化されてよいはずだと思うのです。いや、それ以前に、
この国に何より求められているのは、 一八歳選挙権の導入
でしょう。むしろ高校教育こそは、普通教育の完成を任務
とする教育機関として、その仕事の達成の必要からして選
挙権年齢の前倒しを要求しなければならないはずだ、とわ
たしは考えます。(26)
少々論題が当面の学校実践の場面から離れつつあるかも
しれません。いやいや、ここに試みに記したような、 いわ
ばミドル・レインジの取り組みにしても、到底即座の実践
の射程には入らないといった現場も少なくないかもしれま
せん。しかし、考えてみてほしいのです。本来、〈世代の
自治〉とは、日常の生活文化の隅々にまで深く根をおろす
べきものです。とりわけ、幼い子どもたちにかかわって
は、それは、ほとんどもっばら文化的自律性(カルチュラ
ル・オートノミー)の位相にこそ属すものであって、自己
統治(セルフ・ガヴァメント)の位相での展開はもとより
局限されたものなのです。ここでは中等教育段階の課題を
直接の論題とするためもあって、意識して「権利関係(=
自己統治)」のアスペクトに焦点を当ててきましたが、思
春期・青年期の〈世代の自治〉にあってもまた、文化的自
律性の豊かさなしには自己統治の側面も形骸化することは
必定です。(27)しかも、今日にあっては、そしてわけても若者
に対しては、その “文化” の位相こそが、もっとも実効的
な権力作用の磁場となっているわけです。そのなかで、
〈世代の自治〉を生かす文化的自律の世界の創出をどのよ
うに触発し、擁護するかは、まさに普遍的な実践課題とな
るはずです。それはおそらく、現場状況の差異にかかわら
ず、生徒(若者)への言葉かけ一つに始まり、日々のホー
ムルームや授業、そして行事などでの実践展開の細部こそ
が問われるものとなるでしょう。「彼ら/彼女らを明確に
大人と区別しつつ、同時に、嘘でなく大人扱いする」こと
──何が〈世代の自治〉を促し・要求し・励まし・支える
ものとなり、何が〈世代の自治〉への侵襲となるか ──そ
れを、わたしたちの仕事の欠かせない基準として具体的に
明らかにしてゆく作業が求められると考えます。(28)
しかし、そう考えば考えるほど、あらためてわたしたち
の眼前に浮かび上がってくるのは、理不尽にも世代を分断
(高校入試)し、さらに止めどなく薄片化(差別的多様化)
してしまっているこの国の中等教育制度の犯罪性です。こ
れをこのままにしておいて、この社会に子どもたち・若者
たちの〈世代の自治〉が充実した展開をみせることはあり
得ません。現場実践のリアリティーの深部からの発言こそ
が、世に流通する「制度改革」論議を撃つものであらねば
ならないのです。(29)
〈世代の自治〉の充実を基準に、日常実践から教育構造
までを刺し貫いて問題化すること──ここに「高校生活指
導運動」の今暫くの探究課題の軸線がある、とわたしは考
えます。 (ふじもと・たかし)
註
⑴ 本稿は、全国高校生活指導研究協議会第三五回全国大会(一九
九七年七月三一日)でのプレゼンテーション内容に、構成の変
更・拡充を加えつつ文章化したものです。前々号(九七年夏号)
の拙稿および前号(九七年秋号)掲載の討論の部分再現を、あわ
せてご覧いただければ幸いです。なお、ここで再び論及している
のは、初出一九七二年の竹内氏の論稿「地域子ども集団の消滅と
再生」「竹内常一教育のしごと」第2巻『集団論』青木書店、 一
九九五年、所収)です。
⑵ 前稿の脱稿の後、神戸の「連続児童殺傷事件」の容疑者逮捕の
報に接して、さなきだに〈一四歳問題〉──「若者組」の組入り
年齢をめぐる問題や英米法にいう一四歳の分別年齢(the age of
discretion)の問題、そして刑法第四一条の刑事未成年規定にも
触れた村瀬学氏の所論(「《13歳》の物語史」「現代詩手帖』思潮
社、一九九六年二月~十一月号)などなど──について考えてい
るところだった筆者としては、予想を超えた暗合に粛然とさせら
れました。
⑶ ここでの「侵襲」(invation・侵略)という言葉は、過剰投薬
や不要手術なども指して「医療的侵襲」という場合の用語法に基
づいています。もとより教育は、一つの介入行為であるわけです
が、そこでの「教育的配慮」は容易に「教育的侵襲」に転化する
という事実に留目したいのです。
⑷ この点については、拙稿「登校拒否・不登校の問うているこ
と」(拙編『登校拒否 不登校』、子どもの権利を生かす生活指導
全書、第一五巻、 一葉書房、一九九三年、 一六〇頁)および「教
育のレトリックの方へ」(「竹内常一教育のしごと」第1巻『生活
指導論』青木書店、一九九五年、三七六頁、三五〇頁)を参照し
ていただければ幸いです.
⑸ 「世代」という言葉は、しばしば「共涌の出来事を同年代に経
験した人々のまとまり」を指して たとえば “戦中世代” “団塊
の世代” といったようにも用いられますが、それにはむしろ
「(年齢)コーホート」(同時代体験集団)という用語を当てて区
別したいと考えます。
⑹ 関曠野『教育、死と抗う生命』太郎次郎社、一九九五年、一二
頁。[ ]内と圏点は引用者。エラボレートの必要を感ずる論点
も目立つのですが、本書は、今日この社会のなかでなお〈教育〉
を考えようとする者を驚きとともに自らの拠って立つ思考地盤
の問いかえしへと誘う、独自の視界をもつものです。関氏によれ
ば、かのルソーこそが「世代交代の過程を教育思想の中心にすえ
た最初の思想家」であった、とされるのです。
⑺ ここでわたしたちは、 一般に在来の社会諸科学が、〈世代更新〉
──つまり、諸世代の連鎖をとおしての社会存続──をいわば自
明の前提とする枠組みを持ってきたことに根底的な疑いを差し向
けなければなりません。今日、「先進」社会の内部の管理社会化
の進行によって、その自明とされてきた世代更新のメカニズムそ
のものが ”異常” を来しつつあるという危機認識については、 つ
とに庄司興吉氏が指摘しているところです。やや旧いものになり
ますが、筆者が氏に行ったインタビュー「管理社会化と世代更新
の危機」(本誌一〇四号、明治図書、一九九〇年春)、および氏の
著作『管理社会と世界社会』(東京大学出版会、一九八九年、特
に二三〇頁)をご参照ください。
⑻ ここにいう「団体(羅・corpus)」とは、「社会の団体的構成」
や「中間団体(集団)」等の用語法にみられる法社会史的ターム
として用いています。したがって、生活指導運動のなかで従来用
いられてきた「集団」と「団体」のポジ─ネガ的対置のそれとは
異なります。なお、全体主義とは、一切の自律的中間団体の廃絶
を目指す運動であったという点は、ここであらためて意識してお
く価値があるでしょう。
⑼ この点については、ことに前稿[註⑴]の参照を願いたいと思
います。そしてさらにここから、近代型の「学校」制度とは、そ
のじつ世代間関係のむしろ解体・溶融装置ではなかったか、とい
う疑いが導かれることにも注意を喚起しておきたいと思います。
⑾ とはいえ、これら近代(個人)人権の欠如にしても、またジェ
ンダー差別の厳存にしても、たんに近代主義的な批判の方同で解
決済みの事柄としおおせるものではないというのが筆者の立場で
すが、あらためて論ずる機会を持ちたいと考えます。
⑾ 福田アジオ『可能性としてのムラ社会』青弓社、 一九九〇年、
三〇~三一頁。なお、引用とは別に同書所収の論稿「若者組の活
動と若者条目」は、筆者の知るかぎり、近年の「若者組」論とし
て最も簡にして要を得たものです。わけても、九六頁の「若者組
の諸類型」のシェマは事柄の重層性をよく示しており、参照・熟
考に値するものと思われます。
⑿ この点に関しても、前掲[註⑷]の拙稿(一九九二年)二四九
頁、三六八頁を参照いただけると幸いです。ちなみに、「訓練」
とは、 いかにも理解の蹟きをさそう用語法かもしれません。筆者
がこの用語を継受した当の竹内氏自身にしてからが、現在ではこ
の語を積極的に用いられようとはしていません。ですが筆者とし
て今は、意図してこのタームを使い続けたいと考えます。そして
その際、一方では、この間影響力を持ってきたM・フーコーの
「規律─訓練ディシプリーヌ的権力」批判の議論を、そして他方では、そのフー
コーとの脈絡も抜きにごく最近あたかもブランド・ニューの舶来
品のごとく持ち込まれつつある「パストラル・ケアー」論を、と
もどもに意識しています。それらはともにdisciplineにかかわり、
ここに言う「訓練」とも無縁ではないのですから。
⒀ ここでの中心論点に一挙に迫るには、一例としてたとえば普通
選挙制の実施をめぐる歴史場面を想起してみるのが役立つかもし
れません。なぜなら、ここでの対置は、一般国民の民度(政治的
教養)の向上が普選導入の前提条件となると考えるか、選挙権の
行使こそが広範な国民のもっとも実践的な政治教育となると考え
るか、すなわち “啓蒙が先か―参与が先か” という対立に重なる
ところ多いからです。
⒁ とはいえ、「若者組」の慣行のすべてが前近代的―封建的で
あったとすることも正しくありません。それはまた、前近代の主
たる社会構成原理であった身分制のもとでの支配秩序といくつか
の局面において確執を醸すものでもあったのです。
⒂ 新しいものでは、たとえば、大田尭『子どもの権利条約を読み
解く』岩波書店、一九九七年、六三頁以下などをご参照ください。
⒃ ここでの問題が、近年、高校生活指導運動のなかで「教育とし
ての自治」と「権利としての自治」の対質の形で問われてきた事
柄と重なるのは見やすいところでしょう。
⒄前掲[註⑴]の竹内論文、 一三頁。
⒅ もちろん、ある種 ”理念(心構え)” のこととしてならば、子
どもの「自治」を尊重しようという考え方は、広く教育運動・生
活指導運動のなかで共有されてきた、と言うことも可能です。で
すが、「自治能力」を育てようとする姿勢が、むしろ固有の権利
関係としての「自治権」を暖味にする場合もあることを見逃して
はなりません。
⒆ この根拠の詳細については、別稿を期すほかありません
が、ここではただ一点、急展開するメディア環境の激変のなか
で、あくまで ”学校” が存在し続ける必要があるとした
ら、そこで期待されるのは同世代集団の居場所としての役割が中
心的なものとなるだろう、という読みを指摘しておきたいと思い
ます。言うまでもなくこれは、経済同友会などのいう「学校スリ
ム化」とはまったく逆の方向づけをとるものです。
⒇ 周知のとおり、すでにこのフレーズを書名とした好著(里見実
『学校を非学校化する』一九九四年、太郎次郎社)があります。
同書の全体についてはあらためて応接の機会をもちたいと考えま
すが、生活指導運動にかかわる向きには、とりわけ「学校協同組
ム」(フレネ)および「制度のペダゴジー」に触れた部分をぜひ
参照していただきたく思います。
(21) “ ヒドゥン カリキュラムの反転について、は、拙稿「生活指導実
践は『学校』を問う」(本誌、九九号、明治図書、 一九八九年春)
を参照してください。
(22)この場合、年長青年と若年生徒との年齢幅をやや広くとるな
ら、精神医学などで指摘される ”斜めの関係” を生かすことにも
つながるでしょう。
(23)「いじめ」問題ともからんで近年紹介される機会の増えている
欧米の「ピア・カウンセリング」「ピア メディエーション」
「ティーン・コート」などの取り組みについは、は、さらに立ち
入った検討が必要ですが、大きくは市民社会段階における “アソ
シエーション型の世代の自治” への試行として意味づけうる、と
考えます。今後、本誌でも取りあげられると思いますが、とくに
「ティーン・コート」に関しては、とりあえず最も簡使に参照で
きるものとして、松沢実「少年が少年を立ち直らせる米国の司法
制度」(月刊『潮』一九九七年八月号)を挙げておきます。
(24)とはいえ、子ども・青年への無制限な(自己)決定権の付与
は、かえって未成年者から既成社会への批判権を奪うことにもつ
ながります。先に「明確に大人と区別しつつ、同時に、嘘でなく
大入扱いする」とした、その前半部の合意はここに重なります。
(25)「子どもの権利条約」の実質化を進める運動は、わたしたちに
とっても大きな意義をもつものです。ただ、それらの運動が、ま
ず権利のカタログから事を進めようとする傾きをもつ点や、もっ
ぱら近代(個人)人権を単純に美化する傾きをもつ点などについ
ては、批判的観点を留保したい、と思います。
(26) 最近の沖縄での基地問題をめぐる「高校生投票」は、ここで述
べたような観点からも大きな意義をもつと思います。また、再び
高まっている「少年法改正」をめぐる論議は、この選挙権問題を
抜きに進められている点、重大な問題があると考えます。
(27) 今回は詳論できませんでしたが、「自治」概念を文化的位相と
統治論的位相とに分け、それぞれ〈文化的自律(cultural autonomy)〉
および〈自己統治(self government〉という用語をあ
てて考えようというのも筆者の試論的企てです。柳田國男の「自
治」概念の検討なども踏まえて、あらためて論じる機会を持ちた
いと考えます。
(28)これらの点で「集団づくり」実践のなかには、きわめて多くの
財産があります。ただ、それらを、新たな意味づけ系のなかで生
かしなおしてゆきたいと思うのです。
(29)すでに竹内氏には「六年制中等学校」への全面移行を積極的に
提起する発言(たとえば、三上満氏との対談『「子どもの権利条
約」から学校をみる』労働旬報社、一九九二年、八二~八三頁)
がありますが、わたしたちとしても、義務教育問題の扱いを含
め、根本的な論議を深める必要があると考えます。
子どもの権利を生かす生活指導全書⒂登校拒否・不登校 第四章
193年12月10日発行 一葉書房
登校拒否・不登校の問うていること
藤本卓
不登校のひろがりのなかでの登校拒否
ここしばらく、さまざまな人々によってくりかえし指摘され
てきているとおり、 一九九二年三月の文部省・学校不適応対策
調査研究協力者会議の報告は、わが国の学校教育における登校
拒否・不登校問題の深刻さを、白日のもとに示すものであった。
国家の行政当局でさえ、もはやこの問題を、“世界に誇るべき
学校教育制度“のうえの無視しうる瑕疵かし、あるいはあってはな
らない汚点としてだけ扱ってすませるわけにはいかなくなった
わけである。その意味で、これをもって、わが国の登校拒否・
不登校問題の問題史における一つの画期を成すもの、というこ
ともできよう。とはいえ、報告の関係者たちがしばしば強調す
る「認識の転換」にしても、それは、むしろ状況に強いられて
の追認措置というべきものだろう。事態を左右しているのは、
あくまで子どもや若者たちの制御されざる動きなのだ。⑴
しかし、状況の進展に十分に対応しえていないのは、文部省
など行政の担当者たちばかりではない。学校現場の多くの教師
たち、そして──筆者自身を含む──教育研究者たちもまた、
そうだと認めなければなるまい。この登校担合・不登校問題は、
学校教育のただなかに生じている問題であるにもかかわらず、
教育の専門家たちの追究はいまだ決定的に不足していると、い
うべきだろう。おそらく、教育界におけるこの問題の認識は、
全体として、いまようやくまずもっての初歩的認識がゆきわたっ
た、といったところにあると見てよいように思われる。本格的
な取りくみは、むしろまだこれからの課題なのだ。
とはいえ、先駆的な努力は、もちろんさまざまに行われてき
ている。それらの仕事に学びながら、ここではとくに学校論的
な視角から、登校拒否・不登校問題の教育学的な考察への一つ
の接近を試みることにしたい。
ところで、先の協力者会議の報告書が、ようやくのこととは
いえ、「登校拒否は特定の子どもにしかみられない現象である
といった固定的な観念」を否定し、「どの子どもにも起こりう
るものである、という視点に立って登校拒否をとらえていくこ
とが必要である」と述べていること──つまり「認識の転換」
──は、それとしては、やはり注目に値する。そして、「学校
生活上の問題が起因して登校拒否になってしまう場合がしばし
ば見られる」と、遅きに失したとはいえ、学校の現実の側の
“病理”を一応問おうとする姿勢を示していることについても、
おなじ教育関係者として、私たち自身もまた改めて意識してお
いてよいことだろう。
さらに、この報告書が、ふたたび一応のことではあるが、
「登校拒否」という用語そのものから検討し直そうとする姿勢
を示している点もまた、ひとまず評価しておいてよいことなの
かもしれない。報告書は、「登校拒否」という用語のもつ響き
の狭さを問題にし、近年「不登校」という用語が広く用いられ
るようになってきたことの意義をも考慮にいれつつ、しかしな
お「当面は『登校拒否(不登校)』こと呼ぶこととする」と述べ
ている。もっとも、そのうえで「表現」としては、従来どおり
「単に『登校拒否』を用いる、とするのであるが……。⑵
まず、この辺りから、私たちも自らの考察を始めることにし
よう。呼称の問題は、私たちにとっても、やはり、問題の基本
認識にかかわることと思われるからである。
本書において、私たちは、厳密な統一を行っているわけでは
ないが、基本的に「登校拒否・不登校」という表現を用い、そ
のさい「不登校」という語には「登校拒否」の場合よりも広い
意味をもたせている。しかもなお適宜、「登校拒否」という言
葉で問題の全体(本質)を代表させることも行っている。つま
り、表面に現れた用語法としては、先の協力者会議報告書に、
極めて近い結果になっているわけである。ところがしかし、そ
こへと至る状況判断は、おおいに異なっているように思われる
のだ。
報告書によれば、先のような用語法をとる理由は、なにより
も「混乱」を避けるためである。
「現在のところ、少なくとも教育関係者の間では、『登校拒否』
が用いられるのが一般的であり、今この用語を変えることは、
その問題状況についての定着しつつある認識に対して混乱を生
じせしめる恐れがある」と、報告書は述べている。
率直に言って、これはあまりに便宜的な処置ではあるまいか。
そこには、積極的な主張はとくには何も含まれていない、とい
うことになってしまう。果たして、それでよいのか。
たしかに他方で、報告書は、近年多くの関係者たちが用いる
ようになってきた「不登校」という用語法にも、理解を示す姿
勢を見せている。そしてそのこととも連動して、「登校拒否」
という場合も、その“定義”を極めて広くとっている。すなわ
ち、「登校拒否とは、何らかの心理的、情緒的、身体的、ある
いは社会的要因・背景により、児童生徒が登校しないあるいは
したくともできない状況にあること(ただし、病気や経済的な
理由によるものを除く)をいう」と、するのである。明らかに
これは、そのままでいわゆる「不登校」に当てることも可能な
″定義″だろう。この“定義”は、原因の判然としないまま遷
延する欠席現象の存在について語るのみである。
だからいけない、とだけ言いつのりたいのではない。むしろ、
早くから「登校拒否(症))という呼称(診断名)にかえて、
よリニュートラル(中性的)な含意をもつ「不登校」という用
語を用いることを主張してきた人々の所説との関連をここにも
読み込むことができる、ということをこそ確認しておきたいの
だ。
私たちもまた、それらの所説の意向を原則的に共有する。そ
こには、この問題事象の本質をもっぱら〃個人病理〃とする従
前の捉えかたへの、厳しい批判が含まれていた。たとえば、児
童精神科医・河合洋氏は、すでに八〇年代半ば、次のように述
べている。⑶
精神科医という立場にこだわりつづけていくなかでも、
「登校拒否」という臨床的事実を、精神分析理論、伝統的記
述精神医学、改訂を重ねていく精神障害の分類基準などだけ
で説明したり、位置づけていくことの限界を知るものが増え
てきている、とも言えそうである。その結果の一つとして、
いわゆる神経症と社会・生活構造との関連にはじまり、とり
わけ、「登校拒否」をめぐっては学校状況にたいする注目と
関心が高まっていくことになる。このような捉え直しがされ
ていくなかで、登校拒否現象が、単なる神経症や個人・家庭
病理などを超えた具体的問題である、といった意味をもたせ
るためにも 「不登校」という用語、位置づけが登場してき
た、ということができるであろう。
ここにいう「具体的問題」とは、おそらく、ある時代・ある
社会が特有にもつトラブル、といったほどの意味にとってよい
だろう。つまり、〃病んでいる″のは、むしろ社会と時代の側
だ、ということになる。基本において正当な指摘である、と考
える。
しかも振りかえって見れば、すでに早くから繰りかえし指摘
されてきていることだが、 一口に「登校拒否」といっても、そ
の個別の様相はまったくもってさまざまである。これはそもそ
も、安易なタイプ分けの手法などとうてい通用しない問題群な
のだ(今回の報告書の“態様分類”も陳腐と言うほかはない。
結局は、すべてのケースが「複合型」であろうに!)。さらに
加えて、とりわけ八〇年代に入ってからは、臨床の場から、状
態像の一層の多様化、あるいは質的変化を指摘する声がしきり
に聞かれるようになってきた。発達上のつまずきを抱えての
「ドロップアウト」的な事例や、いわゆる「怠学」と区別のつ
けにくいケース、そして、葛藤の手応えのない「無関心」の事
例など、さまざまな角度からの指摘が重ねられてきている。そ
うした事例の増加の趨勢からして、かつて“中核群”とされて
いた「神経症的な登校拒否」のイメージをもって全体を一律に
表示することには無理がある、とも考えられるようになってき
ているのである。
こうした経過のなかで、「登校拒否」よりも「不登校」とい
う表現が選択されるようになった事情は、たしかに十分に尊重
されてよい、と私たちも考える。問題事象の量的拡大は、問題
把握の質的転換(多元化)を迫ってもいる。安易な一般化は、
ますます無意味になっているのだ。だとすれば、呼称から特定
の評価的含意を取りはらい、現象にたいする最も初期的な記述
にそれを差し戻す、というのはおおいに理由のあることだと言っ
てよいだろう。ひとまずこれは、私たちにとっても、前提的な
確認事項である。
「登校拒否」問題登場の学校史的意味
しかし、私たち――教育に携わるもの――にとって、問題は
そこに終わらない。つまり、これまで触れてきたような、主に
精神医療や心理臨床の場における認識の展開の筋からだけでな
く、まさに学校教育にかかわる実践的関心の筋からも、「不登
校」の語が浮上してくる経緯があったように思われるのだ。そ
してさらに強く言うならば、上述の状態像の多様化の動きに、
学校現場からの発言がからむと、問題はいっそう複雑になり、
しかも一挙に緊張したものになることが少なくないのである。
筆者の遭遇した場合から一例を挙げておこう。
それはたとえば、次のような場面である。教育関係者を中心
に医療・心理臨床・「親の会」そして「フリー・スペース」と
いった、さまざまな立場に身をおく人々が一堂に会しての、あ
るシンポジウムでのことである。パネラーの発言の続くなかで、
その一人であった東京の公立中学校の養護教諭・中尾佳菜さん
は、次のように発言した。⑷
うちの学校で子どもたちがどうして来れないのかな、問題
は何なのかなということで見てみると、私は今の学校での勤
務は八年間になりますが、一番目に先ほどのお母様がおっしゃっ
たような、深くいろんなことを考えて登校を拒否するという
形の子にはまだ会ったことがないです。ただそういう捉え方
はおかしいよと言われるかもしれませんが。二番目に、精神
病の萌芽のために不登校になったという例があります。下痢
とかさまざまな身体症状が強くなってしまって、心身症になっ
てしまって来れなくなった子は二人います。それから、その
他の理由で不登校になったというのはかなりの数あります。
[中略]先に、臨床医の先生の所に相談に行く事例と、お母
さん方の会の方が抱えている子どもたちの事例の話がありま
したが、少し[学校の]現場と違うんじゃないかなというこ
とを思ったんですね。[中略]家庭が子どもたちの安心でき
る場所じゃなくなってしまっている。本当に、食べるとか寝
るとかという、子どもの基本的な生活さえも破壊されてしまっ
ている。そういう家がとても増えてきている。それから、家
族全体の生活がバラバラになって乱れてしまっている。子ど
もがかわいがられていない。そんなふうなことがひとつあり
ますね。
「二番目に」云々という部分には、やや不適切な表現が見られ
るものの、全体としてこうした思いは、学校教育に関わる多く
の現場人たちの共有するところではあるまいか。ことさらに対
立を煽ろうというのではゆめゆめないが、彼女はここで、やは
り、学校現場と臨床の現場とでは課題把握の軸心に少々ずれが
ある、と語ろうとしているのだと思われる。端的に述べるなら、
“学校現場にとっての「不登校」問題の裾野は広く、医療や心
理の臨床現場に把握されている「登校拒否」事例は、多くの場
合その一部分を成すにすぎない“といったふうにである。
ところで、こうした視座のとりかたにつながる先路として、
たとえば竹内常一氏の「これまで中流階層の家族の病理と見な
されてきた登校拒否が、急激に低所得層の家族にひろがりはじ
め、非行・低学力による怠学とむすびつきはじめたのではない
か」という指摘を挙げることができよう。かつて氏はここに
「やや予断をふくんでいうと」と限定を付していたのだが、こ
の留保はおそらくもはや外してよいのだと思われる。右にも見
たとおり、その後多くの現場人たちによって確認されてきたこ
うした動向のうちにこそ、ほかでもない教育実践家たちにとっ
ての特段の取りくみ課題がある、と氏は指摘していたのだ。⑸
しかもその際、そうした問題状況の広がりと変化の全体を覆
う言葉として、「不登校」という呼称に竹内氏は着目したのだっ
た。したがって、ここでの「不登校」という言葉の用いかたに
は、ほかならぬ教育用語としてのバイアスが強くかかっている
と見てよいだろう。つまり、“ここに学校教師の仕事がある”
ということを、それは合意しているのである。事実この後、筆
者の見るところ、教育実践と教育研究の世界に「不登校」ある
いは「不登校・登校拒否」という用語法がしだいに広まっていっ
たように思われるのだ。
ただ、ここまでのことであれば、教育と臨床、それぞれの仕
事物性質の違いということで、まだ必ずしも議論がはなはだし
く縺もつれるというわけのものでもない。ところが、ここに次のよ
うな発言が重ねられると、場の空気は一挙に緊迫する。たとえ
ば、再び先のシンポジウムでのことだが、都立農産高校の女性
教師(Tさん)がフロアからこう発言した。⑹
うちの学校は教育熱心なことで有名なんですが、やはり、
その教育熱心の質が問題だとは思いますが、限界はあるとい
うことをぜひ訴えたいです。最初に結論を申し上げますと、
もっと教師にゆとりがほしい。本当に一生懸命やっています
けれども、私たちのほうがおかしくなってしまいそうなくら
いなんです。教師のゆとり、教師の定員を増やし、生徒の定
数を一クラス二十人から二十二人にしてほしい。そうすれば、
登校拒否なんて絶対なくなるぞ、という自信があります。
自分たちの仕事にたいするこの誇り──彼女の学校の場合、
それは決して夜郎自大ではない──を別にするなら、この発言
の趣旨にはまた、多くの学校関係者の強く共鳴するところがあ
るのではなかろうか。まっとうな現場教師たちは、余裕さえあ
れば、もっと深くていねいに、不登校のあの生徒この生徒とつ
きあえるのに、と日々歯ぎしりしているのだ。たしかに、そう
した学校教育的応接によって、意味ある関わりの可能なケース
は広範に存在しているものと思われる。
だが、彼女の最後の言葉はどうだろう。現場人の自恃じじとだけ
言ってすませられるだろうか。シンポジウムの場でも、即座に
険しいリスポンスがあった。東京シューレを主宰する奥地圭子
さんの、フロアからの発言である。
私自身も学校の教員をやっていた頃、見えなかったことが
すごくあったなと自分の子どもの登校拒否でわかったわけで
す。今ここにいらっしゃる学校の先生方は、子どもの立場に
立って、こうしなければいけないのではないかということで
頑張っていらっしゃるのだと思います。でも、頑張っていれ
ばそれでいいかというとそうでもなくて、ちょっとちがうの
でないか。たとえば、先程Tさんが、 一学級の生徒数がもっ
と減れば登校拒否なんか絶対なくなるぞとおっしゃったので
すが、登校拒否が本当になくなったほうがいいのかどうか。
中尾さんの報告の中にも、『不登校の子を作らないために』
云々ということがありましたけれども、親の立場から言うと、
そうするとうちの子はあってはならない姿にあるのかな、と
いう感じになります。私は自分の経験から、学校に行かない
子が、やっぱりだめな子だとは思わないんですね。学校に行
かない姿を認められるということこそ大事で、それをなくす
るという言葉に置きかえて言ってしまうということはやはり、
登校拒否をしている子たちを認めることにはならないのでは
ないかと思います。
この言葉を、現場教師たちは、屈折した“言い掛かり”と受
けとってはならないだろう。そもそも「うちの子はあってはな
らない姿にあるのかな」といった肩身の狭い思いから、軽々と
解き放たれた親が存在することなど、容易に許されるような境
位にはないのだから、この国のこの社会は……。
とはいえやはり、学校教育に携わる者として、右の発言に釈
然としないものを感じずにすませられる人々も、これまたほと
んど無いといってよいのではあるまいか。「学校に行かない姿
を認められることこそ大事」と言われても、それだけならば気
楽なようだが、やはりどうにも自分たちの仕事をないがしろに
されているような感触をぬぐえない。だいたい、「不登校の子
を作らないために」というのは、なにも「不登校」の生徒を、
ことさらダメな子だと言おうとしているわけではない。むしろ、
「不登校」の生徒を次々と出すような学校のありかたを正そう
というのだ、と。確かにそうだろう。
しかし、ひるがえって、「登校拒否なんて絶対なくなるぞ」
というのは本当か。というよりも、「登校拒否がなくなる」と
いうのは、 一体どういう事態をイメージにおいてのことなのか。
まさしくここは、勢いでだけ言い抜けてしまつてはならないと
ころなのだ。
もちろん、まっとうな教育実践者であれば、ここで、“登校
拒否を克服する“という構えと”登校拒否を根絶する“という
構えの大きな違いはわきまえていることだろう。かつての「非
行」や「校内暴力」への取りくみの教訓を想起すればよい。し
かし、それでもなお、“教育”的色合いの濃いこの「克服」と
いう構えには、子どもたちの側の問題の性質を否定面に一面化
してとらえる傾きがある、と指摘せざるを得ないのではなかろ
うか。やはり、「登校拒否をしている子たちを認める」という
姿勢とは異なっているのだ。
だが、学校教師にとって、「学校に行かない姿を認める」「登
校拒否をしている子たちを認める」などといったことが可能な
のだろうか。あるいは可能だとしても、それはどういう意味に
おいてのことなのか。どうやら、このあたりに問題の急所があ
りそうだ。肝要なことは、このような問いの立て方そのものの
前例のなさである。かつて日本の教師たちが、子どもたちの
「学校に行かない姿を認める」ことを求められたことがあった
だろうか。「登校拒否」の登場は、この国の就学をめぐる問題
の性質を反転させたのだ。もちろん、経済的困難や親の育児放
棄など従来型の就学問題がまったく消滅したということではな
いが、「登校拒否」が突きだしてきたのは、むしろそれらとは
対蹠たいせき的な“強迫的登校”という未見未間の事態であった。
“学校ニ(完璧ナ姿デ)行カネバナラナイ/行キタイ、シカシ
/ダカラ行ケナイ“という独特の心理機制──「登校拒否」問
題とは、じつは「登校強迫」問題とも言いうる側面を有してい
たというこの点を、わけても学校関係者は繰りかえし確認しな
おす必要があるだろう。それは、この国の学校の歴史がほとん
どまったくこれまで知ることのなかった課題を、今日提起して
いるのだと思われるのである。つまり、これは、従前の学校シ
ステムをそのままにした部分的条件改善などでは、そもそも応
接できない底の問題とみるべきなのだろう。そして、そうだと
するならば、「登校拒否なんてなくしてみせる」といった単純
かつ性急なもの言いは、やはり許されないのだ。
こうした意味で、わたしたちは、「登校拒否」という呼称と
問題把握とに、学校史上特別の位置を与えておくべきであると
考える。錯綜した「不登校」事例のひろがりへの対応のなかに
おいても、この視点をゆるがせにしてはならない。現場教師を
主な読者対象にした本書において、あえて「登校拒否」を前面
にだし「登校拒否・不登校」という用語法をとった理由もそこ
にある。
問いなおされる「義務就学」
先に、「登校拒否」の登場は、この国の就学をめぐる問題の
性質を反転させた、と述べたが、その学校史的意味について、
いま一歩立ち入った検討を試みてみよう。
筆者の見るところ、ここで考えてみるべきは、再び竹内常一
氏の先駆け的な指摘である。先にも引いた著書のなかで、氏は、
次のように述べている。⑺
とりわけ、萎縮群や境界知能例の不登校がひろがっている
とき、むしろ教師はもっと積極的に不登校・登校拒否に取り
組むべきである。登校刺激を加えてはならないという登校拒
否論を理由に、子どもへの取り組みはもう精神科医やカウン
セラーの仕事であって、教師の仕事ではないと考えるような
ものは、いつになっても新しい教育空間を発見することがで
きないだろう。
ここでもまた、現場教師に向けてさらに明確に、「登校拒否・
不登校」への積極的な関与が求められているのだが、わけても
重要なことは、それが、ほかでもない教育の仕事にとっての必
要の問題として語られている、という点である。この取りくみ
抜きには、学校教育の未来はない、と語っているに等しいのだ。
ここに言われている「新しい教育空間」の“新しさ”とはい
かなるものなのか。ひとことで言うなら、それは、“ポスト登
校拒否(登校拒否以後)の“という意味での新しさである。竹
内氏自身の言葉によれば、「強迫的登校と登校拒否から子ども
を解放するような『学校』ないしは『教育空間』の発見」を、
それは求めているのである。子どもに「登校拒否を“克服”す
る」ことを求めるのではなく、子どもを〈登校拒否から“解
放“する〉というこの課題設定は刮目かつもくに値する。この構えは、
やはり根本的に新しい。
ただ、注意を要するように思われるのは、この引用の前半部
分である。ここで「萎縮群や境界知能例」などとしてあげられ
ているのは、前にも見たとおり八〇年代に入って増えてきた、
「低所得層の家族」に多く見られるという「不登校」の事例で
ある。さらに言うならば、 つまりそれは、あの神経症的な心理
機制を尖鋭にともなう「登校拒否の中核群」とはかなり様相を
異にして、心理葛藤がそれとしては画然と結晶化しない多様な
「不登校」を指している。そして、たしかにそうした事例の場
合には、個人的な医療やカウンセリングよりも、教育的な生活
指導による関与や社会福祉的な対応のほうが、まだしも意味を
もつということも多いのだ。
しかし、それでもなお、いま大切なことは、それらさまざま
な今日の「不登校」もまた、やはり“ポスト登校拒否”時代の
現象だという事実を、再びみたび確認しておくことである。し
たがって、たとえ「怠学」の事例のように見える場合であって
も、そのまま旧来どおり(登校拒否以前)の応接をしてすませ
るというわけにはいかないだろう。考えてみれば、近年の高校
中退者たちの多くがみせていた、あの理不尽なまでの摑みどこ
ろのなさも、こうした社会的文脈のなかにこそ位置づけられる
のではなかろうか。単純な姿をとるわけではないにせよ、「強
迫的登校」の傾向──「学校」への囚われ──は、そうした子
ども・青年たちをも捉えていると見なすべきなのだ。そもそも、
竹内氏もまた、「近年における登校拒否と怠学との境界線の不
明確化、ないしは連続性という問題状況」を意識するなかで、
先の指摘をおこなっていたのであった。
こうした確認を、少々くどいまでに強調するのは、学校教育
関係者のあいだに、「登校拒否」をめぐるある種“認識の拡
散“とでもいうべき動向もまた看取されるように思われるから
である。すなわち、「登校拒否」について一定の社会的認知が
進むとともに、また実態としても状態像の錯雑化が進行するな
かで、いわば典型的な「登校拒否」事象がこの国の学校史に持
ち込んだあの質的(カテゴリカル)に新たな問題地平の意義ま
で再び曖昧にされてしまう傾向もなきにしもあらずなのだ。そ
して、筆者のみるところ、そうした傾向は「不登校」という用
語の流布とも無縁ではないように思われる。その意味では、
「不登校」という呼称の用い方についても、私たちは細心であ
らねばならないだろう。つまり、ありていに言えば、あれこれ
の「不登校」事例にたいする教育的対応のある種の有効性をもっ
て、「登校拒否」にたいするこれまでの学校教育の根本的な無
力さを糊塗してはならない、ということである。⑻
もちろん、ここにいう「根本的な無力」とは、子どもたちに
〈登校拒否を“克服”させる〉という点で、旧来のままの「学
校」ではほとんど定義的レベルからして為す術がないという無
力さである。この国のこの社会に“強迫”的な生活様式と心性
とをはびこらせてきた最も中心的なエイジェントであった当の
「学校」に、そのままで、その「登校強迫」を一つの核とする
トラブルを“克服”するための手立てを期待できようか。求め
られているのは、子どもたちを〈登校拒否から“解放”する〉
努力であるが、それは、竹内氏も言うとおり、“ポスト登校拒
否“時代の「新しい教育空間を発見する」こと、そしてつまり
は、「強迫的登校」をうむことのない新たな〈学校〉のありか
たを探るということなのである。
だがしかし、そうだとしても、ではその新たな〈学校〉のあ
りかた“に向けて、私たちはどうすれば近づくことができるの
だろうか。
ここで、再び私たちの考察は、冒頭に触れた文部省・協力者
会議の報告へと向けられる。と言うのも、あの報告もまた、
「心の居場所」をキイ・ワードに、「学校」のありかたについて
これまでにない提言を含むものとして喧伝けんでんされたからである。
そしてさらに、その提言はなんと、とにもかくにも「義務教育
の弾力化」にまで言い及ぶものともされているからである。
報告書の言うには、「学校が児童生徒にとって自己の存在感
を実感でき精神的に安心していることの出来る場所──『心の
居場所』──としての役割を果たす」ことが、今日ますます強
く求められており、同時にまた、「学校に行けない状況にある
間、家庭以外に自分の居場所が見出せない」で閉じこもってし
まっているようなケースに対して、「学校以外に様々な適応指
導の機会や場を設け、それらに参加できるよう支援することは、
立ち直りの指導と同時に児童生徒のための『心の居場所』をつ
くるという役割を果たすことになる」。
こうして報告書は、日常の学校における「画一的な指導」や
「過度に厳しい校則」などをたしなめ、「児童生徒をありのまま
に受入れ、共感的な理解を持って、児童生徒自身が自主性、主
体性を持って生きていくことができるよう、きめ細かな指導・
援助を行っていくこと」を求めるのだが、それはつまり、学校
教育の全体に「教育相談」(カウンセリング)的な性質を浸透
させてゆくということであるようだ。そしてその先に──ここ
からが重要なわけだが──いわゆる「保健室登校」や「適応指
導教室」などを位置づけるのである。それらは、いわば“例
外“の措置を学校の日常に導入するものだといってもよい。
たとえば──
……「適応指導教室」は、ほとんど学校に登校できない児
童生徒が指導を受けているが、 一方、学校に通っている児童
生徒の中にも、断続的に登校拒否を繰り返している者や、立
ち直りがみられ学校に再び通い始めたばかりの者もいる。ま
た、学校に登校しても自分の学級には入ることができず、保
健室や校長室で指導を受けている者もいる。このような児童
生徒に対しては、すぐに通常のカリキュラムにより指導する
よりも学校内において教育相談も含めた柔軟な指導を行うこ
とが効果的であると考えられる。(中略)……このように学
校内での多様な指導を行うことにより、登校拒否児童生徒に
対して、再登校後も含めた連続的な指導が可能となるのであ
る。また、このような取組は、登校しても学校内のどこにも
「心の居場所」をもたない児童生徒に、心の安らぐ場所を与
えることになると思われる。
もちろん、これもまた先行する事態の追認措置にすぎず、現
場にとって、なんら目新しいものはないという評価もありえよ
う。しかし、ここでは、その“追認”の事実が重要なのだ。だ
いたいこういう“柔軟さ”や”多様さ“を許さないのがこの国
の教育行政の著しい特性であったのだから……。学校現場はこ
うした措置を、自らの自律性回復にむけておおいに利用すべき
だろう。
しかも、今回の報告書は、話をここで終わらせることができ
ない。「登校拒否児童生徒の中には、適応指導教室にさえも通
うことができず、家庭の中に閉じこもってしまっている児童生
徒もいる」からである。それらの生徒にたいして報告書が示す
処方箋は、たとえば「訪問指導」の導入であるが、さらには、
こうした公的施設・施策だけでなく、いわゅゆる「民間施設」を
もここに動員しようとする。⑼
学校外において登校拒否児童生徒に対する相談。指導を行
うものとしては、適応指導教室、教育センター、児童相談所
などの公的な機関があるが、公的な指導の機会が得られない、
あるいはそれらに通うことも困難な場合で本人や保護者の希
望もあり適切と判断されるときは、民間の相談・指導施設も
考慮されてよい。
ことわるまでもなく、ここで「適切と判断」を下し、「民間
の相談・指導施設も考慮」に入れようとするその主体は、公教
育(行政)にほかならない。つまり、認可等の正規の手続きな
しに民間の活動を公教育の制度内に位置づけようというわけだ。
したがって、この部分が“民間施設への通所でも学校の出席扱
い“と、大きくマスコミにとりあげられたのも当然である。こ
こまでの特例措置の“公認”は、おそらくこの国の学校教育史
上ほとんどかつてない出来事と言ってよい。「義務教育」につ
いて、従前の通念や慣行は、揺るがずにはすむまい。そしてそ
の事実を、報告書の作成者たちは、百も承知なのである。
たとえばここに、見逃すことのできない記事がある。それぞ
れ行政責任者として、また研究協力者会議の主査として先の報
告書の作成に関わった、元文部省初中局長・菱村幸彦氏および
千葉大学名誉教授・坂本昇一氏の対談である。両氏によれば、
「義務教育を弾力的に」という“新視点”の提唱にこそ、今回
の報告書の眼目のひとつがあるとされるのだ。そして、次のよ
うな見解が、ほかでもない文部行政の中枢にいた人物、つまり
菱村氏の口から発せられているのである。⑽
考えてみますと、義務教育というのは子どもの義務じゃな
くて、親の義務なんです。子どもにとっては権利なんです。
この権利を行使する担保として親に義務を課しているわけで
す。しかしその義務教育の観念が子どもたちにとっては、学
校に行かなければいけないというプレッシャーになって、逆
に子どもたちを苦しめているというのは、非常にパラドキシ
カル(逆説的)な話です。それに対して新しい視点を示され
たというのは、これは今までになかった見方だと思っていま
す。
坂本氏もまた、これに呼応する。
……菱村先生は義務教育の問題と言われましたが、まさに
そうで、今度出した私どもの報告で言うと、自立を目指そう
と。だから、義務教育だからといって親にプレッシャーをか
けて無理に来させるようにしたり、あるいは先生方がある権
力を強烈に用いて、場合によれば、子どもたちの人権を無視
するような形で権力を使ったりとかそういうことは否定して、
学校へ行かないという問題も子どもが自立していく過程とし
ていかなくちゃいけないんだという視点を出したわけです。
そうなってくると、当然義務教育ももっと弾力的にという流
れの中に行かざるを得ないという方向が打ち出されたと思う
んです。これは言い方を変えれば、義務教育が徹底したから
起こる現象なんですね。
で、さらに例の“出席扱い”の件についても「子ども一人ひ
とりにマッチする施設かどうかによって、それを[出席に扱う
かどうか]は校長が判断する以外にない」と、坂本氏は述べる
のだ。
これらの義務教育観の“新風”ぶりはどうだろう。いったい、
これまでこの国の義務教育を硬直化させ、弾力性を奪っていた
張本人はどこの誰なのか、とあらためて詰め寄りたくなるでは
ないか。その点は両氏も気になっているようで、とりわけ菱村
氏は、やや弁解口調で述べている。
あれは教育委員会とか学校にはかなり抵抗があるんですよ。
(中略)……ああいうことで出席を認めるということにね。
要するに、義務教育に対する観念がきっちりでき上がってい
ますから、それから外れたものまで認めるんですか、それだ
と義務教育の今の体制は維持できるでしょうかという危機感
みたいのを持っている人はいらっしゃいますね。
それはそうだろう。そうした“危機感”には理由がある、と
私たちだって考える。まして、“きっちりした義務教育観念”
を維持することにひたすら努めてきた教委の職員や管理職の面々
にとって、右の両氏の発言は、さらに苦々しいかぎりではなか
ろうか。それを、いわゆる民間施設の利用は「回復に至るプロ
セス」だ、「自立へのステップ」だと言われても、そう簡単に
納得できるものではあるまい。“コンナ特別扱イヲ他ノ生徒ヤ
親タチニ、イッタイ何卜説明スレバイインダ?“
では、私たちの場合はどうか。「子どもサイドに立てば」云々
などと、あたかも開明的指導者であるかのように、現場人の認
識の遅れを“説諭”しようとする菱村氏や坂本氏の姿勢はいた
だけない。しかし、文部行政の中枢やその諮問機関の中心にい
た人物たちの口から、上のような言葉が語られているという事
実は、決してひとごとでは済ませられないだろう。彼らもまた、
「登校拒否」問題の学む深刻な意味を、この程度までには捉え
ているのだ。つまり、この問題が「義務教育の今の体制」を揺
るがしかねないことを知りつつ、なおそれに手をつけようとし
ているのである。
そうだとすれば、私たちもまた問うてみなければなるまい
──「私たちにとって『義務教育』とは何か、何であったか、
何であるべきか」と。そして、私たちの求める〈新しい教育空
間〉・新たな〈学校〉のありかたは、「義務教育の観念」をど
のように位置づけることになるのか、改めて意識し直さなけれ
ばならないだろう。
「義務教育」とは何であったか
おそらく復習するまでもないことだが、義務教育の「義務」
の意味は、わが国にあっては戦前と戦後で原理的に転換した、
とされている。つまり、戦前には、国家に対する国民(臣民)
の「義務」であった就学が、戦後の現憲法下では、国民(子ど
も)の「教育を受ける権利」の行使と位置づけられるようにな
り、それにともない「義務」は、その国民の権利を保障すべき
大人(親・社会)の側に課せられるものになったのだ、と。そ
して、おおよそのところここまでについて、法制上の建て前の
こととしてなら、大方の一致があると言うこともできないわけ
ではない。⑾
しかし、そうした法制上の転換が、社会通念・一般の社会意
識における義務教育観にまで及んでいるかと言えば、問題は別
である。義務教育を受けること・学校に通うことを、子どもの
“仕事”になぞらえる語り口は庶民の日常に親しいものであり
続けているし、また為政者たちのなかにも、国家と社会の差異
を曖味にしたまま、義務教育をもって個別利害を超えたものと
して価値づける論法が広く見うけられる。こうした捉えかたに
は、それぞれ根の深い由縁があるとも言えるのだが、そこに戦
前と同型の義務教育観が忍び込み、生き残っていることもまた
事実少なくない。とりわけ、当の子どもたちにとって、自らの
意思とかかわりなく義務教育学校には通うべきものとされてい
るという点で、戦前・戦後でどれほどの変化があっただろうか。
先の法制上の転換にもどるなら、言われるほどの原理的な変
化を経て、なぜ、なお同じ「義務教育」という言葉が用いられ
続けるのか、という素朴な疑間がある。言葉は同じでも根本的
な意味変容を遂げたのだ、と言ってすむのだろうか。周知のと
おり「義務教育」という言葉は、compulsory educationの翻
訳語であるが、このcompulsoryとは、元来“駆り立てる・強
制する“と言う意味をもつ語である。しかも、ここでの私たち
にとって極めて興味深いことには、心理的な「強迫」という場
合のcompulsionと、これは同語源の言葉なのだ。そして実際、
明治にはこのcompulsory educationを「強迫教育」と訳して
きた経緯があるのである。
してみれば、戦前・戦後で「義務」の意味が根本的に転換し
たという説明の仕方にも、難点が残ることになろう。戦後に言
うところの「国および地方公共団体の学校設置義務や就学援助
義務」などの義務(責務)概念は、子どもにとって問題となる
「就学義務」の義務(強制)概念とは明らかに別物と言うべき
ではなかろうか。しかも、子ども自身には「義務」はなくなっ
たのだと言われても、子どもを就学させる親の「義務」は(形
を変えて)存続し、なおかつ就学督促の公的介入があるのであっ
てみれば、それは言葉の上だけのキレイゴトということになり
はしないだろうか。ところがしかし、同時にまた、「就学義務」
の規定を抜きに、すべての子どもの「教育を受ける権利」を保
障することができるだろうか。ここにアポリア(難問)がある。
この問題について、筆者の見るところ必ず参照されてしかる
べきは堀尾輝久氏の諸論稿であるが、その堀尾氏もまた、ほか
でもない「義務教育観念の再検討」と題された論文においに、
登校拒否や高校中退の子どもたちの例に触れつつ述べている。⑿
わが国憲法にある人権規定のなかで、教育を受ける権利ほ
ど、権利としての実感から遠いものは少ないのではなかろう
か。(中略)ここでは、大方の子どもにとっては、教育は、
自分で望んでいないのに、親から、あるいは社会から押しつ
けられている義務(=強制)でしかない。
しかも堀尾氏は、この論稿を執筆した一九八三年の時点にお
いて、考察をすでに問題の急所(「義務就学」のアポリア)に
届かせているのである。
父母・教師が、学校へ行きたがらない子どもを、なぜ就学
させる努力をしなければならないのか。
かつては、この問い自体がフィクション〔虚構〕に過ぎな
いと考えられてきた。なぜなら、教育は本来よきものであり、
子どもたちにとっては必要であり、すべての子どもは学校ヘ
行きたがっている。その彼らが学校に行けないのは、経済的
貧困や、特別の障害のある子どもだけなのだということで説
明されてきた。
しかし、今日では、この説明のほうが逆にフィクションと
なってきているところに問題の複雑さがあり、アメリカでも、
このような現実の上に、義務教育年限の切り下げを検討しよ
うという意見も存在しているのである。
もっとも、この問題にたいする堀尾氏のさしあたっての答え
は、少々両義的に見えるものである。「就学を強制することは、
子どもの人権を、かえって犯すことにもなるような現実」が存
在する以上、“教育を受けるのは子どもの権利だ”などとだけ
「権利論を観念的に主張」してすませることは許されない。し
かし他方でまた、「義務年限の引き下げ論」や「脱学校論」も
「観念的権利論と同じく空想的」だ、と氏は指摘する。したがっ
て、「学校に教育が『不在』だとすれば、教育をつくりだす努
力がなされるべきであり、それなしに登校拒否の自由を主張す
ることは、問題の個人的解決ではあっても社会的解決にはなら
ない」というのである。
堀尾氏の原則的な立場は、「小・中学校の登校拒否や高校生
の中退者の存在自体が提起している問題を真剣に受けとめた上
で、なお現実をフィクション〔理念〕に近づける努力を続けな
ければならない」というところにある。つまりは、就学が強制
にならないような魅力ある学校を実際につくれ、ということか。
だが、「就学義務」の話はどこへいったのか。これだけを読め
ば、この堀尾氏の論述は、いわば“論点変更の虚偽”を犯して
いるように見えるかもしれない。子どもたちが学校に行きたが
らないということがまったくなくなれば、たしかに「就学強制」
を問題にする実質的必要もないのだから……。なんだか、はぐ
らかされたような気もしよう。
しかし、堀尾氏の立論には、さらにもう一層の下地があるこ
とを見落としてはならない。氏は、この論稿の末尾を、極めて
重大な一文で締め括っているのである。すなわち――、
……そのような〔中等教育改革の〕努力と事実に支えられ
て、権利としての教育を軸としての義務教育の観念も確実に
展開し、その帰結として、義務教育は観念においても、事実
においても、止揚される時が訪れよう。
堀尾氏にとっては、「権利としての教育を軸とする義務教育」
──つまり戦後の義務教育──もまた、歴史における一つの過
程的事実にすぎない。そして、そもそも「義務教育」というも
のそのものが、弁証法的に「止揚」されるべきものと捉えられ
ていたのである。ここでの弁証法用語の動員は、決して言葉の
飾りではない。氏の説くところ、「義務教育」――なかんずく
「権利としての義務教育」――という事柄ザッヘそのものが矛盾的存
在(具体としての矛盾)だ、ということだろう。アポリアはこ
こに発する。したがってそれは、単純な主観的否定によって打
ち消すことはできないが、事態の歴史的な展開のなかで必ず乗
り越えられるべきもの、とされているのである。わたしたちも
また、こうした理路を銘記しておかねばなるまい。
確かに、歴史を振り返るとき、「義務教育」という事実は、
世界的にもプロイセン絶対主義国家に源をもち、また、後の欧
米各国および日本におけるその制度的確立の動きも、列強の帝
国主義化の進行と軌を一にしたものであった。その歴史的な出
自の“いかがわしさ”は、決してわが国だけのことではない。
じつは、こうした論点を鋭くつきだす視角をそなえているとこ
ろこそ、堀尾氏の義務教育論の白眉だったのだ。これまた、そ
のものずばり「義務教育とは何か」と題された論文において、
氏は述べている。⒀
義務教育が国家的ネーション規模ワイドで整備されるのは一九世紀末以降で
あり、資本主義の発達と独占化の進行の中での、産業技術の
側からの教育要求、階級対立の激化と 「二つの国民[国民
の二極分解]」の危機の深化、植民地分割と帝国主義戦争の
危機等の新たな社会情勢に対応する「国民」教育への要求
等々の諸要求のなかで、国家の比重の増大と公教育への国家
介入の理論にともなわれて義務教育は成立し、国民に就学が
義務づけられることになる。
あるいはまた──、
一九世紀末の、義務性を中心とする教育諸立法は、国家が
国民生活の中に積極的に介入することを期待するものであり、
それゆえ、教育立法は社会法の一つであり、福祉行政のあら
われだとみなしえよう。しかし、このことから、ただちに、
社会法は社会権の法的規定であり、教育を受ける権利が社会
権として認められたという結論を導くわけにはゆかない。義
務性を中心とする教育立法は、国民の権利としての教育の思
想の系として、その権利の現実的保障として実現をみたので
はなく、むしろそれと対立し、ないしその権利を空洞化する
理想にもとづいていた。
つまり、「就学強制」を本質とする義務教育の思想と制度は、
堀尾氏論ずるところの“市民社会の構造転換”のなかで、「権
利としての教育」の理念にもとづく古典近代の公教育思想と、
ほんらい対立・競合するものとして登場してきたということだ。
改めて確認しておこう。わたしたちにとって求めるに値する
ものは、〈無償・非強制の権利としての教育〉なのであって、
そこには「義務就学」の規定は本原的には含まれないはずなの
だ。もちろん、その後の歴史的事実として、労働者等民衆の社
会運動のなかから「義務教育」の要求が積極的に提出されたこ
ともある。親権の濫用を防ぎ、教育における平等に近づくため
に、たしかにそれは歴史的な役割を担いもした。先人たちのそ
の力闘によって、義務教育の制度が、むしろ子どもの学習権を
保障する手段となった場合も少なくない。「権利としての義務
教育」とは、まさにそうした意味での矛盾体なのである。だが、
それでもやはり、あるいはそれゆえやはり、その場合をも含め
て、義務教育の整備の過程には、「教育をめぐる国家と親権の
あいだの長い抗争」が映し出されているのであって、堀尾氏も
鋭く指摘するとおり「教育権が親から国家へと移行することに
よって、義務教育は可能になった」と言わねばならないのだ。
権利としての学校教育ヘ
このように見てくるならば、今日、私たちの自覚的に立つべ
き地平、そして、努力を傾けるべき方向も、明らかになってこ
よう。
この国の学校教育が現在直面している「登校拒否・不登校」
問題(そして「高校中退」問題)──それは、まさしくあの
「権利としての義務教育」の孕んでいた具体的矛盾を、いま一
歩、歴史的に展開するよう迫るものとして、私たちの眼前に立
ち現れてきているのである。すなわち、私たちの今日の努力は、
遥かに、しかし紛れもなく、堀尾氏の言う「義務教育の止揚」
へと向かうものでなければならないのだ。竹内常一氏の指し示
していたあの「新しい教育空間」もまた、必ずやこの「止揚」
の課題へと連なるものであるはずだろう。
そして、そうだとすればまた逆に、件の協力者会議報告書の
底も割れてくる。先にも見たとおり、報告書は一方で、事実に
おされながら渋々のこととはいえ、「義務教育の弾力化」とも
称じうる措置を認めていた。しかし、他方ではやはり、「登校
拒否の問題については、あくまで児童生徒の学校復帰を目指し
て支援策が講じられる必要がある」というタテマエを、いちお
う文字にしておくことも忘れない。すべては「我が国の義務教
育制度を前提にした」うえでの話、ということになっているの
だ。だとすれば、つまるところ、“義務性維持”という大枠が
揺らぐなかで、なおそれを取り繕うためのあらゆる責任を地方
と現場とに押しつける、ということではないか。報告書のなか
に見られる、たとえば、「年度内に約三割の児童生徒が再び登
校することができるようになっている」という指摘にしても、
「学校、家庭、関係機関等があらゆる機会に緊密な連携を図っ
て取り組むことにより、登校拒否の問題のかなりの部分を改善
ないし解決していくことができる」という文言にしても、こう
した方向づけのなかでは、“登校拒否対”″の周密化とシステ
ム化の動きとを呼び起こすだけ、ということにもなりかねない。
やはりこれは、〈子どもたちを登校拒否から″解放″する〉と
いう構えと基本において異なっているというほかはない。⒁
しかしそれでは、私たちの場合はどうなのか。〈義務教育の
止揚〉の課題を意識しつつ〈新しい教育空間〉を拓いてゆくこ
と──言葉にするだけなら、それほど難しいことではない。だ
が、それはいったい、実際には何をどうすることなのか。とり
わけ公教育内部の仕事としては、どのような具体的方途が考え
られるのか。すべては実践の進展にまつべきだが、現時点で筆
者に可能な着意のありかについてだけでも述べておこう。
まず、「義務教育の止揚」を望見しようとする私たちにとっ
て、いま眼の前にいる子どもたちの就学・不就学の事実の重み
をどう考えるか、という論点がある。「義務教育」の問題性を
超えようとする私たち――わけても現場実践家――は、もはや
子どもたちの学校への出欠にいちいちこだわる必要はないのだ
ろうか。別言すればつまり、「登校拒否」について私たちは、
文部省・協力者会議のように、「あくまで児童生徒の学校復帰
を目指して支援策が講ぜられる必要がある」とはしないのだろ
うか。単純にそうとは言えまい。具体実践の修辞レトリックは、往々にし
て逆説を強いられる。
当然ながら、私たちにとっては、子どもと親の側の「就学義
務」の履行が問題なのではない。だいたい、“教育を受ける権
利=就学の義務“という欺瞞への、子どもの“からだ”からし
ての応答が「登校拒否」現象となる、とも言えるのだった。し
たがって、 一律の「登校督促」や、まして乱暴な「登校強制」
などが許されないのは言うまでもない。しかし、出席しない彼
や彼女の「学校復帰」に、何らかのしかたで食いさがることも
なく、学校のありかたを深く問うことなどできないだろう。本
来、彼や彼女のものでもあるべき〈学校〉なのだ。教師は、
「就学義務」の強制作用(あるいは偽りの規範力)ぬきに、「あ
くまで児童生徒の学校復帰を目指す」ことをとおして、じつは
「学校」の従前のありかたを質し、「義務教育」の呪縛から実践
的にわが身をも解き放つべきなのだ。その意味ではむしろ、報
告書の問題は、「あくまで……」云々が事務的管理のことば
(タテマエ)として語られて、実質的な処理課題は「出席認定」
のつじつま合わせ──「義務就学」制への形式的回収──にお
かれることになる、という点ではなかろうか。⒂
とはいえ、「学校復帰」にこだわることをしか試み得ないと
いうのはもちろん正しくないし、反面また、「学校復帰」が果
たせなければその教師の実践は失敗だ、ということでもない。
実践的に追求されるべき眼目は、当の親と子どもの〈教育への
権利〉を恢復するということにある。
先に見たとおり「義務教育」は、親の教育権を国家が奪いと
るという側面を有していた。考えてみれば、「登校拒否」とい
う振る舞いをとおして、子どもたちが親や教師に全身で問いか
けているのは、まさにその問題ではなかったか。 ″父母ヨ、教
師ヨ、他ナラヌアナタ自身ハ、私ヲドウ育テタイノカ!?″教師
は、子どもとの関わりを介して、今日における〈親の教育権〉
のありようを父母とともに探らなければならない。その作業は、
必然的に親の教育権の教師への「信託」の中身を問うことにも
なろう。しかも──ここが大切だと思うのだが──この作業に
おいてはむしろ、当事者である父母たちのほうがより深く問題
を掘り下げていることがしばしばである。少なくとも、潜勢的
にはそうだろう。したがって、ここで学ぶべきは、誰よりも私
たち教育関係者の側なのだ。
実際この日本にも、今日では、〈親の教育権〉の再建へと踏
み出している父母の動きが、多様に存在し始めている。そして、
「登校拒否」に関わるさまざまな「親の会」の活動のなかにも、
そうした動向を共通に読み取ることができるように思われるの
だ。わが子の予期せぬ振る舞いに、狼狽うろたえ、焦り、絶望してい
た親たちが、苦悩を同じくする人々と出会うことで自分を取り
戻し、ありのままのわが子をそのまま全的に受けとめ直そうと
する。親たちがこうして臍ほぞを固めることができるなら、子ども
のトラブルも貧しい悲劇に終わることなく展開してゆくのだが、
それはすなわち、たとえプリミテイブ(原初的)な姿ではあれ、
父母が自らの教育権をふたたび自分の手に取り戻しつつあると
いうことではなかろうか。(さらに、父母の手で子どもの居場
所[フリー・スペース]が確保される場合など、ことの性質は
一層明らかだ。)教師はこうした父母たちのたたかいを支え、
励まさねばならない。そしてさらには、こうした父母たちに支
えられ、励まされながら、彼ら彼女らを含め父母との間に自覚
的な〈信託〉関係を結び直し続けてゆかねばならないだろう。
それはおそらく、予定調和を約束された幸福なばかりの関係と
は言えないかもしれないが、それでも、あの〈新しい教育空間〉
は、やはりそこにしか拓かれはしないと思われるのである。
ところで、その〈新しい教育空間〉だが、竹内氏がそれに触
れたのが「学校の二重構造」を問題にする文脈のなかであった
ことは見逃せない。氏が語るのは、「支配機構の一環としての
学校」(システムとしての学校)と、その裏にそれと対立して
存在する「学校仲間(school community)」(コミュニティと
しての学校)との錯綜した二重性の問題である。しかも、この
二つのそれぞれが、登校拒否の子どもたちにとって、「学校に
行かねばならない」というときの学校と「学校に行きたい」と
いうときの学校にあたっている、とされるのだ。そして、氏は
次のように指摘する。⒃
かれらは、まさにこの二つの「学校」に引き裂かれている
ために、登校することができなくなるのである。そうだとし
たら、不登校・登校拒否の子どもを指導するばあい、この二
つの「学校」を取り組みの視野にいれなければならないだろ
う。
この指摘は、さらに究明され、おおいに発展させられてしか
るべきではなかろうか。なかでも〈スクール・コミュニティ〉
については、ここでもぜひ一言触れておきたい。というのは、
まさにそれが「義務教育の止揚」の問題に深く関わると考えら
れるからである。
いま仮に思考実験として、たとえばこう問うてみよう──
「就学義務」をいっさい抜きにして子どもたちは果たして学校
に通うだろうか、と。当然いくつかの回答の筋が考えられよう
が、この問いにイエスと答えるばあい、そこに想定されている
学校とは、まちがいなく右の「コミュニティとしての学校」
(学校仲間)であるだろう。実際、現在にあっても子ども・若
者たちの心意において、通学を日常的に担保しているのは“学
校ニハ同世代ノ友達ガイル“という思いではなかろうか。とこ
ろが、「登校拒否」問題には、まさしくその「コミュニティ」
の未形成あるいは頽落化のなかでのトラブルをきっかけにする
事例が少なくない。ここに教師の中心的な取り組み課題がある
ことは明らかだ。
ただしかし、それを教師(個人)の手による「心の居場所」
づくりに矮小化してはならないだろう。今日、改めて執薯一して
みなければならないのは、子ども・若者たちの同世代集団の意
味と役割である。まさに、〈世代の自治、世代の権利をもった
コミュニティ〉をこそ彼らは奪い返さなければならない。それ
こそが、子どもにとっての教育権問題──ひいては〈子どもの
権利〉の問題──の軸心なのだ。生活指導実践は、これまでも
集団とその自治とに特段の照明を当ててきたのだが、今改めて
″世代″という焦点を自覚的に設定する必要があるのではなか
ろうか。「登校拒否・不登校」問題とは、まぎれもなく今日の
子ども・若者たちにとって「世代の問題」なのである。
注
(1)この「学校不適応対策調査研究協力者会議報告」について、ここ
では『季刊 教育法』(八八号、 一九九二年六月、エイデル研究所)
所収のテキストを使用する。初歩的な誤植が目につくのが難点だが、
おそらくは一般にもっとも入手が容易であると思われる。以下、同
報告書からの引用の頁付は、これによる。また、引用文中の[ ]
内は、引用者による。ちなみに、報告書は「登校拒否問題は現在の
わが国が抱える最も重大な教育課題の一つであるといっても過言で
はない」(七八頁)と言う。
(2)同前書、六〇~六三頁。
(3)河合洋『学校に背を向ける子ども』一九八六年、日本放送出版協
会、七九頁。また、筆者の知る範囲で、さらに早い時期に“不登校
“の語を用いるよう論じたものとしては、渡辺位「不登校」(清水将
之編『青年期の精神科臨床』一九八一年、金剛出版)がある。もっ
とも、用語法には一考を要する微妙な差異も見うけられる。改めて
検討する機会をもちたい。
(4)教育科学研究会・横湯園子編『不登校・登校拒否は怠け?病い?』
一九九一年、国土社、七二頁。本書は一九九〇年八月の教科研全国
大会でおこなわれたシンポジウムをもとにしたものである。なお、
本書の「あとがきにかえて」(横湯園子氏執筆)にある[このことは
ぜひのご配慮を][してはいけないこと]等の現場教師へのアドヴア
イスの部分は、それだけでいわば的確な“登校拒否対応の心配りミ
ニマム“となっている。ぜひ参照され、本稿の抽象性を補うととも
に、さらに広く活用されることを希望したい。
(5)竹内常一『子どもの自分くずしと自分つくり』一九八七年、東京
大学出版会、 一〇〇頁。
(6)横湯編 前掲書、 一〇九頁~一一一頁。
(7)竹内 前掲書、 一三七頁、 一四〇頁。
(8)精神科医・石坂好樹氏は、横湯編前掲書(二一頁)において、今
日の問題事情を把捉するために「象徴としての登校拒否」という表
現を用いている。ここでの筆者の論旨を、この言葉を借りて表すこ
ともできよう。
(9)前掲報告書、七七頁、七九頁。
(10)坂本昇一・菱村幸彦「登校拒否への対応」『学遊』一九九二年四
月号、第一法規、 一九~二〇頁。なお、この月の特集タイトルは、
いみじくも「義務教育の新風」である。
⑾このレベルでは、先の菱村氏の「義務教育というのは子どもの義
務じゃなくて、親の義務なんです」といった発言をも含めて、“大
方の一致“を想定できよう。しかしヽ菱村氏の場合、この文脈では、
国や自治体の義務に触れていないという点を見落としてはならない
だろう。
⑿堀尾輝久『人権としての教育』一九九一年、岩波書店、一八八頁
一九七~二〇〇頁。
⒀同前書、一六六~一六七頁、 一七一頁。管見では、堀尾氏の義務
教育論の勘所は、コンドルセに触れて次のように述べる部分にある
と思われる。「こうして、近代公教育の思想においては、教育の権利
主体は子どもないし新しい世代であり、教育機会配慮の義務を負う
ものは親であり社会であるとされる。これも一つの義務教育の主張
だとすれば、それは就学強制とは理論的には相反する義務教育論で
あった。そして、たとえばコンドルセの公教育案に、無償の規定は
あるが義務就学の規定がないのは、『その思想的遅れ』ではなく、む
しろ権利としての教育の思想の必然的帰結であったといえよう」(一
六四~一六五頁、傍線は引用者)。ただ問題は、氏自ら「一つの」に
傍点を付すというこだわりを示しながらも、肝心の「……だとすれ
ば」という仮設の部分が、そのあと追尋されないまま、すでに認証
された事実として扱われてしまっている点にある。筆者自身、今後
の究明課題として意識しておきたい。
⒁前掲報告書、六六頁、八〇頁、六五頁。「我が国の義務教育制度
を前提にしたものであること」とは、報告書に付された『民間施設
についてのガイドライン(試案)』にある文言だが、極めて曖味で間
題の多いものと言わねばならない。
⒂たとえば、奥地圭子氏が近著『学校は必要か』(一九九二年、日
本放送出版協会)で報告している次のような事実も、極めて両議的
な意味を含むものだろう。肯定であれ否定であれ、単純に評価する
ことはできない。
「学校現場もまた変化しつつある。 一九八九年あたりからとても顕
著になってきたのは、登校刺激についての学校の考え方であり、以
前はあれほど学校に戻そうとしていたのに、拍子ぬけするぐらい、
登校拒否を認めはじめたことである。教師から、『お母さん、学校に
来させようとしないでください』『ゆっくり休ませてください』『東
京シューレに行くのはいいことです。自分にあった場で成長するのが
いいんですよ』などといわれることが多くなってきている。そして、
以前はよくもめていた進級・卒業の問題が、もめなくても卒業でき
るようになった」(二一五~二一六頁)
なお、ここにも触れられている「進級・卒業の問題」に関しては、
さしあたり、小林剛「不登校・登校拒否の子どもの進級・卒業」
「季刊 こみゆんと』八号、 一九九三年二月、あゆみ出版)を参照
されたい。義務教育にあっては、出席日数による進級・卒業判定に
ついての法的規定は存在しない。
⒃竹内前掲書、 三二四~一二五頁。
登校拒否・不登校
子どもの権利を生かす生活指導全書⒂
第四章
1993年12月10日発行 一葉書房
創刊号(1974年4月)
ゼミナール運動論覚え書き
藤本卓(常任委員・22回生)
⓪はじめに
ゼミナール運動はいま、自らの理論を求めている。運動の根本理念、社会的意義、そして詳細な運動技術にまでわたる理論を求めている。
これまでの運動は、経験主義の淵をはいずりまわることに終始するか、特定の個人に依存し、ひきずられるか、といった場合が多かった。あるいはまた、ゼミナール運動の独自性をとらえることができず、短絡的な政「政治」主義の道をとるか、逆に、目的のない「学問」至上主義の道をとるか、二つの道の間を揺れ動いてきた。これらはみな、広範な学友の参加と、質の高い研究の前進をさまたげてきた。
ゼミナール運動は今、自らの理論を求めている。四年間ですべての構成員が入替る学生の運動の特殊な困難を考えるならば、これはいっそう切実である。
ゼミナール運動論の構築はたやすくはない。しかし、運動がそれを求めている以上、その必要に応えるのは、私たち自身をおいてない。〈隗より始めよ〉私もまた、これまでのゼミナール運動論の構築に参加したい。もとよりそれは〈覚え書き〉程度のものでしかないのだが……。ゼミナール運動論は、私たちすべての集団的しか構築され得ないだろう。この〈覚え書き〉が、そのための討論の火種となることができたならば……。
⑴人間の疎外状況とゼミナール運動
「もしも人間を完全に窒息させ滅ぼそうと思うなら、(中略)彼のやっている仕事に、絶対的な無目的性と無意義性をもたせさえすればよいと、ある時私は思ったものだ」かつてこう書いたのは、ドストイェフスキーであった。私たちは、自分の仕事(勉強であれ、ゼミナール運動であれ)の目的と意義をしっかりとわが手ににぎりしめているだろうか。たとえ勉強に「目的」があったとしても、それが単位をとって卒業することであり、教師になるためでしかないとしたら、目的があるとはとうてい言い切ることはできない。そのような「目的」とは手段の別名でしかないのだから。
もともと人間とは意味を問う存在者であった。自己の存在と労働とが、自己の人間的力の表出であり実証であるような、そのような意味を問う存在者であった。しかし、私たちは、このような意味を問うことを忘れてはいないか。忘れさせられてはいないか。自己の仕事(勉強)の意味を問わない人間(学生)それはすでに一つの完全な自己矛盾ではないか。
このような現代の人間疎外の現象形態を、真下信一氏は次のように整理している。まず第一に、人間の一面性・部分品化、第二に個体化もしくは孤立化そして第三に人間の内面的空洞化、空疎化である。これはそのまま、私たちの学園と私たち自身にもあてはまるのではないか。ゼミ実準備会の発足にあたって呼びかけの詩〈学友と呼ぼう〉が、〈学友と呼びかけることにとまどいを覚える〉とうたいはじめられたのは、そのゆえであった。
私たちのゼミナール運動は、このような人間の疎外状況の克服を目指すものでなければならない。人間の一面化に対しては、全体的発達・普遍的人間を、人間の孤立化に対しては、人間的連帯と協働を。そして内面的空洞化に対しては、富を持つ人間ではなく、自身が富であるような豊かな人間的充実を、それぞれ対置し実現する運動でなければならない。総じて私たちの生活の意味(目的)を、私たちの手に奪還する運動でなければならない。(これが、私たちにとっては、〈学びがいの回復)の基本である〉そして、ゼミナール運動は、自主的-民主的―集団的―研究―運動として、さきの疎外現象を克服するすべてのモメントを含んでいると言えるのではないだろうか。
次にフランスの物理学者ランジュヴァンの言葉を引用しておきたい。
「自分の可能性を最もよく発揮し、自分の性質や適性に最も合致する方向に自分を発展させる者こそ最も自由である。ただし、これはますます範囲がひろがり、ますます分化してゆく集団内部の相互扶助と連帯によらなければ、不可能である。したがって個人から国民に至るあらゆる段階の人間組織を含むわれわれの間の結合がいっそう大きくなるとき、自由は各人にとって増大していくのである。利己主義でも事大主義でもなくて、多様性のうちの連帯性―これが真の自由の方式の一つである。」
「もう一つ本質的な方式がある。すなわち、無秩序や無知のなかには自由がないということ。最も自由な個人とは、自分の行為の結果を最もよく予測しうる者、自然法則および人間に関する法則をもっとも明瞭に意識している者ではなかろうか?」
私たちにとって自由とは、まずなによりも、自己の可能性の開花である。人間としての普遍的発達・自己実現である。そして私たちは自由を、客観的世界の法則的認識と集団的連帯によってしかつかみとり得ない。ゼミナール運動は、そのような意味で、疎外からの解放と自由を目指す運動だと言えるだろう。
ゼミナール運動をすすめていて、行きづまったとき、私たちの視野はせまくなってしまう。運動にのびやかさがなくなってしまう。運動の意味がボンヤリかすんで、自分には縁遠いものに思え、他方では活動の実務的な繁雑さだけが目につくようになる。「個人」としての生活と、「運動」の中での生活は、統一しようもなく隔たっているように思えてくる。
このようなとき、目前の実務にだけかかずらうのではなく、視野を広げ、運動の初心にたちもどってみることが大切ではないだろうか。私にとって、ゼミナール運動の初心は、さきに書いたようなものであった。
参考文献
「思想の現代的条件」 真下信一 岩波新書
「科学教育論」 ランジュバン 明治図書
⑵研究会〈学習会〉運営について思いうかぶあれこれのこと
私たちは、自主的なサークルやゼミ、教官ゼミ、民間教育研究団体など集団的な研究会に参加して学ぶ機会を数多くもとうとしています。そしてたしかに、一人で学ぶよりも仲間と共に学ぶことの大切さを感じています。ですが、同時にまた、ただ時間のムダという気持だけが残るような研究会も数多く経験します。実り多い研究会=集団学習の運営は至難の技だと、つくづく思い知らされます。以下に、研究会(学習会)運営について、思いうかぶあれこれのことを書いてみます。
⒜「わからない」ということは……
「わからない」ということは、誰にとっても他人には言い出しにくいものです。研究会に参加して、わからないことを「わからない」と言い出せないまま、学ぶことも少なく後味の悪い思いをすることかよくあります。また、そのように感じている人がいて、研究会そのものがうまく進まなくなることもでてきます。
「わからない」とは一体どういうことなのでしょう。私は次のように考えます。
次の図を見てください。
図A(円の内部は斜線で塗りつぶしてあり既知とある。その円周に「わからない」とある。Xは円から離れて存在している)
図B(同上だが、Xは円周「わからない」上にある)
まず円内が既知の領域。つまり、すでにわかっていることです。円の外は未知の領域で、まだわからないことがらです。そして、既知と未知の境界線―円周の部分―が「わからない」と感じることがらです。AからBへ発展すると、円周は長くなります。つまり。すでにわかったことが多くなるにつれて「わからない」と感じることもふえていくわけです。とするならば、「わからない」ことが多いことは決して恥ずかしいことではないと言えるでしょう。
とは言うものの、Aの人の場合、Xの問題は円周上にはなく、「わからない」という疑問を持つこともできない、手のとどかない所にあるわけです。私たちが、しばしば、「何がわからないのかわからない」といった気持ちを持つ場合がこれにあたります。このようなとき、BのようにXが円周上にくるようにしなければなりません。自分には今、どれだけのことがわかっているか。Xがわかるようになるたには。それ以前にどれだけのことをわかっている必要があるか。それを、仲間に助けられながら整理する必要があります。それは、「よからない」人の権利だと言えるでしょう。
参考文献 「若い世代と学問」Ⅰ生きることと学ぶこと
古在由重・島田豊 日本青年出版
(b) 教養部旧42クラス日本史学習会テーゼ(?)……
かつて教養部時代、私も参加していた、42クラス日本史学習会のグループは、「わからないことを、わからないと言わないのは、共に学ぶ仲間の学習権をも奪うことになる」というテーゼを生み出しました。学習会の中で、友人の「ナンデソウナルノカナァ」「ワカラヘン」「マダ、ヤッパリワカラヘン」という質問にねわかっていたつもりのことが実はよくわかってはいないのだということを、何度も思い知らされたからです。「わからない」人にもとにかく発言してもらおうと始めたのですが、実は研究の質を高めるためには、「わからない」という発言が非常に大切なものだということに気づいていったのです。
それに気づいたあと、「わからないことをわからないと言う」ことは、「わからない」人の権利であるだけではなく、研究集団全体に対する義務でもあるのだ、と話し合ってつくったのが先のテーゼです。
〈わからないことをわからないと言わないのは、共に学ぶ仲間の学習権をも奪うことになる。〉
「わからない」「そうかなあ」「やっぱりわからない」と知ったかぶりをする友をやっつける楽しみを、集団研究の中でもっと味わおうではないですか。
⒞「考える」ということは……
「考える」ということは、どういうことなのでしょう。少し難しい問題を子供に与えると、彼はなにやらブツブツ言いながら考えはじめます。アアデキナイナ、コウデモナイナ、ソウヤ、コナエスルネン、イヤマテヨ、ヤッパリソウヤ……。7これは、私たちにも身に覚えがあります。「考える」とは、頭の中で対話することと言えるでしょう。対話・討論が「考える」ことのはじまりであり、討論がひんぱんになるにしたがって、他人がいなくても自分の頭の中で討論するような働きが生まれてきたのでしょう。
この問題についても永井潔氏は次のように書いています。
「こうして自分の中に他人を持ち、心のなかに十分民主主義的な討論を持っている人が、思慮深い人であり、心のなかに即座に民主主義的決議を得ることのできる人が、いわゆる頭のよい人であり感覚の鋭い人と呼べるのだと思います。一切の創造的活動の基本はそういう性質を持っています。ですから、そういうことを理解して、いっそう大規模に他の人びととの交流を意識的に深めていけば、創造活動はいっそう発展するはずです。独りよがりになればなるほど創造性はしなびるでしょう。」
このように、集団で討論・研究をすすめることによって、その創造性をいっそう高めてきたグループに地学団体研究会があります。地団研は、その特色である団体研究を次のようにおさえています。
「団体研究の本質は、対象の性質、そして研究の手段などにあるのではなくて、団体研究に参加するメンバー相互の矛盾や対立にある。いいかえれば、メンバーの個人差(地位・立場・世界観や方法論などのちがい)こそ、団体研究の効果を発揮する基盤となる。団体研究においては、このような個人差からくる意見のちがいを公然と対立させ、これを統一するために、積極的に討議や実践を重ねることが必要である。」
しかし、このようにしてグループの創造性を高めるためには、なによりも民主主義と科学的態度を、グループ内に確立することが大切でしょう。事実にもとづき、権威に盲従しない自主的な討論。批判をうけいれ、グループ内の矛盾を発展の糧とする態度。このような集団研究の気風を、ますます高めることによってしか、「おもしろい」ゼミナール運動は創り出せないでしょう。
参考文献
「人間と芸術」所載〈メダカとカラスと人間の区別および関係について〉
永井潔 新興出版社
「科学運動」 地学団体研究会 築地書館
「私たちの中の私たち」 乾孝 いかだ社
⒟ 日福大那須野ゼミ取得規定
日本福祉大学の那須野隆一先生は、ゼミの受講生に次のような取得条件を課しているということです。
ゼミナールでの報告や発言や討論にさいして、第一、「よくわかりませんが……」という言葉をつかってはいけない。第二、「だれか意見はありませんか……」という言葉をつかってはいけない。第三、「みんなで深めましょう……」という言葉をつかってはいけない。
那須野先生の考えを、以下ぬき書きしてみます。
第一に、「学ぶ」場での「よくわかりませんが……」という発言は「謙譲の美徳」どころか一種の「放言」である。よくわからなければ、一番よいことはたとえ仮説としてであれ、わかるまで何としてでも学びぬくことであり、二番目によいことは、どこがどのようにわからないのかを明確に述べることであり、三番目によいことは、それでもわからなければ、わかるまで発言をひかえることである。
第二に、「だれか意見はありませんか……」という発言は、民主的に見えて、実は「集団無責任をさそう。「学ぶ」ことは「だれか」の意見がモザイクのように寄せあつめられることではなく、はっきりと固有名詞で指名されたAくんとBさんあるいはCくんとDさんのそれぞれの思考様式と思考過程が、真正面からぶつかりあうことである。
第三に、「みんなで深めましょう……」という発言は、しばしば「ぬるま湯」的な「大勢主義」をもたらす。個人学習をなおざりにした「集団」学習はかたちだけのものになる。学問・研究は「みんなで深める」ことによって「個人が深まる」のではなく、「個人で深める」ことによって「みんなが深まる」のではないか。
そして那須野氏は最後に、次のように述べられています。
『集団学習や共同研究―サークル活動もそうですがーを組織するさいに、それに参加する個人個人が、個人学習をきちんとおこなっていて、「なにがわかり」「なにがわからないのか」がはっきりしているときにこそ、またわからないばあいにも「どこがどのようにわからないのか」がはっきりしているときにこそ、集団学習や共同研究は、個人にとっても集団にとっても、学問・研究の発展に不可欠のものとなるのです。もし、個人学習がおろそかにされ、そうした準備なしに「集団」学習や「共同」研究が組織されたばあい、そこでわかったつもりになったことは、結局他人の頭で考えたことの口移しーあるいは「頭移し」-にすぎません……』
このきびしい(?)ゼミ取得規定は、私たちのゼミナール運動にも適用する必要がありそうです。
参考文献
「大学に新しき生命を」 全国学生学術文化実行委員会編 全学連発行
※次回は、ゼミナール運動における研究と運動。加瀬公文と実践の課題を中心に考えてみたいと思います。
2号(1974年10月)
ゼミナール運動論覚え書き(Ⅱ)
藤本卓(22回生 秋元G)
⑴近教ゼミ20回大会を神戸の地で!
⒜和大食堂にて、11月23日発
書き出しから私事にわたって恐縮なのですが、去る11月23日の夜は、私にとって記憶すべき大切な夜の一つになりました。すでに多くの人が知っているように、その夜おこなわれた近教ゼミ和歌山大会、大学別宿舎(?)討論の場で、近教ゼミ20回大会を来年度、神戸の地で開催する意向が、討論の参加者全員によって確認されました。
ますます私事にわたりますが、和歌山での近教ゼミは、私にとって15回大会と今回(19回)で二度目になります。近教ゼミとは何かを幅広く知ってやろうと、あちこちの分科会を渡り歩いたこと、宿舎で(当時はおそろしく年寄りに見えた)学部の先輩たちと遅くまで話たこと。和歌浦で泊った旅館が、私たちの帰ったあとすぐ火災で全焼し、死傷者をたくさん出してゾッとさせられたこと。いろんなことが想い起されます。4年前の宿舎討論でも、次期の開催について話し合われました。先日の討論の輪の中にいて、私は、4年前の和歌山大会を思い出しながら、1・2年生の仲間の発言を聞いていました。とりわけ、「卒業までに全教ゼミの開ける大学にしたい」といった1年当時の夢を想い起しながら。4年前と今と、神戸大学のゼミナール運動はどのように発展してきたか。そのために、自分どれだけのことができたろうか。
⒝全体討論が明らかにしたもの
近教ゼミ次期開催をめぐる今日の討議過程は、現在の神戸大学教育学部での学生の運動がもつ、重大な弱点を浮かび上がらせました。宿舎討論の準備の話しあいに参加していた、自治会執行委員・ゼミ実常任委員の内、いったい誰が23日の夜の討論結果を予想していたでしょう。準備討論の段階では、次期開催校を返上しようという傾向の方が支配的だったのです。しかし、そのような消極的傾向は全体の討論の中で克服されていきました。今回の討論がこのような過程で進んだことは、私たちの運動に大きな刺激を与えています。たしかに私たちの学部では学生の自主的運動が、進展しているとは言えません。沈滞しているといった方が適切でしょう。しかし、今私たちがはっきりと〇〇〇ておかなければならないことは、この沈滞を生み出して主要な原因の一つが、運動のリーダー(核)の側が持っている消極性にあるということです。今回の場合、リーダーの側の消極性が、全体の討論の中で変革されました。しかし、多くの場合には、リーダー消極性は全体討論の場さえ作りださず、運動全体を沈滞の沼にひきずりこんでしまうのです。
もちろん、空疎な戦闘性、主観的な願望だけでは、どのような運動も持続的には発展できません。しかし、リーダーの側の消極性が、全体の要求や意欲の芽を枯らしてしまうのでは、運動など進まないのが当然です。これまで、私たちの学部の自治会活動、ゼミナール運動に、このような傾向がなかったとは言えません。
⒞私たちの運動には夢が少なすぎる!
「やる気はあるがどのように運動を進めればよいかわからない」という言葉を聞くことがしばしばあります。そのような時、私には「ウソでしょう」としか答えることができません。わかっていないのは、〈運動の進め方〉ではなくて、〈運動の理念〉のように思えます。言いかえるなら、〈自分は何をやりたいのか〉ということがわかっていないのです。〈運動の理念〉をつかまずに、〈運動の方法〉をつかめるはずがありません。
どのように生きるかにあせる人は多い。
なんのために生きるかになやむ人は少ない。
生きる目的がはっきりすれば、
どのようにしてでも生きていけるのに。(むのたけじ)
私たちにつかめていないのは、〈自分が何をやりたいのか〉ということです。この自分の願望や要求がつかめ、それが〈現実〉のどこから生み出されてきたのかが認識されたとき、したがって自分の願望や要求が〈空想〉から〈科学〉へ転化したとき、そこに〈運動の理念〉が生まれます。そしてそのときにこそ〈運動の方法〉が明らかになるのではないでしょうか。私たちに今求められていることは〈自分は何がやりたいのか〉を明らかにすることです。他人の言葉ではなく、自分の胸の熱いうずきとして。虚空に漂うものではなく、現実に根をはったものとして。
展望は、ひとりでに見えてくるものではなくて、視ようとする者にだけ視えてくるもの、切り拓こうとする者によってだけ切り拓かれるものなのでしょう。
〈自分は何がやりたいのか〉〈私たちは何をやろうとしているのか〉……。
不幸なことに、われわれの運動には
まさにこういう種類の(現実と切りむすんだ)
夢想があまりにも少なすぎる(レーニン「なにをなすべきか」)
私たちは今、〈来年の近教ゼミに向けて、それを通じて〈私たちは何がやりたいのか〉、夢を大きく広げようではありませんか〉なんのために学ぶのか。なんのために教育をおこなうのか。そしてなによりも、なんのために生きる人間に成長していくのか。
⒟近教ゼミ神戸大会の成功を!
常設のゼミナール実行委員会も確立されていず、神戸からの大会参加者も現在よりも少なかった中で、開催の準備を進めた16回神戸大会。あの頃を思い出しながら、私は今、来年の神戸大会は必ず若い仲間の力で、成功させられるだろうと信じています。20回大会の成功までには、数多くの障害が山積されているでしょう。しかし私は、それらの障害を克服する喜びを味わう仲間が一人ひとりとふえてゆくことを期待しています。
⑵ゼミナール運動とは何か
⒜ゼミナール運動は生命いのちをすくう!
私たち神大教育のゼミナール運動は、昨年春の再発足以来もっとも大きな世代交替を、今経験しています。学生の運動のもつ最大の弱点は、ほかでもなくこの世代交替―経験の蓄積の困難さーにあるといえます。ですから今あらためて、「ゼミナール運動とは何か」「なぜゼミナール運動をおこなうのか」を語りあい、確かめあっておくことが強く求められています。
「ゼミナール運動とは何か」―この問題を考えるとき、近教ゼミ和歌山大会宿舎討議での一つの発言を忘れることができません。
〈ゼミナール運動は私の生命いのちをすくってくれた!〉
現場生活半年で自殺してしまった先輩の悲しみにふれながら、彼女はこう語りました。-〈あの人〉は「子どもを教えることはむずかしい」と言って死んでしまった。たしかに、現場での教育はますますむずかしくなっているとよく聞かされる。きっと私もそれに悩むだろう。けれど私は、教育がむずかしいのは、教師の力量のなさだけが原因でないことを知っている。たとえば教科書一つをとってみても、どんなに不合理にむずかしくさせられているかを知っている。私はそれをゼミナール運動の中で学んできた。けれど〈あの人〉は、それを知らなかった。すべてを自分の無力のせいにして死んでしまった。それからもう一つ、もし〈あの人〉に悩みを相談する仲間がいたら、自殺なんかしなかったろうと私は思う。今の教育現場では、教師どうしがほんとうに心から話しあえない、とよく聞かされる。そんなことがなかったら、そして、〈あの人〉が仲間をつくっていける人だったら……。以前は私も、人をほんとうに信じることができなかったし、人前で話すこともぜんぜんできなかった。けれど私はゼミナール運動の中で、人が信じられるということを知った。人と話すのがおもしろくてしかたがないようになってきた。だから私は、来年現場に出てどんなに苦しくなっても、絶対に私は死んだりなんかしない。何が教育をむずかしくさせているかを教えてくれ、仲間がたくさんいることを教えてくれたゼミナール運動は、私の生命いのちをすくってくれた。この言葉は、私にとってなんにも大げさではなくて、ほんとうなんです。-彼女は、こう語ってくれました。
この言葉の中に、私たちは「ゼミナール運動とは何か」という問いの一つの答を見い出すことができます。観念的な空論ではなく、教育の現実に対するリアルな認識、そして教育の現実が提起するするどい課題に応えるための集団学習、その学習の中で培われる友情。これらはすべて、四年間大学で過すだけではとうてい私たちのものにはなりません。そうするためには(少なくとも現在の大学では)ゼミナール運動の何年かを生きなければならないでしょう。自らの内に学習する主体をとりもどし、主体として自立したものの連帯を組織する、学習=運動が求められるでしょう。
あるいは、「生命をすくうなんておおげさな」「自殺なんて特殊な例じゃないか」と言われる人があるかもしれません。しかし、教師の自殺は今回だけではありません。今年の春には、大学のすぐ下の小学校でも着任そうそうの教師が自殺してしまったではありませんか。また、実際に自殺してしまうことはなくても、精神的な自殺状態に追い込まれている教師は多いと思われます。(なぜなら、ヒステリックな教師がふえ、退職する教師が急増していると言われています)そして何より重要なことはほかでもない子どもたちが、これらの問題の最大の被害者だということです。私たちが。教育の現実の認識と、見通しと方法と、そして仲間の連帯をわがものにすることができないなら、私たち自身だけでなく、日本の子どもたちを精神的・肉体的に殺すことになりかねません。私自身もまた、ゼミナール運動は私たちと子どもたちの生命をすくう、といいたいと思います。
和歌山であのように語ってくれた彼女は、今、卒業研究の戦後民間教育運動史にとりくんでいます。ゼミ実事務局の実務のつらさに、何度も泣き出しながら活動を続け、強くやさしく成長した彼女。民間教育運動の歴史の中に、日本の明日の教育を発見し、来春には子どもたちにとりかこまれた彼女の姿を、どこかの教室に見ることができるでしょう。
⒝自治会運動とゼミナール運動
ゼミナール運動を進める上で、しばしば問題とされることの一つに自治会運動とゼミナール運動の関係、自治会運動の中でのゼミナール運動の位置づけの問題があります。かつてゼミ実が恒常的に確立されていなかった頃には、ゼミナール運動の研究課題としての独自性を、強く前面におし出すことが求められていました。しかし、この一年のゼミナール運動を見るとき、ゼミ運動の独自性の強調だけでは不十分であり、自治会運動の中での明確な位置づけが強く求められていると思われます。
自治会運動の中でのゼミ運動の位置づけを考える際、私たちがまずもって学ぶべきは、日教組教研運動の性格と役割についてでしょう。日教組教研運動は、民間教育研究諸団体との協力の下に、さまざまな反動攻勢に屈することなく、民間教育の内容と方法を豊かに創造し続けてきています。そして、今私たちが注目すべきは、この教育研究運動が、日教組という労働組合の手で進められてきたということです。労働組合の役割は、まず第一に労働者の要求と権利にもとづいて、労働条件(賃金・労働時間その他)の改善のための闘争を進めることにあります。さらに労働組合は、労働者の要求と権利を実現するためにも、社会の民主主義的発展に無関心であることはできません。ここから、労働組合の政治闘争への参加が求められてきます。しかし、いま一つ労働組合には、自らの労働の組織化・計画化のためにたたかう任務があるといえるでしょう。これは企業目的(国家目的)にもとづく職務遂行能力とは明確に区別された、労働者自身の労働能力(「人格」といってもよい)の全面的な発達をめざす課題だともいえます。労働する人間自身が、自らの労働の目的・内容・結果を問い直し、その社会的責任をとろうとする(ここから〈国民のための教育〉という思想がでてくる)ことであるわけです。このような運動は、すでに、日教組の教研運動を先頭に、自治労=自治研、新聞労連=新聞研など、ますますその多様な形態・豊かな質をもってすすめられています。すべての労働者と労働組合が、その労働の目的・内容・結果を自主的に探究し、その社会的責任を自覚し、自らの労働を組織化・計画化する能力を獲得したとき、その社会にはもはや資本家とその代弁者の果たすべき「積極的」役割は何ら存在しません。このことは、労働組合のこの第三の任務がもつ重大な意義を示しています。
以上に述べてきた日教組教研運動の性格と役割は、私のゼミ運動にも重要な示唆を示しています。〈自治会運動を進めるにあたって、私たち学生の基本的要求は学ぶ要求であり、私たちのもつ主要な権利は学習権であるといえるでしょう。まず第一に、ゼミ運動は、この学生の学ぶ要求と学習権の実現を目指し、ゼミ運動の中で、学ぶ要求と学習権の自覚はさらに深化します。第二に、ゼミ運動は、研究=運動共同体をその運動の中で創造することにより、民主化された大学の姿を先取りし、大学民主化の運動をより具体化させます。第三に、ゼミ運動によって、自らの民主的な労働能力=未来の教師としての力量=「人格」を形成することを目ざし、直接的(現在)にも間接的(未来)にも国民教育運動の一翼をにないます。このように考えるとき、ゼミ運動は、まさに自治会運動の中軸的位置の一つを占めるといえるのではないでしょうか。
(付記・さらに、サークルやゼミの側から見た場合についても述べる予定でしたが、紙数の都合で、ここでは自治会運動の側から見たゼミ運動の位置づけを述べるにとどまりました。他日を期したいと思います。)
⑶〈現実の課題にこたえる学問〉は不純か?
私たちのゼミ運動は、その目ざすべき学問のあり方を、〈現実の課題にこたえる〉学問という形で定式化してきました。全教ゼミ金沢大会で報告した統一テーマレポート「学園に新しい風を!ゼミナールの風を!」は、次のように述べています。
「私たちはゼミ運動の独自性を、その学問研究という側面に見て来ました。しかしそれを決して「純粋」な学問研究ととらえていたわけではありません。〈現実の課題にこたえる〉という学問姿勢は、ゼミ実の出発から貫かれてきたものです。これは決定的に重要なことであり、〈現実の課題にこたえる〉姿勢のない「学問」は運動になり得ず、学問と呼べるかどうかすら疑わしいと考えます。」
ここに述べられている〈現実の課題にこたえる〉という学問姿勢にたいして主に数学や英語を専門にする学友から、次のような疑問が出されています。
「たしかに、数学教育についてなら、数学ぎらいの問題や学力低下、それを生み出している指導要領や教科書など、現実の課題にこたえる必要があるかもしれない。けれども、数学そのものを学ぶときにも同じように言えるだろうか。現代数学は、現実の具体物からはなれたその抽象性を特徴とするものだ。〈現実の課題にこたえる〉ことなど、現代数学の場合は考えられない。それに学問とはもともと〈何かのために〉強制されてするものではなくて、それ自身が目的なのではないか」(英語の場合もほぼ同内容)
この疑問には、学問の本質をめぐる重要な問題が含まれているように思われます。十分な答にはならないでしょうが、能力と紙面の許す範囲で、私の考えを述べてみたいと思います。
まず最初に問題にする必要があると思われるのは、〈現実の課題にこたえる〉ということと、〈何かのために〉強制されて学問するということとの相違についてです。ここで私たちは、二つのことを確認しておく必要があります。まず第一は、近代的な学問観は、人間の環境を変革してその生活を豊かにする有効性に、学問の価値を認めてきたということです。(近代科学の父、ベーコンは「事物に対する人間の支配」こそが人生の目的であり、「新しい発見や手段で人類の生活を豊かにすること」が科学の目標であると述べた。その意味で「知は力である」)しかし第二に。社会の支配者は常に「学問」をそのしはいの道具としようとしており、その傾向は産業革命以来ますます顕著になっているといえます。(たとえば日本の大学史をふりかえってみても、明治絶対主義国家の成立期=法学系、産業資本主義から帝国主義への成長期=経済・商学系、「技術革新」期=工学系、とそのつど支配に必要な部門を中心に成立発展してきている。)要約すると、第一の立場(近代的学問観)は、〈学問の実践化〉とでもいうべきであり、第二の立場(支配者の学問観)は〈学問の技術化〉といえるでしょう。この〈学問の実践化〉と〈学問の技術化との相違はどこにあるのでしょうか。私は、それが学問における〈主体〉の問題にあると考えます。〈学問の実践化〉とは、支配の道具としての「学問」や、特権層にのみ許された空虚な思弁の遊戯に対して〈科学者が自らの主体的責任と科学的真理の名において、自らの研究の目的・内容・結果を把握しなおしたときに成立します。〉一方〈学問の技術化〉とは〈自らの研究に対する主体的責任を科学者が放棄し、「国家目的」「企業目的」に他律的に従属したときに発生する、学問の堕落形態だ〉といえるでしょう。人間が自ら目的を問う存在である以上、私たちが〈学問の実践化〉の立場に立とうすることは、私たち自身が人間になろうし、人間であり続けようとすることだと思われます。不純なのは、主体を喪失した功利的な〈学問の技術化〉の道だというべきです。そしてこれに対決する〈学問の実践化〉の道においてこそ、言葉の正しい意味で純粋な学問が創造されるでしょう。
次に、「学問はそれ自体が目的だ」「学問のための学問こそが純粋だ」とする主張について考えてみましょう。この主張は長い歴史をもち、現在でも学界の主流のひとつをなしています。私たちはこれを〈学問至上主義〉〈教養主義〉と名づけることができるでしょう。これらの主張は、日本において、その近代化の歪みの中から生まれてきたと言えます。日本の近代化は、絶対主義的強権によって、外発的に、上から強行されてきました。そしてこの過程で日本のアカデミーの学問は、圧倒的な西欧文化の移入「学問」としてしか形成されませんでした。このような中で、日本の現実に根ざさず、時代の要請する課題から逃避する〈学問至上主義〉〈教養主義〉という「学問」観が生まれたといえます。この事情を、永井荷風の次の言葉が、よく示していいます。それは、あの大逆事件のショックの中で書かれました。
当分はl‘art pour l‘art の一語をせめてもの云い訳にして、花よ鳥よと唯綺麗な文字を並べて当り触りのない史劇を書くより仕方があるまい。……当り触りのない、或は毒にも薬にもならぬと云ふ此の二条件は、敢て芸術界のみに止まらず、現代の凡ての方面に於て、日本の国土に棲息するかぎり、吾々の忍び諦めねばならぬハンディキャップである。絶望するかな。(「紅茶の後」1912年)
また私たちは、戦前の〈教養主義〉が、治安維持法のもとでの、思想「善導」の役割をになっていことも、忘れてはならないでしょう。さらに注目すべきは、この〈学問至上主義〉〈教養主義〉が、一見正反対に見えるあの功利的〈学問の技術化〉という立場と無関係ではないということです。これら二つは、コインの両面であり、現実の課題に主体的に対決することから逃避するという共通性を持っています。これら二つの立場を、同一人物が、その場に応じてつかいわけるといった例も少なくないようです。〈学問のための学問〉は、純粋からはほど遠いものと言わざるをえません。
私たちにとって、それ自体が目的だといえるものは、すべての人間の全面的な能力発達と人格的解放-それ以外にはありえません。この人類にとって唯一の自己実現をはばむ、自然的・社会的諸力にうちかつ力となることにこそ、学問の価値と栄光が存在するのではないでしょうか。その意味で、〈現実の課題にこたえる学問〉こそが、真の意味で純粋であるといえるでしょう。
しかし、すべての学問が〈現実の課題にこたえる〉べきであるとしても、その具体的なこたえ方は〈現実の課題にこたえる、それぞれの学問の性質によって異なってくるでしょう。数学や論理学など抽象度の高い学問が、教育学や歴史学など具体性に富んだ学問と、まったく同じ形で〈現実の課題にこたえる〉ことができないのは明らかです。しかし数学科の学友のもつた課題は、この〈現実の課題〉を狭くとらえすぎることから生まれているのではないでしょうか。さきにのべた〈すべての人間の全面的な能力発達と人格的解放〉という課題に、数学だけが無関係ではずあるがありません。それは数学に対する冒瀆です。求められていることは、「利用価値」の高い数学をつくることではなくて、数学が人間の思想をもつことです。〈数学を学ぶことによって、君は人間としてどのように豊かになったのか〉-これが問題の核心なのです。
3号(1975年5月)
ゼミナール運動のための参考図書
藤本卓
これまで2回にわたって、本誌に寄せた「ゼミナール運動覚え書き」は、今回もまた書きたいと考えていましたが、卒業後のあわただしさの中で、その機会を失ってしまいました。執筆依頼をして下さった編集委員のみなさんには迷惑をかけてしまい、本当に申しわけありませんでした。その罪滅ぼしにでもなれば、という気持ちで、ゼミナール運動を進める際に私自身が参考にしてきた文献の紹介をしたいと思います。
まず全教ゼミ運動にとってもっとも基準的な文献として必読のものは、
①「未来の教師」 全教ゼミ中央機関誌
②『教育系学生の思想と行動』上・下 伊ケ崎・山崎・土屋著 明治図書新書
③『現代の知識人』 島田豊著 青木書店
さらに、大学問題やゼミ運動論としてはさしあたり、
④『大学の自治』1~3福島要一編著 明治図書新書
(とくに3、「学生の自治」所収の論文、「学生のゼミナール活動」小川太郎)
⑤『大学の自治と学生の地位』Ⅰ、Ⅱ、伊ケ崎・永井編、成文堂
⑥『大学に新しい命を』全学文実行委編、全学連発行
また、科学運動・芸術運動から学びとるためには、
⑦『ともに学ぶよろこび』 地学団体研究会著 築地書館
⑧『科学運動』 地団研著 築地書館
⑨『歴史を学ぶ人々のために』 東京歴史科学研究会 三省堂
⑩『人間と芸術』永井潔著 新興出版 (とくに、「メダカとカラスと人間の区別および関係について)
教育研究運動から学ぶものとしては、
⑪『教育研究サークルの思想』 海老原治善編 明治図書新書
⑫『学級集団づくり入門』 全生研著 明治図書
そして忘れてはならないものとして
⑬『私の中の私たち』 乾孝著 いかだ社
⑭『現代の精神的労働』 芝田進午著 三一書房
⑮『教育とは何か』 矢川徳光著 新日本新書
以上ここでは、ゼミナール運動にできるかぎり直接役に立つものを中心にあげてみました。まず最初には、②、③、⑬を読まれるとよいでしょう。私としては、とくに③を熟読してほしいと思います。また、故小川太郎先生が、教育系学生の基礎教養として、哲学・経済家具・文学を強調されていたことも思い出します。ハウ・トゥー的に運動に役立つものばかりもとめずに(そんなものありはしませんが)、ゼミナール運動を推進する仲間たちこそ、確固とした世界観と現実認識、そして新鮮で豊かな感性を鍛えあげていってほしいと思います。ノッペラボーで誰がやっても同じような運動ではなく、その活動を見ればそれを進めている人たち一人ひとりの顔がくっきりと思いうかぶような、みずみずしい運動を期待しています。
〈愛の喪失、対象への無関心、倦怠こそ
すべてわれわれの墓場であると私は思う〉
―キム・ジハ―
大学は墓場であってはなりません。貪欲に生きて学んで下さい。