市民のための現代文学講座 2021.10.12.
伊丹十三と大江健三郎の関係
~『取り替え子(チェンジリング)』を中心に~
藤本英二
⑴二人の転校生が、松山東高校で出会った(1951)
☆松山東高等学校は、前身の松山尋常中学校時代に夏目漱石が教鞭をとっていた、愛媛県最古の高等学校。映画『がんばっていきまっしょい』(卒業生敷村良子原作、主演田中麗奈、中嶋朋子)の舞台となっている。
伊丹十三(1933~1997)・略年譜その⑴
☆父は映画監督の伊丹万作(本名池内義豊1900松山生まれ~1946)、『國士無双』『赤西蠣太』などを22作を監督、シナリオに『無法松の一生』が。
1930年 父池内義豊(伊丹万作)、母キミ(友人の妹)と結婚。
1933年 池内義弘(岳彦、伊丹一三、伊丹十三)、京都に生まれる。
1935年 妹ゆかり生まれる。
1938年 父が東京撮影所に移籍したため、東京に転居。
父、肺結核のため病床に臥す。
1941年 父、病気療養のため、一家は京都に転居。
1944年 国民学校の特別科学教育学級に編入され、英語を習う。
1945年 妹は伯父の養女となり松山へ。
1946年 父死去(44歳)、母は松山へ。
※岳彦は京都に残り、野上照代(のち黒澤明のスクリプター)が面倒をみる。
1949年 京都府立山城高等学校に入学、三学期は休学。
1950年 松山へ、多聞院に間借りして、母、妹と三人で暮らす。
4月、1学年遅れで愛媛県立松山東高等学校に転入。文芸部誌に執筆。
1951年 2年次から転入した大江健三郎と親交を結ぶ。演劇部の公演に裏方として参加。松山市此花町に下宿。大江健三郎、安斎徹雄(のち上智大学名誉教授、英文学者、シェイクスヒア研究)らがよくやってきた。同年10月から休学。
1952年 愛媛県立松山南高等学校2年次に転入。
☆野上照代、安斎徹雄の証言は『伊丹十三の本』(2005、新潮社)を参照。
☆安西徹雄の証言…下宿先によく集まって、クラシックのレコードを聴いた。演劇部を作って「夕鶴」や「彦市ばなし」をやった時、裏方を手伝ってくれた。転校してからも付き合いは続き、新しく作った劇団「森林座」(テアトル・ル・ボア)の名付け親になった。最初の上演はシングの「西の国の人気者」。(『伊丹十三の本』より)
※『西の国のプレイボーイ』(英語: The Playboy of the Western World)はアイルランドの劇作家ジョン・ミリントン・シング作の三幕ものの戯曲で、1907年1月26日にダブリンのアビー座で初演された[1]。
☆野上照代の証言が興味深い。…タケちゃんが母親たちのいる松山に行かなかったのは、ガールフレンドがいたから。松山のお寺で暮らした頃、キミ夫人は病院で働いていた。幼馴染で奥さんをなくされた人と再婚、でも最後まで池内キミのままだった。タケちゃんは高校卒業まで松山で一人暮らし。(『伊丹十三の本』より)
☆野上照代『天気待ち─監督・黒澤明とともに』(2001、文芸春秋)を参照。
伊丹万作の思い出を妻キミが語る。(キミの実家は松山市中村町の素封家。万作は画家志望で、挿絵を描いていた。おでんやも。)栄田清一郎(のちマネージャー)が京都の伊丹家まで連れて行ってくれる。栄田の話で、岳ちゃんの飯炊きをするかたわら、撮影所で働いてはどうか。1950年黒澤明の『羅生門』のスクリプターに。
大江健三郎(1935~)・略年譜その⑴
1935年 愛媛県喜多郡大瀬村(現在は内子町大瀬)に、父大江好太郎、母小石の三男として(兄二人、姉二人、弟一人、妹一人)生まれる。曾祖父は藩校で学問を教える(伊藤仁斎の系譜の)漢学者。生家は三椏の繊維を精製して内閣印刷局へ納めるのを家業としていた。
1944年 父、心臓麻痺で急死(50歳)。
1947年 新制の大瀬中学に入学。子供農業組合の組合長となり鶏の雛を育てる事業を手掛ける。長兄の影響で芭蕉や斎藤茂吉を読む。
1950年 大瀬中学を卒業。県立内子高等学校に入学。上級生から暴力行為を受ける。
1951年 県立松山東高校に転入し、下宿生活を始める。池内義弘(伊丹十三)と知り合う。共に文芸部誌を編集し、ランボーなどの詩集を読み、詩や評論を書く。
1952年 渡辺一夫著『フランスルネサンス断章』と出会い、師事しようと、東京大学への進学を決意する。
☆『懐かしい年への手紙』(1987)の「第二部第三章〔naif〕という発音のあだな」に、松山東高校での出会い、「永久ネズミ取り器」、演劇部の打ち上げ、などが描かれている。
『懐かしい年への手紙』(1987)で言及されている秋山君〈伊丹十三〉
第二部第三章〔naif〕という発音のあだな
・p183 新制中学野球部との、隣町の高校の不良たちとのいざこざ…飛び出しナイフ
・p192 転校した松山の高校で。ナイフというあだな。
・p196 秋山君と知り合う。…きみが「永久ネズミ取り器」のO君だって?
・p202 秋山君の金銭感覚
・p210 秋山君たちのグループの演劇活動。打ち上げに誘われる(会費500円)
・p216 煙草を見つかる。人文地理の教師
☆『大江健三郎 作家自身を語る』(2007)の第1章に渡辺一夫の本との出会い、伊丹十三への報告、大学進学の決意、東京でのつきあい、結婚問題などが語られている。
☆二人とも父親を早くに亡くしており、そのことを二人だけで話し合っていることは、『晩年様式集』(2013)にも出てくる。(後述)ここにも一部載せておくと
大江健三郎は『晩年様式集』(2013)で、このように振り返っている。
父親が早く死んだこともあって、僕同様、吾良は死を恐れていた。かれはもう戦争が終わって仕事ができるようになった段階での高名な父親の病死を、こちらは無名の父親の奇妙な死を、どちらもクラスの誰にも話さないのに、二人だけでよく話した。それが僕らをあのように近くしたのかも知れない。
⑵池内ゆかりと大江健三郎の結婚(1960)
伊丹十三・略年譜その⑵
1952年 愛媛県立松山南高等学校2年次に転入。
1954年 20歳で同校を卒業。大阪大学理工学部の受験不合格。その後に上京し、新東宝編集部に就職、のち商業デザイナーとなる。山口瞳と知り合う。
1960年 大映に入社。芸名は伊丹一三。2月『嫌い嫌い嫌い』で主演デビュー。
2月 妹ゆかりが、大江健三郎と結婚。
7月、東和(洋画輸入)社長川喜多長政・かしこの長女和子と結婚。
1961年 『北京の55日』出演のため、ヨーロッパへ。
1963年 ロンドンで『ロード・ジム』のスクリーン・テストを受けカンボジアでロケ。
大江健三郎・略年譜その⑵
1954年 東京大学に入学。のち仏文科渡辺一夫に師事。駒場にいる二年間、伊丹を面白がらせようと、冗談だけでできあがっている探偵小説を書いた。
1957年 「奇妙な仕事」が東大五月祭賞に入賞。荒正人、平野謙によって評価される。以後やつぎばやに短編を発表。
1958年 3月最初の短編集『死者の奢り』を刊行。6月最初の長編小説『芽むしり仔撃ち』。「飼育」で第39回芥川賞を受賞。23歳
1960年 伊丹万作(映画監督)の長女ゆかり(伊丹十三の妹)と結婚。
1961年 1月「セヴンティーン」、3月「セヴンティーン第二部・政治少年死す」
※1960年の右翼少年山口二矢による浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件をモデルとしている。右翼団体による脅迫を受ける。
※深沢七郎の「風流夢譚」事件
伊丹君を面白がらせようとして、冗談だけでできあがっている探偵小説を、駒場にいる二年間書いた。伊丹君は面白がってくれたが、保存するような人じゃない。下宿を変わるたび、伊丹万作の遺稿が散逸しないようにミカン箱に入れて大江健三郎が保存した。
☆1961年 『伊丹万作全集 全3巻』(筑摩書房)
☆1971年 『伊丹万作エッセイ集』(編集大江健三郎、筑摩叢書)
『懐かしい年への手紙』(1987)で言及されている秋山君〈伊丹十三〉
第二部第七章感情教育㈠
・p282 芦屋でオユーサンに会う。結婚を考える。
・p283 秋山君の猛然たる反対。手紙、女性週刊誌へのスキャンダル記事。
性的な古強者秋山君に対抗してほら話を。
宝塚出身の女優Aさん(有馬稲子か)にお金を借りに行く
…彼女の情人、映画界の巨匠(市川崑)
・p296 結婚式でのギー兄さんのスピーチ
・p302 ギー兄さんの秋山君評。「自己中心のアッケラカン」
・「ギー兄さん」というのは、フィクションの人物。森に帰って独学を続ける、もう一人の自分。「師匠」としての年齢差のある友人たち(音楽家や学者)の人物像を統合。
・『懐かしい年への手紙』(1987)についての、尾崎真理子の言葉
「この長編は大江小説の前期と後期の分水嶺となる、重要な意味を持っている」
「いわば精神的自伝のような作品」と大江自身がいっている。
⑶伊丹十三をモデルにした『日常生活の冒険』(1964)
伊丹十三・略年譜その⑶
1965年 『ヨーロッパ退屈日記』(最初の著書)刊行。テレビドラマ「源氏物語」出演。
1966年 和子と協議離婚。※和子は柴田駿と再婚し、1968年フランス映画社設立
1967年 『日本春歌考』(大島渚監督)に出演
1969年 女優宮本信子(12歳年下)と再婚。36歳
1971年 テレビ番組「遠くへ行きたい」 1973年 テレビ番組「天皇の世紀」
1978年 岸田秀との対談『哺育器の中の大人 精神分析講義』
1980年 『夕暮まで』(吉行淳之介原作、黒木和雄監督)に出演
1981年 雑誌『モノンクル』を責任編集。月刊で6号まで。岸田秀、福島章らと精神分析について、蓮實重彦と映画について語る。
1983年 『細雪』、『家族ゲーム』、『居酒屋兆治』、『草迷宮』に出演。
大江健三郎・略年譜その⑶
1963年 長男光誕生。頭蓋骨の異常を治療するため手術を受ける。
1964年 『日常生活の冒険』…伊丹十三がモデルとされる。
「空の怪物アグイー」、『個人的な体験』(新潮社文学賞) 29歳
※長男の誕生をめぐる逆の結末の短篇と長編
1965年 『ヒロシマ・ノート』…ルポルタージュ
1967年 『万延元年のフットボール』(谷崎潤一郎賞) 32歳
1971年 『伊丹万作エッセイ集』(筑摩叢書)を編集。
1973年 『同時代としての戦後』…第一次戦後派を中心にした文芸評論。
『洪水はわが魂に及び』(野間文芸賞) 38歳
1979年 『同時代ゲーム』…谷間の村の伝承・歴史を主題に
1983年 『新しい人よ眼ざめよ』(大佛次郎賞)…息子との共生
1984年 雑誌「へるめす」の編集同人に(磯崎新、大岡信、武満徹、中村雄二郎、山口昌男らと)なり、小説発表の他、井上ひさし・筒井康隆との座談会も。
・『日常生活の冒険』の背景は、「政治少年死す」(「セブンティーン」第二部)に対する右翼からの脅迫。⇒ヒポコンデリア(心気症、憂鬱病)におちいる。
・モデルとその変形
・伊丹十三 /斎木犀吉(「ぼく」より年下に設定)
・父は映画監督伊丹万作 /父は劇作家斎木獅子吉
・東和の娘川喜多和子と結婚/弱電機メーカーの娘鷹子と結婚(35歳の年上の女性)
・小説の冒頭で犀吉の自殺が告げられる。
《斎木犀吉のようにすさまじく死を恐怖していた人間の自殺とは、なんという酷いことだろう。いったい死とはなんだろう。死後の世界はあるのだろうか。死後の虚無、虚無の永遠とはどういうことだろう。》
・犀吉が大切にしていたゴッホの言葉。
《死者を死せりと思うなかれ/生者のあらん限り/死者は生きん 死者は生きん》
・繰り返し語られる「死の恐怖」…その反動としての日常的な冒険
・性的な放縦さ、不倫、同性愛、自動車への偏愛、音楽好き、猫好きなどを。
・18歳の卑弥子と結婚、自動車泥棒、プロの地まわりとの格闘、天才ボクサー金泰への肩入れ、鷹子の演劇運動、原爆病の暁をヨーロッパへ同行(暁のラジオ計画・原爆裁判)、
・「ぼく」への批判(祖父から、犀吉から)が随所に出てくる。
・犀吉からの二度の提案(ヨーロッパ行、スベイン行)とぼくの拒否。「提案と拒否」という主題は、『懐かしい年への手紙』『取り替え子』『晩年様式集』などでも繰り返される。
・《そしてぼくらの時代の人間としてのかれの役割は、饒舌にしゃべりまくり猛烈に性交し、あらゆる冒険的なことを試み、結局なにひとつなしとげることなく唐突に死んでしまうことだった⦆
「13の顔を持つ男 伊丹十三の肖像」(DVD、伊丹十三記念館発売)より
…天才少年、音楽愛好家、商業デザイナー、イラストレーター、俳優、エッセイスト、乗り物マニア、テレビマン、CM作家、料理通、精神分析啓蒙家、猫好き、映画監督。
《人間誰でも表現したい、形のない渦巻のようなものがあるだろうと思うんですね。僕の場合、何をやっても表現しきれたという充実感が持てなくてね、だから若い時からいろんなことをやったんですよ。どれも自分が、隅から隅まで使い切れたという感じがなかったですね。それで最終的にいきあたったのが映画監督だったんです。》
大江健三郎は『晩年様式集』(2013)で、このように振り返っている。
父親が早く死んだこともあって、僕同様、吾良は死を恐れていた。かれはもう戦争が終わって仕事ができるようになった段階での高名な父親の病死を、こちらは無名の父親の奇妙な死を、どちらもクラスの誰にも話さないのに、二人だけでよく話した。それが僕らをあのように近くしたのかも知れない。しかも吾良は、得意のイラストで自分が自殺している様子を描いてみせた。それが頂点に達したのは、僕が小説家として出発し、かれは映画俳優として国の内外で仕事を始めた時期で、かれは僕の小説を暗いといい、自分のやっていることはもっと将来性がない、といった。そこで僕はこの前千樫の話した、吾良を思わせる若者が原因不明の自殺をして、残された者が悲しむ小説を書いた。※『日常生活の冒険』
⑷伊丹十三が『静かな生活』を映画化する(1995)
『静かな生活』は、両親が外国生活に出たあと、大学生のマーちゃんが兄イーヨー、弟オーちゃん、と三人で暮らす物語。性犯罪の話、イーヨーの性徴、マーちゃんの危機などが。ここではパパの「ピンチ」という言葉で、作者自身の精神的な不安定が示されている。映画では、首つり自殺のための実験も描かれる。
─ビデオ版『゙静かな生活』の Omake を上映(6分30秒)─
⑸伊丹十三の自殺(1997)
1997年12月20日、伊丹十三は遺書を三通残し、事務所のあったビルの屋上から投身自殺。写真週刊誌「フラッシュ」に、「26歳のOLとの不倫、SMクラブへの出入り」という記事が出る直前だった。マスコミはこれをどう報道したか(ユーチューブで視聴可)。
特に、暴力団との関係が取りざたされた。
1992年「ミンボーの女」封切直後の5月22日、暴漢に襲われる。
1993年「大病人」封切直後5月30日、スクリーンが切り裂かれる事件。
1995年「静かな生活」、1996年「スーパーの女」、1997年「マルタイの女」。
本人は、次の製作のための取材(医療廃棄物の問題)もしていた。
伊丹十三・略年譜その⑷
1984年 『お葬式』初監督作品。51歳で監督デビュー。キネマ旬報1位。
1985年 『タンポポ』、1987年『マルサの女』、1988年『マルサの女2』、
1990年 『あげまん』、1992年『ミンボーの女』、1993年『大病人』、
1995年 『静かな生活』…大江健三郎原作
1996年 『スーパーの女』、1997年『マルタイの女』9月27日封切り。
1997年 12月20日自殺
2007年 伊丹十三記念館開設(松山市)
大江健三郎・略年譜その⑷
1985年 『河馬に噛まれる』(川端康成賞)
1987年 『懐かしい年への手紙』…精神的自伝小説、前期・後期の分水嶺
1989年 『人生の親戚』(伊藤整賞)
1993-1995年 『燃えあがる緑の木』(三部作)
1994年 ノーベル文学賞受賞 59歳
1995年 伊丹十三が『静かな生活』(1990)を映画化
1997年 伊丹十三死亡
2000年 『取り替え子(チェンジリング)』
2002年 『憂い顔の童子』、2005年『さようなら、私の本よ!』
※「おかしな二人組(スウ―ド・カップル)」三部作。
2007年 『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』、2009年『水死』
2013年 『晩年様式集 イン・レイト・スタイル』
⑹『取り替え子(チェンジリング)』(2000)を読む
【タイトルの意味】
・ヨーロッパの民話に登場する妖精。人間の子供をさらっていったあとに置いていく身代わり(妖精の子供)。
・モーリス・センダック(1928~2012)の絵本『まどのそとのそのまたむこう』(Outside Over There、1982年)が重要なモチーフとして出てくる。なお、センダックはリンドバーグ夫妻の子供の誘拐殺人事件(1932年)に大きなショックを受けたと語っている。
※参考・クリント・イーストウッド監督の映画『チェンジリング』(アンジェリーナ・ジヨリー主演、2008)は、少年の連続誘拐殺人事件(1920年代)の実話に基づく。
【主な登場人物のモデル関係】
大江健三郎/長江古義人(作家)、ゆかり/千樫(妻・吾良の妹)、伊丹十三/塙吾良、
渡辺一夫/六隅先生(大学の恩師)、武満徹/篁さん(音楽家)、宮本信子/梅子(吾良の妻)、
☆小説独自の登場人物…大黄さん(ギシギシ)=錬成道場を主宰する国家主義者、
シマ浦=ベルリンで吾良の通訳・アテンダントをした恋人
【大江健三郎の方法─私小説ではなく「私小説を解体した小説」】
《自分の生活のなかの人物をそのまま書いてリアリティーを作るのではなくて、実際の生活から一つのモデルを作り出して、かれによるフィクションの行動を書く。それが私の小説のおもな制作手法になっています。》『大江健三郎 作家自身を語る』p258
【小説の構成・あらすじ】
序章 田亀のルール
吾良の自殺。田亀で吾良のテープを聞きながらの対話。夫の惑溺を千樫が心配。ベルリン映画祭で吾良が描いた水彩画とアテンダントの存在。Quarantineのススメ。
第一章 Quarantineの百日⑴…ベルリン自由大学に招かれて
・吾良の思い出・演技指導と「豆ハーモニカ」という渾名の女優。
・千樫「吾良はお母様という母熊に、それこそ舐められて育ったんです」
・吾良の思い出・ベルリンからの電話:笑い話「長崎の薬局」
・五十女映画評論家エミーとの性的奮闘
・「豆ハーモニカ」東ベーム夫人と娘。…「何でもしてくれる人」の復讐。
第二章 「人間、この壊れやすいもの」…回想
・吾良のことば・高校の頃、きみが自殺しないようにバリヤーをはっていた
…のちには篁さんも心配していた。古義人の自殺を懼れる師匠(パトロン)たち。
・吾良の遺書のことば「ガタガタになる」
・壊れものとしての人間…障害をもって生まれたアカリ
・「政治少年の死」の出版をめぐって…ジャーナリストからの批判
・寿司屋で、裁判中のヤクザたちと遭遇した時の、吾良の毅然とした態度。
・『スウィートホーム』(黒澤清監督)をめぐる裁判と、『ミンボーの女』ビデオ化をめぐるヤクザからの脅迫。
・弟・忠(刑事)の意見…吾良さんの自殺はヤクザに刺されたことが直接の原因だ。
・千樫…昔、松山で吾良はガタガタだった。あなたも。
…吾良は、「悪い女」に翻弄されて、疲れ切って死んだ(週刊誌)、ということではない。兄は母親を残して死ねない。「人生の全体をとおしての課題に押しひしがれて、死んだはず」。
第三章 テロルと痛風…回想、但し「フィクションの世界」の回想
・男たちの襲撃…「父よあなたはどこへ行くのか」発表後
・二度目の襲撃…「聖上は我が涙をぬぐいたまい」(みずから我が涙をぬぐいたまう日)発表後
・父の弟子大黄(ギシギシ、片腕の男)の鍛錬道場、古義人17歳
・吾良との交友のきっかけ…国語の授業で「古文の言い回しの、細かいところが面白い」と発言して、教師を怒らせる。その例として父親から習った一節をあげる、
・道後の旅館での大黄のセミナー…戦後の蹶起(父の死)について
・CIE松山図書館…米軍日本語将校ピーターが吾良に興味を持つ
第四章 Quarantineの百日㈡…ベルリン映画祭、および回想
・東ベーム夫人とドイツの若い映画人たち
…古義人はインタビューを受ける。「ラグビー試合一八六〇」の断片を見せられ「原作の映画化権を無料に、塙吾良の遺産から映画への投資を」との要求を。
・東ベーム夫人の娘(吾良のベルリンでの生活を助けた)…ドイツ語ができない。婦人が再婚したのはドイツ人。(この娘とシマ・ウラとは別人。)
・死は時なのだ。
・田亀のルールは自意識のゲームにすぎない、と整理。
・吾良との電話を思い出す…百年の小説、映画。「アレ」に手を付けるのか。
・篁さんとの対話を思い出す。小説と映画とオペラの三角形。折口信夫の鎮魂説。自鳴琴。
・ヤクザに襲われた時の吾良。無抵抗と、自動車を傷つけられて突然の抵抗。
…降りかかってくるものを積極的には避けようとしない、一種のニヒリズム。
体育教師に殴られても、プールにサンダルで。女性関係の危惧。
・「どのように書くか」と「なにを書くか」。…アレを正面から書く。
・篁さんの死んだ直後に、吾良はテープ三十巻を送って来た。
・ベルリンで『宗教曲四部作』を聴く。いま歌われている言葉のような文章をこそ書きたかったのだ。アレに正面から立ち向かおう、そうすれば人がその生にただ一度達成できるほどの言葉を、自分も書くことが可能ではないか。
第五章 試みのスッポン…帰国のジェット機の中で、帰宅して
・お互いの関係は批評しあうそれだった。吾良からの批判、と『懐かしい年へ向かって』(新しい年への手紙)をほめたこと。吾良は懐かしい年から連絡してくる、もう一人のギー兄さんじゃないか。
・生涯の主題(人生の主要な事件)…⑴父の蹶起に従って行った、⑵アレ(吾良とともに体験)
・田亀での対話を思い出す…『阿呆物語』仔牛の皮を着せられて
・帰宅して、スッポンが送られてくる。深夜、スッポンとの格闘。暴力的な内部を露呈。
・大きい安堵と悲傷の思い…自分とつながる書斎の本と、理解できない新しい刊行物。
孤立したこれからの日々を死んでいる者のように穏やかに生きてゆけそうに感じた。死がこのようになんでもないものとしてやってくるのであれば、吾良、きみはあのように激しいエネルギーを肉体と精神、そして感情に要するものとしての─きみは大量のブランディーを飲んでいた─墜落死をとげることはなかった。
・千樫から吾良の鞄が渡される。(アレについてのシナリオと絵コンテ)、警告のように「ランボオの手紙」が。
第六章 覗き見する人…この章は高校生の時に経験した「アレ」を描く
・ピーターは吾良と古義人をキャデラックに載せて、錬成道場へ。
・ピーターと吾良は風呂場へ。古義人は大黄さんに導かれて天井から覗く。大黄さんも古義人の尻に手をのばしてくる。父も覗いていたことを知らされる。
・中華料理の宴会。
・大川さんの手引きで、オート三輪で酔っ払った吾良ともども、家に帰る。
・母親はターバンを巻いている。片耳の異常(ヒレ)。弟殺しの祟り。
・部屋でのランボオ談義。シナリオでは四十年後の回想シーンとして。
…キッチュの新しい花、星を切り売りしてきた人間の覚悟、高いところからの飛び降り。ランボオにはおれたちが経験したアレをそのまま歌っているような気がする。古義人は、これを田亀で確かめようとする。吾良の救助信号だったのか。
・翌日、若者が迎えにきて、再び道場へ。故障した銃器を持ってきても吾良がいないと、渡さないとピーターは言い、身を護るためにピストルを持ってくると言う。
・大黄さんの計画。「ヒトに殺されて、国家思想をよみがえらせよ」。…ほとんど三島
・吾良を餌に、ピーターから壊れた自動小銃を手に入れようとする計画に怒って大黄さんを蹴る古義人。
・跳馬台めいたものに腰掛ける二人。帰ろうと誘うが吾良は残るという。
…おれのしるしのついた封筒に空くじが入っている、というのは嫌だ。
・仔牛を解体した若者たちが、二人に生皮をかぶせる。
☆吾良のシナリオと古義人の小説による再現
・吾良は残り、古義人はオート三輪で帰る。途中、ピーターのキャデラックをやり過す。
・それから二時間たって、吾良が帰ってき、その後二時間かけてオート三輪で吾良の家(お堂)へ行き、裸になり身体を洗った。
・吾良の遺した二つのシナリオ…何があったか
①ふたりの娘とふたりの少年は風呂場へ。天井から覗いたピーターは仲間入りしに。大黄から帰ってもろうてよろしと言われる。
②風呂場で服を洗う吾良。ピーターと追いかける若者たち。銃による威嚇。裸のピーターが風呂場に。若者たちはピーターを神輿のように担いで、斜面を下る。倒れる。(繰り返し)
・千樫のことば。あれ以来二人の付き合いは中絶。
・1952年4月28日午後10時30分(占領終結)、二人はラジオを聴く。記念写真。
終章 モーリス・センダックの絵本…視点が変わり、千樫の語りになる。
・千樫は古義人が持ち帰ったセンダックの絵本を見て、アイダは私や、と思う。
・センダックの絵本「Outside over there」の説明、解釈。
・リンドバーグ夫妻の愛児誘拐殺人事件
・この吾良は本当の吾良ではない、取り替え子だ、と千樫は感じて来た。
・古義人と結婚することが本当の吾良を取り返すために夜の窓の外に飛び出すことだ。
・昔、松山で見た光景、ふたりの少年が、裸で身体を洗っている。
・『マルコによる福音書』…恐れて黙っている女たち…アイダのママ
・恐ろしいことを経験して逃げ出して黙っている自分
…①畸形の赤ん坊を生み気絶。②昔、真夜中に帰って来た吾良と古義人を見た。
・千樫は「吾良と古義人との会話」思い出す
…ムジール『特性のない男』(習作、草案、メモ)、この書き方ならこれまで書けなかった主題について書くことができるかも知れない。
・千樫は古義人から絵本を描くことを薦められる。
・吾良の自殺、古義人の自殺の恐れ、
・有松から古義人への手紙。外国に退避していて、帰国したきた女に会って話を聞く気はないか。[吾良の最後の女性はだれか、A有松のいう外国へ退避していた女、B東夫人の娘、Cカセットテープの女性(明るいしるし)]
・千樫は古義人に頼んで、吾良のテープを聴く。吾良はベルリンでの18歳の女性とのエロティックな経験を語っている。徹頭徹尾、キスなんだ。
・吾良の絵のコピーが欲しいと、千樫を訪ねて来たシマ・ウラの話。
・1997年ベルリン映画祭の時、吾良の通訳・アテンダントをやっていた。
・カセットテープの録音の時、傍にいた。《…成熟した女子性器とは別の…》
・別の男の子供を妊娠。両親は彼女に堕胎し学業に戻ることを勧める。
・飛行機の中で古義人の文章を読んだ。(なぜ子供は学校に行かねばならないのか)
自分は死んだ吾良の替りの子供を産もう、と決意。
・千樫はセンダックの絵本を軸にして、吾良と古義人のことを考える。
・古義人は知らないが、吾良はピーターと会っていた。吾良がアメリカにさらわれるのではないか、という不安を千樫は持った。
・吾良は、映画がアメリカでもヒットした時、ピーターとの再会(ハッピィエンディング)を夢見ていたのでは。(その裏にある悪夢)
・「外側のあの向こう」あの晩以後、兄は変わった。吾良が刺された時も「外側のあの向こう」からやって来た者たちにやられたと思った。
・私が古義人と結婚したのは、「外側のあの向こう」への同行した人、案内人だから。吾良が結婚に反対したのは「外側のあの向こう」と関係ある人間を妹の人生に関係させたくなかったから。
・アカリを出産する時、無垢の吾良を取り戻したかった。音楽がアイダを励ますように、アカリは作曲をするようになった。
・吾良は映画『A Quiet life』を作った時、本来の無垢な自分を取り返した。
・千樫はシマ・ウラの出産を助けよう、と決意する。
【吾良との対話・田亀を通して、あるいは古義人の回想】
①死の捉え方。村の伝承(魂は木の根方に、やがて赤ん坊の肉体へ)(松山)
②ランボオの詩「別れ」(松山)
③偉大な作家の作り方・幻の巨匠(20代)
④演技指導・「豆ハーモニカ」
⑤長崎の薬屋「今飲む!すぐ立つ!二度やれる!」
⑥映画批評家五十女のエミー。その日と翌日の四度の性交。よくやった、と尊敬の念。
⑦きみ(古義人)が自殺しないように(吾良、六隅先生、篁さんも)心配していた。
⑧壊れたものとして生まれてきたアカリ君を古義人と千樫は修復した。
⑨マスコミ・ジャーナリスト批判・事件を期待している…右翼、ヤクザ
⑩二人の交際のきっかけ…国語の時間「日本霊異記」の一節を暗誦。
⑪百歳で「知恵の人」になる…百年、百五十年を映画にする構想
⑫繰り返して見る必要のない映画の話・ヴィデオ視聴批判
⑬きみは読者のことを考えて主題と書き方を選んだ形跡がない!(吾良からの批判)
⑭『阿呆物語』への言及と、きみの性格の根本には道化的なところがある(批評)
⑮吾良からの呼びかけとしての「台本と絵コンテ」…完全にフィクション世界へ
⑯シナリオの形での、ランボオの『別れ』について
⑰二つのシナリオの形での、「アレ」の再現…道場で何が起こったか?
⑱キスだけのエロティックな経験
☆死について語り合う友人、お互いを「自殺しかねぬ危うい友人」と思う。
☆性について語り合う友人…長崎の薬局、批評家の五十女、
[ピーターを中心に同性愛の領域、シマ・ウラとのキスだけの性愛]
☆小説家と映画監督として対話する
・語り合った文学(ランボオ、幻の巨匠、百年を描く、ムジールの書き方)、
・作品の相互批判(次第に通俗的になっている/読者のことを考えてない)、
・果たされることない協働の夢(アレを描く)
【吾良の自殺について】
①パソコンによる三種類の「遺書」と、透かしのある上質の画用紙に柔らかい鉛筆で描いたドローイング。…この絵は、自分に向けての遺書ではないか。宙に浮かんで田亀を携帯電話の代りにしながら、古義人に呼びかけてくる自画像。
②マスコミの自殺者への大量の侮蔑の感情。
③吾良の死は、テレヴィで語られる言葉によっては説明できぬものであり、社会に理解されることもない。女性週刊誌の特集記事は吾良の女性関係を書きたてる。自分にとって特別な人間だった吾良の死を説明しうる言葉を見出さなかった。
④東夫人の「あれはMadchen fur alles (「何でもしてくれる人」)の復讐です。」
⑥弟忠(刑事)の意見。吾良さんの自殺はヤクザに刺されたことが直接の原因や、と思います。剛毅、強直、才能も仕事の実績、自尊心、誇りも強いが大変ナイーブな人。もうここから抜け出す苦労はすまい、と観念してしまう男がいる。
⑦千樫の意見。忠叔父さんの結論が正しい。週刊誌の言う、吾良が「悪い女」に翻弄されて、疲れ切って死んだ、ということはない。乗り越えられない、人生の全体を通しての課題に押しひしがれて、吾良は死んだはずです。p137、
【錬成道場というフィクション、その中で描き出されるもの】
・『取り替え子』の、錬成道場のエピソードは完全なフィクション。
…父の弟子大黄の占領終結までの蜂起計画。国家主義の再興を狙って。
・父の死を国家主義的な(右翼的な)行動によるとする「妄想」は、大江健三郎の大きな主題の一つで、「父よ、あなたはどこへいくのか」(1968)、「みずから我が涙をぬぐいたまう日」(1971)、『取り替え子』(2000)、『水死』(2009)という作品がその系をなす。
…三島由紀夫の自決事件(1970)に対しての小説的応答でもある。
・美しく剛毅、強直であると同時にナイーブで、時に自己放棄的な、吾良の人物像を描く。
・古義人の心理的な働きを描く。
①初めて友人を自分の家に連れて行った時の緊張と誇り、嬉しさ。
②友人を奪われるのではという嫉妬、怖れ。
③大黄の卑劣なたくらみに腹を立て帰る古義人と、残る吾良。
【「チェンジリング」の意味づけ】
①この小説そのものが、さらわれて行った(マスコミによっておとしめられた)友人(のイメージ)を取り戻す物語なのだ。
②千樫はこう思う。松山で高校生の兄は、古義人と一緒に「外側のあの向こう」に行き、変わってしまった。無垢な美しさが失われた。あの後の兄は実は「チェンジリング」だ。兄がヤクザに刺された時、「外側のあの向こう」の者がやってきたと。
②シマ・ウラは古義人の文章を読み、母親の「もしあなたが死んでも、私がもう一度、生んであげるから、大丈夫」という言葉に励まされ、「吾良の替りの子供を産もう」と決意する。
【執筆動機と達成】
・これは死んだ友人への鎮魂の小説であり、友人を取り戻す物語でもある。
…実際の友人の姿、言動、性格などを書き記す。特に出会い、ランボーの詩の読解、幻の作家の作り方、など。
…下劣なマスコミのイメージ捏造に対して、伊丹十三のイメージを回復する。特に、関わった女性を「悲惨な女性」であるはずがないとし、シマ浦との性の悦びの純粋さを描く。但し、性愛の純粋さについては、作者も不十分と思ったようで、詩『形見の歌』、更に『晩年様式集』へと、書き換えていく。
《少年時からの友人の/映画監督が現われて/パーゼルの高級ホテルの封筒を示した。/表と裏に/柔い鉛筆のスケッチがある。/二十代半ばの女性が、/下着を 立てた片膝に引っかけて/仮眠している。/…略…》
・友人伊丹十三の死から大江健三郎自身が回復するための小説である。(「田亀への惑溺」からの脱却、フィクションを通じて死んだ友人がどのような人物であったかを描く)
・ムジールをヒントに、多様な視点、書き方を試みる。(吾良からのテープによる語りかけ、シナリオ、絵コンテ、ドイツの新聞に書いた古義人の文章のシマ浦による日本語訳・実は『「自分の木」の下で』の再利用など)
・「吾良の妹」であり「古義人の妻」である千樫の視点を導入したことの意義。
…ずれをふくんだ繰り返し(視点の違い)として描く、自殺の知らせ、松山で身体を洗う二人の少年の姿。
…古義人の母、千樫、シマ浦⇒女性の物の見方、考え方、その力の称揚。
『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』
エドワード・ワディ・サイード(Edward Wadie Said, 1935年11月1日 - 2003年9月25日)は、パレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家。主著の『オリエンタリズム』でオリエンタリズムの理論とともにポストコロニアル理論を確立した。彼はまたパレスチナ問題に関する率直な発言者でもあった。(ウィキィペディアより)
…『群像』2012年1月号~2013年8月号に17回連載(3回休み)。
・2011年3月11日の東北大震災、福島原発事故のあとを小説の背後に置いている。
・妹アサ、妻千樫、娘真木の「三人の女たち」からの異議申し立て。「三人の女たちによる別の話」⇒私家版の雑誌『「晩年様式集」+α』
・ギー・ジュニアたちによる「カタストロフィー委員会」のインタビュー(録音・録画を繰り返す)。調査・研究の対象はギー兄さん、塙吾良、長江古義人。芸術家・思想家の、社会的また個のカタストロフィーという晩年の主題。
『晩年様式集』(2013)
「死んだ者らの影が色濃くなる」の章
・シマ・浦が、15年ぶりに現れる。
・吾良が撮影カメラマンと喧嘩になった話。
・詩(カメラで撮ることの不可能な気配と動きとを娘の台詞にしてくれ)
・シマ浦の『取り替え子』読み取り
…最後に出てくるシーンは実際のものじゃないんです。あれから八年たって、ジュネーブのホテルで、全裸になって、最高に気持ちのいいことが…
・千樫の話、長江が映画に求められていることを提供できないと結論、一枚の原稿用紙(ほとんど白紙)、吾良こういうことだね、自分がやってみた失敗例を『取り替え子』に書きつけた。そのプランは吾良の方で却下したはずだ
☆ここには『取り替え子』での吾良とシマ・浦とのラブシーン(ベルリン)の書き直しが(ジュネーブ)試みられている。そして、それは成功している。
「私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。」
モーツァルト生誕二百五十年を記念して、「レクイエム」のコンサートのために、尾崎は大江に詩の書きおろしを依頼。その時出来たのが「私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。」だという。
《この〈私は生き直すことができない、しかし/私らは生き直すことができる。〉という言葉は、大江さんが九〇年にエッセイの中でお書きになり、それを武満さんが晩年のエッセイ集『時間の園丁』の中で引用された文章、〈人生は生きなおすことはできない。しかし小説家は書きなおすことができ、それは生きなおすこととはいえないにしても、あいまいに生きた生にかたちをあたえることなのだ〉の発展形でもありましたね。何気なく大江さんの中にあったタネを武満さんが自分の文章の中に蒔き、そこで出た芽に大江さんは着目され、自分の中に移植し直し、「書きなおし」を繰り返して、大切に育ててこられたのでは……と想像しています。》『大江健三郎 作家自身を語る』p220~p221、尾崎真理子の発言
『晩年様式集』(2013)の最後に詩が載っている。これは「新潮」2007年1月号に掲載されたもの。
①90年のエッセイ⇒②武満徹のエッセイ⇒③「「私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。」2007新潮⇒④『晩年様式集』2013のラスト
2012年から毎年、宝塚市立中央図書館で文学講座をひらいてきました。 2012年は「大人のための児童文学講座」、2013年以降は「市民のための現代文学講座」というタイトルです。
《2012年》
①かいけつゾロリ徹底分析
②児童文学はスポーツをどう描いたか
―バッテリー、DIVE!!、一瞬の風になれー
《2013年》
①田辺聖子の評伝小説
~『花衣ぬぐやまつわる……わが愛の杉田久女』を中心に~
②丸谷才一とモダニズム文学~『笹まくら』を中心に~
《2014年》
①上橋菜穂子 -『精霊の守り人』シリーズ
②水村美苗 ―『嵐が丘』から『本格小説』―
《2015年》
①川上弘美の世界
―「神様」「神様2011」と「センセイの鞄」を中心にー
②村上春樹の世界
―「バースディ・ガール」と二つの短編集を中心にー
《2016年》
①森絵都の世界 ―『クラスメイツ』(2015)を中心にー
②村田喜代子の世界 ―『ゆうじょこう』(2013)を中心にー
③津村記久子の世界 ―「ポトスライムの舟」(2009)と『ポースケ』(2013)ー
《2017年》
①谷崎潤一郎の世界 ―『瘋癲老人日記』を中心にー
②開高健の世界 ―『輝ける闇』と『夏の闇』―
③梨木香歩の世界 ―『りかさん』と『からくりからくさ』―
《2018年》
①井上ひさしの劇世界 ―『全芝居』を俯瞰する-
②中上健次の世界 ー『枯木灘』と『奇蹟』ー
③川上未映子の世界ー『乳と卵』から最新作『ウィステリアと三人の女たち』までー
《2019年》
①筒井康隆の虚構世界―実験精神の軌跡
②金井美恵子『文章教室』とフローベール『ボヴァリー夫人』
③長嶋有『夕子ちゃんの近道』を読む
2020年は、新型コロナウィルスの感染拡大のために、中止となりました。