開高健の『夏の闇』のモデルとされている、佐々木千世子について、調べてみたら不思議に偶然がわかった。
この原稿はブリコラージュ通信にまとめ直しました。初出稿です。
佐々木千世子を探して
【スピンオフ原稿を書くことにした】
このブリコラージュ通信№9のメイン原稿《開高健『夏の闇』を読む》をまとめているうちに、ヒロインのモデルとされる佐々木千世子に対する関心が大きく膨らんできた。メイン原稿のバランスを崩しかねないので、佐々木千世子についての原稿をこちらにまとめることにした。
一 『ようこそ!ヤポンカ』始末
【『ようこそ!ヤポンカ』はどこにあるか】
まず、彼女が佐々木千世のペンネームで書いた『ようこそ!ヤポンカ』を読んでみようと思った(ヤポンカには「にっぽんむすめ」とルビがついている)。図書館の蔵書検索システムを使ってみた。予想通り近くの図書館には、こんな古い本(昭和三十七年発行)は置いていない。
大阪市立図書館、大阪府立図書館にはあるんだが、ちょっと往復するには遠い。
伊丹図書館には「取り寄せサービス」があるらしいので、相談してみた。すると、県内の図書館からなら比較的簡単だが、大阪市立、大阪府立からの取り寄せは結構ややこしいらしい。司書の方がコンピューターで調べてくれて、兵庫県内の「たつの図書館」にあった。ここなら費用もかからず、簡単に取り寄せられる。但し、「たつの図書館」から「伊丹図書館」へ直接届くのではなく、「兵庫県立図書館』経由で送られてくるので、少し時間がかかるそうだ。各図書館と県立図書館に定期便があり、そのルートでやりとりをするらしい。十月八日の講演会までには、まだ一か月以上あるので、たぶん間に合うだろう、と思って、取り寄せて貰うことにした。
【実物を手にして】
インターネットで調べてみると、この『ようこそ!ヤポンカ』の表紙の画像があった。「一日一ドル、五万キロ」という文字なども読み取れる。なるほど、貧乏旅行だったんだろうな、と想像する。
十日ほどして電話連絡があったので、いそいそと伊丹市立図書館へ本を受け取りに行った。やっと『ようこそ!ヤポンカ』と対面。あっ、カバーがない。
本を手にしたかった理由の第一は、開高健が書いた推薦文(帯だとも表紙の袖だとも言われている)を見たかったのだ。でも、それはかなわなかった。うーん、残念。
(その後、インターネットを検索しているうちに、開高健の推薦文を見つけたので、まあ初期の目的は達したんだけど。)
【写真があった】
本をパラパラとめくると、最初数ページ写真が掲載されている。その中に一枚だけ、佐々木千世子を確認できる写真があった。この佐々木千世子を真ん中にして三人の外国人男性が囲んだ写真は、実は『新・日本文壇史』第十巻の「開高健」の章にも掲載されていたので、知ってはいたのだ。でも、どこで撮られたものか、何歳頃のものかがわからなかった。
この『ようこそ!ヤポンカ』に掲載された写真には次のようなコピーがついていた。
《我が旅最良の日ーチェコスロバキアの作家宮殿を背景にして左から呑んべのカール 神秘的東洋娘(著者) “兄なる愛”のインド人 チェコの秀才》
つまり、佐々木千世子のこの写真は、一九六二年のヨーロッパ旅行の途中、チェコスロバキアでのものだった。推定二十八歳。
【九版】
この『ようこそ!ヤポンカ』は一九六一年七月十二日に横浜を出港し、ソ連をふりだしにヨーロッパ各国を回り、十二月八日に神戸港に帰港する約五か月の旅行記で、一九六二年に婦人画報社から出版されている。あとがきの日付が「一九六二年五月」とあり、僕が手にした本は奥付に「昭和37年8月25日九版」とある。当時の初刷部数がどのくらいかはわからないが、九版というのは今でいう九刷だろうから、それなりに売れたのじゃないかな。
【旅の動機】
旅の動機、というか理由は次のように語られている。
《昨年の三月、いかなる悪魔の恩寵か、私はスラブ学の国際コース参加という、白羽の矢を立てられた。―チェコスロバキアで開かれるこの研究会に日本から誰か、と人選を依頼されていらした東大のK先生が、よくよく人がなかったのであろう、私を選ばれたのである。
その二年前、ある大学のロシア文学科を卒業した私は、宮仕えするほどの根気もなく、ボーイハントするほどの色気もなく、さりとて大学院へ月謝を運ぶほどの金気もなく、まあ、腕に覚えのロシア語で、なんとかボルシチでも食べられれば、というところで、「ロシア文学研究家」という世にも奇妙な看板をかかげ、ペンゴロ生活を楽しんでいた。ペンゴロ暮らしというのは所詮は何足かのワラジをはき分けている生活で、その一つ、スラブ学者の卵の卵というのが、私をこの途方もない無責任な放浪に引き出したのであった。》
あとがきと照らし合わせてみれば、東大のK先生というのは木村彰一氏(ロシア文学の研究家で、プーシキン、ゴーゴリ、チェーホフ、などの翻訳があり、僕も名前ぐらいは知っていた)と思われる。
《チェコスロバキア政府は私を“客人”として招いてくれるというが、それは滞在費、研究会の諸経費一切に、一日千円見当のお小遣相当分を奨学金として出すという条件であった。》
このチェコスロバキアで開かれた研究会は一か月ほどだったようだ。彼女はソ連、ポーランド経由でチェコに入り、研究会終了後スエーデン、デンマーク、オランダ、フランス、イギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、スイス、イタリアなどを廻っている。
【費用】
当時、外国旅行に出るということが、どれ程大変なことだったかは、想像に余りある。経済的に恵まれているわけではない佐々木千世子はそれでもいろんな方法で金をかき集め、この機会に半年間、欧州を旅して廻る計画を立てる。この本の最後に「ルンペン旅行決算書」というのが付記されていて、それを見れば交通費は別として、本当に一日一ドルで暮らしていたようだ。ヒッチハイクは当然、ユースホステルを使い、知人宅に居候し(彼女は東欧に友人が多い)、旅を続けている。
細かく見れば、こんな記述もある。
《ソ連の新聞に旅行記を書いてソ連のクーポン代25000円余りは消化したし、北欧、西欧の交通費はチェコ滞在中と、あるいはパリの屋根裏部屋やドイツの居候先で、スエーデン、日本などの新聞、雑誌に書いた記事を道中送りながら、取り返してしまった。》
彼女が結構たくましく原稿料を稼ぎながら旅を続けていることがわかる。たぶん、新聞社や雑誌社との交渉も自分でこなしたのだろう。ソ連の新聞に書いた旅行記はロシア語で書いたのだろうか。スエーデンの場合はどうしたのだろう。
【こんな箇所を発見】
もともと、開高健の『夏の闇』のモデルについて、少しでも情報を得たいと思って、読み始めたのだが、その目的に照らして、注目した箇所がいくつかあった。
【ごく幼ないころ大連にいた】
横浜港を出て、四日目に シベリアに到着。そこに次のような記述がある。
《「いよいよ来た。シベリアなんだ。大陸なんだ!」
やはり言い知れぬ感動が湧いてきた。ごく幼ないころ大連にいたことがあるとは言え、私はまるきりの島国育ちであった。》
佐々木千世子についての情報で、最も踏み込んだものは、川西政明の『新・日本文壇史』である。
《千世子は奈良県天理市の出身で、在日コリアンである。昭和三十四年に早稲田大学文学部露文科を卒業している。当時の露文科には三木卓や李恢成らがいた。》
この「天理市の出身で、在日コリアンである」という断定の根拠が何なのか、残念ながら僕にはわからない。このことと「ごく幼ないころ大連にいたことがある」という本人のことばとはどうつながるのだろうか。そう思いながら、読み進んでいった。
【ワルシャワを訪れた日本人】
ポーランドではこういう場面がある。
《私は先程ボレスワフ君が国交回復後、ワルシャワを訪れた日本人を指折り数えていたのを思い出した。
「……十一人目カイコータケシ、十二人目オオヤソウイチ、十三人目キムラショーイチ、十四人目は、ホラ、ササキサン、アナタデス。」》
全然予想していなかった所で、開高健の名前に遭遇して驚いた。開高健、大宅壮一、木村彰一、佐々木千世子。そうか、佐々木千世子は十四人目の日本人だったのか。
【チェコとポーランドのジョーク】
チェコでの場面
《……この公式論一点張り模範生のインテリ君が、あまりムキになるので、私はつい、彼をからかう気になって、『犬』の話をした。
これは開高健氏もすでに紹介しておられる話である。
「ある時、ポーランドとチェコの国境で二匹の犬が出会ったのよ。ポーランドの犬にチェコへ何しに行くだときくと、靴を買いに行く、と答えたの。チェコの犬に、あんたはポーランドへ何しに行くの?ってきいたら、答えたわ、―「なあに、吠えに行くのさ。」」
チェコの学生、かっと怒るかと思いきや、ゆう然と答えた。
「そうだ、チェコの靴はいいからな。」》
さりげなく開高健の名前が本文中に記されていた。
単なる資料の一つとして、走り読みするつもりでいたが、思った以上に面白いので、じっくり読むことになった。
例えば、こんな箇所。
《ポーランドの旅を打ち上げ、クラクフからカトヴィッを経て、チェコスロバキアへ入る際、ポーランド側国境の税関吏に、私は所持していた米ドルのうち、現金の百七十四ドルを全部、おさえられた。》
ひっかかったのは、通貨のデクラレーション(申告)だった。ソ連・ポーランド国境で提出要求がなかったので、そのままワルシャワに着いた。未提出が気になってホテルのオルビス(ポーランド交通社)窓口に相談に行くと、職員たちは大丈夫だと請け合った。ところが、ポーランドからチェコへの出国の際、税関検査で問題になった、というのである。これは闇ドルマーケットの存在とも関係があるようだ。申告しない外貨の所持は不正行為によるものだと見なされたわけだ。税関吏にいくら丁寧に説明しても、彼等は取りあわない。
彼女は、プラハの日本大使館、ワルシャワの日本大使館の人々も動かして、この百七十四ドル奪還戦を戦い抜き、四週間後には、全額が返還されたのだ。
このエピソードを読んでいると、彼女が強い意志を持ち、多くの人々と交渉を重ね、初期の目的を達成するだけの行動力ある女性だということがよくわかる。
【世界を歩きながら考える】
一九六一年という年は、敗戦から十六年目にあたる。彼女自身も戦争を肌で感じて育ったはずだ。二十八歳の女性が、ワルシャワでアウシュビッツ収容所を訪れ、どのような思いを抱いたか。スエズ運河やインドで、アジア人としての自分をどう感じたか。そのようなことが真摯に書かれてある。
現代日本で、海外に出かけることは、極めて容易く、若い女性が世界各地を旅する姿は珍しくない。旅は容易で気軽なものになった。そのこと自体は喜ぶべきことだと思う。しかし、とつい思ってしまう。一九六一年に二十八歳の女性が世界を旅しながら、世界の課題を我が事として背負い、考えようとする姿勢は、今どこにあるのだろうか。
読み進むにつれて、僕は間違いなく、佐々木千世子という女性にひかれていった。
【最終章で驚いた】
そして、最終章まできて、僕は本当に驚くことになった。
《とうとう帰って来た!
わずか五カ月の旅で、こんな感慨は気収りではないか、などとちょっと意地悪く自問したが、やはり、正直な気持であった。
横浜まで船で行くつもりだったのを、にわかに変更して、神戸に上陸した。この町は私の生れ育った土地である。
現在の日本の一つの縮図である″ダンチ族″の兄の家で、木の風呂桶のガス風呂に入り、テレビを見、四才の甥と遊び、知人の車で摩耶、六甲をドライヴし、パチンコ屋の目白押す盛り場をぶらついた。
日本の印象は、やたらと忙しく、騒がしく無秩序で、混沌として、そして、不思議なエネルギーにみちた、バケモノのようであった。
なによりも私を悩ませたのは、総白痴化にひたすら邁進するラジオ、テレビの顔振れと、猥雑な週刊紙の表紙の並ぶ街頭風景であった。騒がしさと俗悪を売物にしたラジオのCMソングには、心底、腹が立った。半年前にこんな環境の中にいたのか、ととても信じられない思いであった。
視覚に訴える日本の町神戸は雑然とした、ゴミ箱のような感じであった。西洋顔負けの瀟洒な白亜のビルの脇に、「歳末大売出し」のケバケバした赤いのばりが、土ぼこりをあびて揺れていて、ガラクタのように売台の上に商品が積み上げられ、その前の狭い道を行き交う大小の車のひびきにガタガタ、小刻みに震えている。行き交う車の方はまた、流れが止まるたびに気短かに、いら立たしそうに、ヤケに、けたたましい警笛を鳴らす。その間を、青黄い、生気のない人間の顔が見えがくれする、いらいらと落ちつかない町であった。
しかし、これは貧しいというのではなかった。カッコ付きの″貧困″とは、東南アジアの後でとてもいえるものではなかった。貧しいのではない、無気力なのでもない、いや、むしろ異常なエネルギーのぼつぼつとした町の表情である。ただ、それになにか欠けている、混沌の当惑がこんな表出をとるのだろう。
私は不思議な気持で、ウラぶれた神戸の盛り場、新開地の一角に突っ立っていた。》
佐々木千世子は神戸で生まれ、育ったのか!まさか新開地の名前を聞こうとは思わなかった。
この場面は一九六一年であるが、僕の父親は僕が小学四年生から六年生までの約三年間、新開地で薪炭業の小売店をやっていた。だから僕はこの期間(即ち一九六一年~六四年の間)はほぼ新開地をうろついていた。彼女が帰国した六一年暮れはまちがいなく、そこにいたのだ。
小学四年の僕は、《新開地の一角に突っ立っていた》、ヨーロッパから帰ったばかりの佐々木千世子のすぐ横を通り過ぎたのだ。それはもちろん空想にすぎない。しかし、この五十年以上前に書かれ、忘れられた一冊の本を、読んだ時に、僕が感じた個人的な感慨は、間違いなく確かなものだ。
【あとがきについて】
あとがきにはこんな一節がある。
《昨年の十一月二十八日、油を流したような、無気味な静けさのマラッカ海峡をぬけ、シンガポールへ入港した朝、私は母の死を報じた神戸の兄からの手紙を受け取った。
考えてみれば、二十余年、せいぜい心配をかけ通した母であり、今度の放浪にも、「行って参ります」の葉書一本で飛び出した始末、帰国を目前にして。残念とも口惜しいとも、名状し難い気持であった。それに、母こそ、私の間の抜けたホラ話、馬鹿げた冒険談を無条件に開いてくれる、おそらくはこの世で唯一人の開き手であったろうと思うにつけ、私はさみしくもあり、悲しくもあった。
帰国第一日からの生活が、法要や納骨にはじまり、旅行ボケと重なって、私はぼんやり年を越した。聞き手を失った語り手に、新しい聞き手を見つけてやろうという、親切なお申出があったのは、年もあらたまって、私もようやく正気に返りつつある時期であった。この無責任旅行者の報告書が提出されるまでの経緯はこんなところである。…(後略)…》
開高健の『夏の闇』では、ヒロインの「女」は兄がいるけれど、《孤哀子》だとされていて、母親もなくなっているかの印象を与えるが、少なくともこの時までは、母は生きていて、娘との関係も悪くなかったようだ。佐々木千世子の実際と『夏の闇』のヒロインとにはズレがある。どこまでが開高健の創作なのか、という興味が湧く所だ。
【開高健の推薦文】
最初に書いたように、僕が「たつの図書館」から借り出した『ようこそ!ヤポンカ』にはカバーがなくて、目当ての開高健の推薦文を見ることはかなわなかった。しかし、インターネットで、それに辿り着いた。これがその推薦文だ。
《佐々木千世さんは若いロシア文学研究家で、この本は彼女のスラヴからヨーロッパとアジアをめぐる処女航海日誌です。
彼女の友達の言葉によると、いまは、“猫がシャクシをかついで海をわたる”時代だそうですが、この猫は、よい眼、するどい耳、長い足を持っています。諸国の男女のかりそめの友情に甘え、“チーヨ、チーヨ”と愛されながら、北極からの風に睫毛も凍ったり、パリの道ばたで空腹で倒れたり、いろいろなヤスリにかけられます。
彼女は機械のこだまのひびくシベリアに不安と憧れをおぼえ、血の海に浮かぶヨーロッパに出会って苦しみ、汗に浸ったアジアに圧倒されたり、さまざまな“ヤスリ”を味わうのですが、いま日本にたどりついて、この理解の困難な母国のどこに碇をおろそうかと、真剣に考えます。この本には、いわば、その、“旅行者”が“生活者”に変る経験が、教養に邪魔されない率直さと熱さで描かれています。
はじめての修業なので彼女は気張って、もっぱら飢え死しないための工夫に小さな頭を苦しめますが、その収穫は港に陸揚げされたばかりの遠国の魚や果物に似た香りを発散しています。彼女の経験と知恵は、いくつもの笑いとともに私たちに、人間はどうしてこう同じで、どうしてこうもちがうものだろうということを示してくれます。》
二 「ある女の肖像」をめぐって
【探索の旅はまだ続く】
これで一段落と思っていた。ところが、佐々木千世子で検索を続けていくうちに、更に思いがけないものに行き着いた。それは「群馬の森美術館ニュース」だ。
群馬の森美術館ニュースより
《研究小話谷内克聡
「ある女の肖像1 《みどりの石》」
開高健の小説に『夏の闇』という、鬱病患者の手記のような作品があって、自閉症の男が、セックスと酒と食にひたすら沈潜し、そうした状況を脱する糸口として男の趣味である釣りに行くが結局は…、といった内容の話で、なんとなくカフカの『変身』を思い起こさせるニヒリズムが、ヨーロッパを舞台としていながら、日本語独特の湿潤な文体で表現されていたのが強く印象に残る物語だった。そしてもうひとつ、どうしても引っかかってくるのが、この小説に登場する主人公と絡む女について、であった。菊谷匡祐の『開高健のいる風景』によると『夏の闇』の中で描かれている女のモデルは、小説で語られているその経歴から容易に推察されるのだそうだ。女の名前は、佐々木千世といった。あるいは菊谷の同書に抜粋されている、女の死亡記事に見るように「佐々木千世子」が本名なのかもしれない。女のモデルが佐々木千世なら、僕はその女を知っている。いや、正確にはその女の肖像画を見たことがある。それは岡本唐貴の《みどりの石》と題された若い女性の肖像画である。憶えば学生の頃、恩師の佐々木静一に連れられ、日本近代美術のオーラルヒストリーの一環として、当時練馬区の保谷にあった岡本画伯のアトリエを訪ねた折、アトリエの壁に架かっていた多くの岡本作品とともに、その肖像画の女性はじっとこちらを見つめていた。
佐々木静一が「これは佐々木千世じゃないですか」と尋ねると、「そう佐々木千世だ」と岡本唐貴は言った。それはパステルカラーが印象的な夏物のワンピースを着て座っている、若い綺麗な溌剌とした女性の肖像画で、しばし陶然とその女性に見とれていると、佐々木静一が「彼女はブブノワの弟子でね。ロシア語からドイツ語をやったんだ、ずいぶんと語学ができた女だ。でも気の強い女だぜ。あの手を見てみろ、ごつごつとして、男のような手をしてらぁ」と説明した。
そのときは、佐々木千世がワルワーラ・ブブノワの弟子ということくらいしか関心がなかった。むしろ、日本にロシア・アヴァンギャルドを伝え、自らも美術家であり優れたロシア語教師であったワルワーラ・ブブノワにより興味はあった。そして佐々木千世については「無骨な手の女」という印象だけが残った。
岡本唐貴の《みどりの石》は1958年に描かれている。佐々木千世は33年生まれだから、25歳のときの肖像画である。59年に早稲田大学の露文科を出ているので、描かれた時期はまだ学生だったはずだ。開高と佐々木千世が知り合うのは彼女が大学を卒業して以降なので、この時期まだ二人は知り合っていない。『夏の闇』の時代設定は、開高の年譜から推測すると68年なので、この肖像画が描かれた時期か10年のときが流れている。にもかかわらず、《みどりの石》に描かれた佐々木千世の腕は、開高の描写そのままである。しかし《みどりの石》には「荘重な腕」とともに「無骨な手」も描かれている。『夏の闇』には女の手の描写は皆無である。絵画は小説以上に冷徹だ。
あの時、《みどりの石》に魅入る僕を前に、岡本唐貴は「佐々木千世も変な死に方をしたね」とボソッと言った。70年3月24日午前零時40分頃、東京工業大学制御工学科教授伊沢計介運転の乗用車が対向車と正面衝突し、伊沢は即死、助手席に同乗していた佐々木千世もまもなく死亡した。伊沢計介は桐生出身の前途有望な研究者だった。伊沢計介と佐々木千世の接点は何なのか。ワルワーラ・ブブノワ、開高健、伊沢計介をめぐる佐々木千世は謎だ。》
この「群馬の森美術館ニュース」には岡本唐貴作の《みどりの石》も掲載されているので、興味ある人はインターネットで確かめてもらいたい。確かに『ようこそ!ヤポンカ』の写真の佐々木千世子とよく似ている。
岡本唐貴という画家がどんな人物なのか、調べてみると、プロレタリア画家で、長男が白土三平、長女が岡本颯子とある。そうだったのか!白土三平は「サスケ」「ワタリ」「カムイ伝」などで有名な漫画家。岡本颯子は「こまったさんシリーズ」「わかったさんシリーズ」の童話画家て、うちの娘もよく読んでいた。
《佐々木静一が「これは佐々木千世じゃないですか」と尋ねると、「そう佐々木千世だ」と岡本唐貴は言った。》
という箇所を読んでどうして佐々木静一氏はモデルを言い当てられたのだろうと、少し不思議に思った。そこで、佐々木静一氏を調べてみた。
大正十二(一九二三)年、大使館勤務であった父の赴任先のポーランド、ワルシャワに生まれる。昭和二六(一九五一)年三月早稲田大学文学部芸術学美術史専攻課程を卒業。神奈川県立近代美術館学芸員、多摩美術大学美術学部教授をつとめた日本近代美術史研究者、美術評論家。
早稲田大学文学部の先輩にあたるが、年齢で十歳、卒業年で八年のずれがあるので、佐々木千世子と直接の面識があったかどうかはわからない。
【「ある女の肖像」には2があった】
谷内克聡氏の記事は岡本唐貴の「みどりの石」という絵についてのものだったので、谷内氏の関心は絵の方にあるのだろうだろうと思っていた。ところが、この記事には続きがあった。
群馬の森美術館ニュースより
《研究小話 谷内克聡
「ある女の肖像2《孤哀子クーアイツ》」
「悲惨は、あの不幸よりもさきに、女の背骨のなかにあったのではないかと思うようになった。あれは背骨から分泌され、過去から分泌されていたのではなかったかと思うようになった。“孤哀子"であることはよく聞かされた」と、開高健は小説『夏の闇』なかで、佐々木千世をモデルとした女について書いている。孤哀子とは、中国において、両親に先立たれた子供が、死亡通知を出す際の肩書きのことである。しかしこの小説では、そうした意味を知っていながら、もっと別な、世の中のすべてにすてられた、よるべない、自立と孤立を穿き違えた、文字通りの孤独で哀しい身寄りのない子として取り上げられている。開高の遺作となった未完の『花終る闇』にも佐々木千世は「加奈子」という名で、やはり孤哀子として登場し、『夏の間』で別れた7年後の邂逅を描いている。しかし実際のところ彼女は『夏の闇』の開高とおぼしき主人公と別れた2年後に事故死している。開高が創作した実際とは異なる5年という開きは何を意味するのだろう。
開高が佐々木千世と知り合ったのが、1958年頃であり、同年にワルワーラ・ブブノワは、日本橋の白木屋において「画業50年記念展」を開催し、ソ連に帰国した。そしてその展覧会で出展された作品を含め、日本に残されたブブノワ作品を以後管理したのは佐々本千世である。その多くは今早稲田大学図書館が収蔵している。岡本唐貴の《みどりの石》も58年の制作である。おそらくはブブノワの展覧会で佐々木千世に出会い、モデルを要請したものか。61年7月から11月まで、佐々木千世は、チェコスロヴァキアで開かれる研究会に出席することを口実にヨーロッパ周遊の旅に出る。62年この旅行記として『ようこそ!ヤポンカ』を上梓。前年に出版されベストセラーになった小田実の『何でも見てやろう』と同類の旅行記だったが、『何でも見てやろう』の二番煎じ的なこの旅行記は全く売れなかった。ちなみにこのヨーロッパ周遊に際し、当時ソ連のスミフに住んでいた恩師のプブノワのもとを佐々木千世は訪ねていない。実は佐々木千世とともに事故死することになる伊沢計介は60年、63年、66年にチェコスロヴアキアを訪れている。開高が、『夏の闇』で描いた佐々木千世との濃密な時間をパリと西ドイツで過ごしたのは68年である。そして69年6月、伊沢はIFCA国際会議参加のため、ソ連、ポーランド、オーストリア、イタリア、スイス、フランス、西ドイツ、イギリスを訪れている。この訪欧時、伊沢は、佐々木千世と会っていたのだろうか。
伊沢計介は、1926年桐生工業専門学校教授伊沢弘一の長男として桐生市に生まれている。旧制桐生中学、旧制成蹊高等学校、東京大学理学部卒。東京工業大学に奉職、制御工学を研究。51年にはマサチューセッツ工科大学に原子力研究のため渡米し、その後米パデュー大学准教授なども歴任した国際的な研究者といえる。父親が教育者だったとはいえ、伊沢の実家は、桐の家という、計介の祖父規一が、老舗である桐生館から独立して起こした料理屋であった。つまり桐生の花街育ちで、粋な風情が身についていたのだろう。伊沢計介は三度結婚し、三度離婚している。佐々木千世と共に事故死した時は独身だった。
佐々木千世は、68年8月と69年8月に、短期間ではあるが滞在していた西ドイツのボンからプラハを訪れている。いわゆる「プラハの春」の挫折についての取材であり、そのレポートを68年9月と12月の朝日ジャーナルに掲載している。この記事から彼女は63年から66年までプラハに滞在していたことが判明する。おそらくその間に伊沢と知り合い、その後68年と69年のプラハヘの取材の合間に開高と暮らし、別れたあと伊沢とも会っていたと推測される。今、思うことは、開高健と岡本唐貴がモデルとした佐々木千世という孤哀子について、『夏の闇』の佐々木千世は当然ながらフィクションであり、〈みどりの石〉の佐々木千世こそリアルなのかもしれない。》
この谷内克聡氏の原稿には、伊沢計介についてのかなり詳しい情報が載っていて、とても参考になる。
それとは別に、《開高が佐々木千世と知り合ったのが、1958年頃であり》とあるのが、気になった。谷内氏は何を根拠にこう断言しているのだろうか。
谷内氏は「ある女の肖像1」では
《59年に早稲田大学の露文科を出ているので、描かれた時期はまだ学生だったはずだ。開高と佐々木千世が知り合うのは彼女が大学を卒業して以降なので、この時期まだ二人は知り合っていない。》
書いておきながら、「ある女の肖像2」で
《開高が佐々木千世と知り合ったのが、1958年頃であり、…》
と書く、のは明らかに矛盾しているのではないか。
でも二人が出会ったのがいつなのか、というのはちょっと気になる。わかる範囲で調べてみようと思った。
まず、開高健の『花終る闇』(未完)には次のような記述がある。
《外国旅行のコツを聞きたいといって彼女が友人につれられて私のところへやってきたのが十年近く以前のことで、大学を卒業したばかりの頃だった。白皙で豊満だけれどよくひきしまり、軽口や悪口の好きな、溌剌とした娘だった。よく食べ、少し飲み、よく笑った。出版社や新聞社をかけまわって匿名のルポ記事を書いてなけなしの稿料を稼いでいたが、ときどき私は相談を持ちかけられるままに企画をたてたり、原稿を訂正してやったりした。大学ではロシア語を彼女は専攻したのでチェーホフの翻訳の下請仕事をひきうけることもあったが、情事のあとで枕もとにその原稿をひろげて私はテニヲハを訂正してやったこともあった。》
開高健の小説には、しばしば事実と異なる時間記述があるので、鵜呑みにはできないが、この『花終る闇』の記述によれば、二人が出会ったのは、《大学を卒業したばかりの頃》ということになる。
川西政明氏、谷内克聡氏の記述及び、佐々木千世子本人の記述を勘案すれば、この頃の佐々木千世子の歩みは概略、次のようになる。
・一九五九年大学卒業。その後、二年間、「ペンゴロ」生活を送る。
・一九六一年三月、チェコスロバキアで開催されるスラブ学の国際コースの日本人参加者に選考される。
・一九六一年七月に横浜港を出発。十二月八日神戸港着。
・一九六二年『ようこそ!ヤポンカ』出版。開高健が推薦文を寄せる。
この時期の開高健の歩みは
・一九五七年 「パニック」、「巨人と玩具」
・一九五八年 「裸の王様」で芥川賞受賞。寿屋を退社。杉並区矢頭町に転居。二八歳
・一九五九年 『日本三文オペラ』
・一九六〇年 五月~中国訪問。九月~欧州訪問。
小玉武の『開高健―生きた、書いた、ぶつかった!』の巻末の開高健年譜によって一九六〇年をもう少しクローズアップすれば、
一九六〇年五月三十日~七月六日 中国訪問日本文学代表団の一員として中国を訪問。この旅が開高健にとって最初の海外旅行になる。九月~十二月、チェコスロバキア作家同盟、ポーランド文化省の招待を受け、両国およびルーマニアに滞在。(十一月一日アウシュビッツ博物館を見学。)十二月パリを経て、帰国。
《この直後、『チェーホフ全集』(中央公論社)の月報の原稿依頼をうけ、同全集の編集に関わっていた佐々木千世子(筆名佐々木千世)を知る。》
この年譜の記述通りなら、開高健と佐々木千世子の出会いは一九六〇年の暮れということになる。
そして翌年の三月にチェコ行が決まり、佐々木千世子が当時はまだ珍しかった海外旅行の話を開高健にいろいろ尋ねたのだろうと推測される。佐々木千世子がポーランドでアウシュビッツ博物館を見学に訪れているのも、開高健からの示唆があったためと思われる。
二人が深い関係になったのが、一九六一年七月の日本出発前なのか、それとも十一月末の帰国後なのか。この辺りも気になるといえば気になるなあ。
三 ワルワーラ・ブブノワをめぐって
【ワルワーラ・ブブノワについて】
谷内克聡氏の「ある女の肖像1」に、佐々木静一氏の佐々木千世子評が次のように紹介してあった。
《彼女はブブノワの弟子でね。ロシア語からドイツ語をやったんだ、ずいぶんと語学ができた女だ。》
この通りなら、ドイツ語圏では、彼女が結構人々と交流している『ようこそ!ヤボンカ』の記述も納得できる。同時に、『夏の闇』の
《…女がABCも知らないでたどりついた国に六年すごしてそこの首都の大学の東方研究室で客員待遇をうけていて、…》
という記述は、佐々木千世子に即して言えば、だいぶ大げさな言い方で、創っている、と言える。
研究小話2には
《…同年(註・一九五八年)にワルワーラ・ブブノワは、日本橋の白木屋において「画業50年記念展」を開催し、ソ連に帰国した。そしてその展覧会で出展された作品を含め、日本に残されたブブノワ作品を以後管理したのは佐々本千世である。》
このワルワーラ・ブブノワという人物について調べているうちに、松井直の講演会にぶつかった。
【松井直氏の語るブブノワ】
講演会「ロシアの絵本を日本の子どもに」
平成十七 年九 月三 日
福音館書店相談役 松居直
《…(前略)ソ連の児童文学の評価はその頃まだ決まっておりませんでした。しかし独自のおもしろさがあるということ、それから私は語り口が非常に好きでした。ソ連の児童文学には独特のイメージがありましたが、その中でも特にビアンキは絵本に構成できる物語をたくさん書いているということに気がついて、『きつねとねずみ』という本を出しました。おそらくソ連の児童文学で日本で編集した一番最初の絵本だと思いますが、1959 年の7 月号で出しました。これは内田莉莎子さんの訳です。この頃から私は絵本の編集者として、内田莉莎子さんの訳にものすごく惚れていました。翻訳というのは、子どもにとって日本語が勝負なのです。正確に訳されているというのはもちろんすごく大事なことですけれども、その訳文が日本語として本当に生きた文体をもっている、そこが勝負所なのです。石井桃子先生の訳語などは耳から聞いていても、目に見えるように表現していらっしゃる。瀬田貞二さんもそうです。説話の中には日本の古典の調べというのが非常に自然に生きているのですね。見事に生きています。ですから丸谷才一さんが感心するのですけれども、瀬田さんは日本の古典に精通した人ですから、日本語というものを本当によく知っていらっしゃる。日本語の使い手としてすばらしい方です。私は編集者としてそれに気がついて引っ張り込んだのです。瀬田さんにはいろいろなことをお願いしました。
もう一人が内田莉莎子さん。「きつねの だんなが、 やってきた。 じろ。 じろ。じろ。 なにか いいこと ないかなあ。 おい、 ねずみ、 ねずみ。 はなが どろんこ、 どうしたんだい? じめんを ほったのさ」。こういう調子で、これは原稿用紙1枚程度の物語ですけれど、内田さんにかかるとそれが詩のように響きをもって、リズムをもってくるのですね。私はこの時に内田さんに惚れました。「なるほどねえ、ワルワーラ・ブブノワさんの弟子だねえ」と思いました。ワルワーラ・ブブノワさんのことは次にお話しますが、早稲田大学出の人はみんなワルワーラ・ブブノワにロシア語を教えてもらったわけですね。そして非常に美しい発音でお読みになっていたそうです。内田さんがよくブブノワさんのことをおっしゃっていたのです。小笠原豊樹さんからもよく聞いていました。とてもすばらしいロシア語の先生だと存じ上げております》
《…そういうことで『きつねとねずみ』というこの絵本が、ロシアの物語を私が編集者として手がけた最初です。
それから、翌年の一 月に46 号でまた、ソ連の物語を出しました。『あなぐまのはな』という絵本です。これがワルワーラ・ブブノワ先生の絵なのです。ワルワーラ・ブブノワ先生が画家だということを始めは知らなかったのです。ところが、版画の展覧会を見に行きましたときに、ブブノワ先生の版画がありました。力があって美しく、びっくりしました。この方は版画家か、と私はそのときに気がついたのです。この人のこのすばらしい芸術は、やはり絵本として日本の子ども達に伝えたいということを、そのときにもう直感的に思いました。そして、富士見町の教会の近くのブブノワ先生のお家へお願いにあがりました。私は版画の作品を見ていて、ブブノワ先生に、花の絵をモチーフにした作品を描いていただくといいのではないかと思ったのです。それでブブノワ先生に「花をモチーフにした絵本を作りたいと思いますが、ぜひ物語をお考えいただきたい」というふうにお願いをしたのです。すぐに引き受けてくださったのです。…(略)…『あなぐまのはな』は、面白い作品で、見事な絵です。これはクレパスで描いてらっしゃるのです。ブブノワ先生のただ一 冊の絵本です。ブブノワ先生はこの本をお願いした後で、ソ連にお帰りになります。そしてグルジア共和国のスフミという町にお住みになります。その後妹さんの小野アンナ先生もお帰りになって一緒にお住まいになるのです。小野アンナ先生は、東京芸大のヴァイオリンの先生ですから、諏訪根自子さんだとか、ああいう方はみんな小野アンナさんのお弟子さんです。…(略)…
ブブノワ先生はお帰りになってから、この原画を届けてくださったのです。本当に原画を見たときに私は感動しました。》
こうして、開高健、佐々木千世子、ワルワーラ・ブブノワ、松井直と、思いがけない世界が開けてきた。