藤本ゼミでは、映画上映会や公開ゼミに取り組んできました。ここでは、それを紹介します。
映画会の風景
編集長とゲストが読む―『学び欲がいっぱい 『こんばんは』報告集』
Ⅰ 資料から、教育実践の実態をさぐる
【教育研究者と大学教育実践家―卓さんの二つの顔】
―お久しぶりです。もう何年になりますかね。
本岡:最後に会ったのは、高山先生が亡くなった時やから、もうかれこれ15年ぶりになるかな。藤本卓氏が亡くなったと君から連絡を受けて、びっくりしたよ。まさか彼がこんなに早くなくなるなんて想像もしてなかったから。今回、直接会って彼の話をしたいと言われて出てきたけど、僕は彼に何年も会ってないから……。
―いや、本岡さんから、思い出話を聞きたくて、来てもらったのではないんです。
この企画は、大東文化大学の藤本ゼミの学生たちの活動を通して、藤本卓氏の教育実践の実態を探ろうというものです。今日は、会場に「藤本卓先生を偲ぶ会」のメンバーも来てくれています。まず我々二人が対談をし、あとで自由に意見や感想を述べてもらう予定です。
今日の本題、映画『こんばんは』の取り組みの具体的な検討に入る前に、まず今の僕の考えをざっと述べますので、聞いてください。
彼は、『あきらめない教師たちのリアル』のあとがきの中で、〈教育の方法を教科外の視角から基礎論的に考察する〉のが自分の研究者アイデンティティだ、と書いています。
一方で、卒業生からは「大学教授というよりも大学教育実践家」として《ゼミ生一人ひとりに親身になって》指導してくれた、という声があります。「大学教育実践家」というのは、ちょっと聞きなれない言い方かもしれない。でも、これこそが、卓さんをとらえるためにはぜひとも必要な概念だと思います。
彼には研究者としての顔と、教育実践家としての顔があった。これが今回の企画の大前提です。
研究者としての藤本卓を知るには、彼の遺した論文を読むのが、一番の近道です。彼が何を考えていたか、つまり何を主題とし、何を先行研究として踏まえながら、自分の考察をどこまで進めたかは、論文を読み込むことで、ある程度まで明らかにできるはずです。
ところが、大学教育実践家としての藤本卓の姿に接近するのは、そう簡単ではありません。なぜなら彼は実践記録のようなものを一切残していないからです。
彼がどのような講義をしたかは、シラバスや配布したプリントで、多少なりとも推測できます。ざっくりと言いますと、《教科外教育論》を教えていた。授業名でいえば「生活指導論」(2年後期、東松山)、「特別活動の研究」(3年前期、板橋)の2つがいわばセットになっていたようです。
※この科目名の由来については、彼の「“懐かしい言葉”になり逝くか?-教育学〈述語〉としての「生活指導」の向後について―」(2017年12月大東文化大学教職課程センター紀要)で述べられている。
しかし、彼は自分の考えていること、研究していることを講義するだけの先生ではなかった。さっき紹介したように、彼は「大学教授」としてではなく「大学教育実践家」として、学生たちに接する意志、覚悟を持ち、そのように自覚的に行動していたと思われます。そして、それは彼の研究そのものと深く結びついていた。
大学教育実践家としても、明らかに性格の違う二つの側面があった。
一つは、学生一人ひとりを大切にし、親身になって相談にのり指導するという、いわば「個人にむきあう面倒見のいい先生」です。これは、一対一で語りあう、対話を通じての関係を大切にするという側面です。これについては、個々の卒業生からの証言を聞くことで、わかってくることがたくさんあると思います。
もう一つは、学生個人を直接に指示・指導するのではなく、出会わせる価値のある人や物に出会わせ、学生たちの自主的な力に依拠しながら、行事を実行させ、その過程の中で彼ら彼女らが自覚的に成長していくことを目ざす、プロデューサー的教育者としての側面です。彼は、活動の中で学生たちがみずから学び育つ道筋を考えていた。
その一つの典型が、三度実施された映画の上映会だと思います。これは彼が唱えた〈世代の自治〉という概念と深く絡むことになると思いますが、その検討は次回以降の課題ということにして、今回はとにかく、残された資料から何がわかるか、という所に絞りたい。
【何故、私がゲストなの?】
本岡:最初から難しい話やなあ。もう教育現場から離れて何年にもなるし、藤本卓氏とも年賀状のやりとりぐらいやったから、彼が大学でどんなことを教えていたのか、よう知らんし。君が今話したことも、あんまりようわからんわ。そもそもなんで私がゲストなんや。
―いや、まあ、本岡さんやったら、気兼ねなしに話せるし、神戸大学で一緒に自主ゼミナール運動やってて、若い頃の卓さんのことも知ってるし、話が早いと思って。
本岡:最近のことは知らんで。
―知らなくていいんです。そもそもこの企画は、藤本ゼミ卒業生たちの証言を聞く前に、残された資料から、どんなことがわかるか、あるいは書かれてはいないけれど、ここは確かめたいという点を、事前に考えるためのもので、僕の話し相手というか、僕の投げるボールをはね返してくれる壁がほしかったんです。
本岡:私は壁ですか。
―考えをまとめるための、対話相手。
それに、本岡さんを選んだのには訳があります。さっき話した通り、彼は実践記録のようなものは一つも書いていない。本岡さんは小学校教師として何度も実践記録を書いてきたから、どこが実践のポイントかもわかっているはず。大学生たちが書いた感想文や取り組みの記録を読んで、教師の動きを想像することもできるでしょう。
本岡:私に、そんなことできるかな。
―いや、できなくてもいいんです。この試みがうまくいかない時には、今回はゲストが悪かったと、言い訳ができる。
本岡:なんや、それは。そんなら、私もちょっとは、本気出して資料読み込まなあかんなあ。
―期待してます。実は、藤本卓さんの大東文化大学での教育実践は、我々が50年前にかかわったゼミナール実行委員会の活動と重なる部分があるのではないか、という僕なりの見通しがある。もちろん違いもありますが、「核」というか「根っこ」というか、それは既に50年前の卓さんの中にあった、と推理している。それを本岡さんと一緒に確かめたい。名探偵と助手というか、…いや、僕は助手でいいんですよ、もちろん。相棒というか、今風にバディというか、…。
本岡:わかった、わかった。そんなら、始めようか。
Ⅱ 2005年『こんばんは』上映会の取り組みはどんなものだったのか
【スライドで取り組みの概要を紹介する】
―今回、取り上げるのは、2005年の映画『こんばんは』上映委員会の取り組みです。本岡さんとはこの『学び欲がいっぱい 『こんばんは』報告集』を詳しく読んでいきたい。ただ資料がそんなに残ってないので、今日この会場に来てくださった皆さんに配ることはできません。
それで最初に簡単にこの取り組みの概要を、僕なりにまとめたものを紹介します。スライドにしたので、前のスクリーンをご覧ください。
【一枚目のスライド】
『学び欲がいっぱい 『こんばんは』報告集』
大東文化大学 「こんばんは」上映実行委員会・2005
目次
・はじめに
・活動報告
・上映会アンケート
・学校ツリー
・『特別活動の研究』自由課題レポートより
・森監督と語る会
・見城先生講演会
・講演会アンケート
・夜間中学生の作文紹介
・実行委員会感想文
・思い出のアルバム(カラー刷り)
※目次にはないが、次の2つが付いている。
・「こんばんは」上映実行委員会 会計報告
・賛同者・後援団体紹介
―この冊子は本文約70ページで、真ん中に見城先生が講演会当日に配布した資料4枚(B4両面刷り)も折りたたんで収録されています。また、おまけとして「しおり」も作られています。
【二枚目のスライド】
取り組みの概要…「はじめに」より抜粋
・藤本ゼミナールの活動として「こんばんは」と出会う。
・《自主上映会を開催しようと決め、ゼミ生以外の有志も募り、2005年9月に11人の学生の自主組織として発足、活動》を始める。
・《私たちは上映会の準備と並行して「夜間中学」の勉強もしてきました。不登校・在日外国人・生涯学習など夜間中学を取り巻く様々な課題から、教育とは・学校とはということを深めてきました。》
―実行委員長の下山たみさんが「はじめに」で書いていることをピックアップしたのですが、藤本ゼミを中核としながら、有志を加えた「11人の学生の自主組織」の活動だという点が重要かと思います。
本岡:ゼミの活動かと思ったら、そうではなくて、上映実行委員会という自主組織の活動なんやね。
―自主組織を作ったというのも、たぶん卓さんがもう少し仲間を増やしたらどうかねと勧めたのだと思います。そこの辺りも確認しておきたい点ですね。
本岡:実行委員会形式というのは、経験がないと思いつかないかもしれんよね。それと実行委員会の集まる場所は、藤本ゼミの部屋やったんやろか。活動するには集まる場所がいる。
―資料を置く場所もいりますよね。そうした活動の拠点をどうしたのか、ちょっと知りたい。おそらく藤本ゼミの部屋がその拠点になったのだろうと推理しています。
【三枚目のスライド】
―それでは三枚目のスライドを見てください。何月何日に何をしたと、活動を日ごとに記録したものです。何をしたかをだけを、僕が項目として挙げましたが、実際の活動記録はきちんと文章化されています。
《活動報告》
6月17日(金) ゼミ生6人が、所沢「こんばんは」自主上映会に出かけて、映画を観る。
9月3日(土) 埼玉に夜間中学を作る会 自主夜間中学20周年集会に参加する。鎌田慧氏の講演を聞く。
10月15日(土)森監督と語る会をひらく。
※昼過ぎから実行委員会で映画の下見会をし、その後夕方から森監督と語る会を開催。
10月17日(月)墨田区立文花中学校夜間学級の公開授業に参加する。
10月20日(木)東京都夜間中学校研究会による夜間学級の説明会に参加する。
11月23日(木)墨田区立文花中学校夜間学級の文化祭に参加する。
12月3日(土)「板橋平和のつどい」(板橋区立文化会館大ホール)に参加する。上映会の宣伝もする。
12月9日(金)、10日(土)「こんばんは」上映会開催。二日で250人越える参加があった。
12月17日(土)見城先生講演会「自分をとりもどすための学校」を開催。
―この活動報告は、活動日誌ではないという所に特徴があります。
本岡:どういう意味?
―つまり、これは日誌ではなく、すべての活動が終了したあとで、改めて書かれたきちんとした報告文書だということです。その証拠があります。
本岡:それは何?
―10月15日森監督と語る会、12月9日、10日「こんばんは」上映会、12月気17日見城先生講演会「自分をとりもどすための学校」の、いわば柱となる日については項目だけで、本文がない。何故ならテープ起こしのような形で再現しているからです。それに対して、残りの六項目にはきちんと本文を書いている。六人のゼミ生が一人一項目ずつ分担していて、誰かに任せるとか、だぶるということがない。たぶん活動を振り返って大事な日を挙げていき、誰がどの日を分担するかを、決めたのだと思います。この日は、私が書く、この日は僕が…という風に。その相談している様子さえ浮かんできそうです。
本岡:活動報告の最初、《6月17日(金) 所沢「こんばんは」自主上映会》というのを読んでみようか。
《私たちの活動は埼玉県所沢市での上映会で「こんばんは」を見ることから始まった。しかし会場にたどり着くまでにかなり迷い、着いた時にはすでに上映されていた。汗ばむほど知らない街を走り回り、肩で息をしながら見始めたのだが5分もたたないうちに映画の中に引き込まれていた。小さな教室、学齢期を大きく超えた生徒たち、学べることへの喜び、学校という形にもかかわらず、初めて見る新鮮な教育はゼミ生6人の胸に様々な衝撃を残した。いい映画だ、と言うだけでは括れない何かを伝えるこの作品は、もっとたくさんの人に見てもらう価値があるかもしれない。映画だけでなく夜間中学校のことについても学ぶことによって、さらにこの映画に近づけるかもしれない。自主上映会に至るまでのきっかけとなる1日となった。(山下楽)》
―所沢で道に迷ったんや。《汗ばむほど知らない街を走り回り、肩で息をしながら見始めたのだが5分もたたないうちに映画の中に引き込まれていた。》臨場感のあるいい文章ですね。
本岡:よく整理された報告にもなっているね。《私たちの活動は埼玉県所沢市での上映会で「こんばんは」を見ることから始まった。》で始まり、《自主上映会に至るまでのきっかけとなる1日となった。》で結んでいる。
―これ以外に、ニュースを三回発行しています。その№1にゼミ生の写真とスイセン文があって、これが抜群にいい。
《超異年齢集団+超多文化集団(ノブ)、
学び欲!!(フルヤ)、
これは学校なのか これが学校なのだ(タミ)、
彼らの青春は17時からはじまる(ラク)、
ただ涙を流すだけではもったいない映画である。(オノ)、
彼らが学びを止めない限りこの映画は続くのだ。(カタブチ)》
本岡:なんか楽しいね。
―彼ら彼女らが、自分の言葉でこの映画をとらえているのがよくわかります。映画の惹句としてもなかなか気がきいている。作りながら、楽しんでいることが伝わります。そしてこれらフレーズは、それぞれの実行委員感想文の中に、もう一度ちゃんと使われていて、収まるべき所に収まっている。これらのフレーズが彼ら彼女らの本当に感じたことを表した自前の言葉だという証だと思いますね。
本岡:板橋校舎の多目的ホールが会場やったんや。12月9日(金)は18時から、10日(土)は16時30分よりと開演時間が書いてあるけど、帰りの学バスの時刻表もついている。このあたりの配慮が細かい。
Ⅲ 上映会の開催を決めたのはいつか
【所沢の自主上映会へ行く】
―最初に彼らは所沢へ出かけて、「こんばんは」の上映会でこの映画を観ている、これが印象的です。たぶんまだDVDなどになってない段階で、観るためには実際に上映している所まで自分の身を運ばなければならない、映画館ではやってないので、自主上映会に行くしかない。自主上映会に行くのも彼らにとっては初めての経験ではなかったか、と思います。
僕が自主上映会に初めて出かけたのは、1970年、浪人をしている時でした。被爆直後のヒロシマを記録したフィルムは、占領下米軍に接収されていた。それが21年ぶりに返還され、それを編集した上映会が日本各地でもたれた。のちの10フィート運動につながる最初の動きでした。初めて、被爆直後のヒロシマの映像にふれ、大きな衝撃を受けました。
そんなことを思い出しました。
本岡:私は、10フィート運動で作られた『にんげんをかえせ』を見た。
【三つの感想文がある】
―実は、小野くんが『報告集』を送ってくれたあとに、飯嶋さんが《夜なのに明るい学校 映画『こんばんは』感想文 大東文化大学文学部教育学科藤本ゼミナール2005》という小冊子をスキャンして送ってくれました。六人のゼミ生の最初の感想(六月に所沢で映画を観た直後の)が載っていて、どの感想も素直に感動を表出していて初々しい。
そして、報告集には二種類の感想文が収録しされています。
一つは《「特別活動の研究」の自由課題レポート 映画『こんばんは』、見城先生講演会感想文紹介》という授業の課題として提出されたもので収録されている九つの中に、片渕さん、大家くん、山下さんのものもある。
もう一つは、上映会が終わって、自分たちの取り組みを振り返った「実行委員感想文」です。
つまり
①最初の感想(ゼミ生全員六人、六月)
②授業の自由課題(ゼミ生三人)
③実行委員感想(ゼミ生六人、有志五人の全実行委員、十二月)
の三つがあり、これを読み比べることで、興味深い何かが見えてくるのではないでしょうか。
本岡:僕は①最初の感想を貰ってないけど。
―これはあとから送ってもらったものなので、本岡さんに郵送する時間がなかった。本岡さんちは、メール受信できないでしょう。
本岡:メールは使わないのよね。必要な時はFAX。
―うちの新しい電話機にはFAX機能がない!もうFAXの時代じゃない。
本岡:通信手段のギャップやな。今は小学校でも、オンラインやZOOMやいうてるけど、私らには、なかなかついていけへんなあ。
―まあ、年寄りの愚痴はあとでゆっくりするとして、本題に戻しましょうよ。
【はじめて『こんばんは』を観て】
本岡:基本的には、③を検討していこうよ、全員の声が揃っているし。
この「実行委員感想文」の、『こんばんは』を初めて観た時の、下山さんの感想がいいよね、
《2005年の6月17日、所沢の自主上映会で映画を見て最初に思ったことは、「これは学校なのか」「これが学校なのか」ということです。教師よりも年配の生徒、色々な国籍、年齢…みんなが楽しそうに見えて、私が今まで過ごしてきた学校とは違っていました。》下山たみ
―「これは学校なのか」「これが学校なのか」というのが、本当に素直な衝撃の表明になっていて、ほとんど間然するところがない。さっきのニュースのスイセンの言葉でも使っていた。
本岡:古屋くんの感想も実感に即していていい。
《「こんばんは」を初めて見た時「こんばんは」という学校でのあいさつに違和感を持った。
僕は学校生活のなかで「こんばんは」を使ったことがない。そんな観点から考えていった。「こんばんは」を観る前は夜間中学とは、ただ時間帯が夜というだけで特に昼間の中学と変わる部分はないのだろうと思っていたが、そのような考えが通用するほど夜間中学は安易なものではなかった。夜間中学は学ぶ喜びにあふれていて、学びそのものが生きることにつながっていた。そして誰もが自分らしさを求めているように感じた。これこそ本物の学校だ、本物の教育だと思うと同時に、なぜ夜間中学は存在するのか、なぜ「義務」とうたわれているはずなのに義務教育未修了者が数多く存在しているかなど、夜間中学に対する疑問も生じてきた。》古屋恭平
―夜間中学に対する漠然としたイメージが、映画によって崩され、「これこそ本物の学校だ、本物の教育だ」と思う。同時に、「なぜ夜間中学は存在するのか」という本質的な疑問を抱いている。
本岡:映画を観た感動が、上映会実施につながったんやね。
―いや、そう簡単にまとめると、見落とすことがあると思います。
【上映会を自分たちもやろうと思ったのはいつか】
―我々は、十二月の上映会が250人を超える観客を集めて大成功したという結果を知っているので、ついその地点から振り返って見てしまうけれど、実際はパースペクティブは逆なんですよね。六人のゼミ生が所沢へ出かけて行った時、まだ自分たちも上映会をやるということは決まっていなかった。「上映会ありき」で始まったのではないと思いますね。
下山さんが書いているように、《自主上映会を開催しようと決め、ゼミ生以外の有志も募り、2005年9月に11人の学生の自主組織として発足、活動》を始めている、つまり六月に所沢へ出かけた時には、彼ら彼女らは「自分たちも自主上映会を開催しよう」などとは思っていなかった。それは、最初の感想文を読めば、感じ取れます。
《どんな人にもみてもらいたい映画である。そしてみた人みんなが「また明日もがんばろう」って笑顔で言えたらいいなと思う》とか《中学校を経験した大人、これから中学生になる子ども、いま中学生である生徒すべてに観てもらいたい。そして今一度学ぶ意味について考えてもらう良い機会になれば、と願っている。》とか、《…夜間中学から見る窓の外の風景は満天の星空、木々たちも眠る静寂。その静寂の中でただひたすら学びたいという情熱の炎を絶やさない人たちがいる。その素晴らしい情熱に触れてみませんか。》
いい映画だと薦めてはいるけれど、どこか評論家風で、「自分たちがやるからぜひ観に来てください」「一緒に観ようよ」という実行委員の意気込み、気迫、迫力はまだない。
本岡:私はその最初の感想文読んでないからなあ。
―六月から九月の間に何があったか。それが一つの大きな謎です。彼ら彼女らに大きく舵をきらせた何かがあったはずです。
本岡:なんか、君は強引に「謎」を作って、盛り上げようとしているように思うなあ、そんなドラマティックな出来事はなかったんじゃないかな。むしろ地道に持続的に考え続けていったのではないか。
大家伸啓くんの《「特別活動の研究」の自由課題レポート》によれば、彼は夏休みに『学校』という本を読んで、《時代や社会の流れに流され義務教育を受けることができなかったために私には想像できないような辛さを背負わされた人々が》いたことを知り、夜間中学校に通う人たちの《一生懸命な姿や優しい笑顔の裏には一人一人が背負う辛さがかくされていたのだ》と痛感している。
そして、《夏休みの合宿での研究で夜間中学校の歴史やいま置かれている立場や自主夜間中学校という存在、行政の夜間中学校に対する考えを勉強し、色々なことを考えました。》という風にこの、六月から九月にかけてゼミ生たちは、夜間中学校に関わる様々なことを学習してきた、討議してきたということじゃないか。いわばその蓄積が徐々に膨らんでいくうちに、あの映画をもっと多くの人に観てもらいたいと思うようになった。
―僕は、最初の感動が、学習の場を通して知性によって練り直され、「夜間中学校」に集約されている様々な問題を同世代の仲間と共有したいと考えようになった。水位は徐々にあがっていき、ある時、臨界点を越えたんだと思います。そして、その水位の上昇を見守り、導いていたのは卓さんだと思います。
卓さんは《“パストラル・ケア”、その叢生と褪色―英国公教育に“生徒指導”の似姿を垣間見る》という論文を書いています。(大東文化大学紀要〈社会科学編〉第47号(2009))
この論文で、パストラル・ケアという概念を示すために、藤田英典氏の『教育改革』の次のような一節を引用しています。
《〈パストラル・ケア(pastoral care 牧人的世話)〉とは、青少年がその生活・成長の過程で横道に迷いこむことのないように世話し援助することをいう。パスター(pastor)は、牧師、牧者、牧人、羊飼いなどと訳されるように、信徒が信仰に迷わないように、あるいは、牧場で羊や牛馬が迷子にならないように、精神的・行動面での指導をする人をいうが、教師もそういうパスターの役割を担っている。日本の場合で言えば、生活指導や生徒指導がその具体的内容ということになるが、それだけでなく、教科の指導や学級活動や各種の行事など、あらゆる側面にわたってその役割が遂行されている。》藤田英典
卓さんの論文についての検討は改めてすることにして、この上映会に話を絞るなら、六人のゼミ生に対して、彼はパスターとしてふるまったのだろうと想像できます。ゼミ生たちの言動を見ながら、上映会を実施したい、するべきだ、と所へと導いたのだと思います。
下山さんがこんな風に書いています
《実行委員会の活動が始まった頃、これはまんまと藤本先生の作戦にのせられたな…そう思っていました。映画『こんばんは』を紹介してくれたのも先生だし、自主上映会を提案したのも先生でした。そうは言っても、こういう活動に興味はあったし、一度決めたことは最後まできちんとやるつもりでした。しかし、だんだんと実行委員の活動が自分の生活の大半をしめるようになり、夢中になってしまいました。自分たちの手で何かをつくるということはこんなにも面白く魅力的なものかと改めて感じました。》下山たみ
この下山さんは実行委員長ですね。《これはまんまと藤本先生の作戦にのせられたな》という認識がある。彼女はパスターとしての「藤本先生」の働きをちゃんとわかっている。わかっていて、主体的にこの活動にのめりこんでいった。
本岡:藤本くんは最初から『こんばんは』の上映会をゼミ生にやらせようと考えていたのではないのかな?
―『報告集』を郵送してくれた小野くんが、手紙も同封してくれていたのですが、その中にこんな一節があります。
《今思うと藤本先生は、学生の主体性を引き出そうと様々な教材を私たちに与えてくれて
いたんだと感じています。この年は、夜間中学校の他に、書籍「二十四の瞳」や「推の木学
校」などを通じて教育について学んでいましたが、藤本先生は私たちがどの教材に興味をも
つかを見極めて1年間のゼミの活動を考えていたとの話を藤本先生から聞いた記憶があり
ます。》小野雄一郎
本岡:最初に「教材ありき」ではないわけやね。いくつもの教材を手元に用意しながら、ゼミ生の反応、興味の持ちようをさぐり、その時その時に、ふさわしいものを示していく、というやり方やね。
―ですから、ゼミ生に所沢の上映会を紹介し、観てきたら感想を書かせ、そして大家くんが書いているように、《夏休みの合宿での研究で夜間中学校の歴史やいま置かれている立場や自主夜間中学校という存在、行政の夜間中学校に対する考えを勉強し、色々なことを考え》るように、導いたということでしょう。こうした一連の指導は、進みゆきについてはゆるやかではあるけれど、個々の局面では学生に対する要求水準を下げることのない厳しいものであったと思われます。その点は、あとでも触れます。
Ⅳ 集まってきた者がやがて仲間になる
【11人の実行委員】
本岡:最初私は、この活動は、藤本ゼミの取り組みだと思っていた。ところが報告集を読むと、藤本ゼミ以外の有志が集まって、全部で11人の実行委員会を結成している。ここが意外な所だったね。
―そうですね。下山たみ、古屋恭平、片渕加奈、小島雄一郎、大家伸啓、山下楽、の六人は藤本ゼミのメンバー、高橋健、畑中裕美、佐々木悠、下平さゆり、細川ゆきの五人は別のゼミの学生ですね、高橋くんだけが法学部の四年生ですが、あとの十人は文学部教育学科の三年生です。
本岡:なんで一人だけ法学部四年生が入っているの。
―そこも一つの謎かもしれませんね。ただ彼は卒業後、教師生活に入るようですから、接点はあったんでしょう。僕らのゼミ実でも、僕は学部が違ったし、本岡さんは一度社会人を経験してから教育学部に学士入学してきて年がだいぶ上だった。
本岡:五人の有志がどういう経緯で集まって来たか、やってどう思ったかも、興味がある所やね。
―四年生の高橋くんが参加した経緯は不明ですが、実行委員になったことを彼はこう振り返っています。
《チケットの販売や平和の集いへの参加、上映会に向けての準備、ゼミ室に集まっての会議、当日の上映会運営。どれもこれも純粋に楽しむことができ、本当に勉強になった。また、実行委員のメンバー―は本当に素晴らしい。学生だけで映画を上映しようなんてことは、私のこれまでの大学生活の中で一度も考えたことがなかった。もちろん藤本先生の存在も忘れてはならないが、何から何まで自分たちで実行し、すべてを作り上げた。そしてその活動に参加できたことを心からうれしく思う。》高橋健
本岡:やっぱり拠点はゼミ室やったんや。
【誘われたのがきっかけで】
―畑中さんの場合は、こうです。
《映画「こんばんは」上映実行委員に入ったのは、実行委員長の下山さんに誘われたのが
一番のきっかけでした。声が掛かった時は、何も考えないで引き受けてしまいましたが、
今振り返ると、映画を学生たちだけで上映することに、『格好いいな…』と、魅力を感じて
いたのかもしれません。また、これからそういう機会に出くわすことは、あまりないだろ
うし、きっとそれは”学生時代にしかできないこと“だと気づきました。
映画の下見会や勉強会、森監督との交流会、平和の集いの参加、そして何度も行われた
会議…様々の活動の中で、実行委員のメンバーの行動力には、たくさん驚かされました。
映画の舞台である、夜間学校についての知識はもちろん、そして何より、上映会に対する
熱意、「こんばんは」の素晴らしさを多くの人に伝えたい!見てもらいたい!という思いを
感じました。私も、映画を1回見て、みんなの気持ちがよく分かりました。やはり、たく
さんの人に見に来てもらいたい…そんな思いを持ちながら、実行委員会のメンバーの一員
として、みんなと仕事ができたことをうれしく思います。》畑中裕美
本岡:佐々木さんは、こう書いているね。
《上映実行委員に誘ってくれた藤本ゼミナールのKさんとは、2年生の時同じグループで、一年間活動してきた間柄だった。最初にこの映画の話を聞いたのはそのときのグループと、藤本先生と食事をした時だったと思う。彼女は、夜間中学についてすこし話をしてくれた。そのとき、先生はまだ十分に思っていることを話せていないと仰っていたが、それを聴いていた私達には、彼女が3年になってからの数ヶ月で勉強したことがひしひしと伝わってきていたし、何より一緒に活動してきた1年間よりも速い速度で成長しているのではないかし感じていた。私はその時、夜間中学校というはなしへの関心も半分くらいありつつ、すこし焦りを感じていた。同じ時間の中で、自分がゼミの活動でひとに語れることはあるのか?という気持ちになった。》佐々木悠
彼女はまだ映画を観ていない段階で、すぐやると返事をしている。たぶん、Kさんの成長した姿に突き動かされたんやろうね。
―友達の成長ぶりを目の前にして、自分にはゼミ活動でひとに語れることがあるか、と自問しています。でも藤本先生はKさんに「まだ十分に思っていることを話せていない」と言っている。ある意味で厳しい言葉ですね。このことばを佐々木さんはどう聞いたのでしょうね。
本岡:これは、一見厳しい言葉に見えるかもしれないけれど、君はまだそんなことしか話せないのかという低い評価ではないよね、君はもっと話せるはずだ、という励ましの言葉と私は思う。
―内にためている思い、考え、知識を、きちんと人にも伝わるように話しなさいという、要求水準の高い言葉だと思います。
下山さんに誘われて畑中さんが、Kさんこれは片渕さんだと思いますが、Kさんに誘われて佐々木さんが、という風に、一人また一人と、仲間が集まってくるのが、まるで映画のようです。
【自分を見直す】
本岡:実行委員の誰もが、「こんばんは」を観て、ある種の衝撃を受けているね。その衝撃が自分の在り方を見直す契機になっているね。
―下平さんはこう書いています。
《山田洋次監督の映画作品である「学校」を見たことがあったので、夜間中学というそのものの存在は知っていました。しかし、その「学校」のモデルとなった学校があり、モデルとなった先生がいて、モデルとなった生徒たちが実際にいるなんてことは知らず、あのストーリーが事実に基づいた話だということなど全く知りませんでした。そして初めて「こんばんは」というドキュメントを見た時はなんだかはっきりとはわからない衝撃を受けました。それは、あんなにも生徒たちが学びを求め、あんなにも生徒たちに寄り添った身のある授業を行っている学校に私は今まで出会ったことがなく、あんなにも生徒たちの生活に根ざした、まさに生きる力を育てるための授業を行っている先生に出会ったことがなかったからです。「こんばんは」の中での生徒たちは勉強をしたいから、学びたいから学校に行くのであり、多くの人との関わり合いをとても大切に思う生徒たちであり、学校の存在価値を見つめ直すよう私に強く働きかけてくるものでした。私は今まで学ぶということを、学校に行くということを自分自身にはっきりと問いただすことなく今までの学校生活を送ってきてしまいました。そんな中途半端な気持ちで学校に通ってきた私と、あんなに楽しそうにしながらも、けれどあんなに必死に何歳になっても学び続けたいと思って通っている彼らたちとでは、まるで天と地の差です。私とあの生徒たちとでは学校に行くということ、学ぶということの意味がまるで違っていました。》下平さゆり
本岡:そして、実行委員の一人として多くのことを経験し、教育とは何かについて仲間と考えていくことになる。これは下平さんだけではなく、実行委員のみんなに共通することや。
【彼女は実行委員の姿に何を見たか】
本岡:細川さんの感想もいい。抜粋してみる。
《学ぶ意欲を持った人間は、こんなにもまっすぐで、こんなにも輝いて、こんなにも自分
の人生を大切に、大切に歩んでいる…。「こんばんは」の上映実行委員会に参加して、懸命
に自分のために学ぶ人々に出会いました。それは、「こんばんは」に登場した夜間中学生の
皆さん、夜間中学校に勤務する先生方、そして「こんばんは」実行委員会の仲間の皆さん
でした。》、《この映画に出会わなければ、目標すら見失って、ふらつきかけていた私の人生観は変わることはなかったでしょう。》、《実行委員の皆さんは、夜間中学校のことや、「こんばんは」の良さを、より多くの人に知ってほしいという思いのために、一生懸命学んでいました。その姿に刺激されながら、私も大きく成長できたのだと思っています。人間が学んでいる姿が美しいと思えるようになったのは、「こんばんは」の中身以上に、実行委員の皆さんの姿を見てきたからなのです。いろいろな気持ちをこめて、この最高の仲間に、心からのお礼を言いたいと思います。》細川ゆき
―細川さんの《人間が学んでいる姿が美しいと思えるようになったのは、「こんばんは」の中身以上に、実行委員の皆さんの姿を見てきたからなのです。》という言葉には、この上映会の取り組みへの極めて深い視線が感じられます。
本岡:この実行委員会がどんな意味をもっていたかが、よくわかる。メンバー11名はそれぞれに、実行委員の仲間たちに愛情と誇りを抱いているよね。
【もう一つのゼミ、もう一つの学校】
本岡:佐々木さんの感想文の最後の部分は、
《自分の所属するゼミではあまり意見の交換とかすることはないので、委員のみんなと、映画について話たりできたことも新鮮だった。もう一つのゼミのように感じていたので、上映会が終わってしまって寂しい気持ちでいっぱいだ。》佐々木悠
―《もう一つのゼミのように感じていた》というのは、掛値なしの言葉ですね。
本岡:委員長の下山さんの感想は思いのあふれる長文で、自分の不登校経験、森監督の話、見城先生の話を重ね合わせたいい文章で、全文引用したいくらいやね。
―一番好きな所を読んでくださいよ。
本岡:ここかな。
《私は学校という場所はたくさんの可能性を持っていると信じてきました。学校を嫌って不登校をしていた私がいれば、一日も休まずに学校に通い、教育者を目指している私がいる。しんちゃんの変化も驚きです。教育によって不登校になり、教育によって学校へ通うようになった。本当に不思議なものだし、改めて教育っておもしろいなと感じます。
実行委員を経験して、一番の収穫は人とのであいです。見城先生、森監督、映画の登場人物、平和のつどいの方々、大東文化大学の先生方、事務の方、そして実行委員の仲間たち。本当にたくさんの人とであいました。であいとは人と人がつながって、支え合って生きているということを教えてくれます。人間っていいなと思えるものです。私にとってこの活動がまたひとつの『学校』であったのだと思います。》下山たみ
―《私にとってこの活動がまたひとつの『学校』であったのだと思います。》この一言にすべてが凝縮されているように思います。卓さんの会心の笑みが目に浮かびます。
たぶん彼が考えていた「訓練論的生活指導」の典型が、この取り組みだったのだろうと思いますね。「生きる人格の主体を育てること」という「訓育機能」を、教科外の領域という「教育課程」において、「全一コンテクスト指導」という「指導形態」で行う、ロジックではなくレトリックを重視して……。
本岡:何を言うとるのか、全然わからんよ。それはお経か。
―卓さんの《〈教育〉〈学習〉の並行シェーマ》というプリントの中のことばをちょっと使ってみようかと思ったんですけど、この模式図の中に藤本卓教育基礎論があると見ているので、ちょっと応用してみたかった。
本岡:まだ、こなれてないんちゃうか。
Ⅴ 藤本卓氏は何をしていたのか
【報告集から卓さんの姿を探してみる】
本岡:とにかく《「こんばんは」実行委員会感想文》は、とても良かった。
―本岡さん、泣いたでしょ?
本岡:泣きはせんけど、ウルっとはきたなあ。みんな、まっすぐで、若い頃の自分を思い出した。
―この《感想文》は、どれも力のある文章でしたね。経験、実感が文章を支えている、経験、実感が新しい表現を生み出している。そう思いました。たとえばこの報告集のタイトル『学び欲がいっぱい』の、学び欲ということばもおもしろい。
本岡:古屋くんの言葉やね。メンバーの書いていることに個性があふれていて読んでいてあきない。それに、卓さんの姿がちらっと見えることも我々には楽しい。
―そうですね。「教育実践家藤本卓をさぐる」という我々本来の課題に戻って、そこを少し拾っていきましょうか。
本岡:残された少しの痕跡から、犯人の行動を推理する、というわけやね。
―この映画上映会で、卓さんはいくつか後方支援をしています。
例えば、「特別活動の研究」という講義を担当していて、自由課題レポートを課している。そしてこの報告集の中には《映画『こんばんは』、見城先生講演会 感想文紹介》というページがあって、9人のレポートが載っている。この中には実行委員のメンバーもいます。
本岡:つまり、映画や講演会の感想も自由課題のレポートとして受け付けるよ、という形で、講義が上映会を後押ししている。
―映画を観た井上さんは《藤本先生が授業中に「この映画を見るか、見ないかで人生が大きく変わる」とおっしゃっていた意味がわかった。》と書いています。
本岡:確かに映画を見た学生は一様に衝撃を受け、感動しているよね。
―そこで、一つの疑問が生じます。そんな「見るか、見ないかで人生が大きく変わる」というような映画だったら、授業でみんなに見せればいいではないか。それなのに、わざわざ手間もヒマもかかる面倒な上映会を学生たちにやらそうとしたのは何故か。
本岡:効率からしたら、授業で見せた方が早いわな。
【映画を観た学生は何層にもなっている】
本岡:最初、私は映画の上映会をやっただけだろうと思っていた。ところが、報告集を読んで、これは学生が何層にもなっていることがわかった。
―どういう意味ですか。
本岡:まず、メンバーが二重や。藤本ゼミ+有志で実行委員会を作っている。
―補佐委員というのもいたようですよ。
本岡:そして当然、この映画を見た学生がいる。
―実行委員たちと観客とは立場が違いますよね。
本岡:そう、でも一つの映画を共有し、「教育」について考え、語りあうという大きな雰囲気、気風が生まれている。
《上映会初日、映画が終わった後の会場は、なんとも言えない雰囲気だった。当初の予想
を大きく上回る150人の観客は、司会の私が壇上に上がってもなお視線をスクリーンの中
に残していた。それは私自身が初めてこの映画を見た直後の姿そのものだった。6月に所沢
でこの作品に出会い、感じた新鮮な風は確かに、大東文化大学にも吹いていた。》山下楽
―これはとてもいい文章ですね。《150人の観客は、司会の私が壇上に上がってもなお視線をスクリーンの中に残していた》これは、実際に壇上に立った者でなければ書けない文章だと思います。
大家伸啓くんは、《上映実行委員会の活動を通して考えたことが2つあります》と言い、まず人の輪が広がった点をあげています。森監督、文花中の先生、生徒、見城先生、平和のつどいの人たち、そして学内でも学長、学生課・管理課の事務の方々、大勢の先生、もちろん仲間になれた実行委員の人たち、こういう人間的な出会い、交流を経験している。
本岡:学長室にも入っているよね。なかなか、学生は入れないやろ。。
―大家くんはもう一つの点あげています。
《教師を目指す人・教師をしている人・教師だった人・平和を考えている人・小学生などなどの様々な人たちが、あの場で一緒に「こんばんは」を観たということの意味です。》
《「こんばんは」を観た友達と酒を呑んだ時に、普段は酒を呑んではふざけている中なのに、「こんばんは」を観た感想から、これからの学校・教育を担うであろう教師になる自分たちについて語り合いました。それは、様々な思いの人たちが真剣な思いの中で、『自分らしく生きるために一生懸命に学ぶ姿・自分をとりもどすために学ぶ姿・そんな人たちがかもしだす暖かさ・それらを包む優しい雰囲気』を一緒に観たからなのではないだろうかと思います。》大家伸啓
一緒に観たということが、真面目な話しあいを生み出している。
本岡:藤本ゼミと有志、「特別活動の研究」の受講生、それ以外の学生、こういう風に三層あるいは補佐員を入れれば四層の学生が同じ映画を観ている。夜間中学に対する知識や考え、体験にも差がある。この差があるというが意味がある。そして、差がありつつ映画がきっかけでいろんな所で論議が始まっている。こうして大学に、真剣に議論しあう気風が生まれていく。
―《学友になろう!》という50年前の、卓さんの声が聞こえるような気がします。
【認識は深化していく】
本岡:僕が感心したのは、実行委員たちが夜間中学に対する認識をどんどん深化させていっている点やね。最初は素直に感動して、ここに本当の教育がある、という風に思っている。もちろんそれが出発点であるけれど、彼らは次々に疑問を持ち、認識を深めていっている。
―具体的に言ってくださいよ。
本岡:例えば、
《夜間中学校と出会つてから今まで、私のなかでたくさんの変化がありました。はじめの
感想は、こんな素敵な学校があったんだ、学ぶことは素晴らしいことなんだ、と夜間中学
校の魅力にただ感動していました。しかし次に出会ったときは、それまでの考えが安易だ
と思わされるようなとても衝撃的な夜間中学の姿でした。というのは、夜間中学が国や行
政に反対されていてさまざまな活動を通して存続運動を続けている、という事実を知った
からなのです。私は当たり前のように夜間中学がすべての教育機関に歓迎されているもの
と思い込んでいました。しかし現実は厳しく、調べれば調べるほど困難な道を歩んでいる
ことがわかりました。》(片渕佳奈)
―片渕さんは文科省の対応なんかも調べていますね。
本岡:戦争や差別の問題も視野の中に入ってきて、夜間中学を歴史的にとらえられる視力を持つようになっているね。この変化、成長がいい。
―勉強するうちに、認識がどんどん深化していく様子がうかがえますね。さっき本岡さんが、効率から言えば、授業で映画を見せた方が早いと言ったけれど、こうした認識の深化は望めないのではないですか。
本岡:いや、それは教師が夜間中学校を取り巻く問題を提示するという形でできるのではないかな。ただ、学生たちがいわば自発の疑問として、それを考えるという決定的な違いはある。
―内発的な疑問ということですか?
本岡:自分の疑問。人に作ってもらった問題を解くのではない。自前の問いを持つ。
―卓さんが「夜間中学」という存在を教育学科の学生に知らせたい、それがはらむ様々な問題を考えさせたい、という思いを持っていたことは確かですが、それ以上に、この「こんばんは」上映会の取り組みを通じて、実行委員会のメンバーを人間として育てたいという深層の願いがあったのだと思います。人格の形成へのはたらきかけを考えていた。
本岡:学生たちは身体を動かしあちこちへ出かけ、多くの人と出会い、体験を積み重ね、自分の思いを育てている。実際、映画を観ただけの学生の感想と、実行委員のそれとは全然違うよね。
―古屋くんの感想は、そのあたりがよく出ています。
《…上映会までの期間に行われた夜間中学校関係のイベントには多く参加した。自分の五感を使って夜間中学校を感じるということは新しい発見もあれば、深く考えさせられるきっかけにもなったりもした。映画からは夜間中学校の学ぶ喜び、楽しさというものは僕の思考回路を通過して伝わって来たが、目の前に夜間中学という現実があると、学ぶ喜びが「欲」として楽しさが「笑い声」として伝わって来た。また森監督や見城先生のお話も聞くことができ、自分の中でさらに深めていくことができた。
このように夜間中学と多様な面で関わっていくなかで、上映会を成功させたいという気持ちが大きくなっていった。また、なるべく赤字を防ぎたいといった金銭面での心配はあまり考えなくなり、一人でも多くの方に「こんばんは」を観て夜間中学に触れてほしいと思うようになった。それだけでなく、「こんばんは」を通して学校について、教育について考えを深めたり、何かを感じ取ったりしてほしいという願望も生まれてきた。
そして上映会当日、何百人という人達が誰一人目をそむけることなくスクリーンを見ていた。胸が熱くなった。また、この人たちが上映会が終わったら今までより夜間中学に関する知識が増えたり、考えが深まっていったりすると思うとわくわくした。自分たちの学んできたこと、自分たちの考えて伝えたいことを映画を通して伝えるということは非常に達成感があるものだと思った。》古屋恭平
本岡:《学ぶ喜びが「欲」として楽しさが「笑い声」として伝わって来た。》というのはなかなかの表現やね。古屋くんの文章からは、《胸が熱くなった》、《わくわくした》というように、経験を通して、感情が豊かにうねっていく様が伝わってくる。この取り組みを通して、不安、期待、仲間との絆、信頼、達成感、自負、誇りなど、多彩な感情を経験している。これは、感情教育という側面もある。
【卓さんの足跡をさがす】
―さて、本筋に戻って、この報告集に残された卓さんの足跡をさがしましようよ。
本岡:活動報告に10日分の日付がある。このうち藤本卓氏はどれだけ学生と一緒に動いているのだろうね。
―もちろん、森監督と語る会、上映会、見城先生講演会、には、卓さんが同席していることはわかります。写真もあるし。
所沢の自主上映会は行った時、学生と一緒に「知らない街を走り回」っていたとしたら、それはそれでおかしいけれど、どうなんでしょうね。
本岡:「埼玉に夜間中学を作る会川口自主夜間中学20周年集会」は、たぶん有志が加わって実行委員会ができて、最初の活動じゃないかと思うね。
―この集会は内容の濃いものですね。片渕さんの報告を一部引用すれば、
《自主夜間中学として活動することができた喜びの20周年でもあり、公立夜間中学を実現できなかった悔しさの20周年でもあるこの集会。活動報告にはじまり、生徒さんの発表、部落差別についてのお話、ミニコンサートと進められました。特に強く印象に残ったのが、国籍を超えた生徒さんたちよるミニコンサート。それぞれの国の歌詞でひとつの歌を奏でるなかに、同じ場所で自分という人間を表現することや、国籍や宗教が違っても同じ思いがあればひとつになることができるという、夜間中学の存在意義を感じました。
また、部落差別のお話はとても衝撃的でした。鎌田慧さんというルポライターの方の、狭山での部落差別による冤罪事件についてのお話でした。戦後の新学制(6・3制)と同時にスタートした夜間中学の歴史は、部落差別や障害者差別、貧困、病気、親の無理解などさまざまな原因により義務教育の機会を奪われた生徒さんによってつくられてきました。世の中の矛盾を映し出す夜間中学の必要について考えることは、日本の教育を考える土台になることに気づかされました。》片渕佳奈
本岡:これは藤本氏も同行したと思うね。
―いや、10月17日の墨田区立文花中学校の学校公開の日も、同行したと思いますね。看板の横に傘をさして立っている証拠写真があります。
本岡:写真があれば、間違いなしやな。
―10月20日、東京夜間中学校研究会の夜間学級説明会。ここで、見城先生の話を聞いている。11月23日、墨田区立文花中学校文化祭、12月3日板橋平和のつどい、と実行委員たちは参加しています。卓さんはこのあたりどうだったんでしょうね。軌道に乗り始めたのを見定めて、彼ら彼女たちだけで行かせたのかもしれませんね。
本岡:そのあたりは卒業生の証言を待つしかないよ。
【何故「「板橋平和のつどい」に参加したのか」
―ところで、僕が一つ疑問に思うのは、「板橋平和のつどい」に何故参加したのかという点なんです。
本岡:小野くんは活動報告でこう書いているね。
《夜間中学は温かさに満ちています。しかし、その背後には戦争や貧困、差別など様々なものが存在します。私たちは夜間中学の存在をより知ってもらうことで、少しでも多くの人に平和について考えてほしいと思い、参加させていただきました。また、「板橋平和のつどい」の方々には上映会にも足を運んでいただきました。共に両イベントを成功できたことをとても嬉しく思っています。》小野雄一郎
―小野くんは実行委員の感想文でも、「板橋平和のつどい」に触れていますね。
《個人的には特に「板橋平和のつどい」の方々にお世話になった。平和のつどいの実行委員として会議にも参加した。私はずっと板橋に住んでいるが、自分の町でこんなことが行われていたとは、まったく知らなかった。大学の活動を通じて、地域の人々と触れ合うことができ、「板橋平和のつどい」と上映会を共に成功できたことをとても嬉しく思う。》
彼が知らなかった「板橋平和のつどい」をどうして知ったのか?という疑問がわきますね。
本岡:君は、これも藤本卓氏が教えたと思ってるのか?
―可能性はある。
【講演会という取り組み】
本岡:この一連の取り組みの特徴はいくつもあるけど、一つは所沢から始まって、板橋まで、大学の外に積極的に出て行っていること。その中で多くの人と出会っている。もう一つは学内に、「こんにちは」を撮った森康行監督、映画にも登場する夜間中学の見城慶和先生を招いて、講演会を開いていることやね。
―これは、圧倒的な取り組みです。手間暇かけて実行している。講演依頼もしたでしょうし、会場づくり、資料の印刷、当日の司会進行、あとの打ち上げも準備したでしょうね。
実際にこのドキュメンタリー映画がどう撮られたか、夜間中学で教え続けてきた先生がどんな思いを抱いているか、それを生の声で聞ける。こんなことは、普通ありえないことですね。それを自分たちの手で作り上げていく。
本岡:この2つの講演会は、実行委員がテープおこしをしていて、報告集に収録されているよね。テープおこしは結構面倒なんだよな。
―我々の関心に即して言えば、卓さんがここで何か発言したかということです。
【テープをさがせ!】
本岡:ここにちょっとその姿が垣間見える。
《資料⑧の最後にある「私が私であること」という文章にある「矛盾、必要悪、差別、権利、
義務、責任等の概念も学びました。」という部分での、概念ということについて話がされました。差別っていうことがわからないと社会の中で自分らしく生きていくため、自分の権利を守って生きていくためには、ただ言葉を学べばいいのではなくて、その人が本当に必要な言葉を自分のものにしていなくては権利は主張できない、主権者として力強く生きていくことはできないのです。そのために生活基本漢字とは別に、教育基本漢字があるのです。しかし、それでは夜間中学校では高齢者の方や外国の方たちに実用的な知識を学ばせているのだ、と誤解されてしまう可能性がある。そうではなくではなくて、人間が人間であるために必要な概念がある。そのために必要な漢字や言葉があるのだ。だから、やっぱり夜間中学校での学びは義務教育である。
という話が見城先生と藤本先生の間でされました。この考え方は、色々な人たちが自分を自
分らしく守るため、また、自分をとりもどすために通う夜間中学校の存在を支えるであろう。》
―見城先生と卓さんのやりとりが具体的にどんな風であったのか、ぜひ知りたいですね。録音テープはあったはず。テープを探せ!!
本岡:いや、もうないかもしれんよ。テープは何回も使われし、そもそも今どきテープ録音でもないし。テープなんか棄てたんちゃうか。これ2005年の話やろ。15年前やで。
―テープをさがせ!!
本岡:はい、はい。
Ⅵ 会計報告からわかること
―ぼちぼち、我々の対談は一旦終えようと思うのですが、本岡さん何か言い残したことありますか。
本岡:うーん、しゃべろうと思えばいくらでもしゃべれるけど、一つだけ挙げると、この報告集のことかな。
―どういうことですか?
本岡:この冊子『学び欲がいっぱい 『こんばんは』報告集』は本当によくできている、と思うね。感心した。
―どんな所に感心したのですか。
本岡:これは、この取り組みを直接知らない人にも、いろんなことがわかるように作ってある。これまで話してきたことすべてがそうだけど、それ以外で私が感心したのは、会計報告。
これを見れば、この上映会の規模がわかる。前売券(学生500円×209、一般700円×39)、当日券(学生700円×17、一般1000円×11)、カンパ(24人、1団体、合計97161円)と細かく書いていて、例えば全体で25万円強のお金を集めている。参加者は学生226人、一般56人と推定できる。この行事のおおよそのスケール、規模がわかるよね。こういうことが意外と大事。大東文化大学の教育学科の定員は何人ぐらいなの。
―募集定員は120人。ですから4学年で480人になります。大学院(修士課程)の定員が5人ですから、院生2学年で10人。全部あわせても500人ほどですね。
本岡:とすると、4.5割ほどの学生がこの映画会にきたわけかな。
―大東文化大学は東松山と板橋とキャンパスが二つあります。東松山に行った子が、わざわざ板橋のキャンパスに足を運ぶのは、結構面倒です。そういう意味で4割5分は、かなり高い割合だと思います。
僕もこの会計報告を見て、いろんなことがわかりました。たとえば「ビデオテープ代(記録用)2954円」とある。どこかにこの取り組みを撮影したビデオテープがあったはず、それを探せば、もっと生の様子がわかる。今、このテープはどこにあるのか。ビデオテープをさがせ!!
【教育学会運営委員会(予定)という夢】
本岡:それから余ったお金を寄付している。見城先生がやっている自主夜間中学へ10000円、自分たちも世話になった上映運動事務局へ20000円、そして「今後私たちのような上映会等、学生の自主活動が行われる際に使用していただきたいと思います」と15990円を残している、プールしている。
―映画の上映会が成功して良かった、というだけではない。この映画に、そして上映会を実行したことに深く影響された、メンバーの心意気が感じられる所ですよね。
本岡:サークルで学園祭のイベントをやって黒字がでたら、つい打ち上げなんかに使いたくなるけどなぁ。そうではなくて、この上映会が将来につながる方向で黒字を使おうとしている。この教育学会運営委員会(予定)に託された15990円はその後どうなったんやろ。
―ここにも僕は卓さんの影を感じますね。この「こんばんは」上映委員会はひとまず幕をおろすけれど、やがて同じような動きが作りだせるのではないか、という夢を「教育学会運営委員会(予定)」というものに預けた。。
本岡:やり始めは、赤字覚悟やったやろう。やっていけるか、不安があったと思う。
実際、チケット代だけなら赤字になっている。
―カンパの97161円がきいていますね。飯嶋たみさんが提供してくれた写真の中に、こんなキャプションのついたものがありました。「教育学科教授のポストへ寄付のお願いを投函」。こんな活動もしていた。
本岡:上映料がチラシ、ポスター、展示物、振込手数料などを含めて、105429円かかっているけど、フィルムで上映したのかな。
―それも確かめたいですね。卓さんはゼミ生を中心に、三度、映画の上映会を実施させている。2005年『こんばんは』、2010年『里山っ子たち』、2014年『世界の果ての通学路』です。これらはフィルム上映なのか、DVDの上映なのか。費用も、準備も変わってくる。フィルムの方が「上映会」という感じは強くなりますが、それだけリスクがある。
【報告集は何のために作られたのか】
本岡:ところで、この報告集は何のために作られたの?
―それが、僕も知りたい所なんです。
実は、今回手に入った資料の一つに《宮崎園長先生ロングインタビュー!!バリアを排除するのではなくどう乗り越えるか 発行者=大東文化大学「里山っ子たち」上映委員会 2010年》という冊子があるんです。これを提供してくれた和賀さんがこんな説明書きを添えてくれました。
《私がまだ藤本ゼミに入る前の資料です。多分、私たちより四代前?のものです。藤本ゼミに入るにあたって、歴代こんなことをしてきたというのを知るため、先生から渡されてものです。先輩方の研究を授業で使い、後輩が議論するのも藤本ゼミの特徴だったと思います。》
和賀真純
本岡:その和賀さんと、「こんばんは」実行委員たちとは、いくつぐらい違うの?
―実行委員たちのほとんどは2007年3月卒、和賀さんは2015年3月卒ですから,8年くらいの差があります。
『こんばんは』報告集もゼミの後輩たちに渡された可能性がありますね。和賀さんが提供してくれた十点の中にはなかったのですが、8年のタイムラグがありますから、それだけのストックはなかったかもしれませんね。
1、2月に行われていた公開ゼミ、というのがどういう行事なのか、まだ明らかにできてないのですが、ひょっとしたら公開ゼミでも配布した可能性はあるのではないか、と推理しています。
本岡:なにはともあれ、よくできた報告集で、単なる感想文集とは違う。これは明らかに他者、あるいは読者の存在を意識している。自分たちがどう思ったかだけでなく、なぜそう思ったかが他者に伝わるように工夫されている。《森監督と語る会》、《見城先生講演会》のテープ起こしがあったけど、これがあるから、映画の背景や当事者たちの思いが伝わってくる。報告集と名付けられているから、誰か、あるいはどこかに向けて報告しているということだよね。
【愛情のこもった報告集】
―そうですね。ただの事務的な報告集ではなく、いろんな工夫や愛情がこめられている。手書きの表紙の絵もそうですし、手書きのイラストもそうです。
本岡:えんぴつとおにぎりの絵のついた「しおり」まで作ってる!!
―上映会のニュースも、いいですね。
本岡:最後に2ページ分、カラーのページがあって、実行委員会の活動の写真がコラージュされている。
―飯嶋さんから元になった40枚の写真データを提供してもらいました。
本岡:編集工房のHPのアルバムページに載せてたよね。
―写真があれば、とても具体的にイメージできます。こんな大きな教室のこのスクリーンに映し出したのか、とかね。
本岡:上映会終了の時の写真、藤本くんも学生たちに囲まれていい顔をしているね。
―どうだ、という得意そうな顔ですね。彼も自分たちの教え子を誇らしく思っていたのだろうと想像できます。どの写真でも一人ひとりの実行委員たちの表情がいい。いかにも青春という感じで、ちょっと羨ましくもあり、懐かしくもある。
本岡:僕らがゼミ実をやっていた時の写真なんか残ってないやろうなあ。あの頃はやることに精一杯やったなあ。記録を残そうという意識がなかった。
―文字も写真も、時間を越える力がある。次の世代に伝える力がある。
本岡:そこに存在するだけでは記録は何も語らない。読みかえし、見かえす者、そこから声を聴こうとする者がいてこそ、記録は語りだす。
【卓さんはイギリスへ】
―飯嶋たみさんからいただいたメールの中にこんな一節がありました。
《私が藤本ゼミに所属していたのは2005年、大学3年生の一年間です。藤本先生がしばらくゼミを持っていなかった時期で、翌年にイギリスへ行くことが決まっていた一年間限定のゼミとして開かれたものでした。》
本岡:ええっ、そしたらこの上映会をやり終えて、藤本くんはイギリスへ行ったのか。
―2006年4月から2007年3月まで、ロンドン大学・教育研究院客員研究員として一年間、イギリスで在外研究をしています。
その成果は、《”パストラル・ケア"、その叢生と褪色--英国公教育に"生活指導" の似姿を垣間見る大東文化大学紀要 社会科学 (47)、2009年 大東文化大学》という論文や、『あきらめない教師たちのリアル ロンドン都心裏、公立小学校の日々』(ウェンディ・ウォラス 著 藤本卓 訳、2009年、太郎次郎社)という翻訳になって現れるのですが、それはまた別の日の話題になります。
一応ここまでということにしましょうか。本岡さん、どうも長時間ありがとうございました。
ここまでがゲストを招いての対談です。ここで一旦休憩にします。
フロアにいる「藤本卓氏を偲ぶ会」の方々の自由な発言を、お待ちしております。訂正、補足、感想、意見なんでも構いませんので、よろしくお願いします。それを受けて、この会の第2部をやりたいと思っています。
本岡:えっ、まだ続きをやるのか?
―それは、「藤本卓氏を偲ぶ会」の方々の反応次第です。とりあえず休憩、休憩。
2020・7・7
2020・8・2
飯嶋たみさんからのメールを紹介します。
こんばんは報告集の対談を読んで(メールやラインでやり取りしたものをまとめました)
佐藤(佐々木)悠
夜間中学校のことや教育のことを知っていく面白さもあったけど、みんなと話したり考えたりする面白さを当時は感じていたと思う。
山下楽
藤本先生は学校の、教室の中にあるような「気付き」を俺たちに渡してくれる様な指導をしてくれたと思う。
ゼミが始まってすぐ、一人ひとり先生と吞んだことがあった。いい歳したオジさんとサシ飲みというのがすごく新鮮だった。でも最後は先生相手に語っていた。
教員になるためのコアを引き出してくれた気がする。
日々のゼミは、特別な抗議というより、夜間中学や椎木学校の教育法について、自分が自分らしい考えを伝える環境があの時の自分たちに多くの価値を与えてくれた気がする。
教育のもつ効果よりも、温泉みたいな温かい「効能」を研究していたのかも。だからこそ、自分たちに自主上映会を勧めたのかも。今考えると、あの時周りにいる大人に甘えずに、頼った自主上映会だったのかもしれない。自分で学ぶ感じが。
錦織(片渕)佳奈
藤本ゼミに入ったのはみんなに何で?とすごく聞かれたけど自分でも何でか分からなくて、でもそこ以外入りたくなくて。先生の話も分からないことばかりだったけど、その空間が楽しかった。感覚で生きていたなと改めて思う。難しい話とかあまり覚えていないし、叱られたことばかり思い出されるけど、今私が教師として充実しているのは、藤本先生に出会えて、みんなと一緒に勉強できたからだと思う。
大家伸啓
36年の人生の強い記憶に残る、あの1年。確実に自分の教育人生を貫いている考えを耕したスタートの1年なんだと思う。
いま出会う子どもたちが、自分らしく生きていい。人と出会うことがいい。こんな風に生きたいと考えられる。時に背中を押し。時に横を歩き。時に面と向き合い。時に任せ。時に導く。そんな教育実践家で在りたいと藤本先生とかかわった時間と藤本ゼミでの1年間を振り返る。
対談の中の疑問の部分、その他について
●なぜゼミ生以外のメンバーを集めて実行委員会を作ったのか
→ゼミ生一人につき一人仲間を募るということで声をかけました。藤本先生の提案だったかもしれません。
→学部の違う学生が一名いるのは、錦織(片渕)佳奈さんがたまたま授業で仲良くなった高橋さんを誘ったからです。
→当日のみのスタッフとして手伝いをしてくれた下級生もいました。
●活動場所
→ゼミ室。(正式には研究室)手前に書棚があり、中央に机と椅子、書棚で仕切った奥に先生のスペースがありました。守衛室でカギを借りれば自由に出入りできました。
●報告集の中の活動報告のところ
→色々なイベントや場所に手分けして行きました。ちょうど六件だったので一人ひとつという形で書いたのだと思います。
→先生の同行ははっきりとは覚えていませんが、多くはなかったと思います。
●ニュースの発行
→飯嶋(下山)たみが担当しました。内容は全て自分たちで考えています。主に教育学科の学生に配りました。
→チケットについては、活動途中に営利目的の活動ができないと発覚した為『整理券』ということに変更しています。協力してくれた教育学科の事務の方が調べてくれたと記憶しています。
●6月~9月頃の学習
→覚えているものを挙げてみました。
「二十四の瞳」「池袋児童の村小学校」「夜間中学校」「映画・学校」「学校と社会」「デューイ」…順番や具体的な内容は不明です。
→大家くんが夏合宿(千葉・横芝)では学校や教育における『コペルニクス的転換』ということについて学習したと記憶があるようです。
→夏合宿では和歌山の「きのくに子どもの村学園」に行く予定でしたが、見学を受け入れている日程と私たちの日程が合わず断念しています。
→これらのゼミの学びでの『こんばんは』が先でその後にだんだんと色々な人に伝えたいという流れで上映会に入っていったのではないだろうかというのがみんなの記憶です。所沢で映画を見た時は二十四の瞳、池袋児童の村あたりを学習していて、でも夜間中学校のことは心のどこかで気になっていて、夏以降で一気に動いたのは間違いない…と小野くん。夏合宿で上映会のことや見城先生に話を聞けないかということを藤本先生が話していたのではないか…
→余談ですが、夏合宿で前の日の残りのカレーを次の日の朝藤本先生がカレースープにして振る舞ってくれました。
●見城先生講演会の感想文
→藤本先生が選んだ感想文を載せました。東松山の喫茶店でこれと、これと、と話をしたのを覚えています。
●上映方法は?→DVDでした。
●誰のための報告集か
→チケットや寄付などお金を集めて上映会を開催したので、協力してくれたみなさんにという形の報告集だったと思います。報告集作成の作業は実行委員の活動の集大成でもあり、自分たちの活動と仲間への気持ちを何か証として残したかった思いが溢れていると思います。誰のためかと言われると一番は自分たちのためだったのかもしれません。私たちにとっては宝物です。
●なぜ平和のつどいに参加したのか
→小野君の記憶では同じ教育学科の杉田先生に紹介してもらったのではないかとのことです。板橋区在住の小野君が担当することになりました。
●きっかけ
→古屋くんの話ではゼミの最初の頃のレポートに「大学のあいさつはなぜ昼でもおはようなのか」というような事を書いたら藤本先生が反応した。もしかしたらそこでこんばんはの話があったかもしれない。