ビッグアプセット各位
ビッグアプセット創設25周年企画の番外編として、ビッグアプセット大河ドラマ「おちいさま」~日本近代史とビッグアプセットの秘密~ を、全8話の予定でお送りします。
日本近代史とビッグアプセットを巡る運命のストーリー、ビッグアプセットナインとして知るべき歴史の物語ですので、つまらないと思わず、ぜひ辛抱強くお読みください。
では、はじまり、はじまり~
===================
ビッグアプセット大河ドラマ
「おちいさま」 ~日本近代史とビッグアプセットの秘密~
第一話 「高円寺の黒姫さま」
「大正時代」をご存知だろうか。
明治と昭和の間、1912年から1926年までのわずか15年間、日本近代史にひっそりと佇む時代、その短さだけでなく、富国強兵と近代化にまい進した明治と、敗戦のどん底と戦後の再生に彩られる昭和、こうした激動の時代の合間で、大きな歴史的出来事と無縁のように思われる大正時代。
しかし、よくみると、「大正デモクラシー」と呼ばれる民主化運動や女性の社会進出が進む開明の時代であり、カフェ・レストランが流行し、山手線が環状線としてつながり、歌謡曲が市民権を得て、箱根駅伝・東京六大学野球・夏の甲子園など、いまにつづく文化・スポーツの華が咲いた時代だ。
そうした時代の象徴のひとつが、大正天皇を中心にした当時の皇室だった。
病弱で短い生涯を閉じた大正天皇だが、その気さくでリベラルな性格、側室制度を廃し一夫一婦制を確立し、皇室行事の合理化・近代化を推し進めた大正天皇率いるその皇室の開明的な姿勢は、この時代の空気と軌を一にしている。
そしてその大正天皇の皇后として皇室を支えた貞明皇后 - 女性の社会進出のシンボルであり、明治から太平洋戦争後まで日本の近代とともに生きた、貞明皇后こと九条節子(さだこ)もまた、この時代と日本の近代を象徴するひとりだ。
この物語は、そんな節子皇后とビッグアプセットを巡る、日本近代史に潜む秘密の物語である。
***********
節子は1884年(明治17年)、九条家の四女としてこの世に生を受けた。
九条家は旧公家であるだけでなく、いわゆる「五摂家」のひとつという、公家のなかでも名門中の名門だ。五摂家は藤原家の嫡流で、江戸時代までは数百年にわたり朝廷の政治をほぼ全て取り仕切っていた。また明治維新による尊王攘夷思想によって修正されるまでは、五摂家の地位は宮家(天皇の兄弟)より格が上とされていたほどだ。
その名門中の名門の九条家の四女として生まれた節子は、生後7日目にして高円寺村(現・杉並区高円寺)に里子に出されることになる。
当時、公家の子息が必ずしもみな里子に出されていたわけでもなく、また出されるにしても公家と縁のある名家に出されることが多かったが、節子の父・九条通孝は、節子を自然に恵まれた環境で自由に育てるべく、敢えて郊外の旧家に里子に出すことを希望したのだ。
ちょうどそのころ九条家に野菜などを納めつつ奉公人の口入れなども行っていた、大野喜三郎という高円寺村の顔役がおり、喜三郎に
「どこか家柄がよく裕福な家はないか」
と尋ねたところ、その顔役が同じ高円寺村の代々の名主である名家の金蔵・てい夫妻を紹介したことが、すべての始まりだ。ちょうどその直前に同夫妻が生まれたばかりの男の子を病で亡くしていたことから、ていが母乳をふんだんに与えられる乳母として最適であったこともあり、この話はとんとん拍子でまとまった。
当時の高円寺は、まだ甲武鉄道(現JR中央線)が開通する5年前、一面に水田や畑が広がる田園地帯だ。金蔵はその一帯の小作人を取り仕切る名主で、本業の稲作・畑作に加え、小作たちを指揮して藍玉や染料も製造するなど手広く事業をいとなみ、この地域の名家として6,000坪(東京ドームの約1/2)の土地を有していた。
「自分の子供だと思って何の遠慮もなく育ててほしい」
九条通孝から直々に頼まれた金蔵とていは、あまりの身分の違いに戸惑い固辞したが、何度も説得され最終的には受け入れた。受け入れてしまえば、一生懸命乳を吸う赤子が可愛くないわけがない。
そうして金蔵とていは、節子を愛情いっぱいに、また自分の子供達と分け隔てなく育てた。特に長女のよしと節子は同じ部屋で寝起きし育ち、真の姉妹同然に育てられた。
節子は友達思いで、物覚えや聞き分けのよい子供に育ち、その兄弟たちや近所の子供達を率いるリーダー格に成長、日々高円寺の畑や田んぼ、近所の小川を走り回り栗を拾い魚を採って遊んだ。また当時万世橋(現在の御茶ノ水駅と神田駅の間)を起点に中野駅まで延伸していた鉄道の工事現場に潜り込むなど、自由奔放な少女時代を過ごすことになった。
節子は金蔵を「じいや」、ていを「ばあや」とよび、実の親子と何も違わない愛情と信頼関係で結ばれるようになった。また、信心深く読経を欠かさなかったていの影響で、毎朝仏壇にお参りを欠かさないなど、元気ながらも信心深い少女に成長していった。
近所のひとたちはそんな節子のことを、「おちいさま」と呼んで可愛がった。
当時高円寺村では「ひ」を「ち」と発音する風習があり、「お姫さま」を子供言葉風に「おちいさま」、と呼んだのだ。また毎日野山を駆け巡り真っ黒に日焼けしたお転婆ぶりから、「九条の黒姫さま」、とも噂される存在だった。
(つづく)
次回予告: 「第2話:青梅街道の別れ」
高円寺村ですくすくそして逞しく育つおちいさま、そんな幸せな時も、やがて涙の別れのときがやってくる。
ビッグアプセット大河ドラマ
「おちいさま」 ~日本近代史とビッグアプセットの秘密~
第二話 「青梅街道の別れ」
そんな自由で楽しい少女時代にも終わりはやってくる。
名主の娘として自由奔放に育った節子だが、一方で節子が名門公家の令嬢であるのは公然の事実であり、金蔵とていも愛情深く、時には厳しく節子を育てつつも、名家の令嬢としてふさわしい育て方にも意を用いていた。
あるとき、庭のすももの木の枝からすももが落ちているのを拾ったよしが、それを拾って節子に手渡した。それを節子が食べようとすると、ていは
「おやめなさい、おちいさまはそんなものをお食べになってはいけません」
とそれを制した。わが子同然、農家の娘として育てながらも、いずれは九条家にお返しするお姫様なのだ、という気持ちも常に忘れることはなかった。
里子に受け入れたときからの九条家との約束で、節子が幼稚園に入る歳である4歳には九条家に節子を戻すことになっている。それは金蔵とていにとっては、愛情が深まれば深まるほど、つらい現実として頭から離れることはなかったし、それは節子自身も薄々知っていた。
そして、別れのその日は突然やってきた。
ある日の昼前、金蔵の家の門前に黒光りの自動車が人力車とともにやってきた。そこに現れたのは九条家の執事と節子の養育係を命じられた女性、今から節子を九条家に連れて帰る、と突然告げたのだ。
突然の申し出にうろたえる金蔵とてい、しかしもともと九条家との約束で、この年には節子を九条家に返すことになっており、すっかり情が移ってしまった節子との別れが悲しくても、受け入れるしかない。
金蔵は
「何だかおれは竹取物語の翁になってしまったようだ」
と嘆くしかなかった。
しかし、一方の節子は突然の別れを受け入れられない。いずれ九条家に帰るのですよ、と言い含められてはいたものの、前触れもなく親同然の金蔵とてい、そして実の姉妹のように育てられたよしや、近所の子供達と別れろと言われ、
「いやだいやだ、さだはばあやと一緒にいる、お月様なんかには帰らない」
と泣きわめくばかりだ。
対処に困ったていが、
「では、ていも一緒に歩いて九条家まで参りますから」
となだめすかして何とか節子を人力車に乗せる。
ゆっくり歩みの速さで進む人力車の横にていが並んで歩き、その後ろを金蔵や近所の者たちがぞろぞろとついて歩く。現在の中野駅あたりで右折すると、いまは中野通りと呼ばれる畑のなかの一本道を南に進む。
すると青梅街道に出たところで、いきなり人力車が走り出す。
ていは覚悟はしていたものの、とっさに人力車のあとを全力で走って追いかける、が、とても追いつかない。
どんどん遠くなっていくていの姿を振り返りながら、節子は
「ここで降りる、降りる」
と叫ぶが、人力車は止まることがない。
人力車の背もたれにしがみつきながら後に向かって手を伸ばし、
「ばあやあああああ!」
と泣き叫びながら、節子はどうすることもできない。
人力車は速度を増し、涙にくれるていや金蔵がやがて見えなくなるのをなすすべもなく、節子は高円寺からどんどん遠ざかっていくのであった。
(つづく)
次回予告 「第3話:動き出す運命の歯車」
九条家に連れ戻された節子、公家の生活にもなじみはじめ女学生として成長する節子に、思いもよらない運命がまっていた。
ビッグアプセット大河ドラマ
「おちいさま」 ~日本近代史とビッグアプセットの秘密~
第三話 「動き出す運命の歯車」
泣き疲れて眠ったままついた九条家は、赤坂の氷川神社近く(現在の東京ミッドタウンの裏)の屋敷に居を構えていた。
生まれて初めて両親と対面しつつ、高円寺育ちのおちいさまはなかなか公家の暮らしになじめなかったが、それでも夏休みや春休みには数日間高円寺の「実家」、すなわち金蔵・ていの家に泊まりで帰ることを許されることを心の支えに、徐々に新しい生活に順応していく。
九条家に戻った2年後には華族女学院(後の女子学習院)初等科に入学、主に公家の子女が通う女学院だ。高円寺育ちの節子は、決して寄ってはいけないときつく言われていた駄菓子屋にも足しげく通い、そこで覚えた「オッペケペッポー」の唄をクラスに広め大ブームを巻き起こし、また高円寺仕込みの鬼ごっこをクラス中で開催し教師からにらまれるなど、ここでも自由奔放のお転婆ぶり、黒姫さまの本領を発揮しつづけた。
一方、女学院には節子がその後長らく影響を受けることになった恩師との出会いもあり、中でもそのひとりである石井筆子との信頼関係は生涯つづき、また節子の後々の人生にも大きな影響を与えることになる。
そうして心身ともに成長し10代中盤に差し掛かるころから、節子はたびたび「大宮さま」に呼ばれることが増える。「大宮さま」とは、当時の天皇である明治天皇の母親で、幕末の名帝・孝明天皇の后、つまりその時点の皇太后で、彼女は九条通孝の姉、つまり節子にとって伯母だったのだ。
節子は大宮さまが好きで、一緒に呼ばれたほかの公家や宮家の子女たちと遊ぶのがことのほか好きだったが、実はその会合は、当時同じく10代半ばになろうとしていた嘉仁親王、つまり明治天皇の長男である皇太子、のちの大正天皇のお妃選びの場だったのだ。
皇太后の姪であり九条家令嬢である節子は、その候補のひとりとして呼ばれていたのだが、本命は他の少女だった。それは集められたなかでも段違いの美少女で、雪の精と呼ばれるほど色白の伏見宮家の令嬢、実際その後彼女が皇太子妃内定として世に発表されることになる。
ところが、ここから思いもしない節子の運命の歯車が動きはじめる。
婚約内定からしばらくしたのち、伏見宮令嬢の健康不安説がにわかに高まったのだ。
未来の皇后たる皇太子妃に求められるのは、まず家柄のよさ、なかでも明治維新によってその地位が宮家より下とされ、単なる特権階級と揶揄されることもあった華族より、伏見宮のような皇族宮家が望ましいと考えられていた。
また、西洋列強に追いつき追い越せの日本において、皇后は西洋的な色白で目鼻立ちのはっきりした美人が望ましいとされ、その意味でも伏見宮令嬢は申し分なかった。一方、節子は切れ長の目をもつ典型的日本女子であり、また黒姫さまと呼ばれるほど、高円寺育ちの色黒な健康的外見の持ち主であった。
しかし一方、西洋列強と並ぶべく国家の近代化を急いだ日本では、皇室ではそれまでの側室制度を廃止し、一夫一婦制に移行すべきという強い決意があった。
であれば、男系男子の天皇家の血筋を絶やさないためには、皇太子妃が男子を生まなければならない、そのためには皇太子妃候補としてはその健康がなによりも優先される、という意見が強まっていたのだ。
結局、紆余曲折を経て1900年、節子17歳のとき、ついに節子が皇太子妃に確定した。
一部には、「節子姫は健康である一点のみをもって落札された」という心無い評判もたったようだが、一方で節子に実際面会したドイツ人医師のベルツによると「節子姫は大変美しい」という評価も残されており、当時の一部日本人の中にあった、西洋的美人をなによりもよしとする考えに基づき、節子の外見を必要以上に悪く評価する向きがあったものとも考えられる。
いずれにせよ、節子が皇太子妃に決まったことで、彼女の人生は一変する。そして節子が特に気にしていたのは高円寺の金蔵・ていのことだ。
九条家に戻ってからも、毎年夏にはたけのこ堀り、秋には栗拾いのため高円寺に戻り、夏休みには「ばあやのお料理を食べにきました」、と数日間金蔵宅に泊まり、本当の実家に戻ったようにのびのびとした時間を過ごしていた節子。しかし皇太子妃となれば平民である金蔵やていと会うことはもはや許されない。
また、皇室入りが決まったあと、例の節子の容姿に関する心無い風評を気にかけてか、九条家の人間が金蔵宅にやってきて、わずかに残っていた節子の幼少期の写真も全部没収されてしまい、金蔵とていはそのわずかな写真すら持つこともできなくなった。
皇室入り内定後に高円寺をおとずれた節子は、ていの手料理を食べながら
「これで最後ですね」
と寂しそうにつぶやくしかなかった。
金蔵は、
「お姫さまが御所にお入りになっても、じいがつくった野菜を毎年御所にお届けします」
と約束するのが精いっぱいだった。
別れ際には、その12年前、節子が九条家に戻される直前にてい達と訪れた高円寺の縁日で、節子がせがんで買ってもらった梅と椿(つばき)の鉢植えをみつけ、そのうち椿を節子が鉢から移し替え、金蔵宅の庭に植えた。そして色紙にその思いをしたため、金蔵・ていに手渡した。
「昔わが住みたる里のかきねには 菊や咲くらむ 栗や笑むらむ ものごごろしらぬほどより育てつる 人のめぐみは 忘れざりけり」
庭にお手植えした椿のもう片方、梅の鉢植えは、金蔵とていの思い出の品として、その日節子が両手で大事に抱えて九条家に持ち帰った。
1900年5月10日、ついに婚礼の日がやってきた。
延々とつづく婚礼の儀式は宮中で行われる、九条家の屋敷のある赤坂氷川から宮城(皇居)まで、節子は馬車で向かうことになる。これはいまに続く皇太子ご成婚に際しての、歴史上初の一般民衆向けのパレードとなった。
九条家を出発した馬車の列は氷川坂をくだり赤坂通りを溜池に向かって進むが、どこも妃をひと目みようと黒山の人だかりだ。節子は馬車の中から外をみやりながら、山王下の日枝神社の鳥居入口のあたりの黒山の人だかりのなかに、見慣れた顔をみつける。
金蔵とていだ。
育てた姫が皇太子妃になる感激と、二度と会えないことを覚悟しなければならない悲しさで、金蔵もていも泣いている。節子は思わず立ち上がり手をふり叫びたい衝動にかられるが、もはや節子は民衆に向かって手を振ることすら許されていない。
感無量で手を振る金蔵とていを、節子はただ黙ってみつめることしかできなかった。
(つづく)
次回予告 「第4話:激動の時代を生きる」
皇室に入った節子は大正・昭和の激動の時代を生きる。時代の波に翻弄されながらも特筆すべき功績を残していく。
ビッグアプセット大河ドラマ
「おちいさま」 ~日本近代史とビッグアプセットの秘密~
第四話 「激動の時代を生きる」
16歳の若さで皇室に入った節子、皇太子妃として日露戦争など激動の明治を生き、皇后として大正デモクラシーの時代を支え、大正天皇崩御後は皇太后として2.26事件から満州事変、太平洋戦争を経て東京大空襲を乗り越え、天皇人間宣言・戦後民主主義にいたる激動の日本近代史、明治・大正・昭和の3時代を生き続けた。
大正天皇は若いころから病弱で、1921年には病気で公務執行不能となり、まだ二十歳そこそこの昭和天皇が摂政として実質的な天皇を引き継ぐなど、天皇としての公務の期間は比較的短い大正天皇だが、文化・スポーツ面の進展、大正デモクラシーに象徴される自由民権の動きなど時代は早中であり、また皇室としても、それまでは考えられなかった皇后を伴っての外遊旅行、馬車から降りる際には天皇自ら皇后の手を取ってエスコートする、といった先進性あるれるスタイルで愛された天皇でもあった。
また、天皇が病に倒れていた1923年の関東大震災後には、節子皇后自らが被災民を慰問し、平成の時代に花開く、「被災民と寄り添う皇室」の姿をすでに100年前に具現化している。
また終戦前には度重なる疎開の勧めを断り赤坂御所を動かず、1945年春の東京大空襲では大宮御殿など居住をすべて失い、「御文庫」と呼ばれる地下室で過ごした。
家を失った節子は側近に、「これで私も国民の皆さんと同じになりましたね」と語るなど、明治・大正・昭和の激動の時代を国民とともに生き、そしてつねに時代の先を行き、病弱と言われながら気さくで優しい天皇に寄り添うことを忘れない皇后だった。
その史実としての数々の業績や出来事は、多くの歴史書や文書に記されており、ここで改めて述べることはしないが、ここでは貞明皇后の特筆すべき3つの活動について触れたいと思う。
ひとつ目は、社会奉仕への献身である。
節子は皇太子妃時代から、ハンセン病患者に対する差別撤廃、いわゆる救らい事業の創始者として際立つ活動を行っている。
ハンセン病に対する行政措置の違憲判決に対する控訴断念で日本中を驚かせた小泉総理大臣の英断の100年以上前に、平民と接することすら禁じられていた貞明皇后は、当時国民だれもが偏見を隠さなかったハンセン病施設への援助を惜しまず、時にはみずからそうした施設を訪れ患者たちを励ますなど、当時の常識を絶する大胆な行動で時代の100年先を行ったのだ。
また、激増する海運を支える、孤独で献身的な職務の灯台守を長く支援し、人里離れた灯台にも何度も激励に訪れるなど、社会的弱者や社会を支える陰の人々を励ましつづけた。
そして節子が特に力を入れたのが障害者教育だった。
華族女学院時代の恩師で、節子とは生涯にわたって固い絆で結ばれていた石井筆子が、北区滝野川で立ち上げた障害者教育施設「滝乃川学園」を節子は生涯にわたって物心両面で支援しつづけた。学園が火災で焼失したときは、節子は八方手をつくして学園の再興に尽力し、移転先の東京都国立市にいまも現存する滝乃川学園では、渋沢栄一と並んで貞明皇后こと節子をいまでも学園の祖としてあがめている。
ふたつ目は、旧会津藩にまつわる物語である。
周知の通り、徳川松平家の流れをくむ幕末の会津藩、尊王攘夷に荒れる京都の守護職という、誰もが避ける貧乏くじを敢えて引き受け、新選組を従え京の治安維持に奮闘した、「ならぬものはならぬ」を家訓とする硬骨の藩だ。
一方、動乱の世を憂う当時の皇室では、英明といわれた孝明天皇が公武合体による体制立て直しを進めていた。その孝明天皇の最側近として幕府との協力関係強化に腐心していた人物が、ほかでもない節子の父、五摂家の中心である九条通孝だったのだ。
尊王攘夷と公武合体の綱引きのなか、孝明天皇がいまだに毒殺と疑われる謎の死をとげることで形勢は一気に動き出す。朝敵のはずの長州と裏で手を組んだ薩摩が最後に寝返り、鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争が勃発、最後の将軍徳川慶喜とともに、幕府と一蓮托生の会津藩は、薩長が掲げた錦の御旗によりあっというまに「朝敵」となる。
江戸城無血開城を経て薩長主力の新政府軍は東北を目指す。その総大将に担ぎあげられたのがほかでもない節子の父、九条通孝であった。
公武合体の孝明天皇を支えていた通孝、その後時代は薩長の新政府軍が一気に主導権を握り、その勢いで東北征伐を行う新政府軍に通孝が担がれたのは、五摂家としての権威に加え、公武合体の旗印であった通孝への当てつけでもあっただろう。
通孝はまず仙台に陣を構え、会津藩主・松平容保に恭順を促し和睦交渉を必死で行う。容保も最終的に恭順を受け入れ、和平の段取りは整ったはずだった。通孝は欧米列強が日本に押し寄せるなか、もはや公武合体は夢だが、薩長の新政府のもと国内を安定させるのが先決、内戦は外国の関与を招くだけ、との信念から、必死に和平工作を行った。
しかし、薩長の会津や新選組に対する積年の恨みは深く、最後は押し切られる形で会津戦争に突入、敗北した会津藩は2500人以上の犠牲者を出し、不毛の地・斗南(現・青森県むつ市)に追いやられることになる。
九条通孝は形式的な味方である薩長に強引に押し切られ、形式的な敵である奥羽列藩同盟からも信頼を失い、その後限られた側近たちとともに東北の地を放浪することになる。
その後も通孝は、長くこの会津戦争の帰趨、とくに戦争を防げなかったこと、そして最後の最後まで幕府に忠誠を尽くし、恭順を示している会津を追い詰めるだけ追い詰めたうえ、大量の犠牲者を出し、朝敵として僻地に追いやられ、藩士みなを苦難に陥れてしまったことを終生後悔しており、その無念を何度も節子に語っていた。
時は流れ、節子はまさかの皇太子妃となり、大正皇后として4子をもうけた。長男は誰あろうのちの昭和天皇、次男が秩父宮、三男が高松宮、四男が三笠宮である。
そして昭和を目前にした1920年、長男裕仁(昭和天皇)につづく次男・秩父宮の妃として、会津藩松平家直系、あの松平容保の孫娘である勢津子を、節子は必死の工作で秩父宮妃に迎えたのだ。
これは偶然ではなく、長年にわたる節子の慎重な努力の結果だった。
ひとつ証拠がある。皇族はみなそれぞれがいわゆる「御印」を持つが、長男の昭和天皇に「若竹」、そして次男の秩父宮に「若松」の御印を与えたのは他でもない節子皇后だ。松竹梅の順序からいえば逆のところを、天皇を継ぐべき長男を敢えて竹とし、会津若松の汚名挽回の頼みを、次男の秩父宮の御印「若松」、に最初から託していたのだ。
長年の忠誠のあげくに「朝敵」の汚名をきせられ、僻地に散りじりになった全国の旧会津藩士たちが、会津戦争からちょうど60年後の松平家直系の令嬢が皇室入りとの知らせに、みな涙を流して歓喜したのはいうまでもない。
これは父・九条通孝の無念と、旧会津藩の汚名を60年かけて晴らした、節子皇后の大金星だったのだ。
(つづく)
次回予告 「第5話:高円寺への想い」
激動の時代を必死に生きる節子、しかし秘めたる高円寺への想いは決して消えることはなかった。
ビッグアプセット大河ドラマ
「おちいさま」 ~日本近代史とビッグアプセットの秘密~
第五話 「高円寺への想い」
そして最後は、節子の決して消えることのない高円寺への想いだ。
皇室入り直前に高円寺を訪れ、色紙と椿のお手植えを残し、そして婚礼の日に馬車の中から無言の挨拶を交わして以来、節子は皇太子妃・皇后として、金蔵・ていはおろか、平民と直接会い言葉を交わすことすら許されない。
実の親同然の金蔵とてい、自らが育った高円寺への想いは決して忘れることはなかったが、立場上そのことは封印して生きていくしかなかったのだ。
ところで、大正天皇は若いころから病気がちで、最終的には任期半ばで病気のため長男・裕仁に摂政として実権を渡さざるを得なくなるのだが、それ以前、即位直後の1912年にも重い病にかかり危ぶまれたことがあった。数週間にわたる節子の献身的な看病もあり、無事に回復したが、回復したあと大正天皇がこんなことを節子に言い出したのだ。
「実は病気の間に、私自身の大喪の夢をみたのだ。場所は武蔵野の西の果て、高尾山の裾のあたりだ」
「君が育った武蔵野の地を見守りながら、未来永劫ふたりで寄り添って静かに眠るのだな、と思ったら不思議に穏やかな気持ちになり、何も怖くなくなった」
「おそらく私が先だ。そうすると君は参拝にいくときに列車で高円寺を通ることになる。それもまた楽しいことではないか」
それまでの天皇葬儀と天皇陵はすべて京都と決まっていたが、大正天皇はそれは費用や負担がかさみ合理的ではなく、自分は東京に葬ってほしいと考えたわけだが、なにより節子がひそかに胸に秘めている高円寺への想いを天皇が理解していたことを知り、節子も胸が熱くなった。
ちなみに明治天皇は崩御後、明治神宮に奉られたが、それがその後も慣例となれば天皇が崩御するたびに神宮をつくることになるため、大正天皇は自らを神宮に奉ることはするな、とも厳命していた。近代と合理化の時代に、皇室を改革することを常に考える天皇でもあったのだ。
ともあれ、大正天皇は健康をとりもどし大正時代は続くことになるが、最終的には1925年、大正天皇の予言のとおり、節子より先に崩御することとなる。
大喪の礼は新宿御苑で行われ、その棺は千駄ヶ谷駅に特設されたホームから列車で運ばれ、大正天皇が命じたとおり高尾山のふもとに葬られることとなった。
時代は昭和となり、皇太后となった節子は、大正天皇の墓参のため、たびたび高尾山ふもとの多摩御陵を訪れることになる。
大正天皇の遺言通り、節子は列車で高円寺を通り高尾に向かう。節子が幼少時に遊んだときは中野までだった中央線はそのまま高尾まで延伸され、毎回高円寺を通るたびに節子は窓際で懐かしい金蔵の家を必死に探す。
しかし以前一面の田園だった高円寺は、昭和を迎えて住宅地化が進んでおり、電車の速度が格段に速くなったこともあり、毎回どうしても探し出すことができない。
するとその後のとある墓参のとき、節子の乗った列車が再び高円寺近辺に差し掛かると、前方に大きなのぼりがはためくのが目に入った。
金蔵はすでに亡く、後を房次郎が継いで当主となっていたが、実は、毎回節子が金蔵家をみつけられないという話が間接的に耳に入り、目印のために門前に数本の鯉のぼりの支柱をたて、色鮮やかな吹き流しを掲げていたのだ。
列車は金蔵の家の正門のすぐ前を通る、当主となっていた房次郎は紋付羽織袴の正装で正門前に正座し、頭をたれて列車を迎える。
すると、節子を乗せたお召し列車が速度を落とし、房次郎の前で最徐行となった。房次郎は決して頭を上げ節子を見ることはできないが、節子はなつかしい金蔵・ていの跡継ぎである房次郎と、窓越しに対面することができたのだ。
節子は、房次郎と、懐かしい金蔵家の正門に、心の中で深く、深く頭をたれ、そしてこころの中で金蔵とていに対し、深く、深く合掌するのだった。
(つづく)
次回予告 「第6話:昭和、平成、そして令和」
激動の時代を生き、太平洋戦争終結後まで時代に寄り添う人生を全うしたおちいさま。時代は流れ、昭和から平成、そして令和になってもその伝説は生き続ける。
ビッグアプセット大河ドラマ
「おちいさま」 ~日本近代史とビッグアプセットの秘密~
第六話 「昭和、平成、そして令和」
1945年、東京中と皇居をも焼き払った空襲と、広島・長崎への原子爆弾投下で戦争が終わる。
日本はアメリカを始めとした連合国の占領下に入るが、日本を民主主義国家として再建する一環として天皇の人間宣言が行われ、昭和天皇は全国を訪問し、それまでは決してなかった国民との直接対話が行われるようになった。
それを受け、節子皇太后も長らく援助してきた全国の養蚕所を訪れたり、東村山にあったハンセン病施設を電撃訪問し患者たちを励ますなど、全国への行脚を積極的に行った。また、生涯固い絆で結ばれた石井筆子が経営する国立市の障害者施設・滝乃川学園への援助は物心両面にわたり戦後も続いていた。
こうして民主主義の世となり国民たちと近しく交流することができるようになった節子が、ついに念願の金蔵・てい宅を訪問するときがやってきた。
終戦から3年が経過した1948年(昭和23年)、養蚕所訪問の帰途、高円寺訪問が許されたのだ。
金蔵から家督を継いだ房次郎はすでに亡く、金蔵の孫にあたる幸作が当主となっていた。
スケジュールの関係で15分間だけなつかしい金蔵・ていの家に立ち寄ることが許された節子、それは生後7日目にここに里子に出されてからちょうど60年、また椿をお手植えし、色紙を残してここを去ってからすでに48年がたっていた。
節子は幸作の6人の子供達に積み木、インクスタンドなどの手土産を渡し、長男で中学生になっていた章雄には当時としては超高級品である背広の生地を渡した。子供たちひとりひとりに名前や年齢を聞き、親しく会話し、そして懐かしい金蔵・ていの写真を感慨深げに眺め、
「この写真のお二人は、ずいぶん若いころのようですね」
と嬉しそうに話しながら、その仏壇に手を合わせた。
思い続けた高円寺への里帰りを48年ぶりになしとげ、思いを遂げたからだろうか、そのわずか3年後の1951年(昭和26年)、節子は突然狭心症の発作で倒れ、そのまま帰らぬ人となる。
華族として育ちまさかの皇室入り、大正デモクラシーや戦争、空襲から終戦、民主化と人間宣言など、激動の明治・大正・昭和時代を生きた貞明皇后、それは激動の日本近代史に寄り添った人生だった。
おちいさまは、大正天皇がそう願った通り、自らが育った武蔵野の地、高尾山裾野の多摩御陵に、大正天皇と寄り添うようにいまも静かに眠っている。
***********
今年も年が明け、寒さがますます厳しくなってくるが、今日も快晴、冬の真っ青な青空が鮮やかだ。
時は2023年、元号が昭和から平成を経て令和に代わっても、高円寺に降り注ぐ日差しは昔と変わらず穏やかだ。
ノビータが今朝も門を出ながら後ろを振り返ると、大河原家代々が引き継ぐ蔵の屋根が鮮やかな青空にくっきりと映えている。あの蔵には節子が残した色紙や品々が大切に保管されている。その蔵の手前には、節子が金蔵とていとの別れの際に植えてから123年たった今も、お手植えの椿が鮮やかな花を咲かせている。
正門から道をはさんだ向かい側には、小さな稲荷神社の祠がある。これはかつて大河原家の敷地内にあった祠で、ていと節子が毎日のように参拝していた稲荷神社だ。敷地から切り離されたいまも「大河原家」と刻まれた石造りの台座とともに、地域で大切に保存されている
ノビータはいつもの朝と同じように、椿を一瞥し、そして正門前の稲荷神社の祠に軽く一礼すると、今日も仕事に向かうため門を出た。90年ほど前に、ノビータの曽祖父である房次郎がのぼりを立て、正装してお召し列車を迎えたその門だが、ノビータにとっては毎朝仕事に向かうための見慣れた通り道だ。
中央線の線路沿い、中野駅に向かう一本道、いつもノビータがスローイング練習をする杉並区立たかはら公園を左手に見ながら歩く。いまはノビータの秘密訓練の場所だが、おちいさまがこの高円寺にきた頃は、この公園も大河原家の敷地の一部だった。
このあたりは、近年の中野駅前の大規模再開発で各種オフィスや大学の新しいビルが立ち並び、今年はあの中野サンプラザの建て替えという大プロジェクトが控えている一帯だが、この一本道は中央線が走るよりずっと昔からある一本道だ。
そう、135年前に節子を迎えにきた九条家に向かう人力車が、ていや金蔵、近所の人たちを従えて歩いた、あの道だ。
そもそも大河原家の本家は、加賀藩(現在の石川県・富山県)を治めていた前田家当主、前田光高との間で1639年(寛永16年)に主従関係が成立した武家で、江戸時代に現在の東京都中野区に移住し、いまもこの地域の名家だ。
ノビータが受け継ぐ高円寺の大河原家はその分家であり、本家から江戸時代の1778年(安永7年)に大河原友右衛門を先祖として分家して以来、代々高円寺地域の名主としてこの地を治めてきた。
その大河原家に1884年に降ってわいた九条家のお姫様の養女入り、そのおちいさまと皇太子とのまさかのご成婚と、大河原家が激動の明治・大正・昭和時代の一翼を担うことになろうとは、ご先祖さまも思いもよらなかったに違いない。
おちいさまを愛情一杯に育て、青梅街道での涙の別れ、ご成婚の馬車を日枝神社前で感激をもって見送った金蔵とてい、そのあとを継いだ房次郎は大正天皇の崩御を見守り、多摩御陵に向かう節子のために数本ののぼりと吹き流しを立て、大河原家正門前で正装・正座で徐行するお召し列車を迎えた。
そのあとを継いだ、金蔵の孫にあたる幸作は、太平洋戦争がおわり天皇人間宣言をうけて48年ぶりに大河原家を訪れ、金蔵・ていの仏壇に手をあわせた節子を迎えた当主、そしてその長男の章雄は、その際節子から、当時の超高級品である背広生地を直接賜ったその中学生であり、そして章雄はノビータの父でもある。
(つづく)
次回予告 「第7話:ノビータの回想」
おちいさまとの伝説を受け継ぐ大河原家の次代当主・ノビータ、その歴史に想いをはせるうちに、こんどはノビータ自身の半生を振り返り、自らとおちいさまとの絆を振り返る。
ビッグアプセット大河ドラマ
「おちいさま」 ~日本近代史とビッグアプセットの秘密~
第七話 「ノビータの回想」
ノビータは中野駅にむかういつもの朝の通勤の道を、そうした大河原家の激動の歴史と、日本近代史における重い役割に思いをはせながら歩いていたが、いやいやそんなことはいったん忘れよう、今日も目の前の仕事をただ一生懸命やろう、と思い直す。
ノビータのいまの会社での仕事は、都内各所の支店を回り、その仕事ぶりを監督しつつ様々なサポートを行う仕事だ。そしてノビータのいまの最大の楽しみは、いく先々の街のラーメン屋をランチで訪れることで、今日初めて向かう街のラーメン屋もネットですでにチェック済みだ。
大河原家当主として生まれたからには、幼少期からその歴史を学び、数々の文書や品々を末永く守ることを教えられて育ったノビータだが、同時におちいさまを遠くから見守りつづけた大河原家としては、そうした歴史は決して人にひけらかすものではない、そうした歴史の重みは肝に銘じつつ、日々の暮らしは人々のために一生懸命つくすのだ、という大河原家の教えもしっかり叩き込まれて育ったのだ。
祖父や父から何度も言い聞かせられていた、おちいさまこと節子の伝説に思いをはせつつ、いつもの通勤路を歩き、ノビータは中野駅についた。
すると今度は、ノビータ自身のむかしの記憶が、おちいさまとの秘密の絆とともによみがえってくるのだった。
******
あれは今から47年前、1976年(昭和51年)春のことだった。新たに入学する中学校の入学式の日、まだ12歳のオレはこの中野駅からどきどきしながら中央線に乗ったんだ。国立駅を降り、桜満開の大学通りを歩き、初めて会うクラスメートを前に柄にもなく緊張したな。
クラスは1年6組、初めて顔をあわせたオレたちは、全員がひとりずつ教壇にあがり自己紹介をすることになった。順番が回ってきたので、オレはちょっと考えてこう言ったんだ。
「高円寺からきた大河原です!巨人軍のファンで、とくに長嶋選手の大ファンです!」
クラスのみんなはちょっとあっけにとられていたな。何しろ長嶋選手はその2年前にもう引退していて、監督になった前年は巨人は史上初の最下位、逆に巨人を破った中日ドラゴンズや広島カープが脚光を浴びていた。中一のオレたちでも、長嶋選手の大ファンだ、って大きな声でいうのは少し恥ずかしい感じだったから、クラスメートの引いた反応もまあ仕方ないな、と思う。
でもみんなはやっぱり気がつかなかったんだ。
オレはもちろん長嶋選手のファンだったけど、あえてみんなの前でそんなことを言ったのは、長嶋といえば1959年の天覧試合、おちいさまの長男・昭和天皇が生まれて初めてプロ野球を観戦した試合で、長嶋はサヨナラホームランを打った選手だ。それだけではない、17年間の現役生活のうち、皇室関係者が観戦した試合では通算35打数18安打、打率.514という圧倒的な打撃で、「皇室御用達男」とまでいわれたスーパースターだったんだ。
だから彼の皇室に対する功績をたたえつつ、ぼくはふつうの家の人じゃないんだよ、とみんなにヒントをあげたんだけど、誰もそれには気がつかなかったな。
しばらくすると、入部した野球部やクラスでたくさん友達もできた。その中でひときわ身体が大きくて、いつも大きな声で高笑いしている巨鯨ビッグ、彼には手を焼いたよ。
なにしろ他のクラスのマダックスと取っ組み合いの大ケンカをして、おたがい白いシャツがビリビリに破けるまで戦うような危ない奴だったし、オレが部室でユニフォームに着替えるために上半身裸になると、「もみじー!」と叫びながらオレの背中に思いっきり平手打ちをくらわし、背中に赤い手のひらのあとをつけようとするような、ちょっと困った奴だった。
あまりの狼藉に、あるとき担任から「大河原くんの家にいって謝ってきなさい!」と命じられ、しぶしぶ高円寺のわが家に巨鯨ビッグがやってきたこともあった。
まさかおちいさまが育った母屋に通すわけはなく、離れの和室でおとなしくしてろよ、と思ったんだけど、その和室がちょうど畳を入れ替えたばかりで、その新品の畳に目を奪われた巨鯨ビッグは、こともあろうに覚えたての背負い投げでオレをその畳にたたきつけたんだ。おちいさまのお手植えの椿のすぐ前でだよ、ほんとに失礼なやつだったね。
そうこうするうちに、こんどは同じクラスの野球部の連中と、学校近くの英語の先生のところに毎週通うことになったんだ。
メンバーは巨鯨ビッグに加え、ニコニコ笑いながらいつも何かいたずらを考えている社長兼 CEO、中学生とは思えない野太い声でまわりを威嚇しすでにキャプテンの風格だったオヤブン、そしていつも教室の端っこの席で斜に構えたアウトローの感じのクラッチ、この5人が毎週野球部の練習のあと、日の暮れた道を先生の家まで通うことになったんだ。
場所は南武線・矢川駅前にあるマンションの最上階の一室、そこでも巨鯨ビッグは大暴れだったな。
授業中なのに向かい側に座っているオレのスリッパを足元で奪って、そのスリッパでいきなりオレの頭をひっぱたいて先生に怒鳴られたり、授業がおわるとオレの学生帽を奪って、それを玄関外から外にむかってフリスビーのように投げちゃって、野球部の学生帽は平らに固めていたので、それがフリスビーみたいにくるくる回転して舞い上がり、こともあろうにマンションの屋上に消えてしまったんだ。あの帽子はいまでもまだあの屋上に残っているんだろうな。
でもみんな全然気がつかなかったんだ。そんなことをされてもオレはずっとニコニコしてたのは、そのマンションは、あのおちいさまこと節子皇后が、生涯にわたって支援してた滝乃川学園のすぐ前にあったんだ。
オレがせめて何らかの形でおちいさまの気持ちに寄り添えないか、と思っていたところで、そのすぐとなりの場所で英語の先生の授業を受けることになったんだ。だから、そこではいつもおちいさまと一緒にいると感じていて、何があってもオレはずっと幸せだったんだよ。
(つづく)
次回予告 「いよいよ最終回!: 乳は血より濃し」
ノビータの回想はまだつづく、最終回は思ったより盛り下がるという連ドラの法則をくつがえせるか?!
ビッグアプセット大河ドラマ
「おちいさま」 ~日本近代史とビッグアプセットの秘密~
第八話・最終回 「乳は血より濃し」
電車は速度をあげ、滑るように走る。窓の外を流れていく景色を眺めながら、ノビータの回想はつづく。時は流れ、昭和から平成に時代は移っていく。
******
そんなこんなで、時はたって昭和から平成になり、オレが35歳になったころ、マダックスが中心になって草野球チームをつくりたい、という話が持ち上がったんだ。
最初の数年間はマダックスが切り盛りしてたんだけど、それじゃチームが回らなくなってきたのでみんなで役割分担しよう、って話になった。でも結局、ホームページの管理や、膨大な記録の管理はオレじゃなきゃできないんだよな。
2021年にシステム障害で突然ホームページがダウンしてしまったときも、巨鯨ビッグは、
「何とかしろ、もとに戻せ」
っていうだけで何も具体的な指示はしてくれないから、全部オレがやるしかなかった。その辺は中学生のときと何も変わってないけど、オレは目立たないところでみんなのために地道に仕事をする主義だし、そもそも尊敬する金蔵さん・ていさんの教え、そしておちいさまの教えが「世のため人のために働け」、ってことだからね。
そういえば15年ほど前に、クラッチがマンションを買いたい、っていうから、ちょうど四谷三丁目にいい物件があったので、それもオレが勧めたんだよ。
四谷三丁目は、会津戦争のときの会津藩主・松平容保が生まれた旧高須藩邸跡だし、マンションの向かいは大正天皇の葬儀があった新宿御苑だからね。そもそもクラッチの先祖の墓は京都の旧会津藩・守護職本陣だった金戒光明寺にあって、大学時代から足しげくそこに通っていたクラッチは、オレに由緒ある荒木町や新宿御苑をしっかり守らせるのにちょうどいいと思ったんだよ。
いまは部室とかいってみんなありがたがってるけど、そういう経緯だから、ほかの奴らはともかくオレは四谷三丁目には丁重に招かれて当然、ってことだよね。
まあでも、オレのチームに対する一番の功績は、やっぱりビッグアプセット規約の制定かな。
あれは2005年ごろ、チームの試合数が増えてみんなやる気になったのはいいんだけど、野球への取り組み姿勢とかチーム運営のやりかたとかでいろいろメンバーがぶつかるようになって、特に巨鯨ビッグは中学以来の宿敵マダックスとたびたび衝突したりするもんだから、泰平の世を願うオレとしてはちょっと動かざるを得なくなったんだ。
まあ簡単にいえばみんなそれまで勝手に思うままにやってたわけだから、このさい基本ルールと責任者を決めて、その責任者の選び方のルールも決める、つまり法治国家・民主主義ってことなんだけど、みんなそんなことも分からずに右往左往してるだけだから、オレが大きな方向性を示してやらないとダメだと思ったんだよね。
何しろ日本史上初の憲法である大日本帝国憲法を発布した明治天皇はおちいさまの義理の父、明治の皇后はおちいさまの叔母だよ。それにおちいさまは戦後の日本国憲法、いまの憲法を裁可した昭和天皇の母親だし、それを見届けて生涯を終えた人なんだ。だから大河原家では、代々憲法や法治国家に関する問題意識はすごく高いから、何でみんなそんなことに気がつかないんだろう、って不思議に思ったんだけど、とにかく仕方ないから法律に詳しいバズーカに言って、ビッグアプセット規約の草稿をつくらせたんだよ。
まあオレが全体の方針さえ示してあげれば、実務にくわしいやつはいっぱいいるからね。我ながら、あれはいい仕事したな、と思ったよ。
とにかく、みんな昔からオレのことを皇室関係だとか色々言っていたけど、何度ヒントを出しても本当のことに全然気がつかないんだよね。まあおちいさまの教えで、自分から言い出すようなことはしないからそれでいいんだけどね。
それでも今までいちばん大きなヒントを出してあげたのは、たしか2006年の大宮だったな。
その2年前から参加したガンバロウ大会で、まだひとつも勝てなくて、その年も初戦にThatsに惨敗、ビッグアプセットナインはみんな打ちひしがれてた。その時はまだあじたろうを知らないから、飛び込みの焼肉屋での打ち上げも全然盛り上がらなくて、そのあと二次会で入った店の個室にカラオケセットがあったから、元気のないみんなを盛り上げようと思って、オレは率先してオハコの「関白宣言」を歌ったんだ。
「関白宣言」を歌ったのは、もちろんみんなを元気づけようと思ったからなんだけど、実はオレの好きなさだまさしの歌のなかでも、この歌には人一倍愛着があるんだよね。
だって、おちいさまの実家は九条家、九条家といえば五摂家のひとつで、五摂家といえば公家の最高位、摂政や関白になれるのは五摂家だけ、って昔から決まっていたんだ。
だから、ぼくはみんなと違って関白になれる身分なんだよ、ということを宣言する歌で、そんなオレとチームメイトでいられる幸せをみんなに感じてほしいな、という気持ちで歌ったんだけど、歌のワンコーラスが終わったところで、盛り下がるからやめろ、とかみんな言い出して、中にはおしぼりを投げる奴もいるし、ついにはチームでいちばん礼儀正しかったフェラーリまで「やめたほうがいいと思います」とか言い出す始末、それで仕方なくワンコーラスしか歌うことができなかったんだ。
せっかく歌ったのに、いまだに20年史には「大宮・関白宣言事件」とか書かれるし、関白宣言の意味にもみんな全然気がつかないし、ほんとに平民は鈍感だよね・・・
*******
ノビータが電車の外の景色を眺めながら、中学以来のビッグアプセットの歴史に思いをはせているうちに、電車が大きく揺れ、今日の仕事先の駅に到着した。
時代は昭和、平成から令和に変わり、大正時代が遠くなっても、金蔵とていが愛情を注いで育てたおちいさま、その節子皇后への尊敬の気持ちは変わらない。節子はていの乳をいっぱい飲んで育ち、そのおかげで節子の直系である昭和・平成・令和と皇位が続いていったのだ。
一方、ていの乳で育った大河原家代々の当主たちは、いわば皇室と同じ乳でつながった間柄だ。
青梅街道や日枝神社前で涙ながらにおちいさまを見送った金蔵とてい、門前にのぼりを立て、正装・正座で徐行するお召し列車をお迎えする感激を味わった房次郎、48年ぶりに大河原家を訪れた節子を万感の想いでお迎えした幸作、その時長男として皇太后から背広の生地を賜った章雄、そしてその後を継ぐノビータ。
おちいさまと再会することがかなわなかった金蔵とてい、二人はいま高円寺の大河原家代々の墓で静かに眠っているが、高円寺住職がつけた二人の戒名に、おちいさまこと貞明皇后への深い愛情が刻まれている。
てい 「大光院玉峯貞鏡大姉」
金蔵 「大徳院金峯明鏡居士」
、
代々の当主のおちいさまへの尊敬と愛情の気持ちはひそやかに受け継がれ、おちいさまが残した色紙や品々、そして大河原家の庭でいまも毎年満開の花を咲かせるお手植えの椿、これらを大事に守りつづけてきたのだ。
気を取り直してノビータは鞄を握り直すと電車を降り、ホームに降り立つ。あと3時間ほど仕事をすれば今日も初めて行くラーメン屋がまっている。最近は週5から週3くらいに減らそうとしているが、やはり出先で食べる昼のラーメンはなによりの楽しみだ。あ、そうだ、ビッグアプセットの3賞の投票が終わったから、今日帰ったら3賞の集計とみんなへのメールも打たないとな。
おちいさまへの忠誠と愛情は決して揺るがないが、それは心の中でひそかに受け継ぐもの、大河原家はそうした秘密は決して表に出さずに、金蔵が高円寺村の小作人たちを支えていたように、そしてていがおちいさまをずっと遠くで見守っていたように、ノビータは今日も会社とビッグアプセットのために働く。
今日は味噌にしようか醤油にしようか、チャーシューは遠慮して一枚にしようかな、そんなことを考える幸せを感じながら、今日もルンルン気分の軽い足取りで職場に向かって歩き始めるノビータなのであった。
<完>
(参考文献)
「大正の妃」(植松三十里) PHP文芸文庫
「孤高の国母・貞明皇后」(川瀬弘至) 産経NF文庫
「貞明皇后」 Wikipedia
「すぎなみ学倶楽部」 杉並区産業振興センター
「貞明皇后と高円寺村」(原田弘) 高円寺地域区民センター協議会
「中野れきみんで企画展・大河原家文書」 中野経済新聞