投稿日: Oct 12, 2018 12:40:20 PM
陳式太極拳(陳氏太極拳、陳家太極拳)の名人と評されている、陳発科(陳發科)は、清国河南省温県陳家溝の出身で、陳式太極拳正宗の家に三男として生まれ、陳長興が曾孫であり、陳氏太極拳十七世です。
陳発科の兄二人は、早くに亡くなったため、跡継ぎの立場となりました。
14歳頃から、陳式太極拳の練習を開始し、毎日生活の大半を、練習に当てるという激しい訓練によって、天性の才能が開花したと言われています。
ついには、父が伝えていた、家伝の陳式太極拳の秘技の全てを修め、陳家の一族から各支族に至るまで、陳式太極拳の使い手の中で彼に及ぶ者はいなくなりました。
1928年、北京に、漢方薬局である同仁堂の招きを受け、陳氏太極拳を教授していた甥の陳照丕が、南京に赴くことになったため、陳氏第一の使い手であり、陳照丕の師でもあった陳発科が選ばれ、北京に向かうこととなりました。
当時の北京では、陳発科は「徒手では最強」と言われていたようです。
またその高潔で重厚な人柄も尊敬を集め「拳聖」とも呼ばれていました。
この陳発科には、多くの実戦の逸話が残っています。
例えば、陳発科が20歳の頃、大軍閥である韓復榘の軍に招かれ、その徒手格闘の教官全てを倒し尊敬を受けたというエピソードです。
また、当時の八卦掌の実戦の達人、李剣華と戦ったエピソードなどです。
李剣華は、身長180cm以上、体重100kg以上という巨漢で、実戦派の名手として、当時の北京では有名でした。
陳発科と李剣華は、当時、著名な武術家であった、許禹生の主宰で行われた、北京の散手大会のルール決定の話し合いの際に、意見の違いから、試合をする事となりました。
二人は、雷台(リング)に上がり、試合が始まりました。
陳発科は、李剣華と触れ合った瞬間に、全身を震わせ、発勁を行い李剣華を、30cmも浮き上がらせ、1m近くも吹き飛ばしたと言われています。
その際、李剣華は、壁にぶつかり、その衝撃で壁に掛けてあった物などが落ちてきたと言われています。
この後、李剣華は、陳発科に弟子入りしています。
この、李剣華のエピソード意外にも、当時、ロシア人の巨漢レスラーと試合をし、これに勝利した、柔道やモンゴル相撲によく似た武術である、摔跤の名人、沈三とも手合わせをしています。
沈三が、陳発科を投げようとした時、投げることが出来ず、逆に陳発科はいつでも沈三を地面に叩きつけることが出来る状況に追い込んだと言われています。
しかし、陳発科は公衆の面前であったことを考慮して、沈三の面子を守り、途中で中断しました。
このような逸話を持つ、陳式太極拳の名人である、陳発科の弟子には、甥の陳照丕、子息の陳照旭、陳照奎。一族以外には、潘詠周、王鶴林、洪均生、沈家楨、雷慕尼、顧留馨、馮志強(関門弟子)などがいます。
当流の技術を制定し、八極拳の名人であった、李書分の弟子でもあった先師は、1937年頃、山東省を離れ、北京の朝陽大学に入学しました。
この北京時代に、前述の陳発科と、交流があったと言われています。
当時、先師は、陳発科の表演を見る機会があったようです。
この時の証言では、陳発科が発勁をするたびに、拳は唸りを発し、震脚するたびに部屋の窓に貼られた紙が震えたと表現しています。
この時の交流の経験が当流に伝わる、陳式太極拳の技術にも、大きな影響を与えていると言われています。
当流に伝わる、陳式太極拳は、河南省懐慶府出身で、陳家太極拳名家の杜毓沢の系統です。
杜毓沢の父親の杜厳は、その地の知府であり、陳家溝の拳師が、護衛にあたっていました。
そのため、杜毓沢は幼少の頃より陳家の一族と交わりがありました。
杜毓沢は、陳氏第十六世宗師の陳延煕から、陳式太極拳の老架式と砲捶を学びました。
その後、同じく父親の護衛にあたっていた、陳銘標から、新架式(忽雷架式)と炮捶を学びました。
後に、杜毓沢は、台湾へ移住し、この時に、前述の当流の先師と出会いました。
彼らは、お互いの弟子を交換教授しあい、技術交流をしました。
これが、当流に伝わる、陳式太極拳の系統となります。