投稿日: May 17, 2020 7:47:55 AM
楊班侯は、中国武術である太極拳の楊式太極拳の第二世です。
中国河北省永年県広府鎮の出身で、子供には兆鵬がいます。
長兄楊鳳侯の子楊兆林にも太極拳を指導しました。
幼少より、学問より武術を好み、父親である、楊式太極拳の創始者である楊露禅より、太極拳を学びました。
楊班侯は、父親の楊露禅が一を教えると、三を理解したと言われています。
そして若くして楊露禅の家伝を受け継ぎました。
父に随い北京に出向き、17歳以後より「雄県劉」「万斤力」などの名だたる武術家を打ち破ったと言われています。
楊班侯の活躍により、楊式太極拳の不敗の評判は、清朝廷より中国全土に広がりました。
彼の、代表弟子として、白忠信がいます。北京の弟子としては、凌山、呉全佑などです。
全佑は満族人で楊式小架太極拳を学びました。全佑の子の呉鑑泉は、後に姓を呉に改め、呉式太極拳を創出しました。
楊澄甫は、楊氏三世です。中国武術である太極拳の楊式太極拳中興の祖と呼ばれています。
北京出身で、祖籍は河北省永年県です。
本名は楊兆清と言います。字は澄甫。
子に楊振銘(守中)、楊振基、楊振鐸、楊振国がいます。
親戚の趙斌、傅鍾文にも武術を教えました。
父親である、楊健侯に幼い頃より武術を教わり、後年には祖父の「小架子」、父が改良した「中架子」に、さらに健康への要求を考慮した「大架子(楊露禅の108式に対し、一般に85式と呼ばれる)」を完成させました。
また、「十三要點」も残しました。
父健侯と共に北京で指導し、健侯の死後は、武漢、南京で武術を教えました。
1912年頃に、許禹生からの要請もあり、北平体育研究社で指導しました。
1928年には張之江から強く要請され、南京中央国術館の武当門長に就任し、その後も、杭州、上海、広州などで指導しました。
各地へ出向いて楊式太極拳の発展に尽力し、現在の世界規模での普及の基礎を作ったと言えます。
現在の制定拳の簡化24式、48式、88式太極拳は、楊澄甫の楊式太極拳を基礎に陳式、呉式、孫式などの太極拳の特長を付加して、中国体育教育のために、整理創作されたものです。
楊澄甫の著書には「太極拳体用全書」(1934年)があります。