太極拳と兵法!!武術と戦略!!源平合戦と騎馬運用!!

投稿日: Nov 29, 2020 1:15:56 PM

兵法というと『孫子』の兵法を思い浮かべる人がほとんどだと思います。

兵法と中国武術や太極拳の関連性について、少しお話ししようと思います。

さて、昔の日本では、武術家を『兵法家』と呼んでいた時代もありました。

これは、本来、武術の技術、理論が、そのまま集団戦に応用できたからです。

これが、現代でいう『格闘技』と『伝統武術』の違いの一つと言えるでしょう。

つまり、武術とは個人で運用する『戦術』『戦略』であって、筋肉活動の結果ではなく、まして確率のスポーツでもありません。

この『兵法』は、集団戦としての『戦術』が理解しやすいと思います。

ここでは、アメリカの士官学校でも教材として使われる事がある、日本の『源平合戦』での『一の谷の戦い』をご紹介しようと思います。

なぜ、この『一の谷の戦い』を例に出すか、アメリカの士官学校で教材にされるかは、この戦いが騎馬戦術において、そして騎馬という武器を効率的に運用した例だからです。

もともと、騎兵というのが成立したのは、紀元前800年頃だと言われています。

そして、期限後13世紀頃まで世界的にも騎兵を大量導入した例はなく、また騎兵の使用方法は、馬の重量を利用した打撃力としての活用でした。

これは、騎馬という武器、技術の運用が極めて難しかったからです。

この騎兵運用という技術を効率的に運用したのが、源氏軍の『源九郎義経』であり、『一の谷の戦い』なのです。

中国武術や太極拳とは、直接関係ないですが、『源平合戦』の『一の谷の戦い』について少しお話ししたいと思います。

京を追われた平氏軍は、『一の谷』に総兵力7万の軍を構え、源氏軍を迎えうつ。

『一の谷』は北に六甲山系の山並みが続き、南は海という狭い地形を利用した防御を重視した陣形で、前線の生田口には当時知将と呼ばれた『平知盛』の率いる5万の軍が陣を張っている。

また、後方の『夢野口』には、平氏軍の最大の打撃力を持つ猛将『平教経』が陣を張り、山伝いに来た軍に対しての防御と、仮に前線の軍が敗れて敗走したとしても、後方において迎え打てる陣がひかれ、更にその奥の『一の谷』に本陣をおいていた。『一の谷』の本陣は後方に崖があり、前方の防衛のみで事足りる自然の要塞と言ってよい地形であった。

対して、源氏軍は総兵力6万の内、5万を『源範頼』が率い、残りの1万を『義経』が率いて進軍した。

陣形は、5万の軍が正面の『生田口』より攻め、『義経』の1万の軍は迂回ルートの山道を通り、前線にいる『知盛』の陣がある『生田口』の後方『夢野口』に軍を進軍させる。

しかし、『夢野口』には、平氏軍の猛将『平教経』率いる陣が待ち構えていた。

この時『義経』は奇策に出る。『夢野口』に進軍した軍を同行していた武将『熊谷直実』にまかせて、自身は精鋭の騎兵70騎で、機動性をいかし、平氏軍のはるか後方の本陣『一の谷』に進軍した。

そして、『義経』は精鋭70騎で『一の谷』の本陣後方に位置する断崖を駆け下りる。

これにより本陣に奇襲を受けた平氏軍は、総崩れとなり、『一の谷』の戦いは源氏軍の勝利に終わった。

この『一の谷の戦い』において、『源義経』は騎兵を打撃力としてではなく、馬の機動性をいかした奇襲によって勝利しています。

つまり、騎馬運用においての特質とは、馬の脚による機動力だという事です。

しかし、これ以降、中世に致まで、騎兵を機動力として運用された例は、極めて少ないようです。

これは、その状況に対して馬の機動性を十分に引き出す戦術を組み立てる事が極めて難しいからだと思います。

この『一の谷の戦い』の例のように、兵法とは、ただ力によってぶつかり合う事を言うのではありません。

まず、自身の兵力と状況、個人の武術でいうならば、自身の能力と、自身が扱う門派の戦闘法と特性を理解し、戦術を組み立てます。

また、『源義経』が行ったように、正面からぶつかるのではなく、相手の意識や力に対して『ハズす』必要があります。

つまり、力には力、スピードにはスピードという図式から違う次元で『ハズす』のです。

ただし、力にはスピードのような単純な形での図式ではなく、根本的に発想をズラす事によって、相手をコントロールします。

これが、武術、兵法でいう技術であり理論なのです。

ここが、同じ土俵で能力を競い合うスポーツと武術や兵法の違いなのではないでしょうか。

 

 

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