.『言葉について』




 人々は言葉を発明した

おそらく初めは、それぞれの物を差し示す発音に差をつけ、

その区別を明確にして、誰もが共通に判るようにしたのであろう。

いわゆる名称付けである。


 こうして言葉は、物事のもつイメージを限定するようになった。

例えば「拳大の硬くて赤い酸っぱい果物」に対して「リンゴ」と名称付けたことで、

リンゴと聞けば、「酸っぱい」というイメージを持つてしまう。

酸っぱくないリンゴに対してでもである。

これが言葉の力である。


 名付けるとは、物事をそのイメージもひっくるめて、

名称という「箱」に入れることと例えられる。

その入れるイメージには、当然、個人差がある。

ほとんどの言葉は、辞典などによって明確に定義されるが、

人々は、自分の知識、経験、常識、感覚によって、

そのイメージを自分なりに作り出している。


 これは物体を持たないものにも同じである。

抽象的な物に対しては、まさにイメージそのものである。

実体を持たないために、または実体があやふやなために、

これらのイメージは、他から影響されやすく、

拡大や縮小解釈、妄想や虚構になってしまうことも多い。


 そしてこれらは、昔からある使い慣れた用語より、

まだイメージが確立していない

新たな、聞き覚えのない用語に起こりやすい。

 あまり使われなくなった古い用語に対して、

新たな意味を持たせて、新らしい用語のように使う場合も、

イメージが一般的でない難解な用語を引っ張り出してきて使う場合も、

同様である。


 新しい用語が作られるのは、今ある用語では不十分な

以下の条件が満たされるからである。

①より状況に合ったように説明出来る。

  イメージやニアンスが合う。

②時代の風潮や流行に合う。

③新鮮さ,斬新さを感じる。インパクトを与える。

新たな用語を使う優越意識を得る。

  またはその用語を知らない相手に対して、混乱、劣等を引き起こす。

イメージがまだ固定されていないため、使用の許容が広い。


 人々は、以下のことを望む。

ⅰ)状況をより正しく詳しく知りたい。

ⅱ)最新の情報を知りたい。

ⅲ)他者と共通の理解、認識を持ちたい。それを知らせたい。

ⅳ)他者よりさらに優越の知識を持っていることを知らせたい。


 以上の理由から、人は新たな用語を好んで使う。

こうして、人類の言葉はどんどんと作られ、増えてきた。


 言葉の持つイメージは、古くなるほど、

使い古されるほど、より限定化され、固定化されていく。

時代に合わなくなった用語の一部は消えて行くが、

多くは基本となり、共通のイメージとして、揺るぎないものになっていく。


 問題なのは、上に述べた「新しい用語」や「古い用語」ではなく、

その過渡にある用語である。

上で述べたように、生まれたての「新しい用語」は、まだイメージが確立していない。

ゆえに、人に与える影響はまだ小さい。

「古い用語」は、イメージが固定されている。

これもまた、人に与える影響は少ない。

 イメージが確立しかかっている、

または、ある種の人々にとってのみイメージが確立している、

過渡にある用語が、拡大や縮小解釈、妄想や虚構に侵されやすいのである。


 自分の言葉に、「絶対感」「威圧感」「信用感」「真実感」を持たせたい者は、

このイメージが一般に確立していない用語を使って、

そのように感じるよう、錯覚を起こさせようとする。

外来語、専門用語、最先端用語、難解語を多く含んで話す者は、

これらの意図がある。

 例えば教授が授業に、これらの用語を用いる傾向にあるのは、

自分の講義内容が、「深い知識が必要」「高い知能が必要」「疑いもなき真実」

「自分は十分に判っている」などの雰囲気,空気感を、生徒に与えるためである。

もちろん簡単な用語ばかりで噛み砕いてばかりいては、

講義に時間がかかりすぎる。

しかしあまりにこれらの用語を多用することは、

その意図があるのである。

 教授に限らず、知名なジャーナリストや業界のトップや、

最先端を行くと思われてる人などが、耳に新しい用語を使うのも同じである。

一般人は、その用語をおおよその不明瞭なイメージのまま神格化してしまう。


 真実とは、その命題が正しいと言うことである。

命題が正しいとは、それが成立する論理が正しいということである。

論理が正しいかどうかは、一般的な基本的な思考でおおよそ判断できる。

その命題を示すのに、イメージの定まっていない用語、難解な用語を用いては、

人は、それのもつ論理構造まで、たどり着けないのである。

そのたどり着けないことを利用するのが、上記に述べた人々である。


 以上をまとめると、

言葉のイメージは人の思考を固定化させてしまう、

すなわち思い込ませる恐れがある。

初めに述べた、リンゴと言えば甘酸っぱい味を思い浮かべる例である。

言葉には、そのイメージを強烈にアピールする。

疑いを容易に挟み込ませない限定感がある。

例えば「正しい行い」と言う言葉より「正義」と言った方が、

厳格で崇高なイメージがあり、

それを厳守しなければならない論理性があるかのように見える。


 イメージがまだ確定されていない、過渡期の新用語は、

それを使う者のイメージ戦略に利用しやすい、

それを聞く者の、過剰解釈を生みやすい。

例えば、「差別化」という言葉がある。

「差別」はネガティブな用語である。

その言葉には忌まわしい、陰湿、憎悪を感じるイメージと同時に、

厳格、こだわり、頑固のイメージもある。

その「差別」という用語をマーケティングに用いて、

ネガティブのイメージでインパクトを与え、

他と差を付けることに、こだわりを感じさせる、

そういう戦略で、「差別化」という用語を作り出したと考えられる。

そしてその用語は、やがて定着し、

元の「差別」という用語の持っていたネガティブなイメージを薄めてしまう、

そのようなことも起こりえている。


 

 現実社会は,四次元で出来ている。

そして言葉は二次元である。

二次元で四次元を表現するのには、当然無理がある。

しかし二次元の言葉は、大量の情報を扱うのに、容易に使いやすい。

言葉が,用語、文章を含めて、イメージ操作、イメージ戦略に使われることは多い。

いつのまにか人は、その思惑に操られてしまう。

すべてを防ぐことは出来ないが、

言葉によって、誤った行為に導かれる恐れがあることを、

十分承知していなければならない。


(23.10.6