25.『不明言について』




 人の世は「秩序」、「不明瞭」、「幻想」であると述べた。

「秩序」は真実に基づく。

「幻想」は、真実に基づかない「不明瞭な秩序」である。

真実が不明な「不明瞭」とともに、

世の中には、真実がわかっていても言えない「不明言」がある。


 なぜ言えないのか?

それはそう言うことによって、

自分に、他人に、社会に、不利益をもたらすと思うからである。

それを言ったことで受ける利益よりも、

その不利益の方が大きいと思うからである。

こうして多くの真実は、隠蔽される。


 その真実が、

社会的に、常識的に、慣習的に、倫理的に

組織的に、教育的に、立場的に、感情的に

言えないのである。

真実が言えないのは、「圧力」や「遠慮」、

そしてそれらを引き起こす「幻想」があるからである。


 真実を明らかにすれば、

他者や社会は、混乱する。

それは現状の有り様を否定するからである。

今までの現状は、真実ではない幻想に支配されていた、

それを否定するのである。

人々の目を覚ますのである。

当然、その告発によって不利益を得た者は、

自分を擁護するために、反発し、告発者を攻撃する。


 真実とは、事実であるが、

人は、現状において最も信憑性のある仮説としか証明出来ない。

ゆえに疑われれば、それが絶対であるとは言い切れない。

そこに弱みがある。

告発者は、その弱点を突かれて攻撃される。

真実に100%の自信のないものは、攻撃に負ける、

また攻撃を恐れて沈黙する。

こうして社会の真実は隠蔽される。


 社会には不明言を正当化する、

「忖度(そんたく)」や「斟酌(しんしゃく)」ある。

「忖度」も「斟酌」も、相手の気持ちを推し量って、

相手に配慮した行動することである。

その、他人の気持ちを思う謙虚、寛大な意味を名目にして、

真実を濁して、ものごとを「不明瞭」にする

「不明言」を正当化するのである


 例えば、「女性差別」の問題がある。

同じ種類の中に差を見つけ別けることは、区別である。

それらの差によって、当然、扱いは別になる。

明確な根拠がないのに、差をつけられ別扱いされるのが、差別である。

本質は同じなのに、見た目で差がつけられることが、差別である

男も女も、人間として同格であり、

互いの人権に差はない。

人権とは、基本的人権を差し、

平等権、社会権、自由権、参政権を言う。

それらは法律的に定義されているが、

地域差もあり、解釈に曖昧さが残る用語である。

男女には、生物的差がある。

これらは人の、太古の生活様式に基づくものと思われる。

男は獲物を求めて攻撃的になり、

女は生活を守るため保守的になる。

男女の差は傾向的であり、明確に境界線で区別出来るものではなく、

個人差も大きい。

しかしおおよそ、男性の方が身体的に大きく強く、運動能力も高い。

競争心や闘争心も強い。

また戦略的、論理的である。

女性は、身体的にしなやかで柔らか、

感覚的、同調傾向にある。

また女性は、性的対象として扱われやすい。

これらの男女差を根拠として、

まず「男女区別」が発生する。

これらは歴史的に「男尊女卑」または「女尊男卑」の時代を生む。

今は「男尊女卑」の時代を引きずっての「女性差別」が発生する。

女性劣等意識に基づくものである。

当然、明確な「女性蔑視」行為は、非難される。

しかし「女性優遇」も、根底に女性劣等意識から生み出される。

「女性優遇」も「女性差別」である。

「女性差別」があれば、声高々に訴えられることが多い。

しかし「女性優遇」は黙認される。

誰も、女性優遇」「女性差別」であることを明言しない。

女性側は、自分たちが優先されているのだから、文句は言わない。

男性側は、自分たちが差別されているのだが、

女性劣等意識、すなわち女性への優越意識から、文句は言わない。

すなわち社会的に大きな不満が出ないため、

誰もが「不明言」なのである。

スポーツ界では多くの競技が「男女種目」に分かれている。

それらの競技では、男女混合で行うと、

男性がいつも上位を占めてしまうからである。

スポーツがエンターテインメントであるため、

女性の上位者も平等に表彰したい、

そう言う思いから、「男女種目」が作られたのである。

これも「女性優遇」である。

しかし、もし女性の中に、人類として世界一を競いたい者がいたら、

その者にとって、これは「女性差別」である。

しかし、これも明言されない。

何となく曖昧にされているのである。


 世の中には、「不明瞭」なことが多くある。

そして「不明瞭」であるから、「不明言」にされていることも多い。

しかし、「明瞭」であっても、「不明言」にされていることも多い。

「不明言」や「曖昧」にすることによって、

社会が安定していることもある。

社会では、絶えず色々な問題が引き起っており。

「些細なこと」や「曖昧のままで良いもの」は、

あえて明言することで、今の社会を煩雑化、

不安定にしてしまうことがある。

だが「不明言」は、社会を二重構造化する。

秩序化された表社会と、

「忖度」や「斟酌」が横行する裏社会である。

裏社会では、秩序は形骸化される。

その形骸化は、表社会の秩序にも影響する。

そして社会に「不祥事」が発生するのである。

秩序主義は、「不明言」を出来るだけ無くそうとする考えである。

それは「曖昧」なものを明らかにするのが、秩序主義の基本であるからである。

「不明言」が発生するのは、今のその社会に「不具合」があるかである。

今の秩序を見直せば、「不具合」は無くなり、「不明言」も無くなる。

そのためには改めて、秩序思考の

「論理思考」「システム思考」「バランス思考」「シンプル思考」

そしてのそれらの「フードバック」機能が重要である。



 「不明言」の逆は、「明言」であるが、

されに過剰の「明言」がある。

それは暴言となりうる。

暴言とは攻撃性を持った発言である。

暴言と言えど、同じように

根拠のある確かなこと、

不確実、不明瞭なこと、

そして虚偽がある。

しかし、いずれにしても少しの攻撃性も、

新たな圧力を生み出し、

それは新たな幻想を生み出す。

それは新たな二重構造を生み出し、

別の「不明言」を生み出すのである。

「明言」は過剰にならないように、

慎重さを持って発言されなければならない。


(2021.10.4