生命は、奇跡のたまもの。
地球という惑星の偶然の位置から生まれた生命の発達、
生命を滅ぼさず、強く生き残ることを目指した進化、
そして、その果てに生まれた思考できる生物、ヒト。
木から木へ高速で移動していたサル、
サルは、そこから知能の発達を得た。
そして地球環境の変化から、
直立し、二足歩行の手段を選ぶ。
それがサルの頭脳の発達をさらに促す。
直立は頭脳の肥大化(重量化)を可能にし、
二足歩行でフリーになった腕、
物を取って扱うことが出来るようになった手は、
その脳の発達に拍車をかける。
それら頭脳の発達が、サルをヒトに進化させる。
ヒトは肥大化した頭脳で、広い記憶領域を得る。
そこは記憶した物事を再構成できる。
ヒトは、多くの記憶を保持出来るようになり、その記憶を自由に操作出来るようになった。
物事を認識し、分析し、再構築し、因果を推理出来るようになった。
この能力が「思考」である。
「思考」は、ヒトを人とした。
しかし人は、それぞれ完璧には生まれない。
能力の差、
感情や欲求の強さによる影響、
過去の学習や経験による価値観などによって、
人はその「思考」を独自のものとする。
それらは、効率の良い「思考」ではない。
これら独自な「思考」は、
良い意味でも悪い意味でも、社会を複雑にする。
成長するに従い、それぞれの独自の「思考」から、
人はそれぞれ優れた点、劣った点を
拡大したり、縮小したりする。
また新たな特徴を引き起こしたりする。
それらが人の独自の「性格」となる。
より幸福に生きるためには、
人は「秩序的」でなければならない。
しかし独自な「思考」や「性格」は、
その偏向から、多くは「秩序」を乱す。
これらが「不幸」を呼ぶ。
「秩序」は幸福に生きるための手段であるが、
その環境にあることが、「幸福」そのものと言える。
しかし人それぞれの独自な「思考」や「性格」の偏向は、
「無秩序」「未秩序」「非秩序」「否秩序」「反秩序」を生む。
それが自身や回りに、「不幸」を呼ぶ。
「無秩序」とは、「秩序」が全く認識されない状態。
「未秩序」とは、「秩序」の必要性は感じるが、理解が不十分な状態。
「非秩序」とは、「秩序」の認識はあるが、全く試みられていない状態。
「否秩序」とは、「秩序」のもつデメリットな面を重視し、それを否定した状態。
「反秩序」とは、「秩序」のもつデメリットな面を嫌悪し、それに反抗した状態。
社会は多くの秩序から成り立っている。
秩序がなければ生活が成り立たない。
道路も建物も、交通も流通も、産業も文化も、
全てが秩序に基づいて形成されている。
当たり前の話である。
人が協同で生きるためには、秩序は不可欠である。
人がたった一人で生きる場合でも、最低限の秩序は必要である。
生きることは、環境に働きかけ、また対抗することである。
秩序的にものごとを行わなければ効率が悪く、
人は環境に負け、生きることがままならなくなる。
すなわち生きることは、「秩序的である」ことと言える。
社会もまた「秩序」そのものと言える。
そして自分を取り巻く「環境秩序」、
自分を制御する「自己秩序」
それらが整えられた状態が「幸福の状態」である。
人には「生存本能」「種存本能」「存在本能」がある。
その基本的な三つの本能が、様々な欲求を引き起こす。
生物は「今日の糧で明日を生きる」ものである。
人もまた同様である。
それは世代を越えて続く宿命である。
それぞれの欲求は、そのために生まれ、
そしてその宿命を達するための原動力となる。
欲求は燃えさかる炎のごとくであり、
自己中心で発せられる。
欲求が達せられると、人は「快感」、
いわゆる「一時的な幸福感」と言う褒美を得る。
だがそれが思うように叶わないと、
人は「不快」または「心の葛藤」を生むのである。
人は秩序を認めない、または歪める傾向がある。
それは人の様々な欲求が満たされないためである。
欲求の多くは、「秩序」に抑え込まれる。
自己の秩序や、組織の秩序、自然の秩序にである。
「秩序」は生きるための手段だが、足枷にもなる。
人は欲求を抑え込まれることによって、欲求不満となり、
そのストレス解消に、様々な対応をとる。
秩序の重要性を忘れて、秩序を拒否する。
それぞれの性格によって、様々な抵抗をする。
上にあげた「無秩序」などの対応をとるようになるのである。
そんな人が構成する「社会」もまた同じ「宿命」を持つ。
社会もまた、「今日の糧で明日に存在する」ものである。
そしてその目的のために、「協調的」であり「対抗(競争)的」である。
「協調的」であることも「対抗(競争)的」であることも、秩序を重視すべきであるが、
「対抗(競争)的」であることは、社会を発展させる原動力である。
それは、時には現状の秩序を壊さなければならない。
ゆえに、その存在をかけて、あまりに「対抗(競争)的」であると、
秩序を乱し、社会を混乱させる。
それは人も社会も同じである。
「秩序」をあまりに無視すれば、社会も不幸になる。
秩序は幸福を呼ぶ。
しかし過剰な秩序は、生きる炎を消してしまう。
欲求の炎を消さないように、自己や回りの秩序を管理していく。
それが、人が「大人」となって生きることである。
それは社会も同じである。
欲求をそのままストレートに達成させるのでなく、
欲求をさらに成熟させる。
そこにも秩序は必要である。
それは大人としての幸福な「悦び」を生む。
本能の欲求のまま行動すれば、それはあさましい。
生存のために他者から食料を奪い取る。
危険が迫れば、他者を押し分けて逃げる。
性的衝動の赴くまま行動する。
そして自分のプライドを守るために耳を塞ぎ、
白を黒と言いくるめる。
その行為は集団の調和を壊し、秩序を乱す。
その行為の損害は、やがて自分に降りかかる。
幸福を目指すなら、人は欲求を制御し、
全体の秩序を尊重する必要がある。
(2017.6.1)