08.『正義について』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人が望むのは最大多数の幸福である。

それを目指す人の意思が「正義」である。

幸福とは、「豊かに」「楽しく」「安定に」生きることである。

そしてそれを望む人には、「自己」と「他者」がある。

「自己」は「他者」より優先される。

「自己」を滅ぼしての幸福はないが、「他者」の甚だしい犠牲のもとでの

「自己」の幸福もない。

「自己」と「他者」の幸福はそれぞれの状況においてバランス関係にある。

その場において、「自己」を優先させながらも「他者」との最大多数の幸福に

導くように判断する意思が「正義」である。

たとえば暴走する列車を「自己」を犠牲にして止めることは

「正義」ではない。

だが自分が、その暴走を止めれる最適の場所にいるなら、ある程度の確率で

それに挑むべきである。

その確率とは、「自己が犠牲になる」確率である。

「自己の幸福」だけを求める場合でも、自己が犠牲になる確率は0ではない。

他人の幸福も望むならそのリスクはより高くなる。

「自己が犠牲になる」確率がどの程度の時にそれに挑むかは、

その人の「社会的責任感」の程度による。

自分がその列車の暴走の直接的な原因を引き起こしたものなら、

「社会的責任感」は高い。

「社会的責任感」とは、他者との関係おいて、社会活動を円滑に行うための

「義務」である。

「社会的責任感」は「正義」ではない。

「正義」より下位に属する「意思」である。

たとえば「戦争」は、人の最大多数の幸福に導くものではないから、

「正義」の行為とは言えない。

しかしその国や社会において正当とされる「戦争」に参加することは、

「社会的責任感」を満たすものである。

逆に「正義」を貫いて、「社会的責任」を果たさない場合もある。

「正義」と「社会的責任感」はイコールの部分とそうでない部分がある。



 「嘘」をつくことは、多くの場合、その社会の秩序に混乱を引き起こす。

秩序の崩壊は人を最大多数の幸福へ導かない。

しかし嘘をつくことで、社会の秩序がより秩序的になることがある。

無秩序に秩序を築く場合もある。

ゆえに「嘘」をつくことは「正義」に反するとは言えない。

「嘘」をつくことは「倫理」には反する。

「倫理」とはその「現状の社会秩序」を守るための規範である。

「社会秩序」がよりよく変わることでも、それは「現状の秩序」を

守ることにはならない。

だからそれは「倫理」に反している。

「正義」は状況によっては「現状の秩序」を変えてでもより最大多数の幸福を目指すが、

「倫理」は「現状の社会秩序」を守ろうとするものである。

だが「正義」が「現状の秩序」を変えれば、それに応じてその規範である

「倫理」も変わる。

「正義」は「自己の幸福」も要素に含むが、「倫理」に「自己」の要素はない。

「正義」と「倫理」は観点が違うため、どちらが上位で下位かは言えない。

これらもイコールの部分とそうでない部分がある。



 幸福を求めるなら、「真実」を求め「正義」を行う必要がある。

だが人は群れで生きる動物である。

人は社会という大きな仕組みの中で生きている。

それぞれが勝手に独自の「正義」を貫けば社会は混乱する。

そして自分の利益だけを優先して「正義」を求めない者もいる。

社会はいつも協調を必要としており、「正義」を求めながらも出来るだけ

無用な混乱を避けようとする。

ゆえに社会において「真実」の追求が必ずしも最優先されるわけではない。

社会の協調を守ろうとする意志、それが「社会的責任感」である。

それが尊重される。

「社会的責任感」も人それぞれ独自のものであってはならない。

多くは法律として明文化される。

また慣習、常識として漠然と規定される。

ゆえに「社会的責任感」と「正義」や「真実」との間には当然、ズレが生じる。

社会秩序を基準としてそれらを見直し、調和を図るものが「倫理」である。

「倫理」は社会秩序を守ろうとする規範である。

「社会的責任感」による社会の協調より、また普遍の「真理」「正義」より、

現状の社会秩序を第一とする。

たとえば国家間の戦争は人類にとって「正義」ではないが(悪)、

その国家が生き延びるための「社会的責任感」から必要とされる場合

がある(善)。

「倫理」は現状の社会秩序を尊重してものごとをとらえるため、

その時々によって戦争が悪であったり善であったりする。

だが「倫理」は決して中途半端なものではない。

「倫理」は社会秩序に基づいて「社会的責任感」や「正義」を牽制する。

「真実」に基づく「正義感」があり、社会秩序を守ろうとする

「倫理感」がある。

そして社会の協調性を尊重する「社会的責任感」がある。

「倫理感」の弱い社会では、多く「社会的責任感」が過剰となる。

社会の協調性を重視するあまり、誤りや不正に目をつぶってしまうのである。

誤りや不正を指摘することによって、協調が崩れるのを恐れるのである。

その時の協調は崩れないが、やがて秩序が崩れ、ついには協調も何も

なくなることが多い。

それは一見、責任感のない行動のように見えるが、

責任感がなければ後先のことを考えず、面白半分に何でも

指摘できるのである。

戦争中では敵兵を殺すことに躊躇はしない。

そこに人を殺すことへの良心の呵責は基本的にはない。

これも国を守ろうとする「社会的責任感」のなせるわざである。

「社会的責任感」の強い社会は、犠牲的精神が過剰となる。

それは自己犠牲だけではなく、他者にも犠牲を強要する。

「倫理感」が弱いと、「正義感」も過剰となることがある。

ものごとはすべて理屈通り、完璧に進むわけではない。

ある程度の矛盾や不合理を含んでいるものである。

細かな誤りや不正は、目をつぶってやりすぎる必要もある。

それらをいちいち取り上げていては、社会に時間的資源的大きな

損失(ロス)を生む恐れがある。

しかし誤りや不正を許すことを公にはしがたい。

それらは暗黙の了解と言った形で多く曖昧にされる。

「正義感」の強い社会では、それらは許されない。

たとえばある商品に欠陥があったとする。

その欠陥が致命的なもので社会に害をもたらすものなら、

公表して回収する必要がある。

それは「正義感」でもあり、「社会的責任感」でもある。

欠陥はあるが致命的ではない、気づかれない可能性もある場合は、

「正義感」は公表を主張し、「社会的責任感」は公表に二の足を踏む。

公表、回収による損失を恐れるからだ。

微小な欠陥の場合は、どうであろう。

「正義感」は万一の事故を恐れて公表を主張し、

「社会的責任感」は公表しないだろう。

これらは一般的に起りうることである。

「倫理感」の正常な社会では、より効率よく「正義」が実行される。

すべてが公表されればいいということでなく、

しかし肝心なことが隠ぺい(黙殺)されてもいけない。

社会自体の効率がよくなれば、「正義」は実行されやすくなり、

上の例のような公表か隠ぺい(黙殺)かの選択の悩みは少なくなる。

社会には、「正義感」もあり「社会的責任感」もあり、「倫理感」もある。

そしてそれぞれの感覚の強い者や弱い者によって社会は構成され、

そこに利害関係が加わり、その時代の流れが関与して、

社会は複雑な仕組みとなる。

「倫理感」は、「正義感」と「社会的責任感」を調整するものである。

だが「倫理感」は、その社会の価値観に影響される。

「倫理感」は絶えず真実を追求する「正義感」に検証される必要がある。。

(2012・2・6)