27.『寛容について』




 寛容とは、自分の望む思いとは違う、

他者の思考や行動を、許容することである。

個人としての寛容について述べる。


 人は生きるために、他者と競争する。

ゆえに人は、基本的に他者に寛容ではない。

しかし人は、一人で生きるには効率が悪く、

他者と協力する。

協力する者は、それぞれに能力が違うから、

人はある程度、寛容になる。

その程度は、人によって違う。

どの程度、その者の能力不足をカバー出来るか、

どの程度、その者を活用で出来るか、

それは、その人の能力(度量)による。

また、寛容過ぎると、人は甘やかされ過ぎ、

協力が、十分な効率UPとならない。

しかし人が、他者にあまりに寛容でないと、

協力関係はギクシャクしてしまう。

寛容過ぎる、不寛容過ぎる、どちらでも

問題の解決に、速やかに向かわない。

寛容、不寛容も、バランスの問題となる。

協力による効率UPを考慮して、

人は、慣用、不寛容を使い分ける。

能力が明らかに劣る者には、不寛容である。

しかし能力が優れている者にも、よく人は不寛容になる。

嫉妬などの感情による不寛容である。


 次に、社会としての寛容について述べる。

社会は、秩序で維持されている。

そのためには、ルールが守らなければならない。

ルールを守らない者には、社会は当然、不寛容である。

しかし、法律のように、ルールが明確に作られているものならば良いが、

多くのルールは慣習や、言い伝え、思い込み、思い付きで作られる。

これらのルールは多く、論理的にではなく、

人間関係や価値感において、守ることが要求される。

真に守るべきルールと、どうでもよいルールが混雑する。

これら曖昧なルールさえも頑なに守ろうとさせるのが、不寛容者である。

攻撃性の強いタイプの人が多くなる。

彼らは集団の時もあるし、個人の時もある。

彼らは自分のためにではなく、社会のために不寛容である。

またそう思っている。

彼らは、謝った正義感に陥りやすい。

ある集団において、出来るだけ、

守るべきルールを明確にするのが、

それら不寛容者を生み出さない方法である。

社会において、自分の行動を効率的にするには、

円滑化が望まれる。

他者の行動を、ある程度、寛容にすることで、

ものごとがスムーズに進む。

他者を受け入れるためには、自分を制御しなければならない。

すなわち他者に寛容であるためには、自分には不寛容でなければならない。

逆に自分を優先することは、他者を拒否することである。

これは自分に寛容であることは、他者に不寛容であるということである。

人は、それを承知していなければならない。

寛容は甘やかしになるし、無関心にもなる

だが社会を殺伐としないためにも、

その余裕は必要である。

そして不寛容は、厳しさでもあり、覚悟でもある。

それは、社会を威圧し、自由や豊かさ、楽しさを奪う恐れがある。

本当の寛容のための、不寛容でなければならない。

寛容、不寛容をバランスよく受け入れることの出来る社会は、

根底の秩序のルールが厳しく守られていて、

しかしその上で人が、自由や豊かさ、楽しさを感じられるということである。

秩序は、競争をなくそうとする手段であるが、不寛容を基本とする。

制御された秩序の上で、人は寛容に振る舞えるのである、

それが理想の社会と言える。

人は他者に寛容を求める。

生きることは他者との競争だが、

負ければ、傷つく。

悔しさや後悔、嫉妬、怒りや悲しさ、

やがては自虐、投げやり、絶望、無謀、

それらの感情に襲われる。

これらを避けるために、

人は、他者に寛容を求める。

すなわち、他者と競争することを避けようとする。

この者に関わる者が、それを寛容すれば、

その者は、他者と争う気力も能力も失っていく。

それは自分と戦う力も、失っていくことを表わす。

自分で自分を、寛容し続けることになる。

社会は、生きるための競争を、緩和する方向に向いている。

文明の発達は、人々の間から競争をなくしていく。

社会的構造としては、寛容社会に向かう。

寛容な社会は、自由な社会である。

自由な社会は、他者のことを考慮しなくてすむ、

自己中心的な社会となる。

それは他者を、平気で攻撃出来る社会ともなりうる。

すなわち、不寛容者を増やすことになる。

社会は寛容化し、人々は不寛容化する、

二極化が起こる。

(2021.4.13)