10.『秩序について(2)』
「秩序的であること」は、幸福に生きるための手段である。
そして、幸福感とは「秩序的であること」の実感から生まれる。
「秩序」とは、状態が整理整頓され、
決められた通りに、ものごとが順序良く進むことである。
「秩序」はたえず効率を目指す。
効率は維持され、そして見直され、さらなる効率を目指す。
しかし効率は固定観念に縛られていては求められない。
効率を導くものは、道理に従った因果である。
すなわち「論理的」でなければならない。
そして効率は、一時的、一部分的なものであってはならない。
一時的、一部分的に非効率に見えても、長期的、全体的に効率的でなければならない。
自己中心での効率UPに走りすぎて、他の効率を落とすものであってはならない。
すなわち「システム的」でなければならない。
「秩序的である」ということは、「効率的であること」を目指すということである。
しかし効率的を求めすぎることは「秩序的である」とは言えない。
効率を求めるということは、状況を改善するということである。
改善は必要だが、それをあまりに繰り返し、状況を絶え間なく変化させてしまうと、
それが、秩序を壊す原因になる。
絶え間ない変化が、状況に混乱、煩雑を生み出すからである。
また改善の繰り返しは、秩序のルールを、より厳密化、詳細化してしまう恐れがある。
効率化は追求され見直さなければならないが、
それが収拾のつかない混乱、煩雑、複雑化を引き起こさないよう、
状況を考慮して実行されなければならない。
すなわち「シンプル的」でなければならない。
また効率を求めすぎることは、完全・完璧を求めてすぎてしまう恐れを呼ぶ。
精密機械の構造のように、すべてが秩序的に運ぶ、
そのようなことは、現実の複雑な状況の中ではありえない。
完全・完璧を求めることは必要であるが、そのことにあまり固執してはいけない。
状況との調和を考慮して、より秩序を整備していく方向に進むべきである。
すなわち「バランス的」であるべきである。
論理的、システム的、シンプル的、バランス的に思考するのが、
「秩序思考」である。
「秩序思考」は、人を「秩序的」に導く。
すなわち人を、安定化、対応化(多様化)、効率化(円滑化)、制御化する。
そしてそれは人に、安定感(安心)、解放感(豊かさ)、達成感(楽しさ)、
充実感(喜び)を与える。
それは人の秩序欲求、達成欲求、成長欲求、制御欲求を満たすものである。
人はこれらが満たされることによって、幸福を感じる。
「秩序」は幸福を導く手段である。
「秩序的」であれば、人は幸福感(安定感、解放感、達成感、充実感)を得る。
すなわち「秩序感」を得る。
幸福感が「秩序感」である。
「秩序」には、当然それを守るため、規制や抑制が必要となる。
それが人の意志や行動の自由を阻害するようで、
良いイメージにはとらえられない傾向がある。
生きるということは、明日生きるエネルギーを今日得るという行為である。
当然、効率が求められる。
すなわち「生きる」ということそのものも、ある程度「秩序的」であるということである。
ゆえに「生きる」行為には、当然、規制や抑制がともなう。
生きる上において、全くの自由や解放はないのである。
そして幸福の状態は、すべてが快楽の状態ではない。
おおよそ充足した状態である。
それは必要に応じた規制や抑制を受けいれた態度である。
「秩序的」になることが幸福に生きるための条件であるが、
だが、早急に「秩序的」になろうとすることは、無理である。
それは理想に近い。
文明社会は徐々に「秩序的」になっていくが、その進みは緩やかである。
上に述べたように、秩序は規制や抑制を伴う。
先の利、長い利のために、大きな利、全体の利のために、
今を我慢する必要がある。
しかし自己においても、集団の中の自己においても、今が我慢できない。
今の利に目が行ってしまい、先や全体のことが目に入らなくなるのである。
自己において、そして特に集団において、
現在ある程度「秩序的」であっても、
早急にそれ以上「秩序的」にするのは困難である。
方法は一つしかない。
人が「秩序」の重要性に気づき、そのイメージからくる偏見を捨て去ることである。
「秩序」について、改めてまとめよう。
秩序とは効率を目指す合理的な仕組みであり、観念や理念ではない。
それは最大多数の最高最長効率を目指す。
効率とは「無駄、無理、ムラ」がない状態である。
部分的に効率が良くても、他に無駄がある。
一時的に効率が良くても、持続に無理がある。
効率が安定せず、良かったり悪かったりとムラがある。
これらのない状態を、より目指す仕組みが求められる。
そしてその仕組みは、明確化され、認識され、周知され、
そして絶えず見直されなければならない。
人は、大脳新皮質が発達し、記憶したものをイメージ(観念)として、
呼び出すことができるようになった。
これによって、二つ以上のものを頭の中で比較したり、
他のものを足したり、部分を引いたりして変化させることができるようになった。
つまり「記憶、観察、分析、推理、創造」が可能になったのである。
この能力が「知性」である。
別の言い方をすれば、今までそこにあるものしか見れなかったものが、
頭の中で、他の場所にあるもの、または実体が漠然としたもの、
または、そのものの過去(原因)、未来(結果)が見れるようになった。
その能力が「知性」である。
ただ「生」を与えられ、それを全うするだけだった生き物が、
「知性」によって、人は生きることの意味をも求めはじめた。
「生」を楽しめるようにもなった。
そしてそのために「秩序」が生まれたのである。
しかし「知性」は誤ることも多く、本当はないもの、または実際と違うものを
人に見せるようにもなった。
たとえば長く人々が天動説を信じてきたのもこれである。
この間違いを生む大きな原因は、「知性」が未熟であることの他に、
大脳旧皮質などから生み出される本能や欲求や感情に、
この「知性」の働きが妨害されるからである。
これら旧皮質などから生み出される力は、「生きる力」そのものと言えるので、
「知性」によって完全に抑制してはいけないし、またできるものでもない。
だが、人の新皮質は旧皮質に代わるものとして発達してきた部分である。
旧皮質で解決してきた問題を、より効率よく解決するために生まれてきた能力が
「知性」である。
争って生きてきた動物が、協調することでさらに豊かに生きれるようになったのである。
だからやはりそこには「秩序」が必要となる。
「秩序」によって、旧皮質の働(本能)を制御する必要がある。
「旧皮質の力」は猛獣である。
「知性」は猛獣使いとならなければならい。
ムチを振りすぎて、猛獣を弱らせてはいけない。
うまくその力を生かすのである。
社会は確実に「秩序化」の方向に進む。
だがそれは多くの社会でとてもゆるやかである。
人々は「秩序」の必要性を認めながら、十分にそれを知らず、
またそれを納得していないからである。
彼らはまだ旧皮質に支配されているのである。
彼らを分類しよう。
無秩序タイプ:秩序の必要性に気づかず、自由奔放にふるまう。
未秩序タイプ:秩序の必要性は感じるが、十分理解できず、思いのままにふるまう。
非秩序タイプ:秩序の必要性は知っているが、あえて無秩序にふるまう。
または自分勝手な秩序に従っている。
秩序タイプが、「論理的」「システム的」「バランス的」「シンプル的」であるのに対し、
彼らは、「理不尽」「短絡的」「偏向的」「煩雑」であえる。
彼らは状況を混乱させ、事態をより悪くすることが多く、効率を落とす。
しかし彼らと争っても勝てるわけがない。
ルールを厳密に守ろうとするものと、ルール無視のものが、
ゲームをして勝てないのと同じである。
彼らに「秩序」の必要性を分かってもらい、
協調的になってもらうのが理想である。
そのためにはやはり十分なコミュニケーションをとるしか方法がない。
しかし彼らの多くは聞く耳を持たない。
欲望や感情などの旧皮質(本能)に支配されているからだ。
無秩序タイプや未秩序タイプはまだ分かろうとする可能性があるが、
非秩序タイプは、反発感、拒否感が強く、より厄介である。
彼らの多くは、そのままではやがて自滅していく。
効率が悪いのだから、やがて孤立し、円滑にものごとが進まなくなる。
巻き込まれなくて済むのなら、彼らにできるだけ係らないのが得策である。
自分が被害を避けられない、または彼らを自滅から助けたいなら、
彼らに対しては、ゆるやかに影響を及ぼしていくしかない。
自らが「秩序的」であることを崩さないことによって、彼らに影響を及ぼすのである。
「環境の秩序」を無理に変えようとするのでなく、「自己の秩序」を整えるのである。
決して、「自己の秩序」を、彼らに合わせて崩してはいけない。
「旧皮質」(本能)の力に負けてはいけないのである。
それと同時に、自分の「秩序性」にも慢心してはいけない。
自分の秩序も知らずに「自分勝手なもの」になっている可能性があるからである。
自己秩序のあり方と幸福感の関係を改めて表そう。
「安定(秩序)」 …(秩序欲求) …ロジック思考 …「愚念」 …<毅然>
『大道に従う、誤ったときは是正と予防』 …(意識野)
「豊かさ(対応)」 …(達成欲求) …システム思考 …「脱念」 …<泰然>
『こだわりをなくせば、方法はある 』 …(感情野)
「楽しさ(効率)」 …(成長欲求) …シンプル思考 …「解念」 …<整然>
『シンプルになっていくことが成長、より複雑を理解できるようになる』
…(認識・記憶野)
「満足(制御)」 …(制御欲求) …バランス思考 …「諦念」 …<裕然>
『求めすぎずこだわりすぎず、嗜好に生きる』 …(欲求野)
(2014.11.19)