18.『真実について』

たとえば「風に吹かれ揺らされると、

熟したリンゴは自信の重みに耐えかねて、木から落ちる」

ということを私が提言したとする。

あなたはそれを信じるであろうか。

私がリンゴ農園で長く働く者であったら、

あなたは私の経験を想像して、その提言を疑いなく信じるだろう。

私がリンゴの木などほとんど見たことがなく、

ましてやリンゴの実が落ちたところなど見たことがない者なら、

どうだろうか?

おそらくあなたは、それでも別に疑問を抱かず、

その提言を信じるだろう。

それはあなたが私を信じているからでなく、

あなたが今まで聞いてきた情報や経験、常識や理屈によって、

その提言に、それ程の違和感を感じないからである。

しかし、それが真実とは言いきれない。

事実は、台風ほどの強風でなければ、

通常の、リンゴを揺らす程度の風では、

その実は落ちないかも知れない。

風とは関係なく、自重のみで落ちるのかも知れない。

先の提言は真実とは言いきれず、仮説である。

それは、リンゴ農園のベテラン作業者の提言であっても、

リンゴの落下を研究する科学者の提言であっても、

同じである。

すべて仮説である。

しかし、すべて仮説だが、それは同列ではない。

限りなく真実にちかい仮説もあれば、

荒唐無稽の仮説もある。

その仮説を否定する事実、またはそれと矛盾する事実が出ない限り、

その仮説は信憑性を増し、より真実に近づく。

二つ以上の物事の関わりや、つながりには論理が存在し、

その論理の破綻が起こらない限り、

仮説として成立する。

そしてその仮説を維持するのは、

それを反証する事実や破綻が今後もないと想定することである。

その想定の判断をするのは、

人の知識、経験、常識感である。

それらが矛盾なく整合されている全体感である。

それを「知性の整合性」と呼ぼう。

たとえば提言が「リンゴは重力によって落ちる」と

言うものであっても同じである。

その仮説が維持される、

いわゆるそれが真実に近いかどうかは、

人の「知性の整合性」が判断する。

それが真実を追求する唯一の方法であり、

現実社会での思考の限界である。

世の中には、多くの理論がある。

「~は~である」

「~は~になる」

「~の原因は~である」などである。

これらは全て仮説である。

そしてその仮説を信じるかどうかは、

それぞれの人の「知性の整合性」と述べた。

それはいわゆるその者の「納得」である。

そこに落とし穴があり、混乱がある。

「知性の整合性」は、その者の知識、経験、常識感に基づく。

人それぞれ、その成熟度が違い、

程度の差はあれ、すべて未熟である。

そしてさらに人によって、こだわりや思い込みがある。

その状況において、人は真実を判断する。

当然そこに、誤りや曖昧さがあった場合、判断も誤る。

これは自己の問題である。

そして次に、その仮説を主張する他者の問題がある。

その者が、その仮説に誤りや曖昧さがあることを、

承知している、していないに関わらず、

それを巧妙に暗示的に、作為的に主張されると、

人は、「納得」に誘われて、信じてしまう。

巧妙なその他者の方法とは、

「論理の章」でも述べたが、

仮説の主張を正当化する手段として、

さらに補足して列挙しよう。

(a) 権威や権力を用いる。

「~がそう言っている」

(b)その場の状況(雰囲気、感情、道徳性)を利用する。

「そう感じるのが当然だ」

(c)データを恣意的(都合のいいよう)に用いる。

「そう言う意味にとれる」

(d)比喩を用いて、同じ意味だと錯覚させる。

「たとえば~と同じだ」

(e)一般論や常識が当てはまっているように思わせる。

「常識的に疑う余地はない」

(f)一般論や常識の思い込みを指摘して、発想の転換から正しいと思わせる。

「そう思い込んでいるだけだ」

(g)仮説を積み重ねることによって、最初の仮説が正しいものと思わせる。

「当然、次は、そう予想される」

(h)論点をずらして、主張を複雑にし、理解を混乱させ、仮説を正しいと思わせる。

「別の観点から見ると、新たな理解ができる」

(i)反論を否定して、仮説を真と思わせる。

「真実だからこそ、反論が成り立たないのである」

(j)論理が誤っている、または曖昧なのに、論理の積み重ねで、正しいと思わせる。

「そういうことも考えられるから、こうも考えられる」

(k)難解な用語、言い回しを使用して、主張を高尚化し、正しいと思わせる。

「要素をからめとることにより事実が再編成される」

(L)「全体的」「世界的」「地域的」「歴史的」「時代的」など、

大きくとらえることによって、主張を一般化し、正しいと思わせる。

(M)理解できないことを責めて、正しいと思わせる。

「この程度のことは理解できなくてはいけない」

などである。

人が真実を求めて、思考するために、

論理を使用する。

真理は、論理の組み合わせから成る。

ゆえに、組み合わさった論理を分析することは、

ものごとの真実を導き出す手順である。

だが、この論理の成立や正否も、

「知性の整合性」の判断による。

ゆえに曖昧さは残るが、

しかし、この方法しか真偽を判定出来ないのである。

二つ以上の物事の関わりや、つながりには論理が成り立つ。

その論理には、三つの形式ある。

一つは「所属を定義する」の意味の「集合」、

一つは「因果の発生率(蓋然性)」の意味の「確率」、

一つは「部分の和は全体になる」の意味の「演算」である。

だが、現実世界では、「純粋数学」の世界のように

完全にものごとを結論付けることはできない。

一つ目の定義の論理について述べる。

「AはBである」と言った場合、

それは、「A<B」または「A=B」という意味である。

これは「集合」でいう「所属」の関係である。

例えば、「カラスは黒い」というものである。

「カラスは黒いものに含まれる」という意味である。

この仮説は、「カラスが黒い」という例をいくつ出しても

その信憑性は上がるが、証明にはならない。

「白いカラス」が一羽見つかれば、否定される。

反証する事実があれば、その仮説は成立できない。

定義には、大雑把なものから、非常に厳密なものまである。

「黒」と言っても、どの程度の「黒さ」なのか、

さらなる分析が必要となり、切りががない。

厳密になればなるほど、所属の範囲がせまばるほど、

通常、定義は正確になるが、

曖昧さもなくなるため、反証も出やすくなる。

また厳密になることで、定義の本質がずれてしまうこともある。

あるものごとの性質の一部と、別のものごとの性質の一部が

共通している定義もある。

これは「集合」でいうところの「共有A∩B」である。

たとえば「カラスの一部の知能は、ヒトの一部の知能と同程度である」

これはあいまいな定義になりやすい。

「経済は生命である」といったような抽象的な定義に多い。

経済の性質の一部と、生命の性質の一部が共通しているという意味である。

これは恣意(しい)的な定義であり、

ただの表現であり、論理性は乏しい。

定義を論理に使うには、以上の落とし穴がある。

次に「因果」の論理について述べる。

例えば「風が吹けばリンゴが落ちる」

この仮説には、確率が存在する。

付属する条件によって、発生率が変わる。

多くの発生する例(データ)があれば、信憑性は増すが、

偶然という要素があるため、

その現象や状況が発生したからといって、

ただちにその仮説が絶対とされるわけでもない。

しかし発生しない例があっても、ただちにこの仮説が否定されるものでもない。

ゆえに、まったく因果性のないものであっても、

容易に否定できない。

この論理は、統計を利用した応用数学的であり、自然科学的である。

たとえば、ある因果関係の仮説

「A+B→C」(AにBが働いてCとなる)があるとして、

この試し(観測や実験)を何回やっても成立しない。

確率が0%にならない限り、その仮説は否定されないが、

限りなく0%に近いならば、否定と考えてよい。

また、さらに「A+D→C」や「A+B→E」の確率が非常に高いならば、

「A+B→C」の反証に成りうる。

次に「部分の和は全体になる」の論理について述べる。

これは「1+1=2」または「1or0のオンオフ」に始まる演算的な定義である。

たとえば「パズル」や「電気回路」ようなものである。

これは一度でも、成立しない例、反証があれば、

この論理は破綻する。

時間、量やエネルギーなどは、絶対的である。

量とエネルギーは変換可能であるが、

一つの系の中で、それらの全体は一定である。

より「純粋な数学的な」論理と言えるが、

しかし現実では、その系の規模が大きくなるほど、

理由不明の消失などがあったり、

全体を把握できなくなり、

「おおよそ」や「大概」と言う概念が入り、

全体の一定が不明瞭になる。

やはりこの論理にも曖昧さが発生する。

「知性の整合性」が論理を用いて、

「ある提言(仮説)」の現実社会における整合性を判断し、

その真否を想定する。

そこには上に述べたような曖昧さや誤魔化し、

そして限界が存在する。

それらを承知して、人は真実を求めるのである。

(2020.8.20)