34.『科学について』
真実を求めるには、論理が重要である。
論理は、大きく三つの構造からなる。
一つは、「演算の論理」である。
部分の和は全体となる。
一つは、「集合の論理」である。
これは物事の所属、定義に用いられる。
一つは、「確率の論理」である。
これは、複雑な要因が引き起こす結果を
全体的な傾向で表わしたものである。
ある事象に対して、論理が組み立てられる。
その方法には二つある。
演繹法と帰納法である。
演繹法は、過去の事例(論理)を参考にして、次の論理(仮説)を組み立てる。
たとえば、サイコロを振って1の目の出る確率が1/6であれば、
2の目の出る確率も1/6である、というものである。
三段論法も、これに含まれる。
「風が吹けば桶屋が儲かる」のように、論理の飛躍が含まれる恐れがある。
帰納法は、現状の複数の事例を総括して、次の論理(仮説)を組み立てる。
たとえば何回もサイコロを振って、2の目の出る確率が1/6と求めることである。
事例の採取の仕方によって、論理が偏向する恐れがある。
たとえば、少数回の実験で結論づけるなどである。
演繹法、帰納法どちらにしろ、そこで立てられた論理(仮説)が正か偽かを判定し、
正であれば普遍化するのが、科学である。
まず正偽の判定の手段は、その論理が成り立つデータ、
または、その論理が成り立たないデータの集積である。
そのデータは、多ければ多いほど良い。
そして集積には、偏向や意識が含まれてはいけない。
厳密に、不必要な影響を受けない状態、ランダム、または自然な状態で行われなければならない。
数学では、全く影響を受けない純粋な条件で考察されるので、その結果、その仮説は「正」となりうるが、
現実の状態を扱う科学は、ほとんどの場合、その仮説は完全な「正」とはなりにくい。
科学では、その論理が成立する集積が多くなるほど、より「正」に近づいていくが、
仮説は仮説のままである。
われわれが真実を求めるのは、起こった問題を解決したいからである。
そのために、解に導く論理を求める。
そしてそのために、科学が過去に証明してきた、
より近似する「正」としての論理(仮説)を利用するのである。
しかし仮説は仮説である。
「偽」である可能性が高いものでも、近似「正」としてされているものもある。
それは科学と言えど、人の関わるものであるから、
そこに錯誤、偏向、作為が入り込むことがあるからである。
ゆえにわれわれは、科学の結論を利用するには、
その論理の整合性をたえず問わなければならない。
その論理に矛盾するものはないか?
その論理に反するものはないか?
これを問うのが、「知性の整合性」である。
世の中には、多くの情報が流れる。
それらはそれぞれの論理を持っている。
その論理は、科学的検証を受けたもの、
その検証が十分でないもの、検証されていないものがある。
そして検証されていながら、実は「偽」であるもの、
検証されていなくても、「正」であるものも存在する。
また、検証出来ないものもある。
われわれは、それらの論理を「たぶん正」として利用する。
すべての知識を得ることなど出来ないから、当然である。
問題解決のために、その論理を利用するのであるから、
問題が解決すれば、その論理が正でも偽でもかまわない。
論理は、その手段であるからである。
しかし問題をふたたび解くためには、その論理が正しい方が良い。
それが正しいかを見極めるのが「知性の整合性」である。
いわゆる納得である。
自分の知識、経験、感覚から、納得出来るのが、「知性の整合性」である。
それは個人の知性に由来する、だからそれらこそ、錯誤、偏向、作為になりやすい。
当然、科学的追求よりは劣るものである。
しかし、その意識を持ってこそ、
科学の結論を正しく扱えるのである。
多くの先人、学者が多くの説を述べてきた。
巷には、書物が溢れている。
われわれは、それらの中から納得出来るものを選んできた。
納得だけを根拠にするのは、誤りも多い。
科学的検証を受けたものを納得するのが、科学的態度である。
しかしそれらの完璧を求めていては、ようとして問題解決が進まない。
それで、「納得」に頼るのである。
「納得」も知性が豊かになれば、「知性の整合性」としてより有効となる。
科学的態度を意識して、「知性の整合性」を使うのが理想である。
(2023.1)