02.『理性について』

生命は確率と偶然の混沌から生まれ、

そして膨大な年月の中の、数え切れないほどの確率と偶然から、

強いものが生き残り、そして自ら強くなって生き残ろうとするようになった。

その確率と偶然の結果は、まるで意思があるような振る舞いに見える。

生命をいつまでもどこまでも繋いでいこうとする意思である。

無限に繋いでいこうとする意思である。

生命を繋いでいこうとするこの「自然の意思」こそ、「生命」そのものと言える。

その「自然の意思」は、動物において「本能」でかなえられる。

動物は、右へ進むか、左へ進むか、いつも岐路に立たされる。

そこでは判断が必要とされる。

しかし、状況を把握して先を予測することが出来ないほとんどの動物は、

自ら判断出来ず、遺伝子に組み込まれたプログラムによって、行動を決める。

先をそのプログラムで予測する。

そのプログラムの根本にあるのが、本能である。

本能は、三つの基本的な欲求に大別できる。

一つは命を守り維持していこうとする「生存本能」。

もう一つは、自分の遺伝子を守り維持していこうとする「種存本能」。

そしてもう一つは、上の二つの本能をフォローするために、

自己を主張する「存在本能」である。

これら本能の働きは、高度の動物ほど複雑になる。

しかしその目的は同じである。

もっとも高度な行動が出来るヒトにとっても同様である。

様々に進化した動物は、生き残る手段として、いろいろな特徴を持った。

特異な特徴は、大きなメリットを動物に与えたが、同時にそのデメリットも与えた。

鳥が翼を手に入れるために、前足を失ったように。

トラは牙を手に入れたが、絶えず争わなければ生きられなくなった。

ヒトも同じである。

ヒトは、脳が発達して、大容量の記憶が可能となった。

記憶の大容量は、記憶したものと記憶したものを、

頭の中だけで組み合わせることが出来る。

組み合わせをいろいろ試すことが出来るワークスペースを持った。

そこで、記憶したものの組み合わせの変化や結果を仮定できる、

すなわち、ものごとを想像できるようになった。

その想像力、それが「知能」となる。

その「知能」は、今まで環境のなすがままだった生物が、

初めて環境を変えれることを可能にした。

物陰に隠れて風を防ぐだけだった動物が、

壁を作って風を防げれるようになった。

しかし同時に、その能力はヒトに不自由も与えた。

それは葛藤する「精神」。

動物は本能によって欲求が満たされなければ、諦める。

なんともしようがないため諦める。

いや正確には諦めるのではなく、忘れる。

そのときが過ぎてしまえば、固執できず忘れる。

しかしヒトは、環境を変えれる「知能」があるため諦め切れない。

動物的な欲求と諦めきれない気持ちが、ヒトに苦しみを与える。

ヒトは、環境を変えれる「自由」を手に入れた代わりに、

「葛藤」という苦痛を与えられたのである。

ヒトには、「意識」がある。

「意識」とは大きな意味で、次のような脳を巡る回路のことを言う。

ものごとを認識し、記憶の中から情報を呼び出す「認識記憶野」。

その認識した情報が、本能にとって、快か不快を決める「欲求野」。

そこで取るべき反応が決められる。

快追求か、不快苦回避かである。

その反応によって、「感情野」で感情ホルモンという分泌を行い、

全身に、反応の信号を送る。

対応の信号は「意識野」へも送られる。

そこでは想像力を駆使して、合理的な対応が検討される。

そして、ヒトは行動し、その対応と結果を

ふたたび「認識記憶野」で記憶する。

この「認識記憶野→欲求野→感情野→意識野→(行動)→認識記憶野」と

巡る回路を「意識回路」と呼ぼう。

この回路は、生物の進化とともに発達してきた回路である。

爬虫類で欲求野、哺乳類で感情野、

そしてヒトになって、明確な意識野を手に入れた。

この意識回路で、そこを巡った情報は、次々に記憶される。

そして、次から次へ蓄積される。

ヒトは、大容量の記憶が可能となった動物である。

いままでび経験してきたこと、対応した内容のパターンが記憶される。

それが意識として忘れられたことであっても

潜在意識として記憶される。

潜在、顕在入り混じって、その情報の蓄積が、「精神」となる。

過去に衝撃を受けた情報は、強く残り、「精神」に影響する。

ひどい衝撃は、「トラウマ」となる。

「意識回路」は、全身各部分に行動の指示をする指令塔である。

通常の習慣的な認識であれば、その情報は、「認識記憶野」のみを通り、

他の「欲求野」「感情野」「意識野」を素通りする。

省エネモードである。

脳は無意識な状態で、体にいつもと同じ慣れた行動の指示を送る。

まるで自動対応のような行動となる。

行き慣れた道路を自動車で運転しているときが、その例である。

体は無意識に行動している。

反応しているだけと言える。

この「認識記憶野」だけからの指示、

習性や慣習による指示を、第一指令(反応指令または自動制御)と呼ぼう。

「認識記憶野」から「欲求野」を情報は通る。

通常は「欲求野」から「感情野」へと反応が進むが、

欲求があまりに強い場合は。「感情野」や次の「意識野」を素通りして、

直接、体に行動の指示を送る場合もある。

「欲求野」はその根底に本能がある。

「生存本能」は、エネルギーを蓄え、出来るだけ消費しないようにする。

「種存本能」は、遺伝子を子孫に繋ぎ、それを守ろうとする。

「存在本能」は、自己をアピールし、立場を守ろうとする。

それらの欲求のみで行動を指示する。

「欲求野」での「快楽追及・不快苦回避」の欲求が強すぎる場合に起こる。

前者の「快楽追求」の場合は、

たとえば空腹時になりふりかまわず食べるようなことであり

後者の「不快苦回避」の場合は、自分勝手な、わがままな状態である。

これら純粋な欲求による指示を、第二指令(欲求指令または本能制御)と呼ぼう。

情報が「認識記憶野」に入り、「欲求野」で反応し、

「感情野」で衝動的に対応する。

それぞれの気質や経験による短絡的な対応となることが多い。

「感情野」は、群れで生きるために生まれた制御機能である。

ヒトが単独で生きているなら「感情」は必要ない。

しかしヒトは、特に群れを重要にして生きる動物である。

群れで役割を分担することにより、自然から糧を得て生きている動物である。

そして、自分の欲求と群れは、多く衝突する。

全身で感情を表現することにより、

周囲に自分の意識をコミュニケートすることが必要となる。

そこから、この分野は発達した。

喜怒哀楽を全身で表現することにより、

群れの他者との優位、従属、親和、同情などをアピールする。

それは、おもに「存在本能」に大きく影響される関係にある。

自己の存在をアピールする本能の影響下にある。

「存在本能」の快楽追及は、自己を群れに認めさせること、

「存在本能」の不快苦回避は、自己が群れからはじき出されないこと、

ゆえに、「感情野」の反応にも、二面性がある。

「感情野」の反応は、上で述べた存在を主張する、

「欲求野」の発する第二指令に準ずる反応(直接的反応)と、

群れの一部となって、群れの秩序を維持しようとする方向に働く、

屈折的な反応がある。

群れは、個々の自分勝手を嫌う。

群れは、突出したもの、調和を乱すものを排斥しようとする。

変化を嫌い、保守を望む。

他人の欲求を押さえ込み、群れの関係を出来るだけ安定に保とうとする。

この群れからの抑圧、他からの非難が、「恥」や「辱め」の恐れや不安という

感情を自らに生み出した。

この感情が、屈折的反応である。

過去に、自分が受けた他者からの非難の不快の記憶から発生する。

「恥ずかしい」という反応は、暑くもないのに赤面、発汗し、

「辱めを恐れる」という反応は、寒くもないのに青ざめ、震える。

「恥」や「辱め」の恐れという感情が、全身にパニックを起こさせ、

その行為をやめさせようとするのである。

感情野での反応は、感情ホルモンの分泌によって全身に伝えられる。

この感情野の屈折的な反応による指示を、

第三指令(抑圧指令または群れ制御)と呼ぼう。

欲求のまま振舞いたいという第二指令に、

「恥」や辱め」の恐れという感情で抑えようとする第三指令、

そこに、「葛藤」が生まれる。

情報が「認識記憶野」から「欲求野」「感情野」を通った後、

上のような「葛藤」が生まれた、または「経験がなく分からない」、

「現状では無理である」などの「迷い」が生じた場合に、

その情報は、「意識野」へ流れる。

「意識野」は、「知能」を操る場所。

ヒトが、その大容量記憶能力から手に入れた「想像力(仮想力)」による、

「観察・記憶・分析・推理・創造」の五つの能力を用いて、

問題の解決を図る。

そこで思考されたアイデアでもって、全身に行動の指示を送る。

これを第四指令(意識指令または思考制御)と呼ぼう。

そのアイデアが、問題を解決できればよいが、

解決できないと、そのことが新たな刺激となって、

「意識回路」を、その未対応の情報が巡る。

それは新たな欲求や感情を生み出す。

諦めきれずに、「意識野」はまた反応する。

「意識回路」は、空回りを続ける。

思考は、かかりきりになる。

不快のループに巻き込まれてしまう場合である。

ここにも「葛藤」は生まれる。

ヒトには以上の、4つの指令がある。

どれか一つのみの指令が強い場合は、「葛藤」は少ない。

いくつかの指令が対立する場合、当然『葛藤」が生まれる。

前に述べた第二指令の「欲求」に対して、

第三指令の「群れの制約」が「葛藤」する他に、

第四指令の「知性」が、第二指令の「欲求」や、

第三指令の「群れの制約」と「葛藤」を起こす。

「葛藤」をおさめるためには、

それらのどれかの指令を無視しなければならない。

ヒトは、自分が100%自分の指令で動いていると思っている。

だが、第一、第二、第三指令は、自分の思いのままにならない。

第一指令は、生きるエネルギーを節約しようとするものであり、

第二指令は、生きる活力を生み出し、命を守ろうとするものであり、

第三指令は、群れで自己を主張し、また協調しようとするものである。

だから、どの指令も容易には無視できない。

しかし、どれかの指令を抑えなければならない。

または指令間の調和を図らなければならない。

さいごの第四指令についても同じである。

思考は自由だが、これも完全にヒトの思いのままになるわけではない

「意識野」は大脳新皮質にあり、

ヒトになって、最も発達してきた脳であり、

本能に影響される脳を旧脳とすれば、新脳と言える。

旧脳が、本能を満たされれば快感を得られるように、

新脳も、働きが有効であると快感の褒美がもらえる。

その有効の評価は、問題の解決である。

「意識野」で練られた対策に効果があったと認識されると、

脳内を快感の刺激が走る。

その快感を求めて、まず、始めたことを成し遂げようとする

「達成欲求」が生まれる。

そして達成を、より効率よくする「秩序欲求」が生まれる。

すなわち第四指令を発する「意識」は、

発生した問題を終結させるするという「達成」を求め、

さらに解決をすみやかにし、また再発させない「秩序」(方法、ルール)を求める。

「達成欲求」や「秩序欲求」の快を求めて、第四指令も強引となる。

この指令によっても、ヒトは振り回される。

この指令もやはり抑える、または調整する必要がある。

これら4つの指令を抑えるもの、

これら4つの指令の調和を図るもの、

それが「理性」である。

「理性」とは何か?

それを知るために、ヒトの精神の構造をまとめてみよう。

ヒトの脳の中で情報は、「意識回路」を巡る。

回路を巡り反応や対応した記憶は、脳内に蓄積される。

その蓄積された記憶層が、「精神」となる。

それらの多くは潜在意識として、または経験・記憶として

現在働いている「意識回路」の反応、対応に大きく影響する。

ヒトが一応、自由に思考できるのは、「意識回路」内の「意識野」だ。

「意識回路」が全身への行動の指令塔だとすると、

「意識野」は、その中の作戦室となる。

作戦室へは、「問題解決」「葛藤解決」の要求がなされる。

同時にいくつかの問題を解決しなければならない作戦室は、

迷いをなくし、より効率的に判断をするため、

独自の価値基準を決めてルールを作る、

すなわち、意識に方向性を持たせる、

いわゆる「意志(信念)」を持つようになる。

作戦室が、はじめ闇雲に、漫然と対応を繰り返しているうちに、

やがて「戦略(方針)」を持って対応するようになるのである。

次に、「意識野」は、その「戦略(方針)」すなわち「意志(信念)」を、

出来るだけ行動の結果の誤りが出ないように、知性を用いて整備する。

たとえば「人を傷つけない」という信念を持つとする。

その信念がその後の活動の中で、

「こちらが傷つけられる場合は除く」とか、

「言葉によっても傷つけない」などと、より具体的に修整されていく。

それと同じである。

「知性」によって整備された「意志(信念)」の状態が、「理性」となる。

「意志」が洗練され、欲求野や感情野、意識野の指令に影響されない

客観敵判断を行える「理性」となる。

「理性」は、より客観的な対応が出来るように、さらに自らを洗練する。

「理性」は「成長」することを望む。

そして作戦室が「戦略」を越えた「大局観」を持って

対応できるようになるのである。

すなわち「意識野」の中に、「知性」によってのみ思考し、

「意識回路」から発せられる、いろいろの指令から

解放されたスペースをつくることである。

そのスペースこそ「理性」である。

「理性」の力が弱ければ、あいかわらず短絡的、直情的に行動するだけとなる。

「理性」の力が強ければ、そこに余裕が生まれる。

「意識野」で、「達成欲求」そして「秩序欲求」が生まれたと述べた。

そして、より洗練された合理性を求める「成長欲求」が、

「意識野」の「理性」のスペースから生まれる。

この三つの欲求は、ヒトのみが持つ。

これらの欲求は、本能の欲求に比べて弱い。

快感も弱いが、新たな爽快感を伴っている。

これらの欲求は三つ巴になって互いに成長する。

「理性」の強さは、その成熟度合いによる。

(2009・1・11)