06.『大道について』

「理性」は幸福を求める。

だが幸福を求めるとは言え、本性から生まれる4つの指令に逆らって、

そこまで無理をして求める必要があるのか。

仲間をなくし、今の安定をなくす恐れがある。

今のささやかな幸せに満足していてはいけないのか。

人は生きるために、多くの葛藤に出会う。

それは自分の内から生まれる欲求や、

他者や群れとの関係から生まれる感情、

そして目的を達成しようとする意識のぶつかり合いから生まれる。

それらの葛藤は、人に苦しみを与える。

不満、不快、不安、嫉妬、憎悪、屈辱、喪失感、疎外感、絶望感などである。

これらの苦しみは、今の幸福感を簡単に奪ってしまう。

だが、これらの葛藤や苦しみは受けなくていいものではない。

これらを受けることによって、「理性」は学習し、

感性や知性の精度を上げ、成長する。

しかしこの葛藤や苦しみを受けすぎる必要はない。

これらを受けすぎると、「理性」が歪んでしまう恐れがある。

そうなれば、「理性」は成長を目指さない。

成長を目指さなくなった精神は、「宿業」となって、

心を閉ざし、活動は不自由となる。

葛藤や苦しみを受けたとして、

これ以上どうにもならない「不快のループ」として、

心の中を回り出したら、それらは思い切らなければならない。

それを行うのが「理性」である・

「断念する」または「執着を断つ」、

すなわち「諦める」ということである。

それこそが「理性」の重要な働きの一つである、

人の心から生まれる「4つの指令」に従わず、

逆らうということである。

人は、4つの指令に従わぬものを見ると感動する、憧れる。

それはなぜだろうか。

感動し憧れるのも、「理性」である。

「理性」は、完成された秩序の美しさに感動し憧れる。

と同時に「理性」は、今の秩序を壊して、さらなる秩序を構築する、

そのリスクを恐れない勇気に、感動し憧れるのである。

無謀な勇気ではない。

「理性」の成熟度に伴った、慎重な勇気にである。

ゆえに「理性」は孤高を理想とする。

それは何ものにも縛られない、自分だけの道を行くことになる。

頼れるのは、自分の「知性」と「感性」と「意志(信念)」のみとなる。

「理性」は成熟するほど、孤高となる。

人はそれぞれの「意思」で生きている。

「意思」とは、「理性」と同じで、

「知性」「感性」「意志」からなって総合判断をする精神構造である。

だがそれは、「理性」より、それぞれにおいて不十分であり

未成熟な状態を指す。

「意思」が強い意志のもとで確立して、「理性」となる。

「意思」は、他人や環境の影響を受ける。

強く影響されて、他人の「意思」のままで生きている者もいる。

他人の「知性」「感性」「意志」に頼って生きているのである。

そして誰もが、ある程度の「宿業」を持っている。

「意思」は、その「宿業」によっても大きく影響される。

「意思」での状態を脱し、「理性」を自分に感じたとき、

自分の「理性」で生きたとき、人は爽快を得る。

幸福への道を歩み出したのである。

「理性」は「大道」に従う。

「大道」とは。「大いなる道理」のことである。

人生は旅である。

それは人の思いのままにならない旅である。

だから人は、他人の旅をとやかく言ってはいけない。

それが大道から外れるものであっても、

人が他人の旅を非難する権利はない。

人は誰も仕方なく、そして一生懸命に旅をする。

その旅の大半は運まかせだ。

たとえ旅の途中で、すばらしい功績を上げたとしても、

そこに留まっていることは出来ない。

通り過ぎてしまえば、それはただの思い出となる。

そんな思い出をいくつか抱いたまま、人は旅を終える。

理性に生きようが、本能のまま生きようが、

旅を終わるときは同じである。

旅が終われば何も残らない。

思い出も生き様も、そこで消える。

そして、次の旅はない。

その旅に出れたことが幸運と思えるなら、

または、その旅を幸運にしたいなら、

大道を行くべきである。

大道を行くように心がけるべきである。

大道を生きようとしたならば、そこに後悔はない。

(2010・12・10)