生物学的世界観

1999年 記載

生物学的世界観

勤務する大学のカリキュラム委員会で委員長より短い質問をされました。「生物学的世界観」という言葉を、知っているかい。突然の質問でございましたので、その場では答える術がございませんでした。何も頭のなかに浮かびません。「勉強しておきます(実際は聞いてしらべて参ります)」と申し上げ、へたなことを言い委員会に迷惑をかけないようにいたしました。その後は、そのことが少し気になっていました。「もしかしたら、経済学部や法学部を卒業した仲間と私は別の世界観を持っているのではないか。もしかしたら、わたしのそれは、大学時代や卒後の教育によって、つくられているのではないか。」

最近、尿路結石で苦しんでいます。知り合いに頼み、いろいろと面倒をみてもらっています。痛みは真夜中に始まり朝まで続きます。あまりに痛みが強く、意識を一時的にでも落としてもらいたいと発作中は思います。強い痛みはこれでもかと襲ってきますし、痛みで意識は朝方まで明瞭です。そんな痛みの苦しみの中で思うことのひとつに、おしっこの管の細さがあります。管の細さを怨んでいます。人体解剖を職業としているので、どこらへんに石がつまっていて、つまっている部分の前の管がひろがって、その管がけいれんするのを感じます。石が、管の表面をけずって粘膜が剥げていく絵が頭の中でひろがっています。好中球やリンパ球が集まってきます。そんなに痛いときにですら、絵が浮かんでくる余裕があります。逆に絵が浮かんでくることで、痛みが増強しているかもしれません。

高校の時の友人に野球の選手がいます。彼は東京大学の法学部に在学中で、尿路結石をもっています。電話でお互いの尿路結石の話を夜半過ぎに熱心に話します。「尿路結石は痛いよな。」「尿は血で真っ赤だよな。」共通の話題にいつも盛り上がり、慰めあっています。でもよく話してみると、彼と私とでは全然別のイメージで話していることがわかりました。痛いことはいっしょです。しかし、彼は尿路結石の色や大きさやまわりの組織のことについて、何も思っていないでしょう。痛みから、尿路結石を概念として捉えているかもしれません。または、「石」という字面からイメージができているかもしれません。細い尿管とそこにつまっている扁平な石とそして痙攣する尿管がアニメーションのようにうかんできて、このことを怨むことは私だけかもしれません。ついでにいえば、その私がつくるイメージは、私が自ら解剖したエイズの患者さんのおなかの中の様子からつくられています。東大法学部の彼と私とでは、全然別のイメージで尿管の石をとらえているのかもしれません。もっと、よく話せばわかるかもしれませんが、きっとそうです。

かつて一緒に住んでいた友人は、泌尿器科の医者で石の治療を専門にやっています。私の主治医です。本人は石を持っていません。彼は尿路結石をどう概念づけているのでしょうか。彼は彼で私とは全く別のイメージを持っていて、その豊富なイメージの中で暮らしているんでしょう。

世界観なんてたいそうな言葉は、鼻につきます。でも、僕ら3人は石とともに生きているし、石のことはなんらかのかたちで一日に一回は頭のなかにうかんできます。同じ石でも、3人とも別のことをイメージづくりながら生きる。

こんなつまらぬ世界観ですら大学で受けた教育やその後の経験や勉強で影響を受けています。もしかしたら、生活の全てが私の持っている「生物学的世界観」のフィルターでとおしてみているかもしれません。私が学校の講義は「生物学的世界観」を与えていると考えてみました。私の世界観を学生の諸君におしつけていると考えてみました。